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【旅行10日目】スペイン・セビーリャ2025年5月26日(月)、セビーリャ大聖堂の中にある「コロンブスの墓」を見ました。1891年頃に、スペイン人彫刻家のアルトゥーロ・メリダ:Arturo Melida)氏が、アメリカ大陸到達400周年の記念行事の一環で制作しました。コロンブスがいた大航海時代にスペインを構成していたカスティーリャ、レオン、アラゴン、ナバラの4国王が、コロンブスの棺を担いでいるデザインで、各王は紋章入りの衣装、武具を持っています。コロンブスの骨は、色々な場所を転々としてきました。1506年にスペインのバリャドリッドで亡くなり、そこで埋葬されていましたが、1509年頃、息子ディエゴの意向で、セビーリャ近郊のカルトゥハ修道院に移されます。16世紀半ば頃にはイスパニョーラ島(現在のドミニカ共和国)のサントドミンゴ大聖堂に移送されますが、スペインがサントドミンゴの支配権を失ったため、1795年にキューバ・ハバナへ移送されます。1899年にスペイン=アメリカ戦争でスペインはキューバを失い、遺骨はスペインに戻され、1899年にセビーリャ大聖堂の「コロンブスの墓」に収められました。4王の位置は次になります。①前方左:カスティーリャ王(城の紋章)②前方右:レオン王(ライオンの紋章)③後方左:アラゴン王(縦縞の紋章)④後方右:ナバラ王(鎖の紋章)↓ セビーリャ大聖堂内のコロンブスの墓。↓ 4王が棺を担いでいる。1891年頃に、スペイン人彫刻家のアルトゥーロ・メリダ:Arturo Melida)氏が、アメリカ大陸到達400周年の記念行事の一環で制作。ーーーーーーーーーーーーーー①前方左:カスティーリャ王(城の紋章)。ーーーーーーーーーーーーー②前方右:レオン王(ライオンの紋章)。ーーーーーーーーーーーーーー③後方左:アラゴン王(縦縞の紋章)。ーーーーーーーーーーーー④後方右:ナバラ王(鎖の紋章)
2026.04.03
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【旅行10日目】スペイン・セビーリャ2025年5月26日(月)、セビーリャ大聖堂(カテドラル)を見学しました。セビーリャ大聖堂ですが、元々この地にはモスク(イスラム教の寺院)がありましたが、1401年に教会参事会の決定で大聖堂を建設することが決定され、1519年に完成しました。私は1991年にセビーリャ大聖堂を見学したことがあります。その時に購入した本「セヴィリァの全て/escudo de oro.s.a. /1989年1月第6版」のp8に、次の記載があります。1248年、セヴィリアがフェルナンド3世によって征服された後、市は再びキリスト教化され、街は新しい様式を刻まれる。しかし、これによってアラブ時代の多くのおもかげが破壊されるようなことにはならなかった。大回教寺院(モスク)の後地にセビリアの大聖堂が建設された。その建立は1401年7月8日に決定され、14世紀末にアロンソ・マルティネスの指揮のもとに工事が始められた。セヴィリアの大聖堂は、スペインで最も大きい教会であり、キリスト教世界でも3番目にあたる。この教会の面積を凌ぐのは、ローマのサン・ピエール寺院およびロンドンのサン・ポール大聖堂だけである。大聖堂は、計画を企てた人々、またその建立を決定した人々の野心的な熱狂を完全に反映している。教会参事会員は、断言している。「あまりに巨大で、完成した寺院を見る人々が私たちを狂人だと思うような寺院を建立しよう」↓ セビーリャ大聖堂。↓ Replica del Giraldillo : ヒラルディージョのレプリカ。セビーリャ大聖堂のヒラルダの塔(鐘楼)の最上部にあるヒラルディージョのレプリカが、聖クリストファーの門の前に置いてある。ヒラルディージョ(El Giraldillo)とは、巨大なブロンズ製の風見像の事。「信仰の勝利(Triunfo de la Fe)を表わす女性像で、手には盾とヤシの葉(殉教の象徴)を持ち、風向きにより風見として回転する。↓ チケット販売所までの長い列。↓ 聖クリストファーの門の飾り。↓ 入場券を購入して中に入る。↓ 袖廊にあるコロンブスの墓。↓ コロンブスの墓は、当時スペインを構成したレオン、カスティーリャ、ナバーラ、アラゴンの4人の国王が棺をかついでいる。14世紀の彫刻家、アルトウロ・メリタの作。↓ コロンブスの墓。↓ 主祭壇。↓ オレンジの中庭。
2026.04.02
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【旅行10日目】スペイン・セビーリャ2025年5月26日(月)、サイダ・ブティックホテル:ZAIDA BUTIQUE HOTELで荷物を置いた後、街を歩いてセビーリャ大聖堂(カテドラル)まで行きました。日差しが強く、前日のコルドバと同じように30度以上の気温が続き、フライパンの上を歩くような感じです。↓ サイダ・ブティックホテルを出た。↓ エル・ポスティーゴ市場。↓ ジャガランダの花。↓ セビーリャ大聖堂。↓ インディアス古文書館。↓ 路面電車。↓ セビーリャ大聖堂に入るため、入場券を買う列に並ぶ。
2026.04.01
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【旅行10日目】スペイン・セビーリャ2025年5月26日(月)、セビーリャ駅から宿泊所のZAIDA BOUTIQUE HOTEL:ザイダ・ブティック・ホテルまで移動するにあたり、私は歩いていく主張したのですが、妻は猛暑で大きい荷物を持っているのだからバスに乗ると主張し、結局バス移動することにしました。バスは32番に乗車です。メトロポル・パラソルを通過し、ドゥテ・ケル・デ・ラ・ビクトリア広場:Plaza del Duque de la Victoriaで下車し、目的地のサイダ・ブティック・ホテルで荷物を置かしてもらい、観光に出かけました。サイダホテルには、ザイダの胸像が置いてありました。サイダはアルカサバのムスリムの女王で、後にカスディーリャ王アルフォンソ6世の妻となった女性です。サイダはセビーリャのイスラム王家の女性で、コルドバ太守のアブー・ナスル・アル=ファト・アル=マムーンと結婚しましたが、1091に北アフリカのアルモラビト朝が侵攻してセビーリャが陥落した時、夫は殺害され、サイダは未亡人として、キリスト教カスディーリャ王アルフォンソ6世の宮廷に保護を求めました。サイダは王と関係を結び、キリスト教に改宗して「イサベル」と名乗り、サンチョという名の息子が生まれました。↓ セビーリャ・サンタフスタ駅の駅前で、一番遠いところにバス停があった。↓ 乗車賃の用意。↓ セビーリャのバス。↓ 32番のDUQUE DE LA VICTORIA行きに乗る。↓ バスの中の妻。↓ メトロポール・パラソルが見えてきた。↓ ドゥテ・ケル・デ・ラ・ビクトリア広場:Plaza del Duque de la Victoria。↓ この公園で下車。↓ EL COLTE INGRES:エル・コルテ・イングレス・ショッピングセンター。↓ バス停で降りた。↓ EL COLTE INGRES:エル・コルテ・イングレス・ショッピングセンター。↓ ジャカランダ(Jacaranda)の青い花。↓ 路地で道に迷う。↓ やっとZAIDA BOUTIQUE HOTEL:サイダ・ブティック・ホテルを見つけた妻。↓ フロントで、荷物を置かしてもらうよう交渉する妻。↓ イスラムの中庭風。↓ ZAIDA (1063-1101)Fue una princesa musulmana de la Alcazaba, que acabo confirtiendose en esposa del Rey Alfonso VI de Castilla.サイダ:彼女はアルカサバのムスリムの女王で、後にカスディーリャ王アルフォンソ6世の妻となった。サイダはセビーリャのイスラム王家の女性で、コルドバ太守のアブー・ナスル・アル=ファト・アル=マムーンと結婚しましたが、1091に北アフリカのアルモラビト朝が侵攻してセビーリャが陥落した時、夫は殺害され、サイダは未亡人として、キリスト教カスディーリャ王アルフォンソ6世の宮廷に保護を求めました。サイダは王と関係を結び、キリスト教に改宗して「イサベル」と名乗り、サンチョという名の息子が生まれました。
2026.03.31
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【旅行10日目】スペイン・セビーリャ2025年5月26日(月)、コルドバ駅からセビーリャ駅まで鉄道で移動しました。セビーリャ駅で、私はホテルまで歩くと主張したのですが、妻は暑い中を歩きたくないと言って、ホテル近くまで走るバスの路線図をチェックし、駅前広場の遠いところにあるバス停に行きました。↓ セビーリャ・サンタ・フスタ駅。↓ RENFE 490系 RENFE AVANT 08694 セビーリャ・サンタフスタ駅11:19着。↓ 駅の外に進む。↓ バス停は、奥の方にある。↓ バス停に進む。↓ セビーリャ・サンタフスタ駅。↓ バス停まで横断歩道を歩く。↓ 駅の端に、バス停があった。↓ 行き先と料金を確認する妻。
2026.03.30
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【旅行10日目】スペイン・コルドバ → セビーリャ2025年5月26日(月)、RENFE 490系 RENFE AVANT 08694 コルドバ駅10:27発、セビーリャ・サンタフスタ駅11:19着に乗車しました。コルドバ、セビーリャ間で進行方向左側の車窓を見ていたのですが、南の水平線からいきなり輝く光が目に飛び込んできて、心底ビックリしました。昼なのに眩しく、地上に小さい太陽がある感じです。塔の上から光が発せられているようで、何の施設の光か分からず、とにかく一生懸命カメラをズームにして撮影しました。約50分の旅でしたが、半分以上はその光を追っていました。この光の施設は、「TORRESOL ENERGY GEMASOLAR :トーレソル・エナジー・ヘマソラール」と呼ばれ、集光型太陽熱発電所でした。ヘマソラールは「太陽の宝石」という意味で、2011年10月4日に開設されました。セビーリャ郊外に2569個のヘリオスタット(反射板)を用いて、高さ140メートルの中央塔に集光させて発電を行うタワー式太陽熱発電を行います。反射板は20秒ごとに向きを変え、太陽の動きに合わせて太陽光線がタワーに当たるように調整されています。出力19,900キロワットです。ーーーーーーーーーーーーー翌日の5月27日夕方、セビーリャ・サンパブロ空港からポルトガル・リスボン・ポルテラ空港まで飛行機に乗ったのですが、飛行機の機窓から、鏡を円形に並べ、その中央にあるタワーに光を集めた太陽熱発電施設を見て、前日に列車から見た施設も太陽熱発電施設だったことを理解しました。以前、テレビの番組で、アメリカの砂漠地帯にこの太陽熱発電施設があり、太陽熱を鏡で集中させるためその施設の空気が高温となり、鳥たちがその施設を通ると、一瞬のうちに焼き鳥になって即死、落下するため、問題になっているという内容を見たことを思い出しました。日本に帰って太陽エネルギー発電に関する本を読みました。「今日からモノ知りシリーズ トコトンやさしい太陽エネルギー発電の本/山﨑耕造/R&Tブックス/日刊工業新聞社」P88~89に「世界の太陽熱発電は」という記事があり、スペインの太陽熱発電についても次のように書いてあります。スペイン南部アンダルシア地方は「欧州のフライパン」と呼ばれ、特に日差しが強いことで有名です。このセビリア近郊ではタワー方式のPS10(Planta Solar 10)があり、定格11,000ワットです。642枚の反射鏡で115メートルのタワーの上部に反射光を集め、その熱で蒸気による発電を行います。2009年には、その2倍の発電量のPS20が運転を開始、165メートルのタワーを設置し、ヘリオスタット(反射板)はPS10のほぼ倍の1255枚が使われています。↓ RENFE 490系 RENFE AVANT 08694 コルドバ駅10:27発、セビーリャ・サンタフスタ駅11:19着電車。↓ 乗車する妻。↓ 進行方向左側の席を予約していた。↓ コルドバ駅発車。↓ はるか遠くに、眩しく輝く光の塔が見えてきてビックリした。↓ 何の施設か分からず、夢中で写真を撮った。↓ 大げさに言うと、太陽と同じくらい眩しく見えた。↓ セビーリャ・サンタフスタ駅に着く。↓ セビーリャ・サンタフスタ駅。ーーーーーーーーーーーーー【ご参考】2025年5月27日(火)、スペイン・セビーリャ・サンパブロ空港からポルトガル・リスボン・ポルテラ空港まで飛行機で移動していたとき、機窓から太陽熱発電施設 PS10(PRANTA SOLA 10)、PS20(PLANTA SOLA 20) が見えた。これで前日の5月26日に列車の車窓から見た施設が太陽熱発電所だったことを理解した。↓ 二つの光の点が見える。↓ 左側がSP20,右側がSP10。↓ 左側がSP20、右側がSP10。↓ SP20。↓ SP10。
2026.03.29
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【旅行10日目】スペイン・コルドバ2025年5月26日(月)朝、イタカ・コロンホテルから徒歩でコルドバ中央駅に移動し、RENFE 490系 RENFE AVANT 08694 コルドバ駅10:27発、セビーリャ・サンタフスタ駅11:19着に乗車しました。コルドバ駅の様子を撮った写真を紹介します。↓ コルドバ駅。↓ 10:27 Sevilla Santa Justa:セビーリャ・サンタフスタ駅行きに乗車する。↓ RENFE (スペイン国鉄)窓口。↓ スペインの有名な雑貨ショップ「ALE HOP: エール・ホップ」。↓ CANDY & GOスペインの有名なお菓子であるチュッパチャップスを販売する会社。↓ お土産用になるかチェックする妻。↓ 10:27 セビーリャ行き鉄道は、4番プラットフォームとの案内が出た。↓ 荷物検査を受ける。↓ 4番プラットフォームに進む。↓ RENFE 447系電車。ーーーーーーーーーーー↓ RENFE 450系電車。ーーーーーーーーーーーー↓ RENFE 130系。ーーーーーーーーーーーー↓ 4番プラットフォーム。RENFE 490系 RENFE AVANT 08694 コルドバ駅10:27発、セビーリャ・サンタフスタ駅11:19着↓ RENFE 490系が到着した。↓ RENFE 490系 RENFE AVANT 08694 コルドバ駅10:27発、セビーリャ・サンタフスタ駅11:19着に乗車する妻。
2026.03.28
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【旅行10日目】スペイン・コルドバ2025年5月26日(月)朝、イタカ・コロンホテルの部屋で前日購入した食材を食べ、チェックアウトしました。荷物を持ってコルドバ駅に移動したので、その時の写真を紹介します。↓ 2025年5月26日(月)朝、ホテルの部屋にて。↓ 前日に「EL CORTE INGLES : エル コルテ イングレスショッピングモール」のスーパーマーケットで購入した食材を食べる。↓ ミニクロワッサン。↓ ハム。↓ ダノンヨーグルト。↓ バナナ。↓ ミックスジュース。↓ 水。↓ 部屋から見た中庭。ーーーーーーーーーーーーー↓ イタカ・コロンホテルを出発。↓ RTVA カナル・スル・ラジオ・アンド・テレビジョン。↓ 幸運の精霊「El Genio de la Suerte」ランプの魔人が四葉のクローバーを持っており、幸運を象徴するキャラクター。↓ アグリクル・トゥーラ庭園。↓ 公立図書館。↓ ジャカランダ(Jacaranda)の青い花。↓ コルドバ駅前広場。↓ コルドバ駅。
2026.03.27
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、私がお腹を壊したので、夕食は和風にしようと妻が決め、ホテル近くの「SUSHICOLOR UN MUNDO DE SABOR Y COLOR:スシカラー・味と色の世界」に入りました。日本料理屋風ですが中華系のようで、カツ丼を注文すると、カツがとても薄く、ご飯が中華スープで満たされていました。ホテルに帰ると、持病用の薬と正露丸を飲んで寝ました。↓ コルドバのスシカラー。↓ スぺインの有名な「MAHOU : マオウビール」。マドリードの「MAHOU SAN MIGUEL : マオウ・サン・ミゲル」社の製造ビール。↓ 自動配膳機。↓ キッコーマンのマークが見える。↓ 餃子。↓ カツ丼。ご飯が中華スープで満たされている。↓ 店の外。↓ ホテルで持病用の薬と正露丸を飲んだ。
2026.03.26
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、コルドバの「EL CORTE INGLES :エル コルテ イングレス ショッピングモール」に行き、最上階にあるスーパーマーケットで妻が買い物をしました。翌朝用の食材の買い出しです。↓ コルドバの「EL CORTE INGLES :エル コルテ イングレス ショッピングモール」最上階。↓ スーパーマーケット。↓ 店内風景。↓ YATEKOMO カップヌードル。YATEKOMOはスペイン語で、「今すぐ食べられる」という意味。スペインの食品メーカー GALLINA BLANCAが販売している。GANTA UN VIAJE A JAPON : 日本旅行が当たります!↓ モンスターエナジードリンク。↓ 水。↓ ポテトチップス。↓ ヨーグルト。↓ チーズ。↓ 店内は寒いので、妻は一枚羽織った。↓ ハム。↓ レジで支払い。↓ 資生堂。一階に戻る。↓ 店の入り口。↓ 店のビル。
2026.03.25
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、イタカ・コロン・ホテル(ITACA COLON)に入り、チェックインしました。朝にホテルに寄ってカバンを預けていたので、受け取りました。一日中外が暑かったせいか、私はお腹を壊してしまい、夜はスペイン料理ではなく和風にしようという事になりました。妻はホテル近くにある日本料理屋を2件検索し、実際に「スシカラー:SUSHICOLOR」と「シブヤ:SIBUYA」という店を見に行って値段を確認し、夜はスシカラーに行こうということにしました。その後、妻の要望でEL CORTE INGLES : エル コルテ イングレス ショッピングモールに行きました。驚いたのは、スーパーマーケットコーナーがビルの最上階にあったことです。日本ならば、ビルの地下1階あたりでしょうか。ショッピングモールの1階から最上階までの店舗の様子を紹介します。↓ イタカ・コロン・ホテル(ITACA COLON)。↓ ホテル1階の通路。↓ 部屋に入る。↓ エレベータで降りる。↓ ホテルを出た。↓ 「スシカラー:SUSHICOLOR」をチェック。↓ 次に「SIBUYA:シブヤ」をチェック。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 妻の要望で、「EL CORTE INGLES : エル コルテ イングレス ショッピングモール」に行った。スーパーマーケットが最上階にあり、エスカレーターで上がりながら、各フロアを見た。
2026.03.24
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、ローマ橋を往復した後、グアダルキビル川のそばにあるアルカサル(城)に行くと、日曜日は14時45分までで閉館になっており、残念ながらアルカサルは見られませんでした。将来、再びコルドバに行く事があれば、アルカサルを見たいと思います。ホテルでチェックインができる時間になっているので、ホテルに戻ることにしました。途中の風景写真も載せます。↓ アルカサル(城):ALCAZAR ・ライオンの門:PUERTA DE LOS LEONES.日曜日は14時45分で閉館となっていたため、中を見られなかった。↓ 日向ぼっこをする鳩。↓ キリスト教の王たちのアルカサル:ALCAZAR DE LOS REYES CRISTIANOS.↓ キリスト教の王たちのアルカサル:ALCAZAR DE LOS REYES CRISTIANOS.↓ 記念写真。 コルドバ訪問(VISITANDO CORDOBA) ↓ 川そばを進む馬車。↓ 大天使ラファエルの凱旋記念碑。↓ ラファエル像。↓ ギターの弾き語り。妻が熱心に聴いていた。↓ ホテルの方に進んでいく。↓ 暑いので、妻はタオルを頭に置いて、日陰を選んで歩いた。↓ バロソ通り。↓ サン・ファン教会(Iglesia de san Juan)。↓ エドゥアルド・ルセナ・バジェホ記念碑。(EDUARDO LUCENA VALLFEJO)1849年1月22日にコルドバで生まれた作曲家。↓ サン・ニコラス・デ・ラ・ビシャ教会(Iglesia de San Nicolas de la villa)↓ トラマス TRAMAS店。↓ アントニオ・ガラと彫刻家セサール・オリコ。(Antonio Gala de Cesar Orrico)アントニオ・ガラは、スペインを代表する詩人・劇作家・小説家・ジャーナリスト。1936年生まれでコルドバ出身。2002年に若い芸術家を支援するため、アントニオ・ガラ財団を設立した。↓ アントニオ・ガラ。↓ サン・ヒポリト文化センター:CENTRO CULTURAL SAN HIPOLITO.
2026.03.23
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、市内を流れるグアダルキビル川に架かるローマ橋(Puente Romano de Cordoba)を渡り、ローマ橋を守るために築かれたカラオーラの塔を見て、そばの公園で休憩しました。ローマ橋は紀元前1世紀に古代ローマ人により造られました。長さ280m、幅9メートルで、16個のアーチで構成されています。橋げたの先端は「カットウォーター」と呼ばれる三角形の角があり、水流の圧力を分散する構造になっています。橋の下流には、昔水車により使われていたレンガ造りの製粉所が残っていました。カラオーラの塔は、13世紀にイスラム王朝、ムワッヒド朝によって建てられましたが、14世紀にキリスト教のカスティーリャ王により、現在の形に増築されました。カラオーラの塔の中にあるアル・アンダルス博物館を見ようと思いましたが、妻が疲れたというので見るのは止めました。↓ コルドバ教区図書館:Diocesan library of Cordobaと、グアダルキビル川。↓ ローマ橋とグアダルキビル川。↓ グアダルキビル川。↓ ローマ橋とメスキータ。記念写真。↓ 製粉所:Molino de Enmedio。↓ 大天使サン・ラファエルの像。ローマ橋の中間に設置してある。↓ カラオーラの塔。13世紀にイスラム王朝、ムワッヒド朝によって建てられたが、14世紀にキリスト教のカスティーリャ王により、現在の形に増築された。カラオーラの塔の中にあるアル・アンダルス博物館を見ようと思ったが、妻が疲れたというので見るのは止めた。↓ 製粉所。↓ 橋脚にカットウォーターという水流を分散する形になっている。↓ ローマ橋とメスキータ。↓ メスキータ。↓ 対岸の広場で休憩する妻。気温35度。↓ この水車でグアダルキビル川の水をくみ上げ、宮殿に運んでいた。↓ 橋の門(プエルタ・デル・プエンテ)。↓ メスキータ。↓ 記念写真。↓ コルドバの有名なパティオ祭り。
2026.03.22
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、気温35度の暑い中、コルドバの町を散策しました。メスキータ近くのトリホス通りを歩き、「Roman Catholic Diocese of Cordoba : ローマカトリック・スペイン・コルドバ司教区」の中庭を格子越しに見ました。サン・ラファエルの凱旋記念碑、プエルタ・デル・プエンテ(橋の門)も見たので、紹介します。サン・ラファエルの凱旋(プエルタ・デル・プエンテ)コルドバの守護天使である大天使サン・ラファエルに捧げられた記念碑。17世紀に激しいペストの流行に見舞われた時代、聖ラファエルがアンドレス・デ・ラス・ロエラス神父の夢の中に現れ、コルドバを疫病から救うと伝えた。その後疫病が収まり始めると、大天使ラファエルの幻影が街中を駆け巡り、それ以降はコルドバの永遠の守護者に任命された。数年後、この記念碑が建て始められた。プエルタ・デル・プエンテ:Puerta del Puente(橋の門)16世紀にフィリップ2世の訪問を記念して建てられた。↓ メスキータの方向に歩く。↓ メスキータのミナレットと呼ばれる鐘楼。↓ メスキータそばのトリホス通りを歩く。ーーーーーーーーーーーーー↓「Roman Catholic Diocese of Cordoba : ローマカトリック・スペイン・コルドバ司教区」の中に入る。↓ 中庭の様子。↓ メスキータ。↓ メスキータ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ サン・ラファエルの凱旋(プエルタ・デル・プエンテ)コルドバの守護天使である大天使サン・ラファエルに捧げられた記念碑。17世紀に激しいペストの流行に見舞われた時代、聖ラファエルがアンドレス・デ・ラス・ロエラス神父の夢の中に現れ、コルドバを疫病から救うと伝えた。その後疫病が収まり始めると、大天使ラファエルの幻影が街中を駆け巡り、それ以降はコルドバの永遠の守護者に任命された。数年後、この記念碑が建て始められた。↓ 聖ラファエル。↓ プエルタ・デル・プエンテ:Puerta del Puente(橋の門)16世紀にフィリップ2世の訪問を記念して建てられた。
2026.03.21
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、妻と一緒にコルドバ市内を歩いていましたが、気温35度でとても暑く、レストランを探すのも面倒になりました。妻が自動販売機コーナを見つけ、そこで水とポテトチップスを買い、休憩しました。その先の広場には、「LA ABUEⅬA PLACERES GOURMET:グルメばあちゃん」というアイスクリーム屋があり、そこでアイスを買って食べました。↓ 自動販売機コーナを妻が見つけた。↓ 自動販売機。↓ 水とポテトチップスを購入した。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 近くの広場にあったアイスの店「「LA ABUEⅬA PLACERES GOURMET:グルメばあちゃん」。↓ アイスを選ぶ妻。↓ 気温35度。
2026.03.20
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、コルドバの「カサ アンダルシ:CASA ANDALUSI」を見学した後、ビクトリア庭園の方に進みました。気温が35度くらいになっていたので、妻はベンチに座って休憩していました。哲学者セネカの像が庭園にありました。(1965年建立)セネカは紀元前4世紀にコルドバで生まれ、ローマに移り住みました。ストア派の哲学者で、皇帝ネロの教師をしましたが、ネロは陰謀の罪でセネカを告発し、65年に自殺に追い込みました。「クロニック世界全史/講談社」P155皇帝ネロ、自殺を命じる。セネカやペトロニウスが死の旅へ。65年ローマ。皇帝ネロは、この歳に発覚した元老院議員ピソーを首謀者とする陰謀事件以降、多くの有力者を疑い、自殺を命じた。犠牲者の中にはネロの家庭教師セネカ、風刺小説作家のペトロニウスもいた。セネカは属州ヒスパニア出身の元老院議員。皇族女性との醜聞で配流されたが皇后アグリッピナによび戻され、ネロの家庭教師に任命された。そして、ネロの治世初期の善政の立役者の1人となったが、アグリッピナの暗殺後(ネロは皇后を暗殺していた)に引退していた。ストア派の哲学者でもあった彼は、手首の血管を切開し、著作の口述をしつつ亡くなった。↓ カサ アンダルシ:CASA ANDALUSI。↓ アルモドバル門。↓ 左側は城壁。右側は心臓外科病院。↓ 心臓外科病院。↓ 城壁。↓ ビクトリア庭園。↓ 気温が35度で高いので、ベンチで休憩する妻。↓ セネカ像。(コルドバ出身の哲学者で元老院議員。ローマ皇帝ネロの家庭教師をしたが、ネロに自殺を命じられて死ぬ)↓ サン・ロケ教会 IGLESIA DE SAN ROQUE。
2026.03.19
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、コルドバのシナゴーグを見た後、近くにある「カサ・アンダルシ:Casa Andalusi」を見学しました。ユダヤ人街の一角に、12世紀のイスラム風邸宅が再現されています。中央にパティオ(中庭)があり、中には紙博物館が併設され、イスラムの製紙文化を知ることができます。建物には地下室がありました。私が一番興味を持ったのは、大きな地球儀です。いつの時代に造られたものか分からないのですが、地中海近辺の都市名、国名が記載され、その時代の人たちの世界観が想像でき、見ていてとても楽しかったです。↓ 「カサ・アンダルシ:Casa Andalusi」。↓ 室内。↓ 部屋に置いてある大きな地球儀。ヨーロッパ、アフリカ大陸、大西洋を越えて南北アメリカ大陸が描かれている。↓ ヨーロッパ、アフリカ大陸。↓ イベリア半島。【詳細】↓ 「アフリカ:AFRICA」。ダチョウの絵が描いてある。↓ アフリカ大陸に、ラクダの絵が描いてある。緑の樹の絵は、アフリカのアカシアかも。↓ 船、トビウオ、魚、サメ。下の半島の付け根の町は、チュニジアの首都チュニスだと思う。↓ 中央は地中海。下半分のアフリカ大陸には、「FEZ:フェス:モロッコの都市」、「MELILLA:メリリャ:スペインの海外都市」上半分のイベリア半島には、「CORDOBA:コルドバ」の文字が見える。↓ イベリア半島だが、左端から「CORDOBA:コルドバ」、「AL ANDALUS:アル=アンダルス:イスラム世界ではイベリア半島をアル=アンダルスと呼んでおり、スペイン南部のアンダルシアの語源となった」、「XAFIVA:シャディバ」。画面右端の文字がはっきり分からず、どの都市なのか不明。地中海のイルカの絵が可愛い。↓ 中央の縦に並ぶ2つの島は、コルシカ島(フランス)とサルディーニャ島(イタリア)。画面左の3つの島は、スペインのメノルカ島、マヨルカ島、イビサ島。↓ 「FRANCIA:フランス」。城の絵が沢山描かれている。↓ 「SUIZA:スイス」。↓ 「HOLANDA:オランダ」、「ALEMANIA:アレマニア:ドイツ」。海峡の向こうはイギリス。↓ イタリア半島(ブーツの形)。奥はアドリア海。↓ 中央は巨大に描かれたシチリア島。シチリア島の下は、マルタ島やペラージェ諸島。シチリア島の上は、ナポリ湾近くのプローチダ島、イスキア島、ボンツィアーネ諸島など。↓ ギリシャ。白い建物が並んでいるのは、アテネ付近かと想像する。奥はエーゲ海の島々。↓ コルドバの絵図。↓ 地下室へ行く。
2026.03.18
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、コルドバのユダヤ人街にある「花の小径」を見た後、 市営クラフトマーケットZOCO MUNICIPALの中庭を見たり、ユダヤ人街にあるユダヤ教会「シナゴーグ」を見学しました。↓ 「CÓRDOBA AL CÉLEBRE OCULISTA MOHAMED AL‑GAFEOUL」記念碑。「コルドバより、著名な眼科医モハメド・アル=ガフェキへ」12世紀の眼科医で、白内障手術を手がけ、「眼科医の手引き:Guide for the Oculist」という医学書を書いた。1165年に亡くなったが、没後800年の1965年にコルドバ市が胸像を建立した。↓ ZOCO MUNICIPAL :市営クラフトマーケットMERCADO DE ARTESANIA - MARKET OF CRAFTS.↓ Las Bulas :ブラス氏の住宅だった。今は革製品などを作る職人たちの店が入っている。↓ ユダヤ人街の迷路のような道を進む。↓ シナゴーグ:Sinagoga(1315年に造られたユダヤ教教会)Junta de Andalucía:アンダルシア州政府管轄。↓ 天井。↓ 祈りの部屋。↓ 白い漆喰細工で、イスラム建築の影響を受けたアラベスク模様となっている。↓ シナゴーグ入口2階は、女性用バルコニー。↓ 東壁にある祭壇中央には、7枝燭台(メノーラ)が置かれている。イスラエルの国家紋章は、7枝燭台の周りにオリーブの枝を配している。旧約聖書「出エジプト記」25章で、神がモーゼに純金の七枝燭台を造るように命じた事が始まりとされており、シナゴーグの祭壇には、かならず7枝燭台の火をともさねばならない。↓ 中央が7枝燭台(メノーラ)。
2026.03.17
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、コルドバのメスキータを見た後、妻がコルドバで一番見たかったという「花の小径:Calleja de las Flores」に行きました。小径の白壁には花の小鉢が飾られており、路地は観光客で一杯でした。メスキータを観光する前に花の小径に行っておけば人が少なかったはずと後悔しましたが、記録として妻の記念写真を撮りました。↓ コルドバのメスキータ。↓ ミナレットと呼ばれるメスキータの尖塔。↓ メスキータの敷地を出る。↓ 出入口。↓ ベラスケス・ボスコ通りを「花の小径」の方向に進む。↓「El Abanico:エル・アバニコ」というレストラン看板の路地を右に曲がる。↓ 白壁に「花の小径:Calleja de las Flores」のプレートがある。↓ 花の小径。幅1メートル、長さ20メートル。↓ 小径の奥の広場は観光客がいっぱいで、みんな記念写真を撮っており、順番待ち。↓ 花の小径とメスキータの尖塔。↓ 妻はこの花の小径を見ることを、本当に楽しみにしていた。↓ 「コルドバの皮の専門店」と書いてある。↓ ブーゲンビリア。↓ ジャカランダの花。↓ ブーゲンビリア。↓ TETERIA PETRA : テテリア「ハラル」ペトラ。アラビア料理店。↓ ミゲル・デル・モラル・ゴメス広場。(Plaza Pintor Miguel Del Moral Gomez)↓ レストラン・El Burlaero。
2026.03.16
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、コルドバで一番の観光名所「メスキータ」の入場券を受付で購入し、中を見学しました。後ウマイヤ朝を開いたアブド・アッラーフマン1世は、コルドバを首都と定め、785年にふさわしいモスク(イスラム教の礼拝堂)を造り始めました。そして25,000人を収容する巨大なモスクができました。929年に即位したアブド・アッラフマーン3世の時代に全盛期を迎え、当時のコルドバの人口は50万人、町には300ものモスクが建てられ、東ローマ帝国の首都であったコンスタンティノープルと競いました。その後、レコンキスタ(国土回復運動)により、コルドバがキリスト教の国になると、カルロス5世によりモスクの一部にカテドラルに改造されてしまい、1000本以上あったメスキータ内の柱が、今では850本に減っています。【スペインとコルドバの歴史】「スペイン謎解き散歩/西川和子/中経文庫/KADOKAWA」P24~28を参考として下記記載。紀元前3世紀頃、ローマはイベリア半島に属州ヒスパニアを置いたことから、国名はイスパニアとなり、スペインとなった。コルドバ市内には、ローマ神殿跡やグアダルキビル川に架かるローマ橋がある。375年に西ゴート族がローマ帝国内に入ってきた。「ゲルマン民族の大移動」である。5世紀初めにはイベリア半島に西ゴート王国が建国され、宗教はカトリックだった。ところが711年、ジブラルタル海峡を渡ってイスラム教徒が侵攻し、西ゴート王国は滅亡する。半島に入ったイスラム教徒は、わずか7年ほとの間に、イベリア半島の2/3を制圧した。キリスト教側の西ゴート貴族のペラヨは、イスラム側が要求する税金の支払いを拒否し、722年のコバドンガの戦いでイスラムに勝利した。これがレコンキスタ(国土回復運動)の始まりだった。このレコンキスタは、1492年にグラナダ王国が陥落することで終わりを告げ、780年をかけて、スペインは再びキリスト教国家となった。711年にイベリア半島に入ってきたイスラムは、ウマイヤ朝に仕えるベルベル人だった。その侵攻が成功するのを見て翌年本格的にイスラムの侵攻となる。ウマイヤ朝はアッパース朝に敗れ滅亡する(750年)が、アブド・アッラフマーン1世が、ウマイヤ朝の残った部族を集めて後ウマイヤ朝(756年から1031年)を、コルドバに建国した。その後、約100年ずつくらい、ムラービト朝とムワッヒド朝がスペインを支配するが、1250年頃からは、イベリア半島に残るイスラム国家は、ナスル朝グラナダ王国だけとなる。この王国は意外と長らえ、約260年間、スペインに存在した。このグラナダ王国を滅ぼしたのが、有名なイサベル女王とフェルナンド王である。2人が結婚して23年後の1492年にグラナダ王国は陥落し、この年をもって、レコンキスタは完了したと言われる。そして、これを記念して、時のローマ教皇アレハンドロ6世より、イサベルとフェルナンドに「カトリック両王」という称号が贈られた。↓ ミナレットと呼ばれる鐘楼。↓ ジャカランダの花。↓ コルドバの赦しの門。↓ オレンジの木が植えられている中庭。↓ 昔イスラム教徒が沐浴で身を清めた場所に、噴水が造られている。↓ メスキータの入場券を購入した。↓ 入口。↓ メスキータの内部。イスラム教の部分。【プロの添乗員と行く スペイン世界遺産と歴史の旅 増補改訂版/武村陽子/彩図社】p146内部はたくさんの二重アーチが柱で支えられている。柱やアーチを木とすればここはまさに森のようだ。「柱は石が使われていますが、そのまま天井を張ると低すぎるので二重アーチで支えることで天井を高くすることができました。二重アーチは、セゴビアのローマ水道橋からヒントを得ています。この赤と白のアーチですが、赤の部分はレンガで、白の部分は石でできています。つまり、軽いレンガと重い石とを交互にはめることにより、バランスを保っています」↓ キリスト教の部分。↓ クロニック世界全史/講談社後ウマイヤ朝に新カリフ誕生アッラフマーン3世がコルドバで宣言。929年1月16日、スペイン。後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世がカリフを宣言し、コルドバのイスラム国が独立したカリフ国であることを表明した。~ コルドバを首都とするこの王朝は、全土で人口50万人以上を擁し、3000以上のモスクと300の浴場を数えた。またコルドバのメスキータを増築し、その郊外にあるメディナ・アッサハラ(輝く町の意味)に新しい宮殿を建造した。さらに国内体制の整備にも努め、毎週金曜日には、カリフみずからが壮麗な礼拝を司式し、彼の名を刻んだ貨幣を鋳造・発行し、臣下の生殺与奪の権利を握った。後ウマイヤ朝は、カリフの称号を得たアッラフマーン3世のもとで黄金時代を迎えるが、11世紀に入ると早くも内紛が起き、小王国に分裂。1031年には滅亡する。↓ コルドバはローマ人が建設した都市だが、アッラフマーン3世の治世下に後ウマイヤ朝の経済的、文化的中心地として最大の繁栄をみた。
2026.03.15
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、コルドバの路地を歩きながらメスキータを目指し、テンディーリャス広場を通りました。途中にあったサンタ・アナ修道院教会(Iglesia Conventual de Santa Ana)では、教会正面の壁の窪みで鳩が交尾をしてたので写真を撮りました。↓ 路地で見かけたブーゲンビリア。↓ コンテ・デ・トレス・カブレラ通りにある住宅。↓ COLEGIO DIVINA PASTRA 特別認可学校。↓ 伝説的な天才闘牛士の愛称マノレーテ(Manolete)として大変有名な、マヌエル・ロドリゲス・サンチェス(Manuel Rodriguez Sanchez Manolete) の生家。マヌエル・ロドリゲスは1917年7月4日にコルドバのこの地で生まれた。20世紀で最も偉大な闘牛士の一人とされ、牛に対して垂直に立つスタイルは現代の闘牛にも大きな影響を与えた。「コルドバの第4のカリフ(王)」との異名を持つ。1947年、リナーレスの闘牛場の試合中、牛(イスレロ号)の角に突かれ、30歳の若さで亡くなった。↓ コンテ・デ・トレス・カブレラ通り。↓ サン・ラファエル修道院(Convento de San Rafael)。↓ カプチナス広場(Plaza de Capuchinas)。↓ カプチナス広場にあるホシウス司教像。↓ ホシウス司教像。コルドバのホシウス司教は、コンスタンティヌス帝の顧問で、325年のニカイヤ公会議で重要な役割を果たした。↓ クロニック世界全史/講談社p186ニカイヤ公会議が開催される。アリウス派が異端となる。325年5月20日、トルコ。皇帝コンスタンティヌス1世は、キリストは神であるかどうかという問題で分裂が生じた宗教界を統一するため、ニカエアの公会議(世界宗教会議)で、キリストを神にもっとも近い人であるとするアリウス派を異端として追放した。コンスタンティヌスは、みずからの神聖な権威を示すため紫衣をまとい、公会議にのぞんだ。全ローマ帝国の市況を招集し、荒れ狂う暴力的な論争を鎮めようとしたのである。キリストが神であるかどうかの論争は、アレクサンドリアの司祭アリウスがキリストが神の子であるならば、子であるかぎりは父なる神より劣るものだと主張し、それに同調する者、反対する者がつぎつぎに現れ、この議論が帝国全体のキリスト教会に広まり、分裂の危機を生じさせた。~とにかく反アリウスという点で一致した信条をまとめあげてしまう。生まれた子は、父なる神と同じ本質をもつというのである。この結論をコンスタンティヌスは支持し、アリウス自身と結論に反対する司教を追放した。↓ ニカエア公会議。↓ テンディーリャス広場。↓ エル・グレン・カピタン像(el Gran Capitan)。スペイン王国の将軍ゴンザロ・フェルナンデス・デ・コルドバ(Gonzalo Fernandez de Cordoba, 1453年9月1日~1515年12月2日)の像。イサベル王女につかえ、グラナダの戦いで名を成した。1492年、イスラム王国であったアルハンブラ城開城の際は、グラナダ側と協定を結ぶ使者の一人となった。1494年からのイタリア戦争でスペイン軍の司令官として選ばれた。1495年5月にはフランス軍とイタリア南部のセミナラで戦った(セミナラの戦い)が、初めて戦いに負けてしまった。そして同年10月、フォルノヴォの戦いでフランス軍を破り、フランス軍をイタリアから撤退させた。ゴンザロはギリシャへ遠征し、オスマン帝国からケファロニアを奪い取り、1498年にスペインへ戻るとエル・グレン・カピタンの称号を与えられた。1499年にフランス軍が再びイタリアへ侵攻して、第二次イタリア戦争が始まった。ゴンザロはスペイン軍司令官に選ばれ、1503年にチェリニョーラの戦いでフランス軍に勝った。↓ クロニック世界全史/講談社 P394スペインがフランスからナポリ王国を奪回。地中海進出の拠点に。1504年1月、イタリア。ヨーロッパ列強の抗争の焦点となっていたイタリアで、スペイン軍がフランス軍を破り、ナポリ王国を奪回した。スペインにとってフランスは、ピレネー山脈をはさむ国境をめぐる長年の敵だった。加えて、グラナダ・イスラム王国を征服し、レコンキスタ(国土回復運動)を完了したばかりのスペインには、余勢をかって積極的対外政策にのりだす機運があった。この戦争の結果、スペインのフェルナンド5世がナポリ王に即位し、ナポリはスペイン帝国の版図に組み込まれる。スペインは、アメリカ大陸という西への拡大とともに、イタリアという東への拡大にも成功し、大帝国建設への道を歩んでいく。↓ 「 Ave Fénix de Charles René」フランス人彫刻家シャルル・ルネ・ド・サン=マルソー(Charles René de Paul de Saint‑Marceux, 1845–1915)が制作した“フェニックス(不死鳥)”の彫像。↓ アンダルシア自治権のモニュメント。1977年12月4日、アンダルシアではスペイン全土で進む民主化の中、200万人以上が自治権の最大化を求めて街頭に立ち、アンダルシアの象徴である「城と緑の旗(アンダルシア旗)を掲げた。↓ Teatro Góngora:ゴンゴラ劇場。↓ ファウスティーノ・プリエト・ハムズ(ハム屋さんの前に置いてあるブタ像)↓ CONSERVATORIO SUPERIOR DE MUSICA "RAFAEL OROZCO"スーパー・ミュージック・カウンシル ”ラファエル・オロスコ”。↓ サンタ・アナ・修道院:Iglesia Conventual de Santa Ana。↓ サンタ・アナ・修道院の正面の壁の窪みに、2羽の鳩がいた。↓ 鳩が交尾をしようとした。↓ 交尾中。↓ 交尾が終了し、雄バトが飛んでいく。↓ 残ったメス。↓ ヴィンコルサ展示ホール。↓ ジャカランダ(Jacaranda)の花。↓ フェルナンデス・デ・メサ宮殿(Palacio de los Fernandez de Mesa)。ラス・ケマダス伯爵の住居だった。↓ メスキータの鐘楼が見えてきた。↓ 鐘楼。↓ メスキータと鐘楼。
2026.03.14
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、ホテルの受付の方が、観光地図に見るべき場所をマークしたので、その地図を頼りに進みました。最初のマークは、リンコン門塔の広場にある「La Regadora (ラ・レガドラ):じょうろ」という像でした。白い壁に、青い鉢、赤い花、美しい女性像で構成されており、女性が長い柄のじょうろを使い、鉢の花に水をやっています。白壁の右下のプレートに「UNESCO:ユネスコ」の記載があります。調べてみると、コルドバの伝統行事である「パティオ祭り」がユネスコの世界無形文化遺産に登録されたので、そのオマージュとして作られたそうです。作者:ホセ・マヌエル・ベルモンテ(Jose Manuel Belmonte)銅像:ブロンズ、約1.9m 場所:プエルタ・デル・リンコン(Puerta del RIncon)「パティオ祭り(Fiesta de los Patios)」は、毎年5月にコルドバで開催される、私邸の美しい中庭(パティオ)を一般公開する祭りで、2012年にユネスコ無形文化財に登録されました。私の妻は絶対に「パティオ祭り」を見たいと言ってスケジュールを考えていたのですが、祭りが5月上旬だけのため、今回は祭りの後に行く事になり、とても残念がっていました。スペイン在住のHさんに話すと、お嬢さんがパティオ祭りに行ったという事で、美しい庭と花が映った映像を見せていただきました。そして、このブロンズ像は3部作で、残りの2つは別の所にあるそうです。2つ目は「El Abuelo y el Nino」(祖父と少年)」で、祖父がバケツも持って、少年が椅子に上って水をやる姿です。3つ目は「La abuela(おばあさんの像)」で、花を抱えたおばあさんが、パティオの花飾りを準備する姿です。ーーーーーーーーーーーーー↓ リンコン門塔の広場にある「La Regadora (ラ・レガドラ):じょうろ」という像。コルドバの伝統行事である「パティオ祭り」がユネスコの世界無形文化遺産に登録されたので、そのオマージュとして作られた。女性が長い柄のじょうろを使い、鉢の花に水をやっている。↓ コルドバ・パティオ。ユネスコ無形文化財。↓ 1つ目の像。「La Regadora (ラ・レガドラ):じょうろ」。↓ 2つ目の像。「El Abuelo y el Nino」(祖父と少年)」で、祖父がバケツも持って、少年が椅子に上って水をやる姿。↓ 3つ目の像。「La abuela(おばあさんの像)」で、花を抱えたおばあさんが、パティオの花飾りを準備する姿。↓ プエルタ・デル・リンコン通り。↓ ヴィヴァ・デ・アル・アンダルス図書館(Biblioteca Viva De al-andalus)。↓ ブーゲンビリア。↓ カプチーノス広場の「ランタンのキリスト像」。
2026.03.13
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、スペインのグラナダから鉄道でコルドバに移動しました。イタカ・コロン・ホテル(ITACA COLON)でチェックインし、受付の男性に観光ポイントを地図に書いて教えていただいたので、そのルートを進むことにしました。ホテルからコロン広場のメルセー庭園、そしてリンコン門塔へ歩きます。↓ イタカ・コロン・ホテルの受付の男性が、観光地図に行くべき場所を書いてくれた。それを見ながら進む妻。↓ EL Corte Ingles :エル コルテ イングレス ショッピングモール。↓ キューブの噴水。↓ コロン広場。↓ コルドバビアナ宮殿(コルドバ州庁舎)。↓ メルセー庭園入口。↓ メルセー庭園内を歩く。↓ 噴水。↓ コロン公立学校。↓ コロン広場の階段噴水。↓ ドン・クリストファー・コロン・ビル(コロンブスビル)。↓ リンコン門塔。イスラム軍事建築で、中世の城壁の遺構。塔の横の建物の城壁に、ラ・レガオラ:La regaoraの像がある。↓ ラ・レガオラ:La regaoraパティオの花に水をやる女性の像。ホテルの窓口の男性は、この像を見せたかったのだ。
2026.03.12
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【旅行9日目】スペイン・コルドバ2025年5月25日(日)、グラナダ駅6:25発 Renfe AVANT 08475 に乗車して、コルドバ中央駅に8:10に到着しました。その後、妻が予約していたホテル・コロン(Hotel Colon)に向かいました。↓ コルドバ駅8時10分着。↓ スイス企業のMATISA(マティサ)。線路保守車両。↓ Renfe AVANT S-104系。↓ コルドバ駅構内。↓ コルドバ駅。↓ コルドバ公立図書館。↓ アグリクルトゥーラ庭園。↓ ジャカランダ(Jacaranda) の花。↓ ジャカランダの木。↓ リベルタ―通り。↓ アルアケンⅡ通り。↓ ホテル・コロン(Hotel Colon)。
2026.03.11
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【旅行9日目】スペイン・アンテケラ→コルドバ2025年5月25日(日)、グラナダ発6:25 → コルドバ8:10着のRENFE AVANT 08475 S104系に乗車しました。途中のアンテケラ サンタ アナ駅からプエントヘニル駅を通り、コルドバ駅までの車窓写真を備忘で載せます。車内で妻がスマホの位置情報を確認していたのですが、途中からコルドバ駅ではなくセビーリャ駅への方向が画面に示され、もしかして電車を間違えたのではないかと心配しました。ところが、コルドバ駅近くになると、画面の位置が急にコルドバに動き、一安心です。↓ アンテケラ サンタ アナ駅↓ 風力発電。↓ Estepa:エステパのサン・クリストバル丘。↓ Estepa:エステパ。↓ プエントヘニル駅。↓ トイレ。↓ アルモドヴァル城:Castillo de Almodóvar。↓ アルモドヴァル・デル・リオ:Almodóvar del Río。↓ コルドバ駅。
2026.03.10
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【旅行9日目】スペイン・グラナダ→アンテケラ2025年5月25日(日)、グラナダ駅6:25発 コルドバ経由 セビリア行き RENFE AVANT 08475 S104系に乗車し、コルドバを目指します。グラナダ駅、ロハ駅、アンテケラ Antequera AV NUEVA駅、アンテケラ サンタ・アナ Antequera Santa Ana駅までの車窓風景を紹介します。それから、「アルハンブラ物語/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」の中で、各地に触れている部分も併せて紹介します。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【グラナダ】「アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」P71~72。この男は、公証人だと名乗り、グラナダ中が自分のポケットの中のようなものだ、と言った。「そりゃもう、旦那様方! 素晴らしい都ですよ、グラナダは。街もよし、広場もよし、宮殿もよし、おまけに女もよし ーいやほんと、サンタ・マリヤ・プリシマ(いとも聖らかなサンタ・マリヤに誓って)、ー女も極上でして!」「そりゃ、結構だけど」と、わたし。「宿もよし、て具合にいくんだろうかね?」「いうまでもありません。本当ですとも、サンタ・マリアに! グラナダ一のポサダ(宿)ですよ。大きな客間に、豪華な寝台、ふかふかの羽根布団 ー本当に、旦那様方、アルハンブラのチコ王のように、ご馳走づくめとあいなります」「アルハンブラ物語(下)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」P404~406。日没近く、道が大きく屈曲して、いよいよ山道に入るところまできた。私は場所を降り、これを最後と、グラナダを振り返った。わたしのたつ峠から、グラナダの都とベガ(沃野)、それをぐるりと取り囲む山やまの壮麗な姿が、見渡せた。この峠のちょうど真向かいが、「モーロ人最後のため息」の名で有名な、あの「涙の丘」だ。哀れなボアブディルが、立ち去らねばならない楽園に最後の別れを告げ、行く手に待ち受けている、険しい、草木の蔭ひとつない旅路に対面したときの悲痛を、この時ほど身近に感じたことはなかった。落日が、アルハンブラの朱い塔群を、いつもあの憂愁の目映い光で染め上げていた。目を凝らすと、楽しい数知れない夢想に時を忘れた、あの「コマレスの塔」のバルコニーの窓が、どうにか識別できた。都を取り囲むように青あおと繁る森や庭園が、落日の光を受けて黄金に輝き、と見る間に、夏の夕暮れの赤紫色の靄(もや)が、ベガ(沃野)一帯にどんどん立ち込めてきた。何もかもがいとおしく、立ち去る者の眼には、哀切きわまりなかった。「世にも美しいこの景観から急いで身を引かねば」と、わたしは思った。「日が沈んでしまわないうちに。いま、ことごとく美をまとったこの世界を形見に連れて行くのだ」この思いを胸に、わたしは山の中へと突き進んだ。グラナダも、ベガ(沃野)も、アルハンブラも、たちまち視界の外へ消えてしまった。↓ グラナダ駅。↓ グラナダ駅6:25発 コルドバ経由 セビリア行き RENFE AVANT 08475 S104系。↓ 出発した。↓ カバンを置いた。(切符を購入するときに、荷物置きも予約した)↓ 妻は「地球の歩き方」で、次の目的地コルドバの部分を読んでいる。↓ ロハ(Loja)駅。↓ ロハ(Loja)駅。【ロハ】「アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」P56~57。午後、わたしたちは、グラナダへぬける要路の一本で、かつて、フェルナンド王がグラナダ征戦の軍を突き進めたことから「王の峠:プエルト・デル・レイ」と呼ばれている、険しい、岩だらけの隘路をひたすら辿った。日没近く、ひとつの丘を迂回し終えると、ローハの城塞(アルカサル)が、眼前に姿を現した。フェルナンド軍を撃退した、あの名高い砦だ。「ローハ」とは、アラビア語で「監視者」の意である。ここは、かつて、グラナダ王国の国境を固め、肥沃なベガ(沃野)への侵入を阻止する、前線基地のひとつだった。ローハを守護する城将が、ボアブディル王の義父で、勇猛を謳われたあの歴戦の老将、アリ・アタルだった。そして、ボアブディル王が、グラナダ軍を結集して、攻略戦に打って出たのも、このローハからである。あの悲惨きわまりない激戦の結果、老将アリ・アタルは戦死を遂げ、ボアブディル自身も囚われの身となった。山岳道の要衝に位置し、いわばグラナダの門に当たるローハは、その地勢上の重要性から、グラナダの鍵、とまで言われたのも、無理からぬことなのだ。【アルチドーナ】「アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」P47~48。午前中に、3つの頂のある山が塔のように背後に聳える、高い丘陵の胸部に築かれた、かつてのモーロの要塞の町、アルチドーナを超えた。アルチドーナに至るには、「平原の王者通り:カリエ・レアル・デル・リャノ」と粋な名前が冠された、急傾斜の、岩だらけの道を、難儀に難儀を重ねて、よじ登らねばならなかった。何度も息が切れ、ため息が出た。しかし、難儀といっても、この山岳の町の反対側に待ち受けていた下り道の厳しさに比べれば、まだましだったのだが。↓ 恋人たちの岩:ペーニャ・デ・ロス・エナモラドス (Peña de los Enamorados)アンテケラ郊外にある。敵対する氏族の若いムーア人の恋人二人が、少女の父親と手下に追われ、この岩から手を握って飛び降りた。それから「恋人たちの岩」と呼ばれるようになった。↓ アンテケラ Antequera AV NUEVA駅。↓ アンテケラ Antequera AV NUEVA駅。【アンテケラ】「アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」P43~46。やがて、過ぎし時代に好戦的な覇気の高さでその名を轟かせた古い都市、アンテケラが望見される場所までたどり着いた。アンテケラは、アンダルシアを縦断して聳え立つシエラ・ネバダの山懐にある都市である。市街の前方に、美しいベガ(沃野)が展がっている。岩石のむき出しになった山やまに囲い込まれるかのような緑なす田園は、まるで、一幅の絵を見るようだった。~翌朝〈1829年5月4日)、早起きをして、散歩がてら、ローマ人の要塞跡に築かれたモーロ人の古い城を訪れた。崩れかかった塔の一角に腰を下ろして、わたしは、雄大な、変化に富んだ景色に見入った。風景それ自体の美しさに加えて、この土地にまつわる伝説やロマンスの幾場面が想い起こされ、わたしは身震いを覚えた。いまや、わたしは、モーロの騎士たちとキリスト教徒の騎士たちとが華々しく渡り合った幾多の戦いで名高い、その当の地の、ただ中にいる。眼下にのぞむ山麓には、年代記やバラッドにたびたび登場する、いにしえの戦士たちの町が横たわっている。グラナダ征戦の際、スペインの名家出身の、そして勇猛果敢をもって鳴る騎士たちの一隊が勇躍、向こうの城門を出立、隊列を組んであの丘陵を降りくだっていた。しかし、マラガ山中で痛ましい大虐殺の憂き目に遭い、アンダルシア中を悲嘆のどん底に沈めたのである。丘陵地の向こうには、グラナダの「ベガ(沃野)」の広大さには一歩ゆずるとはいえ、菜園や果樹園、小麦畑、緑の牧場が織り敷かれたベガが展がる。右手には、追い詰められたモーロの城将の娘とその恋人が身を投じた「恋人たちの断崖:エル・ペニヨン・デ・ロス・エナモラドス」が、岬の岸壁のように、平野に突き出ている。↓ カルフール。Carrefour.↓ アンテケラ サンタ・アナ(Antequera Santa Ana)駅
2026.03.09
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【旅行9日目】スペイン・グラナダ2025年5月26日、朝3時半に起きて、パン屋で買ったお菓子を食べました。5時20分に宿泊所「アルテアガオスタル&パニョスアラベスエルヴィラ」を出発し、カバンを持ちながらグラナダ駅まで歩きます。5時45分には駅に到着しました。駅の改札を通り、6:25グラナダ発RENFE AVANT 08475 に乗車します。セビーリャ行きですが、途中のコルドバ駅で下車予定です。↓ 朝4時に、菓子パンを食べる。↓ 5時20分、宿泊所を出る。↓ 「アルテアガオスタル&パニョスアラベスエルヴィラ」の前にて。↓ アルテアガ通り。↓ グラン・ビア・デ・コロン通りを進む。↓ グラナダ市教育行政機関。↓ コンスティスティション通り。↓ アンダルセス通り。↓ 5時45分、グラナダ駅到着。↓ 出発の掲示。6:25発 セビリア行き RENFE AVANT 08475 プラットフォーム5番。↓ 駅の待合にカフェ・レストランがある。↓ 改札開始。↓ チェックを受ける。↓ RENFE AVANT S104系。↓ 乗車する妻。↓ カバンを置いた。↓ グラナダ駅のRENFE AVANT S-104系。
2026.03.08
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ2025年5月24日(土)、グラナダ市内を妻と散策しました。私が小学生低学年の時、誕生日に「ぼくのつくえはぼくのくに/著:佐藤さとる/絵:村上勉」の本をプレゼントでもらいました。主人公のかおる君が魔法の鳥の羽で机をなでると、部屋は海に、机は小島に、椅子は大型のヨットに、そしてかおる君は王様になります。小島に住むゴチャゴチャ虫を退治しにいくという話で、佐藤さとるさんのストーリーの面白さもさることながら、村上勉さんの味わいのある絵に引き込まれました。引越しの時に本を処分してしまい、今はこの本が手元にないのですが、時々図書館に行っては借りて読み返しています。図書館の画集棚に「村上勉 旅の画文集『ペインズグレイに誘われて』/作者:村上勉/発行:小峰書店/1994年10月10日第1刷発行」があり、村上勉さんがスペインのグラナダに行き描かれた絵と文章があります。とても楽しい文章で、一部を紹介します。↓「村上勉 旅の画文集『ペインズグレイに誘われて』/作者:村上勉/発行:小峰書店/1994年10月10日第1刷発行」ーーーーーーーーーーーーー↓ 「アビラのムッシュ① [Avila Spain:アビラ・スペイン]」この作品は、私の記念すべき一枚である。美大浪人生として上京。デザイン事務所の”お使い”をしながら、デッサンに通った。その頃、お使い先で、作家の佐藤さとる氏と出会うことになる。まだ、イラストレーションという言葉もない時代だった。絵本や挿し絵がどういうものかさえつかめていない19歳の若造と、すでに名の知れた佐藤氏が、コンビを組むことになった。今考えると、佐藤氏の無謀さにあきれるのだが、「絵を学びながら、ぼつぼつ描いてくれればいい」との約束であった。ところが、その後すぐに佐藤さとるブームがやってきた。いきなり、10本、20本と、原稿が手元に積まれ始めた。技術などあるわけもなく、ただ若い体力にまかせて描いた。そして、5年もすると、年に2,30冊の挿し絵を描く時代に入った。機械的に仕事をする状態が10年、15年と続き、さすがに疲れて、気力のない作品が続きだした。何か大きな忘れ物をしてきたという感じがどうしてもぬぐえず、絵にも悩み始めていた。スペインに逃げ出したのは、こんな時期。35歳になっていた。「しばらく絵から離れよう。絵をやめられるものなら、それでもかまわない」こんな思いから、画材はいっさい持たず、10月のスペインを観光客として点々とまわった。しかし、絵筆を持たない私は、ただの酒飲みでしかなく、1か月もすると、どこに旅行しても感激がなくなった。描きたい心を抑えに抑えていたが、毎晩飲み歩くバーの酔っ払いたちが、あまりにもいい顔・・・。とうとうしんぼうできず、クロッキー帳を買いこんで、夜な夜なバーで描き始めた。それだけでなく、画材不足のスペインで、できるかぎりの画材を集め、グラナダのアルバイシンにアトリエを借りることにしたのだった。グラナダに雪が舞う頃、すっかり画家に戻っていた私は、絵になる地方を描きまわった。その頃描いたこの絵が、タブローをやろうとした1枚目の作品となった。アビラの街は、千メートルをこす高地の荒れ地にある。冬になれば、一日中雪が降る。そんな中、カテドラル広場で朝市が開かれるのだが、大根を売っている親爺がいた。人参よりなさけない大根だったが、あまりの珍しさに、2倍ほどの金をわたして買うと、親爺は、カテドラルにひびくほどの奇声をあげ、変人ぶりを見せた。翌朝、その親爺にモデルになってもらいたくて、市場に出かけた。顔を見るなり、だれから教わったのか、「ハポネス(日本人)、ハポネス!」と遠くから奇声をあげる。親爺は「売れ残った大根を買い取ってくれるなら」と、モデルを了解し、ロバをホテルの玄関につないだ。私の部屋でワインを飲みながら、約1時間ほど描くことになった。親爺は、描かれているのが気になってじっと座っておられず、すぐ私の方に見にきてしまうので、なかなか仕事にならなかった。そして、わずかのモデル代を払うと、親爺はまたあの奇声を上げ、うれしさのあまり、玄関につないだロバを忘れて、帰って行ってしまったのだ。なぜか、いまだにこのムッシュが、私にタブローを始めさせてくれたような気がしてならない。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 「塔のある風景 [Granada Spain: グラナダ・スペイン]」むかし、スケッチに出かけると、まず1日目は場所探しだけで終わったものだが、最近ではどこの街にでかけても、街が俯瞰できる場所に迷わず登ることにしている。そして鳥瞰できる場所を起点に、モチーフになりそうな方へじょじょにおりていく。ところが、いい場所はたいてい旧市街から宮殿や城に通じる道筋にあるので、どうしても観光客の餌食になってしまう。グラナダのアルハンブラ宮殿北側の丘に、ひな檀のようにならんだアルバイシンという街がある。16世紀にアラブ人がつくった街だ。十数年前に、半年ほどアトリエを借りて住んだことがあるので、どの場所が絵になるか知りつくしていた。絵かきとは不思議なもので、これまで何枚も絵がいたことのある同じ場所に、また道具を広げるものなのだ。スケッチの場所が決まっても、私の場合、イーゼルを立てるでもなく、画家らしい道具などまるでない。しわだらけの和紙を広げ、風で吹き飛ばされないように、まわりに小石をならべる。あきかんの筆洗い、パレットは小皿2,3枚だけなのだ。ちょうどヒッピーたちが道ばたに布を敷き、アクセサリーなどをならべるスタイルに似ている。地べたにそのまま座り込み、硯で墨をすり、いきなり描き始めるのだが、これではどう見ても、ヒッピーの大道芸人としか見られない。こういう場所でスケッチする日は、観光客がこない早朝から仕事を始めるのだが、やはり10時をすぎるとギャラリーにかこまれてしまう。それが外人の場合は、静かに通りすぎるのだが(もっとも、後で何を言われても言葉がわからないから、気にもならない)、日本人の団体はそうはいかない。観光バスから降りたばかりなのだろう。おばさんばかりの団体が坂を登ってきた。白髪頭に顔中ひげで、日焼けした顔に、泥んこジーンズ姿の私をかこむ。(やばいな)と思い、無視をする。貧しい画材に人相、汚さから見て、私の国籍がわからないらしい。「ジャパニーズ? チャイニーズ?」無視して描き続ける。と、おばさんたち、どうやら日本人じゃないと思ったらしい。「こういう絵では、食べていけないのよね」「絵が暗いわね、苦労しているのよ」「まだ、水彩だわ。この歳だと油絵になってないと、おかしいんじゃない?」(黙っていれば、いい気になって!)しかし、抑えた、抑えた。「国に帰りたくても、きっと帰れないのよ」この言葉をあとに、おばさんたちはぞろぞろと移動してくれた。が、私はもうすっかりやる気がない。和紙のまわりの小石を片付けながら、考える。(ジャパニーズと答えておけば、これほど痛めつけられずにすんだのだが、しかし・・・)ーーーーーーーーーーーーーーーーー村上勉氏のプロフィール1943年、兵庫県に生まれる。1964年、佐藤さとる作「だれも知らない小さな国」の挿し絵で、画家としてデビュー。これまでに描いた作品は約800冊をこす。1967年、「おばあさんのひこうき」「宇宙からきたかんづめ」で、小学館絵画賞を受賞。1972年、1989年、ライプチヒ国際児童図書デザイン展銅賞受賞。子どもの本以外にも、1979年に、郵便切手「日本の歌」シリーズ制作。1985年、郵便切手「ふみの日」制作。1994年、郵便切手「環境の日制定記念」制作。7種類の切手がある。1987年、東京セントラル絵画館で「村上勉スケッチ展」を開催。緻密な筆遣い、みずみずしい色彩、斬新な画風で、絵本や雑誌、単行本や教科書の挿し絵、広告関係など幅広く活躍中。多くの人に親しまれている。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓「ぼくのつくえはぼくのくに/著:佐藤さとる/絵:村上勉」私が小学生の時、誕生日プレゼントで頂き、夢中になって読み返した本。
2026.03.07
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ2025年5月24日(土)、イサベル女王とコロンブスの像を見た後、エルビラ通りを歩き、レストラン「La Nueva Bodeca:ラ・ヌエヴァ・ボデカ: 新しいワイナリー」で夕食を頂きました。店内は庶民的な造りで、時間が経つと団体客が入り、満席状態です。今日は歩いてばかりで時間が無く、席について食べたのはこの日初めてでした。夜のグラナダを回るか妻と話したのですが、翌日は始発の列車でコルドバへ向かうため、ホテルに戻ってすぐ寝ようという事になりました。↓ エルビラ通りで妻が良さそうなレストランを見つけた。↓ 念のために、近くのレストランも見て決めることにした。↓ 最初に見つけたレストラン「La Nueva Bodeca:ラ・ヌエヴァ・ボデカ: 新しいワイナリー」に決めた妻。↓ 妻が料理を選ぶ。↓ レストランを出て、宿泊所まで歩く。↓ 宿泊所の「アルテアガオスタル&バニョスアラベスエルヴィラ:Hostal Arteaga & Baños de Elvira」に到着。↓ 翌日朝4時起きのため、すぐに寝た。
2026.03.06
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ2025年5月24日(土)、グラナダのカテドラル、王室礼拝堂を見学した後、市庁舎前から大通りを歩いて「イサベル・ラ・カトリカ広場」に行き、イサベル女王とコロンブスの像を見ました。1942年1月2日、グラナダ王国ナルス朝の最後の王ボアブディルが、カトリック両王(フェルナンド王とイサベル女王)にアルハンブラ宮殿の鍵を渡して降伏し、711年以来8世紀間アンダルシアを支配し続けたイスラム教徒の勢力が、イベリア半島からアフリカに戻ることになり、キリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ)が終了します。この時期、コロンブスはヨーロッパから西側に行けば東洋に達するという事を信じて、航海の援助を申し入れるためグラナダのイサベル女王と会っており、ボアブディル王が降伏しアルハンブラ宮殿を明け渡し、カトリック両王(フェルナンド王とイサベル女王)の手に接吻するのを目撃しています。コロンブスは資金援助について良い返事が両王からもらえなかったため、フランス宮廷に相談しようとグラナダを後にして、ピノス・プエンテのピノス橋まで来た時、女王の至急便がコロンブスに追いつきました。王女はコロンブスに援助するという事で、アルハンブラ宮殿の近くにカトリック両王が築いたサンタ・フェの城塞で、契約書の調印を行いました。1492年8月3日、コロンブスはスペイン・パロス港を出港し、バハマ諸島に到着、新世界発見となります。手元の本に、コロンブス、サンタ・フェ、ピノスプエンテのピノス橋など記載があるので、一部を紹介します。ーーーーーーーーーーーー1)「アルハンブラ宮殿物語 グラナダの奇跡と王たち/西川和子/彩流社」p234~236サンタ・フェは、ここからグラナダの様子がわかるとともにグラナダからもサンタ・フェの様子がわかるのです。ここに野営地ではなく、頑健でちょっとやそっとではびくともしない本物の都市を築くことが重要と考えたのです。こうしてサンタ・フェの野営地は都市に変貌しました。この新しくできた都市を、グラナダ人は城塞の中から見て驚きました。「こんな堅固な町から見られているのではたまらない」わずか3ヵ月の間に、都市が出来上がるとともに12,000人もの住民が隣町から移ってきていたのです。グラナダ側が反乱を続けることは無意味でした。ボアブディル(イスラム王)は戦争を終結させる協定の検討に入ったのです。1491年11月に、グラナダ降伏協定がなされました。~1492年1月2日、グラナダは降伏しました。~午後、ボアブディル一行はグラナダの町の門を出てカトリック両王に挨拶をし、ここで人質となっていた息子アフメドを返されます。武器を渡し、家族とともにグラナダ東部の山間の町アルプハラに向かいます。~ここに、約250年続いたグラナダ王国は終わりました。最後の王ボアブディルはまだ33歳でした。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー2)「コロンブス航海誌/林屋永吉訳/岩波文庫/岩波書店」p9~101492年のこの年、ヨーロッパをかねてから支配していたモーロとの戦を両陛下が終熄させられて、あのグラナダの大都での戦を終えられ、本年1月2日、両陛下の軍勢が同都の城塞アルハンブラの塔に王旗を掲げるのを、私はその地において目のあたりにし、かつまた、同都の城門よりモーロ王が出城して、両陛下ならびに王子殿下の御手に接吻するのを、拝したのであります。~そこで両陛下はこの1月に、そのすべての国土ならびに領土からユダヤ人を追放せられて後、私に対し、十分なる船隊をひきいて、インディアスの前記地方に赴くよう命ぜられたのであります。そしてそのために、私に非常な恩恵を与えられ、私を貴族に列せられて、爾後(じご)ドンの称号を付して名乗ることを許され、私を大洋提督、兼副王に任ぜられ、さらに今後大洋において発見し、獲得するであろうすべての島々、および大陸の終身提督とされ、かつ私の長子がこれを継承し、その後は永遠に、代々これを相つぐこととされました。そこで私は、同年すなわち1492年の5月12日、土曜日、グラナダ市を出発して、海港パロスの村に到着し、同地においてこのような事業に適した3隻の船を仕立て、多量の食糧と多数の船員を乗せて、同年8月3日、金曜日の日の出の半時間前に同港を出発し、大洋にある両陛下の領土カナリア諸島へと進路をとり、同諸島よりインディアスに赴いて、彼の地の君主達に対する両陛下の使節としての任を果たすことにより、両陛下が私に命ぜられたところを遵守せんものとして、この航海を行うことにしたのであります。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー3)「アルハンブラ物語(上)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p186~188南の方角、連山の麓の、ひと連なりの赤茶げた丘陵へと目を転じてください。いま、長いラバの隊列がゆっくり下りてくるところです。ここが、イスラム教徒の最後の幕が降ろされた場所です。不運なボアブディル(イスラムナルス朝最後の王)は、丘陵のひとつの頂から、これを最後と、グラナダを振り返り、悲痛な、声にならない嘆きを洩らしました。それで、その峠は「モーロ人の最後のため息:エル・ウルテイモ・ススビーロ・デル・モーロ」と呼ばれています。~モーロ人が涙を飲んで明け渡したこの緑の平野のただ中に、ある意味で、旧大陸の歴史と新大陸の歴史とを邂逅させたとも言える場所があります。ほら、向こうに見える、朝日をさんさんと浴びている城壁の町、サンタ・フェがそれです。サンタ・フェは、グラナダ包囲戦で野営陣地を大火災で失った後に、カトリック両王(フェルナンド王とイサベル女王)が急遽築いた城塞です。コロンブスはあの英雄的な女王に呼び戻され、あの城塞壁の中で、やがて新大陸発見へと結実する契約書にサインしたのです。城壁のさらに向こうの、西に岬のように張り出ている岩山の陰に、モーロ人とキリスト教徒の間で何度となく血で血を洗う激闘が行われたことで名高いピノスの橋(El Puente de Pinos Puente)がありますが、あのとき、スペイン国王たちとの交渉に見切りをつけたコロンブスは、彼の計画をフランス宮廷に持ち込もうと、出発したところでした。ちょうどピノスの橋を渡っていたとき、女王の急便が彼に追いついたのです。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ グラナダ王室礼拝堂を見た後、路地を歩く。↓ グラナダ市役所。↓ レジェス・カトリコス通り。↓ イサベル・ラ・カトリカ広場。↓ イサベル女王とコロンブスの像。↓ コロンブスがイサベル女王に航海計画書を見せて説明している。↓ 宿泊所まで歩いて戻る。↓ サン・ジルとサンタ・アナ教区教会。ーーーーーーーーーーーーーーーー【資料】「アルハンブラ宮殿物語 グラナダの奇跡と王たち/西川和子/彩流社」p234~236サンタ・フェは、ここからグラナダの様子がわかるとともにグラナダからもサンタ・フェの様子がわかるのです。ここに野営地ではなく、頑健でちょっとやそっとではびくともしない本物の都市を築くことが重要と考えたのです。こうしてサンタ・フェの野営地は都市に変貌しました。この新しくできた都市を、グラナダ人は城塞の中から見て驚きました。「こんな堅固な町から見られているのではたまらない」わずか3ヵ月の間に、都市が出来上がるとともに12,000人もの住民が隣町から移ってきていたのです。グラナダ側が反乱を続けることは無意味でした。ボアブディル(イスラム王)は戦争を終結させる協定の検討に入ったのです。1491年11月に、グラナダ降伏協定がなされました。1492年1月2日、グラナダは降伏しました。~午後、ボアブディル一行はグラナダの町の門を出てカトリック両王に挨拶をし、ここで人質となっていた息子アフメドを返されます。武器を渡し、家族とともにグラナダ東部の山間の町アルプハラに向かいます。~ここに、約250年続いたグラナダ王国は終わりました。最後の王ボアブディルはまだ33歳でした。↓ 左赤枠がサンタ・フェ、右赤枠がグラナダ。 10キロメートルの距離。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「コロンブス航海誌/林屋永吉訳/岩波文庫/岩波書店」p9~101492年のこの年、ヨーロッパをかねてから支配していたモーロとの戦を両陛下が終熄させられて、あのグラナダの大都での戦を終えられ、本年1月2日、両陛下の軍勢が同都の城塞アルハンブラの塔に王旗を掲げるのを、私はその地において目のあたりにし、かつまた、同都の城門よりモーロ王が出城して、両陛下ならびに王子殿下の御手に接吻するのを、拝したのであります。~そこで両陛下はこの1月に、そのすべての国土ならびに領土からユダヤ人を追放せられて後、私に対し、十分なる船隊をひきいて、インディアスの前記地方に赴くよう命ぜられたのであります。そしてそのために、私に非常な恩恵を与えられ、私を貴族に列せられて、爾後(じご)ドンの称号を付して名乗ることを許され、私を大洋提督、兼副王に任ぜられ、さらに今後大洋において発見し、獲得するであろうすべての島々、および大陸の終身提督とされ、かつ私の長子がこれを継承し、その後は永遠に、代々これを相つぐこととされました。そこで私は、同年すなわち1492年の5月12日、土曜日、グラナダ市を出発して、海港パロスの村に到着し、同地においてこのような事業に適した3隻の船を仕立て、多量の食糧と多数の船員を乗せて、同年8月3日、金曜日の日の出の半時間前に同港を出発し、大洋にある両陛下の領土カナリア諸島へと進路をとり、同諸島よりインディアスに赴いて、彼の地の君主達に対する両陛下の使節としての任を果たすことにより、両陛下が私に命ぜられたところを遵守せんものとして、この航海を行うことにしたのであります。↓ クロニック 世界全史/講談社「陸地だ!陸地だ!」新世界「発見」されるコロンブス、バハマ諸島に到着 (1492年10月12日)↓ コロンブスの生年は1446年や1551年など異説が多い。生地はジェノヴァ周辺とされる。1446年説に従えば、第1回航海は46歳。死去は60歳。↓ バハマ諸島に上陸したコロンブスは、目的を達成した思いで、十字架を建て王旗を掲げて、神への感謝をささげ領有を宣言した。↓ コロンブスの探検航路。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「アルハンブラ物語(上)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p186~188南の方角、連山の麓の、ひと連なりの赤茶げた丘陵へと目を転じてください。いま、長いラバの隊列がゆっくり下りてくるところです。ここが、イスラム教徒の最後の幕が降ろされた場所です。不運なボアブディル(イスラムナルス朝最後の王)は、丘陵のひとつの頂から、これを最後と、グラナダを振り返り、悲痛な、声にならない嘆きを洩らしました。それで、その峠は「モーロ人の最後のため息:エル・ウルテイモ・ススビーロ・デル・モーロ」と呼ばれています。↓ 赤い矢印の部分が、ボアブディル王が振り返りアルハンブラを見て泣いたとされる「モーロ人最後のため息:El último suspiro del Moro:エル・ウルティモ・ススピーロ・デル・モーロ」と呼ばれる場所。ーーーーーーーーーーーーー「アルハンブラ物語(上)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p186~188モーロ人が涙を飲んで明け渡したこの緑の平野のただ中に、ある意味で、旧大陸の歴史と新大陸の歴史とを邂逅させたとも言える場所があります。ほら、向こうに見える、朝日をさんさんと浴びている城壁の町、サンタ・フェがそれです。サンタ・フェは、グラナダ包囲戦で野営陣地を大火災で失った後に、カトリック両王(フェルナンド王とイサベル女王)が急遽築いた城塞です。コロンブスはあの英雄的な女王に呼び戻され、あの城塞壁の中で、やがて新大陸発見へと結実する契約書にサインしたのです。↓ 右赤枠がグラナダ、左赤枠がサンタ・フェ。 10キロメートルの距離。↓ サンタ・フェ市内。アメリカ研究所があり、コロンブスの史料が展示されている。↓ アメリカ研究所 ダミアン・バヨンセンター(Institute of America - Centro Damian Bayon)があり、コロンブスの記録が展示されている。ーーーーーーーーーーーーー「アルハンブラ物語(上)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p186~188サンタ・フェは、グラナダ包囲戦で野営陣地を大火災で失った後に、カトリック両王(フェルナンド王とイサベル女王)が急遽築いた城塞です。コロンブスはあの英雄的な女王に呼び戻され、あの城塞壁の中で、やがて新大陸発見へと結実する契約書にサインしたのです。城壁のさらに向こうの、西に岬のように張り出ている岩山の陰に、モーロ人とキリスト教徒の間で何度となく血で血を洗う激闘が行われたことで名高いピノスの橋(El Puente de Pinos Puente)がありますが、あのとき、スペイン国王たちとの交渉に見切りをつけたコロンブスは、彼の計画をフランス宮廷に持ち込もうと、出発したところでした。ちょうどピノスの橋を渡っていたとき、女王の急便が彼に追いついたのです。↓ 画面左上枠:ピノス橋があるピノス・プエンテ。画面左下の枠:サンタ・フェ。画面右下の枠:グラナダ。↓ ピノス・プエンテの町の中央を流れるクビージャス川に架かる橋が、ピノス橋。↓ ピノス橋。↓ ピノス橋。↓ 私が高速列車の車窓から撮った、ピノス橋があるピノス・プエンテの町。
2026.03.05
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ2025年5月24日(土)、グラナダ大聖堂を見た後、外を回って王室礼拝堂に入りました。グラナダをイスラム王国から奪回してレコンキスタ(国土回復運動)を終了させたイサベル女王は、この場所を墓場と決めて1504年に礼拝堂を建て始めました。ところがイサベル女王はその2か月後に亡くなり、夫のフェルナンド2世も2年後に礼拝堂の完成を待たずに亡くなります。結局この礼拝堂は1521年に完成し、フェルナンド王、イサベル女王ともに遺骸はこの地下室に安置されました。礼拝堂内は撮影禁止の為、写真は撮っていませんが、1991年グラナダ旅行時に購入したガイドブックには礼拝堂内の写真が掲載されており、紹介します。・カトリック両王(フェルナンド王とイサベル女王の遺骸が入った墓碑。・イサベル女王の王冠、王笏(おうしゃく)・カトリック両王の娘フィアナとその夫フィリペ1世の遺骸が入った墓碑ーーーーーーーーーーーーーーーー「アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p272~275に、「グラナダの大祝祭」という章があり、王室礼拝堂の記載があるので一部を紹介します。マテオによれば、エル・ディア・デ・ラ・トマ(征服の日)こそ、「完全な至福」と呼ぶにふさわしい祭日中の祭日である。何の征服かときいたら、それはフェルナンド王とイサベル女王の軍がグラナダを征服した日を記念する祝祭日に決まっている、ということだった。この祝祭日が来ると、マテオが言うには、グラナダ中がお祭り気分一色に染まる。アルハンブラの「物見の塔」の大鐘が、朝から晩まで、引きも切らず打ち鳴らされる。鐘の音は、ベガ(沃野)の果てまで鳴り響き、山やまにこだまし、近郊の農民はもとより、遠方の農民まで、それこそひとり残らずグラナダへと呼び寄せる。「あの鐘をつく幸運に恵まれた娘は」とマテオは言った。「年内に必ず花婿を手に入れるご利益があるんです」その日一日、アルハンブラは、グラナダ市民全員に解放される。その昔、モーロの王たちが君臨した宮殿の広間や中庭は、終日、ギターやカスタネットが鳴り響き、アンダルシアの意匠を凝らした衣装を着た陽気な人たちが、いくつものグループをつくって、モーロ人から受け継いだ古式ゆかしい舞踏を実演して見せる。グラナダ攻略を模した大行進が、目抜き通りを練り歩く。グラナダ征服の貴重な遺品である、フェルナンド王とイサベル女王の王旗が、市の保管庫から取り出され、大旗手の市長の手で高々と掲げられる。攻略戦中、つねに王の赴くところに持ち運ばれた従軍祭壇が、大聖堂の王室礼拝堂の中へと移動され、王と女王の彫像が並んで静かに横たわる、大理石の記念墳墓の御前に据えられる。続いて、グラナダ征服を記念して、大ミサが挙行される。この式典は、大旗手の市長が帽子をかぶり、掲げた王旗を征服王・女王の墳墓の上で、打ち振る段に至って、最高潮に達する。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ グラナダ王室礼拝堂入口。(グラナダ大聖堂を一旦出て、外をぐるりと回って来る)↓ 礼拝堂入口。↓ 入館時間案内。↓ 礼拝堂内は撮影禁止。ーーーーーーーーーーーーー↓ 1991年にグラナダ観光をしたとき購入したガイドブック。GRANADA in your hand.Segunda Edicion Septiembre 1989©Editorial En Su Manop32~33↓左側:グラナダ大聖堂の紹介。右側:グラナダ王室礼拝堂の写真。↓ グラナダ王室礼拝堂。↓ p34~35。↓ カトリック両王(フェルナンド王とイサベル女王)の遺骸が入った墓碑。・イサベル女王の王冠、王笏(おうしゃく)。↓ カトリック両王の娘フィアナとその夫フィリペ1世の遺骸が入った墓碑。↓ 礼拝堂の外壁。ーーーーーーーーーーーーー↓ 礼拝堂の側壁。↓ 街の中心へ進む妻。
2026.03.04
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ2025年5月24日(土)、グラナダ大聖堂を見学しました。1491年後半、キリスト教のカトリック両王(フェルナンド王とイサベル女王)が、イベリア半島のイスラム教徒最後の本拠地だったアルハンブラ宮殿を包囲しました。1492年1月2日、これ以上抗えないと判断したナルス朝最後の王であるボアブディルが城を明け渡し、最終的にアフリカに行きました。このグラナダ陥落後、市内のイスラム教モスクを取り壊し、その跡地に1528年からグラナダ大聖堂を造り始めました。教会内部は高さ30メートルの円柱とアーチに支えられており、ステンドグラスが美しいです。この大聖堂の隣には、ロイヤル・チャペルというカトリック両王(フェルナンド王、イサベル女王)の霊廟があります。(ロイヤルチャペルはグラナダ大聖堂から一旦外に出て、別の入口から入る必要があります)↓ グラナダ大聖堂。↓ グラナダ大聖堂正面。↓ パイプオルガン。↓ パイプオルガンの修復。
2026.03.03
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ2025年5月24日(土)、アルバイシンからグラナダ大聖堂に行く途中、サン・アグスティン市場(Mercado de San Agustín)に寄りました。前日に行った時は閉まっていたので心配しましたが、ちゃんと開いていました。妻は市場やマーケットを覗くのが大好きで、必ず中に入って店や商品を見ています。↓ サン・アグスティン市場前の通り。↓ サン・アグスティン市場に入る。↓ 店を見て回る妻。
2026.03.02
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ・アルバイシン2025年5月24日(土)、アルバイシンの丘を散策し、ラ・ロナ展望台から麓まで、細い道をくねくね下っていきました。別に観光名所や旧跡でなくても、迷路のような路地を妻とバカ話をしながら歩くのが、とても楽しい。↓ アルバイシンのラ・ロナ展望台(Mirador de la Lona)。↓ グラナダ駅が見える。↓ 正面にグラナダ大聖堂が見える。↓ ブーゲンビリア。↓ 大通り(グラン・ビア・デ・コロン通り)に出た。
2026.03.01
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ・アルバイシン2025年5月24日(土)、アルハンブラ宮殿の対岸にあるアルバイシンの丘を散策しました。有名なサン・ニコラス広場からアルハンブラ宮殿を眺め、アルバイシンの観光ポイントを巡ります。途中で、「Placeta Cristo de las Azucenas :アスセナス(白百合)のキリストの小広場」という広場を見ました。この地には昔、アスセナス(白百合)を捧げられたキリストの絵が収められた祠があり、アスセナス(白百合)が供えられていました。伝説ですが、アルバイシンに町一番美しいとされる孤児の娘が住んでいました。祖母は娘に刺繍の仕事を教えて生計を立てさせており、娘は美しさだけでなく、心も優しく働き者で、多くの若者が彼女に求愛しました。ある日、娘は町で最もハンサムだが放蕩な若者に恋をしてしまいます。若者は娘を犯した後に娘を捨てて姿を消します。祖母は若者に対して激しく怒ります。その後、キリスト教の絵のある祠の前で、偶然にも祖母が若者を見つけ、若者に対して「責任を取り、娘と結婚しなさい」と迫ります。若者は祠に供えられていた、すっかり枯れた白百合を見て、「この枯れたアスセナス(白百合)が再び咲いたら娘と結婚してやる」と嘲笑しました。その瞬間、枯れていたアスセナスが奇跡的にみずみずしく蘇り、祖母も若者も言葉を失いました。この奇跡を目の当たりにした若者は、怖れと後悔に包まれ、娘に対して犯した罪を深く悔い始めました。若者は心を入れ替えて娘に謝罪し、二人は結婚しました。この奇跡の話により、この地はアスセナス(白百合)のキリストの小広場と呼ばれるようになりました。この祠は、近くにあるConvento de Santa Isabel la Real (サンタ・イサベル・デ・レアル修道院)の壁にあったそうです。↓ サン・ニコラスの十字架像。↓ 広場とアルハンブラ宮殿。↓ サン・ニコラス貯水槽。↓ サン・ニコラス教会。↓ ブーゲンビリア。↓ 「Placeta Cristo de las Azucenas :アスセナス(白百合)のキリストの小広場」。↓ グラナダ王国最後の王ボアブディルの母后アイシャの屋敷があったらしい。アルバイシンは貴族のアベンセラーヘ家の地元で、アイシャを支持していた。↓ サンタ・イサベル・デ・レアル修道院(Santa Isabel La Real)。↓ サン・ミゲル・バホ教会(SAN MIGEL BAHO)。↓ サン・ミゲル・バホ広場。↓ ラ・ロナ(LA LONA)展望台
2026.02.28
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ・アルハンブラ2025年5月24日(土)、グラナダ・アルバイシン地区のサン・ニコラス広場で、アルハンブラ宮殿、そして「モーロ人最後のため息:El último suspiro del Moro:エル・ウルティモ・ススピーロ・デル・モーロ」の場所を遠くに見ました。1942年1月2日、グラナダ王国ナルス朝の最後の王ボアブディルが、カトリック両王(フェルナンド王、イサベル女王)に宮殿の鍵を渡して降伏し、711年以来約8世紀間アンダルシアを支配し続けたイスラム教徒の勢力が、ついにイベリア半島から消えていく事になりました。イスラム王国最後のボアブディル王が宮殿を出て、シエラ・ネバダ山脈を越えたラス・アルプハラの地に移動することになりましたが、その途中でボアブディル王は岩山の頂きにかけ登り、アルハンブラ宮殿を振り返り、もの悲しい叫びを上げた場所があり、そこは「モーロ人最後のため息:El último suspiro del Moro:エル・ウルティモ・ススピーロ・デル・モーロ」と呼ばれています。「アルハンブラ物語(上)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p263~264には、その光景の記載があり、紹介します。これを最後と、グラナダに別れを告げたボアルディルが、ついに眼を転じた時、思わずもの悲しい叫びを上げたとされるこの岩山は、いまでも「モーロ人最後のため息:エル・ウルティモ・ススピーロ・デル・モーロ」と呼びならわされている。比類ない王国、比類ない王宮から追放された現実を受け入れなければならない彼の悲しみは、言語を絶するものだったろう。彼は、アルハンブラとともに、父祖たちの誉れのいっさいを、そして人の世の栄光と喜びのいっさいを、ここで振り捨てようとしたのだと思われる。この断腸の思いは、息子の苦難をたびたび共に忍んできた母アイシャの𠮟責によって、ますます搔き毟られた。王国の危機に際して、ボアブディルを力の及ぶかぎり援護してきた母后は、もはや甲斐ないとは知りながら、彼女自身の気丈な精神を息子に吹き込み、奮い立たせようとしたのだ。「泣くがいい」と彼女は言った。「男として守り切れなかったからには、女のように泣くがいい」↓ アルバイシンのサン・ニコラス広場で、アルハンブラ宮殿をバックに記念撮影。↓ 赤い矢印の部分が、ボアブディル王が振り返りアルハンブラを見て泣いたとされる「モーロ人最後のため息:El último suspiro del Moro:エル・ウルティモ・ススピーロ・デル・モーロ」と呼ばれる場所。↓「モーロ人最後のため息:El último suspiro del Moro:エル・ウルティモ・ススピーロ・デル・モーロ」の場所。画面右側にある敷地は、アルミーニャ空軍基地(Base Aérea de Armilla)。↓ アルハンブラ宮殿のアルカサバ。↓ 1991年にアルハンブラ宮殿に初めて行った時に購入した現地のガイドブック。Segunda Edicion Septtiembre 1989 ©Editional En Su Mano.↓p7 Aerial view of the Alhambra with the city in the background.街を背景にしたアルハンブラ宮殿の航空写真。↓ 赤の囲みが「七階の塔」。青い囲みが「裁きの門」。以前は7階の塔があったが、1812年のフランス軍撤退の際に破壊されてしまった。1492年1月2日、グラナダ王国ナルス朝の最後の王ボアブディルが、カトリック両王(フェルナンド王、イサベル女王)に降伏を決め、城塞の大手門(裁きの門:青色の囲み)ではなく、この7階の塔(赤い囲み)から出立した。グラナダの住民の眼に、その落ちぶれた姿をさらしたくなかった。ボアブディル王は、カトリック両王(フェルナンド王、イサベル女王)に対して、今後再び、何人たりとこの門を通ることを許さないで頂きたい、と懇願した。彼の祈願はイサベル女王の温情によって叶えられ、城門は壁の中に塗りこめられてしまった。↓ グラナダ陥落(1492年1月2日)の様子が描かれた絵。左側はグラナダ王国最後のボアブディル王とアルハンブラ宮殿。右側はカトリック両王(フェルナンド王、イサベル女王)。↑ 「アルハンブラ宮殿物語 グラナダの奇跡と王たち/西川和子/彩流社」p236~237この日(1492年1月2日)、グラナダ王ボアブディルは、アルハンブラ宮殿のコマレスの塔の王座の間(大使の間)で、アルハンブラ宮殿の鍵をカスティーリャの将軍に渡したのです。この将軍というのは、テンディーリャ伯イニィゴ・ロペス・デ。メンドーサで、初代グラナダ市長に任命されます。午後、ボアブディル一行はグラナダの町の門を出てカトリック両王に挨拶をし、ここで人質となっていた息子アフメドを返されます。武器を渡し、家族と共にグラナダ東部の山間の町アルブハラに向かいます。その後、カトリック両王はグラナダに勝利の入城をし、イスラムの習慣を尊重すること、信仰の自由を保証すること、イスラムの法秩序を残すことを約束しました。ここに、約250年続いたグラナダ王国は終わりました。最後の王ボアブディルはまだ33歳でした。ボアブディルの妻モライマは、降伏の翌年、まだグラナダにいる間に死去しました。二人の息子アフメドとユースフは父ボアブディルと一緒にアフリカに渡りますが、その後のことはわかりません。娘も一人いたようで、ソール・イサベル・デ・グラナダという名前が残っています。修道女になったのでしょう。ボアブディル自身はアフリカの地で、74歳まで生きています。↓ クロニック世界全史/講談社。p3841491年10月、ボアブディル王は降伏し、12月30日に降伏文書に調印。翌1492年1月2日、カトリック両王にグラナダ市とアルハンブラ宮殿を明け渡し、イスラム教徒のアンダルシア支配は終わった。↓ p384 15世紀末のスペイン。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー私は高校時代、日本史ではなく世界史を選んでおり、特にヨーロッパの歴史に興味がありました。アフリカのムーア人がジブラルタル海峡を渡り(711年)、イベリア半島を席巻して西ゴート族を滅ぼしました。その勢いでイスラム軍はピレネー山脈を越え、今のフランスの地を北上していきますが、732年、フランスのトゥールとポワティエ間でキリスト教であるフランク王国がイスラム軍を撃退し、イスラム軍はイベリア半島に撤退します。有名な「トゥール・ポワティエの戦い」です。もしフランク王国が戦争に負けていたら、ヨーロッパはキリスト教ではなくイスラム教の国になっていたかもしれません。私がオランダに駐在していたとき、休みに車でフランス人の文通相手の家を訪問することにしました。オランダのロッテルダムからベルギーのブリュッセルを通り、フランスではパリ、トゥール、ポワティエ、ボルドーと幹線道路を走り、彼女が住んでいるベルジェラックに行きました。運転途中、看板にトゥール、ポワティエの文字を見ると、世界史の教科書に出ていた「トゥール・ポワティエの戦い」を思い出しました。イベリア半島ではイスラム王朝が支配し、グラナダでは1230年にナルス朝が始まりますが、キリスト教のカスティーリャ、アラゴン王国がイスラム国と戦い、イベリア半島をキリスト教国とする国土回復運動(レコンキスタ)が活発化します。キリスト教軍はコルドバ、セビーリャなど主要な街を奪取していき、1492年アルハンブラ開城により、レコンキスタが完了となりました。↓ 妻と結婚した時、妻が買ってくれた本。クロニック世界全史/講談社。↓ p233 「イスラム勢力の拡大続く。ついにイベリア半島に上陸」 714年春。イスラム軍の司令官ターリクは、イベリア半島南端のカルペ山を占領。半島征服の足場にした。カルぺ山はターリクの山すなわちジュベル・ターリクとよばれ、ジブラルタルの地名の由来となった。↓ p235「宮宰カール、トゥール・ポアティエ間で、イスラム軍の北上を阻止」732年10月25日。↓ トゥール・ポアティエ間の戦い。フランク騎士とイスラム騎兵が突撃する場面では、イスラム側は槍と弓矢、斧などの武器を使用し、駱駝にまたがっているものもいた。フランク側は歩兵が主力である。ーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版/帝国書院/平成2年12月20日発行。↓ p24 ヨーロッパ主部私が車でオランダ・ロッテルダムからフランス・ベルジュラックまで移動したときのルート。(赤字)オランダ・ロッテルダムベルギー・ブリュッセルフランス・パリ(青地)フランス・トゥールフランス・ポワティエ(赤字)フランス・ボルドーフランス・ベルジェラック↓ パリ、トゥール、ポワティエ、ボルドー、ベルジェラック。↓ フランス・ベルジェラックで、文通相手と初めて会う。
2026.02.27
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【旅行8日目】2025年5月24日(土)、アルハンブラ宮殿、ヘレナリフェ離宮を見た後、ダーロ川を越えてアルバイシンの丘を上っていきました。私は1991年に初めてグラナダを旅しましたが、当時持っていた「地球の歩き方ヨーロッパ(1990~1991版)/ダイヤモンド社」には、p676にアルバイシンの紹介、p657の読者投稿欄に囲み投稿があり、アルバイシンに行ったら注意しないといけないと思っていました。(p656)グラナダで最も古い地区アルバイシン(Albaicin)を歩いて見よう。アルハンブラ宮殿の北に広がる、グラナダでも最も古い地区。タイルや、窓辺の花に飾られた家並みに沿って歩きつつ、サン・ニコラス教会までいってみよう。シエラ・ネバダ山脈を背にしたアルハンブラ宮殿は、一見の価値あり。(p657)アルバイシンに入ってすぐの道には子供もたくさんいるし、危険だという話などすっかり忘れてしまう雰囲気なのですが、ちょっとせまい道にフラフラと迷い込んでしまったとたん、ナイフ片手の男2人につかまってしまいました。「金を出せ!」とおどされて、けっきょくお財布の中に入っていた8000Pts全部を取られました。まあ、カード類は返してくれたけど、変に抵抗したり、現金をあまり持っていなかったりしたら、生命にかかわっていたかもしれません。その後、少し歩いただけで人通りのある道に出ました。~ とにかく皆さんは、常に人通りのある道を歩くように心がけてください。ーーーーーーーーーーーーーー「アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p286から「風見のある館」、「アラブの占星術師の伝説」という話が続きますが、アルバイシンの不思議な話が記載されており、読むとアルバイシンはまるで魔法がかかっているような不思議な地区に思えます。グラナダで最も高いアルバイシンの丘は、アルハンブラの真向かいにあって、ダーロ川の狭い峡谷から高だかと聳えたっているが、その頂きに、モーロ人が最初に創建した王宮の跡がある。王宮跡とはいっても、いまはすっかり埋もれ切っていて、わたしは、土地勘のよい、物知りのマテオ・ヒメネスにも手伝ってもらったのだが、それでも探し出すまでにおおいに手間取ってしまった。この城址は、ここ数世紀の間、「風見のある館:La casa del gallo de viento:ラ・カサ・デル・ガーリョ・デ・ビエント」という呼び名でとおってきた。こう呼ばれるのは、その昔、城の小塔のひとつに、騎馬の戦士をかたどった青銅の像が、風見として取り付けられていたためである。その風見は、グラナダのイスラム教徒の間では、「魔除けの風見」と考えられていた。いくつかの伝承によれば、この風見には、次のようなアラビア文字の銘句が記されていた。賢王アベン・ハブースいわく、かくの如くアンダルシアの民は奇襲にも備えを怠らずこのアベン・ハブースは、モーロ人の古い年代記のいくつかでは、スペインに侵攻した征服王のひとり、ターリクの率いたモーロ軍の一将で、ターリクによって侵略地グラナダの太守に任ぜられた、とある。この風見の像は、太守ハブースが、アンダルシア(アル・アンダルス)のイスラム教徒に対して、敵地にあっては身の安全を図るには、ひとえに国防と臨戦の備えが不可欠だとの見地から、その不断の警告のために設置したもの、と解されている。~さらに詳しく述べたものがある。あるイスラム教徒の年代記者は、シディ・ハサンという行者の証言を記している。彼は、この古い要塞が修繕された時期に、この風見が取り壊される現場に居合わせたのである。「私は見ましたぞ」と、この尊い行者は言っている。「この眼でな。それは七角型の風見で、次のような詩句が刻まれておりましたー『麗しきグラナダの王宮は、魔除けの風見こそ砦なれ。青銅の身なれど騎馬戦士にて、四方吹く風に巡るなり。さあれ、こは賢者にひとつの神秘を黙示する、やがて禍い来たりて滅ぼさん、王宮、その主ともどもを』と」。予言は的中した。~ これが「グラナダのイスラム教徒の王国がついに崩壊に帰した、あの悲惨な戦いの予告にして序曲」にほかならなかったのである。↓ ターロ川を渡り、アルバイシン地区に入る。↓ ターロ川。↓ 右はサクロモンテの丘に行く道。↓ ブーゲンビリア。↓ エル・サルバドル教会。13世紀にできたモスクの上に建てられた教会。↓ ブーゲンビリア。↓ 丘の上にあるサン・ミゲル展望台。↓ サン・アグスティン貯水槽。↓ サン・ニコラス広場に到着。↓ サン・ニコラス広場からアルハンブラ宮殿を臨む。↓ アルカサバ。↓ アルハンブラ宮殿。↓ ヘネラリフェ離宮。↓ ヘネラリフェ離宮。(ズーム撮影)↓ アルハンブラ宮殿の奥に見えるシエラ・ネバダ山脈の雪。↓ アルハンブラ宮殿。↓ 記念写真。
2026.02.26
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【旅行8日目】2025年5月24日(土)、アルハンブラ宮殿、ヘレナリフェ離宮を見た後、その二つの宮殿の間にあるCuesta del Rey Chico(小さな王の坂)を下りました。「小さな王」とは、アルハンブラ宮殿でイスラム教徒の最後の王となったボアブディルのことです。ボアブディルは父親のムレイ・ハセンによって、母親のアイシャとともにコマレスの塔に幽閉されます。アイシャは自分や下女たちのスカートを結んで塔の窓から垂らし、ボアブディルはそれを持って、無事に塔の外に出ます。待機していたアベンセラーヘ家の騎士の背に乗り、この「小さな王の坂」を下って逃げました。この経緯は、「アルハンブラ宮殿物語/グラナダの奇跡と王たち/西川和子/彩流社」p198~203の「妻と愛人」に記載されており、要約して紹介します。ムレイ・ハセンの妻アイシャはムハンマド9世の娘で、ムハンマド10世妃となっていましたが、ムハンマド10世がサードとその息子のムレイ・ハセンに殺されると、今度はムレイ・ハセンの妻となりました。1455年、ムハンマド10世が殺害された年にムレイ・ハセンとアイシャは結婚し、数年後には待望の男子、ボアブディルが生まれました。ボアブディルが生まれるとすぐに占星術師のところで占われることになり、占星術師はボアブディル誕生時の星の位置を確認し、「この子は偉大なる王になるが、王国を失うことになる」と言いました。父のムレイ・ハセンは、多分このことが原因でやがて息子を嫌うようになったのです。ムレイ・ハセンはキリスト教側の領土であるコルドバの近くに侵略し勝利していくのですが、勝利すれば戦利品として捕虜を捕まえ、敗北した側は、捕虜を返してもらうために高額のお金を支払うことになるのです。捕虜の中に、マルトス城塞主で指揮官のサンチョ・ヒメネス・デ・ソリスの子どもたちがいたのですが、そのうちの一人がイサベル・デ・ソリスでした。どうしたことか、ムレイ・ハセンは、そのイサベル・デ・ソリスを一眼見るなり恋に落ちたのです。何という美しさ、けなげさ、品の良さ。イスラムの女性にはないものでした。アイシャは、自分の知らないところで、恐ろしいことが起きているのに気づきます。ムレイ・ハセンはイサベル・デ・ソリスを「囚われ人の塔」に住まわせ、イスラム教に改宗させ、名前をキリスト教名のイサベルから、イスラム名のソラヤに変えさせていたのです。ムレイ・ハセンは、なんと妻アイシャを離縁し、ソラヤを正式な妻とするのです。そしてハーレムの指導権を握ったソラヤは、王位継承を自分の息子にしようと企てるのでした。アイシャにすれば、キリスト教徒の捕虜の女を妻にするなど許せることではありません。さらに、ボアブディルという男子を産んでいるのに自分を離縁するなど、ありえないのです。その上、もしあのソラヤが男子を生んだらそちらに王位が行くかもしれない。そして事実、ソラヤは息子を2人産むのです。その時から、アイシャとボアブディルは「ムレイ・ハセン憎し」で歩調を合わせ、ムレイ・ハセンを退位させるための陰謀を練っていきます。ムレイ・ハセンにとっては、アイシャは美人ではない上に強情で、夫である自分の命令に従わず、少なからず辟易していたのでしょう。陰謀を巡らした罪でアイシャとボアブディルをアルハンブラ宮殿のコマレスの塔に幽閉するのです。しかし、アイシャには常にアベンセラーヘ家が付いています。父ムハンマド9世時代からの強い味方の貴族です。アベンセラーヘ家の力でアイシャもボアブディルも塔から逃げ出し、ボアブディルはグアディスクで味方を集めるのです。ーーーーーーーーーーーーー↓ 暑いので、アルハンブラ宮殿の外にある店でドリンクを購入した。↓ 水は€1.7、ファンタは€3.0。↓ レストランがある。↓ レストランを通ると、チコの坂道がある。↓ 水の塔と水道橋。左側はアルハンブラ宮殿、右側はヘネラリフェ離宮。↓ Cuesta del Rey Chico (小さな王の坂)の看板。コマレスの塔からスカーフを垂らし、ボアブディルはこの道まで下りた。待機していたアベンセラ―ヘ家の騎士の背に乗って、ボアブディルは逃げた。そのため、小さな王の坂という名前が付いた。↓ 水が流れる。↓ アマポーラ(ひなげし)。↓ 対岸のアルバイシンの丘が見えてきた。↓ アルバイシンの丘。↓ アルハンブラ宮殿のアルカサバを見上げる。↓ 水道橋。↓ ふもとに下りた。↓ アルハンブラ宮殿を臨む。
2026.02.25
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ・アルハンブラ2025年5月24日(土)、アルハンブラ宮殿、ヘネラリフェ離宮を散策しました。アルハンブラ宮殿から石橋を渡り、対岸の丘にあるヘネラリーフェ離宮を歩きます。離宮の庭は花で美しく飾られ、糸杉の並木道がとても印象的でした。「アルハンブラ物語(下)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p22~27には、ヘネラリーフェ離宮について書かれてあり、一部を紹介します。アルハンブラの丘陵よりいちだんと高い、山の胸部に当たるところに、ヘネラリーフェ離宮の高い塔郡や白い城壁が、刺繡の図柄のような庭園を従え、堅固に築かれた段丘のただ中にに聳えている。数多くの伝説を秘めて眠る、妖精のお城といった趣だ。いまも糸杉の巨木が鬱蒼と森をなしている。モーロ人の時代にも青々と繁り、ボアブディルと彼の后をめぐる伝説的な物語にも登場する、あの名高い糸杉である(注1)。(注1)「アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p346ボアブディルの王妃モライマの「不貞」説は、アーヴィングによれば、当書が初発である。ランスロットとグィネヴィアもどきのロマンスとして語り継がれてきたもので、王妃モライマはボアブディル王の宮殿における華の騎士、アベンセラーヘ家のアルビン・マヘットと恋に落ち、ヘネラリーフェ離宮への糸杉の道の奥、あるいはヘネラリーフェ最奥の「糸杉の中庭」で密会を重ねていたが、その現場を、アベンセラーヘ家と勢力を二分する騎士の名門セグリー家の騎士らに目撃され、讒言された。ボアブディルは、狂乱し、后を投獄して拷問にかけ、身の潔白が証明されなければ火刑に処すると宣言する一方、ハメットと35人のアベンセラーヘ家の騎士を「ライオンの中庭」に招いて、ひとりずつ「アヘンセラーヘ家の間」に呼び入れ、噴泉の傍らで首を刎ねさせた、とされている。この斬首事件については、アーヴィングは次章で、アベン・オスミン(ムハンマド10世)もあるとしながら、彼の調査では、ボアブディルの父王ムレイ・アブール・ハッサンが、宰相アブル・カシム・ベガネス一派に唆されて行ったものである、と断定している。p24~25それにしても、この離宮は、たわわに実る果実、咲き乱れる花ばな、馨しい大気、緑したたる四阿と天人花の生垣、涼風とほとばしる噴泉、と南国好みのエピキュリアンを喜ばせるすべての条件を備えている。ここを訪ねると、画家たちが好んで画題にする南国の宮殿や庭園を、まさに目の当たりに見る思いがするのである。その日は、カンポテハル侯爵の令嬢の守護聖人の祝日だった。令嬢は、長い夏の一日を、このモーロ人の宮殿の見晴らしのよい広間や四阿で楽しく過ごそうと、グラナダから若い友人たちを数人連れてやってきた。朝の離宮訪問は、心が躍るような経験だった。訪問客は思い思いに連れ立って、気の向くまま芝生の散歩道や、陽光の中できらめく噴泉、イタリア式階段、広々とした段丘、大理石の欄干へと散策の足をのばし、みな晴れ晴れとした顔をしていた。屋外ベランダになっている柱廊にも人々が群がり、素晴らしい景観を楽しんだ。わたしも、この見晴らしのよい柱廊に腰を下ろした。アルハンブラ宮殿、そのずっと下方にグラナダ市とベガ(沃野)が広がり、そのはるか彼方に連なる山脈が地と空を綴じ合わせている。眩しい、夏の陽光を浴びて浮かび出た風景は、夢の世界さながらだった。うっとり見惚れていると、緑濃いダーロ川の渓谷から、ギターの音や、カスタネットを打ち鳴らす音が、微かにたちのぼってきた。この丘陵地の中腹にも、木立の下に1グループが陣取って、草むらに寝転んだり、楽器に合わせて踊ったり、典型的なアンダルシア風ピクニックを楽しんでいるのが見て取れた。↓ アルハンブラ宮殿からヘレナリフェ離宮へ移動する。↓ 水の塔。↓ 水道橋。↓ 水道橋。↓ ヘネラリフェ離宮に移動する。↓ 糸杉。↓ トカゲがいた。↓ ヘネラリフェ離宮の「アセキアの中庭」。「アルハンブラ宮殿物語 グラナダの奇跡と王たち/西川和子/彩流社」p66ヘネラリーフェとはアラビア語で「建築家の庭園」という意味なのですが、ここを建設するのに、ムハンマド2世は相当な建築家に任せていたのだと言われます。また、庭園を爽やかで涼しげなものにしている印象的な「アセキアの中庭」ですが、「アセキア」とは「灌漑用水路」という意味で、美しさと実用を兼ね備えている場所だったのです。↓ アセキアの中庭。↓ 糸杉をバックに記念写真。
2026.02.24
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ・アルハンブラ2025年5月24日(土)、アルハンブラ宮殿を散策しました。リンダラーハの中庭からカルロス5世宮殿を見て、城塞の端まで移動しました。アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p164~166に、「リンダラーハの庭」について記載があり、紹介します。モーロ人の年代記にたびたび出てくる、あの「リンダラーハの庭」は、この内庭のことである。この美しい名前、リンダラーハとは、どんな女性だったのだろか?わたしは、その名前をたびたび聞き、ことあるごとに口ずさんでいながら、リンダラーハについては何も知らなかった。早速調べて、若干の事実を知ることができた。リンダラーハは、ムハンマド左利き王の宮廷で華と謳われたモーロの麗人だった。彼女の父は、王の忠臣中の忠臣で、マラガの要塞の城将だった。ムハンマドが王位を追われたとき、城将はマラガ要塞に王を匿い通した。やがて、王位を奪還したムハンマドは、城将には恩賞をもって報いる一方、彼の美しい娘を引き取って、宮殿に一室を与えて住まわせ、さらに、王自身が親代わりになって、アベン・フード公正王の血を引くセティメリエン公家の若き貴公子ナサール公を彼女に娶せた。二人の婚礼は、間違いなく、この宮殿で盛大に執り行われた。そして二人は、丸一か月の新婚生活を、いまもその麗人の名を持って呼ばれる、この奥まった美しい庭に面した居室で過ごしたのである。美しいリンダラーハも身罷り、かくして四世紀もの歳月が過ぎ去った。しかし、リンダラーハが暮らし、生きたこの場所は、滅びやすい美の宿命を物語りつつも、それでもいまだ往時の面影をいたるところに遺している!麗人のかつて在った悦びの庭は、いまも花ばなが咲き誇り、かつて、彼女がその艶姿を映した噴泉は水面を水晶のように研ぎ澄まして、静かにあふれつづけている。カルロス5世宮殿ですが、カトリック両王(フェルナンド王、イサベル女王)の孫カルロス5世が、1526年の新婚旅行でアルハンブラ宮殿に来た時、ルネッサンス様式の宮殿を造ることを決め、資金はグラナダのイスラム教モーロ人から徴収して建設が始まりました。↓ 城からアルバイシンの丘を見る。↓ 地下通路。↓ リンダラーハの中庭。リンダラーハは、ムハンマド左利き王の宮廷で華と謳われたモーロの麗人だった。彼女の父は、王の忠臣中の忠臣で、マラガの要塞の城将だった。ムハンマドが王位を追われたとき、城将はマラガ要塞に王を匿い通した。やがて、王位を奪還したムハンマドは、城将には恩賞をもって報いる一方、彼の美しい娘を引き取って、宮殿に一室を与えて住まわせ、さらに、王自身が親代わりになって、アベン・フード公正王の血を引くセティメリエン公家の若き貴公子ナサール公を彼女に娶せた。二人の婚礼は、間違いなく、この宮殿で盛大に執り行われた。そして二人は、丸一か月の新婚生活を、いまもその麗人の名を持って呼ばれる、この奥まった美しい庭に面した居室で過ごしたのである。美しいリンダラーハも身罷り、かくして四世紀もの歳月が過ぎ去った。しかし、リンダラーハが暮らし、生きたこの場所は、滅びやすい美の宿命を物語りつつも、それでもいまだ往時の面影をいたるところに遺している!麗人のかつて在った悦びの庭は、いまも花ばなが咲き誇り、かつて、彼女がその艶姿を映した噴泉は水面を水晶のように研ぎ澄まして、静かにあふれつづけている。↓ リンダラーハの中庭から、カルロス5世宮殿へ移動する途中。↓ 浴槽の屋根。窓から浴槽に光を取り入れていた。↓ カルロス5世宮殿。↓ カルロス5世宮殿内部。↓ カルロス5世宮殿をバックに記念撮影。↓ 暑いので、休憩する。↓ ホテルの部屋に置いてあったチョコレートを持参していた。↓ チョコレートを食べる妻。↓ カール5世宮殿。↓ サンタマリア教会。↓ レアル・デ・ラ・アルハンブラ通り。↓ ホテルアメリカ。
2026.02.23
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ・アルハンブラ2025年5月24日(土)、アルハンブラ宮殿を見学しました。アラヤネスの中庭から王の浴場を通って、ライオンの中庭に来ました。12頭のライオンの噴水があります。この南側には、名門貴族のアベンセラーヘ家の男性達が、王の命で殺害され水盤に血があふれ、切り落とされた多くの生首が並んだという有名な事件があった、アヘンセラーへスの間があります。「アルハンブラ宮殿物語 グラナダの奇跡と王たち/西川和子/彩流社」p177~179に、1462年にあった残虐な「アベンセラーヘ事件」が紹介されています。サード王の日々は終わりに近づいたように見えました。アルハンブラ宮殿近くのアルバイシンの町は、今やアベンセラーヘ一族が支配しています。それなのに王とその一族、信奉者たちは、アルハンブラに閉じ込められているということになるからです。サードと息子たちはアルハンブラの一室に集まりました。サードはもう自分はいい年齢だし、と諦めていたのです。退位をせまられることは時間の問題でした。アル・サガルは成人になったばかりで、どうしたらよいのかと父と兄を見つめていました。ムレイ・ハセンは、これは長男の自分が決めるときであると考えていました。そして部屋を出て臣下を呼び、「アベンセラーヘ一族を探し、サード王は退位を決めていると伝えよ」と命令したのです。やがてアベンセラーヘ一族は宮殿に招かれました。皆、年老いたサード王がどのように決断したのか、すぐに退位をするのか、王国を放棄するのか、何か条件を出すのか、いずれにしても今日ですべては変わる、我がアベンセラーヘ一族の想いのままになるのだと思っていたのです。アベンセラーヘ一族の何人かは、一人で考えに耽りながらアルハンブラへの坂を登ってきましたし、多くの人たちはグループで会話などをしながら坂を登ってきたのです。王家の3人は、招待したアベンセラーヘ一族を、アルハンブラ宮殿の柱廊のところで穏やかに待っていました。一族を愛想よく迎えましたが、それは、王位から退く時に慈悲を懇願するためのものでした。ムレイ・ハセンとアル・サガルはアベンセラーヘ一族をライオンの中庭に優しく導くと、豪華な一室に招き入れ、その部屋は暑いカーテンで装飾されていたのですが、カーテンから離れた所に案内しました。しばらくするとサード王が威厳を持って現れました。王に対してムレイ・ハセンは会釈をし、重いカーテンを掴んだのですが、それが合図でした。カーテンの後ろから王党派の臣下たちが現れ、虐殺が始まったのです。王党派は、サード王の武装した奴隷たちで、これは突然のことだったのです。アベンセラーヘの一族はこうして殺害されました。その血は床に、壁に、天井に飛び散ったといいます。これが伝説の「アベンセラーヘ一族殺し」で、1462年7月のことでした。アルハンブラ宮殿のライオン宮に「アベンセラーヘスの間」がありますが、この殺戮のあった部屋だったのです。ーーーーーーーーーーーーーーー「アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p92~93には、次の記述があります。ライオンの中庭の片側には、立派な門がある。それは「アベンセラーヘ家の間」へと通じている。名高い騎士の名門、アベンセラーヘ家の勇敢な騎士たちが、不忠の罪によって、この広間で虐殺されたという伝承から、この名で呼ばれる。この伝承は、すべて作り事だと言う人もいるけれども、わたしたちの信実な案内人、マテオは、門の潜り戸を指さして、アベンセラ―家の騎士たちはあの門から一人ずつライオンの中庭に連れ出され、それから広間の中央の白大理石の噴水のところで、首を刎ねられたのだと言った。マテオは、さらに、敷石の上に広がる、かなり赤みを帯びた部分を示して、あれが騎士たちの流した血の跡で、いくら洗い流しても、また現われ出てくるのだと言われている、と説明した。マテオは、私たちが彼の話を真面目に受け取っていると思ったらしく、こんな因縁話をしてくれた。ライオンの中庭では、夜になると、しばしば多数の人間がいっせいに咳き始めるような、低い混乱した声が、地の底から聞こえてきたり、時折、遠くで鎖をひきずるような、かすかな金属音がきこえてくる。非業の死を遂げたアベンセラーヘ家の騎士たちの亡霊がたてるのだ。夜ごと、受苦の場所に出没しては、自分たちを虐殺した者たちに対して、天の報復を祈願しているのだ、と。↓ 鍾乳石飾りの間。↓ 1590年に起きた火薬庫の爆発で鍾乳石飾りがなくなった。↓ ライオンの中庭。↓ アベンセラーヘスの間。王家の3人は、招待したアベンセラーヘ一族を、アルハンブラ宮殿の柱廊のところで穏やかに待っていました。一族を愛想よく迎えましたが、それは、王位から退く時に慈悲を懇願するためのものでした。ムレイ・ハセンとアル・サガルはアベンセラーヘ一族をライオンの中庭に優しく導くと、豪華な一室に招き入れ、その部屋は暑いカーテンで装飾されていたのですが、カーテンから離れた所に案内しました。しばらくするとサード王が威厳を持って現れました。王に対してムレイ・ハセンは会釈をし、重いカーテンを掴んだのですが、それが合図でした。カーテンの後ろから王党派の臣下たちが現れ、虐殺が始まったのです。王党派は、サード王の武装した奴隷たちで、これは突然のことだったのです。アベンセラーヘの一族はこうして殺害されました。その血は床に、壁に、天井に飛び散ったといいます。これが伝説の「アベンセラーヘ一族殺し」で、1462年7月のことでした。アルハンブラ宮殿のライオン宮に「アベンセラーヘスの間」がありますが、この殺戮のあった部屋だったのです。↓ 二姉妹の間。↓ 12頭のライオンの噴水。↓ 左側は「アベンヘラーセスの間」。右側は「鍾乳石造りの間」。奥はカール5世宮殿。↓ 諸王の間(裁きの間)。「アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p223~224夕暮れ時には、わたしは「裁きの間」へとよく足を向ける。「ライオンの中庭」のちょうど真向かいにあたる、薄暗がりのアーケードに囲われた広間がそれである。アルハンブラがキリスト教徒の手に落ちたとき、この広間に祭壇が設けられて、フェルナンド王とイサベル女王を中心に、勝ち誇った廷臣たちが居並び、スペインの大枢機卿と主だった高位聖職者による大戦勝ミサが挙行された。~ ふと見れば、やがて新大陸の発見者となるコロンブスが、この広間の末席につつましげにたたずみ、この一大パジェントを控えめに、場違いな眼で見つめている。↓ 二姉妹の間。↓ ステンドグラスの光が映っている。↓ リンダラハの中庭。↓ 格子窓の中庭。
2026.02.22
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ・アルハンブラ2025年5月24日(土)、アルハンブラ宮殿を見学しました。コマレス宮の正面(ファザード)、そしてコマレスの中庭の池に映る、コマレスの塔を見ました。コマレスの塔は、王妃アイシャの監禁事件、長男ボアブディルをスカーフで逃亡させる事件の舞台になったところです。「アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p250~252に、コマレス宮の事件が記載されているので、一部を紹介します。ムレイ・アブール・ハッサン王は、青年時代に、不運の星を一身に背負ったともいうべきムハンマド左利き王の娘、つまり彼の従姉妹に当たるアイシャ・ラ・ホルラ公女と結婚した。彼女との間に二人の王子をもうけたが、その長子が、ボアブディル(アルハンブラ・イスラム国の最後の王になる)である。しかし、王は、壮年期になって、もう一人の后を迎えた。若く、美しいキリスト教徒の捕虜で、本名はイサベル・デ・ソリス。しかも、モーロ人の間では、ソライア妃の名で通っていた。そして、王は第二王妃との間にも、二人の王子をもうけた。宮廷では、王位継承権をめぐって王妃動詞の敵対関係が生じ、二つの党派が生まれた。~宮中における両派の対立軋轢は、日に日に緊迫の度を加えていった。権謀術数が渦巻く宮廷の例にもれず、宮中はありとあらゆる陰謀の巣と化した感があった。そんな中で、アイシャ王妃の陰謀説が巧みにムレイ・アブール・ハッサン王の耳に吹き込まれた。すなわち、王妃は、夫である現王を追放して、息子のボアブディルを王位に就けようと謀を巡らせている、というものだった。王は激怒し、母子を「コマレスの塔」に監禁し、思わず我を忘れて、ボアブディルは生かしておくまい、と口走ったのだった。心配した母の王妃は、深夜、自分のスカーフと待女たちのスカーフをかき集めて繋ぎ合わせると、塔の窓から息子を吊り下ろした。下には、王妃に忠誠を誓う騎士数名が騎馬を用意して待ち受けていて、王子を一気にラス・アルプハラスの山中へと連れ去った。↓ メスアール宮からコマレス宮に移動する。↓ 柱廊におかれたジャムカ(折り畳み椅子)。↓ 黄金の間。天井はムデハル様式。↓ 黄金の間から見たコマレス宮の正面(ファザード)。向かって左側の開いてある部分が、王族専用の出入り口。↓ 黄金の間の中庭にある噴水。↓ コマレス宮の正面(ファザード)。「新アルハンブラ物語/安引宏、佐伯泰英/とんぼの本/新潮社」p14定められた道順通りにアルハンブラを歩くとき、イスラム装飾の圧倒的な迫力に息をのむ最初の場がこのコマレス宮の正面(ファザード)である。ここは謁見の間でもあって、王はファザードを背に王座にすわり、人々は黄金の間に直立して、中庭の近衛兵たちの頭ごしに、王に言上した。そのさまを後宮(ハレム)の女性たちが二階の透かし彫りの窓から覗いていたという。精緻な壁面の文様は、かつては彩色されていて、高くなるほど深い色が塗られていた。↓ アラヤネスの中庭を見る妻。↓ アラヤネスの中庭。奥はキリスト教時代に建てられたカール5世宮殿と、それを造るために取り壊されたイスラム建物の残り。↓ アラヤネスの中庭から、コマレスの塔を見る。両側左右の建物は、王の4人の正妻の住居。↓ コマレスの塔。「アルハンブラ物語(上)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p251~252。そんな中で、アイシャ王妃の陰謀説が巧みにムレイ・アブール・ハッサン王の耳に吹き込まれた。すなわち、王妃は、夫である現王を追放して、息子のボアブディルを王位に就けようと謀を巡らせている、というものだった。王は激怒し、母子を「コマレスの塔」に監禁し、思わず我を忘れて、ボアブディルは生かしておくまい、と口走ったのだった。心配した母の王妃は、深夜、自分のスカーフと待女たちのスカーフをかき集めて繋ぎ合わせると、塔の窓から息子を吊り下ろした。下には、王妃に忠誠を誓う騎士数名が騎馬を用意して待ち受けていて、王子を一気にラス・アルプハラスの山中へと連れ去った。↓ 水を飲む猫。↓ 王座の広間。「新アルハンブラ物語/安引宏、佐伯泰英/とんぼの本/新潮社」p24~25。王座の広間は、コマレスの広間とも大使の広間とも呼ばれる。アルハンブラで最大の部屋である。この部屋は後宮(ハレム)とはいえ、重要な告示の決定のさいにも、外国使節の謁見のさいにも使われていた。8017個の嵌木細工でつくられた天井から彩釉タイルを敷きつめた床まで、信じられないほどの細密さと繊細さで、アラベスク文様がびっしり描き出されている。コマレス宮の正面(ファザード)と同様に、ここもかつては赤・青・緑・金色に彩色されていたという。そのエネルギーの厖大さに茫然となる。これはたんなる職人の技ではない。信仰者の祈りなのだ。↑ 「アルハンブラ宮殿物語 グラナダの奇跡と王たち/西川和子/彩流社」p235~236に、この「王座の間が、イスラム教グラナダ王国が終焉を迎えた部屋であったことが記載されています。1492年1月2日、グラナダは降伏しました。この日、グラナダ王ボアブディルは、アルハンブラ宮殿のコマレスの塔の王座の間(大使の間)で、アルハンブラ宮殿の鍵をカスティーリャの将軍に渡したのです。~ 午後、ボアブディル一行はグラナダの門を出てカトリック両王に挨拶をし、ここで人質となっていた息子アメフドを返されます。武器を渡し、家族とともにグラナダ東部の山間の町アルプハラに向かいます。~ ここに、約250年続いたグラナダ王国は終わりました。最後の王ボアブディルはまだ33歳でした。
2026.02.21
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ・アルハンブラ2025年5月24日(土)、アルハンブラ宮殿を見学しました。次の内容を紹介します。①アルハンブラの軍事城塞であるアルカサバの軍事住居区。②アルハンブラから見えるシエラネバダ山脈。③マチュカの庭とメスアール宮。シエラネバダ山脈ですが、私が1991年11月(今から約35年前)にスペイン・ポルトガルを旅した時、グラナダで購入したガイド本に紹介がありました。万年雪の山で、スキー場があります。昔は「Camino de los Nveros:雪取り人の道」というルートがあり、そのルートを登って雪を取ってはアイスやシャーベットを作って売る人がいた事が書いてありますいつか将来、シエラネバダの山に登山したり、スキーができたら楽しそうと思っています。「アルハンブラ物語(下)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫」p105~106に、シエラネバダ山脈まで雪を取りに行く人の話があったので紹介します。「でも、マテオ、あのチラチラする光は何だろか。シエラ・ネバダの雪の峰のすぐ下で、チラチラしているだろ。星みたいに見えるけど、赤いし、それに山の暗がりの位置にあたるしね」「ああ、あれは、セニョール、火ですよ。雪と氷を集めて、グラナダに運び下ろす連中が、火を焚いているんです。毎日、午後になると、連中はラバとロバを率いてあそこまで登り、順番に暖をとるんです、一方がせっせと氷を積んでいる間にね。で、夜明け前にグラナダの門にたどり着けるよう、あそこから降りてくるんです。あのシエラ・ネバダは、セニョール、アンダルシアのただ中に聳え立って、酷熱の夏を涼してくれる、巨大な氷の塊のようなものなのです」↓ 正面奥は夜警(ベラ)の塔:Torre de la Vela、その手前は武器の塔、手前左は忠誠の塔。「新アルハンブラ物語/安引宏/佐伯泰英/とんぼの本/新潮社」P5人類が造ったもっともロマンティックな建物といわれるアルハンブラ宮殿は、スペイン南部、アンダルシア地方の小都市グラナダにあって、街の東側の小高い丘にたっている。城壁と塔に囲まれた宮殿は外から眺めれば単なる小規模な城塞にすぎないが、一歩中に入ると、その精緻な装飾空間に誰もがアッと息をのむ。キリスト教軍によりスペイン南端にまで追いつめられながら、255年にもわたる命脈を保ったスペイン最後のイスラム王国ナスリ朝が主として14世紀に造った建築である。コロンブスの新大陸発見の年(1492)、イスラム勢力はスペインから完全に放逐されたが、この宮殿は、その美しさの故か、破壊されずに奇跡的に今日に伝えられた。↓ アルハンブラ宮殿の向こうにあるアルバイシンの丘。↓ 城壁にある狭間。↓ 荷物を吊り上げるためのフック。↓ ひび割れた塔。↓ 正面は夜警(ベラ)の塔。手前は軍区。「新アルハンブラ物語/安引宏/佐伯泰英/とんぼの本/新潮社」P7アルハンブラの西側は純粋に軍事的な城塞(アルカサバ)であり、ここには宮殿はない。この城塞部分で一際高くそびえ立つのが夜警(ベラ)の塔:Torre de la Vela である。この塔を、当時の人々は誇りを込めて太陽の塔と呼んだ。↓ BARRIO CASTORENSE バリオ・カストレンセ(軍区居住区)。「新アルハンブラ物語/安引宏/佐伯泰英/とんぼの本/新潮社」P8夜警(ベラ)の塔の東側に軍区が広がる。かつてここには二階建ての兵舎が17棟ひしめいていたが、いまは土台を残すのみ。↓ 中には、トイレの溝もあった。↓ 井戸。↓ ハマム:hammam(アラブ式の浴場)跡。↓ アルハンブラ宮殿から見るシエラネバダ山脈。↓ シエラネバダ山脈のベレテ山(Velete 3,470m)。↓ 約35年前になりますが、私が1991年11月にスペイン・ポルトガルを旅した時、グラナダで購入したガイドブックです。GRANADA in your hand / Segunda Edicion Septiembre 1989 ©Editorial En Su Mano.今はインターネットで簡単にグラナダの情報を検索して知ることができますが、当時は「地球の歩き方」くらいしか持参しておらず、現地の英語ガイド本を購入して読む必要がありました。この本のp60~63には、シエラネバダ山脈(Sierra Nevada)の写真と紹介文が書いてありました。ポイントとしては、シエラネバダ山脈は万年雪で覆われた山で、主要な峰はベレテ山:Velete(3,470m)、ムラセン山:Mulhacen(3,481m)、アルカザバ山:Alcazaba(3,314m)です。Camino de los Nveros:雪取り人の道というルートがグラナダからシエラネバダ山脈まであり、雪取り人(Nveros)が万年雪を取っては、アイスクリーム、シャーベットにして売っていたそうです。また、ベレッテ山の斜面はスキー場になっており、リフトも整備され、多くの観光客がスキーを楽しんでいることが書いてあります。「アルハンブラ物語(下)/アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫」p105~106に、シエラネバダ山脈まで雪を取りに行く人の話があったので紹介します。「でも、マテオ、あのチラチラする光は何だろか。シエラ・ネバダの雪の峰のすぐ下で、チラチラしているだろ。星みたいに見えるけど、赤いし、それに山の暗がりの位置にあたるしね」「ああ、あれは、セニョール、火ですよ。雪と氷を集めて、グラナダに運び下ろす連中が、火を焚いているんです。毎日、午後になると、連中はラバとロバを率いてあそこまで登り、順番に暖をとるんです、一方がせっせと氷を積んでいる間にね。で、夜明け前にグラナダの門にたどり着けるよう、あそこから降りてくるんです。あのシエラ・ネバダは、セニョール、アンダルシアのただ中に聳え立って、酷熱の夏を涼してくれる、巨大な氷の塊のようなものなのです」p12~13 アルハンブラ宮殿とシエラネバダ山脈。p60~61 シエラネバダ山脈のベレテ山斜面にあるスキー場。↓p62~63 シエラネバダの高い峰の紹介、Camino de los Nveros:雪取り人の道の説明、スキー場リゾートの紹介。↓ イスラム教のムーア人は、シエラネバダ山脈を「太陽の山」と言う意味でYebal Xolairと呼んでいた。↓ 城塞(アルカサバ)内にある貯水槽。↓ アダルベス庭園。Jardín de los Adarves。16世紀には大砲が並べられていたが、17世紀にはモンデハル侯爵により公園に変えられた。↓ 葡萄酒の門を出る。↓ 有料エリア入場チェックを受ける。↓ マチュカの中庭。↓ マチュカの塔。↓ メスアール宮:Mexuar(アルハンブラ宮殿・行政・裁判・謁見の場にあるセラミックタイル。↓ 中央は、メスアール(行政・裁判・謁見の場)の柱頭。↓ 左は天井の隅にはめる木製のパネル。右は石膏パネル。↓ メスアール宮(行政・裁判・謁見の場)の天井。イスラム王国時代は、ステンドグラスが天井にはめられていたが、キリスト王国時代になり、木製の天井になったらしい。↓ 木製の天井。↓ メスアール宮の床。木とセラミックタイルの組み合わせが面白い。私と妻の靴。↓ 祈祷室:マチュカの中庭の露台(テラス:メスアール宮)。「新アルハンブラ物語/安引宏/佐伯泰英/とんぼの本/新潮社」p12~13。マチュカとは、イスラム撤退後にアルハンブラにカルロス1世宮殿を建てた建築家ペトロ・マチュカの名に由来する。彼はこの中庭を設計室に使っていた。「アルハンブラ宮殿物語 ”グラナダの奇跡と王たち/西川和子/彩流社」p89「メスアールの間」の北側に「祈祷室」がありますが、他の部屋とその向きが一致していません。それは、メッカを指して南東を向いているからなのです。ーーーーーーーーーーーー【参考文献】↓ 新アルハンブラ物語/安引宏、佐伯泰英/とんぼの本/新潮社↓ GRANADA in your hand / Segunda Edicion Septiembre 1989 ©Editorial En Su Mano.↓ 「アルハンブラ宮殿物語 ”グラナダの奇跡と王たち/西川和子/彩流社」
2026.02.20
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ・アルハンブラ宮殿2025年5月24日(土)、アルハンブラ宮殿に入りました。裁きの門を見て、葡萄酒の門を通り、アルカサバ(Alcazaba)と呼ばれる城塞に進みました。門には、イスラム教で重要な意味を持つ「手」と「鍵」が刻まれています。伝説では、手が鍵を掴んだとき、城塞の塔が崩れ、地下からイスラム・モーロ人が貯めてきた財宝が現れると言われています。妻はアルカサバを散策しながら、「アルハンブラの思い出」の有名なメロディーを鼻歌で歌っていました。葡萄酒の門では、「A Claude Debussy por La Puerta del Vino」(クロード・ドビュッシー『葡萄酒の門』によせて」というプレートがあります。フランスの有名な作曲家ドビュッシーが、「葡萄酒の門」という曲を書いており、その紹介がなされています。アルカサーバの城壁から、アルバイシンやサクロモンテの丘が見えます。沢山のツバメが城壁近くを飛んでおり、景色の写真を撮ると、ツバメの姿が写っています。「アルハンブラ物語(上)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p123~124には、ツバメ釣りの話があり、とても興味深かったので紹介します。(約200年前の話です)(p123~124)この観察記録をしめくくるに当たって、ここの城塞の村の住民たちがうち興じている娯楽の中で、特別に印象深く思えた1エピソードを、ぜひ記しておきたい。わたしは、林立する塔の頂上のひとつに、長身の瘦せこけた男が腰を下ろし、2,3本の釣竿を優美に操っているのを、たびたび目撃した。まるで、星を釣っているかのように思われた。しばらくの間、わたしは、この中天の漁師のしぐさを眺め上げては、奇妙なことをするものだ、といぶかしく思っていた。ところが、その奇妙な仕種をしているのは、この男だけではなかった。塔の上だけでなく、狭間胸壁や稜塁の上にも、同様のしぐさをしている男たちがいるのに気がついた。ますますわけが分からなくなって、マテオにわけを尋ねてみた。謎は、ようやく氷解した。この城壁の上空には、ちょうどマクベスのコーダーの城のように、清らかな快い風が吹いていて、家ツバメや岩ツバメにとっては雛を育てるのに最適の場所らしい。無数のツバメが、まるで学校から解放されたばかりの学童のように、歓声をあげ、塔のまわりを嬉々として飛び交っている。彼らは、目まぐるしく旋回しているツバメを、釣り針にハエをつけ、釣ろうとしているのだ。これは、うらぶれ果てたアルハンブラの息子たちのお気に入りの娯楽のひとつだという。彼らは、このように、根っからの道楽者にふさわしい、浮世離れした独創的な才を発揮して、天空で釣りを楽しむ気晴らしの術を発明したのである。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ アルハンブラ宮殿の城壁とカピタンの塔。↓ シエラネバダ山脈から引かれている水。↓ 宮殿の敷地内に入る。↓ サンタ・マリア教会。↓ 正義の門の近くにあるフランスの大砲。1810年から1812年にフランスのナポレオン軍がアルハンブラを占領し、大砲を設置していたことから、コレクションの大砲が置かれている。「アルハンブラ物語(上)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p76に、フランス軍に関する次の記載があります。先のスペイン内紛で、グラナダがフランスの支配下に置かれていた時期、アルハンブラはフランス軍の駐屯地になり、宮殿は、時折、軍司令官の宿舎として使用された。征服者とはいえ、フランス国民をつねに特質づけるあの洗練された美的趣味のおかげで、モーロ人の遺したこの優雅と豪奢の記念碑的建造物は、もはや取り返しのつかない全き崩壊と荒廃に陥る一歩手前で、どうにか救済されたのだった。フランス軍は、屋根を修復し、客間や柱廊が雨風にさらされるのを防ぎ、廃園をよみがえらせ、導水渠に水をはしらせ、こうして噴泉は、ふたたび、きらめきながら舞い立った。スペインの昔日の詩的記念物の中でも比類なく美しい、つきない魅力の源泉であるアルハンブラ宮殿を、こうしていまに遺してくれた侵入軍には、スペインはそれなりの感謝をして然るべきだろう。フランス軍は、ここから立ち去る際に、外部城壁の塔をいくつか爆破し、戦時の城塞の主要な防御機能を奪い去った。この時をもって、城塞の軍事上の重要性はついえた。↓ 裁きの門。「アルハンブラ物語(上)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」p83~84に、次の記載があります。この門は、イスラム教徒の統治時代、ここの柱廊で法廷が開かれ、民事訴訟関係の即決裁判が行われたことから「裁きの門」と呼ばれている。この民事法廷はオリエントの国ぐにに一般的に見られたもので、その興りは大方の意見では、聖書の、「あなたがたのすべての町の門に裁判人と役人を置き、正しい裁きをもって民を裁かせなさい」(申命記16章18節)によるものとされている。この塔の入口の間は、アラブ風の馬蹄形アーチで支えられている。聳え立つ塔の高さの半ばに及ぶ、巨大なアーチである。このアーチの要石に、大きな「手」が彫り込まれている。また、車寄せの内側にも、アーチ門の要石に、大きな「鍵」が同じように彫刻されている。自称、イスラム教図像に詳しい人たちの説では、「手」は預言者ムハンマド(マホメット)の教えのエンブレムで、5本の指は5大戒律、つまり、断食、聖地巡礼、施し、沐浴、異端者に対する戦いを表わし、「鍵」は、信仰または信仰の力のエンブレムで、預言者ムハンマドに受け渡されたダオウド(ダヴィデ)の鍵を表わす、との事である。後者は、イザヤ書の「わたしは彼の方にダヴィデの家の鍵を置く。彼が開けば、閉じるものなく、彼が閉じれば、開くものはないだろう」(22章22節)を受けたものとされる。↓ 裁きの門の「手」。↓ 裁きの門の「鍵」。↓ アルハンブラ宮殿から見たシエラネバダ山脈。↓ つばめが青空を飛ぶ。↓ 葡萄酒の門(外側)↓ 葡萄酒の門(内側)↓ 「鍵」↓ 葡萄酒の門では、「A Claude Debussy por La Puerta del Vino」(クロード・ドビュッシー『葡萄酒の門』によせて」というプレートがある。フランスの有名な作曲家ドビュッシーが、「葡萄酒の門」という曲を書いている。↓ ケプラータの塔、忠誠の塔。↓ アルカサーバの有料の区間に入る。↓ 忠誠の塔。↓ 夜警の塔。↓ 下はトリステス通り。奥はアルバイシンの丘。↓ 忠誠の塔。↓ 中央はサン・ニコラス教会。↓ サン・ベルナンド礼拝堂。↓ (左)マチューカの塔、コマレスの塔。(右)カルロス1世宮殿。↓ カルロス1世宮殿。↓ ツバメが飛ぶ。↓ 参考本。「アルハンブラ物語(上)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」「アルハンブラ物語(下)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店」
2026.02.19
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【旅行8日目】スペイン・グラナダ2025年5月24日(土)早朝、宿泊所を出て、裏通りとゴメレス坂を上り、アルハンブラ宮殿のチケット売り場まで行きました。道の途中で、有名な「アルハンブラ物語:THE ALHAMBRA」を書いた、アメリカ文学の父と言われたワシントン・アーヴィング(Washington Irving)の銅像があったので、記念写真を撮りました。アーヴィングはアメリカ公使館の書記官としてスペインに赴任し、1829年にグラナダのアルハンブラ宮殿に滞在し、その時の記録、聞いた伝説などをまとめて書いたものが、「アルハンブラ物語:THE ALHAMBRA」として1832年に発表されました。スペイン旅行前に「アルハンブラ物語」を読んでいましたが、伝説の話がとても面白く、印象に残りました。ーーーーーーーーーーーーー↓ アルハンブラ物語(上)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店グラナダの丘に今もその姿を残すアルハンブラ宮殿。アーヴィング(1783ー1859)はアメリカ公使館書記官としてスペインに赴き、偶然の幸運からモーロ人の築いた城に滞在した。その幻想的な日々が、処々に伝わるさまざまな物語を織りまぜて、詩情豊かに綴られる。(全2冊)↓ 目次1.旅(p13)2.アルハンブラ宮殿(P73)3.歴史的交渉ー著者、ボアブディルの王位を継ぐ(P103)4.アルハンブラの住人達(P116)5.大使の間(P125)6.イエズス会図書館(P139)7.アルハンブラの築城者、アルハマール(P143)8.アルハンブラ宮殿の完成者、ユースフ・アブール・ハジーグ(P154)9.神秘の部屋(P161)10. コマレスの塔からの眺め(P180)11. ドロレスと放蕩児(P193)12. バルコニー(P199)13. 煉瓦職人の冒険(P211)14. ライオンの中庭(P220)15. アベンセラーヘ家(P235)16. ボアブディルゆかりの場所(P257)17. グラナダの大祝祭(P266)18. アルハンブラの民間伝承(P281)19. 風見のある館(P286)20. アラブの占星術師の伝説(P291)↓ 地図(レコンキスタの進展)(P368)↑ イベリア半島はイスラム教徒が支配していたが、キリスト教徒がこの地を戦いにより奪回する運動(レコンキスタ)が進んだ。1236年にコルドバがキリスト教徒に奪回されてから、グラナダはイベリア半島におけるイスラム教徒の最後の砦として、ナルス朝グラナダ王国の首都となった。しかし、1492年にグラナダは陥落となり、城の最後の王ムハンマド11世は、シエラネバダ山脈の道からアルハンブラ宮殿を眺め、惜別の涙を流したという。これでレコンキスタは終了し、キリスト教徒であるイサベル女王が統治した。↓ アルハンブラ物語(下)アーヴィング著/平沼孝之訳/岩波文庫/岩波書店城を抜け出し、フクロウとオウムをお供に恋の巡礼の旅に出る王子。モーロ人の遺産を偶然手に入れるお人好しの水売り。亡霊の残した銀のリュートを奏でる美しい乙女。片腕の総督、豪傑な兵士・・・・。伝承の世界の人々が、アルハンブラを舞台によみがえる。↓ (目次)21.アルハンブラの来訪者たち(P8)22.遺品と家系(P16)23.ヘネラリーフェ離宮(P22)24.アフメッド・アル・カーミル王子の伝説ー恋の巡礼行(P28)25.アルハンブラの丘をマテオと歩く(P95)26.モーロ人の遺産の伝説(P114)27.ラス・インファンタスの塔(P154)28.三人の美しい王女の伝説(P158)29.アルハンブラの薔薇の伝説(P202)30. 歴戦の老兵(P231)31. 片腕の総督と公証人(P235)32. 片腕の総督と兵士(P248)33. アルハンブラの祝宴(P278)34. 二体の思慮深いニンフ像の伝説(P287)35. アルカンタラ騎士団長の十字軍(P321)36. スペインのロマンス(P335)37. ドン・ムニョ・サンチョ・デ・イノホサの伝説(P340)38. イスラム・アンダルスの詩人たちと詩歌(P353)39. マヌエルの遠征(P365)40. 魔法にかけられた兵士の伝説(P371)41.グラナダに別れを告げる(P400)↓ 地図 王宮見取り図(P419)↓ 地図 アルハンブラ見取り図 P420~421)ーーーーーーーーーーーー↓ 2025年5月24日(土)早朝。 部屋で湯を沸かす。↓ コーヒー。↓ 前日にパン屋で購入した「魚パイ」を食べる妻。↓ 私が食べる分の魚パイ。↓ パン屋で購入したクッキー。↓ 部屋を出る。↓ PLAZA NUEVA : ヌエバ広場。↓ Royal Chancellery of Granada (グラナダ王室官庁)。アンダルシア高等裁判所(High Court of Justice of Andalusia)が入っている。↓ REINA DE LA ALHAMBRA :アルハンブラの女王。↓ Cuesta de Gomérez : クエスタ・デ・ゴメレス坂を登り、アルハンブラ宮殿へ進む。↓ ザクロの門 Puerta de las Granadas.1526年にカルロス1世(神聖ローマ帝国カール5世)によって建設された、キリスト教王国の権威を示す門。↓ ザクロの門。↓ 図の赤い線を歩いて、アルハンブラ宮殿のチケット売り場に行く。↓ 有名な「アルハンブラ物語:THE ALHAMBRA」を書いた、アメリカ文学の父と言われたワシントン・アーヴィング(Washington Irving)の銅像。アーヴィングはアメリカ公使館の書記官としてスペインに赴任し、1829年にグラナダのアルハンブラ宮殿に滞在し、その時の記録、聞いた伝説などをまとめて書いたものが、「アルハンブラ物語:THE ALHAMBRA」として1832年に発表された。この本により、アルハンブラ宮殿は世界中に知れ渡り、廃墟状態になっていた城は修復され、今やスペイン有数の観光地となっている。↓ Pilar de Carlos V (ピラル・デ・カルロス5世)。16世紀に神聖ローマ帝国カルロス5世(カール5世)の命で建設された、ルネサンス様式の噴水。↓ Puerta de la Justicia: 正義の門。馬蹄形アーチが特徴の門。↓ アルハンブラ宮殿のチケット売り場、入場場所。↓ LA ALHAMBRA。アルハンブラ宮殿。
2026.02.18
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【旅行7日目】スペイン・グラナダ2025年5月23日(金)、グラナダの大聖堂(カテドラル)付近を散歩した後、気になっていたパン屋「PANADERIA LA ROMANILLA」に入ると、行きに見た肉パイが売り切れていました。大変残念だったのですが、朝食用にすると言って妻は魚パイを購入しました。グラナダ大聖堂近くのロマニーリャ広場(Plaza de la Romanilla)にある、Monumento al Aguador(水運び人の記念碑 作者:Aurelio Teno:アウレリオ・テノ 1999年制作のブロンズ像)を写真に撮りました。イスラムがグラナダを支配していた時代から20世紀までの約1000年間、町には上水道施設がなかったため、水運び人がロバの背に20L入り水瓶を2つ掛け、ヘニル川や井戸から水を汲んで水瓶に入れて、街中を回って水を売りに行きます。川の水は値段が高く、井戸水は安かったそうです。大通り近くに「CAFETERIA INTERNATIONAL」という店があり、夕食ということで、ビールとスパゲッティを頂きました。次の日は「アルハンブラ宮殿」に行くので、宿泊所で早く寝ることにしました。↓ ABANICOS PINTADOS A MANO (手書きで絵付けされた扇子)↓ パン屋さん「PANADERIA LA ROMANILLA」。↓ 肉パイは売り切れたと店の方に言われたので、妻は魚パイを注文した。↓ 支払いをする妻。↓ グラナダ大聖堂近くのロマニーリャ広場(Plaza de la Romanilla)にある、Monumento al Aguador(水運び人の記念碑 作者:Aurelio Teno:アウレリオ・テノ 1999年制作のブロンズ像)。イスラムがグラナダを支配していた時代から20世紀までの約1000年間、町には上水道施設がなかったため、水運び人がロバの背に20L入り水瓶を2つ掛け、ヘニル川や井戸から水を汲んで水瓶に入れて、街中を回って水を売りに行った。川の水は値段が高く、井戸水は安かった。↓ 「CAFETERIA INTERNATIONAL」でメニュー表を見る妻。↓ この店で食事をすることにした。↓ 宿泊所に戻る。
2026.02.17
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【旅行7日目】スペイン・グラナダ2025年5月23日(金)夕方、ホテルでチェックインした後、次からは別の入口から直接部屋に入って良いと言われたので、妻が別の入口から本当に入れるか試しました。確認が終わると、グラナダのカテドラルがある中心街を散策しました。「PANADERIA LA ROMANILLA」というパン屋に妻が入り、肉のパイ、魚のパイが置いてあるのを見て、明日の朝食用に肉のパイを買おうと言いました。荷物になるから、散策が終わって帰りに買おうという事にしましたが、とても人気のあるお店で客がひっきりなしに入っていきます。帰りに寄ると、肉のパイは売り切れており、行きに買っておけば良かったと後悔しました。↓ 「アルテアガオスタル&バニョスアラベスエルヴィラ」の受付入り口が右側。左側の入口は、部屋に直接入れるとのことで、妻がチェックした。↓ チェックアウトするときに鍵を入れるポストを確認。↓ 部屋に行けることが分かった。↓ 散策に出発。↓ グラナダの大聖堂(カテドラル)が見えてきた。↓ 王室礼拝堂とカテドラル。↓ 市場へ進む。↓ サン・アグスティン市場は閉まっていた。↓ 「PANADERIA LA ROMANILLA」というパン屋.肉のパイと魚のパイがあり、妻が朝食用に肉のパイを買おうと考えたが、散策帰りに買うことにした。しかし、帰りに寄ると、肉のパイは売り切れていた。残念。↓ オレンジの木。↓ オレンジ。
2026.02.16
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【旅行7日目】スペイン・グラナダ2025年5月23日(金)夕方、グラナダの宿泊所にチェックインしました。アルテアガオスタル&バニョスアラベスエルヴィラ( Arteaga Hostal & Baños Arabes Elvira)です。チェックインのカウンターで鍵を4本渡され、部屋までの行き方を教えていただきました。建物の構造が複雑で、部屋に着くまで、何か所もドアを鍵で開けながら進まないといけません。どのドアにどの鍵かを試す必要があり、細かい作業が得意な妻に任せることにしました。部屋に入ると、タオルで象が作られており、私の氏名が入ったウェルカムカードが置いてあったので嬉しくなりました。妻も部屋を気に入りました。妻がもう一度鍵のチェックをするというので、部屋から受付まで、4本の鍵を使いながら進みました。受付の方から、次からは受付の建物ではなく、その隣にある建物から直接入るように言われたので、今度は半分の鍵だけで部屋に行けました。↓ 宿泊所:アルテアガオスタル&バニョスアラベスエルヴィラ( Arteaga Hostal & Baños Arabes Elvira)。↓ 受付で4本のカギを受け取り、何か所もドアを開けながら、やっと部屋に入った。↓ 部屋の中。妻はすぐに気に入った。↓ タオルで作った象。↓ アメニティが入っていた。↓ 私の氏名が印刷されていたウェルカムカード。↓ 妻がかわいい象だと気に入っていた。↓ 部屋を出て鍵を掛ける妻。4本の鍵を使って、受付までたどり着けるか試す。↓ 2つ目のドア。↓ 3つ目のドア。↓ どの鍵か分からなくなり、試してみる。↓ 4つ目のドア。↓ 受付までエレベータで降りる。↓ ホテルの入口。受付がある。↓ 次回からは、受付のある入口ではなく、隣の入口から部屋に入って良いと言われた。入口をチェックする妻。↓ ここから部屋に直接行く事になった。↓ ホテルの周りを散策することにした。
2026.02.15
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【旅行7日目】スペイン・グラナダ2025年5月23日(金)夕方、グラナダ駅に到着しました。私は宿泊所まで歩いていくつもりでしたが、疲れたのでバスに乗って行くと妻が言い、バス停の販売機で2人分のチケットを購入しました。宿泊所近くのバス停で下車し、そこからは歩いて移動しました。今回の宿泊先は、妻がBooking.comで予約した「アルテアガオスタル&バニョスアラベスエルヴィラ」です。↓ グラナダ駅。↓ 地図で行き先を確認した。↓ 記念撮影。↓ シエラネバダ山脈。↓ 路面電車。↓ 徒歩で移動した。↓ 途中で妻が、疲れたのでバスで移動すると言い始めた。↓ 早速2人分のチケットを購入し始めた。↓ 1.6ユーロ。↓ ホテルの場所を確認する妻。↓ バスに乗車する。↓ バスを下車した。↓ バス停。↓ Booking.comで予約した宿泊所「アルテアガオスタル&バニョスアラベスエルヴィラ」の予約書類。スマホが使えなくなることがあってはいけないので、妻は必ず紙も印刷して用意している。ツインで2泊、37,652円。↓ 本日の宿泊先「アルテアガオスタル&バニョスアラベスエルヴィラ」。
2026.02.14
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【旅行7日目】スペイン・グラナダ2025年5月23日(金)午後、マドリード・アトーチャ駅13:35発、スペイン国鉄Renfe AVLO 02136に乗車し、グラナダ駅16:52に到着しました。Antequera アンテケラ駅を過ぎて、Loja ロハ駅に停車し、終着駅のGranada グラナダ駅に着きました。35年前に私は鉄道でマドリードからグラナダに移動しましたが、その時と今回では車窓の景色が全然違う印象でした。昔は、車窓がゆっくり流れ、どこまでいってもオリーブの木が続く感じでした。同じ景色を見ていたはずなのに、昔のことがあまり思い出せませんでした。高速鉄道に変わったからかもしれません。マドリードからグラナダまで、車内のルート案内にある気温表示を見ていましたが、温度が大幅に動くのでとても興味を持ちました。コルドバ付近は30度あたりで暑いですが、グラナダは山脈地帯なので気温が下がるようです。マドリード Madrid 22度ラ・サグラ La Sagra 24度シウダード・レアル Ciudad Real 26度プエルトリャノ Puerto llano 26度コルドバ Cordoba 28度サンタエージャ Santaella 30度プエンテヘニル Puente Genil 30度アンテケラ Antequera 22度ロハ Loha 22度グラナダ Granada 22度↓ Antequera アンテケラ駅を過ぎて、Loja ロハ駅に進む。↓ Loja ロハの街。↓ 画面左側の教会 Iglesia Mayor de la Encarnación (Loja):ロハのエンカルナシオン大教会。↓ Loja ロハ駅停車。↓ 出発。↓ ヘニル川が流れる。↓ 16:28 時速95㌔ 22度Loha ロハの次はHuetor Tajar ウエトルタハルを通る。↓ コルドバからグラナダまでのルートが表示されている。↓ ピノス・プエンテ Pinos Puente。↓ グラナダ市内に入る。↓RENFE(スペイン国鉄)269形電気機関車(Cercanías塗装)。側面にたくさんのルーバー(通風口)のスリットが見える。↓ Granada グラナダ駅。↓ Renfe AVLOと記念写真。↓ Renfe Avant S104型と記念写真。↓ グラナダ駅。↓ グラナダ駅構内と妻。↓ グラナダ駅出口。
2026.02.13
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