ひまじんさろん

ひまじんさろん

PR

×

Keyword Search

▼キーワード検索

Favorite Blog

デジタルギフト New! ひよこ7444さん

図書館の本 New! ぼちぼち7203さん

旅はマスマス♪ぜっこ… New! ♪テツままさん

楽になる・・・? New! k-nanaさん

野菜と花の苗植え New! みらい0614さん

『BD 第九の芸術… Mドングリさん

宇宙のしっぽ 小林とむぼさん
うるとびーずの ♪MY … うるとびーずさん
五郎のイギリス日記。 scot五郎さん
真理を求めて 秀0430さん

Comments

ポンボ @ Re:まもなく発刊予定です(04/01) Oh ! My ! Great ! 自費出版! You are α …
msk222@ Re[1]:まもなく発刊予定です(04/01) ポンボさんへ ところが、これは著作と編集…
ポンボ @ Re:まもなく発刊予定です(04/01) いいなぁ ご自分のご商売ですと、実費だけ…
msk222@ Re[1]:被災地支援(01/07) みちのくはじめさんへ ぼくの場合、感情の…
みちのくはじめ @ Re:被災地支援(01/07) こんにちは。みちのくはじめです。 私たち…
aki@ Re:被災地支援(01/07) この様な書込大変失礼致します。日本も当…

Freepage List

2004.10.08
XML
カテゴリ: 日替わり日記
楽天秋



>桑原武夫が『俳句は第二芸術である』と言い切って物議をかもしましたが、そうすると、寺山修司は『川柳は第三芸術だ』と言わなければならなかったのかな?

まさにそのとおりで、第三芸術以下という認識だったと思います。
現在でも、川柳の一片としか触れていない文化人のほとんどは、そんな認識ではないでしょうか。


alex99さん
>実は、寺山は川柳文芸を軽蔑していたのです。
>でも、寺山が俳句だと思って書いたこの句は川柳ですね。(註・msk)
-----

msk222さんはそう感じますか?


北国の子どもが、かくれんぼうをしていて、鬼になって目を開いてみたら、もちろん、みんなは隠れてしまって、見慣れた風景の中なのに人気が全く無い。
日暮れの影のような世界の中に、ゾクッとと寒い冬の冷気が初めて感じられる。

そんな風に、ただ素朴に読んでいたのですが。
それまで、子ども同士の無邪気に楽しい世界が、突如反転して、寂寥の孤独の世界が出現する。
季節感は単に道具であって、ふとかいま見えた人間世界の深淵をうたったものでもあるのではないでしょうか?

ここには川柳独特のエスプリが無いと思うのですが、川柳だというmsk222さんの視点を教えて下さい。


よくぞ聞いてくれました。
俳句も川柳も、俳諧を源にする文芸です。俳句は芭蕉の「芭風」、正岡子規の「写生論」によって、芸術的高みに至ったとされています。俳句の主体は「モノ」を写生し、作者の感慨を込めて表現します。
川柳は、付け句が独立したものですが、俳諧本来の「こっけいや穿ち」をひきづっています。「人情の機微」を表現することから発展してきたもの、人の「コト」が主体だと思ってください。
懸賞投句の長い「狂句」時代、新聞など大衆読者に迎合する、一読明快な句が喜ばれる傾向があったため、面白おかしくエスプリの効いたもの(だけ)が川柳と思いこまれてしまっているのですが、日常の「人情の機微」は、面白おかしいだけでないことを考えれば、ご理解いただけると思います。
alex99さんが寺山の『かくれんぼ 三つ数えて 冬になる』を、みごとに解読していますが、この感情の機微の表現こそが広義の「穿ち」であり、川柳の舞台であると僕たちは考えているのです。もっとも、表現は日々革新されていますから、現在はこれだけでは説明が足りない部分はありますが…。


また、能と狂言にたとえている人もいますから、参考にしてみてください。

  俳句=能(侘び・寂び)
  川柳=狂言(かろみ・笑い・遊び・風刺)



Mドングリさん
>ふるさとまとめて花いちもんめ



寺山的フレーズですが、わらべうたですね。むしろ、寺山に影響を与えたのかも知れません。
童謡の「花いちもんめ」は全国的にさまざまな歌詞、調べのパターンで歌われているようです。
僕はこの歌を聞くと母を思いだします。小さい頃、よく母がくちづさんでいたのですが、幼かった僕に歌ってくれたものなのか、自分をなぐさめるために歌っていたものなのかははっきりと思い起こせません。ただ、その姿がとても哀しく淋しげだったことが脳裏に焼き付いています。
僕が高校生だったとき、母が脳血栓で倒れました。命はとりとめましたが機能障害がのこり、ひとりでリハビリにつとめていました。そんなときにも、ひとりごとのように口ずさんでいたのがわらべうた「花いちもんめ」です。
その後、東映の伊藤俊也監督が、老人の痴呆をモチーフに「花いちもんめ」という映画を作って、僕の記憶を言い当てられたようで驚いたものです。偶然ですが、伊藤監督とは現在親交があります。

 花いちもんめ

ふるさとまとめて 花いちもんめ
ふるさとまとめて 花いちもんめ
となりのおばさん ちょっとおいで
鬼がこわくて 行かれません
お釜かぶって ちょっとおいで
それでもこわくて 行かれません
ふとんかぶって ちょとおいで
それでもこわくて いかれません
それはよくよく どの子がほしい?
あの子がほしい
あの子じゃわからん
この子がほしい
この子じゃわからん
まるくなって 相談しよう
○○ちゃんがほして
××ちゃんがほしい
じゃんけん ぽん
じゃんけん ぽん

勝ってうれしい 花いちもんめ
負けてくやしい 花いちもんめ


大人になってから、母に「花いちもんめ」のことを尋ねたことがあります。歌は母が子どもの頃から歌っていたといいます。調べてみたら、江戸時代の伝承歌が大正末期から昭和のはじめにかけて形を整え、はやりだしたようです。

この時代は世界的に紛争や小競り合いが絶えず、日本でも軍靴の音が高まり暗く重い時代へと歩をすすめていた時代でしたね。
Mドングリさんの教えてくれた、 「クリック20世紀」 にこんな事件のことが書いてありました。



4月、東京郊外の板橋町岩ノ坂で、41人ものもらい子殺しが発覚した。同月13日、この地区に住む作業員の内縁の妻が、もらい子を誤って乳房で窒息死させたと医師のところを訪ねた。死因に疑いを持った医師が板橋署に届け出たのがきっかけだった。
同署が調べてみると、岩ノ坂では1年間に30人の乳児の変死があった。同署は同地区の大勢の人を取り調べ、おそるべき事件が明るみに出た。
同地区は貧しい人たちが集まっていたところで、多くの乳児がもらわれてきた。この子たちの多くは、裕福な家庭の夫人・令嬢の不義の子だった。当時は中絶が認められておらず、生まれてきた子は里子に出されるか産院などを通じ、養育費付きで他人に譲られた。そうした乳児たちの行き先の1つが岩ノ坂だった。
赤子をもらった者は数日間は育てるが、食べ物を与えず殺してしまった。育ったときは、男は鉱山に、女は遊郭に売っていた。
この事件の結末ははっきりしないが、罪を問われたのは1人だけだったという。
                    読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」より


ここでこのような話題をあげたのは、寺山修司も戦後でしたが、これに似た時代背景のなかにあった子どもだったからです。思想的な影響があったかも知れません。



ほん


ご質問に答えて

alex99さん
>ただ、モノとコトのちがいを意識において、これから俳句と川柳を読んでゆきたいと思いますが(俳句と川柳の本を二・三冊ずつ読んだだけで、たしなんだこともなくこう言うのも僭越ですが)、なかなかモノとコトの仕分けが難しそうです。
>例えば、芭蕉の『行く春を 近江の人と 惜しみける』(だったでしょうか?)などは、近江の桃源郷的な風景が思い浮かび、モノだとは思うのですが、芭蕉の近江との関係や感慨を考えるとコトの方もあるかと・・・。

そうです、所詮は人間がつくるわけですから、モノとコトを明確にわけることはできにくいものです。
ただ、まったく同じ作品でも俳人の解釈と川柳人の解釈では異なることがあります。
alex99さんが寺山の『かくれんぼ三つ数えて冬になる』の冬を季節の冬ではなく、心象の冬と読んだのには嬉しくなりました。それが川柳の読みだからです。
俳句的には、季節の冬そのもので解釈すべきだと思います。
僕がこの句を川柳だと述べたのは、寺山は俳句として書いたつもりでも、意味はalex99さんが解釈した情景を込めて詠んだことは疑いもないからです。
この場合、季節の冬はモノ、心象の冬はコトと理解してよいでしょう。

『行く春を近江の人と惜しみける』

これは芭蕉が、近江の人と近江の春が過ぎてゆく様子を惜しみながら愛でている様子ですね。
感嘆は、コトではありますが、見た情景(季節)をそのまま心に映して詠んでいます。普遍的な共感をきれいに纏めて、一種の風景画の趣があります。
こうした自然や季節の移ろい、モノから働きかけられる感興を俳句は詠んできました。
山頭火の俳句などはきわめて川柳にちかいものを書いていますが、やはりモノからの働きかけによって書いている場合がほとんどです。
川柳人は、モノを見ても感情の比喩として置いています(川柳人の中でも、区分けがわからずに書いている人もいるのが現状ですが…)。モノはコトを表現するの単なる道具なのです。
たとえば、僕の句で「チューリップ指で開いてみたりして」というのがありますが、普通の感性をもつ人ならこの句から、花の美しさとそれを観察する人、といった光景より、もっと淫らな想像に進むのではないだろうか、という姑息な計算の元にチューリップという花を題材に使っています。この句でいえば、花は句の柱ではなく、作者のみだらな心の動きがポイントなのです。
一応お断りしますが、このように解説するのを「自句自解」といって仲間内からは軽蔑されます。ここでは、説明のためにあえて自解しています。

>いい句は、俳句にしろ川柳にしろ、クロスオーバーを含有しているかもしれませんね。

そのような面もありますし、俳人も川柳人も新境地を開拓するためにお互いの国境をつい越える(あるいは確信犯的に越えたがっている)フシもありますから…。紛争地、あるいは男女の仲と同じですね。これ以上は越えてはいけないと思っても、いい思いをしたくてつい越えてしまう。
後は野となれ山となれ…。







お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2004.10.08 23:45:16
コメント(18) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: