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高崎は商業が盛んな城下町でした
宿場は三国街道、信州街道の分岐がありとても賑わいました
旅籠は
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軒、大名方が堅苦しい城下を敬遠したので、本陣脇本陣はありませんでした
〜シネマテークたかさき〜
中山道は駅の西側を通り、わずかに残るレトロな建物がオシャレです
線路と並行して走る道路は幅が広い割には交通量が少なくて、気持ちよく歩けます
そう言えば〜
昨日ずっと手前から見えたひときわ高い白い建物は、高崎市役所でした
上信電鉄、上越新幹線をくぐり、高崎線と並行して南に
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キロ歩いて江戸から
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番目の宿場、倉賀野宿です
倉賀野宿には本陣・脇本陣が置かれて、日光例幣使道の基点にもなりました
烏川には倉賀野川岸が置かれ、江戸と諸国を結ぶ物資輸送の中間基地になりました
そのため宿場は参勤交代の武士、日光例幣使(公家)、旅人、船頭、人足、町人で大変賑わったそうです
〜高札場 復元〜
宿の西口には古墳群があります
浅間山古墳は
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世紀のもの、歩き目線では判りにくいけれど、
Google
マップで見ると前方後円墳がきれいに判ります
10時、安楽寺の境内で一休み、この日も暑くなりそうです
お寺の裏にも古墳があり、珍しい鼠供養塔と将棋の形をした石の板碑(卒塔婆の一種)があります
かつて川岸に穀倉棟が並んでおり鼠の被害が多く駆除していたため、船問屋がその供養塔を建てたそうです
倉賀野宿は追分や利根川の舟運最上流の倉賀野川岸を控え、信州上州の米や産物を江戸に送り、塩や干鰯を持ち帰ってとても賑わいました
飯盛り女も多く、女達の信仰を集めたのが倉賀野神社にある冠稲荷だそうです
飯盛女…「?」時代劇で聞いた事あるような〜ないような〜検索してみました
なるほど、時代背景を感じますね
女が、特に貧しい家の女性が生きていくには大変な時代でした
〜倉賀野おもてなし館〜
かつての面影はほとんどないが、舟問屋兼脇本陣の須賀家などの古い格子の建物が残っています
おもてなし館は、平成
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年に観光客の休憩施設として開館しました
旧大山家が営む着物問屋の<大黒屋>はなまこ壁の蔵造り、中の梁や床板も大きく立派です
久しぶりの休憩所、またまた、お得意の寄り道です
当番のご婦人方が番茶を勧めてくれました
倉賀野に入るとパンフレットを手にしたウォーカー達に会いました、倉賀野めぐりをしてたのですね
お抹茶と近くの和菓子屋さんの最中を注文して、ご婦人の話を楽しく聞かせていただきました
2キロほど歩いて宿場の東口、倉賀野追分です
ここは中山道と日光例幣使(れいへいし)街道との分岐点
徳川家康を祀る日光東照宮の春の大祭に、京の朝廷が
幣帛(へいはく)を奉納するために派遣した例幣使が通る道…案内板より
うーん💦幣帛って何?またまた検索、学びになります
「幣帛」神道の祀祭に奉納する物の事
幣は布を意味し、他には衣服、武具、米や海・山の幸がある
〜倉賀野追分〜
日光は左手へ、中山道は右手へ
柳ヶ瀬川を渡ると、12番目の宿場、新町宿です
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