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名古屋市北区上飯田南町 地下鉄上飯田駅から5分程東へ歩いて行くと左側に鎮守の杜が見えてくる上飯田『六所宮』、個人的にずっと気になっていた神社鳥居の先には蕃塀と拝殿、鎮守の杜に包まれた本殿が見えます道路際に掲げられた木製の由緒書き境内の左の「赤心富士」と刻まれた石碑、前を通る度にいつも気になっていたものです 今回漸く写真に収める事が出来ました云われは以下の様です 支那事変(1937年)の勃発に伴い、上飯田周辺から約60人余りを出兵される事となった彼らの壮行会をこの神社前の前で行ったと云われます 残された少年・少女は武運長久を祈り、毎日一つずつの石を六社宮に奉納した云われます出兵した人達が無事に戻ってくる様に願いを込めて六所社に石を積んだそうですその積み上がった石の山を富士山に準えて、「赤心富士」と名付け石碑を建てた事が始まりの様です 赤心とは「飾りのない真心」の意味で、共産主義の盲信からくるものではなく無事に帰ってきて欲しい、純粋な気持ちが形になったもの 後の太平洋戦争では、六所神社は空襲を受け焼失しますが「赤心富士の石碑」は焼け残り現在に至ります被災から免れたのは、石を積み上げてきた少年・少女らの祈りによるものでしょうか境内左の手水鉢舎と手水鉢、久し振りの龍です脅かす様な顔つきの龍、絶え間なく静水が注がれています緑の杜を背景に建つ白い蕃塀東の鳥居から境内全景、参道の先は社務所になります直線的で大きな屋根には千木と鰹木を持つ遥拝所拝殿前の狛犬遥拝所から見た拝殿六所宮扁額拝殿前に鬼飾りが置かれています、焼失前のものでしょうか西側からの本殿、幣殿、拝殿の全景遥拝所と拝殿全景千木と鰹木が印象に残ります拝殿東の鳥居、天満宮と記された社号標が見えます牛が見当たらないようだがいましたね、鳥居の右に少し上向きでこちらを見ています遥拝所からの全景正面の狛犬に守られた社が天満宮天満宮の右側に貴船社天満宮左側の出雲社(右)と天神社・神明社・八龍社(左)一番左側の弁財天神社北側の玉垣の先には整然と並ぶ社が良く見えます境内にある末社の案内板、良く見れば菅原道真公を祀る天神社と天満宮が二つありますね六所宮創建 / 不詳御祭神 / 天照大御神、素盞男尊、伊弉諾尊、 伊弉冉尊、月夜見尊、 蛭児尊住所 / 名古屋市北区上飯田南町3-97 ℡ / 052-981-4804アクセス / 地下鉄上飯田線「上飯田駅」から東へ徒歩10分程
2018.05.31
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今朝の予報は雨だったような気がするが 以外にも雨は降ってはいないこれ幸い、会社に行く前に茶屋ヶ坂公園の紫陽花を見に行こうあれまぁ随分と咲いたんじゃない色取り取りの紫陽花が曇天の中で咲き競っています赤、なかなかいい色ではないですか 満開には程遠いですが、今ならお気に入り場所で納得のいく一枚が撮れるのでは裸眼で見る紫陽花はとても綺麗なのだか、なぜか写真に収めると、う~~ン、なにか違うなァそれは貴方が下手だから人の目はカメラより素晴らしいものです なにか違うんですが、今朝の紫陽花はこんな状況です盛期は早朝から人で賑わいます、今なら静かです京都にある岩船寺、多宝塔に紫陽花を添えた一枚を撮りに行ったものです この時期お勧めの場所です、今も変わらないのかナ気になるところではあります・・・・・かみさん、行かない? おっと、そろそろ帰ってお仕事〃、今日は傘を忘れずに持っていこう
2018.05.31
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名古屋市南区笠寺町『泉増院』真言宗智山派のお寺で笠覆寺(笠寺観音)の塔頭寺院の一つ山門入口には「玉照姫」の奉納提灯が連なります笠覆寺(笠寺観音)の山門から道路を隔てた南側に鎮座します泉増院には玉照姫が祀られており、「笠寺観音を詣り、玉照姫に詣らねば片詣り」と言われるそうです笠寺観音と比較すると境内は小さく、人目を引き付ける目立つ建造物がある訳でもない赤い鳥居から石段を上り山門へ進む葵の紋の入る門幕が目に入ります山門に掲げられた寺院表札その先の参道には玉照姫の白い幟が立ち並びます山門から右に笠寺観音の仁王門も見えています山門の先は石畳の参道が真っ直ぐに伸びます「生まれ年守り本尊の表札」が掲げられています建物の外観は随分新しめガラス張りの内部には木彫りの仏像が収められています人は生まれ年の干支により、守護してくれる仏が定まっていると云われるそうですその守護してくれる仏を「守り本尊」と呼ぶそうです子年生まれは千手観音、 丑、寅年生まれは虚空蔵菩薩卯年生まれは文殊菩薩、辰、巳年生まれは普賢菩薩午年生まれは勢至菩薩、申、未年生まれは大日如来酉年生まれは不動明王、犬、猪生まれは阿弥陀如来あなたの「守り本尊」は?仏師が誰なのか紹介はありませんが、何れも木の質感が鮮やかな新しい仏像です生まれ歳守り本尊から参道は右に折れ、門から正面に見える建物が不動堂門をくぐり境内へ左手に手水鉢と地蔵堂、正面が不動堂、参道右に本堂と薬師堂の配置となります桜の下に手水鉢不動堂秘仏の玉照姫像は泉増院の第七世住職実道上人が夢のお告げを受けて奉安したと伝えられる代々德川家の姫君や奥女中の信仰が厚かったといわれます「玉照姫伝説」は古くから伝わるシンデレラストーリー玉照姫は、風雨にさらされていた観音様に自分の笠をかぶせてあげたことが縁で、藤原兼平の夫人になった女性笠覆寺(笠寺)や地名の由縁はそこから始まると伝わります縁結びのご利益があり、若いカップルや女子高生がお参りするパワースポットでもあるようです尚、笠覆寺にも新しい玉照堂があります、両方お参りしておけば完璧という事でしょうか本堂現在の建物は1934年(昭和9)、泉増院の大檀家により再建されたもの堂内には大日如来、弘法大師、不動明王が祀られています薬師堂堂内に祀られる「くす薬師」仏師松本明慶の作で2002年(平成14)に奉安されたもの手入れされた庭に咲く満開の桜と本堂本堂の正面にある地蔵堂右が福寿地蔵尊、左は水子供養尊地蔵堂後ろの裏参道は環状線に至ります良く手入れされた庭とトリコロールカラーの奉納提灯が印象的な泉増院(2018/03/31撮影)宗派 / 真言宗智山派創建 / 不明本尊 / 大日如来住所 / 名古屋市南区笠寺町上新町76℡ / 052-821-1366アクセス / 名鉄名古屋本線「本笠寺」下車東へ徒歩5分程
2018.05.28
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かみさんのリクエストで「全国餃子まつり2018in中京競馬場」に行ってきました二人とも競馬場は初めて意外に子供連れで来られていたり明るい雰囲気イベント看板に従い会場へ、競馬場って綺麗なんだ11時頃の会場は、それほど行列もなくかみさんは目当ての餃子をめざし買い求めるパイロン設置に余念のないスタッフ、既に店によっては列ができていますしばらくすると各ブースご覧の様に列が、かみさんは何処へビールがぬるくなってしまうゾイ大量の餃子を両手に持って、かみさんが戻ってきましたまずは昼飲みに乾杯上段左 神戸南京町 香蘭 焼き小龍包 う~ン?ジューシーさがないぞ上段左 浜松餃子 石松餃子(左)、 岐州監修の焼き餃子(中)、宇都宮餃子館 健太餃子(右)どちらも定番餃子、スープがジュワ~と浸出す岐州監修の焼き餃子下段左 津餃子、カリットギョウザ黄金 焼き餃子(右)、これが二人の間では☆揚げたてだった事もあり、カリとした皮の中にあんとスープが溢れ出る、ビールも進む一度に作れる量の違いと調理の内容で随分列の並びは違います列の長さ≒人気ではなさそうですパノラマカーも保存されていました、あのメロディーが流れていますとても懐かしいものに出逢えましたパノラマカーの前に御堂が・・・・・馬頭観音堂競馬場に馬はつきものですからね平成24年に建立されたばかりの様です、堂内には金ぴかの馬頭観音が祀られていましたイベントURLhttp://www.jra.go.jp/news/2018chukyo-pw01/開催日 / 5月26日、27日 17:30まで場所 / 中京競馬場サイレンスズカ広場初めての競馬場は意外にクリアな施設でした競馬をしない者も、お子ちゃまも一日楽しめそうな場所ですね
2018.05.27
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長久手市岩作中縄手長久手市消防署と南側に喫茶店があります、その間に狭い歩道があり小さな畑につながります畑の中ほどに玉垣で囲われた一画が見えて来ます、そこが耳塚になります畑の南には耳塚に通じる歩道が整備され、塚の東側は南北に伸びる県道60号線に接していますそこから眺める光景はまさに畑の中央に耳塚が祀られています塚の左には小さな手水鉢の燈籠、耳塚と記された石碑も見て取れます耳塚左の石碑は平成25年に修復した事を刻む石灯籠は昭和3年建之と読めるこの耳塚は何時頃、誰がどうした理由から建立したのか詳細は良くわかりません首塚は古図でも記されていましたが、耳塚を記した古図は見つけられず1584年(天正12)長久手の合戦に伴う史跡なのか否か確たる根拠はありませんNAGAKUTE GUIDEから引用『天正12年(1584)小牧・長久手合戦がこの地で終戦となったので、首塚・耳塚が残っています。耳塚の発生の詳細は不明ですが、徳川家康が合戦に際して戦いに勝利した時には「敵方の首・片耳をそぎ取り持参して、後日勲功の証とせよ」と指令した、討死者は耳をそぎ落とされたと言われています。岩作里誌には、「耳に病む者茲に祈る。克く感応あり」と書かれているように、古来よりこの耳塚に祈願すれば耳の悪い人は平癒すると言われています。昔は3.9坪の草塚でしたが、昭和3年(1928)12月に手水石、耳塚入口石碑、燈籠などが改修されました。平成25年(2013)4月耳塚入口が住宅で囲まれ、塚も傾いたので、地元有志により参道の整備と塚の基礎工事他の改修が行われました。』長久手市のガイドの内容と碑に記された年号は符合しますが、起点については結局良くわかりません耳塚、忌嫌う様なネーミングですが後に知った事ですが、耳の悪い人を平癒するパワースポットです改めて祈願しに行こうと考えています住所 / 愛知県長久手市岩作中縄手50アクセス / リニモ長久手古戦場下車 北へ徒歩20分程
2018.05.25
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名古屋市南区戸部下東海道本線の高架を潜り一本西の道路を南に直ぐに左に折れると戸部下神明社に続く路地になります左側に拝殿が目に入りますそれほど幅員のある路地ではないだけに、右の某社のコンクリート擁壁が迫り一層狭く感じる戸部下「神明社」はその路地に鎮座しています路地からは鳥居と拝殿が見通せます境内左の手水鉢は生憎静水が注がれていませんでした拝殿前の狛犬は阿像(右)は毬、吽像(左)は子犬を伴う新しいもので昭和8年建之の彫がされています緩やかに弧を描く切妻造りの拝殿は飾りのないシンプルなもの質素な拝殿から正面を眺める高く積まれた石垣の上に柵に囲われて板宮造の社が祀られています神明社とあります、本社の社殿形式(神明造り)を採り入れるのがあるべき姿らしいですが板宮造は昭和に入り兼価な社として採用するされる事が多かったようで良く目にするものですその右には柵のない社が祀られる何れも永年の腐食が進み塗装が剥がれ痛々しい境内右の郷土碑戸部下の新田開発は、1698年(元禄11)当時の山崎村の理兵衛他4人により開拓の歴史が始まりその後、赤塚町の大野屋嘉兵衛に引き継がれ、1728(享保13)年に完成、工事に30年もかかった難事業だったそうです呼称は祐竹新田と呼ばれ、その名残は山崎川に架かる祐竹橋に残っていますこの辺りは尾張德川家のカモ猟の狩場であったとも云われます1742年(寛保2)に今の戸部下新田へ改称されました1933年(昭和8)建之の狛犬と1915年(大正4)建之の常夜灯鳥居の右に隣接して南を向いて弘法堂が建てられていますその裏側には無人の社務所もあります外観はそれらしき装飾がないため堂内に仕舞われた幟があって、ようやくここが弘法堂である事が分かるガラス越しに堂中を窺う薄暗い堂内には弘法大師座像が祀られ、脇には不動明王、観世音菩薩、阿弥陀如来像が祀られています戸部下神明社祭神 / 天照皇大御神創建 / 不明住所 / 名古屋市南区戸部下1丁目3-41アクセス /市営地下鉄名城線堀田駅から南へ徒歩20分程
2018.05.24
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どんよりとした空模様紫陽花の咲き具合を見がてら茶屋ヶ坂公園まで散歩に行ってきました梅雨も近づくと一面に紫陽花が咲き見応えのある公園です今朝の紫陽花既にちらほら咲いていますが彩は葉の緑が占めています一面紫に彩られるにはまだまだ早いか紫陽花を楽しみにされている方、もうしばらくお待ちください毎年蛍が飛び交うせせらぎ沿いピークは過ぎたとはいえ、杜若が今年も綺麗に咲いていました
2018.05.20
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長久手市岩作元門「首塚」長久手市役所から東に歩いた、御嶽山参道入口にほど近い住宅地にそれはあります古い住宅地の中にご覧のように分りやすい「史跡 古戦場 首塚」の案内板が目に入りますなんとも個人的には好まない史跡となるのですが、寺を訪ねて行くとどうしても避けて通れなくなりますこの地は古くは長久手の合戦の舞台となった場所それは尾張名所図会といって1844年(天保15)に前篇(全7巻)、1880年(明治13)の後篇(全6巻)の全13巻でなる、尾張の名勝、古跡、風俗、名産、神社仏閣など絵と文章で説明した地誌があります著者は西枇杷島の青物問屋主人の野口道直と尾張藩士の岡田啓で、挿絵は尾張藩士の小田切春江により作成されましたそこにも長久手古戦場として記されています以下は長久手教育委員会案内板からの抜粋『1584年長久手合戦の舞台となった長久手、この辺りは至るところ戦死者の山となりましたその惨状を目の当たりにし、心を痛めた岩作村安昌寺の雲山和尚は村人達と共に屍を集めて埋葬し塚を築いて供養した。毎年、4月9日の合戦の日には村人によって首塚に香華(こうげ)を手向け法要が営まれますこの法要には名古屋から尾張藩士からの参拝もあったと云われます』長久手周辺には合戦の後に付けられた地名が今も残ります尾張名所図会にも「安昌寺」と南側の田畑だけの場所に首塚が記されています田畑だった当地も今では住宅に変貌、県道57号線が通り面影はありません民家と駐車場に挟まれた奥まった場所に塚と祠が建ち「南無観世音菩薩」の赤と白の幟が靡いています右側の祠地誌には描かれていないこの祠、いつ此方に祀られたかまでは辿り着けませんでした祠内は生花が供えられ一体の石仏祀られています石垣が積まれ一段高く盛られた首塚今年も法要が行われ、新しい塔婆も建てられていました傍らの八重桜、散りゆく花弁が塚の周辺をピンクに彩っています・・・・・合掌のみです首塚住所 / 愛知県長久手市岩作元門アクセス / リニモ「長久手古戦場」下車北へ徒歩30分程
2018.05.18
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名古屋市南区上松町 大江川緑地の北側のにある住宅街の一画、その路地にある小さな祠ですGoogle先生の指示する場所を過ぎてもそれらしきものはない振り返ってよく見れば堂が民家と溶け込むようにして建っています、見落としていました何故だか道路に面した側に堂の正面はなく、駐車場のフェンス側に向け建てられています道沿いに堂の正面があるものと勝手に決めつけていたので前を素通りしていました周囲は住宅街で地蔵堂は民家と月極め駐車場の狭い空き地に祀られています民家の建物かと見まごうばかりの祠ですこれはどうやって拝むのか?堂の前に来て初めて納得、フェンスと堂には僅かな隙間があるなるほど、ここから拝むのね、しかし屈んで拝むにはきついかなァ南区 大江川(おおえがわ)緑地と新田めぐりより抜粋『新田開発の頃、当時の鳴尾村庄屋・永井隆により水門・堤防工事を行った際に、堤に枯れた松を植え根元に石地蔵を祀ったのがこの地蔵と言われます江戸時代に発行された水袋新田絵図・大江通南西角に、「水袋新田鎮守社加霊松神社・星宮神主神事」の文字と一本の大松と祠が描かれていると云われますこの地蔵さまはこの祠に祀られていたもののようですが1943年(昭和18)の大江川改修工事のときに、現在の場所に移されました』祠の内部には東を向いて祀られる一体の地蔵様、表情は風化により窺い知れませんが右手の錫杖は今でもそれと分かります江戸時代から始まった新田開発、それに伴い変貌するこの地を見守って来た地蔵様ですね住所 / 名古屋市南区神松町1-24アクセス / 名鉄常滑線「大同」下車、北へ徒歩15分
2018.05.16
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宇陀方面の寺社を夫婦で回る機会があり、遅めの昼食を取る事にかみさんがミシュラン☆の蕎麦屋があるので寄ってみる?との提案に乗ってみた奈良からお伊勢さんに続く伊勢本街道、蕎麦菜食一如庵はその街道沿いにあります外観は築150年を超える古民家を生かした落ち着いたお店店の東にある駐車場は以外にも空いている、早速聞いてみると単品であればOK庭や店内には当時のアイテムが所々に置かれ古民家の雰囲気が漂う4月後半とはいえ陽射しはもはや夏、日陰の庭を通る風が心地よい苔の緑も生き生きとしています店名の刻まれた一枚板店内は如何にも昔の古民家そのもの落ち着いた雰囲気です囲炉裏端や畳の部屋もあるようです、どの席からも中庭か玄関前の庭が望めます入口側の庭が見える窓際のテーブル席に通されるテーブル脇に季節の花が飾られ、やかんに入れられ出されたお茶、小物も古さを演出しています蕎麦せんべい、コースは当然だめ、単品でもりそばと筍寿司をオーダーする間もなく上品に盛り付けられたもりそばが並べられる、まあ、上品な事まずは、そのままで味わうストレートに蕎麦の風味を感じる印象ではないが、ほんのりと蕎麦の風味が抜ける鰹とサバ節の旨みを感じさせるやや濃いめのつゆを漬けて頂く、上品な蕎麦かみさんの受けは星の様です田舎蕎麦が好きなおやじにはこちらの蕎麦、優等生の様で今一つ突っ込みどころがなく面白くないネギ好き人間としては薬味に添えて頂きたいもの蕎麦湯はそれほど濃厚ではないがとろみがあるものやがて筍の箱寿司が出てきた、これも上品に飾られていますゆばで巻かれ、ほんのりと甘辛いタレに浸けられた筍に木の芽、酢飯にゴマがあわせられている添えられた山菜ともみじが膳を彩る木の芽の香りが口の中で広がり、筍の歯ごたえと相まって味の方も上品コースだと季節の野菜や蕎麦粥など頂けるようですが蕎麦と箱寿司だけで充分満たされました因みにお値段はもりそば@1,000円、箱寿司合わせて4,000円でお釣りが来たような?古民家の風情と静かな空間の中で見て味わう、ミシュラン☆の評価はそうしたところも評価されているようです、それが一如庵の売りなのかもしれませんね平日のランチタイムでしたが女性客が大半、女性受けするお店なのは間違いないでしょう頑張ってお仕事ですね、お父さん蕎麦菜食一如庵住所 / 奈良県宇陀市榛原自明1362定休日 / 第1・3月曜日、火曜日営業時間 / 11:30-14:30 17:00-20:00(午後は前日予約)℡ / 0745-82-0053アクセス / 近鉄「榛原駅」から車で10分ほど
2018.05.15
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長久手市役所から5分程東へ向かいます やがて1級河川香流川が見えて来ます、川沿いを下流に歩くと香流川に架かる高根橋が見えてきます両脇の常夜灯と御嶽山大権現、御嶽山参道の石標が建っています、その先に見える小高い山を目指します橋から下流の眺め 香流川もここまで来ると流れは小さくなります橋を渡り、車乗り入れ禁止の道を10分ほど歩いていきます 周囲は鬱蒼とした木々に覆われ、道は緩やかに登っていきます木々を抜けてくる風が心地いい・・・・・長いものに出逢いそうな予感やがて視界は開け左側に石段が現れます御嶽山の入口到着です入口にはNAGAKUTE GUIDEの案内板か設けられています 携帯でQRコードを読み込むと案内が表示されるようで、長久手の史跡や寺社にはこうした案内を良く見かけます タイムリーに情報を取りに行けるのでありがたい御嶽山までこの石段から「登頂」開始です 随分先に石段の終わりが見えています石段を上り始めると左側に御嶽信仰の山丸三の紋があちらこちらに見て取れます 数えきれないほどの霊神碑が祀られています御嶽山信仰は数ある山岳信仰の一つ起源は約1,200年前、信濃国(現在の長野)で疫病が流行して困窮した際に石川望足が霊峰御嶽山の中腹に、国常立尊、大己貴尊、少彦名尊の御三神を祀って平穏を祈願したことから始まると云われています平安・鎌倉・室町時代におこった民間信仰と山岳信仰が結びつき、当初は修験道の場として、厳しい修行を重ねる道者といわれる限られた者のみ登拝が許されていた1784年(天明4)行者覚明と1794年(寛政6)普寛により広く民衆に開山されたと云われます最近身近で耳にする事が少なくなった講社と呼ばれる御嶽山を崇拝する信者により支えられ、霊神碑は過去の行者を神格化し祀ったもの御嶽登山口に行くと霊神碑が立ち並び、その数は2万基以上ともいわれます、登山口で見かける風景がここにもあります岩作「御嶽山」は1855年(安政2)に明寛霊神と明心霊神が開山したと云われ、日進市の岩崎「御嶽山」と共にこの地方の心願講と呼ばれる講社の中心となっているようです石段を登りきると鳥居が見えてきました、後はこの石段を登れば終わりのようです 石段の数を数えていたものの途中で忘れてしまいました本堂を見下ろす高台、右手に本堂の屋根を見下ろします 山丸三の紋の入る手水鉢が置かれ馬頭観音?が祀られています鳥居周辺至る所に霊神碑が祀られています上は鳥居左の祠祠の手前に高倉神社の碑があります、それがこの祠なのか良くわかませんが、そうであれば天照大神という事でしょうか下は十二大御権の祠祠後方の十一面観世音菩薩と不動明王拝殿正面からの全景拝殿前の狛犬 輪郭のはっきりした凛々しい容姿拝殿から本殿は渡り廊下で結ばれています 本殿前の狛犬はしっかり年季のはいったもの・・・・・犬だと思います 古びて一部は欠け落ちたのでしょうか、左の狛犬はこちらを向いて何かを訴えたい、そんな表情に見えます拝殿から本殿 意外に山丸三の紋は見受けられなかった岩作「御嶽山」天照大神、高皇産霊大御神、神皇産大御神の三柱の神と、国常立尊、大己貴命、少彦名命を 加えた六神を御嶽大神として祀り、岩作御嶽草創の明覚・明心二神を含めた八神が合祀されている拝殿右側に摩利支天と霊神碑 白川講霊神場鳥居から南の眺望、歩いて来た長久手古戦場方向が一望できます上鳥居から南を振り返ると結構な高低差で本堂の屋根を見て取れます下 鳥居から左に下って本堂へ上「御嶽山」の味のある扁額下 岩作「御嶽山」堂内全景山丸三紋幕 山は御嶽、○は宇宙を現し中の三本の線は上から不動明王、中央が大日如来、下が摩利支天を現す様です、講を引き継ぐ方も減少していると聞きます本堂の向いにある手水鉢と祠 祭神は分かりませんでした、後々追記する事にします岩作「御嶽山」創建 / 1830年(天保元年)住所 / 長久手市岩作壁の本33番地アクセス / リニモ「長久手古戦場」駅下車 徒歩で西へ40分程御嶽山境内のシャガと山道入口付近の畦道に咲くツツジ2018/04/16
2018.05.13
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名古屋市南区東又兵ヱ町 なんともクラシカルな地名、などと云わないで地名の謂れは今でこそすぐ東に名四国道が走る交通の要所、住宅地や工場が立ち並ぶ地域に変貌しましたがそもそも笠寺南部からこの辺りは海辺、新田開発により発展してきた地域 南に流れる大江川、天白川の氾濫により水害に見舞われたそうですその被害低減のため海辺まで堀を築いて導いた、この事引き金となり当時この辺りにあった塩浜が荒れたため、堤が築かれその際に誕生したのがこの辺りの新田と云われています1715年(正徳5)、加藤又兵衛と笠寺村の人々が自然と鬩ぎ合い開拓された場所、故に又兵衛さんや源兵衛さんの名が残っています名四国道から一本西筋の細い道路沿い、表通りの県道55号線からは赤い鳥居が正面に見えます又兵衛稲荷神社の全景、大きなクスノキが鳥居の両脇に聳えています境内に入ると両脇にお狐様と狛犬が仲良く並んでいます又兵衛稲荷神社の由緒書き この辺りの寺社の由緒には都市化や交通網の整備に伴う遷座の履歴を良く見かけますがこちらは創建以来ずっとこの地から動くことはなかったようです石段を登り参道を進みます、拝殿右にも立派な楠木があり、3本の楠木が杜を作っています境内左の手水舎、手水鉢には常に水が注がれ澄んでいます拝殿全景、小さな境内に窮屈そうに建つ拝殿に掲げられた扁額拝殿内から本殿を眺める 渡り廊下と幣殿が繋がって本殿に繋がり、拝殿内にも微妙に筆跡が違う扁額が掲げられています稲荷神社で必ず目にするお狐様、ここではあまりお見かけしない拝殿は周囲をフェンスで囲まれ、左手の倉庫とビル、右手の社務所もあり圧迫感があります隣接する公園からの全景、建物の繋がりが良くわかります本殿脇にもお狐様が見て取れました境内を覆うように枝が広がり杜を形作っている保存樹の楠木 街中にあって瑞々しい葉の緑、眼が癒されますどんぐりひろばから見た又兵衛稲荷神社 大きな楠木に包まれ、ビルと住宅に囲まれ佇んでいます又兵衛稲荷神社創建 / 1715年(正徳5)祭神 / 宇迦之魂大神住所 / 名古屋市南区東又兵ヱ町4-20アクセス / 名鉄常滑線「大江」下車、東へ徒歩約20分
2018.05.10
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県道57号線長久手市役所前交差点から北へ田園風景の先にこんもりと盛り上げられた杜が石作神社 夏の風物詩であった花火の復活は望めないものでしょうか長大な玉垣が杜を取り巻く神社南側の田んぼに面した道路際に駐車場があります その正面に鳥居と緩やかに続く石段の先に拝殿が見えます鳥居右の社号標境内左に由緒書清水は絶え間なく手水鉢に注がれるそれは見慣れた龍ではなく獅子頭?の口から注がれます境内へ続く左右の石段登り口の「岩作のオマント碑」岩作の「オマント」は、東切、西切の二地区に馬宿を設け、鉄砲隊や棒の手隊などが隊列を組んで飾り馬を守り固めることから、警固祭りとも呼ばれる東方に聳える猿投山、その麓の猿投神社に周辺の村から集い、飾り馬を奉納したときの形態を祭礼に再現したものらしい奉納灯籠前の石標は1907年(明治40)と刻まれている杜の木陰から参道の石段を登りきった山の頂、広々とした境内が広がります苔むした狛犬がお出迎え境内右の手水舎赤い幟の左には見事な枝ぶりの「円ら椎」の御神木昭和49年、社殿、社務所、手水舎が建て替えられた様です石作(いしづくり)神社全景広々とした境内を生かし余裕をもって建てられています拝殿右の別棟に社務所が設けられています狛犬も彫が深くて綺麗で新しいもの銅葺屋根のコンクリートで作られた神社新しいだけに外壁に塗られた白が映えています扁額も建て替えの際に作り替えられたのだろうか?黄金色に輝いています日差しが良く入り明るい印象の拝殿内から本殿鏡が光り輝いています「長久手市今昔1 旧岩作村 由緒」より抜粋『由 緒 承和元年(834)創建と言われ、平安時代の「延喜式神名帳」に山田郡の石作神社、また「尾張本国帳」に従三位石作天神と記載される古社です。尾張名所図会に御花園天王の正和年中(1312~16)に重修したと記載されています。覚書(1670頃)と寺社誌(江戸前期)には「神明」と呼称されていましたが、張州府志 (1752)には「石作神祠」と記載され、延喜式内社(以下式内社)の「山田郡の石作神社」と認定され、尾張徇行記(1820頃)と尾張誌(1843)に「石作神社」と記載されています。祭神の建真利根命(たけまりねのみこと)は天香山命(あめのかぐやまのみこと・尾張氏の祖)の5世の子孫で石作連の祖です。石作神社は、尾張国で山田郡のほか中島郡・丹羽郡・葉栗郡にも存在し、いずれも式内社で建真利根命を祭神としています。岩作村には、石作氏の子孫または関係者が定住し、石作神社を創建したと考えられています。』拝殿脇の長久手岩作(やざこ)えびすの案内板 こちらの神社、氏子の方による参拝者向けの由緒や天王系譜などの資料が豊富で参拝に訪れた者にはありがたいもの(今上天皇の152代は多分125代の打ち間違いかと思われます) 長久手市自体も史跡に設けた案内板のQRコードから情報を発信するなど、情報提供が積極的な印象を受けます社務所方向から見た全景 晴天の陽射し下、白さが映えます拝殿左に境内摂末社が整然と纏められています 以下は「長久手市今昔1 旧岩作村 由緒」より抜粋『摂末社は、徇行記(1820頃)によれば、熱田社・一御前社・白山社の3社と妻ノ宮(境外社だったが天保期以前に遷座)の計4社でしたが、天保以降に鍬神社が創建され、嘉永2年以降に恵比寿社が遷座しました。さらに、明治政府の合祀奨励策で、明治5年(1872)に山ノ神・直会社と天王社が境内に遷され、明治44年(1911)に富士浅間社と八幡社が遷座しました。現在は、境内摂末社(下写真)として熱田社、一御前社、白山社、津島社、大黒神・恵比寿神神社と山神石祠(2社)があり、境外摂社として直会神社があります。このうち、大黒神・恵比寿神神社は平成25年6月に伊勢神宮の式年遷宮を記念し、石作神社で保管していた大黒神像と恵比寿神像1対(市文化財)を新しい祠の中にお祀りし、摂社として創建されました。』拝殿左から恵比寿神・大黒神神社、恵比寿様と大黒様が祀られています鳥居と狛犬を構えた熱田社奉納年を見忘れましたが年季の入った狛犬です右から白山社、中央が一御前社、左が津島社、その左には小さな石で造られた山神社が祀られています境内左の神楽殿床板を最近手入れをされたのか?新しい様に見受けられます神楽殿後方から拝殿方向全景拝殿と社務所の間の昭和天皇在位50年碑広い境内を持つ長久手の古社石作神社創建 / 834年(承和元年)主祭神 / 建真利根命合祀祭神 / 伊邪那伎大神、伊邪那美大神、天照大御神、武甕槌神、大山津見神、大山咋神、木花開耶姫神、菊理姫命、王辰爾、大己貴命、応神天皇住所 / 長久手市岩作宮後17番地アクセス / リニア長久手古戦場駅下車30分程2018/3/28
2018.05.08
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長谷寺四季を通じて花の彩が絶えない寺です大画軸の公開に合わせ、久し振りに訪れました長谷寺総合受付に続く門前町は以前のままの佇まい 違うとしたら、周囲から聞こえる会話が他国言語の多い事くらいか草餅を買い求め、初瀬川沿いで朝食代わりに頬張る 若い頃はそれ程食べたいものではなかったけれど、いつしか美味しいと感じるようになった総合受付所前の寺号標から先に見える仁王門へ 仁王門に向かう参道右の普門院普門院をから普門院不動堂へ普門院不動堂の扁額と堂内部の不動明王境内左の祠には不動明王と弘法大師の石像が祀られている境内の藤が丁度見ごろを迎えています久しく大きな寺社を訪れていなかっただけに、仁王門の大きさには圧倒されます 両脇の仁王像の他に、楼上に釈迦三尊十六羅漢像が祀られるこの仁王門ですが1889年(明治22)に再建されたもの仁王門扁額の額字は後陽成天皇直筆によるもの 5月31日まで大画軸特別公開が催されており、両脇にはそれを伝える幟が掲げられます長谷寺の象徴とも言える登廊 1039年(長暦3)春日大社の社司中臣信清により建造され、上中下の三廊で構成されています下廊と繋屋、中廊は1889年(明治22)に再建されたもので本堂まで399段あります 日が暮れて長谷型燈籠に灯が入ると昔ながらの優雅な趣となる訪れた4/20は終わりを迎えた桜と、これから盛期を迎える牡丹が登廊に彩を添えてくれています登廊の右手が宗宝蔵 長谷寺六坊の一つで春と秋の二回、長谷寺所蔵の国宝、重文が一般公開されます境内は牡丹が咲き、華やかさを競い合っています歓喜院(上)長谷寺六坊の一つで1701年(元禄14)に再建、近年改装を受けた登廊と西側の参道をつなぐ梅心院横の参道、桜の時期は美しい場所です梅心院(上)江戸時代初期の1603年(慶長年間の初め)に徳川家光が長谷寺へ参詣した記念に建てられたもの慈眼院(下)江戸時代前期の1665年(寛文5年)に長谷寺第8世快壽僧正によって建立下廊を登ると繋屋から右に折れ中廊へ、更に高度を上げて行きます、その先は蔵王堂に至る(上)蔵王堂(下)中廊を登りきった正面には歌人、紀貫之が植えたと云われる「紀貫之古里の梅」の木があり 春には華麗な紅梅を咲かせ目を楽しませてくれます右の赤い祠は縁結びの社中廊を上がった右手に建ち、天正4年1577年創建と云われ、蔵王権現を祀る1650年(慶安3)徳川家光公の命で再建されたもの堂前に置かれる法具は三鈷杵、手で触れると七難即滅・七福即生の御利益があるそうです 堂内に祀られる蔵王権現は吉野の金峯山寺の本尊、吉野からこの地まで渡ってきたと伝わります上登廊の先には本堂の境内が見えてくる 本堂の左にある春日造りで煌びやかな装飾が施された三百余社、1650年(慶安3)の創建登廊を挟んで向かい側には赤い小さな祠が、左から馬頭夫人宮、八幡宮、住吉宮が並んでいます長い登廊もここで終わり鐘楼を過ぎると境内が広がります 左が本堂、右が集印所になります 鐘楼正面には寄棟造りの屋根が美しい愛染堂 1588年(天正16)に観海上人が建立したと言われ恋愛、縁結び、家庭円満の仏様愛染明王を本尊とします愛染堂の右の石段は三社権現、能満院へと続きます三社権現天平5年 徳道上人により創建され、1650年(慶安3)徳川家光により再建される 左から新宮権現、滝蔵権現、石蔵権現と並ぶ 本堂へ繋がる回廊の右に手水舎と六角形の手水鉢国宝の本堂へ向かいます土間からみる外の景色、回廊から堂内越しに外を見る景色は額に入った一枚の絵のようです この時期は新緑が床に写り込み、美しくも神聖な場所であることが伝わってきます本堂は十一面観音菩薩像を祀る正堂と礼堂、その2つの間に石敷きの土間で構成されます十一面観音立像は、10mを超える高さの日本最大級の木造仏像 1536年(天文5)の本堂炎上後の1538年(天文7)に東大寺の仏生院、実清良学により作られたと云われ、右手に錫杖を持ち大磐石の上に立ち、両脇に難陀龍王と雨宝童子を仕えた荘厳な仏像です現在の本堂の再建時に本尊は移動せず、厨子で本尊を覆い、それを包み込むように正堂が建てられ内陣の中に内々陣がある複雑な作りはこうした工法から生まれたものです普段は立ち入りが禁止されている国宝本堂は春と秋の年2回の特別拝観の際には中に入る事ができます「五色線」を左手に付けて頂き、堂内へ薄暗い堂内で仰ぎ見る観音様の大きさと美しさ、堂内に描かれた壁画と一体となって神聖な空間である事が伝わってきます 観音様に跪き、お御足に直接触れてお参りする事が出来ます小初瀬山中腹の絶壁に建てられた舞台造りの本堂は観音堂、大悲閣とも呼ばれます 創建から現在まで幾度か火災に見舞われ焼失、最後が1536年(天文5)と云われる1588年(天正16)に豊臣秀長の援助により本堂が再建がされるも、江戸時代に入り1650年(慶安3)に徳川家光により建て替えられます、それが現在の本堂です 豊臣により再建され僅かな期間で德川に建て替えられた背景には豊臣の遺功を消し去ろうとした徳川の意図が見えて来ます大黒堂付近から本堂西側の曽我地蔵 長谷寺第一世の専誉には曽我物語の曽我兄弟の弟、五郎時致の生まれ変わりという伝承がありこの事から曽我地蔵と呼ばれる所以 長谷寺第六世の良誉により修復、現在の肘塚町付近から移され奉安されたと伝わる十一面観世音菩薩立像 本堂北側の小窓から拝め、本尊が秘仏であった時代にも裏から拝めた事から裏観音と呼ばれる本堂西側の大黒堂 堂前に打ち出の小槌と福袋が祀られ堂内には七福神の一柱である「大黒天」が祀られます開山堂長谷寺を開山した道徳上人が祀られ、西国三十三所各霊場の本尊が祀られています弘法大師御影堂創建は新しく1984年(昭和59)のもので、宗祖である弘法大師1150年遠忌法要に合わせ建てられたもの 流麗な屋根勾配が美しい建物です本長谷寺天武天皇の勅願により、道明上人がここに精舎を造営したことから、現在の本堂に対し本長谷寺と呼ばれます686年(朱鳥元)、道明上人は天武天皇の病気平癒のため銅板法華説相(千仏多宝仏塔)を鋳造し本尊とした事から始まる一切経蔵露盤宝珠を乗せた宝形の堂、1561年に再建されたと云われる五重塔檜皮葺の整ったフォルムが美しく、周囲の山々に溶け込み四季折々美しい情景を与えてくれます 塔自体の創建は1954年(昭和29)と新しく、戦没者の慰霊の為に創建されています戦後に建てられた最初の塔で「昭和の名塔」と呼ばれるそうで、昭和生まれの私にとって長谷寺を代表する建造物の一つ塔の南隣にベンチの置かれた苔むした一画があります、塔を眺める絶景ポイントですが そこは基壇と礎石が残る三重塔跡、案内板がなければ気付く事が無いかも豊臣秀頼により再建され、1876年(明治9)まで現存しましたが、祝融の災い(落雷)により失ってしまいました納骨堂地蔵菩薩を本尊興教大師堂奥の院正堂真言宗中興の祖、興教大師を開基陀羅尼堂奥の院の礼拝のための陀羅尼堂と興教大師堂を併せ菩提院と呼ばれる本堂から見た本坊全景 左から護摩堂、大講堂・大玄関・庫裏の並びが良く分かります本坊への入口、中雀門の両脇には牡丹の花が植えられ、間もなく見頃を迎える 牡丹と本堂を撮影するのに絶好のポイントで、多くの方が足を止める場所 本坊1667年(寛文7)徳川将軍の寄進で建立される、1911年(明治44)に炎上、現在の堂宇は1924年(大正13)に再建されたもので破風飾りも美しく、また大玄関から見る本堂の風景も趣があります大観音大画軸御開帳は本坊大講堂で公開されています本堂で頂いた御朱印と御詠歌大画軸御開帳限定販売の御朱印帳と朱印御朱印帳を開けると十一面観世音菩薩の解説が記されています四季折々の美しさ、朝な夕なの表情の移り変わり 長谷寺はいつも人を引き付ける魅力のある寺です長谷寺宗派 / 真言宗豊山派創建 / 686年(朱鳥元年)本尊 / 十一面観世音菩薩長谷寺住所 / 奈良県桜井市初瀬731-1アクセス / 東名阪自動車道⇒名阪国道経由 2:30程
2018.05.05
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