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今日は寒い日で、事務所で手先が冷たくて 手袋をして仕事をした。手が冷たい場合にどこに ホッカイロ を貼ればいいのだろう。効果てきめんな「カイロの貼り方」を試してみた!手先が冷たい時は…首に貼る!つま先が冷たい時は…理学博士で全国冷え性研究所所長の山口勝利先生「血液はだいたい40秒~50秒で体を一周するんですが、その関係で首を温めると、すごく手先が温かくなります」💛やってみよう!山口先生「内くるぶしに太い血管があるのでその上に貼ると、足先まで温かい血液が届き、温かさが持続する」「体が冷えているときは、お腹や脳の血液がたくさん集まっている状態です」一番大切な脳や内臓を守るために、血液を集めるんだそうです。なので、再度温めてあげることによって、集まった血液が末端の方に流れやすくなる💛お腹にはよく専用のホッカイロを貼っている。
2024.02.29
なでしこジャパン パリ五輪出場決定!高橋・藤野のゴール、好セーブ“山下の1ミリ”で北朝鮮に勝利し2大会連続6度目の切符2/28(水) サッカー女子 パリ五輪アジア最終予選 日本代表 2ー1北朝鮮代表(28日、国立競技場)パリ五輪アジア最終予選第2戦でなでしこジャパン(世界ランキング8位)が28日、ホームの国立競技場で北朝鮮(同9位)と対戦し2ー1で勝利。2戦合計を2ー1とし、2大会連続6度目のパリ五輪出場を決めた。前半24分、日本はゴール正面でフリーキックのチャンスで北川のキックから熊谷のヘディングは弾き返されたが、こぼれ球を上野が繋ぎ、田中美南がヘディングシュート、これがゴールバー直撃。それでも高橋がしっかり詰めて、なでしこが大きな先制点を奪った。後半31分、中央の長野が右サイドの清水にスルーパス、清水が1対1で相手ディフェンスを抜き去ると最後は中央の藤野。ヘディングで押し込み2対0とリードを広げた。36分、日本は左サイドでリ ハクにボールを持たれると中央のキム ヒヨンが技ありのループ。日本が1点を返された。💛よかったね、パチパチ👏
2024.02.28
藤原義懐は、なぜあんなに威張っているのか大河ドラマ「光る君へ」で、権中納言となった藤原義懐が花山天皇の命令だといって、陣定(公家の会議)は当分の間、開かないと言うなど、やりたい放題である。藤原義懐はいかなる人物だったのか?義懐は天徳元年(957)藤原伊尹の子として誕生した。伊尹は師輔の子であり、兼家の兄であった。天禄3年(972)、義懐は従五位下に叙爵したが、11月摂政を務めていた伊尹が亡くなった。その2年後、2人の兄が亡くなる。伊尹は実力者だったが、義懐はその後ろ盾を失った。伊尹の死後、権力の座は弟の兼通に移り、その子供たちは次々と公卿に昇進した。一方、義懐の姉の懐子は冷泉天皇の女御となり、春宮の師貞親王を産んだ。のちの花山天皇である。義懐は天元2年(979)に春宮亮(皇太子の御所の内政を担当する職員)を務めていた。ところが、義懐の昇進は遅々としたもので、天元5年(982)にやっと従四位下に叙せられるにすぎなかった。永観2年(984)8月、花山天皇が即位すると、それまで冷や飯を食っていた義懐が蔵人頭という重要な地位に抜擢された。その年10月一気に正三位に昇叙し、寛和元年(985)には従二位・権中納言に大出世した。義懐が実力者になったのは、花山天皇の外戚だったから。まだ権中納言ながらも、政治に積極的に関与し、リードしていった。当時、関白を務めていたのは藤原頼忠で、義懐のことをよく思っていなかった。それは、右大臣の兼家も同じだった。兼家は春宮の懐仁親王の外祖父だったので、花山天皇が早く譲位することを願っていた。義懐は花山天皇の外戚だったので急速に昇進したが、ほかの公家たちは快く思わなかった。中でも兼家は、懐仁親王の外祖父だったので、なおさらである。同じ一族であっても心を許すことなく、激しい権力闘争を繰り広げた。しかし、ここで大事件が起こった。永観2年(984)、花山天皇は忯子(藤原為光の娘)を女御として迎えたが、忯子は寛和元年(985)に病没した。忯子は懐妊していたので、花山天皇は大いに嘆き悲しんだ。忯子は、その後の義懐の運命を大きく変えたのである。★第8話は藤原道兼が倒れ安倍清明がお祓いすると巫女にお産で亡くなった女御の霊が乗り移るという オドロオドロしい回☆高僧らが呼ばれ、兼家のための盛大な祈禱が行われる。安倍清明も大勢の陰陽師を従えて邪気払いを行った。その最中、寄坐に異変が起きる。どうやら霊魂が降りてきて僧侶が問いかけると、寄坐は「自分は藤原忯子だ」と名乗りそして眠り続ける兼家に「子を返せ」とつかみかかるその後、清明は花山天皇に、兼家には亡き藤原忯子の霊が取り憑いていると伝える。しかもこれが全て計算され尽くした壮大な陰謀ー天皇を退位させるーであることが示唆(道兼の病は偽り)されて次回へ
2024.02.28
林官房長官「前例のない規模で少子化対策の強化に取り組んでいく」出生数8年連続減で過去最少にコメント2/27(火)林官房長官「少子化の進行は危機的な状況。若年人口が急激に減少する2030年代に入るまでのこれからの6年程度が少子化傾向を反転できるかどうかのラストチャンスであり、少子化対策は待ったなしの瀬戸際にあると受け止めている」今後の方針については、こども未来戦略に基づき若い世代の所得を増やすこと、全体の構造や意識を変えること、全ての子供子育て世代をライフステージに応じて切れ目なく支援すること、の3点を柱に「前例のない規模で少子化対策の強化に取り組んでいく」出産や結婚出産を控える世帯で、低所得者、低所得などの理由でためらう人への対応について「政府としても賃上げに取り組むとともに、特に若者の経済的基盤の強化を図ることが重要」「希望する若者の正社員就職に向けて、非正規雇用から正社員への転換などを行う事業主へのキャリアアップ助成金による支援、ハローワーク等における安定就労に向けた就業支援などを実施していると承知をしている。また若年層を含め持続的な賃上げを可能とするため、三位一体の労働市場改革に政府を挙げて着実に取り組んでいる。若者の経済的基盤の安定を図り、若者が将来にわたる展望を描けるように引き続き取り組んでいく考え」
2024.02.28
たんぱく質は、動物性:植物性=1:1で、朝に摂れば筋肉量がUP!たんぱく質には大豆など植物性のものと、肉・魚など動物性のものの2種類があり、これらを「1:1」の比率で摂取することで、フレイル(虚弱)予防に効果が得られることがわかっています。今回は植物性たんぱく質・動物性たんぱく質の「1:1」摂取がもたらす効果をお伝えします。植物性たんぱく質と動物性たんぱく質を「1:1」の比率で摂取すると、筋委縮率(筋肉の減少率)が最も低く、筋肉減少に効果的です。たんぱく質摂取のポイントについて、徳島大学教授の二川健先生は「食事でたんぱく質をとる場合は消化・吸収の時間が必要なので、運動前にとるのがおすすめです。1日の中だと朝食でとったほうが筋肉量の増加率が高いという報告もありますが、まずはご自身の食生活のなかで無理なく続けることから始めてみましょう」とアドバイスします。植物性たんぱく質がとれる食品でおすすめなのは大豆です。大豆たんぱく質には、筋たんぱく質を分解(筋肉の減少)する酵素「ユビキチンリカーゼ(Cbl-b)*」の働きを阻害する作用があります。動不足気味のタクシードライバー25名を対象に、大豆を30日間摂取した群と大豆を摂取しない群に分け、それぞれの筋断面積と筋力・筋機能を測定したところ、大豆を摂取した群のほうが有意に高い値を示した最新の研究結果が示唆する「ダブルたんぱく」のチカラ必須アミノ酸の中でも、特に筋肉合成に作用するBCAAの血中濃度をみると、ダブルたんぱくの摂取では、血中濃度のピークからの下降が緩やかで、吸収に持続性が認められます。一方で、動物性たんぱく質のみの摂取では、血中濃度のピークは高いものの、その後は急降下しており、吸収の持続性がダブルたんぱくより低いことがわかりました。筋萎縮抑制効果試験~筋肉減少を抑制する傾向を確認たんぱく質摂取による筋肉減少の抑制効果を確認するために、ダブルたんぱく、あるいは動物性たんぱく質のみを与えたグループの筋湿重量※2の変化を比べる動物試験を実施しました。摂取開始から17日後に筋肉量を測定して比較したところ、ダブルたんぱくを摂取したグループの方が、腓腹筋(ひふくきん)、ヒラメ筋※3ともに重量が重く、筋肉の減少を抑制する傾向が認められました。この結果から、人間の場合もダブルたんぱく摂取の方が、動物性たんぱく質のみのときよりも、老化による筋肉減少を抑制する効果があることが期待されます。筋肉をつくる時間が持続する「ダブルたんぱく」これまで、筋肉増強を目指してプロテインを飲む人の多くが、動物性たんぱく質のホエイを摂取する傾向にありました。ホエイには筋肉合成のスイッチを押すような働きをする必須アミノ酸・ロイシンの含有率が高く、体内への吸収が早いためです。しかし近年、植物性と動物性のたんぱく質をブレンドすることで、ホエイ以上に筋肉づくりに効果的と考えられています。運動後に『動物性と植物性をブレンドしたたんぱく質』を摂取した場合と、運動後に『動物性たんぱく質(ホエイのみ)』を摂取した場合で、筋肉のたんぱく質合成率を比較したヒト試験では、動物性と植物性をブレンドしたたんぱくの方が筋たんぱく質合成率が高い状態で保たれることがわかりました。吸収速度の異なるたんぱく質をダブルで摂取することによって、吸収性が持続し、筋肉合成に働くアミノ酸の血中濃度が長時間にわたって一定に保たれるためと考えられます。比率1:1が効率的に筋肉の萎縮(減少)抑制を確認大豆とホエイの比率を変えて配合したダブルたんぱくと、植物性たんぱく質単体、そして動物性たんぱく質単体をラットに与えて筋肉量を比較した結果、大豆とホエイを1:1の比率で配合したダブルたんぱくが、筋肉量の減少を最も抑えることが確認されました。大豆たんぱくには、筋たんぱく質を分解させる酵素「Cbl-b(ユビキチンリガーゼ)」を阻害する作用があることが、新たに発見されています。また、筋肉減少の要因である酸化ストレス(活性酸素)を減らす働きのあるポリフェノールが豊富です。一方、乳たんぱくのホエイは、筋肉合成を活性化するアミノ酸・ロイシンを多く含んでおり、筋肉を増やす作用があります。大豆とホエイたんぱく質をダブルで摂取することで、両者の働きが相まって、筋肉の減少が抑制されると考えられます。💛現在、大豆たんぱくのプロテインを一日1回程度、牛乳に甘酒を加えたものに1カップ多めにいれて飲んでいる。 ホエイプロテインを買ってきてせめて休みの日でも1:1カップで飲んでみて、ウォーキングに出かけることとしよう。
2024.02.27
平野美宇 伊藤のコーチングに「伊藤は世界の女子でもトップ級に頭の回転が早い選手」【世界卓球】2/27(火)いつもベンチに帰ったら、今回は木原選手と伊藤選手が常に応援してくれて、木原選手は常に笑顔で応援してくれて、伊藤選手は冷静にアドバイスを送っていただくことが多くて。本当に2人の力があったから、最後まで自信を持って戦えたし、伊藤選手は同い年なんですけど世界の女子の中でもトップ級に頭の回転が早い選手だと思うので、私も見習うところが多いですし。今回はその意見を聞いて最後まで中国選手とも戦えたかなと思います。【卓球】伊藤美誠の要求に早田ひな「きっついなぁ…」も「雰囲気につながった」帰国会見で笑顔2/26(月) 伊藤「初めてコーチ、監督の感覚になった。みなさんが安心というか落ち着いてベンチ帰った時に笑いながら安心できる空間を作りたいと思った」と笑って回想した。一方でパリも補欠での同行を待望する声もある中、「自分自身、(東京五輪で)金銀銅で経験しているので。これから五輪に出たい、金メダルを獲りたい選手がリザーブとなって帯同するべきかなと思っている。リザーブは将来を背負っていく選手が経験すべきと思っている」「自分がアドバイスをしていて、選手がやってくれたり、私のアドバイスを工夫して試合に入ってくれたり、一致した時や当てはまった時はうれしかったです。初めてコーチや監督の感覚になった。同世代でアドバイスしやすかったというのもあるが、選手の皆さんがベンチで笑いながら安心できる環境をつくれればと思った」早田「私と美誠は中国人選手に勝つというイメージをより持っている。美誠の要求が本当に『きっついなぁ…』と思うぐらい、ボール1球じゃなく、1本1本のラリーについて言ってくる。そのレベルじゃないと勝てないのは分かっているし、自分も中国人選手に勝った経験があるからこそ理解できる」好プレーが出た時には「やるやん、みたいな感じでグーサインもあった」「今回の日本の雰囲気につながった。本当に美誠らしいアドバイス。受け入れてくれている監督も、監督があったからこそ、私たちが完成されたと思います」張本美和「新たな視線からアドバイスいただいて心強かった。表情、あいづちで自分も安心して試合ができた」
2024.02.27
大阪土産りくろーおじさん パクリ騒動 アミーゴを運営するコイサンズ社に「りくろーおじさん」との関係を尋ねたところ「のれん分けをしたり、レシピの提供を受けたりしたわけではない」というが、「パクリなのでは」という声が出ていることは把握しているという。「(「りくろーおじさん」との関係について)会社に直接問い合わせはありませんが、店舗ではお客さんから店のスタッフに尋ねられたことがあったと聞いております。(世の中には)色んなチーズケーキがありますから、『アミーゴのものも一度召し上がってください』とお伝えしています」(コイサンズ社の広報担当者) 三重県を中心にベーカリーなどを展開するコイサンズ社は、2021年4月に三重県津市に「アミーゴ」1号店をオープンした。現在は県内に3店舗と東京に1店舗を展開している。「三重県外に挑戦しようということで、観光客が多い築地に出店を決めました。築地の店舗では、昨年末の開店以来、継続して1日300個以上のチーズケーキを売り上げています」(同上)「りくろーおじさんのチーズケーキとは、全く別のものです。味は、アミーゴの方がちょっと甘い上に、焼き印も自社のキャラクターを使っています」♥朝ドラまんぷく のパクリ騒動みたい猿渡「本家には本家なりの意地と誇りがある。他の悪徳業者と一緒にすな。大事なんは誇りを持って仕事してるかどうかや!」万平 「あの自信はどこから来ているんだ」
2024.02.27
信濃川改修工事 その13の諸工を採用する。外に用水樋管補足工事一箇所ある。前者は管理者新潟県、補助率二分の一、後者は管理者信濃川分水北部普通水利組合(蒲原用水)、補助率三分の二にして、共に当所の直接施行とするのである。 〇・・・・・・工事及び工費 上述の如き計画の下に信濃川改修工事は時の沖野内務技監その他その当時の土木界の衆智を集め、最新の土工機械即ち蒸汽掘鑿機、蒸汽機関車、蒸汽ショベル等を使用し、工費予算金一千三百万円を以て明治四十年度より十四ヶ年の継続事業として内務省新潟土木出張所がその工事の直営施行を担任し、爾来技監には沖野、原田、市瀬の三代、所長は小柴、渡邊、新開の三氏を経て、所長は所内に、或は現場に一体となり、櫛風沐雨(しっぷうもくう)工事の進捗を図って来た。その間天災地変のため進工を阻害せられ、又数多人命の犠牲を出し、当事者を苦しめた事である。即ち大正三年二月六日大河津信濃川分水山間部開鑿右岸山肺土量約百万立坪の崩壊があり、大正八年一月十五日再度の地辷りの厄に遭い、土量約三〇万立坪が掘鑿法内に辷り込み、加えるに世界大戦の影響を受けて諸物物価及び労銀の暴騰及び欠乏によって工費予算に不足を来したので、大正八年度より同十三年度の迄の五ヶ年間に金千十万余円の増額をなすと共に、施行期間を同十四年度まで繰り延べたが、大正十二年九月一日関東大震火災のため更に一箇年度を延長した。かかる内に大正十三年十一月前同地辷り箇所において第三回の地辷りが突発したので、これを取り払うため更に大正十四年四月四〇万円を追加増額して、結局信濃川改修工事(大河津分水工事並びに信濃川河口改良工事)に総工費予算額二三、五四一、九〇五円(内新潟県負担金六一二万九千円)を支出する事となった。信濃川改修工事は大正十一年殆ど竣工して、同八月信濃川の出水を機として旧堤左岸を爆破しては始めて新分水路に通水して以来、完全にその機能を発揮していて、なお工期は工事の都合上施行年限を更に一ヶ年度を延長して昭和二年度に竣工する事となっていたが、不幸にして昭和二年六月の災害によって更に大河津分水応急工事名 工事予算 千円 信濃川改修工事 二一、五三八 大河津分水応急工事 八七〇 信濃川補修工事 四、四六一 信濃川上流改修工事 五、六六〇工事工費金八六万円、又昭和二年十二月より工費予算金四四六万円(内新潟県負担金七八万一千円)を以て信濃川補修工事を起し、中川技監は市瀬技監の後を受け、余は新開前所長に次いで信濃川改修工事を竣工せしめ、又大河津分水応急工事は不眠不休の奮闘を以てその工を了え、更に信濃川補修工事は信濃川改修工事に起こりし災害を一日も早く補修せんがために、係員の献身的努力によってほぼその功を終える事を得た。又一方大河津より上流における信濃川上流改修工事は大正十二年度より工費予算金六六〇万円(内新潟県負担金一三四万九千円)を以て工事を進めつつあるが、国家財政の都合上工費は削減せられ、その竣工予定年度も繰延に繰延を重ね昭和十四年度になっている。なお信濃川改修事業の工事に要する工費は左表の通りである。(略) かくの如くにしてこの改修事業成るの日は従来の水害地である新潟県三島、古志、南蒲原、中蒲原の五郡沿岸広大の沃野は洪水の氾濫を免れることが出来るので,従って農作物の腐敗流亡、田園宅地の荒廃、人情の死傷、交通の杜絶等諸般の損傷は全くその跡を絶ち、生民塗炭の苦を免れるのみならず、該地特有のツツガムシ病の有害地域を縮小してその被害及び恐怖を減ずる事が出来る。而して各支川筋の逆流防止或は圧迫軽減等によりその水利状態が改善される結果、沿川地方住民の精神的不安を除き、殖産の興隆、文化の促進、衛生状態改善等の効果を齎す事は期して待つべきものがあると信ずるのである。(終わり)
2024.02.27
菊芋は天然のインスリン菊芋はキク科ヒマワリ属の多年草の、肥大化した根の部分になります。原産はアメリカ北部とされています。アメリカでは原住民であるアメリカインディアンの方々が食用にしていたものが、1600年代にヨーロッパに落ち込まれ、普及していきました。現在ではその健康効果が知られ、健康食品や飲料の原料として利用されることが増え、各地で栽培が盛んになってきています。旬は花が終わった秋以降、新芽が伸び始める春までの間ですが、菊芋の代表的な成分、イヌリンは秋が一番多く含まれているということです。菊芋には生姜によく似た白色種と、赤みがかった紫色種の2種類がありますが、どちらも丸みがあり、しっかりと固く締まったものが良品です。菊芋の栄養価① カリウムカリウムは主に私たちの細胞内液に含まれ、過剰に摂取したナトリウムを排泄する働きがあり、血圧の安定に効果があります。また、利尿効果があるためむくみを予防する働き、カルシウムの沈着を助け、骨粗しょう症の予防に効果があります。② 銅鉄は血液中の赤血球を作るサポートをする、大切な栄養素の一つです。貧血というと、鉄分、というイメージがありますが、鉄分をヘモグロビンに届ける働きをしているのが銅なのです。ミネラルとしてはあまり耳慣れない銅ですが、不足しないよう、毎日少しずつ摂取しておきたいですね。③ ビタミンB6ビタミンB6はたんぱく質を利用して筋肉や血液を作り出したり、たんぱく質をエネルギーに変換したりする働きをしています。そのため、不足すると肌荒れや皮膚炎、口内炎を引き起こしたり、脳波の異常が見られたりすることがあります。④ 葉酸葉酸は、細胞や赤血球を新たに形成する時に必要なDNAなどの合成を助ける重要な役割を持つ栄養素の一つです。不足すると、脳卒中や心筋梗塞など、循環器系の疾患の原因となるのではないかという研究があるほか、妊娠中の女性が葉酸不足になると、胎児に神経管閉塞障害という先天性の疾患がみられることがあります。⑤ イヌリン(水溶性食物繊維)イヌリンは水溶性食物繊維の一種で、ビフィズス菌の餌となり、腸内環境の改善に一役かっています。また、血糖値の急激な上昇を防ぐ作用があるため、天然のインスリンとも呼ばれています。*菊芋の栄養価低糖質菊芋の特徴の1つが低糖質である点です。100g中の炭水化物で比べると、菊芋は14.7g程度ですが、じゃがいもは15.9g、さつまいもは33.1g程度含まれています。低糖質ダイエットなどをしている方であれば、じゃがいもやさつまいもを菊芋に置き換える方法があります。イヌリンイヌリンは、水溶性食物繊維が豊富に含まれています。また、イヌリンは血糖値の上昇を抑える働きなどがあるため、天然のインスリンと呼ばれています。イヌリンの主な働きとしては、大きく以下の4つです。●血液中の中性脂肪を下げる●善玉菌を増加させ腸内環境を整える●脂肪肝の予防●動脈硬化の予防ミネラル菊芋には、骨や歯の生成に関わるミネラル(カルシウム・リン・マグネシウムなど)も含まれています。ミネラルには骨や歯の生成以外にも、基礎代謝や新陳代謝を促し、体の機能や組織の調整、心身のバランスを正常に保つなどがあります。ミネラルが不足すると、鬱になりやすくなったり免疫力が落ちたりするため、健康に過ごすためには欠かせない栄養です。 カリウムカリウムは取り過ぎたナトリウムの排出や筋肉の収縮に関わっています。カリウムが不足してしまうと、ナトリウムが排出されず血圧の上昇や筋肉の痙攣が起きる場合があります。葉酸葉酸は細胞や赤血球などを形成する際に必要となるDNAなどの合成を助ける役目を持ってます。銅銅は赤血球を作るためのサポートを行っている栄養素です。血液と言えば鉄のイメージがあるかもしれません。しかし、その鉄をヘモグロビンへ届けるのが銅です。つまり、貧血対策で鉄をたくさん取っていても、ヘモグロビンまで運んでくれる銅も摂取しなければ十分な貧血対策にはならないでしょう。不足しないように、1回で大量に摂取するのではなく、少量を毎日少しずつ摂取するようにしましょう。ビタミンB6ビタミンB6は、タンパク質で筋肉や血液を作ったり、タンパク質をエネルギーに変えたりする役割があります。ビタミンB6が不足してしまうと、皮膚炎や貧血、リンパ球減少症などになる可能性があります。ほかにも成人している方であれば、鬱や脳波異常、痙攣発作などの神経系に異常が起るかもしれません。💛最近、菊芋を真空パックを販売している店をみつけ毎日の弁当に 菊芋を2個ほど、皮を軽く除いて、ざく切りにしたのをラップで包んでレンジで1分20秒ほどチンして、弁当箱につめて職場に持っていき、昼食に食べている。イヌリンの粉末を買えばいいという意見もあるが、菊芋自体のミネラル、葉酸、銅、ビタミンB6などの栄養を読むと、暫く菊芋そのものを食べてみよう、そんなに手間でもないし(^^)
2024.02.25
自治体の非正規職員、6.9%増 74万人、財政難で正規増えず2/25(日) 自治体で働く非正規職員の数は、2023年4月1日時点で74万2725人だったことが25日、総務省のまとめで分かった。20年の前回調査に比べ6.9%、4万8252人の増。業務が増える一方、財政難で正規を増やせないのが背景。正規は280万人程度で推移しており、非正規は単純計算で職員の5人に1人を占める。賃金は低く、年度末の3月を中心に雇い止めも起きている。 非正規職員数は総務省が3~4年ごとに調べており、05年の45万人超から徐々に増え、前回20年は69万4473人だった。正規は行政スリム化の影響で1994年の約328万人をピークに減少し、最新の2022年は280万3664人。
2024.02.25
「トロイの木馬に感染しました」などセキュリティ警告が出た場合の消し方を解説!<ノジマ>パソコンでインターネットを利用中に、大音量の警告音(エラー音)が鳴り響き、「ウイルスに感染しています」「システムが損傷しています」「トロイの木馬に感染しました」など、警告メッセージや今すぐ電話をかけてくださいと画面に表示される場合があります。これは数年前から猛威を振るっている偽警告サイトの可能性が非常に高く、国民生活センターや神奈川県警などが注意するよう呼びかけています。偽の警告で不安をあおり、電話をさせてプリペイドカードをだまし取ったり、銀行に振り込ませたりする被害が発生しています。偽のセキュリティ警告の手口は、インターネットを閲覧中に偽サイトをクリックすると、マイクロソフトやアップルなど本物に見せかけたセキュリティ警告を表示し、大音量の音声を流して不安をあおってきます。クリックしてしまった場合は、決して焦らずに電話をかけず、周囲の方に相談することが大切です。偽サイトかどうか確認すべきこと・マイクロソフトやアップルからの警告のように表示がされているが、URLにmicrosoft・appleがともに入っていない・「ウイルスに感染しています」「システムが損傷しています」「トロイの木馬に感染しました」などと表示されている・システムの損傷度を66.7%や28.1%など具体的な数字で提示してくる・大きなエラー音が絶えず流れている・有料アプリの登録画面を紹介される(クリックする場所まで教えてくれるなど、異様なほど親切な登録サイト)・サポートセンターの電話番号へ連絡するよう誘導される(連絡すると片言の日本語を話すスタッフがでる◎トロイの木馬とは、正常なプログラムを装ってシステムに侵入してコッソリと攻撃をしてくるコンピューターウイルスです。インターネットを使用していれば、企業でも感染するリスクがあるので、一般の方でも感染しないよう特に注意する必要があります。一般的なウイルスソフトではトロイの木馬をスキャンして検出してくれます。感染しないためにもウイルスソフトを適用することが重要です。ただ前述した通り、「トロイの木馬に感染しました」というフレーズ自体がトラップの可能性もあります。このフレーズを見たときはうかつに行動をせず、詐欺も視野に入れて適切に対処することが重要です。◎ブラウザを終了できない場合ブラウザを終了できない場合、以下の方法でブラウザを閉じます。ブラウザを閉じれば不快なエラー音も鳴りやみますのでご安心ください。キーボードの「Alt」+「F4」を同時押しし、ブラウザを閉じるタスクマネージャーを起動しブラウザを終了するパソコンを再起動する(Windowsを終了する)タスクマネージャーの呼び出し【Windows10の場合】キーボード【Ctrl】+【Shift】+【Esc】を同時押し【Windows8.1以前】キーボード【Ctrl】+【Alt】+【Del】を同時押しタスクマネージャーを起動したら、インターネットを開いているブラウザを選択し、右下にあるタスクの終了をクリックしましょう。
2024.02.25
信濃川改修工事 その12六〇㎝を限ってコンクリート及び張石コンクリートをを以て被覆するのである。 隔壁天端の標高は可動堰より上流七〇mの区間は低水護岸に兼用するが故に、これを(+)一〇m九五として長さ六mの鋼矢板を打ち込み、可動堰より第一床固堰頂付近に至る延長一二四m八の区間を(+)一二m五として長さ九m及び一一mの鋼矢板を使用し、最下流延長六五m二の部分は(+)一一m八三より(+)九m一五まで六、七㎝宛四 に低下せしめる、この部分はさきに異常なる洗堀を蒙りたる箇所なるが故に、長さ一二mの鋼矢板を打ち込む事にした。隔壁背面の洗堀を防止するためには、可動堰より固定堰に至る百mの区間に幅員六mの単床を施工したる上に、約二五‰(パーミル)勾配に玉石を張上げて裏埋工とするのである。 又固定堰右端に設けたる魚梯は下流河床低下の結果としてその用をなさざるに至ったので、下流彎曲部延長二三mを破砕除却した上、新たに五〇m五五を補足延長して、入口底面の標高を(+)六m五に低下せしめ、最渇水時と雖も魚族の遡上に支障なからしむるので、これは鉄筋コンクリート構造にして勾配四‰内法幅三m三、下流端はこれを四mに拡大するのである。 第一床固工 旧自在堰基礎を補強改造して最頂標高(+)一〇mの 固を造って河底の低下を防止すると共に、新可動堰に対する副堰堤の作用をなさしむるものであって、旧自在堰の鋼扉、ビーヤ、鉄塔の類はこれを除却し残有せる基礎コンクリート下の空洞には 筒を用いて砂詰を行い、コンクリートの破壊陥没して河底の洗堀せられたる部分は 及び捨石を以て填充して、切込砂利を以て充分に目つぶを施せる上に、コンクリートを被覆するのである。上流の洗堀部は上層に粗朶沈床、下層に木工沈床、コンクリート方塊、捨石を用いて幅員六〇mの区間を一二‰の勾配に固め以て下流水叩の油足とし、新可動堰鋼扉より第一 固下流端に至る幅員約一九一mに達せしめ、これを可動堰に対する 続的水叩とみなし得るものとするのである。 第二床固工 新信濃川流路の一般的地質は細砂又は粘土であって、流水のためには容易に侵蝕洗堀されるが、その終端三島郡寺泊町地先の間山部は土丹(どたん)岩の露出せる所があって、辛うじて水蝕に耐えつつあるの現状なるを以て、一はこの岩盤を保護すると共に、他は上流河床の低下を防止せんがために、堰高四mのコンクリート堰礎を造る事にした。径間一八〇m、 矢二〇m、総長約一八五mの同孤形に造り、堰頂標高は低水路において(+)五m、高水敷部において(+)六mとし、下流間は勾配五〇‰に仕上げるのである。 堰堤個所の土丹岩は軟質にして風化、水蝕の危険あるが故に、取堤下流水叩き八五mの区間は岩盤を切 したる土をコンクリートを以て被覆し、その末端は最大深度(-)四mまで岩盤内に巻き込み、以て下流岩盤の水蝕された場合にもコンクリート水叩きの崩壊を防止するの用意とするのである。 堰堤流下水の水勢減殺のためには水叩きコンクリートの表面に割石を植え込む外、水叩き流端と下流端には高さ一―二m、断面七五㎝角、鉄骨コンクリート造パツフル・ビーヤ二列宛を配列するのである。なお魚族の遡上を助けるためには幅員三m八、勾配八‰の魚梯を築造する。 床留工 上記両床留と相俟って新信濃川河床の低下を防止せんが為に、 大河津橋上流約三五三mの位置に五千石床留工、同橋上流に大河津床留工、越後線鉄道橋下流九〇〇mの位置に新長床留工、 渡部橋下流に石詰床留工を施行する。粗朶沈床、本工沈床、鉄線籠、コンクリート方塊及び捨石工法により主として土砂掩留の用に供するのである。 附帯工事 低水工事の目的は洗堰下流において流水の幅員を制限し、その流速を利用して自然的に土砂を洗掃せしめ、以て航路を維持すると共に灌漑用水に不足を訴えざらしむるようにするのである。洗堰より中之口用分派口に至る延長八㎞の区間に亙り、敷幅上流部おいて八〇m、下流部において百mの水路を平均勾配三千分ノ一に浚渫し、両岸には水 兼用の護岸及び制水を施すものであって、護岸、制水とも粗朶沈床、同単床、鉄線猪之子枠、包柴籠、杭柵、石堤等
2024.02.25
「もはや暴力」「速すぎるだろ」浅野拓磨が爆速スピードで全力ラン→相手DFを絶望させるドリブル突破の瞬間 チームトップの走行距離12.4キロを走った圧倒的な脚力2/25(日)ボーフムの日本代表FW浅野拓磨が、圧倒的な走力でチームに貢献。ボルシアMG戦ではチームトップとなる走行距離12.4キロを記録した。前半にはヘディングでゴールに迫るなど見せ場を作った浅野。74分には自慢のスピードを生かしたドリブルからの右足のクロスが起点となりゴールを生み出した。そのスピードが注目を集める浅野だが、実はチーム内で誰よりも走る点も見逃せない。ボルシアMG戦でも攻守にわたってスプリントを繰り返し、その走行距離は12.4キロでチーム内トップの成績となった。浅野がフル出場したボーフムだったが、試合は2-5の完敗に。
2024.02.25
信濃川改修工事 その11上記橋脚橋に吊して、各径間ごとに十馬力電動機直結巻揚機一台を備え、而して右岸堤防上運転機械室内にはディーゼル機関直結四五馬力発電機を据え付けて、遠方制御装置により水位の変動に応じて同機械室内にあって鋼扉の開閉をなさしめるのである。鋼扉昇降速度は毎分一mにして、最大昇降高七m五である。別に橋台の一部に量水升を設け電気通信機によって可動堰上流の水位を運転機械室に自記せしめ、以て鋼扉開閉による水位調節の的確を期するのである。 堰堤上流は幅員二〇mの区間に亙って下層に粘土褥及び粗朶沈床、上層に七五㎤、重量一トンのコンクリート方塊を列べたる間に割石を填充して床固とし、下流は幅員一〇m、厚さ五〇㎝のコンクリート水叩を設け、その上流端には長さ六mの鋼矢板を打ち込んで天端を水叩コンクリート上装面より高める事七五㎝とし、これより上流に水深七五㎝の水褥を作って可動堰下流の流勢の減殺に努め、又水叩きコンクリート下流旧自在堰に至る平均距離五〇mの区間は、下層に粘土褥及び粗朶沈床を施工して耐水層を作って、上層には七五㎤コンクリート方塊を列べたる間隙に割石コンクリートを填充し、以て流勢の減殺と洗堀防止とを計るのである。 固定堰工 新信濃川通水貫末固定堰溢流水のために下流高水敷の洗堀される事甚だしく、かつ河底低下の結果として溢流水はそのまま高水敷を流下する事なく、これを断崖に削刻して斜に低水路に流入して既設水叩捨石胸壁コンクリート、鉄筋コンクリート沈床の崩壊流失が甚だしくなったので、これが補強改造をするのである。総長を五七二mとして、左岸寄三七〇mは現堰を利用して、これを補強し、右岸寄二〇二mはこれと新可動堰左端とを斜めに連絡して新たに築造する計画を樹てたが、後設計を変更して全長約五二二mに亙り全部現堰を補強する事に改めた。即ち堰堤下流法先の杭 は腐朽の兆しあるを以てその頂部を切断し、この線に沿うて長さ五mの鋼矢板を打ち込んで浸透水による土砂の移動を防止すると共に、下流水叩における捨石の流失せしものはこれを補給して、切込砂利及びコンクリートを以て目潰を施し、胸壁コンクリート及び鉄筋コンクリート沈床の崩壊せしものはこれを修理復旧する事としたけれども、自在堰陥没以来固定堰の溢流いよいよ頻繁にして下流高水敷の洗堀益々甚だしく、如上の修理工を以てしては将来における固定堰の安全を保障するに足らざるが故に、既設鉄筋コンクリート沈床より下流に向って幅員三八m五勾配約一二‰(パーミル)、張石及び鉄線施工による水叩きを補足して、固定堰総幅を六九mに増入することにした。 又既水路洗堀の結果異常なる出水に非ざる限り、高水敷に冠水する事なき現状なるを以て、固定堰右端より扇形に低水路に向って導水路を作って溢流水は五千石珠留工より上流の区間において低水路は別に入江を以て掘鑿せずと雖も、将来低水敷と同一深度に洗堀される虞れあるが故に、堰堤並びに堤防の維持に留意し、堰堤並びに堤防の維持に留意し、堰堤下流端を補強するがためには水叩補足部末端に長さ一〇m鋼矢板を上端標高(+)七mに打ち込み、堰堤接続の左岸堤防は護岸法先の杭柵に沿って長さ一〇m鋼矢板を打ち込んでこれを保護する。導水路左岸高水敷の水 崩壊を防止せんがためには、これに杭柵工、鉄 コンクリート及び柳枝工による護岸工事を施行するのである。 補足水叩法長さ三八m八の均土上流部二六mは張石工、下流部一二mは鉄線籠工にして、張石の脱離流失に際し損傷を一局部に限定せんがために、縦には約八m間隔、横には五〇m間隔に鉄線籠を配列し、これに割石及びコンクリートを填充して末留とするので、張石には硬簀割石を用いて切り込み砂利、砂及びコンクリートを以て目潰を施し、下流部鉄線籠には玉石を填充し、表向にはコンクリートを被覆するのである。 隔壁工 固定堰工事施行変更の結果可動堰左端と固定堰右端とは百mの間隔を生じたるを以て、 間を連結して堰堤の一部分を構成させると共に、可動、固定両岸堤部分における水流を分岐し、兼て魚梯一方の側壁を掩護するの必要上、低水路肩に沿うて延長二六〇m、幅四mの隔壁を造るのである。構造は長さ六―一二mの鋼矢板を二列に打ち込み、割石、上円岩、砂利及び砂を以て中埋とし、天端は
2024.02.25
信濃川改修工事 その10施行するのである。 信濃川補修工事はこれを堰堤工事、床固工事及び附帯工事の三種に分つ。堰堤浩二は補修工事中その首位を占むるものであって、旧自在堰に代って新信濃川の水量を調節せんがために、その上流百mの位置に低水路を横断して可動堰を築造すると共に、固定堰には充分なる補強工事を施し、両者を連絡して新たに隔壁を築造するのである。 又分水路運水以来特に自在堰陥没の結果下流低水路の洗掘せらるる事甚だしくなったので、毎秒二、七〇〇㎥程度の出水は高水敷に冠水せずして疏通し得る状態なるが故に、将来における河底低下を防止すると共に、延いで新可動堰の安全を期する目的の下に、可動堰下流と新信濃川河口付近とに堅牢なる床固工事を施し、その中間には構造簡易なる床留四箇所を設くるのである。 附帯低水工事は洗堰より上流末川筋中之口用分派口に至る延長八㎞の間に確行するので、従来洗堰下流の本川は土砂の堆積甚だしく、累年河床が上昇して涌水量を減じて灌漑と舟運とに困難を感ずるに至ったが、自在堰陥没の結果流勢新信濃川に集中して洗堰下流は通水一時杜絶するに至った。然るに洗堰下流の本川、派出西川及び中之口川は蒲原平野約二六、〇〇〇ヘクタールの灌漑を司る重要なる用水幹線なるを以て、河状を整理して下流に通水を計るの急務なるを認めたので、附帯工事として上記区間の低水工事を施行する事とした。次にこれら各種工事に亙って計画の要点を略述して見よう。 可動堰工 破壊陥没せる自在堰は更にこれを補強修理の途ないので、その上流百mの位置に新たに可動堰を造る事にした。その全幅員は一八〇mで、幅員三m五の橋脚によってこれを十箇の径間に分け、水路幅員一四m五で、各水路幅一六m、高さ二m九のストーニー式鋼扉を備え、扉頂標高(+)一二m一五とし、水位の昇降に応じ電力又は人力を用いてこれを開閉せしめ、以て水位の調節に遺憾なかしむるのである。 基礎は幅員三五mの上流幅と下流端とを長さそれぞれ一二m及び一一mの鋼矢板を河底まで打込んでこれを締切り、その尖端をそれぞれ標高(-)二m八五及び(-)二m四五に達せしめて、絶対に地下透水なからしめん事を期したのである。更にこれに直交して始終橋台及び橋脚毎に長さ一四m五の鋼矢板を尖端標高(-)一mまで打込んで隔壁とし、基礎コンクリート施行後上部はこれを切断するのである。然し本幅壁はこれを工事中の締切壁に兼用すると共に、将来基礎の一部に損傷を生じたる場合にも被害を一径間に局限せんがためであって、基礎コンクリート厚さは敷均六〇㍉、基礎版一m五五にして、橋脚部は幅員五mの間を鉄骨コンクリート構造、その他は全部鉄筋コンクリート造とし、かつ縦横に伸縮接合を設けて鋼裂防止を計った。 堰 は標高(+)九m三五にして、ベツレヘム会社製特殊工形鋼を据え付けたる上に幅五百㍉の戸当鋳鋼鈑を取り付け、これを挟んでその上下流に幅それぞれ一m二及び一mの花崗岩を配列して堰悶を固め、上流鋼は厚さ六〇㍉、下流側は厚さ八〇―三五㎝の上装コンクリートを施工して堰体を作るのである。 基礎杭は橋脚部及び橋台の一部に長さ一三m、末口一八㎝の松丸太を使用し、右岸堤保護のためには橋台を堤防線より九m突出せしめ、かつ基礎締切鋼矢板は上下流両列ともこれを延長して右岸堤天端に達せしむるのである。 橋脚コンクリートにはその一部に鉄骨を挿入してこれを補強し、橋台は鉄筋コンクリート構造にして併せて充分の耐震力を有せしめ、基礎コンクリート下の水の浮力を測定し、同時に土砂の状態を検討せんがためには橋台及び各橋脚毎に四箇所の地下水調定菅を装置し、堰堤の監視及び維持修理に便せんがためには、可動取の全長に亙りて有効幅員二m五の鉄骨鉄筋コンクリート桁橋を架するのである。 鋼扉開閉のためには橋台及び各橋脚上に鋼構脚を建て、これに突桁式構桁を架して構脚橋とするので、これはためなのである。鋼扉は総重量約二三トンで、その両側に重量約一八トンの鉄骨コンクリート造対重二個を付してこれをエンドレス式複線鋼 を以て
2024.02.24
いつも買い物に行くOKの真向かいの薬局が全品15%引きの表示。確かGABA入の金胡麻麦茶あったな、買っておこうと思って入店すると金胡麻麦茶の隣に目新しいGABA入りルイボスティーがあった。そこで目新しいお茶を買ってきた(^^)ルイボスティーの健康上の利点1 ルイボスティーは、タンニンが少なくカフェインやシュウ酸を含まない2 ルイボスティーは、抗酸化物質が豊富に含まれている3 ルイボスティーは、心臓の健康を守る可能性がある4 略5 ルイボスティーは、2型糖尿病の人々に利益をもたらす可能性があるルイボスティーの効果とされているものは、蓋然性や動物実験の結果が多い。ただし多量飲んでも安全であるようである。GABAの効果はどうであろうか?包装では1 睡眠の質の向上2 肌の弾力の維持をうたっている。■機能性表示食品:GABA【届出表示】本品にはGABAが含まれています。GABAには、睡眠の質(眠りの深さ)の向上に役立つ機能があることが報告されています。また、GABAは肌の乾燥が気になる方の肌の弾力を維持し、肌の健康を守るのを助ける機能があることが報告されています。GABA含有量:100㎎/包(抽出後)■一日当たりの摂取目安量:1袋(2g)■1包でカップ1杯(約200ml)分1日当たりの摂取目安量1袋(5g)・お湯出し…パック1袋に500mlの熱湯を注ぎ5分間抽出、その後10回混ぜてお飲みください。・水出し…パック1袋に500mlの冷水を注ぎ8時間冷蔵庫で抽出、その後10回混ぜてお飲みください。・麦茶の香ばしさとギャバの酸味がほのかに感じる商品です。本届出品は機能性関与成分(GABA)を一日当たりの摂取目安量を12.3㎎ 配合した食品である。【主な結果】血圧低下効果は、収縮期および拡張期血圧を指標として評価された。その結果、正常高血圧(収縮期血圧 130~139 mmHg 又は拡張期血圧 85~89 mmHg)の人において、1日あたり12.3mg~80mgのGABAを含んだ食品はGABAを含まない対照品と比較して、有意な効果(統計学上、偶然ではなく意味のある効果)が認められた。また、正常な血圧の人のみを対象とした場合は正常な血圧を維持した。💛「結局の所、健康食品にせよトクホにしろ本当にそんなに効果があるなら薬になっていると思います。」という厳しい意見もある。確かにそれはそうとしてルイボスティー+GABAを飲んでさほど効果がみえなければ、金の胡麻麦茶に戻すかな(^^)
2024.02.24
信濃川改修工事 その9 附帯工事 としてはこの付近海岸線に沿うて弥彦国上の山々が起伏断続している近傍を信濃川の巨流が流れているので、三島、西蒲原両郡の一部は自然ここに低窪な一区域を形造ってなお島崎川がこれを横断流過しているから、常に悪水の排除に苦しんでいる状態である。由来大河津分水路開鑿の目的は本川沿岸の水害防御と共に、この間における耕地の灌漑並びに悪水排除もその一つに数えられるものであって、即ち蒲原用水路、信濃川新用水路東西合併悪水路、落水悪水路眞野代用水路等の諸工事を附帯工事として直接施行せんとするものである。 信濃川河口工事 は浚渫、突堤、護岸及び灯台建設の四種であって、浚渫は河口から上流へ長さ二一八二m、幅員一八一m八、深さ七m五に、海港は長さ七二七m二、幅一八一m八、深さ九mに達せしめる計画であって、この総浚渫土量は約一三五万㎥である。西突堤は水面上高三m六、堤頂の幅員七m二七、長さ一五一m七に築くものであって、その基礎は一個の重量半トン内外の天然石を上幅九m両法一割五分で低水面に達せしめて、これ以上はコンクリートの直壁とし、海 には一箇の重量一四トン及び二四トンのコンクリート方塊を投げ入れてその全部を包被し、河側には一四トン塊を以てその一部を包被するものである。 西突堤の頭部には直径一〇m九一の同形直壁を造り、その上に灯台を設けて航路標識の用に供するのである。又突堤付根から上流一、一八一mの左岸を保護するため沈床、根杭及び石張から成る護岸工事
2024.02.24
“無敵”の15歳・張本美和 試合前にはYOASOBIの「アイドル」を口ずさみ大一番で大逆転劇チーム最年少15歳の張本美和選手グループリーグから出場した試合は全勝。4試合目にして初めて大事な第1試合に抜てきされた張本選手が、試合前に口ずさんでいたのは「YOASOBI」の“アイドル”。普段はJ-POPを聞かないという張本選手が、直前の合宿でチームメイトの木原美悠選手が歌っていて好きになった。「盛り上がってテンション上がる曲。(試合前に)流れたので、はっていう感じで口ずさんでいました」卓球女子、香港破り決勝進出!グループLからオール3-0勝ち、15歳張本は執念の大逆転でエース撃破 53年ぶり金へ中国と決戦2/23(金)前日のルーマニア戦で快勝し、メダルを確定させた日本はこの日、東京五輪銅メダルの香港を相手に張本美和(15、木下グループ)、早田ひな(23、日本生命)、平野美宇(23、木下グループ)の“五輪代表トリオ”で挑んだ。トップバッターの張本が、香港のエース・杜凱琹(27)にゲームカウント0-2と崖っぷちに追い込まれたが、3ゲーム連続で奪い返し大逆転で先勝。勢いに乗った日本は2番手・早田、3番手・平野が安定した攻撃で圧倒し、3-0で勝負を決めた。日本はここまで出場全チームで唯一、グループリーグから1試合も落とさず7戦21試合を“全勝”で勝ち上がり、決勝進出を決めた。明日2月24日の決勝では、71年大会以来53年ぶりの世界一をかけ、世界卓球5連覇中の王者・中国と対戦する。「人間じゃないかなって、ちょっと思ってます」 張本の大逆転勝ちに早田ひな驚く…世界卓球準決勝で香港に快勝張本「出だしは悪かったけど、最後はしっかり調整して勝つことができて良かった」早田ひな「こうやってこの大舞台で結果を出せるのは本当にすごい。格上の選手に0―2で負けてて、そこから3ゲームを取り返すっていうのは普通じゃできないこと。そういった部分は本当に人間じゃないかなって、ちょっと思ってます」張本「いやー、人間…なんですけどねって感じです」「出させていただく試合は全て自分の成長につながっている」
2024.02.24
ナワリヌイ氏の遺体を当局が母に引き渡し 側近、葬儀妨害への懸念も2/25(日)獄中で死去したロシアの反政権派指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏の報道担当者キラ・ヤルミシュ氏は24日、同氏の母リュドミラさんに遺体が引き渡されたと、X(旧ツイッター)で伝えた。当局によると、ナワリヌイ氏は16日、北極圏の刑務所で死去。だが、現地に到着したリュドミラさんは21日夜まで遺体との対面ができず、ナワリヌイ氏の側近は「殺害の証拠を消している」と批判していた。 当局が作成した死亡診断書には「自然死」と書かれていたといい、リュドミラさんらは法律に従い、24日までの遺体引き渡しを求めてプーチン大統領や裁判所に訴えていたが、捜査官から引き渡しの条件として「密葬」にするよう脅されたと訴えていた。 また、ナワリヌイ氏の母に遺体を引き渡すべきだという声も、ロシアの著名人の間で広がっていた。米、最大の対露制裁で500超標的 バイデン氏「プーチン氏に代償」ナワリヌイ氏死亡でも ウクライナ侵略から2年2/23(金)バイデン米大統領は23日、ウクライナ侵略2年に合わせて声明を出し、ロシアの反体制派指導者、ナワリヌイ氏の死亡に関与した者や、ウクライナ侵略を支える軍事産業関係者ら500超を標的にした新たな制裁を行うと発表した。米メディアによると、侵略開始後の制裁では最大規模となる。ナワリヌイ氏が獄中死したのはプーチン露政権の責任であることを明確化する狙いもある。バイデン氏は声明で、ロシアの戦争継続を支援している100団体近くに輸出規制を科すとした上で、「ロシアの石油収入をさらに減少させるために行動する」と述べた。声明はこれらの措置により、制裁を回避してロシアと取引することが世界各地で困難になると説明。「国外を攻撃し、国内で弾圧するプーチン大統領は、あまりに高い代償を支払うことになる」と強調した。また、バイデン氏は600億ドル(約9兆円)規模のウクライナ支援を含む緊急予算案ついて、「歴史は見ている。(History is watching.)支援の失敗が忘れられることはないだろう。ウクライナを強く支持するときだ」"For Republicans in Congress who think they can oppose funding for Ukraine and not be held accountable, history is watching," と強調。「手遅れになる前」の予算通過を米議会に求めた。緊急予算案は上院が今月、超党派の賛成で可決したが、野党・共和党が多数派を握る下院で法案通過の見通しは立っていない。ナワリヌイ氏の妻と娘、バイデン大統領とサンフランシスコで面会2/24(土) バイデン大統領は22日、アメリカ・サンフランシスコでナワリヌイ氏の妻・ユリア氏と娘のダリアさんに面会し心からの哀悼の意を表したということです。バイデン大統領は、ナワリヌイ氏の並外れた勇気を称賛し、自由や民主主義などのために闘うことを通して、彼の遺志は受け継がれていくと強調したとしています。
2024.02.24
信濃川改修工事 その8堰の下流に放流するのである。 猿橋川 に在ては信濃川の水位上昇する場合は、その逆水の影響を受け沿岸耕地の悪水は排水不能に陥り湛水の害を被るを以て、本計画においては全くその影響を除去せんがために、本川の流水を延長して信濃川新締切堤に沿い洗堰下流の信濃川に放流せんとするものである。 信濃川改修計画は大河津より寺泊海岸までに新放水路を開鑿して信濃川の洪水を日本海に放流し、常水はこれを新潟港に流下せしめ。以て信濃川下流部の水害を除き、合せて新潟港の改善を期するものであって、それを新放水路開鑿、自在堰、固定堰、洗堰、閘門、締切堤築造、分水付帯工事及び信濃川河口工事に分けて述べよう。 新放水路 は下流部で山 を開鑿するのであるから、掘鑿土量の軽減を計り、下流に近づくに従って勾配を急ならしめて漏斗状形に河幅を狭め、海口に至って二一八m一とし、水面勾配は上流分岐点付近は二千分の一、中流部は七百分の一、下流部は五百分の一にしたのである。掘鑿総土量は約二、八八〇万㎥で、その内、山間部約二、一六〇万㎥、平地部約七二〇万㎥である。又新水路の堤防は堅固を主とし馬踏幅一四m五四、表裏両法二割、頂高は計画高水位上一m五とし、その延長は両岸を合せて一三、四五四m五である。新放水路の起点である大河津村地先に洗堰左端から約二八〇m下流に水路を横断して堰堤(固定堰、及び自在堰)を築くので、その頂高は本川既注の流量に鑑みて洗堰下流信濃川本川に灌漑と航運とのために必要な水量約四四〇㎥を通ずべき水位を標準としてこれを規定したのである。新水路の幅員七三七m三の内左岸寄五四五m四を洪水敷部として固定堰を造り、出水時はこれを越流せしめる右岸寄一八一m八を低水路として自在堰を設け、出水時はこれを開放し、減水時はこれを閉鎖して以て洗堰以下の水量を調節せしむるのである。 自在堰 は総長一八一m八を八区に分ち、八個のピーヤ(橋脚)でこれを分ってその間に各一個のベヤトラツプ式鋼扉(bear-trap gate)備えるのである。そのピーヤ間隔二二m七、ピーヤ幅三m九、純径間一八m八、扉の幅員一九m二で、その起伏高二m四である。扉は三葉式で、一組の重量は約五〇トンである。 固定堰 は堰高標高一二m二五で、その上幅一m八にし、これを中心として上流三m九は三割勾配にし下流一〇m三には八割勾配の砂礫堤を作って、その表面は厚さ三〇㍉のコンクリートにて被い、それに間知石(けんちいし:擁壁に使われる土木建築材料)を 込んで流水の勢力を減殺させるようにするのである。下流はこれに接続して長さ九m一の間に捨石長さ四m五の間に鉄筋コンクリート沈床を施工して溢流水による洗堀を防ぐのである、 洗堰 は大河津村地先本川と新水路との分岐点に設け、橋台間の総幅一四五m五、橋脚間隔五m四、橋脚幅員一m八、その数二六基、水路幅(純径間)各三m六で、各径間には各落を用いて水量を調整し、余量はこれを新水路に放流せしむる装置である。 閘門 は洗堰に隣接して設けその大きさは既往における通航汽船の最大型のものを通過せしむるに足る目的で、総長九〇m九、有効長(閘室長)六〇m六、閘室有効幅員一〇m九、閘門高低水位下一m五一、最低水深一m八である。扉室は各一対宛の観音開鋼扉通水路暗渠の開閉によって水位を調整して舟航に便するのである。 締切堤築造工事 は大河津分水工事の一つとして左岸三島郡大河津村大字大川津地先閘門付近から右岸南蒲原郡中之島村大字眞野代に至る間を横断して信濃川本流締切るものであって、この延長二、一八二m、堤防の形状は馬踏幅九m二、表裏両法各二割とし、なお堤内の部分では堤頂から二m四二下った処に五m四五の小段を設け、更に一m二下って一四m五四の第二小段を設け、堤体の強固を計り、堤頂は計画高水位上約一m五を高め、護岸として川面の方に根固、沈床と捨石とを施し、法面は金網蛇籠を以て被覆して新水路工事の竣工をまって信濃川の水流を分水して、その一つを寺泊へ流下するのである。
2024.02.24
オリーブには心臓や骨を守る効果がありますLeticia Soares・オリーブは癌の発症を防ぐのに役立ちます。オリーブは植物化学物質が豊富で、これらの中で、ヒドロキシチロソール*はテーブルオリーブに存在する主要なフェノール化合物であり、いくつかの種類の癌の予防に関連しています。*ヒドロキシチロソールの抗酸化作用にともなう効果ヒドロキシチロソールとはオリーブオイルに含まれるフェノール化合物です。オリーブオイルを摂取する事で、悪玉コレステロールが減少したり、動脈硬化の改善につながるといった事が確認されています。オリーブオイルの生産量が世界1位のスペインや第3位のギリシャは、他のヨーロッパ諸国と比べて、血管疾患(血流の病気)や心疾患(心臓にかかわる病気)によって死亡する人の割合が低くなっています。これはオリーブオイルに含まれるヒドロキシチロソールを始めとしたフェノール化合物による効果との関連性が予想されています。ヒドロキシチロソールは強い抗酸化作用をもち、抗炎症・抗菌・抗ウイルス・抗腫瘍の特性があることが分かっています。ヒドロキシチロソールには、増加しすぎた活性酸素による細胞攻撃(酸化)を防ぐ抗酸化作用があり、この作用を利用した研究が数多くされています。動脈は、外膜・中膜・弾性膜・内膜の4層からできており、一番内側の内腔部分に血液が流れています。動脈の中膜には、自身の収縮により血流を流したり、血管の弾力を保つのに重要な【血管平滑筋細胞(けっかん へいかつきん さいぼう)】が存在致します。この血管平滑筋細胞が細胞としてその役割をなくした時、内膜へ移動(遊走)するのですが、この遊走した不要な細胞が異常増殖すると血管の壁にコブのようなかたまりをつくってしまいます。すると、血液が流れている内腔が狭くなり血流が滞り、心筋梗塞や脳梗塞を引き起こしてしまうのです。ヒドロキシチロソールには、血管平滑筋細胞の異常な増殖および遊走を抑制する働きがあることがわかっています。血中のLDLコレステロール(悪玉コレステロール)が多すぎると、内膜を形成する内皮細胞を傷つけ、損傷した部分からLDLコレステロールが内膜の中に進入してしまいます。内膜に進入したLDLコレステロールは体内の「活性酸素」によって有害な酸化LDLコレステロールに変化されます。有害になった酸化LDLコレステロールを異物とみなした白血球の1種である「単球」が血管壁に入り込み、体のお掃除役「マクロファージ」となって酸化LDLコレステロールを取り込んでいきます。酸化LDLコレステロールを大量に取り込んだ「マクロファージ」はやがて崩壊していき、内膜のなかにドロドロとした状態(コレステロールや脂肪できた物質)で沈着します。この沈着物が溜まると血管の内壁にプラークというコブのようなものが形成されます。プラークが血管壁のいたるところにでき、血液の通り道が狭くなることでアテローム性動脈硬化が引き起こされます。ヒドロキシチロソールは、内皮細胞の創傷を治癒する作用を持っています。また抗酸化作用があり、LDLコレステロールが酸化されて、酸化LDLコレステロールになる事を防ぐことが示されているため、動脈硬化の予防効果が大変期待されています。・オリーブは優れた抗酸化作用を持っています。オリーブは、テーブルオリーブに存在する最も豊富なビタミンであるビタミンEの供給源です。体内では、ビタミンEは重要な抗酸化物質として作用し、フリーラジカルによって引き起こされる損傷から細胞を保護するのに役立ちます。・オリーブは私たちの心血管系を保護するのに役立ちます。オリーブは一不飽和脂肪が豊富で、悪玉コレステロールを減らし、善玉コレステロールを増やすのに役立ちます。
2024.02.24
ひざまずいて懇願も…チベット族僧侶らがダム建設に抗議デモ 100人以上が拘束か 中国四川省で2/23(金) 中国で、チベット族の僧侶や住民らがダムの建設に反対する抗議活動を行い、100人以上が拘束されました。SNSに投稿された映像。大勢のチベット仏教の僧侶や市民らが集まっています。中国南西部の四川省、カンゼ・チベット族自治州で撮影されたものとみられ、なかには僧侶や市民が政府関係者とみられる一団にひざまずいて何かを懇願している様子も映っています。アメリカ政府系の放送局・ラジオ自由アジアによりますと、今月14日、水力発電ダムの建設により6つのチベット仏教寺院と2つの村の住民およそ2000人が移転や破壊の対象になることに抗議し、チベット族の僧侶や住民らが建設中止を求めるデモを行ったということです。抗議活動には300人が参加し、100人以上が拘束されたということです。
2024.02.23
信濃川改修工事 その7に三七〇㎞で灌漑の利甚だ多く、舟筏航路また二八三㎞の長きに亙るけれども、しばしば水害の甚だしきものがあってその被害もまたすくなくないのである。遠くは元禄十一年五月三日及び享保三年八月五日の洪水に引き続いて元文、寛保、延享、宝暦の災害等があったけれども、今その実況は詳らかに知る事を得ない。近世になってから水害漸く激甚を加えて、彼の明治二十九年の出水の如きは各所で破堤して沿岸の平野は水底に葬られ、その惨状実に甚だしく被害住民はそれから数年の間は全く立つ事の出来得ない程の疲弊困憊に陥ったのであった。又本川の沿岸は概して卑湿の地であって、随って湛水の害また深大である。しかも湛水の害は洪水のように 間歇的ではなく年々被害 のなかった事がないのである。ただ程度の大小深浅があるばかりで、本川付近肥沃の壌土はこれがために蒙る損害年々実に巨万の額に達して、殊に明治八年の如き格別の洪水でなかったにもかかわらず、沿岸地方は非常な湛水の害を蒙った。中、西、南の三蒲原郡での冠水面積は田地三一、五七六・〇ヘクタール、畑地九、三八二・〇ヘクタールに達したので、その損害額は四、三六四、四八六円の巨額に及んだのである。 信濃川改修事業の計画を分って信濃川上流改修計画、信濃川改修計画、信濃川補修工事計画に区分して左に述べてみよう。 信濃川流改修計画は、新潟県古志郡妙見以下信濃川大河津締切堤防に至る間の水害を絶つを目的とするものであって、最大流量毎秒五、五六五㎥を疏通せしむるに足る流積を有せしむる事とし、地形に応じその河幅を最小六一八m、最大一、二一八mに整理し無堤部には堤防を新設し、有堤部はなるべく旧堤を利用しこれを拡築し、流積不足の部分は掘鑿浚渫を施し以て洪水の快通を図り、激流の甚だしき支川及び悪水路には水門を設け逆水を阻止する等、水害の原因を一掃せんとするものである。 築堤工事 は全川に亙り馬踏七m二、表裏とも二割法とし、その高は計画高水位以上一m五の余裕を与えなるべく旧堤を利用拡築する事とし、長岡市付近に合流する太田、渋海両用の落日は瀬割新堤を以て引き下ぐる事とするのである。護岸及び水制工事中護岸は主に長岡より上流両岸堤防表法面及び下流部の沿岸で流平衡に面する箇所並びに堤脚の平水中に落ちる部分に対しては表法高水面以下を石張、又はこれと等しき工法により低水に接する箇所は沈床工を施し、また水制工は流心の矯正を要する部分に施すのである。水門工事は新田外二、三の悪水路に設置し、いずれも逆水止門扉を設けるのである。付帯工事は長生橋、與板橋の改築、黒川外二箇川の改修用悪水路の樋管伏替又は水路付替等であって、樋管八五箇所の多きに及ぶを以て、適宜これを処理せねばならないのである。なかんずく工事の最も大なるものは黒川外二箇川の改修であって、大正十四年度以降工費金一八四万一千円、県費負担一三二万九千円(内地元負担三五五、三五四円)にてその工を起し、国において直接施行するもので、その計画の大要は次の如くである。 信濃川左支黒川及び道満川 はいずれもその上流部においては、出水の時しばしば溢水破堤等のため沿岸耕地を害する事おびただしく、その被害面積千ヘクタール余になる事がある。又下流部の被害は常に湛水に起因するもので、五ヶ所に排水機を設置して僅かに悪水排除をしているけれども、最低地盤は海面上一四m内外に過ぎないから、降雨期に際しては信濃川の平水位においてすら排水機の運転を必要とする状態である。故に一朝信濃川の水位が上昇する場合は殆ど施すべき策なく、稲禾を没し家屋を浸し交通の途は全く絶える有様である。殊に融雪期の如きはその程度著しく浸水面積実に二千余ヘクタールに及ぶ事があり、而もその期間数旬に亙り、為に挿苗期を逸して耕地を荒廃する事が多い。よって黒川沿岸の高地及び道満川沿岸の悪水は、黒川本川、道満川並びに黒川の支川菖蒲川、荻城川の改修によって低地部の悪水は適当に集水して別に悪水路を開鑿し、遠く信濃川新水路固定
2024.02.23
百万本のバラ 加藤登紀子NHK BS4K『“百万本のバラ”はどこから そして どこへ~加藤登紀子 ジョージアへの旅~』2月17日放送NHK『“百万本のバラ”はどこから そして どこへ〜加藤登紀子 ジョージアへの旅〜』ウクライナ侵攻をきっかけに、歌手・加藤登紀子さんは、代表曲「百万本のバラ」の原点を訪ねる旅に出た。ラトビアで悲しい子守歌として生まれ、その後、ロシア語の歌詞がつけられ、旧ソ連で大ヒットしたラブソング。加藤さんは自ら日本語に訳し、40年近く歌い続けてきた。しかし、いま、「“百万本のバラ”はロシアの歌だから歌えない」という声が高まっている。加藤さんは、歌のモチーフとなったジョージアへと向かった。★「百万本のバラ」の原曲は、当時ソ連に属していたラトビアで1980年代前半に作られた子守歌だ。ソ連の放送局で流すために、ラトビア語の歌詞がロシア語による実らぬ大恋愛劇に書き換えられ、80年代半ばに大ヒットした。 ラブソングに生まれ変わったきっかけは、ロシア語の歌詞を依頼された詩人がその2日前、偶然にジョージアを代表する画家ピロスマニの恋物語を読んだことだったという。日本語の歌詞は、加藤さんがロシア語の歌詞を訳したものだ。 ロシアとウクライナの戦争が始まって以来、「私の人生の全部を問われているっていう感じがあった」と加藤さん。多くの亡命ロシア人が住んだ旧満州のハルビンで生まれ、戦後に引き揚げてからは父がロシア料理店を営むなど、ロシアとは深い縁があった。 旧ソ連の各地で「百万本のバラ」を歌い、多くの人とも出会ってきた。ロシアのウクライナ侵攻後であっても、ロシアやウクライナ、ジョージアでも愛されてきたこの曲が、国境を超えて「きっと人々の心をつなぐ」と信じていた。 しかし、そんな思いが「甘かった」と思い知らされたのは、今年4月。富山県高岡市で開かれたウクライナを支援するチャリティーコンサートでのことだった。共演したウクライナ出身のミュージシャンに「百万本のバラ」を一緒に歌うことを提案したが、「ごめんなさい。ウクライナ人だからいまは歌えない」と返された。 「国と国が戦争をしていても人と人は違う、音楽はもっと自由でなくちゃいけない、というのは私の希望的解釈だった」と目が覚めた。「戦争を前にして、人は自由じゃない。彼女が歌いたくないのではなくて、ウクライナ人としての立場でまずいということ」 「そんな嵐の中に『百万本のバラ』はある」と気付かされた後ではあったが、ジョージア公演では曲の主人公ピロスマニの故郷でこの曲を歌うという計画を胸に臨んだという。 しかし、ここでも思うようにはいかなかった。地元の若者のコーラスグループと日本語の曲を披露する場面もあったが、「百万本のバラ」だけは、やはりロシアへの抗議として「一緒に歌えない。勘弁してください」と断られたのだ。 その心情を理解した加藤さんは一人、日本語で歌った。曲を披露する前には丁寧にこう伝えた。「ピロスマニの無鉄砲なほどの恋物語が、人々に勇気を与えてきた。こんな時こそ、戦争をやめてという思いを込めて、私たちは歌わなきゃ」 そして――。歌い終わると、大きな拍手がわき起こった。厳しい対ロシア感情があるにもかかわらず、観客の一人が「こういう歌だと知らなかった。今日は新しい『百万本のバラ』と出会った日だ」と語りかけてくれたことが、強く心に刻まれたという。💛ジョージアの女性監督ラナ・ゴゴベリゼイスラエルやウクライナの事を思うと絶望的な気持ちになります。人類はこれを乗り越える事が出来るのであろうか。でもそんな時にジョージアの歴史を思い出して下さい。壊れた器を日本の人々が金継ぎで蘇らしたようにトキコは彼女の歌でしているのです*90歳を超えてなおメガホンをとり続けるジョージア映画界の巨匠、ラナ・ゴゴベリゼ監督の作品「金の糸」ジョージアの首都トビリシの旧市街に、娘夫婦と暮らす作家のエレネ。唯一の楽しみはひ孫のエレネとの交流である。ある日、アルツハイマーを患ったという、娘の姑ミランダが同居することとなる。時を同じくして古い恋人アルチルとも交流が再開する。ミランダは元旧ソビエト時代の高官であったが、エレネの作品の発禁処分に関係しており、アルチルとも関係があったことが明らかになる。歳を取った3人が、過去の歴史と記憶を経て現代のジョージアで再び重なり合う。日本の伝統技術である「金継ぎ」が3人の過去をつなぐモチーフとなり、「どれほど痛ましい過去も財産になる」という、人生への思いが描かれる。
2024.02.23
信濃川改修工事 その6唱える所であって、今や大河津を開鑿して信濃川の水を日本海へ放流する時は、洪水の際は比較的土砂を混ずる事の少なき上層の水のみ寺泊の海に放流せられ、下層の土砂泥水のみ新潟に流れ来り、港口を游塞せん事を唱え反対したものである。元文二年新潟新田開発のため同潟の水を五十嵐浜へ落とさん事を請願したるに際しても、新潟は松ヶ崎の例を引いて反対し、その他悪水といえども新潟港以外の海へへ放流せんとする工事には極力反対したものである。要はなるべく多くの水を取入る事を望んだものであつて、これまたその当時においては当然の問題なれば当局においても大いにこれに留意して、大河津分水工事開始前において精密なる専門学者の調査を遂げしめたのである。その概要は大河津より寺泊へ向け新水路開鑿し、洪水量二〇万立方尺の水を放流し、新潟港へは平水のみを鑑みる事とし、更に港内在来の土砂八〇万坪を浚渫し、常に二〇余尺の深度を保たしむる事となった。ここに初めて新潟市民は安心せるのみならず、前途の発展を祝して大河津分水の計画に賛成するに至った。 その後明治四十年に帝国議会の協賛を経て 々国においてその工事を施行するの機運に到達した。而して 明治四十二年七月五日 信濃川治水に関する朝野の紳士を請じてその起工式を新潟県三島郡寺泊町海岸字白岩に挙行した。時の土木出張所長(元の土木監督署長)は内務技師小柴保人氏であって、同氏に次いで内務技師渡邊六郎氏所長となられ、上流古志郡妙見より以下大河津に至る即ち信濃川上流部の改修工事を加えて、この大事業の最大部分を完成せられた。後同じく内務省技師新開壽之助氏その後を受け保守継続大いに努められたが、不幸にして昭和二年六月突如として大河津自在堰の一部陥没の厄に遇い、直ちに応急工事を施し、それがほとんど成ると同時に同氏は職を引かれ、次いでその災害を補修せんがために信濃川補修工事が起工されたので、私が所長の職を継ぐ事になった。そこで同工事も明年を以て全く竣工するまでの運びに至った。又信濃川上流改修工事は今なお施行中である。 〇⋯⋯河狀並びに計画の大要 信濃川は遠くその源を中央山系である飛信甲武の深谷に発して、上流を千曲川といい、長野平野の川中島で犀川を合せ北流して越後に入り信濃川と称え、広大な越後平野を潤し数多の支流を合せて新潟港に注ぐのである。流路延長は実
2024.02.23
ナワリヌイ氏が獄中から手紙、「韓国や台湾が民主主義に移行できたのならロシアもそうなるかも」米紙ニューヨーク・タイムズは19日、ロシア北極圏の刑務所で死亡したロシアの反政権運動指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏が生前、獄中から送った知人への手紙の一部を報じた。「韓国や台湾が独裁から民主主義に移行できたのであれば、ロシアもそうなるかもしれない」と記し、「希望だ」と強調していたという。同紙によると、2021年から収監されていたナワリヌイ氏は、約300日間にわたり寒く湿気の多い約2・5メートル×約3メートルの狭い「懲罰房」に入れられ、孤独で過酷な生活を送っていた。ただ、獄中から手紙を知人などに送り、返事を受けることはできたという。 手紙には趣味の読書が支えになっている様子のほか、「日々の生活や食事、給料、ゴシップなどのニュースが恋しい」ともつづられていた。同紙は、「ナワリヌイ氏が、いかに外の世界とつながりを保とうと奮闘していたかが分かる」と指摘した。米政府は、ナワリヌイ氏の死亡を受けた対露制裁を23日に発表する予定だ。
2024.02.22
信濃川改修工事 その5次いで十六、七年の県会において田沢実入氏等大河津分水の請願を建議し、これを可決して県会より委員を上京せしめ政府に陳情せしめた。 明治十八年政府は内務技師古市公蔵氏の治水計画を採用して信濃川改修工事を起すに至った。その計画は堤防の改築と河身の改修であった。而して河身改修費は国庫これを負担し、堤防の改築費は県民これを負担することになった。ここにおいて新潟県会はこれが経費一、六二〇、三九六円、十三ヶ年の継続事業を可決し、十九年十二月堤防改築の起工式を挙行して着々工事を通むるに至った。 二十三年十二月県会において改修工事設計更正の建議があって論議せられたが、通過せずして改修工事は予定の進行をなしたが、二十七、八年の戦役に続いて二十九年、三十年に亘って信濃川その他諸川の大洪水があって、信濃川筋は横田、黒粂、大郷を始めとして数ケ所の大破堤があった。その損害数千万円に上り、剰え天気陰鬱で温度低下のため稲作に浮塵子の害があって、愁雲全県を覆い米価暴騰して県民の不安甚だしく、延いて信濃川堤防改築工事無効の声漸く高く、大河津分水の論又再燃して有志は復々運動を開始するに至った。 三十一年県会において信濃川排水の件に付決議し、三十四年十二月県会において小嶋太郎一外十五氏より建議して信濃川堤防改築工事の効果寡きを難じ大河津分水の利を説き、満場一致の議決を以て政府に請願書を提出した。然るに三十五年十二月県会に分水反対の建議が出て議会を紛擾せしめた事があったけれども、県民の熱望と政府の精密なる調査の結果、政府もこれを認め、いよいよ実行の域に到達せんとしたが、偶々日露戦役突発のため遂に起工の延期を余儀なくせられた。 由来大河津分水については反対を唱えるものがあった。即ち第一は分水工事のため立ち退きせしめられるべき分水渠付近の諸村、第二には分水渠新堤の崩壊して水害を蒙らん事を憂慮する諸村、第三は直接利害関係の少なき町村にありては経費の負担に苦情ある事、第四は灌漑水を失わん事を杞憂する諸村であった。しかしこれらは一小問題で、外に一大故障と称すべきは 新潟県の故障 である。即ち新潟の港を形成する所以のものは、一に信濃川と阿賀野川との恩恵によれるものとし、往年溝口家にて阿賀野川を疏鑿しその本流を松ヶ崎へ落し、新潟港への流水を減じたるため新潟港口に及ぼす影響は土砂の沈殿を多からしめ、而して港口を游塞するに至れりとは市民の夙に
2024.02.22
信濃川改修工事 その4 36頁目上京せしめ政府に嘆願させた。時の 越後府知事は壬生基修氏 であって、氏は直に上表して縷々その不可を疏し、次いでその責を引いてその職を去るに至った。翌三年正月民部省土木司は有志総代の意見を諒として、急に用弁掛、二人の状京を命じ金策をなさしめた。すなわち田沢與左衛門、鷲尾忠吾の両氏は大阪に到りて住友吉左衛門に工費の用達を交渉したけれども事意の如くならず、政府は遂に各藩に命じて工費を左の如く按分してその出金方を協議せしめた。金一百十万両也 分水路総額 内 金四十万両也 朝廷御下金金十五万両也 全国々役金金四十五万両也 水害堰高 を三十万石と見積り、一 石に付一両二分宛分担 如上標準割当で、水害地分割金四十五万両の出金方について協議したが、藩県総代の議論紛糾して容易に決し兼ねたので、民部省権少佐青柳重平氏の斡旋によって 七藩二県八百三十余ヶ村 の等級を定め、とにかく支弁の途を立てて再度工事を開始する事となったので、同年四月十九日土木司役員の出張を見るに至った。而して民部省測量司小林、三浦両氏の測量を挙げれば左の通りである。 分水口(大河津)より海浜(須走)迄四、七二ヶ間六分(二甲六町四ヶ間六分)築堤を要する低地二一四七間五築堤を要せざる地七三三間五分その他山間八四八間六分 かくして起工の準備が整ったので同年七月七日国上村字石湊において分水起工祭を挙行するに至った。夫れより藩県は事務を分掌して、夙夜鋭意工事の進行を図ったが、三間最高の所は八〇余尺もあって、悉く人肩によるの外はなく、数十尋の坂路を上下迂回して、一万ないし二万の男女人夫により土砂は運ばれ、工事進行を見たけれども、進行に伴い困難の度益々増加して、随って掘れば随って崩れ、いわゆる妖怪丁場などという箇所も出て来て、何時かこの役を終わらんとの嘆声すら多数民の口より洩れ出ずるようになった。然るに明治四年七月廃藩置県の令下って官制改正のため民部省の土木司は廃せられ、分水工事は大蔵省土木寮の管轄となって、又々工事支出の に大なる懸念を生じ、しかのみならず翌五年四月 渡邊悌輔等の一揆 を起すありして、人心恟々するに至ったけれども、暴動は数日で鎮定し、巨魁は悉く法に処せられ、幸いに大事に至らないでしまった。これがため工事は一時休止の運命を見んとしたが、大蔵大丞岡本健三郎氏によって続行する事となった。而して土木寮は更に七等出仕小野修一郎を派遣して工事を監督せしめた。 政府は更に前後して外人ブラントン(明治四年)及エハリントウ(同六年)をして信濃川を測量調査せしめたが、両人の調査復命は 分水の不利なる報告 のため、政府は遂に信濃川分水工事は詮議の次第之有り廃止する旨を布達するに至った。ここにおいて高橋健三、田沢與一郎(元の與左衛門)、大矢益 氏その他有志は遺憾措くあたわずとしてその筋へ論議したが、その甲斐もなく折角の工事も全く廃止する事になって、百万両の工費は水泡に帰してしまった。これ実に明治六年の三月であった。 その後政府は信濃川に護岸沈床の工事を実施したが、その効果の認むべきもの甚だ小さきため、又大河津分水事業再興の声民間に起こり、ここに又々有志の奔走する所となった。十二年田沢與一郎、須田勝十郎、市島正内、高橋健三氏等相謀り、交々上京して分水の要あるを政府当路に陳情嘆願した。中に高橋健三、田沢宝入の両氏は左大臣有梄川宮殿下もしばしば拝謁を得、親しく翻意を言上したけれども、容易に志遂ぐる事が出来なかった。然れども不屈不撓 を継続し、傍ら有志にて信濃川治水会社を創立して治水の方法を継承し、大河津分水起業を力説して大いに輿論の換起に努めたけれども、有志者或は死亡し或は耳を傾け気勢振るわざるに至った。十五年七月県会において目黒徳松、山口権三郎、小田宗四郎の三氏は工事中の中之口田、信濃川護岸沈床工事を中止し、大河津疏浚の測量を請求するの建議をを提出したるに入る檄を以て通過し、
2024.02.22
【動画】「巧みなトリック」で当日のベストポイントに選出 フランス代表が披露した“曲芸打ち”向いの選手の背面打ちに注目世界卓球で咄嗟に飛び出た“曲芸打ち”にWTT仰天 背中側の返球で「巧みなトリックを披露した」2024.02.21 フランスの男子選手が見せた秘技とは 世界卓球団体戦(韓国・釜山)は21日から決勝トーナメントの戦いが始まった。男子グループリーグ(GL)を4戦全勝で首位通過したフランスの選手が見せた“曲芸打ち”にワールドテーブルテニス(WTT)も注目。「巧みなトリックを披露した」と動画を公開し、「第4日のベストポイント」に選出している。19日に行われたフランスとオーストラリアのGL最終戦、フランスが2連勝で迎えた第3試合の1ゲーム目開始直後だった。驚きの返球を見せたのはリリアン・バルデだ。対峙したニコラス・ラムがバック側へと放った強烈な一打に対し、バルデは背中の後ろに通したラケットで打ち返す“背面打ち”で応戦。見事に返すと、次の一打でスマッシュを決め、先制ポイントを奪った。 この試合がフランス代表デビューだったバルデは、このセットを9-11で落としたものの、フルセットの末、3-2(9-11、11-6、11-3、8-11、11-9)で勝利。フランスは4連勝でGL首位通過となった。WTT公式インスタグラムは「第4日のベストポイント」とキャプションを添えて“曲芸打ち”の動画を投稿。チェックマークの絵文字とともに、「フランス代表デビュー、最初のポイントを獲得、最初のポイントを背面打ちで獲得」と達成した事項を列挙した。 続けて「リリアン・バルデは巧みなトリックを披露して、この日のベストポイントを決めた」と記して称賛。海外ファンからは「これは彼がフランス代表のシャツを着て決めた最初のポイントだった。悪くないスタートだね」と代表デビューだったことを強調するコメントが寄せられた。
2024.02.22
信濃川改修工事 その3 35頁目五、三〇三間三尺五寸(二甲一六町三尺九寸)、分水と海面との高低の差三丈八尺八寸とあり、頗る精確を極めたるものである。翌天保十四年二月幕府は更に勘定役高橋平作、普請役有坂理十郎、近藤鉄平等を出張せしめ、分水路予定地の内検分をなさしめられた。そこで桑名藩柏崎代官山本勘三郎及び星清五郎、山田清作氏等は新発田藩に至って同藩奉行高山吉右衛門、三宅角之丞に会見して工費の分担を約して帰った。天保十五年九月幕府は復た勘定役岡田利喜次郎以下数人を遣わして検分せしめたが、遂に許可するに至らなかった。その後十有余年を経て安政二年十月五十嵐文六、河合勝之助、星清五郎、兼古長兵衛氏等は江戸に上り勘定奉行所に嘆願し、次いで万延二年同じく嘆願したが、終に許可を得る事が出来なかった。後慶応元年新発田藩領内名主田沢與左衛門、上田幸助をして出府嘆願せしめたが、幕府は勘定方菊名仙太夫、依田市左衛門等を遣わして信濃川中之口川を検分せしめ、先ず中之口川呑口狭窄工事 を許可するに至った。而して、一行は大河津をも検分して帰られた。然れども如何せん。この事業たるや本邦未曾有の大工事であって、莫大の工費を要し、かつ沿岸町村に種々の反対もあるので、幕府も容易に断行しかねたものである。要するに享保年間始めて分水工事の施行が出願されて以来、多くの星霜を期したが、天保十三年に漸く測量をなしおえたのみで、未だその実現を見るに至らなかった。当時有志の運動熾烈で、各藩主の意気込みも漸く壮んになって、分水の気運も熟し来らんとするに至ったが、不幸にして偶々幕府の末路内外多事のため、幕府もこれを顧みるの暇なく、遂に政権を奉還するに至り、加えて明治元年になっては北越の地もまた砲煙弾雨の巷と化し、かつ同年五月に信濃川未曾有の洪水があって、堤防の決壊するもの十有二ケ所、濁流氾濫して蒲原平野一面の泥海と化したけれども、兵馬倥偬(へいばこうそう:戦乱であわただしいさま)の折柄とて防禦復旧をなす事が出来なかったので、甚だ惨状を極むるに至ったが、兵火の鎮定をまって大河津分水の論議は復々勃然として起こるに至った。明治維新北越の戦塵も一掃し去って朝廷越後府を置かせられ、政漸く緒に就くことを得た。ここに水害の最も甚だしかりし新発田藩は率先して分水を唱導し、大参事窪田平兵衛、小参事富樫万吉をして高崎、與板、村松、峰山、三日市、村上の六藩に交渉せしめ、七藩連署にて大河津分水を越後府知事に建白した。同年九月越後府は府吏に命じて大河津、塩ノ入の両地の比較測量を行わしめた。翌二年正月前記七藩に長岡藩を加え 八藩連署して越後府に建白 した。尋(つい)で田沢氏は赤渋村五幣次郎吉を従え京都に上り、治河総督中御門大納言に嘆願して、総督より越後府知事への直書を得て急行帰国してこれを府知事に致した。ここにおいて分水の機運も漸く熟するに至った。超えて三月越後府はいよいよ分水事業を起工する事に決して、その上工事費は官費を以てする旨を各藩に令達した。ここに初めて関係町村の農民は祖先より数十年宿志の遂げられた事を一同雀躍して歓んだのであった。 越後府は直に寺泊町に事務所を設けてこれを信濃川分水役所と称し(後治河会議所と改称)、分水路開鑿の準備に着手した。これ実に明治二年五月十九日であった。 当時の掘割設計の大要 は左の通りである。 分水路 長四、九九七間三尺、十坪七六八、八七八坪五分三勺 この人夫四、六五一、五六〇人九丸分 一人賃金平均永百文宛この金四六、五一五両六貫九〇文 然るに同年九月十七日突如政府より分水事業延期の令達があった。関係町村農民はこれを聞いて落胆致し、人心もまた動揺せんとするに至った。けだし政府は王政復古日尚浅く経費多端の折柄であったから、その工費支弁に堪えあたわざるによったものである。 ここにおいて新発田藩は勿論地方有志は深くこれを憂えて、直に田沢與左衛門、大矢益之助、高橋健三、鷲尾忠吾の四氏を有志総代として
2024.02.21
青山士の語る「パナマ運河の話」 「ぱなま運河の話」の奥付には、昭和十四年五月二十日印刷とある。青山士が著者として唯一印刷・刊行した本で、パナマ運河にただ一人日本人として参加した記録としても歴史的にも貴重な資料である。本集資料編に「余禄」等を現代語表記で収録した。 この本には、「はしがき」と奥付の次ページに青山士自身の筆記が載っているものがある。
2024.02.21
信濃川改修工事 その2 34頁目五、三〇三間三尺五寸(二甲一六町三尺九寸)、分水と海面との高低の差三丈八尺八寸とあり、頗る精確を極めたるものである。翌天保十四年二月幕府は更に勘定役高橋平作、普請役有坂理十郎、近藤鉄平等を出張せしめ、分水路予定地の内検分をなさしめられた。そこで桑名藩柏崎代官山本勘三郎及び星清五郎、山田清作氏等は新発田藩に至って同藩奉行高山吉右衛門、三宅角之丞に会見して工費の分担を約して帰った。天保十五年九月幕府は復た勘定役岡田利喜次郎以下数人を遣わして検分せしめたが、遂に許可するに至らなかった。その後十有余年を経て安政二年十月五十嵐文六、河合勝之助、星清五郎、兼古長兵衛氏等は江戸に上り勘定奉行所に嘆願し、次いで万延二年同じく嘆願したが、終に許可を得る事が出来なかった。後慶応元年新発田藩領内名主田沢與左衛門、上田幸助をして出府嘆願せしめたが、幕府は勘定方菊名仙太夫、依田市左衛門等を遣わして信濃川中之口川を検分せしめ、先ず中之口川呑口狭窄工事 を許可するに至った。而して、一行は大河津をも検分して帰られた。然れども如何せん。この事業たるや本邦未曾有の大工事であって、莫大の工費を要し、かつ沿岸町村に種々の反対もあるので、幕府も容易に断行しかねたものである。要するに享保年間始めて分水工事の施行が出願されて以来、多くの星霜を期したが、天保十三年に漸く測量をなしおえたのみで、未だその実現を見るに至らなかった。当時有志の運動熾烈で、各藩主の意気込みも漸く壮んになって、分水の気運も熟し来らんとするに至ったが、不幸にして偶々幕府の末路内外多事のため、幕府もこれを顧みるの暇なく、遂に政権を奉還するに至り、加えて明治元年になっては北越の地もまた砲煙弾雨の巷と化し、かつ同年五月に信濃川未曾有の洪水があって、堤防の決壊するもの十有二ケ所、濁流氾濫して蒲原平野一面の泥海と化したけれども、兵馬倥偬(へいばこうそう:戦乱であわただしいさま)の折柄とて防禦復旧をなす事が出来なかったので、甚だ惨状を極むるに至ったが、兵火の鎮定をまって大河津分水の論議は復々勃然として起こるに至った。明治維新北越の戦塵も一掃し去って朝廷越後府を置かせられ、政漸く緒に就くことを得た。ここに水害の最も甚だしかりし新発田藩は率先して分水を唱導し、大参事窪田平兵衛、小参事富樫万吉をして高崎、與板、村松、峰山、三日市、村上の六藩に交渉せしめ、七藩連署にて大河津分水を越後府知事に建白した。同年九月越後府は府吏に命じて大河津、塩ノ入の両地の比較測量を行わしめた。翌二年正月前記七藩に長岡藩を加え 八藩連署して越後府に建白 した。尋(つい)で田沢氏は赤渋村五幣次郎吉を従え京都に上り、治河総督中御門大納言に嘆願して、総督より越後府知事への直書を得て急行帰国してこれを府知事に致した。ここにおいて分水の機運も漸く熟するに至った。超えて三月越後府はいよいよ分水事業を起工する事に決して、その上工事費は官費を以てする旨を各藩に令達した。ここに初めて関係町村の農民は祖先より数十年宿志の遂げられた事を一同雀躍して歓んだのであった。 越後府は直に寺泊町に事務所を設けてこれを信濃川分水役所と称し(後治河会議所と改称)、分水路開鑿の準備に着手した。これ実に明治二年五月十九日であった。 当時の掘割設計の大要 は左の通りである。 分水路 長四、九九七間三尺、十坪七六八、八七八坪五分三勺 この人夫四、六五一、五六〇人九丸分 一人賃金平均永百文宛この金四六、五一五両六貫九〇文 然るに同年九月十七日突如政府より分水事業延期の令達があった。関係町村農民はこれを聞いて落胆致し、人心もまた動揺せんとするに至った。けだし政府は王政復古日尚浅く経費多端の折柄であったから、その工費支弁に堪えあたわざるによったものである。 ここにおいて新発田藩は勿論地方有志は深くこれを憂えて、直に田沢與左衛門、大矢益之助、高橋健三、鷲尾忠吾の四氏を有志総代として
2024.02.21
信濃川改修工事 その1 33頁目 内務省新潟土木出張所長 青山士 信濃川改修事業は左岸新潟県三島郡六日市村より海に至る間の信濃川の改修工事であって、既往より数十年に亙って企画し、又は施行せられたものである。その目的は古来しばしば同川の沿岸を襲うた水害を除去するのを主眼とするものであって、その工事竣工の暁は長岡市より下流沿岸耕地湛水の害をも除き、かつ又灌漑の利をも増進して、以て国土の保全、住民の安泰と副利とを確立しようとすると同時に、新潟港をも改良してその繁栄を増さんとするものである。それがために爾来莫大なる国帑(国家の財産)と犠牲とを払ったので、その結果工事の大部分を竣工して当初の目的を達する事が出来たが、目下未だその事業の継続中である。 〇 沿革 古史を按ずるに、蒲原の地は一の入江であって、ここに信濃川は遠く信濃より、阿賀野川は遥かに岩代より、日夜土砂を流下する幾千年その沈殿により沃野を生成したものである。即ち蒲原の沃野は実にこの二大川の賜だというけれども、その水害もまた甚だしく、古来その治水に努力せしものは少なくなかったのである。徳川氏の治世に及びその政策として北越の地は諸侯の領土を錯綜せしむるのみならず所々に幕領を介在せしめ、彼我相対して以て一致せしめざらん事を計った結果、治水の実挙らず水害の惨状見るに堪えざるに至り、志士仁人の起って治河(ちこう)の大事に当り住民の安泰を計らんとするに至った。即ち享保年間に寺泊町の本間数右衛門、河合某の二氏大川津(後に大河津と改む)を開鑿して信濃川の水を寺泊海岸に排泄し以て水害を軽減せん事を幕府に出願したがその省みる所とならなかった。宝暦三年改めて石瀨支配所に出願したが、又許可を得る事が出来ないで、同七年数右衛門氏は遂に病死した。復た安永文政の間に頚城郡葛畑村の人、湯本太郎右衛門、上小野村の人三上猪之助、下小野村の人、片桐三郎右衛門の数氏は安永五年に、二代目数右衛門は天明六年に、天保、元治の間には蒲原郡福島村の庄屋田中新之丞、寺泊町大肝煎河合勝之助、同大庄屋本間媽平治氏等は天保三年に、又天保四年には蒲原郡貝喰新田外四十三箇村の村民は連所署して、桑名藩陣屋に大河津の開鑿を出願した。後桑名各領下新村庄屋本間徳左衛門、同川内村庄屋山田清作、柄沢村庄屋吉田久兵衛、新発田領大沼新田田名主吉原源太の数氏は天保九年に、桑名領野積村星清五郎、新発田領今井新田名主諸橋勝蔵、寺泊町大肝煎五十嵐文六、同町桑名用達河合勝之助、武州多摩郡中野村の人兼古長兵衛氏等は安政二年に、降って慶応元年には蒲原郡古川村名主田沢與右衛門、梅之木村名主上田幸助、中山村佐藤又市氏等また幕府に大河津の開鑿工事国役普請を出願した。 かくのごとく百数十年間数次の請願に対して幕府もしばしば吏を派してその水害地を検分せしめたが、遂に許可の運びに至らずして、世は明治に移った。今その概要を述ぶれば左のごとくである。 安政五年 幕府は普請役河野與十郎、西原幸八郎を遺わして検分せしめたが(湯本等の請願により)、許可するに至らなかった。 寛政二年 一月二代數右衛門氏の請願により暮将は野々山金一郎、早川平吉を遣わし検分せしめたが、掘割川筋二十ヶ村民の故障を申し立てたために、翌三年四月幕府は桑名落を経由して不許可の命を伝えた。 その後慕府は数度の請願に鑑みる所となって、天保十三年 八月分水鑿渠場所検分として勘定役直井倉之助、普請役佐藤友二郎、近藤鉄平等を派遣して川筋を検分せしめ、かつこれが測量をなさしめられた。一行はその年十月三日測量を終了して設計書を桑名藩の役員に渡して帰府致し た。その測量を見れば分水渠延長
2024.02.21
ホタテに含まれる栄養素はすごいほたての成分(可食部100g中)ホタテは、たんぱく質が豊富です。たんぱく質は筋肉や臓器などの主要な構成成分ですから、体作りに欠かせません。それだけでなく、たんぱく質は酵素やホルモンなどの材料となり、体の機能も調整しています。ホタテには、コレステロールも含まれます。コレステロールは、私たちの体において細胞を包む、細胞膜の主要な構成成分です。さらに各種ホルモンの原料となるなど、コレステロールは私たちの生命維持にも重要な役割を持っています。しかしコレステロールを摂りすぎると、心臓疾患や脳梗塞につながるおそれもあります。とくに血中コレステロールの数値が高い方は、コレステロールの摂りすぎには注意しましょう。ホタテにはタウリン(※)も豊富です。(※)タウリンとは、たんぱく質が分解される途中過程でできる、アミノ酸に似た物質のこと。タウリンは、血中のLDLコレステロールを減らす働きや高血圧の予防効果が期待できます。なおタウリンは私たちの体でも作られていますが、必要量には足りていないため、食品からも取り入れるのがオススメです。ホタテには、味覚障害を予防する亜鉛が含まれています。亜鉛は味覚を感じる「味蕾(みらい)細胞」を作る際に必要なミネラルのため、不足すると味を感じにくくなる可能性も。さらに亜鉛は、免疫反応や血糖値を下げる働きなどもあるため、不足すると全身にさまざまな症状が現れます。近年、食生活の乱れにより亜鉛不足になる人が増えているため、多品目の食品をバランスよく食べるよう心がけましょう。ホタテには、ビタミンB12が豊富です。ビタミンB12は、たんぱく質の合成やアミノ酸や脂肪酸の代謝に関与しています。またビタミンB12は正常な赤血球を作る際にも重要な働きをするため、不足すると造血作用がうまく働かず悪性貧血になる可能性もあるでしょう。ホタテには、貧血予防に効果的な葉酸も含まれています。葉酸はビタミンB群の1種で、赤血球の生産を助ける働きがあります。ホタテは100gあたり66kcalで、同じく刺身として食べることの多いマグロ(同量で102kcal)と比べると低カロリーです。ホタテの大きさにもよりますが、スーパーでよく見かけるサイズのホタテ1個は約30g、つまり20kcal程度となりますね。したがって、ホタテはカロリーを気にされる方でも安心して食べていただけるでしょう。基本的に、ホタテは体によい食材です。なぜなら、ホタテにはたんぱく質やタウリン*、ビタミンB12など、私たちの健康を維持するために重要な栄養素がたくさん含まれているからです。さらにホタテは低カロリーで高たんぱく質であるため、ダイエットを意識している方にとって嬉しい食材ともいえるでしょう。*タウリン(taurine NH2CH2CH2SO3H)についてアミノ酸の一種で、生物界、特に軟体動物のエキス中に遊離の状態で多量に存在します。現在解明されている主な生理作用は、1.血液中のコレステロールを減少させる2.血圧を下げる3.動脈硬化、心筋梗塞、脳梗塞の予防4.インスリン分泌促進、糖尿病の予防5.肝機能を改善、胆石を予防6.視力回復、視力低下の予防などがあります。また乳児はタウリンを自分で合成することが難しいため、母親の母乳の中には遊離アミノ酸としてのタウリンが多く含まれており、乳幼児の脳や目の網膜の発育に欠かせません。
2024.02.21
脳機能の低下を防ぐには「手書き」が有効だ手で書くメリットその1 集中力が増す文字を書くとき、文字そのものを思い出し、書くスペースを意識して指先に集中しながら1文字1文字を完成させる作業は、運動神経と連動しつつ、脳のさまざまな機能を働かせます。その2 自分の思考を言語化して脳が働く例えば日記を書いたりするとき。まず過去の記憶を振り返る作業を行いますね。記憶の引き出しを機能させ、何を書くか取捨選択が行われます。そこに自分の行動を言語化する作業が加わり、さらにはそのときの自身の思考や感情を言語化する変換作業が発生します。脳がフル稼働していることがわかるでしょう。その3 記憶力の維持・定着に効果的忘れた人の名前をメモするとき、文字を書く瞬間、脳は積極的に注意を向けようとします。💛職場で少し長い休みをはさんだりすると やらなければならない用件をポカリと忘れてしまうことがある。「ノートをとれ」とよく、前の上司が何度も何度も同じ注意を受ける女性に繰り返し繰り返しアドバイスしていたことを思い出して、昨年4月から、ノートにその日に行った業務と今後やらなければならないチェックリストを作るようになってから、ポカミスが少なくなった。ノートに時系列で整理し、自分が間違えた事例などを繰り返し読むと、おのずと間違えることは少なくなる。人への注意を我が身に置き換えて、アドバイスを実践してみると、なるほどとアドバイスの価値を発見することが多い。人のふり見て 我が身を直す(^^)
2024.02.20
ビタミンDはsuperビタミン 長谷川嘉哉医師1 骨の健康維持・ビタミンDはカルシウムの吸収を促進する。カルシウムは骨や歯の形成に不可欠なミネラルで、ビタミンDの摂取は骨の健康を維持するために非常に重要。2 免疫機能向上 ・ビタミンDは免疫細胞の活性化や炎症の抑制に関与する。ビタミンDが不足すると免疫機能の低下を引き起こし、感染症や自己免疫疾患のリスクを高める。3 心血管疾患予防 ・ビタミンDは心血管疾患の予防に効果がある。満尾クリニック院長満尾正医師が心臓病や脳卒中など、「動脈硬化」に起因する重大疾患に対してもビタミンDが重要な働きを示すことを解説・近年の研究により、動脈硬化に由来する病気を予防するうえで、ビタミンDは重要な働きを示していることが明らかになってきた。 60歳以上の高齢者137人を対象とした研究では、ビタミンDの血中濃度が「30未満」(単位は「ナノグラム/ミリリットル」。以下同)のグループが心不全になるリスクは「30以上」のグループの実に約12倍という高率である、という結果が出た。 一方、脳梗塞の初期段階で見られるラクナ梗塞(脳の末梢血管が詰まる病態)は、血中ビタミンD濃度が下がるほどリスクが高くなる、という研究結果も出ている。 このように、動脈硬化はビタミンDと非常に密接な関係を持っており、ビタミンDを積極的に摂取することが心臓病や脳卒中を未然に防ぐことにつながる。 動脈の壁は、外側から外膜、中膜、内膜の3層構造になっていて、中膜と内膜を合わせた厚さを「内中膜複合体厚(IМТ)」と呼びます。IМТは動脈硬化の進行度を判断する指標の1つで、頸動脈のIМТが1・1ミリを超えると動脈硬化と診断される。 117人の被験者を血中ビタミンD濃度が30以上の「適正群」、20〜29の「不足群」、20未満の「欠乏群」に分けて胸部大動脈のIМТとの関連性を調べた研究によると、ビタミンDの血中濃度が低いグループほどIМТ値が高い、つまり血管壁が厚くなっていることが分かった。 しかもこの研究では、血中ビタミンD濃度が低い群ほど、体内で炎症が起きているときに現れるCRPというタンパク質の値も高くなることが示されています。つまり、ビタミンDが少ない人の体内では、「血管壁の肥厚」と「炎症」という動脈硬化を促進する環境が複合的にそろっていることが分かった。 血管の病気の予防策というと、「コレステロールを下げればいい」と考えている人が少なくありません。しかし、コレステロールには細胞を作ったり、ビタミンDの原料になるなど重要な役割があります。むやみにコレステロールを下げるのは危険。 それよりも日光浴やサプリメントでビタミンDを十分に補充し、動脈硬化を予防するほうが、よほど合理的な対策と言えるのです。4 認知症予防 ・ビタミンDの摂取は認知症を予防する。英国のエクセター大学やカナダのカルガリー大学による別の研究では、ビタミンDの摂取は認知症の予防にも役立つ可能性が示された。 研究グループは、米国国立アルツハイマー病医療センターに登録された、平均年齢71歳の高齢者1万2,388人を対象に、10年間追跡して調査した。研究開始持には参加者はすべて認知症ではなかった。 その結果、ビタミンDを摂取していた高齢者は、認知症の診断が最大で40%少ないことが明らかになった。 ビタミンDの効果は、男性に比べて女性の方が大きく、またアルツハイマー型認知症のリスクと関連があることが知られているAPOEe4遺伝子をもっている人で大きかった。 「これまでの研究でも、ビタミンDの値が低い高齢者は、認知症のリスク高いことが示されています」と、同大学精神科のザヒノール イスマイル教授は述べている。 「ビタミンDは、アルツハイマー病の特徴のひとつである、脳内のアミロイドの除去に関与し、また認知症の発症に関与する別のタンパク質であるタウの蓄積から脳を保護するのに役立っている可能性が考えられます」としている。5 糖尿病発症低下 ・ビタミンDは血糖値を下げるインスリンの分泌や、糖代謝などでも多くの役割をするようである。糖尿病は、すい臓から分泌されるインスリンの働きが低下することから起こる。そのインスリンの分泌をうながすシグナルを送る役割をするのが、カルシウム。カルシウムが不足すると、インスリンが正常に分泌されなくなり、血液中のブドウ糖がうまくエネルギーに変換されない。すると、血液中にブドウ糖があふれて血糖値が高くなり、その状態が慢性化すると糖尿病を発症する。このことから、糖尿病の対策の一つとして、カルシウムを多くとることが大切とされている。ところが、最近の厚生労働省研究班による調査からカルシウムだけでは効果は少なく、一緒にビタミンDを多くとることで効果が高まることが判明した6 脳内伝達物質バランス調整 ・ビタミンDの不足はうつ病のリスクが増加する。高齢者施設入所者98%不足 最近のlifestyle 紫外線照射機会が減り ビタミンD不足 骨粗鬆症虞の人は医師処方で服用が望ましい
2024.02.20
「二宮翁逸話」留岡幸助著 より 55 大学の料理翁が浦賀の人宮原瀛洲(ゑいしう)外数人にあてて送った手紙は随分長文であるが、その追って書きがなかなか面白い。その意味は大学は店晒(たなざら)しで人々が読まない。また大学そのものは骨も大きく肉もたくさんであるから世人がこれを咀嚼するのによほど困るのであるから、余は世の人々がこれを咀嚼しうるようにしてやるといって大学の奥深い意義を31文字にして読まれたものがすなわち左に掲げる歌である。歌を紹介する前にその歌についておる書簡の一部を示そう。 追って申し上げ候近代世上一統華美柔弱にあい流れ、古人の金言などのかたき物をよくかみしめ深く味わうものすくなし。その元を案ずるに今眼前その表前後の海底より釣りいだし候大魚はもちろん小魚といえども、切り刻み煮炊きいたし候て日用食物人命の助けともない成るべく候。いわんや千載の昔し、異国より来たり候大学論語などは天下国家を治むるの大徳備わりおり候えども肉も多く、身も多し。定めて大いなる骨もこれあるべく候につきなかなかもって諸人もてはやすのみにして、丸呑みにはあいなりなね、年久しく店ざらし同様にあいなり候古もの、一両句見つけこけをふき、皮をはぎ、筋も骨もとり、平生日用に人々あい用い候ひらがなにて賤の女(しずのめ)賤の男(しずのお)が「臼挽き歌」同様、あるいは老人または子供らにも呑みこみしやすくしたて、お試しのため少々差し遣わし申し候につき御賞味くださるべく候。その外神儒仏の三昧(さんまい)、悟道、即席料理などもこれまた数年天地の間に借地仕り人様の厚き御世話を蒙り渡世つかまつり候間、右報徳のためお望み次第案外お安く差し上げ申すべく候につき、早々御越し御求め御施しくだされ候わば御地三崎辺この節不漁のよし窮民の一助にもあいなるべく候。以上別紙明徳を明らかにするに在り 豊(とよ)あしのふか野が原を田となして 米を作りてくらふ楽しさ民を親(あらた)にするに在り 田を開き米を作りて施せば 命あるもの皆ふくすらん至善に止まるに在り 田を作り食を求めて譲りなば いく代(よ)ふるともこれに止まる学んで時にこれを習う、またよろこばしからずや。朋友遠方より来たる有りまた楽しからずや 蒔きうえて時々に草刈り耕せば しだいしだいにたのしかるらん人知らずしていからず。また君子ならずや 姿こそ深山がくれに苔むせど 谷うち越えて見ゆる桜木至誠の道はもって前知すべし。 国家まさに興らんとすれば、必ず禎祥あり。シ亀に見(あらわ)れ、四体に動く。故に至誠は神のごとし。 北山は冬気にとじて雪降れど ほころびにけり前の川柳湯(とう)の盤の銘にいわく。まことに日に新たに日に日に新たなり。また日に新たなり。 いにしえの白きをおもひ洗濯の かへすがえすも返す返すもふるきをたずねて新しきを知る ふる道に積もる木の葉をかきわけて 天照神の足跡を見ん色は空に異ならず。空は色に異ならず。色即是空。空即是色。相行識を受け、またまたかくのごとし。 春は花秋は紅葉と夢うつつ 寝ても覚めてもあり明けの月天何をか言わん。四時行わる。百物生ずる。天何をか言わん。 音もなく臭(か)もなく常に天地(あめつち)は 書かざる経をくり返しつつ正直は一旦の依怙(えこ)にあらずといえども,終(つい)には日月の憐れみを蒙る 丹誠は誰しらずともおのずから 秋の実りのまさるかずかず赤子を保つがごとく心誠にこれを求むれば。中らずといえども遠からず。未だ子を養うことを學んで后嫁する者有らざるなり 己が子を恵む心を法(のり)とせば 学ばずとても道に至らんとにかく翁の胃の腑は恐ろしい消化力で、孔子であれ、釈迦であれ、翁の胃袋のうちに入るとことごとく消化して出るのである。学問を丸のみにする学者とは同日に論ぜられない。
2024.02.20
二宮先生語録【361】ショウ子一元を以て天地一終の数と為す。余嘗て経書を大石に刻し諸天地一終の後に遺んと欲す。今熟々之を思ふに、是れ益無き也。大石形を存せば、則ち天地混沌せざる也。大地巌石融散、悉く泥水と為り、而る後天地再造の功を期す。之を鍋釜を改鋳するに譬ふ。踏鞴以て沸湯と為り、而る後鍋釜改鋳の功を期す。古鍋形を存せば、則ち新鍋成らず。豈止だ鍋釜のみならんや。人も亦然り。男女踏鞴、以て之を鋳る。豈止だ人のみならんや。天地も亦然り。陰陽踏鞴、以て之を鋳る。鍋也、人也、天地也。其の理一也。(訳)●子(しょうし)は「一元」をもって天地が一度終りになる時期とした。私は昔、経書を大石に刻んで天地一回の終りの後まで遺(のこ)そうと考えたことがある。今つらつらと考えてみると、これはむだなことで、大石が形を存するくらいならば、天地はまだ混沌にならないのだ。大地も岩石も融け散って、ことごとくドロ水のようになり、それから始めて天地再造が行われることになる。これを鍋や釜を鋳直すのに譬えれば、ふいごで熱湯のようになってから、初めて鍋や釜を鋳直す段取りになる。古い鍋が形をとどめていては、新らしい鍋ができあがらない。鍋や釜ばかりのことではない。人間も同様で、男女のふいごでこれを鋳るわけだ。人間だけではない、天地も同様であって、陰陽をふいごとしてこれを鋳るのだ。鍋でも、人間でも、天地でも、その道理は一つである。
2024.02.20
宮原屋瀛洲(えいしゅう)は神奈川県浦賀(横須賀市内)の回船問屋である宮原屋の隠居で、大磯の川崎屋孫右衛門との縁戚関係から尊徳先生の指導を受けるようになった。尊徳先生の信頼も厚く、報徳仲間の江戸における先生への取次ぎなどもしており、宮原一族にあてた尊徳先生の「大学料理の書簡」は有名である。「報徳叢書」から少し原文を読みやすくして載せてみる。《年譜》天保12年<尊徳先生55歳>10月14日川崎屋孫右衛門、宮原屋清兵衛の弟瀛洲が来て、大学料理の書簡を与える。「わざわざ飛脚を以て御紙翰成し下され、貴命のごとく甚だ寒さのみぎり、各々様ご道中(どうちゆう)お滞り無くご帰宅成され、殊にご一統お揃ひ、ご精励成され、珍重斜めならず存じ奉り候。随つて当方陣屋内、詰合の面々、無異(ぶい)繁勤救助の道相励み罷り在り候條、ご安意下さるべく候。然らば去る天保7申(さる)大荒凶飢饉につき、大磯宿打壊しのみぎり、川崎氏家政取り直し趣法歎願につき、ご親類中御越成され、それより追々ご懇意に罷り成り候ところ、当年の儀はお国元大人(たいじん)初めご一同遠路のところ、よくぞやお越し下され候えども、当国の儀は、昔 西(最)明寺時頼公の巡国記にも、日本一下野国(しもつけのくに)は土地人気至ってあしく、その内寒川郡、芳賀郡の儀は別段の由(よし)、お書き置かれ候極難(ごくなん)の土地、然る処、連々人少(じんせう)困窮致し、退転亡所同様罷り成り候知行所(ちぎやうしよ)村々、ご承知の通り金一朱二朱の銭売買これ無く、豆腐などは一里余りも参らず候はでは求め難き程の辺鄙につき、珍味珍食、あるいは珍事珍言等一切ござ無く、長々ご逗留中、思ひながらおそまつ仕り、嘸々(さぞ)ご不自由とお察し申し暮らし候。そもそも趣法の根元は、まづ荒地一反歩切り開き作り立て、その実法(みのり)を残らず食ひ恩沢に報いざる時は、百歳といへどもその他に及ぼす事あたはず。之によつて右一反歩作り立て、その実法の半ばを食ひ、その半ばを譲る時は、別帳雛形の通り、その開発田反別算勘(さんかん)も及びがたく候、もっとも古語にも、一家譲り有れば、一国譲りをおこすとかや。その徳沢を以て、年々繰り返し、あるいは神社堂寺なども修復致し、人情を励まし、あるいは用水、悪水井(いど)溝等を修復致し、水旱の憂ひを去り、あるいは道を築き、橋をかけ、牛馬の通路を弁じ、あるいは家宅を修復致し、人民の居住を安んじ、あるいは夫食(ぶじき)種穀をあたへて、窮民の渡世を補ひ、あるいは鍬鎌農具を与へて、勤業を励ませ、およそ十有余年を経て、荒地あらまし開け、村柄古(いにしへ)に立ち戻り、収納初年に倍し候辛苦艱難を以て、つらつら古を案ずるに、幾千年歳の昔、神代より天祖天孫代々のご丹誠を以て、豊葦原の瑞穂の国を、安国と平らげたまいしより、この道盛んなる時は富み豊かなり。この道怠る時は窮す。諸人平生日用に相営みおり候へども、その理にくらし。然りと雖も銘々よく耕し耘(くさぎ)る時は、その実法多く、そ作成る時は実法眼前にすくなし。是れ皆有用の財宝は、土地と民力との二つよりして国家を潤沢するもの也。以て土地の貴きゆゑんを知るべし。本来異国は異国の財宝を以て興き、我が朝はわが朝の徳沢を以てかくのごとく開け、有り難しと申すも恐れ多し。然らば昔のご丹誠を知る事は、今の艱難を以て知らずんばあるべからず。今の艱難を知って、よく永く耕し怠らずんば、荒地はあれ地の力をもつて、荒蕪の広狭にかかはらず、遂に自然と起き返り申すべく候。借財は借財の費えを以て返済致し候はば、多少にかかはらず無借に相成り申すべく候。およそ大意は荒地を引き受け、発田に引かへ、借財を引き請け、無借に引き換へ、人糞馬糞、そうじて不浄を引き請け清浄に換へ、人の憂ひを引き請け幸ひ替へ、家別(かべつ)戸毎(こごと)に営み候同様の事なり。その外富の弊は驕奢(けうしや)、是を改めずんば子孫困窮の本、貧の弊は怠惰是を改めずんば子孫滅亡の本也。願はくば富者の驕奢を省き、その貨財を以て貧者を救ひ、貧者の怠惰を励まし、有陰(ゆういん)を以て家業致させ候はば、自然と財宝生じ、国富豊かに相成り申すべく候。第一瓜の種を蒔けば瓜生じ、又茄子(なす)の種をまけばなす生じ、なる実法る世の中にして、因果因縁の熟する事、是皆然り。銘々奪つて益なく、譲つて益ある農業の道、平生日用取り扱い候かどかど、お噺し申し候ところさすが富貴兼備の非俗、渡世の名人、華美風流驕奢の棟梁、並びに生駒氏、橋本氏、その外ご一同いちいちご感心成され、ご帰着の上、微細にご伝声下され候ところ、宮原家初めご親類中、一統その外承諾致され、追々驕奢を省き、窮民潤助の趣法お取行ひ成されたき趣き、仰せ越され候へども、その御地の儀は、大都通船のみなとにして、金銀財宝の融通は申すに及ばず、諸国名産、珍物出入り、幸ひの地ゆゑ、人々衣服飲食等に至るまで、美を尽し、善を尽し、風儀三都に等しき由、かねがね承りおり候。然しながら何程上国に候とも、恩沢を報ゆるお心なければ、有るが上にも願ひ求めて不足起り、自然と借財生じ、終に困窮致し候様成り行き候へば、下国にひとし。あるいは美食ありといへども、恩沢を報ゆるお心なければ、遂に自然と不足生じて、有るが上にも願ひ求むる様に成り行き候へば、辺鄙(へんぴ)のそ食に等し。あるいは美服有りと雖も、恩沢を報ゆるお心なければ、是又終に自然と不足生じて、有るが上にも願ひ求むる様に成り行き候へば、貧者のそ服に等し。あるいは衣食住の外、風流華美の品々満備すといへども、恩沢を報ずるお心なければ、終に自然と不足の心起り、有るがうへにも異国の名産等を願ひ求むる、野鄙の心生じ候とは、やはり下国に生れし同様に陥り申すべく候。仮令(たとひ)智仁勇の三徳を得るといへども、父母祖先の恩沢を報ずるお心なければ、是又自然と不足の心起り、遊芸などを願ひ求むる様成り行き、詰り傾城(けいせい)遊女、夜発盲人等に等し、前条の通り有るが上にも願ひ求むるときは、人々貴賎尊卑の違ひは之有り候へども、その幾倍に及んでは、夏殷(かいん)の勢ひも亡びたり。仏にいわゆる貪瞋癡(とんじんち)の三毒又是也。聖語に過ぎたるは猶及ばざるがごとしとは、かくのごときか。よくよくこの理りを以て恩沢に報い奉りなば、この上も無きの土地なり。御地と当国とは、全く天地の相違、然りといへども天は地を覆ひ、地は天を戴き、而して天地相和する時は万物生ず。男は女を愛し、女は男を敬し、而して男女相和する時は子孫生ず。富は貧を救ひ、貧は富を親しみ、恩を謝し、而して貧富相和する時は、財宝生ず。是皆天地の然らしむるところ也。さてそのもの啓三郎殿儀、川崎氏家政取り直し趣法歎願のみぎり、ご親類一同、小田原表までお越し成され、ご内願之有り趣申し聞けられ候儀は、前々より浦賀表出店の取締りと為て、年々勤番渡世致し来り候家法、然るところ、風(ふ)と心得違にて、家法を穢(けが)し、不埒(ふらち)につき慎み中の身分、いかが相心得候て然るべきやとお尋ねに預り、驚き入り、よくよく勘考仕り見候ところ、右より困窮艱難、無禄の子孫に生れ候ものとても、家名相続の儀は人々相営み申し候ところ、かたじけなくも大家相続の子孫に生れ候ご身分なれば孝養の儀は申すに及ばず、家法守護の儀については、たとへ粉骨砕身するとも、きっとご勤仕成るべき筈のところ、遊楽驕奢に流れ、祖先のご丹誠忘却致され、規則を乱し候段、言語に絶し申し候。然りと雖も、過てば則ち改むるに憚ることなかれとの聖語に基き早々お改め成され候て然るべきやの旨申し談じ候ところ、猶又取計ひ方お尋ねにつき、前段の不埒については、何程厳重御慎み成され候ても、その罪のがれ難きところ、却つて過ちの先まで出格のご慈愛を以て、年々金五十両宛小遣ひお贈り遣はされ候段、我らにおいても実に感涙を絞り候儀、速やかに浮世の雲、迷ひの夢を覚し、日月の明鏡を拝し給はば、父母祖先の大恩身心骨肉に徹し申すべき候間、よくよくご勘通之有りたき候。然るところ、是を飲み、安く食ひ、暖かに着、空しく歳月を費やし、安逸成され候儀は、何のゆゑぞや。譬へば赤子の懐中に抱かれ、乳味を費し、母の胸をうつがごとくなるべし。今壮年のお身分に候へば、いかやうとも節倹を尽し、ご慈愛金の内十両お残り成され候はば、十両だけのご孝心、二十両お残り成され候はば、二十両だけのご孝心、もしまた何ぞ家業を相営み、口腹を養ひ、残らず御差出成され候はば、その孝心に基き、御出金だけ趣法金助成仕る旨、誓約仕り置き候ところ、天なるかな、時なるかな、昨子年(ねどし)二十五両、当丑年二十五両お残し成され候、ご改心の印を以て、川崎氏勘気宥免のほど相願ひくれ候やう、厚く内談ござ候につき、ご逗留中歎願に及び候ところ、祖先の感動にも候か、追々改心致され候潔き所行をお汲み取り、早速歎願の通りお聞き済み下され、当人儀はいよいよ本心に立ち戻り候まで申し諭しくれ候やう、野拙(やせつ)方へお任せ下され、対面まで相整ひ、一同喜悦斜めならず候。右報徳のため、ご慈愛金残らず御差出成され、ご示談の通り、趣法金五十両、年々助成仕り、都合百両宛、元入金の積りを以て、六十ヶ年趣法組立て見候ところ、別帳の通り、およそ金二十六万五千八百八十九両余り、無利五ヶ年賦(ねんぷ)に借用致し、相助かり候者之有り、其の余積年の儀は、押して算勘下さるべく候。前にも申し候通り、不浄のこらしを以て、清浄の米を作り出たるがごとし。是すなはち宮原家の凶事変じて、窮民の潤助と成り、窮民潤沢して貧富相和して親しき時は、吉是より大いなるはなし。然らば不孝変化して至孝となり、万代不朽万々歳の大幸と申し納め候以上。 (天保十二年)十二月十五日 桜町 二宮金次郎浦賀 宮原治兵衛様 同瀛洲様 橋本与三衛門様追つて申し展(の)べ候。近代世上一統華美柔弱に相流れ、古人の金言などのかたき物を、よくかみしめ、深く味わふもの鮮(すくな)し。つらつら根元を案ずるに、今眼前その表前後の海底より釣り出し候大魚は勿論、小魚といへども、切りきざみ、煮焼き致し候てこそ、日用食物、人命の助けとも相成り申すべく候。況や千歳の昔、異国より来り候大学論語などは、天下国家を治めるの大徳備はわり居り候へば、肉も多く、身も多く、定めて大ひなる骨も之有るべく候につき、なかなか以て諸人もてはやすのみにて、丸呑みには相成り兼ね、年久しく店ざらし同様相成り居り候古もの、一両句見つけ、こけをふき、皮をはぎ、筋も骨もとり、平生日用に人々相用ひ候平かなにて、賎女(しづのめ)、賎男(しづのを)が、うす挽きうた同様あるいは老人、又は女小児(をんなこども)にも呑み込み、食ひ安く仕立て、御試しの為少々差進じ申し候につきご賞味下さるべく候、その外神儒仏の三味悟道即席ご料理なども、是又数年天地の間に借地仕り、人様の厚きお世話を蒙り、渡世仕り居り候間、右報徳の為めお望み次第、案外お安く差上げ申すべく候につき、早々お越しお求め、お施し下され候はば、御地三崎辺り、この節不漁の由、窮民の一助にも相成り申すべく候以上尚々寒威甚しく、折角お厭いなさるべく、隔通にて申し展ぶべきのところ、取り込み故、略儀の段ご用捨下さるべく候以上明徳ヲ明ニスルニ在リ。豊あしのふか野が原を田となして、食をもとめてくろう楽しさ。民ニ親ムニ在リ。田をひらき米を作りてほどこせば、いのちあるものみなふくすらん。至善ニ止ルニ在リ。田を作り食を求めて譲りなば、いくよへるともこれに止まる。学ンデ時ニ之ヲ習フ、亦悦バシカラズヤ、朋有リ遠方自リ来ル、亦楽シカラズヤ。蒔(まき)うゑて時々に芸(くさぎ)りたがやせば、しだいしだいに楽しかるらむ。人知ラズシテ慍ラズ、亦君子ナラズヤ。姿こそ深山かくれに苔むせど、たにうちこゑて見ゆるさくら木。至誠之道、以テ前知スベシ、国家将に興ラントスルヤ、必ズ禎祥有リ、蓍龜(しき)ニ見ハレ、四体ニ動ク、故ニ至誠神ノ如シ。北やまは冬気にとじて雪ふれど、ほころびにけり前の川柳(かはやぎ)。湯之盤ノ銘ニ曰ク、苟(まこと)ニ日ニ新ニシテ、日々ニ新ニ、又日ニ新ナリ。いにしへのしろきヲ思ひ洗濯の、かへすがへすもかへすがへすも。故(ふる)キヲ温(たづ)ネテ新シキヲ知ル。故道(ふるみち)に積る木の葉をかきわけて、天照神の足跡を見ん。色(しき)ハ空(くう)ニ異ナラズ、空ハ色ニ異ナラズ、色即チ是レ空、空即チ是レ色、受想行識、亦復是ノ如シ。春は花秋は紅葉と夢うつつ、ねてもさめてもあり明の月天何ヲカ言ハンヤ、四時行(めぐり)、百物生(な)ル、天何ヲカ言ハンヤ。声(おと)もなく臭(か)もなく常に天地(あめつち)は、書かざるけふ(経)を繰りかへしつつ。正直ハ一旦ノ依怙(えこ)ニ非ズト雖モ、終ニ日月ノ憐ヲ蒙ル。丹誠はだれしらずともおのづから、秋の実法(みのり)のまさるかずかず。赤子ヲ保スルガ如ク、心誠ニ之ヲ求ムレバ、中(あた)ラズト雖モ遠カラズ、未ダ子ヲ養フコトヲ学ンデ后ニ嫁グ者アラザル也。をのが子を恵む心を法(の)りとせば、学ばずとても道にいたらん。一 その表各ご一統、旧弊をお改め成され、窮民撫育の趣法御取行ひ成され候については、ご綿服ご着用と存じつき、差上げ申したく、ご逗留中相調へ置き候ところ、何分驕奢の残気相退きかね、余儀無く延引仕り置き候へども、ご出立後憤発致し、当所の産真岡(まうか)木綿五反差進じ申し候ところ、早速お用い下され、本懐の至りにござ候。右晒(さら)し木綿ご着用成され候はば、ご入用次第又又差遣し申すべく候。さて又御地名産の?(はしり)鰡(ぼら)沢山、ご老母様初め、ご一同よりご送恵下され、一方ならずご深志千万忝く賞翫、尚それぞれへも差遣し、一同大悦仕り候。然しながらご誠心に甘へ、このまま相流れ候ては詰り驕奢に陥り申すべく候につき、以来の儀は堅くお断り置き申し候一 色紙短冊、この辺り所々相尋ね申し候へども相整ひ兼ね、有り合せいろいろ取交ぜ相認(したた)め差遣わし申し候間、見苦しき段ご免下さるべく候一 ご逗留中お噂ござ候お国元ご詩作、頂戴仕りたく候間、お序にお恵み下さるべく候以上十二月十五日 二宮金次郎宮原治兵衛様 宮原瀛洲様 橋本与三左衛門様江戸後期の人々にとって、武士に限らず、「大学」「中庸」「論語」は基礎的な知識であった。たとえば「明徳ヲ明ニスルニ在リ」は「大学」の最初の文句だということが共通の認識であった。二宮尊徳関連の基本的文書を読み進めるには、そうした本の読解が不可欠な面がある。いつでもどこでも誰でも「報徳」の基本的文書にアクセスし、それぞれが自ら考え、実践する一助ともなれば幸いである。
2024.02.20
新聞記事文庫 農村(5-085) 抜粋大阪時事新報 1923.2.22-1923.3.10(大正12) 読みやすくした。(5) 全村民が残らず株を持つ伊予国余土村の産業組合の組織 信用、購買、販売、産業の四部に分れその産業部が耕作地管理をして居る伊予絣と道後の温泉で有名な四国松山市の西南一里の所に余土村というのがある、松山からマッチ箱ソックリの軽便鉄道でなら二十分足らずで余土駅というのに着く、その村こそ産業組合が耕作地管理を始めた興味ある歴史を有する農村である。この余土村は市坪、保免、余戸の三大字から成り、人口は四百八十七戸二千八百七十人、坦々たる平原の只中に居ずまい正しく整理されたる耕地総て三百六十二町歩、其内百四十二町歩の小作田が同村産業組合の管理する所で、残る所二十町歩の小作田も今年中には組合に加入する筈で、残部は自作田である。現在のこの組合の組織と事業との大体を一瞥しよう(略) (7) 盲目の村長が十数年間小作人と地主の間に立って協調 漸くにして葛ち得たのが此組合である 今は小作人も地主も利益を受けている余土村産業組合の小作地管理法は小作人に如何程の利益を与えたかそれは耕地調査委員が制定した定米が規定外の小作料よりもやや軽減されている事実である、(略)余土村の組合が事業の真の使命は小作料減額よりも地主小作者相互が善良な理解の下に制定小作料に異議を挿まず、円満理に耕地の大部を挙げて組合に委託した事であると誇っているように、協調精神に可成りの成功さで、地主小作人相互から発揮されている、小作人は最早安んじて耕する事が出来地主も亦不公平な小作料で弱い小作人を虐ぐる謗りを免れて、農村での安穏な地位を保ち得るのである、(略)(8) 先帝を広島に奉迎した夜忽然として両眼とも明を失った それからは専念に村の為に働き出して遂に積極的小作保護策を樹てた盲村長余土村の組合を築き上げた盲目の前村長森恒太郎氏は、今は余土村を離れて道後温泉湯の町に八重垣楼と云う旅館を営み、月々の大半は各地より招聘さるるままに農村問題の講演に失明の不自由な旅をしている氏は盲天外と号し余土村では今でも「盲天さん」と云えば感謝の深情を篭めて尊敬されている、この盲天さんに私が八重垣楼で逢った時にはその漆黒の髪と血色の美しさに、先ず六十の老人と云う事を忘れさせられて、開かれてはいるが見る事の出来ぬ両眼をあらぬ方に向けながら、盲天さんが聞く者を感激させねば止まぬ熱心さで語り出した余土村の歴史は次の如くである。==明治三十三年と云えばもう二年半も前の事だ、耕地の狭少に似ず人口が極めて網密している四国には、既にその頃から地主・小作人間の軋轢がグングンと根を張っていた、あたかもその年村税調査が行われたのを機会に、わが盲天さんは、今の産業組合の小作地管理を夢想し、その手始めとして小作保護の事業に着手したのであった、其頃既に盲天さんの両眼は視力を失っていた==明治二十七年九月十五日の夜日清戦役の為大本営が広島に移され、その奉迎に赴いた夜、盲天さんに云わせれば「この一夜の旅寝から覚めた時既に私の両眼は物を見る事をしなくなった、爾後三十年、私の生涯の半分は暗黒の中を通って来た」との事であるが、三十の男盛りの盲天さんが何故忽然として失明したかは、当時可成り奔放な生活に浸り、祖先伝来の三十町歩の土地を殆ど凡て蕩尽した此の人の生活から判断が出来よう==盲天さんは盲になった、しかし人一倍元気なこの村長さんは眼が見えなくなると同時に、専念に村の為に働き出したのである、実際その時分の小作人は農業ではとても算盤が取れなかった、明治九年地租改正前迄は地主小作は団結して藩主や政府に対抗して来たのであったが、時代は遂に地主と小作人とを提携団結の関係から引離して、階級闘争の黎明期に進ましていた、肥料は高い、借金は殖える、一方小作人が四苦八苦で生産した米は不良にならざるを得ない、産米が悪くなれば小作も困れば地主も収入減で立って行けぬ、地主は権利を主張する、小作人は団結してそれに対抗する、小作争議が自然の結果のなる、小作人は契約を履行しなくなる粗製米を平気で作って不労所得を狙うようになる、思惑悪化が第二次的結果となる、盲天さんはこれではいけぬと考えた、先祖代々村の庄屋さんだった家柄から田地は失くしても、村長さんであった彼は、ここで奮起して精力的な小作保護策を樹てようとしたのであった。(9) ボロ著物の胸にヅダ袋をかけ七年間地主を戸別訪問して遊説 狂人と嘲り盗人と罵られ果ては村民に税金不納の決議までされた尊い試練期盲目の村長森天外さんが、積極的に小作保護を企てた動機は「人類共存の原理」から出発した協調主義であった「幸福を共に享けよう」天外さんは此の観念から、小作保護の事業として一、肥料耕牛等の購入資金貸与二、耕作地近くに移転せんとする者には移転費用の貸与三、害虫駆除費の支出四、天災其他不幸の場合の救済の四項目を上げ所要の資金調達は地主の実務であるという出張から、小作料中一反当り一升宛を地主から拠出せしめ、十年間積立ててその資金に充てようというのであった、拠出額は当時で年に百俵二千五十六円に達したのであったが地主側でこの旨村長の志しに強硬に反対するものが続出し、遂に正面攻撃から次第に盲天さんの人格その趣旨等に対してあらゆる誹謗をさえも試みるようになった、盲天さんは眼の見えぬを結局仕合せにしてそうした悪罵軽侮を外吹く風と聞き流し、来る日も来る日もお役所の小使に手を引かれ胸にヅダ袋を掛けて、堪念に反対地主の戸別訪問に出かけたのだが、この盲天さんの熱心な勧誘にも拘らず反当り一升の闇金を頑として応ぜぬ地主十四人のある者は彼を狂人と嘲り、盗人と罵り、又は彼は村蔵の貯金を横領せんとするものだなどと流言し、遂には連盟して税金不納を決議し、更に村長辞任を勧告するなど甚だ穏かならぬ形勢になった、実際其頃の盲天さんが継ぎはぎの綿服の胸に、ズダ袋をさげた姿は四国遍路の乞食巡礼宛らであったが、盲天さんは当時を回顧してこういっている「これは私の不徳の為だとは思ったが、かくほどまでに熱心に努力しつつその報が更にないのを感じてはいかに神仏を呪い罵ろうとした事であったでしょう、けれど明治三十三年に開始し四十年に中止するまで初一念一徹に敢行した結果は漸次村の青年達の理解を深くし、地主側からも徐々に賛成者を増すようになったのです、先の呪いが油然たる感謝の念に変り始めた時、今日まで一切が神仏の尊い試練であった事を悟ったのです」と、だがその間にも亦盲天さんを歓喜感奮せしめた挿話がないではなかった、明治三十六年秋のある日の事であった、盲天さんの宅へ二人の小作人代表が訪れて来た、そして村長さんが計画している小作保護資金を地主側ばかりから出させずに私達小作人も反当り麦一升を毎年拠出したいと申し出た、盲天さんはこうした小作人の自らを救わんとする健気な志を聴いて見えぬ両眼に涙さえ浮べた、だが急に気を取り直して二人の代表者に大声で一喝を喰らわせたのであった(10) 此上小作保護を続けては小作人を侮辱する事になるとて 地主側から更に良い方法をと申し出 茲に於いて耕地の組合管理開始を決心盲天さんは二人の小作代表に云った「君らの心掛けは殊勝に見えるだが、その前に私に君達の誠意を見せてくれ、もっといい米を作り、そして地主との契約を充分に履行した後でなければ君達の真意を信じる事は出来ぬ」……盲天さんは小作人が動もすれば不良米を作って農村全体を疲弊させる事から近来彼等の思想が漸次悪化しつつある事など□涙共に下るの熱誠さで責めかつ諭した、小作代表二人もまた声を挙げて泣いた、彼らは日頃尊敬する村長が盲目の不自由をも事とせず村の為に努力し、しかも極端な苦境に陥りつつあるのを見兼ねてそれを救わん為に三日三晩談合してこの申出をなしたのであった…盲天さんのこの言葉に動かされた小作人達は次の三十六年から専念に産米改良に努力し、その年の収穫は空前の良成績を挙げる事になった、越えて三十七年十二月くらい目の組合長森弥三郎氏の亡父が、千円の現金を提げて盲天さんを訪れて来た、そしてこれを小作保護事業資金に加えて呉れと申込んだ、かくて相当の基金が出来たのでいよいよ明治三十七年から小作保護事業を実施する事となった、小作人はいずれも喜んで勤労した、勤労は必ず良田良米となって報いられた、米の発育良好は更に小作人を刺激して一層農事改良に出精せしめ、遂に今日全国で模範的な農事改良を完成する事が出来た、「起業利得は最後の一歩で非常な利殖を生だ」盲天さんはこの事実を確実に体得したといっている、小作人は有福になった、大抵は家に下女下男を置く身分にさえなった、やがて余土村の組合が産声を上げようという明治四十年が来た、当時余土村の耕作地は毎年持続的に三斗内外の増収を見ていた時であった、四十年のある日地主の森弥五郎氏他一人が盲天さんの門をたたいた、そして「今日では平均反当り二斗の小作料増加を見ている、全村の利益も年額四十万円増加した訳である、既にかくなった以上小作保護事業を継続する事は小作人を侮辱する事になる、何か更に良い方法で村全体の福利を図る事は出来なかろうか」との相談であった、盲天さんはこの地主側の発奮に動かされて、遂に多年夢想していた耕地の組合管理を開始する決心をした、盲天さんはそこで小作地組合管理着手の第一歩として全村民が共済精神による資金融通機関として産業組合を計画し、次いで協同精神を訓練するために共同耕作を開始して小作費用を軽減し、苗代田植の共同作業から遂に耕地整理の大事業迄も敢行し同時にこれら一切の協同事業を委員制度で行う事にし、明治四十一年正式の産業組合を成立せしめると共に、地主森ぬい外一名の所有地十六町歩を組合で管理する事となったのである(11) 小作人が自作になる様資金貸与の方法を講じて居る 私は所有地が無くなってもいい位に思って居ると今の森組合長は語った余土村の小作地管理が大々的に経営され始めたのは実は漸く昨年からの事である、それまでに僅に前記の女地主二名の小作地十六町歩に過ぎなかったのであったが、大正十年は平年作反三石が二石六斗に減じた不作だったので余土村三大字を通じて小作料減額争議が続出し、さしもに多年平和に慣れた余土村でも神社や寺院等に小作人が集合するなどの不穏な形勢になったので、今の森組合長は一箇月以上に亘って地主小作両者の間に立って奔走調停に努めた結果、反当り八升の奨励米交付で漸く解決を告げたのであった、この結果は遂に盲天さん多年の志望通り全村の小作地殆ど全部を挙げて組合管理下に置く事となり百四十二町歩が依託され、今年中には残る二十町歩も組合に依託されるはずである、この組合を二十年近い苦心の末ヤット物にした盲天さんは数年前から余土村を離れて内務省や県の嘱託となって各地に農村問題の遊説に出掛けているのである、多分余土村は今後益々組合管理の実績を挙げる事であろうが、それにしてもわが盲天さんが明治三十三年頃の夢想が漸く今になって実現を見る事になったのである。盲天さんは道後の温泉八重垣楼で私に組合成立の長い歴史を語った後で「警察は農村問題に極めて無理解だから争議が起れば直ぐ臥抑しようとするが、今日の行きづまれる農村問題を解決する為には小作争議を全般的に起こさねばならない。そして小作制と農業政策に一大改革を興さねば駄目である組合の公認要求も叫ばれねばならない、要するに今後の問題は小作料査定の標準を確定する事、その経済的原則を確立する事が第一で、そして漸次に自治的産業組織を完成する事である」と結んだ……余土村で盲天さんに代って組合を主裁している森弥三郎さんは余土村での大地主で二十数町歩を持っているが「私は小作人が漸次に蓄財して土地を購入し自作農に向上して行って貰いたいと思っている、余土村では自作農を奨励し資金貸与その他の方法で大正十年に七反余、十一年に約四反と云う風に地主が小作地を移譲している、私など所有地がなくなってもいいと思っている」と語った、この森さんも見るからに篤実な人である
2024.02.20
二宮翁道歌解【19】至誠之道可以前知 北(奥)山は冬季にとぢて雪ふれど ほころびにけり前の青(川)柳 世の人は北山に、積れる雪を見て、寒しと思へど、前の川端の柳は、早青く芽を出したり、と云へるなれど、其は善悪共に天運の前兆、あらはるる事を示せるなり。貧富盛衰とも、天運循環するを免るる事能はず。何程豪富の家も、天運傾く時は、土用中ばに秋風の立つが如し、其の勢ひ防ぐべからず、恐るべし慎むべし。又困窮極貧の家といへども、一朝天運に向く時は、季冬に春陽を発するが如く、旭日の登るが如く、立身する者なりと云ふにあり。而して世の人天運は定めて、増減すべからざる物と、思へども然らず。自分自分の勤功に依つて、増減するの道理は、夜話1ノ29又幽顕論に云へり。又先師の可恐可勤(恐るべし勤むべし)の訓戒あり左に記す。 可恐恐可恐受財楽身有其身々々天命年々減其徳分内(恐るに恐るべし財を受け身を楽しめばその身その身天命有れども年々その徳分内を減ず) 恐可恐受財楽身有其身々々天命月々減其徳分内恐可恐受財楽身有其身々々天命日々減其徳分内 恐可恐受財楽身有其身々々天命時々減其徳分内恐可恐受財楽身有其身々々天命刻々減其徳分内 恐可恐受財楽身終減父母祖先徳失其身子孫徳也 可勤勤可勤苦身施財有其身々々天命年々増其徳分内(勤むに勤むべし身を苦しめ財を施せばその身その身天命有れども年々その徳分内を増す) 勤可勤苦身施財有其身々々天命月々増其徳分内 勤可勤苦身施財有其身々々天命日々増其徳分内 勤可勤苦身施財有其身々々天命時々増其徳分内 勤可勤苦身施財有其身々々天命刻々増其徳分内 勤可勤苦身施財終増父母祖先徳得其身子孫徳也💛可恐可勤 は、安居院庄七が秦野の横曽根村を指導した「相州大住郡北秦横曽根村仮趣法」の最後にも登場する。恐るに恐るべし財を受け身を楽しめばその身その身天命有れども年々その徳分内を減ず恐るに恐るべし財を受け身を楽しめばその身その身天命有れども月々その徳分内を減ず恐るに恐るべし財を受け身を楽しめばその身その身天命有れども日々その徳分内を減ず恐るに恐るべし財を受け身を楽しめばその身その身天命有れども時々その徳分内を減ず恐るに恐るべし財を受け身を楽しめばその身その身天命有れども刻々その徳分内を減ず恐るに恐るべし財を受け身を楽しめば終に父母祖先の徳を滅じてその身子孫の徳を失うなり勤むに勤むべし身を苦しめ財を施せばその身その身天命有れども年々その徳分内を増す勤むに勤むべし身を苦しめ財を施せばその身その身天命有れども月々その徳分内を増す勤むに勤むべし身を苦しめ財を施せばその身その身天命有れども日々その徳分内を増す勤むに勤むべし身を苦しめ財を施せばその身その身天命有れども時々その徳分内を増す勤むに勤むべし身を苦しめ財を施せばその身その身天命有れども刻々その徳分内を増す勤むに勤むべし身を苦しめ財を施せばその身その身有れども天命その身子孫徳を得るなり聖語に曰く、天の命ずるこれを性といい、性にしたがうこれを道といい、道を修めるこれを教えという。道はわずかな間も離れてはいけない。離れられる道は道ではない。曇らねば誰が見てもよし富士の山 生れ姿で幾世経るとも聖語に曰く、過てば則ち改めるに憚るなかれ。 日々に積る心の塵芥 洗い流して我を尋ねん聖語に曰く、君子は必ずその独りを慎しむ 山寺の鐘つく僧の起伏しは 知らで知りなむ四方の里人湯の盤の銘に曰く、まことに日に新たに日日に新たにまた日に新たなり 古の白きを思い洗濯の返す返すも返す返すも富貴・貧賤・善悪・邪正とも 蒔種と生たつさまは異なれど 実法は元の種となりぬる
2024.02.19
「青年に語る日本の方向」(1958年2月発刊)森信三「森先生は旧制高校のとき病気をしたため、大学に入るのが3年遅れた。京都大学の哲学科に入った。戦前は哲学は諸学の王といわれ、期待を胸に入ったが、当時はドイツ哲学が全盛で、西洋の思想家の学説の紹介から一歩も出ていなかった。西晋一郎という師に出会い、全著作を読破したが、そのアカデミックさにどうしても無条件ではついていけなかった。真の哲学とは、もっと現実を対象として、そこから真理を求めるものではないか?大学を出て3年あまりたった頃、「二宮尊徳翁夜話」を見て驚いた。その最初のところに「それわが教えは書籍を尊まず、ゆえに天地をもって経文とす。(略)かかる尊き天地の経文を粗(おろそ)かにして書籍の上に道を求むる学者輩の論説はとらざるなり。」と喝破されてあるではありませんか。これらの文字を見たときのわたくしの驚き、それは単なる驚きなどという言葉で現わせるものではなくて、全くこの宇宙がわたくしの眼前で、真っ二つに裂けて、その断面を見せつけられたような気がしたのです。そうしてここにこそ真の道があり、真の学問とは、このような大精神を現代の哲学や科学を媒介として論理的体系的に表現するものではならぬと考えたわけです。」「二宮尊徳の思想には大体4つの根本原理があります。それは 1 至誠 2 勤勉 3 分度 4 推譲 という4つです。そのうち第1の至誠というのは、人間の私心のない真心ということで、これは確かに尊徳の根本信念といってよいでしょう。次の勤勉ですが、これも説明せずとも、あの歩きながら薪をしょって本を読んでいる姿がよく象徴しているはずです。そこで尊徳の思想で最も特色のある点といえば、結局第3と第4ということになりましょうか。その第3の分度というのは「生活の基準」とか「標準」ということで、手っ取り早くいえば、一ヶ月をいったい、どれくらいで暮らすかという問題です。その点を尊徳は極度に厳しく力説しているわけで、そのために一村の米の取れ高を、時には180年もさかのぼって調査したこともあるほどです。つまりこの村では年にどれだけとれるのが標準である。したがってそれから勘定して、年にどの程度の暮らしにしないと、結局赤字になってしまうぞというわけです。ここで一つぜひ申しておかねばならぬと思うのは、尊徳という人の貧富感で、これが普通の考えと違っているのです。というのは、普通の人ですと、とかく収入の大小だけで貧富を決めてしまおうとする。つまり月収2万円(1958年今から50年前に書かれた本である)の人は貧、3万円の人はやや富み、5万、10万と月収のあるのは富というふうに考えたがるわけです。皆さんもおそらくそうでしょう。ところが尊徳先生は一寸違うのです。というのは尊徳先生は収入と支出をつき比べてみて、そこに残りがあれば富であり、もし赤字となるなら、いかに収入が多かろうとも、それは結局貧だというわけです。ですから月収は5万円あっても、月々6万円も費う者は貧乏であり、それに反してたとえ月収は2万円でも、月々の暮らしを1万8千円でやってゆくなら、その人間は、富の部に入るー少なくとも貧ではないというわけです。ですからこれは。結果的現実で押さえる実に手堅い貧富観といってよいわけです。この尊徳の貧富観は、経済的真理の不動の鉄則の一面を語るもので、それは小にしては個人経済から、大にしては国家の歳入歳出についても当てはまると思うのです。尊徳先生の第4の原理たる推譲の原理は自譲と他譲という二つに分かれる。自譲とは、一身一家のために譲るということで、貯蓄です。 尊徳は、貧乏人というものは昨日のために今日働き、去年のために今年働くが、富める者は明日のために今日働き、来年のために今年働くといっております。では昨年のために今年働くとは、どういうことかというと、去年の端境期に米が足りなくなって、地主に借りたものは、今年の秋の収穫からこれを返さねばならぬ。しかも利息までつけてというわけです。ここが貧乏人は去年のために今年働くと、尊徳先生が言うゆえんです。そこで他譲の教えですが、尊徳先生によれば、人間は自分だけの暮らしを考えているのでは鳥やけだものと同じことで、人間が真に人間らしく生きるには、自分の暮らしの一部をつづめて、それを他人に推し及ぼすのでなければならないといっているのです。この場合、尊徳はここで施すといわないで、譲るとか推し及ぼすとかいっている。ここに彼の道徳宗教的な点があるわけです。尊徳の考えとしては、財物というものは、もともと天下のものであって、誰一人これを絶対的に所有することのできるものではないという思想がその根底に横たわっている。ですから他人に施すといわないで、他に譲るといっている。尊徳の推譲の教えですが、尊徳は一応収入の4分の1を天引きせよ、そうしてそれを最初のうちは自譲、自分のために貯え、ついで余剰を他譲せよといっているのです。」
2024.02.19
「百円の恋」中国リメークが人気 春節の映画興収で首位2/19(月)中国で邦画「百円の恋」をリメークした「熱辣滾トウ」の興行収入が10~17日の春節(旧正月)連休中に27億1500万元(約560億円)に上り、この期間中に上映された映画で首位だった。中国メディアが19日報じた。主演俳優が役作りで厳しい減量に成功した姿に共感が広がり、SNSには「新年にやる気になった」との投稿が相次いだ。 春節連休中の中国全体の映画興行収入は80億元を超え、過去最高だった。連休初日の10日に公開された同作品の興行収入は全体の約3割を占める。 2014年公開の「百円の恋」は安藤サクラさんが主演し、ニートの女性がボクシングを始めて人生が変わっていく展開だった。安藤サクラ主演/映画『百円の恋』予告編日本映画「百円の恋」を原作とした中国映画 春節期に興行収入1位に2/13(火) 「熱辣滾燙」は湖北省出身の女優ジア・リン(賈玲)が監督・主演した2本目の映画です。初監督・主演映画「こんにちは、私のお母さん(你好、李煥英/Hi,Mom)」の興行収入は54億1300万元(約1110億円)で、中国映画市場における歴代3位の記録的ヒットとなりました。同映画の英語版制作権はソニーピクチャーズ(SPE)が獲得し、ハリウッドでリメークされる初の中国コメディー映画となりました。 ジア・リンはボクシングに打ち込むヒロインを演じるため50キロ減量し、イメージが大きく変わりました。映画の公開に伴い、どのように健康的に体重を落とし、その後どのように体重を維持するかが話題になっています。 ジア・リンは神秘感を保つために減量後に公の場に出るのを避けており、10日の映画公開後に初めて中国中央テレビ映画チャンネルのインタビューを受けました。インタビューは生放送され、減量に成功したジア・リンは話し声や口調まで柔らかくなっており、ネットユーザーからまったく別人のようだという声が上がりました。ジア・リンは「今は少し疲れているからかもしれない」と言い、生放送の前に2時間トレーニングしたことを明かし、「お尻と足の筋トレをしたので少し疲れている」と話しました。インタビューの中で、ジア・リンは自分を誇りに思っていると言い、鏡に向かって過去と現在の自分に親指を立てることがあると感慨深い様子を見せました。电影《热辣滚烫》终极预告曝光 贾玲大年初一热辣上场《热辣滚烫》新预告震撼来袭 贾玲演绎滚烫人生热辣开年《熱辣滾燙》花絮,雷佳音帶賈玲跳繩褲子掉了,被曝瘦的比賈玲多映画公開後には過酷なダイエット生活を披露するインタビュー動画も登場しており、この中でジア・リンは、もともと90キロ台だった体重をさらに増やし、約100キロの時点で撮影をスタートしたと語る。ぽっちゃり体型のシーンを撮り終えると、今度は昨年6月から過酷なダイエットを敢行し、8月には70キロ台、10月に50キロ台まで落としたという。撮影終了後も体重をキープしているが、「熱辣滾燙」で共演する俳優レイ・ジャーイン(雷佳音)やシャー・イー(沙溢)はインタビューで、撮影中はジア・リンのメンタル面を非常に心配したことを明かしている。
2024.02.19
相馬藩の江戸家老草野半右衛門は俳諧をよくした。草野の俳諧の師は、自然堂鳳朗である。草野は鳳朗を敬慕し常に往来していた。ある日、鳳朗はたまたま机の上にあった1巻の書を手に取って、草野に示して言った。「あなたはこの書を見たことがあるか。以前私の門人が得たものだが、文意が不凡で常人がとても企てることはできない。実に得難い貴重な書である。しかし門人で見る者もなく、たまたま見るものがいても通読するだけである。そして読んだらポイと投げて、文章に敬意を覚えることがない。私はこの書が誰が書いたか知らないが、大変に敬慕し、座の付近に置くことをいさぎよしとしない。あなたはもしやこの書の出所を知っていたら教えてほしい。」草野がその書を取って開くと、尊徳先生が、浦賀の宮原瀛洲に与えた書簡の写しだった。(大学料理その1、その2)そこで鳳朗にその旨を語った。鳳朗は、その書の出所を知って大変喜んで、ますます敬慕の念を厚くした。(「随感随筆(1)」【14】)宮原屋瀛洲(えいしゅう)は神奈川県浦賀(横須賀市内)の回船問屋である宮原屋の隠居で、大磯の川崎屋孫右衛門との縁戚関係から尊徳先生の指導を受けるようになった。尊徳先生の信頼も厚く、報徳仲間の江戸における先生への取次ぎなどもしており、宮原一族にあてた尊徳先生の「大学料理の書簡」は有名である。この「大学料理の書簡」は、検索してもがウェブ上見当たらないので、「報徳叢書」から少し原文を読みやすくして載せてみよう。《年譜》天保12年<尊徳先生55歳>10月14日川崎屋孫右衛門、宮原屋清兵衛の弟瀛洲が来て、大学料理の書簡を与える。「わざわざ飛脚を以て御紙翰成し下され、貴命のごとく甚だ寒さのみぎり、各々様ご道中(どうちゆう)お滞り無くご帰宅成され、殊にご一統お揃ひ、ご精励成され、珍重斜めならず存じ奉り候。随つて当方陣屋内、詰合の面々、無異(ぶい)繁勤救助の道相励み罷り在り候條、ご安意下さるべく候。然らば去る天保7申(さる)大荒凶飢饉につき、大磯宿打壊しのみぎり、川崎氏家政取り直し趣法歎願につき、ご親類中御越成され、それより追々ご懇意に罷り成り候ところ、当年の儀はお国元大人(たいじん)初めご一同遠路のところ、よくぞやお越し下され候えども、当国の儀は、昔 西(最)明寺時頼公の巡国記にも、日本一下野国(しもつけのくに)は土地人気至ってあしく、その内寒川郡、芳賀郡の儀は別段の由(よし)、お書き置かれ候極難(ごくなん)の土地、然る処、連々人少(じんせう)困窮致し、退転亡所同様罷り成り候知行所(ちぎやうしよ)村々、ご承知の通り金一朱二朱の銭売買これ無く、豆腐などは一里余りも参らず候はでは求め難き程の辺鄙につき、珍味珍食、あるいは珍事珍言等一切ござ無く、長々ご逗留中、思ひながらおそまつ仕り、嘸々(さぞ)ご不自由とお察し申し暮らし候。そもそも趣法の根元は、まづ荒地一反歩切り開き作り立て、その実法(みのり)を残らず食ひ恩沢に報いざる時は、百歳といへどもその他に及ぼす事あたはず。之によつて右一反歩作り立て、その実法の半ばを食ひ、その半ばを譲る時は、別帳雛形の通り、その開発田反別算勘(さんかん)も及びがたく候、もっとも古語にも、一家譲り有れば、一国譲りをおこすとかや。その徳沢を以て、年々繰り返し、あるいは神社堂寺なども修復致し、人情を励まし、あるいは用水、悪水井(いど)溝等を修復致し、水旱の憂ひを去り、あるいは道を築き、橋をかけ、牛馬の通路を弁じ、あるいは家宅を修復致し、人民の居住を安んじ、あるいは夫食(ぶじき)種穀をあたへて、窮民の渡世を補ひ、あるいは鍬鎌農具を与へて、勤業を励ませ、およそ十有余年を経て、荒地あらまし開け、村柄古(いにしへ)に立ち戻り、収納初年に倍し候辛苦艱難を以て、つらつら古を案ずるに、幾千年歳の昔、神代より天祖天孫代々のご丹誠を以て、豊葦原の瑞穂の国を、安国と平らげたまいしより、この道盛んなる時は富み豊かなり。この道怠る時は窮す。諸人平生日用に相営みおり候へども、その理にくらし。然りと雖も銘々よく耕し耘(くさぎ)る時は、その実法多く、そ作成る時は実法眼前にすくなし。是れ皆有用の財宝は、土地と民力との二つよりして国家を潤沢するもの也。以て土地の貴きゆゑんを知るべし。本来異国は異国の財宝を以て興き、我が朝はわが朝の徳沢を以てかくのごとく開け、有り難しと申すも恐れ多し。然らば昔のご丹誠を知る事は、今の艱難を以て知らずんばあるべからず。今の艱難を知って、よく永く耕し怠らずんば、荒地はあれ地の力をもつて、荒蕪の広狭にかかはらず、遂に自然と起き返り申すべく候。借財は借財の費えを以て返済致し候はば、多少にかかはらず無借に相成り申すべく候。およそ大意は荒地を引き受け、発田に引かへ、借財を引き請け、無借に引き換へ、人糞馬糞、そうじて不浄を引き請け清浄に換へ、人の憂ひを引き請け幸ひ替へ、家別(かべつ)戸毎(こごと)に営み候同様の事なり。その外富の弊は驕奢(けうしや)、是を改めずんば子孫困窮の本、貧の弊は怠惰是を改めずんば子孫滅亡の本也。願はくば富者の驕奢を省き、その貨財を以て貧者を救ひ、貧者の怠惰を励まし、有陰(ゆういん)を以て家業致させ候はば、自然と財宝生じ、国富豊かに相成り申すべく候。第一瓜の種を蒔けば瓜生じ、又茄子(なす)の種をまけばなす生じ、なる実法る世の中にして、因果因縁の熟する事、是皆然り。銘々奪つて益なく、譲つて益ある農業の道、平生日用取り扱い候かどかど、お噺し申し候ところさすが富貴兼備の非俗、渡世の名人、華美風流驕奢の棟梁、並びに生駒氏、橋本氏、その外ご一同いちいちご感心成され、ご帰着の上、微細にご伝声下され候ところ、宮原家初めご親類中、一統その外承諾致され、追々驕奢を省き、窮民潤助の趣法お取行ひ成されたき趣き、仰せ越され候へども、その御地の儀は、大都通船のみなとにして、金銀財宝の融通は申すに及ばず、諸国名産、珍物出入り、幸ひの地ゆゑ、人々衣服飲食等に至るまで、美を尽し、善を尽し、風儀三都に等しき由、かねがね承りおり候。然しながら何程上国に候とも、恩沢を報ゆるお心なければ、有るが上にも願ひ求めて不足起り、自然と借財生じ、終に困窮致し候様成り行き候へば、下国にひとし。あるいは美食ありといへども、恩沢を報ゆるお心なければ、遂に自然と不足生じて、有るが上にも願ひ求むる様に成り行き候へば、辺鄙(へんぴ)のそ食に等し。あるいは美服有りと雖も、恩沢を報ゆるお心なければ、是又終に自然と不足生じて、有るが上にも願ひ求むる様に成り行き候へば、貧者のそ服に等し。あるいは衣食住の外、風流華美の品々満備すといへども、恩沢を報ずるお心なければ、終に自然と不足の心起り、有るがうへにも異国の名産等を願ひ求むる、野鄙の心生じ候とは、やはり下国に生れし同様に陥り申すべく候。仮令(たとひ)智仁勇の三徳を得るといへども、父母祖先の恩沢を報ずるお心なければ、是又自然と不足の心起り、遊芸などを願ひ求むる様成り行き、詰り傾城(けいせい)遊女、夜発盲人等に等し、前条の通り有るが上にも願ひ求むるときは、人々貴賎尊卑の違ひは之有り候へども、その幾倍に及んでは、夏殷(かいん)の勢ひも亡びたり。仏にいわゆる貪瞋癡(とんじんち)の三毒又是也。聖語に過ぎたるは猶及ばざるがごとしとは、かくのごときか。よくよくこの理りを以て恩沢に報い奉りなば、この上も無きの土地なり。御地と当国とは、全く天地の相違、然りといへども天は地を覆ひ、地は天を戴き、而して天地相和する時は万物生ず。男は女を愛し、女は男を敬し、而して男女相和する時は子孫生ず。富は貧を救ひ、貧は富を親しみ、恩を謝し、而して貧富相和する時は、財宝生ず。是皆天地の然らしむるところ也。」さてそのもの啓三郎殿儀、川崎氏家政取り直し趣法歎願のみぎり、ご親類一同、小田原表までお越し成され、ご内願之有り趣申し聞けられ候儀は、前々より浦賀表出店の取締りと為て、年々勤番渡世致し来り候家法、然るところ、風(ふ)と心得違にて、家法を穢(けが)し、不埒(ふらち)につき慎み中の身分、いかが相心得候て然るべきやとお尋ねに預り、驚き入り、よくよく勘考仕り見候ところ、右より困窮艱難、無禄の子孫に生れ候ものとても、家名相続の儀は人々相営み申し候ところ、かたじけなくも大家相続の子孫に生れ候ご身分なれば孝養の儀は申すに及ばず、家法守護の儀については、たとへ粉骨砕身するとも、きっとご勤仕成るべき筈のところ、遊楽驕奢に流れ、祖先のご丹誠忘却致され、規則を乱し候段、言語に絶し申し候。然りと雖も、過てば則ち改むるに憚ることなかれとの聖語に基き早々お改め成され候て然るべきやの旨申し談じ候ところ、猶又取計ひ方お尋ねにつき、前段の不埒については、何程厳重御慎み成され候ても、その罪のがれ難きところ、却つて過ちの先まで出格のご慈愛を以て、年々金五十両宛小遣ひお贈り遣はされ候段、我らにおいても実に感涙を絞り候儀、速やかに浮世の雲、迷ひの夢を覚し、日月の明鏡を拝し給はば、父母祖先の大恩身心骨肉に徹し申すべき候間、よくよくご勘通之有りたき候。然るところ、是を飲み、安く食ひ、暖かに着、空しく歳月を費やし、安逸成され候儀は、何のゆゑぞや。譬へば赤子の懐中に抱かれ、乳味を費し、母の胸をうつがごとくなるべし。今壮年のお身分に候へば、いかやうとも節倹を尽し、ご慈愛金の内十両お残り成され候はば、十両だけのご孝心、二十両お残り成され候はば、二十両だけのご孝心、もしまた何ぞ家業を相営み、口腹を養ひ、残らず御差出成され候はば、その孝心に基き、御出金だけ趣法金助成仕る旨、誓約仕り置き候ところ、天なるかな、時なるかな、昨子年(ねどし)二十五両、当丑年二十五両お残し成され候、ご改心の印を以て、川崎氏勘気宥免のほど相願ひくれ候やう、厚く内談ござ候につき、ご逗留中歎願に及び候ところ、祖先の感動にも候か、追々改心致され候潔き所行をお汲み取り、早速歎願の通りお聞き済み下され、当人儀はいよいよ本心に立ち戻り候まで申し諭しくれ候やう、野拙(やせつ)方へお任せ下され、対面まで相整ひ、一同喜悦斜めならず候。右報徳のため、ご慈愛金残らず御差出成され、ご示談の通り、趣法金五十両、年々助成仕り、都合百両宛、元入金の積りを以て、六十ヶ年趣法組立て見候ところ、別帳の通り、およそ金二十六万五千八百八十九両余り、無利五ヶ年賦(ねんぷ)に借用致し、相助かり候者之有り、其の余積年の儀は、押して算勘下さるべく候。前にも申し候通り、不浄のこらしを以て、清浄の米を作り出たるがごとし。是すなはち宮原家の凶事変じて、窮民の潤助と成り、窮民潤沢して貧富相和して親しき時は、吉是より大いなるはなし。然らば不孝変化して至孝となり、万代不朽万々歳の大幸と申し納め候以上。 (天保十二年)十二月十五日 桜町 二宮金次郎浦賀 宮原治兵衛様 同瀛洲様 橋本与三衛門様追つて申し展(の)べ候。近代世上一統華美柔弱に相流れ、古人の金言などのかたき物を、よくかみしめ、深く味わふもの鮮(すくな)し。つらつら根元を案ずるに、今眼前その表前後の海底より釣り出し候大魚は勿論、小魚といへども、切りきざみ、煮焼き致し候てこそ、日用食物、人命の助けとも相成り申すべく候。況や千歳の昔、異国より来り候大学論語などは、天下国家を治めるの大徳備はわり居り候へば、肉も多く、身も多く、定めて大ひなる骨も之有るべく候につき、なかなか以て諸人もてはやすのみにて、丸呑みには相成り兼ね、年久しく店ざらし同様相成り居り候古もの、一両句見つけ、こけをふき、皮をはぎ、筋も骨もとり、平生日用に人々相用ひ候平かなにて、賎女(しづのめ)、賎男(しづのを)が、うす挽きうた同様あるいは老人、又は女小児(をんなこども)にも呑み込み、食ひ安く仕立て、御試しの為少々差進じ申し候につきご賞味下さるべく候、その外神儒仏の三味悟道即席ご料理なども、是又数年天地の間に借地仕り、人様の厚きお世話を蒙り、渡世仕り居り候間、右報徳の為めお望み次第、案外お安く差上げ申すべく候につき、早々お越しお求め、お施し下され候はば、御地三崎辺り、この節不漁の由、窮民の一助にも相成り申すべく候以上尚々寒威甚しく、折角お厭いなさるべく、隔通にて申し展ぶべきのところ、取り込み故、略儀の段ご用捨下さるべく候以上明徳ヲ明ニスルニ在リ。豊あしのふか野が原を田となして、食をもとめてくろう楽しさ。民ニ親ムニ在リ。田をひらき米を作りてほどこせば、いのちあるものみなふくすらん。至善ニ止ルニ在リ。田を作り食を求めて譲りなば、いくよへるともこれに止まる。学ンデ時ニ之ヲ習フ、亦悦バシカラズヤ、朋有リ遠方自リ来ル、亦楽シカラズヤ。蒔(まき)うゑて時々に芸(くさぎ)りたがやせば、しだいしだいに楽しかるらむ。人知ラズシテ慍ラズ、亦君子ナラズヤ。姿こそ深山かくれに苔むせど、たにうちこゑて見ゆるさくら木。至誠之道、以テ前知スベシ、国家将に興ラントスルヤ、必ズ禎祥有リ、蓍龜(しき)ニ見ハレ、四体ニ動ク、故ニ至誠神ノ如シ。北やまは冬気にとじて雪ふれど、ほころびにけり前の川柳(かはやぎ)。湯之盤ノ銘ニ曰ク、苟(まこと)ニ日ニ新ニシテ、日々ニ新ニ、又日ニ新ナリ。いにしへのしろきヲ思ひ洗濯の、かへすがへすもかへすがへすも。故(ふる)キヲ温(たづ)ネテ新シキヲ知ル。故道(ふるみち)に積る木の葉をかきわけて、天照神の足跡を見ん。色(しき)ハ空(くう)ニ異ナラズ、空ハ色ニ異ナラズ、色即チ是レ空、空即チ是レ色、受想行識、亦復是ノ如シ。春は花秋は紅葉と夢うつつ、ねてもさめてもあり明の月天何ヲカ言ハンヤ、四時行(めぐり)、百物生(な)ル、天何ヲカ言ハンヤ。声(おと)もなく臭(か)もなく常に天地(あめつち)は、書かざるけふ(経)を繰りかへしつつ。正直ハ一旦ノ依怙(えこ)ニ非ズト雖モ、終ニ日月ノ憐ヲ蒙ル。丹誠はだれしらずともおのづから、秋の実法(みのり)のまさるかずかず。赤子ヲ保スルガ如ク、心誠ニ之ヲ求ムレバ、中(あた)ラズト雖モ遠カラズ、未ダ子ヲ養フコトヲ学ンデ后ニ嫁グ者アラザル也。をのが子を恵む心を法(の)りとせば、学ばずとても道にいたらん。一 その表各ご一統、旧弊をお改め成され、窮民撫育の趣法御取行ひ成され候については、ご綿服ご着用と存じつき、差上げ申したく、ご逗留中相調へ置き候ところ、何分驕奢の残気相退きかね、余儀無く延引仕り置き候へども、ご出立後憤発致し、当所の産真岡(まうか)木綿五反差進じ申し候ところ、早速お用い下され、本懐の至りにござ候。右晒(さら)し木綿ご着用成され候はば、ご入用次第又又差遣し申すべく候。さて又御地名産の?(はしり)鰡(ぼら)沢山、ご老母様初め、ご一同よりご送恵下され、一方ならずご深志千万忝く賞翫、尚それぞれへも差遣し、一同大悦仕り候。然しながらご誠心に甘へ、このまま相流れ候ては詰り驕奢に陥り申すべく候につき、以来の儀は堅くお断り置き申し候一 色紙短冊、この辺り所々相尋ね申し候へども相整ひ兼ね、有り合せいろいろ取交ぜ相認(したた)め差遣わし申し候間、見苦しき段ご免下さるべく候一 ご逗留中お噂ござ候お国元ご詩作、頂戴仕りたく候間、お序にお恵み下さるべく候以上十二月十五日 二宮金次郎宮原治兵衛様 宮原瀛洲様 橋本与三左衛門様
2024.02.18
真に惜むべき人 本会評議員家庭学校長 留岡幸助 ◎二宮翁50年記念会と鈴木氏 わたくしが鈴木氏と相知るに至ったのは、報徳の道を研究するに至ってから後の事です。ちょうど日露戦争後、戦後経営をいかにすべきかという問題が、官民有志の間に講究されつゝあった際、わたくしども同志の者は、これはどうしても道徳と経済の調和を図らなければならぬという事に一致し、さてその方法はいかにすべきかという事になったが、ちょうどその年は、報徳の教えを説いて、自らこれを実行し、その成績を挙げた二宮尊徳翁の50年忌辰(ねんきしん)に当るから、翁の記念祭をやろうという事になった。その時、これが協議にあずかったのは、内務省の有志を中心として、農商務、文部両省の有志、並びに大学教授や、民間有志等であった。この協議会は5,6回も開いたのであったが、事情あって思うように進行せぬ。かくて期日もだんだん迫って、わずかに1か月を余すに過ぎざるに至った。そこでわたくしはある日鈴木氏に電話をかけて話をしたところ、鈴木氏かは「どうかやってくれ」といわれるので、わたくしは費用の事をありていに答えたところ、「一体どのくらいかゝる予定です」と聞かれたから、わたくしは「多分5,600円もあったらできよう」と答えたところ、鈴木氏はカラカラと笑われて、「それでは自分が2,000円出そう」と言われた。これで金銭(かね)もできたので、遂に明治39年の11月に、上野の音楽学校に大記念祭を開き、各階級の名流を網羅して世間の注意を惹くに至ったのである。鈴木氏は、この2,000円の外にさらに1,000円を出して「報徳記」と「夜話」とを印刷して帙入(ちついり)として来会者に配付したのであった。 ◎報徳会の大恩人 鈴木氏が報徳の教えを鼓吹するために尽されたことは、まことに多大なるものがあった。1万円を投じて野州今市の二宮神社内に報徳文庫を作り、相馬の二宮家に在る翁の遺著9千余巻を浄写せしめて、これを保存し翁の遺書の散逸を防ぎ、兼ねて篤志なる研究者の参考に資したごときは、最も推賞すべき事であろうと信ずる。 自分は日露戦争後、「報徳記」を英訳せしめたいという希望を持っておったが、これは2,500円くらいの経費を要する予定であった。鈴木氏もこの挙に賛成の意を表しておられたから、出金してくれといったならば、これも喜んで出されたことと思ったが、遂にそれには及ばずに沙汰止みとなったのであった。 また我が報徳会にとっては、実に大恩人であった。報徳会の今日あるを得た事は、鈴木氏の努力に真にすくなからざるものあるを信ずることであった。 ◎61歳より新生涯に入るの決心 鈴木氏は、東海道の佐野駅より数町(ちょう)離れた所に、130町歩の農園を作っておられたので、その所在地たる駿東郡の実業団体の牛耳を取っておられた。明治41年頃と思うが、私は招かれて、同農園へ行き、一泊して、農場を視察し、一緒に汽車に乗って帰京したことがあった。その際、公共事業の事について話がはずんだが、鈴木氏の言われるのに、「私は61歳になったら、実業界から退いて、報徳を中心として公益のためにこの身を捧げたいと思っている。その時はこの佐野の農場を本陣として、同志の人々のためにあすこを開放して、自由に来泊を請い、あすこから天下に呼号して打って出たいと思っている。」と熱心に語られたことでした。 その時言われるのに、「今仮にその際、自分の財産が300万円であると仮定すれば、200万円を事業と子孫のために残し、自分は100万円を持って佐野に引っ込みたいと思う。」とのことでした。そこで予はいうのに「君が61歳以後の生涯のほうが、真正(ほんとう)の価値(ねうち)ある生涯であろうと思う。米を多く取ろうと思えば、稲を十分に生育せしめなければならぬ。今日の君の事業は、即ち稲を作って、収穫の準備をしておらるゝのである」といったことでした。 ◎慰問の夕 その後鈴木氏の大失敗の噂を耳にしたので、早速予はこれを訪問せんがため、黄昏時(たそがれどき)から自転車を飛ばして、小名木川の家を訪問したのである。時は一昨年も将に暮れんとする12月23日の晩の事でした。その時番頭が出て来て、「実は非常な場合でして、誰にも会われないのですが、あなたがいらっしゃったことを伝えますと、非常に喜ばれてお会いするとのことでした」といった。それから部屋に通ると、すぐに鈴木氏が出て来られ、老母(おばあさん)や、養子や、番頭まで出て来て、いろいろ精神上の話が出た。その時、鈴木氏がいうのに「昨日130万円の責任を引き受けて会社を出てしまった。自分はこれまで10年ごとに大失敗をして、今回で3回目である。これを航海に譬えると前2回は難破したのであったが、まだ船に乗っておったからよかったが、今回は船まで取られたのであるから、大いに弱った」と嘆息しておられたのであります。そこで自分がいうのに「それは君にも似合わぬ弱音を聞くものかな。一体これまでいろいろ専売権を得た発明は誰がしたのか、君の頭脳(あたま)がしたのではないか、すれば頭脳が残っておる間は大丈夫でないか」と励ましたことであった。 ◎失敗の原因について自ら語る 鈴木氏は、最後の失敗の原因について語っていうには、小名木川では、300万円の資本で、好評を博したのであったが、岩下清周氏がやって来て、君一個の事業として小資本でやるよりは、他の資本をも集めて、一千万円の資本としてやったらよかろうと勧誘したのに、つい乗ったのが、そもそも失敗の原因であった。300万円にするのには、多くの年月を要して少しずつ基礎を固めつゝ進んで来たのであったが、一躍して700万円を増資してにわかの成長をしたのが自分の失敗であった。今度は実に地雷火にかゝったようなもので、粉微塵にされてしまった。これは青年実業家の好規鑑である。ただ遺憾に思うのは、鈴木は始めから山師であるという世評である。もし自分が真に山師であるならば、自分が最大の株主になるような事はしないはずであるといって、世評に対する不満の意を漏らしたのである。 ◎紛々たる世評を意とすることなかれ そこで自分はいうのに、それは君の平生にも似合わぬ繰言である。天下の人が皆、君を奸物であるといっても、それは皆利害の関係から君を評するのである。しかし自分のごとき、君とは何ら利害の関係がない人間が、君と共に公益のために尽くさんがために交わっておるのである。それ故自分は、自分の経営する家庭学校の事業のためには君を煩わすことをしないのである。これは公益をもって交わろうとの考えがあるからである。自分が聞くに、英国のクロムウエルは、多年奸雄と定(き)まっておった。ところがカーライルが出て、その雄勁なる筆を揮(ふる)って、クロムウエルは千古の大忠臣で、真に社稷(しゃしょく)のためにその身の毀誉を顧みなかったのであるといって、冤(えん)を雪(そそ)いだのである。君もこの際、泛々(へんへん)たる毀誉褒貶を眼中に置かず、前途の事を考えられた方がよかろうといって慰めたことであった。ちょうどその際クロムウエル伝の翻訳が出たから、翌日その書籍(ほん)を贈って置いたことである。 その際自分は、ちょっと横を見ると、老母が私を拝んでおるのが眼に入ったが、その当夜の光景は真に厳粛な光景で今もなお眼前に見るごとき心地するのである。 ◎精兵と傭兵 私は鈴木氏が、300万円の会社をば、一躍千万円にして失敗を招くに至った事は、実に鈴木氏の言のごとく、余程有益な教訓を後の事業家に与えておると思う。300万円にするには、一歩一歩成長したのであって、事務員のごときも、皆鈴木式に訓練された精兵であった。然るに一躍千万円に膨張したため、十分に人選する事もできず、いわば傭兵である。故に会社の利益等のことは毫も考えず、自己の利を図るに至った。そこで不正の行為が発覚して、免職になるものができる。そういう人は、腹立ちまぎれに、有る事、無い事を吹聴した。「サッカリン」を入れるという事も、これらの人々が、世間へ向って荒立てたためである。 ◎商略を誤る もう一つ鈴木氏が脆く倒れた原因は、従来は報徳の道に従って富を得、名を成したのであるが、今回の事業は報徳の道に反しておったからである。なぜなれば、鈴木の醤油が成功すれば、日本在来の醤油屋は倒れるか、少なくても弱くなる。即ちこれを敵に取っての事業であった。もしこれに反して、己れ立たんとすればまず人を立たせという風な実業であったならばよかったと思う。即ち専ら外国に売り弘めるというような方針をとっておったならば、かゝる脆き失敗は招かなかったかも知れぬと思う。鈴木氏が、今度は地雷火にかゝったので、全滅であるといったが、実にその風があった。 ◎捲土重来の意気 予が慰問した夜(よ)、鈴木氏の言われるのに、今から10年か15年かかったならば、また創痍を癒やすことができようと思う。目下、乾燥機器を発明したがその成績は大いによいから安心してくれとのことであった。その後わたくしは所用あって、新橋から地方へ行こうと思った際、偶然停車場で鈴木氏に邂逅した。その時、予は2等の切符を買っておったが、鈴木氏は3等の切符を持っておられた。そこでどうしたのであるかと聞いた所、二宮翁の分度法によって、回復するまでこれでやる決心であるということであった。予はこれを聞いて必ず氏が回復の期があることを信じておったのである。病中にも、もう一度好くなりたいということをしばしば言っておったが、これはその所期を遂げたいという熱望があったからであろうと推察する。 ◎真に惜しむべき人 予は多くの実業家を知っているが、あれほどの人物はあまり多く見ないのである。意志が強固で、勉強家で、発明の才があった。いくたび失敗してもこれに屈せずして再び崛起(くっき)するの気力は実に豪(えら)いものがあった。今一度回復したならば、ただに実業界のみならず、我が国の利益となったことが少なくないと思う。また報徳の教えからいっても実に惜しい人を失ったものであると追惜の情に堪えない次第である💛「クロムウェルは多年奸雄とされていた。ところがカーライルが雄勁なる筆をふるってクロムウェルは大忠臣でその身の毀誉を顧みなかったと冤罪をそそいだ 君も毀誉褒貶を眼中に置くな」と留岡幸助は鈴木藤三郎を慰めた私たち「二宮尊徳の会」がやっていることは、カーライルがクロムウェルの真の価値を世に示したように、鈴木藤三郎の真の偉大さを世に示すことにほかならない。森町のMさんが「鈴木藤三郎顕彰シリーズ」第2集を作成したいという。すでに第1集、第3集は出版済みである。第2集は「鈴木藤三郎はいかにして遠州報徳の風土から出現したか」を扱う。「素晴らしい、ぜひお願いします。現在作成中の『現代語訳 安居院義道』など『報徳の師父』シリーズは鈴木藤三郎顕彰第2集の資料集にあたるものです」
2024.02.18
尊徳先生は『人道は、今日を明日に譲り、今年を来年に譲り、天の恵みを受けて地に施し、親の恵みを受けて子に施し、譲り譲って人道は立ち、世界は相続するのだ。』と言われています。つくづくと親の恩はありがたい。私たちが今ここにあるのは親や先祖のおかげ、その受けた恵みを子に返す。仕事で先輩に受けた恵みを後輩に返す、そういうことで世の中は回っている。鈴木藤三郎は、報徳を研究して分ったことは、人は生まれながらにして世の中の人の恩を受けてここにいる。大学者でも先人の学者の研究があって、始めてそれを発展できる。そうであるならば、その恩に報うために一生懸命働いて次の世代に何かしら付け加え残しておかねばならない、そういうふうに考え、それを実践した。自分は生まれながらにして、徳を受けている、だから生涯をかけてその徳を報いていかなければならない、それが報徳である、それを生涯実行する。すごいですよね。」■報徳秘稿【54】恐れても恐るべきは、受財の楽しみ。勤めても勤むべきは、苦しみの施財也。受財の楽しみは畜生の道也。苦しみの施財は人道の元也。夫れ、禽獣は奪を知りて譲をしらず。故に、開闢以来今に至て安堵の地なし。人道は大神宮以来、今日を明日に譲り、今年を来年に譲り、天の恵みを受けて地に施し、親の恵みを受けて子に施し、譲り譲りて人道立ち、世界相続をなす。元仁義と云い、礼譲と云う。皆己が手の向えたる時の名也。己が手前へ向かう時は、仁も仁にあらず。礼も礼にあらず。勤むべし。恐るべし。
2024.02.18
尊徳の裾野(佐々井典比古著)205~207頁「空風軒赤白子常行」抜粋「豊田正作の『報徳教林』に『日本ノ西方に当タリ、海陸千里ヲ隔テ、琉球国 中山王ノ使、尊来ニツキ、アア有難キ御代ナルカナ、御代ナルカナ、ワガ国人、ワガ国ヲ尊敬スベシ。 忘るなよ唐土(から)天竺の人々も わが身を恵むこのひの本を 天保三辰年十二月 不二山旭流郷産 空風軒赤白子常行謹述』とある。 これに添え書きがあって、「正作、辰ノ口お屋敷(大手前の老中屋敷)にまかり在り候みぎり、二宮先生おいでこれあり、右様の御名は初めて認(したた)め候なり。」としてある。 天保三年、閏十一月二十一日の尊徳自筆日記に、「空風軒赤白子勤食常行一尊」と書いてある(「全集」35巻448頁)。 琉球国の中山王第18代の尚育王使節200人の行列は11月13日に箱根関所を通り、16日に雪の江戸へ着いた。たまたま江戸にいた尊徳は、この珍客に接して「アア日本ノ徳、有難シ日本ノ徳」と感激した。 次の「忘るなよ」の歌は、なぜ外国からこのように来てくれるかを考えると、それは日本が「日の本」だからである。日の恵みを受けて農耕をして、はじめて人類の文化生活が開闢する。中国でもインドでもそれは同じだ。その根本を忘れてはならない、というのである。それは草稿で「◎農本」と書き、「唐土天竺農人々」と書いていることでも知る事ができる。 江戸で打合せをすませた尊徳は、11月27日に桜町に帰着すると、素晴らしいことをやった。この年の大豊作に乗じて、租税を全免し、各戸に積立をさせたのだ。それは稗の作付奨励とともに、第一期の「復興」仕法に次ぐ「永安」仕法の着手だったが、この用意は翌天保4年の飢饉に役立った。 この年の豊作は田畑ばかりでなかった。尊徳の思想も、仕法成功の自信に支えられて、素晴らしい実りを見せた。それも閏11月7日から22日まで、わずか半月ほどの間に『爆発的』に起こった。右行(ゆうぎょう)・斗行(とぎょう)といった不二孝の高弟を相手に、論じては考え、考えては日記に書き付けていくうちに、彼の思想の骨組みが、ほとんど出来上がってしまった。だから、21日の草稿、なかんずくあの長々しい名前には、この間の思想展開が集約されているのだ。 まず肩書きの「不二山旭流郷産」というのは、「おてらしに不二の白ゆき和らぎて ふもとの流れ幾代経るとも」の歌で一応説明がつく。不二は、不二孝連中の尊崇する霊山であると同時に、「不二・一元」の哲理を示す。天地も陰陽も、有無も善悪も、二つでなく一つであり、青黄赤白黒の五色も、空風火水地の五大も、ことごとく悟ればもとは一つである。「空風赤白子」はそれを示す。そして「一尊」は「始りも終りも一つ、己が身も 一つのうちに一つ尊し」の歌からくる。 しかし「ふじの山のぼりつめたる夕べには 心の宿に有明の月」と。悟りに達しただけではだめで、勤めて食い、天地の間に人道を行う庶民の日常生活が「空」の実践として道徳になるよう、指導しなければならない。それが12日の日記にある「三才道・五常行」だ。これで山頂から山麓まで、思想体系が一貫する。右行・斗行が感心したのも無理はない。 暮も迫った12月28日、尊徳は再び江戸に出た。桜町の余力により、磯崎・矢野・豊田などを世話人にして、小田原藩士に「報徳元恕金」の貸付を始めるためであった。この時尊徳は、草稿を書き換え、その名も「空風軒赤白子常行」と整理して、彼らに示した。仕法成功の自信と、思想醸成の喜悦がみなぎる、46歳の尊徳の試筆であった。」万物発言集草稿(二宮尊徳著) 【4】夫何の国何の郷に十家の邑あり、河海不便にして一ツの井を掘り用水と成す、或は東の方に紺屋あり、一ツの井を汲て藍を仕立、青き物一切を染出す事を司とるなり、又或は西の方に欝金屋あり、一ツの井の水を汲て欝金を仕立黄色なるもの一切を染出す事を司とるなり、又或は南の方に紅屋あり、一ツの井の水を汲て紅仕立赤き物一切を染出す事を司とるなり、又或は中程に筆道の師範あり、一ツの井の水を汲て墨を仕立、大字細字に限らず、其外黒き物一切を書出すなり、又或は北の方に晒屋あり、一ツの井の水を汲て諸色汚れたるを洗い落し一切のものを白く成すことを司さどるなり、又其東西南北の傍に五味の造家あり、一軒は酒屋にて一ツの井の水を汲て酒を造りだすなり、一軒は酢屋にて一ツの井の水を汲で酢を造りだすなり、一軒は味噌屋にて一ツの井の水を汲で味噌を造り出し、一切の食物に味う事を司どるなり、一軒は醤油屋にて一ツの井の水を汲で醤油を作り出し、一切の食物に味う事を司どるなり、一軒は砂糖屋にて、一ツの井の水を汲で砂糖を仕立、一切の食物に甘き味付けることを司どるなり、右十家の前後左右を取巻、一ツの悪水路あり、或は洗い流し、食残し、又は両便とも流れ落、外に行べき流もなし、残らず悪水落しの内にて消、大地にしみ畢ぬ、翌朝は一つの井に帰り清水と成りて十家を養うなり、これ辺鄙、片田舎、不便の十家のみならず、右十家の理を以て案る時は、天朝は言うに及ばずあらゆる国々もまたまた是の如きなりと知るべし。
2024.02.18
「歴史エッセー集 志とはなにか 奈良本辰也」奈良本辰也さんは、歴史学者で「二宮尊徳」の著述がある。最初読んだときは、新しく開発したところは租税を免ぜられる制度を活用したというところを強調されているように思えて、その描かれる尊徳像に違和感があった。「日本史探訪第9集」(昭和48年10月5日発行)で 邱永漢 さんとの対話で、邱さん「一にケチ、二にケチ、三にケチというような非常に堅苦しいところがあるんです。」という評価に対し、「私は、徳川家康に非常によく似ているのではないかと思います。・・・世の中を変える一つの力は、案外尊徳みたいな人がほんとうに持っているのかもしれませんよ。」と応じている。邱さん「菜種を川の土手へ植えて菜種油を採り、川の側の荒地に稲を植えた米には税金をとられないということを発見した 以後これを一貫して、・・・税金のかからない方法を徹底的に実践し、それを桜町以後も、百姓たちに教えて、ここのところをやれば税金がかからないぞということを実行しているんですね。それを合法的脱税という言葉で、私は表現しているのですが。」邱さんはいわば奈良本辰也さんの「二宮尊徳」の人間像を受け売りするが、奈良本辰也さんはこう答えている。「人間が生きていくためには、自然を征服しなければならない、ということを彼はよく知っているわけです。・・・ しかし、その自然を変える方法は、自然が教えてくれたことをそのまま、うまく利用してやっています。・・・ 彼にとって洪水、天災、すべて教師だった。それらから学び取ったということです。 私は、ちょっと、初めは大嫌いだったけれども、こんなことを考えるやつというのはすごいなと思い始めましたよ。」 「自然を征服しなければならない」という奈良本氏の自然観には違和感を持つが、正直に二宮尊徳の見方が変わってきたと告白する姿勢には好感が持てる。 邱さんは「初めは大嫌いだった」という奈良本氏の二宮尊徳像で話すものだから、話がしっくり合わない。いわば過去の奈良本さん自身と対話して同意を求めているようである。奈良本辰也さんは、成田山への参籠も大芝居だと断言する。「周囲の動きをちゃんとつかまえた上で、適当な時期にさっと成田山に現れて、断食しているということを皆に知らせるわけです。・・・ある意味では謀略というかな、ちょっと日本人離れしている。」 奈良本さんの指摘されるそういう側面も確かにあったと思うが、一方的に「謀略」と断ずるのは、まだ奈良本氏は二宮尊徳の本当のところをとらまえていないのではないかと思える。邱さん「二宮尊徳は、思想的にも、また行動においても、いわゆる封建社会から一歩も出ていません。・・・いわゆる立て直し屋に近いところがあるんじゃないでしょうか。」奈良本辰也さん「百姓一揆をやった連中が、封建制度を否定する考えを持っていたかというと、一人も持っていませんよ。・・・・彼が偉いのは年貢を制限するわけですよ。分度を決める。そして百年間の統計をとって、この土地の生産力はこれだけしかない、今、それが荒廃しているから、それを何割に見積もる、そこから領主の生活、収入が決まる。その収入の範囲内で暮らせよという。 その要求を聞かなかったら、私はお手伝いしませんよと彼は言う。 年貢を制限するというのは大変なことですよ。 百姓一揆以上にすごいことをやっているんです。百姓一揆で、このように年貢の半減を勝ち取ったところはどこにもないでしょう。ところが彼はやらしている。だから、私は彼をすごいと思うんです。 「二宮尊徳は百姓一揆以上にすごいことをやっている」という奈良本辰也氏の創見には感心する。そして全面的に同意する。尊徳の仕法が失敗に終わった原因は、すべてこの領主側の分度が守れなかったところにある。「彼がいちばん嫌ったのは、坊主と学者である。・・・本当に主体的にものを考える人間こそ正しい、尊いということを尊徳は教えた。」 そうではない。ただものを考えるだけでなく、実行することが大事だと尊徳は教えるために「坊主と学者が大嫌い」と言ったのだ。 尊徳は当時の第一級のすぐれた僧侶と親密な交際があって、いわば坊主一般を嫌っていたわけではない。「志とは何か」は、昭和56年の発行であるが、そこに登載されている「二宮尊徳に学べ」とは、昭和48年9月に「中央公論」に載せたものである。ここでは「素晴らしい経営コンサルタント」という前向きの受け止め方になっている。「彼は、今日の経営者としても立派に通用する人間なのだ」と、邱さんの「二宮尊徳は、思想的にも、また行動においても、封建社会から一歩も出ていない。」という見解を明快に否定する。服部家の建て直しも「全ての使用人が働きよい職場をつくるというのが尊徳のねらいであった。」と言及される。これは現代において尊徳の思想を経営に活かしている企業、たとえば伊那食品工業の塚越会長が会社経営の目標について言われることと一緒である。「経営にとって 本来あるべき姿 とは 社員が幸せになるような会社をつくり、それを通じて社会に貢献する ことだと思います。 そして売り上げも利益もそれを実現するための手段に過ぎないのです。」奈良本氏は昭和56年の段階では、「大嫌い」から 二宮尊徳こそが経営の神さまみたいな評価へと大きく変っているのである。「調査のないところに経営はないということを、誰よりも早く実行したのは二宮尊徳であろう。」「尊徳は、農業はいうまでもなく、治水や灌漑の土木工事に至るまで抜群の能力を持っていた。彼は経験を体系的に組み立てる頭脳を持っていた。そして、自然観察となる場合には、哲学といってもよいほどの思索の深さを示した。」「教育とは褒めることだという言葉があるが、彼はまさにそうした考え方をもっていた。 教育は同時に組織にもつながる。尊徳は、村人たちの心を百姓という仕事を中心として、その方向に組織していたのだ。」「私は、桜町仕法をみると、尊徳という人の並々ならぬ手腕に驚きの眼をみはるのだ。そして、彼こそ素晴らしい経営コンサルタントであったように思う。」奈良本辰也氏は2001年3月逝去されたが、最後の二宮尊徳観はどのようなものであったろうか。東北大学の大藤修教授は、「報徳学ナンバー2」(2005)で「土着の思想家、農民の立場に立った実践家と尊徳をとらえなおし、彼の思想と実践の意味を追究したのが、奈良本辰也氏である。」(34ページ)としている。これは、最初の岩波新書版の見解に依拠したもので、奈良本辰也氏は歴史学者としての良心で、たえず自らの見解を検証し、向上させ続けたのかもしれない。
2024.02.18
「かがり火」135号36頁に 北海道「家庭学校」の記事が載っている。「この家庭学校の一番の特長は、子どもたちは、それぞれの寮で、寮長先生の家族と一緒に、食事や掃除の手伝いなどしながら、一般の家庭と同じように暮らしていることです。 寮長先生の子どもも同じ寮で寝起きしています。 ここに来て初めて、家庭の温かみを感じる子どもたちも少なくないんですよ」創立者留岡幸助は「家庭にして学校、学校にして家庭たるべき境遇」を目指して作ったのが家庭学校だった。 上甲晃氏の志ネットワーックにも家庭学校が紹介されている。2005年10月18日 上甲晃 北海道家庭学校の日曜礼拝で聞いた、小田島校長先生の話は、なかなか良かった。窓という窓からは、黄色く染まった木々と、はらはらと散る葉っぱが鮮やかに見える。黒い詰襟の制服を着た子供達が、少しばかり背中を丸めながら、校長先生の話に耳を傾ける。校長先生の話がいささか理屈に走り、お説教調になると、子供達の背中は、たちまちのうちにさらに丸くなり、目を閉じる。校長先生の話が身近に感じられると、途端に、背筋が伸びて、視線が校長先生に向かう。 校長先生は、「手」の話を始めた。 「この間、みんなで、研修旅行に行きましたね。その時、サーカスを見ました。サーカスの人達とみんなが握手をしましたね。私もまた、若い女性と握手しました。きっと柔らかい、優しい手だと思って、手を出しました。ところが、それは大変たくましく、ごつごつとした手でした。サーカスの厳しい訓練に耐えた手は、優しくなかった。その時に、人間の生き方は、手に表れるとしみじみと感じました」。子供達は、校長先生と一緒にサーカスに行ったから、思わず話に身を乗り出す。 「諸君、君達の生き方は手に表れるのです。私はかつて大阪に住んでいました。友達が大阪に来るので、大阪駅まで迎えに行ったことがあります。友達を待っている間に、見知らぬ人が来て、私の手を見せろと言う。私は手を見せました。そして、職業は何かと聞きました。私は、教師ですと答えました。ところがその人は、嘘を付けと言う。教師がこんなごつごつとした手をするはずがないと言うのです。確かに、当時の私は、ある施設で、手にタコができるほど、激しい労働をしていました。それを見抜かれたのです。手に、自分の本当の姿が現れます。私が在職した施設に、スリの名人と言われる子がいました。その子の手は、か細く、すんなりとしていました」。校長先生がそんな話をすると、子供達は、そっと自分の手を見ているではないか。私には、忘れられない光景であった。 万一、彼らが、出来心から、スリをしたくなる衝動に駆られるかもしれない。その時、この日の校長先生の話を思い起こすと、ふと自らの手を見るかもしれない。教育とは、そのような効果を願うものではないだろうか。 畑を耕し続ければ、ごつごつとする手、スリを働けば透明感が増す手、手はその人の人生を表している。どの手が良い、悪い、そんな問題ではない。手に人生が表れると考えることが、大切なのである。私には、校長先生の話を聞きつつ、自らの手を見つめている子供達の姿が、忘れられなかった。そして、改めて、じっとわが手を見つめた。 留岡幸助は、1864年(元治元年)岡山県高梁市で生れた。 キリスト教に目覚めて同志社の前身の神学校を卒業し、北海道の空知監獄で教誨師を務めるが、小さいうちから犯罪を繰り返し犯している収監者が多いことを知り、明治32年に東京の巣鴨に家庭学校を創設した。1914年(大正3年)に北海道に社名淵を開拓して家庭学校を創設する。作業中虻や蜂に襲撃されるなど大変な苦労があったという。 礼拝堂には「難有」という額がかかっており、これは金原明善氏が書いたものだ「報徳と社会」(留岡幸助)抜粋 香川県報徳講演集(明治42年12月) 私の考えるのには、世の中を難有(ありがた)く送るとういう事が、人間の幸福なる生活中の最も幸福なるものであろうと思う。その難有く送るという事は、財産の多寡や、あるいは学問の多寡によってではありませぬ。それは精神修養の如何(いかん)によって、難有くも送られる、難有くなくも送られるのであります。私はこの点に大いにつとめて見たいと思いまして、今現につとめつつあるのであります。で私は数年前から御県にも来られまして、同じ感化を与えました所のかの金原明善という老人とごく懇意でありますから、その金原さんに「どうか『難有』という額を書いてください」と言って頼んだところが、「それはおやすい事であるが、しかし『難有』の2字だけでは余り変がない。何か経書の中の語とか、あるいは有名な文章でも一句選んでお出ししたらよかろう」ということでありましたから、「イヤ私はこの『難有』という二字が結構である、どうかこの二字を書いてください」と言って頼みました。ところが金原翁はすぐにその二字を書いて持って来させてくれられました。私は早速これを額にして、私の宅の客室にかけました。ここに諸君の中で東京へお出になって、私の茅屋をお尋ね下さるならば、一番に良い部屋にその額がかけてあります。ところが多く訪問してくれるところの来客の中に、これを読む人もありますが、どうも難有(ありがた)いと読んでくれない。『なんいう』と読むのであります。『なんいう』というと難有(ありがた)いとは反対に、難儀があるということになります。これを難有(ありがた)いと読む人ははなはだ少ないのであります。なぜ少ないかというと、難有くはない心を持っている人が多いのであろうと思います。私どもの幼少の時には、難有い、勿体ないということをよく聞いた。たとえばご飯を食っておりますと、子どものことでありますから、過って飯粒を落とす。そうすると親父が「勿体ないぞ」と、こう言って叱る。それから今度は衣服をこしらえてくれる。この衣服は気に入らぬとかいうと、「勿体ないことを言うな」とこういうふうに言って仕込まれて参ったのであります。又何か言うと「難有く思え」などとよく言われたのでございますが、近頃は難有い勿体ないとは余り聞かないようです。聞くことは聞きますが、それは店舗にでも入って、何でも値切らずに買ってやると「難有う」とこう言う。それは私の言うところの難有いとはいうのとは大変に違う。とにかく難有い、勿体ないという言葉の使い方が減っている。八鹿町立八鹿中学校一年生の皆さんへ より抜粋 難有 この間雑誌を読んでいたら、この文字のことが載っていました。皆さんにも紹介したいと思います。 これは、「なんあり」と読みます。「難」が「有る」、難儀や難しいことや苦しいことが有るということです。この文字を、北海道のある学校では、講堂の正面に大きな額に入れてかけてあるのだそうです。それは北海道家庭学校というところです。北海道家庭学校というのは、前の言い方でいえば「教護院」です。今は、「自立支援施設」と言います。ここは、万引きとか、盗みとか、暴力とか、シンナーを吸うとか不良行為をしたような子どもや若者を鍛えなおしていくところです。こんな自立支援施設(教護院)は、全国のあちこちにあって兵庫県には明石市にあります。北海道家庭学校もその内の一つです。 そこの学校に来るのは、いろんな問題を起こしてしまった子どもたちです。そのような子どもは、難儀や難しいことからすぐに逃げ出そうとする、苦しいことは避けようとするような子が多いのだそうです。それで、「難有」という言葉をかかげて、難儀や難しいことが有るのは当たり前だ、それに負けてはいけないのだということを教えているのです。 とても大事なことだと思います。私たちは苦しいことよりも、面白いことをしたい、楽なことをしたいと思います。でも、生きていく上では、そんなことばかり有るわけがありません。苦しいことや難儀なことも有るのです。「難有」です。でも、「難有」であっても、それに負けてしまってはいけないのです。たくましく乗り越えていかなければなりません。 ところで、この北海道家庭学校では、「難有」をもう一つの読み方をしているのです。「難有」を「有難」と反対に読むことも教えているのです。「有難」は「有ることは難し」ということで、「有り難い(ありがたい)」という意味なのです。 少しだけ、日本語の「ありがたい」の言葉の説明をします。「ありがたい」といのは、この「有ることは難し」から来ているのです。お菓子を誰かからもらってありがたいのは、そんなことは「有ることは難い(めったにない)」から、ありがたいのです。生きているのがありがたいのは、ひとりの人間が生きているというのは、大変奇跡的なことで「有ることは難い(めったにない)」から、ありがたいのです。ですから、「難有」を、北海道家庭学校では「難有りは、有り難い」と読んでいるというのです。それは、「生きていく上では、難儀なことや難しいことや苦しいことはいろいろとあるだろう。でも、それは自分の心や考え方を鍛えてくれる大変有り難いことなのだ」ということなのでしょう。 私たちにも、難儀なことや苦しいことはいろいろとあるでしょう。これからだって、出てくるでしょう。そんなときに、弱音をはいたり、ぐちを言ったり、それに負けてしまったりしないで、それは、自分を鍛えてくれる有り難いことなのだと受けとめられるとどんなにいいでしょう。これはなかなか難しいことですが、そう考えることによって、難儀なことや難しいことに向かっていく勇気を持つことができます。
2024.02.18
「光る君へ」清少納言・ウイカ「衝撃と反省」の大河撮影初日 鋭い眼光に演出“注文”「もっと優しめに」2/11(日) 第6話は「二人の才女」。まひろ(吉高由里子)は藤原道長(柄本佑)と距離を取るため、そのライバルの左大臣家で間者を続けることを決断。一方、道長は次兄・藤原道兼(玉置玲央)の口から、まひろの母の事件をもみ消したのが父・藤原兼家(段田安則)だと知り、一家が背負う闇の深さに戦慄を覚える。そんな中、宮中で勢いづく藤原義懐(高橋光臣)一派に対抗しようと、長兄・藤原道隆(井浦新)は藤原公任(町田啓太)藤原斉信(金田哲)ら若い貴族たちを招いて「漢詩の会」を開くことに。まひろは参加を申し出るが…という展開。 まひろは父・藤原為時(岸谷五朗)と道隆の屋敷へ。為時とともに講師役を務める歌人・清原元輔(大森博史)が娘・ききょう(ファーストサマーウイカ)と現れ、初対面を果たした。 「ききょうと申します。どうか、よしなにお導きください」「胸が高鳴りますわ。大いに楽しみましょうね、まひろ様」 この日のお題は「酒」。道隆は「今の帝の世の揺るがぬ様」を詠んだ公任の歌を褒め称えた。感想を聞かれたまひろが「公任様の作は、唐の白楽天(白居易)のような歌いぶりでございました」と述べると、ききょうは即座に「わたくしはそうは思いません」「むしろ、白楽天の無二の親友だった元微之*のような闊達な歌いぶりでした。そうじゃございません?」と異なる見解を口に。元輔は咳払いをし、娘に釘を刺した。*元稹(読み)げんしん中国、中唐の文人。宰相にもなった。字(あざな)は微之(びし)。後魏(こうぎ)の王室の子孫であったが、没落して母の手で育てられた。28歳で皇帝の親試に及第し、才名を響かせた。ときに一群の楽府詩(がふし)をつくり、政治風刺を主題として新しい分野を開いた。白居易(はくきょい)とも深く交わり、その唱和の詩に次韻(じいん)形式を導入して世の耳目をそばだて、「元和体」という時代様式を確立した。文辞においても新体の散文を推進し、『鶯鶯伝(おうおうでん)』は短編小説の領域で指導的な役割を果たした。すべてその文学は、先鋭な感覚と才能とに支えられ、時代の動向に沿いつつ、伝統からの解放を試みたもので、後代にも多くの影響を与えた。わが王朝時代にも、『句題和歌』『千載(せんざい)佳句』『和漢朗詠集』によってもてはやされた。『元氏長慶集』60巻がある。白居易(はくきょい)は、43歳の時、太子左賛善太夫となり、翌年宰相武元衡の暗殺事件が起きた際、犯人を捕らえるよう上奏し、越権行為で咎められ、江州(江西省九江)司馬に左遷された。元稹と左遷の境遇を思いやった詩を交わしている。船中讀元九詩 舟中、元九の詩を読む 白居易把君詩巻燈前讀 君が詩巻を把って灯前に読む詩盡燈残天未明 詩尽き灯残りて天未だ明けず眼痛滅燈猶闇坐 眼痛み灯を滅して猶お闇坐す逆風吹浪打船聲 逆風浪を吹いて船を打つ声聞樂天授江州司馬 楽天の江州司馬を授けられしを聞く 元稹残燈無焔影憧憧 残燈焔無く影憧憧此夕聞君謫九江 此の夕べ君が九江に謫せらるるを聞く垂死病中驚坐起 垂死の病中驚いて坐起すれば暗風吹雨入寒窓 暗風雨を吹いて寒窓に入る まひろと道長の視線は終始絡み合い、会はお開き。ききょうは「まひろ様はお疲れなのかしら。私、斉信様がお選びになった歌が好きだったわ」――。 番組公式SNSにアップされた撮影現場からの音声コメント「君かたり」。ウイカは“2人の才女”の対比を探るべく「まず、まひろ(吉高)が今どういうふうにやっていらっしゃるのか、私も現場で見てみたいと思いました。まひろ自体はまだ幼くて、たぶん少し年齢差があるんですけど、思った以上に大人しいなという印象があって。あまり主張がないような、圧みたいなものが全然なくて。ちょっと子犬みたいというか、周りに対して空気を読むというか。私はそう感じたので(まひろの)優位に行くような『ふふん♪』みたいな気持ちがあったんですけど、初日で監督から『もっと優しめに』とかなり言われて『あ、私こんなに優しさの足りていない人間だったんだ』と思いました(笑)。そこは凄く衝撃を受けました。」と明かした。 「優しさを持って、意地悪にならないように演じていたつもりだったんですけど、非常に冷たく鋭く、眼力が強く見えていたみたいだったので『優しさが足りていない』とずっと言われました。探っているような状態の相手(まひろ)に強いものを当てすぎると、そう(優しく)見えないというか、(2人の)バランスもあったりするかもしれないし、シンプルに私が初日ということで、目が鋭かったのか、どっちかですね(笑)。ちょっと力が入りすぎて、優しさが足りていなかったのかもしれないと反省しました(笑)。ちゃんとOKはもらったので、(優しさは)出ていると思うんですけど」と大河初撮影を振り返った。💛確かに「眼力が強い」(^^)漢詩の会は難解で、多くのその方面に詳しい人が反応していて、おもしろい。唐・元稹菊花菊花きくか 秋叢繞舎似陶家 遍繞籬辺日漸斜不是花中偏愛菊 此花開尽更無花 秋叢繞舎 似陶家秋叢しゅうそう(秋菊の群れ) 舎しゃを繞めぐること陶家とうか(陶淵明の家)に似にたり遍繞籬辺 日漸斜遍あまねく籬辺りへんを繞めぐりて 日ひ漸ようやく斜ななめなり不是花中 偏愛菊是これ 花中かちゅう 偏ひとえに菊きくを愛あいするにあらず此花開尽 更無花此この花はな 開ひらき尽つくせば 更さらに花はな無なし菊 花 <白居易>一夜新霜 瓦に著いて軽し芭蕉は新たに折れて 敗荷は傾く寒に耐うるは唯 東籬の菊のみ有って金粟の花は開いて 暁更に清し一夜明けると、今年初めての霜がうっすらと降りて、瓦を白くしている。この寒さに、芭蕉は新たに折れ、破れた蓮の葉も傾いてしまった。 そうした寒さに耐え、毅然(きぜん)としているのは、ただ東籬の菊だけで、美しく咲いたその菊の花は、暁の風景を一層清らかにしている。【訓読】菊花 <元稹>秋叢 舎を繞ること 陶家に似たり遍く籬辺を繞りて 日漸く斜めなり是れ 花中 偏に菊を愛するにあらず此の花 開き尽くせば 更に花無し 【和訳】菊の花群れなす菊が取り囲むさまは、まるで陶淵明の家のようだ、籬の付近をぐるりとめぐれば、日はようやく傾きはじめる。数ある花の中、菊だけを愛でているわけではない、この花が散ってしまえば、もはやほかに花もないのだから。
2024.02.18
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