星とカワセミ好きのブログ

2021.11.14
XML
カテゴリ:
2021年10月29日(金)午後、妻と一緒に小田原城へ行き、天守閣からの景色を見ました。
西の方角には、石垣山が見えました。

1590年に豊臣秀吉が小田原城を包囲した時、秀吉は小田原城を見下ろすことができる石垣山に、俗にいう「石垣山一夜城」を造りました。城を造った後に、全面の木を切ったので、小田原城からは、急に城が現れたように見えたようです。
司馬遼太郎さんの本を読むと、ここで豊臣秀吉と徳川家康が立小便をしながら話をし、家康が三河から関東の江戸城に行くことが決まりました。
私はこの辺りの話が大好きで、何度も読みました。

それから伊豆半島、真鶴半島、伊豆大島、江の島、三浦半島、大磯丘陵、丹沢の大山、三ノ塔、塔ノ岳、蛭ヶ岳、檜洞丸などが見えました。
丹沢は、時々山登りをしたことがあります。

小田原の「外郎(ういろう)売り」は、歌舞伎の長台詞で有名で、外郎という薬を売る口上です。私は学生の頃、台詞を全部覚えました。東海道の地名が続く有名な一部を紹介します。
「おっと合点だ、心得田圃の川崎・神奈川・保土ヶ谷・戸塚を走って行けば、お灸を擦り剥ぐ三里ばかりか、藤沢・平塚・大磯がしや、小磯の宿を七つ起きして、早天早々、相州小田原、透頂香。隠れござらぬ貴賤群衆の、花のお江戸の花ういろう」



ーーーーーーーーーーー
司馬遼太郎さんの本の中で、小田原城や石垣山一夜城について記載がありますので、少し紹介します。

ーーーーーーーーーーーーーーー


↑ 小田原城。


↑ 小田原城天守閣入口。

【西側】









【南側】






↑ 西湘バイパス。












↑ ズームで写す。













↑ 小田急ロマンスカーMSE60000形。




↑ 小田原名物の外郎(ういろう)。














【インド象のウメ子】

↑ インド象のウメ子。


↑ インド象のウメ子の紹介文。
ウメ子は、昭和25年(1950年)に推定3歳で来園したインドゾウです。
約60年にわたり多くの市民と観光客から親しまれていましたが、平成21年(2009年)9月17日、推定62歳で永眠しました。




↑ 小田原城歴史見聞館。






↑ 銅門(あかがねもん)。


↑ 「東京エクストリームウォーク100キロ」の小田原城会場。


ーーーーーーーーーーーーーーーー
手元にある司馬遼太郎さんの本で、小田原城に関するもの。

 「司馬遼太郎と城を歩く/司馬遼太郎/光文社文庫」

↑ 「司馬遼太郎と城を歩く/司馬遼太郎/光文社文庫」。



↑ P65~73に、「小田原城と『箱根の坂』」として、小田原城と北条早雲の記載がある。
「鞍作りの伊勢新九郎が、京から駿河へ下り、やがて北条早雲として関東一円の覇者となる - その数奇な人生を痛快に描いた長編小説。



↑ P69 【小田原城データ】


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「箱根の坂/司馬遼太郎/講談社文庫」 (北条早雲について)


↑ 箱根の坂(上)、(中)、(下)/司馬遼太郎/講談社文庫。


↑ 「箱根の坂(下)/司馬遼太郎/講談社文庫」
裏表紙の解説文。
「関東制覇をめざして、先ず伊豆を切り取った(北条)早雲は、越えがたい箱根の坂を越えて、ついに小田原攻略に成功した。まさにこの時、戦国の幕が切って落とされたのである」



↑ P338~339。
北条早雲が箱根を越えて小田原を奪取した事が書かれている。

ーーーーーーーーーーーーー
「関ケ原/司馬遼太郎/新潮文庫」


↑「関ケ原(上巻)、(中巻)、(下巻)/司馬遼太郎/新潮文庫」


「関ケ原(上巻)/司馬遼太郎/新潮文庫」



↑ P104~105。小田原城を包囲した時、豊臣秀吉と徳川家康が石垣山で連れ小便をした時の話。

「秀吉は関東の支配者であった小田原の北条氏を攻囲したとき、ある日、石垣山の本陣から小田原城を見下ろし、不意に、『徳川殿、徳川殿』とよび、『俗に連れ小便を申す。お前もなされよ』と、がけっぷちへ歩みより、前をたくしあげて放尿した。家康もやむなく放尿した。
『あれをみなされ』と秀吉は眼下の小田原城を指さし、『あの城のほろぶも、時日はござるまい。北条氏がほろべば、関東八州は貴殿に進上つかまつろう』
家康、おどろくまもなく、『さればどこに城をきづきなさる。江戸という郷村がある。そこがよろしかろう』と言った。
秀吉は、家康がその実力で切りとった三河、駿河、遠江、信州、甲州など日本の中部に蟠踞(ばんきょ)していることが豊臣家の治安上おもしろからず、五州から一躍八州の太守にする、という餌をもって箱根から東へ追った、というわけである」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「功名が辻(一)、(二)、(三)、(四)/司馬遼太郎/文春文庫」

↑「功名が辻(一)、(二)、(三)、(四)/司馬遼太郎/文春文庫」(土佐の大名になった山内一豊の話)


↑「功名が辻(二)/司馬遼太郎/文春文庫」

P230~231に、「石垣島一夜城」について記載がある。
「『関白殿下はどこにお住まいでございましょう』
『いまは早雲寺だが、どうやら小田原城を見おろす場所に大きなお城をおつくりあそばされるようだ』
秀吉の秘密城ができあがりつつある」

「秀吉が、小田原城攻撃のためにつくった付け城というのも、この男の性格を知るうえでおもしろい建築である。単なる野戦用の急増の建物ではない。天守閣まである。
場所は小田原城の西南方の高地石垣山にあり、そこからは敵城をゆうゆう見おろすことができる。
『大阪城、聚楽第にまさるとも劣らず』とさえいわれるほどの大規模なもので、本丸のまわりだけで二百四十間もある。
工事は、秘密におこなわれた。
前面に樹木が繁っているため、小田原城から何も見えない。
工事半ばで、城の木組みに戸障子をはりつけて遠目には壁に見せ、しかるのちに前面の樹木を伐りはらわれたから、下の小田原城内の者は、『あっ』と息をのんだ。
一夜にして城が湧き出るように出来あがっていたからである」




↑ P234~235。 石垣山での豊臣秀吉と徳川家康の連れ小便の場面。
「秀吉は急に尿意をもよおしたらしい。『さてさて、小便をしよう。どうじゃ徳川殿、おなじするなら二人いっしょにやろう』
『はっ』
家康もやむをえず前をまくった。放尿しようとすると、秀吉は、待った待った、ととめて、『敵方にひっかけてやれ』と二人で石垣のはしへ立ち、小田原城の方角にむかって放尿し始めた。
しながら、『どうだ、この城と北条領、攻めとれば即刻そなたにつかわそう』
家康の関東入りはこのときにきまった」

ーーーーーーーーーー
「新史太閤記(上)、(下)/司馬遼太郎/新潮文庫」


↑ 「新史太閤記(上)、(下)/司馬遼太郎/新潮文庫」
豊臣秀吉が日本全土の統一をするまでの物語が書かれているが、この本には「小田原合戦」について、全然触れられていない。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021.11.25 05:45:29
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: