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2006.08.21
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カテゴリ: 戦争を語る
皆様、こんにちは。今日も残暑厳しいですね。皆様は沖縄の戦争というと、何を連想されますか?やはり 「ひめゆりの塔」 の激戦ですか?
しかし、それよりも前にとても悲しい事件が沖縄ではあったのです。それも、犠牲になったのはいたいけな子供達でした。今日から3回にわたって、その話をしたいと思います。

それでは、時計の針を1944年(昭和19年)7月に戻す事にしましょう。7月7日、サイパン島が陥落した日、沖縄県知事宛てに緊急指令の電報が届きました。その内容は 「沖縄から老婦女子を計10万人、本土へ引き揚げさせよ」 というものでした。すぐに各校の校長が集められ、臨時の校長会が開かれました。

その頃沖縄の小学校は、どこも軍部に接収されており、子供達はまともに教育を受けられる状態ではありませんでした。既にこのトピックスでも述べましたが、内地では既に学童集団疎開が進められており、沖縄県でもそれを早急にやれ、というものでした。校長から担任へ、担任から父母へ。
子供達が 「ヤマト(内地)へ行く雪が見られる」 「お船に乗ってヤマトへ行ける」 と、まるで修学旅行のようにはしゃいでいる中、教師や父母達は、一抹の不安を抱えていました。それは経済的なものもありましたが、道中の安全が大半でした。

「疎開へ行ってもいいが、必ず軍艦で行く様にしてくれ」 と請願する所もあった程です。

学校の教師達も学童の家々を次々と回り、疎開への協力を促しました。それでも、道中の安全を考えていたのか、参加希望者はなかなか集まりませんでした。業を煮やした沖縄県知事や那覇市長は、 「何としてでも疎開希望者を集めろ!」 とハッパをかけました。中には 天妃国民学校 の田名先生みたいに、 「ここではまともな教育はできない、向こうで昭和の松下村塾を作るんだ」 、と情熱に燃えて疎開者集めに走る先生もいました。そのようにして、何とか各国民学校ともも疎開者をかき集めました。中には、親に内緒で疎開の申込をする子供もいました。

そんな中で8月21日、3隻の学童疎開船が那覇から長崎へ向けて出航する事になりました。1隻は、元・ 日本郵船 所属の 「対馬(つしま)丸」 。この物語の主人公です。もう1隻は 「暁空(ぎょうくう)丸」 。香港の九龍造船所を接収した時に接収した 「英国からの分捕り船」 でした。そして、元・三菱商事所属の 「和浦(かずうら)丸」 。3隻の中では一番小さい船で、3隻とも貨物船を改造した輸送船でした。この3隻は駆逐艦 「蓮」 「宇治」 に護衛されながら、門司から上海へ一度行き、上海で兵士と干繭1,775梱と胡麻1,000梱を積みこみ、那覇へ来たものです。

そしてその帰りに学童達を乗せて、長崎へと向かう予定でした。 大城立裕氏の小説「対馬丸」によれば行先は「鹿児島」となっていますが、これは大きな誤りで、後に私が「対馬丸」の保有会社だった 日本郵船株式会社 から入手した「日本郵船戦時船史」によれば、遭難状況にも「那覇から長崎向け航海中」と出ています。また、大城氏の小説の中で市長が「この船は3隻とも憎い英国からの分捕り品です」とスピーチしているシーンを書いていますが、先にも書いたようにこれも大きな誤りで、実際の「分捕り船」は僚船の「暁空丸」だけです。

敵の潜水艦に見つかってはまずい、という事なので派手な見送りはされずに、疎開者達は 「大発」 と呼ばれる舟艇(はしけ)に乗って、それぞれの船へ別れました。中には、疎開船が軍艦ではなくただの輸送船と知るやいなや、出発を取りやめた学校もありました。
「軍艦じゃないんですね。」 心配した学校の校長が言いました。すると市長は安心させるかのように、
「大丈夫ですよ。3隻とも今まで、何度も危険を乗り越えてきた、運の強い船ですから。」

18時35分、 「対馬丸」 の教師側の責任者でもあり、今回の疎開の責任者となった田名先生の笛の合図の後、3隻の疎開船は2隻の護衛艦に守られるようにして、那覇港を出航したのでした。3隻の船は三角形の形を組むようにして進み、その外側に護衛艦が付くような形でした。
子供達は救命胴衣を支給され、吊るされた梯子で客室となる、船艙(ダンブル)へと案内されました。そこは高さ3メートルほどの貨物室を上下2層にして、棚のように区切ってあるものでした。また普段貨物を入れる中央の大きな穴のところには、厚さ10センチ位の板が敷かれ、カバーをかけてここに各学校の引率教師や家族、または世話人などが陣取っていました。

何度も遭難訓練が繰り返され、船員や教師達の手によって、救命胴衣の付け方や、船の遭難時の対処法の説明がありました。この 「対馬丸」 に乗っていた学童の数は741名、その他疎開者920名の合計1,661名でした。積載していた貨物に付いては、既に述べましたので省略致します。

やがて夕食のライスカレーが出ました。普段は口に出来ないご馳走に、子供達は美味しい、美味しい、と大はしゃぎで食べていました。まるで修学旅行へ行くかの様に。
この 「対馬丸」 は西沢武雄船長以下86人の乗組員の他、輸送指揮官の若い少尉が1人と、砲兵隊員が41名乗船していました。子供達があまりにも騒ぐので、輸送指揮官は教師側の責任者・田名先生をすぐに呼びつけ、怒鳴るように次の事をきつく注意しました。


(2)むやみに甲板に出てはいけない。
(3)敵の潜水艦はレーダーを持っているので、子供達に大声を出させてはいけない。


田名先生はすぐに子供達を集め、輸送指揮官と共に、これらの注意を言い聞かせました。子供達は無邪気に 「はぁい」 っと、返事をしました。特に輸送指揮官は、 「敵の潜水艦はレーダーを持っているぞ!」 と子供達を半ば脅すように言いました。

それでは、この 「対馬丸」 についてご紹介する事にしましょう。この 「対馬丸」 は大正3年12月22日、イギリス・ラッセル会社製の 日本郵船株式会社 所属の貨物船で、総トン数6,754トン、長さ135.64m、主機(エンジン)はレシプロ2基で最大4,396馬力、速力12ノットというものでした。大正6年6月21日、横浜~東回りパナマ運河経由~ニューヨーク航路第1便として就航し、昭和9年には横浜~ハンブルグ航路へ移籍するなど世界の海を駆け巡りました。しかし昭和12年を過ぎると、戦争の激化と老朽化から、あまり長距離の外航航路用としては使用されなくなり、昭和16年9月より陸軍期間傭船として徴用され、輸送船として活躍するようになったのです。

「対馬丸」 はこの3隻の中では一番大型でしたが、また一番老朽な船でもあり、速度も実際は10ノット (ほぼ自転車並みのスピード) しか出ない状態で、僚船の 「暁空丸」 「和浦丸」 「対馬丸」 のスピードに合わせているような状態でした。そして、護衛艦である駆逐艦 「蓮」 と砲艦 「宇治」 「対馬丸」 にほぼピッタリどちらかがくっついている様な状態でした。しかも、この護衛艦2隻も老朽艦だったと言うのですから、無事に目的地・長崎へ着けるかどうか心配な状況になってきました。

さらに、子供達が寝静まった23時頃、 「対馬丸」 の機関に故障が発生し、速度は9ノットまで落ちました。また 「真珠湾の復讐鬼」 とも言われた米潜水艦 「ボーフィン」 が、執念深く久米島沖で待ち伏せしていたのです…。この続きは、また明日。

学童疎開船「対馬丸」船体写真(提供:日本郵船株式会社)

※尚、この写真は私が日本郵船株式会社様から資料を頂いた時に、共にいただいたものです。

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最終更新日  2008.11.18 21:54:58
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