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ことばの壁からくる意思疎通の欠陥は、工場での仕事いっそう苦しくさせていた。が、1ヶ月たった今仕事がほこりっぽいのが玉に傷くらいで結構楽しい。 金髪長身の若者ブライアン、太っちょのビル、チンチクリンの浅黒いフィジーの小男、となんとか会話のまねごとくらいできるようになった。 彼らが少しの距離をおいて接してくるのは、ことばの壁があったからだろう。 10年間ものわが英語の勉強は、何度思ってもなんだったのだろうと自問自答するが、彼らの言っていることが分からないのはどうにもならない。日本の教育制度にイチャモンをつける暇もないほどその場の私は彼らから遠いところに離されていた。 私の英語の学びに、ひとりのネイティブ教師もいなかった。中学3年間は、政府が始めた英語教育第一期生としての生徒であり、高校英語は大学受験のための味も素っ気もない文法の詰め込み。大学は英語必修のクラスに代返、(お分かりにならない人がいるかもしれないが、出席していることを証明してもらうために名前を呼ばれるときに友人に「ハイ」と返事してもらうこと)をお願いしているくらいだから、これは言い訳にならない恥ずかしいことなんだから自業自得を実を刈り取っている。どちらにしても自分の不勉強をなじるほかないのであって、日本政府の教育システムを批判しても始まらない。どこを見回しても外人、外人ばかり。この異国の工場現場で七転八倒している自分が外人なのだが、なんとなくこの1ヶ月で慣れてきたようだ。 ことばが分かるようになると、人と人との距離が近くなる。プラスチックの小さな粒をミキサーに入れる仕事が楽しい。それに色をつけるのだが、その赤い粉、黄色い粉、青い粉で信号のような私の体も仕事に慣れてきた。 「Sky is blue」くらいしか言えなかった私が「このプラスチックの白い粒を青くする仕事は面白いじゃないか」とのたまうことができるほど彼らとの距離が近くなってきた。
2003年10月15日
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朝、H家の奥さんを助手席に乗せて運転は私。私の手に入った生れて始めての愛車である。「ここで停まりなさい」と言うので停まるとそこが運転免許を発行するオフィスであった。すでに予約がしてあり、(ちゃんと奥さんが手配してくれていた)窓口で名を告げると、10シリングと言う。トラッフィックオフィサーが現われた。廊下に道路地図が張ってある。それを指差して一つ一つ質問された。「街角何フィート離れたところだったら駐車できるか」と聞くので数字を忘れて戸惑っていると彼が指を出して教えてくれた。 日本の運転免許証を見せるとうなづいていたが、いよいよ運転試験である。 まるで英語のヒァリングテストだ。早口なので「次の角を右に曲がれ」と言っているのに、まっすぐ通過してしまった。 「左側のあの車庫にバックで入れよ」他人様のお家の車庫である。これには参った。カルチャーショックと言うことばそのときなかったが、それこそ物事にはめられないおおらかさは、日本式生き方を剥がしてしまう。 ドライブテストは街を自由に走り回るテストであった。10分で終了して「OK!」 緑色の5センチ×8センチくらいの両開きのライセンスを掌中にしてトラフィックオフィスを出た。ミセス.Hは満面笑顔で迎えてくれた。 もちろん車は私のVaxuall39の40ポンド(4万円)の自家用車である。自分の車で免許をうける。40年前のニュージーランドはおおらかだった。 ことばもろくにしゃべれず、友人もおらない、何もないところから2ヶ月のうちにアルバイト先を紹介してもらい、学生寮を斡旋してもらい、H家の人たちと知り合い、車まで手配してもらい、免許まで掌中にしたのは私の力ではない。トニー(会社員)、レイ(大学生)、ピーターには車の法規を教えてもらった。彼らの助けなしには、何事も起こらなかったのは確かだ。 私は恵まれている。レイとは40年たった今も親友だ。オークランドに行くと彼のプール付きの家が我が家同然である。 まだ彼のプールでは泳いだことがない。一度泳いでみたいものだ。彼の設計したビルがオークランドにそこかしこに建っている。しかし、人はビルを建てるより友人関係を建てあげることのほうが行く倍も素晴らしいと彼と語り合い昔を懐かしむ会話は、年2度ほどのNZへの旅する度に深夜まで及んでいる。 先日メールした。なぜ日本にこないのか?と。彼は今もビルを設計して、忙しいと言う。
2003年10月14日
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美しさと言うのは、決して外側の化粧によって造られるものではない。こんなこと書くと当たりまえじゃないか、と言われるかもしれない。でもどうしてこちらの女性は、なぜそんなに美しいのだろう。 彼らが化粧をしているというほどそれほど化けてはいないのに。 マオリクラブにウインストンが連れて行ってくれた。ハワイの衣装によく似た色彩のあでやかさは、それ自体が美しい。舞っている。歌っている。その身振りは、日本でハワイの踊りを新聞、雑誌、そして白黒TVの登場から知らされているそれと本当によく似ている。 楽しそうに舞っている彼らの笑顔は、昼の仕事の疲れをふきとばしてくれる。 街角で見る女性が美しいと感じるのは、彫りの深さや目鼻立ちのくっきりさ、それにスタイルが寄与している西洋人の特徴から来るものなのか、マオリは西洋人の特徴を持っていないのだが、美しい。いや、体全体から発散している何かそれ以上のものを感じていたが、それが何かを見極めるほど私は成長していなかった。 ただ彼らが持っているものは、日本の女性が持っていないものを内に持っていると感じ始めていた。あとでそれが何かを何年もたって理解することになるが、それは自分で自分の道を決めている意志と自由をもっているということだった。 四季の移り変わりが激しくない。オークランドの港に着いて2ヶ月たった。11月の半ばだが暑くはない。朝方と夕方はカッターシャツ長袖では寒く感じる。学生寮のレイハウスにはプールがあった。きれいな水が満々と貯えてあるプールにはまだだれも入っていない。じっと見ているとじっとしておれなかった。思わず飛び込んだ。寒すぎた。 私はクロールが得意である。小学6年のとき学級対抗リレーでスターターだった。水をかく私の両腕は若い心を満足させてくれた。何も考えずに寒さをこらえて泳いだ。たったひとり、青い水(プールの底と横側に青いペンキが塗ってある)に浸る私は、ニュージーランドの水にだんだん浸り始めていた。そしてそれは幸せな青い水であった。全くの新しい体験を全くの新しい土地で毎日違った文化の下で生きてきた人たちとの交わりが私のジグソウパズルの一片を一つ筒埋めていく楽しさのようであった。 ニュージーランドの水に浸り始めるために明日、車の運転免許証を取りに行く。
2003年10月13日
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ボスはデイブ、44才。私に何才か?と聞くので23才だと答えるとびっくりして、20才以下に見えると言う。ある人は私を見て、15,6才と言った。 デイブが私は何才に見えるかと聞くので、本当は60才と答えたかったが50才と言ったら、44才とプラスチックを包んだ袋に書いた。 彼に3週間ほど前、「おはよう」「こんにちわ」「さようなら」を教えたら、朝会うと「おはよう」、帰るときに「さようなら」と言う。時にはおじぎをしてあいさつをする。今のボス、デイブと仕事をするのは心地よい。 ブライアン、22,3才だろう。ハンサムだ。金髪の好青年。トラックの助手をよくやっている。工場での一番の友人になりはじめていた。 「My fellow」と呼びかけてくる。オークランドスター(新聞)に日本のことが載っていたので彼に助けてもらって読んだ。9日(1963年11月)に九州三池炭鉱で落盤事故があり、434人が死亡。戦後最大の事故とのこと。 もう一つの事故がその下にあった。横浜の鉄道事故で164名が死んだ。同じ日に598人の人の命が亡くなった。このニュージーランドの新聞のトップ記事になるニュースであった。 工場の人がNo,Goodと言って顔をしかめている。 ブライアンが来年1月、「俺のボートで魚釣りに行こう」と声をかけてくれた。 話をしていて理解できないでいると、必ず「Can you understand?」と聞いてくれて「No」と言うと仕事を横にやって分かるまで根気よく教えてくれる。
2003年10月11日
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ワインダーが抜けた。日本製のセイコー社の精巧にできているはずなのが、外国にやってきて1ヶ月すると壊れるのはどうしたことか。 なんと1ポンド12シリング6ペンス!1550円なり。何度も書くが40年前だ。大学初任給が13,000円のときにNZで時計の修理に1550円もだすとは、目玉が飛び出た。 残業1回が羽のごとく飛んでいってしまった。 半年、このNZにいるつもりだ。貴重な滞在のときを刻む時計が狂っては、時間を無駄にする。修理しなければならないのは、時計だけでなく何を一番に時間を費やすかを確かに刻む機器であるこころが壊れていると大変だからこれはどうするのか。そんなことを考えて修理をお願いした。 明日は、プラスチック会社の働く仲間のことを書いてみる。 私の生活のリズムは、彼らと毎週土曜日、日曜日、それに週日の仕事を終えて迎えに来るトニーの友人たち、H家の人々たちとの間を時計の振り子のように交互していた。 時間は、あと5ヶ月しかない。無駄な時間を過ごすわけには行かない。 この国のあとはアメリカだ。
2003年10月10日
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この一年で体重が65㎏から40㎏以下に下がっていた。癌ではなかった。原因不明の難病との診断で亡くなる直前まで1kmの散歩もしていた。自宅療養しながら会社にも時折出勤していたこの2ヶ月。かなりの人を使っていた会社の社長、57歳であった。 6日、その日は会社でどうしても会わねばならない人がいるので出勤予定していたが、朝7時奥さんが起こしに行くとすでに亡くなっていたと言う。 私は2週間前に家内と自宅へ訪問し、一緒にレストランで食事をした。 それが彼と最後の食事だった。よく昼に彼の会社に行くと近くのレストランに行ったものだった。彼と食事をするとき、私が払った覚えは全くないほど私には一円も支払わせなかった。 だが彼の金銭感覚は、無駄遣いのない徹底したものであり東京その他の出張の宿泊はすべて、カプセルホテルであり私もそれ以後何度か重宝したものだ。 私が関係している団体の会計をとりしきりその几帳面さと金銭に対する厳しい態度は、何度私のかぶとを絞めなおしてくれたことか。 惜しい人材を見送ったのが昨日の朝、彼の遺言で通夜、告別式はない。 彼はもうすでに医大に運ばれてその体は献体されている。 人の一生ははかない。がその足跡は周りの人々に確実に残される。 そして神のみもとに行き、その集大成がなされるのである。よきにつけあしきに付け、そのバランスは彼の金銭感覚のように収支決算はされる。 彼の死顔を見つめて、わが身を引き締めた。彼の奥様と親しい家内は、こころに空洞ができたようだ。 ご家族の方々の慰めのために祈る。
2003年10月07日
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残業のことである。23,4歳のブライアンと親しくなった。彼は「Work is no good」と言ってぼやいているが、実はよく働く好青年だ。 休憩時に一緒に座って話してくれる。40年前のニュージーランドだから今とは少し違うかもしれないが、結婚年齢は、男性21,2歳、女性17,8歳。義務教育は5歳から15歳まで、土曜日働くと18ポンドになるなど、教えてくれた。 残業を彼と一緒にやった。5時から8時の3時間はミキサーのなかにプラスチックの粒を入れる仕事、その大きさは2メートルくらいはあるが仕事のつらさは感じる暇がない。彼が親しくしてくれているおかげだ。仕事の相棒でこれほどまで、一日が違うものか。チンチクリンのフィジーのおっさんの命令口調からの解放は、そに日一日をばら色にしてくれる。 だんだん会話にもなれて、親しい同年輩の青年が横にいてくれると疲れもほとんど感じない。 だが8時に仕事を終えて30分に1本のバスに乗って帰るとなると通勤に1時間もかけやはり疲れがどっとやってくる。貴重な時間のロスだ。早く車がほしいのだがまだ修理するところがあるとのことでまだ手に入っていない。 今日は11月6日水曜日で来週の月曜日には手に入るとのこと待ち遠しい。 H家とも親しくなり始めた。彼らは映画を映画館に見に行かずに映画を家に持ち込んで映写機で居間で見る、なんと変わった家庭ではないか。それを当然のようにやっている。何がなんだかわらない。5人家族が同じ方向を向いており、ひとつになっているなどこんな家族を日本で見たこともない。 木曜日がやってきてトニーが迎えに来る。いつものとおりH家で夕食、「After tea we go to church」教会もまんざらでもなくなってきた。何でこんなに歓迎してくれるのか不思議だった。歓迎されて悪い気はしないし、底抜けに明るい人々だから雰囲気もそんなに悪くはない。むしろ友人をこしらえるには都合が良い。なかなかいいと感じて郷に入れば郷に従えだ。夜中の12時に寮に戻ってきた。体がくたくただ。明日の仕事がつらいだろう。 H家のP奥さん(40歳くらい)が運転免許証を取りに行くため私を奥さんの車で連れて行ってくれた。なんとこれまたおどろきであった。(明日またつづき・・・お楽しみに)
2003年10月05日
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40ポンド(4万円)という値段だけで安いので気に入らない友人がいたために他の車を探してみてことにした。私はトニーやH家の親切な他意のないこころがわかっていたために、そのボクソール39年型を買うことがいいと思っていた。見てくれがぼろでも節約のためにもその車を紹介してくれた人を信用して買う方がいいと思っていた。 トニーの友人(大学生)のレイ君も同行してニューマーケットの車展示場に連れて行ってもらった。親切心でいい車だと信じて持ってきてくれた車に文句をつけて他の車を見た方がいいと誰かが言うと、いやな顔もみせず快く土曜日の休みを返上して時間を割いてくれたとトニーとレイはいったいどういう人たちなんだろう。不思議な人類がここにいる。 これは余談だがこのレイは、それから40年近くたっているがオークランドに行くと必ず彼の家に泊まる間柄になっている。トニーには、今は会ってもいないが親交継続の秘訣にふくまれている中に何かsomethig extra(特別な要因)がお互いにあるように思えてならない。 85ポンド(8万5千円)の車が目に付いた。40ポンドのボクソルよりおんぼろだ。これで道路の上を走るのか? レイが言った。「ボクソルの方が安いけどいいよ」他の友人となり始めたピーターも「ちょっと修繕するとVauxallは良く走るよ」と言う。青空の下に並んでいる車のすべてのフロントガラスに白の水性ペンキで値段が書きなぐってある。「Sale £80」その横に車のオーナーが立っている。そうして自分の車を売りに来ているのだ。 私は、他の友人の値段で物事を決めるその態度に賛成せずVauxallにすると決めた。 あとで分かったことだが、トニーの友人のカーディーラーは教会のクリスチャンで、原価で彼が買った値段でこれをそのまま私に提供してくれたのだ。 善意を見抜くだけの心の目が開かれていないと友人関係も経済的祝福も失うことになる。人を信用してバカをみる場合があるが、人の親切を信じて、それが結果としてバカをみてもその友人関係から金銭では手に入らない、だれも盗むことのできない宝を勝ち取るこができるということをこのことからも学び始めていた。 そしてついに私は、バス通勤から自家用車通勤を楽しむことになった。なんと外国で自家用車族になったのだ。「やッたー!」である。
2003年10月03日
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今日で1ヶ月たった。トニーに紹介されてカーディラーに会った。100ポンドの予算なら良いのがあるとのこと、で来週は手に入りそうだ。100ポンドというのは、10万円だ。 貨物船で親知らずがはれ出して、我慢できないくらいに痛くなっていたのが、一時治まっていたがまた腫れてきた。ものすごく痛くなってきた。 H家の人々は、水枕に湯を入れてくれた。「暖めて今夜は寝なさい」と言ってくれる。なんとお礼を言ってよいのか分からない。 仕事を一緒にしている連中とこの家族の対比は、何なんだ。人のこの私と接してくれる態度やことばがこれほどちがうのはどこから生じているのだろう。 親知らずが腫れてもう我慢ができなくなったので会社の人が歯医者に連れて行ってくれた。dentistの前で降ろされて、「ハイ、さようなら」 英語もろくにしゃべれない私を道路上に捨ておいて車は立ち去った。親切の中途半端じゃないか、と心で叫んでもそれだけでも助けられている身だからどうしようもない。 歯医者のごっつい指が口の中で踊った。「今日は木曜日だが、来週の火曜日に抜く」と言う。 木曜日の夜にも教会がある。誘われたが歯痛に悩まされる上にわからん英語に悩まされたら、気絶するので断った。賛美歌など歌っているどころはありませんよ。口が開けられなくなって食事もできない有様の私は、地獄の一歩手前にいるのに教会など、何で行けましょうか! 翌日、トニーが車を持ってきた。40ポンド(4万円)1939年型だ。北島そして南島、十分走り回れるとのこと。車の持ち主が海外に行くので早く売りたいとのこと。安く手に入ることになって幸運はまだ私から離れてはいない。 それから火曜日がやってきた。ごッつい指がペンチで一番奥の親知らずを抜くと思ったら抜きやすいその手前の奥歯を抜かれてしまった。そしてそのままその歯をゴミ箱に捨てた。「それもって帰りたいのでGive me」と言ったら怪訝な顔をしてゴミ箱から取り出して渡してくれた。 何の傷もついていない完全な歯だった。今でも私の左の奥歯はないが、その奥の親知らずは前にはみ出してその隙間を年毎に埋めて行ってくれているが完全に歯は並んでいない。 日本に帰って歯医者さんにこの話をして歯を見てもらうが異口同音に次のように言われる。日本の歯医者は絶対に親知らずを抜きますが、大切な奥歯を何の落ち度もないのに抜きはしません、と。 だがこの費用は、ニュージーランドでは無料だったのだ。
2003年09月30日
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プラスチックカンパニーで10月21日の仕事はつらかった。プラスチックの重い太いホース、それもとてつもなくでっかいやつを二人で150メートルほど離れたところに移動させるしごとだった。相棒はフィジーの浅黒い背の低いやつ。命令ばかりして自分はのらりくらり怠けてばかりいる。あまり腹が立つので言ってやろうと思うが英語が出てこない。鬱憤がたまってなお腹が立つ。短気を起こして仕事を止めるわけにも行かない。こうなったら破れかぶれだ。日本男子ここにあり!日本男子はこれほど働くのだ!肩に食い込むホースをものともせず、相手にかまわず運びまわってやった。 チンチクリンフィジーのやる分までとことんやってやった。こちらの心が通じたのだろうか、「ちょっと休めばいいよ」なんてぬかしやがる。 それでも自分は何もしないでこれをしろ、あれをしろとぬけぬけ命令ばかりしている。押せ、引け、えらそうに命令するばっかり。 今日は精魂疲れた。人が疲れるのは、労働ではない。一緒に働く人の思いやりがないからだ。 日記の終わりにこう書いてあった。一度あのきたない浅黒い顔を思い切りひっぱたいてやれば気持ちがスーとするだろう。
2003年09月29日
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9月22日の日曜日にオークランド港に着いて、10月20日の日曜日には、友人もおらず知人もおらず仕事もなく泊まるところもないところから、それらのものをすべて備えていたとは、ラッキーを通り過ぎている。 初めて会ったトニーからH家を知り、日本で紹介されたオークランド大学の日本人教授I先生を訪ねると大学生を紹介され、彼らにグラスカンパニーというプラスティックの会社を斡旋してもらった。 月給6万円(税込み)で4万円は貯金できる。日本では1万5千円で果たして4万円貯まるだろうか。恵まれた国だ。 日本はその次の年が東京オリンピックだった。高度成長時代に突入するときである。それから10年20年と経つとその立場は逆転現象を呈していく。 H家とはもうこの1ヶ月で友人関係を築きつつあった。昨日の19日(土)には長女の誕生日と私の誕生日をいっしょに祝ってくれるパーティーさえ開いてくれた。同じ歳だ。 日曜日には教会に連れて行かれる。今日も日曜日、寮に戻ってきたときは11時を過ぎていた。疲れる。 あまりにも盛りだくさんの毎日がつづいている。 英語がわからないため神経を使う仕事の疲れとは反対に親切なもてなしの夕食をいただいたり、パーティーなどのお声があれば彼らの誘いに応えないわけにはいかない。私の一番嫌いな教会かよいの日曜日の”おつとめ”があった。それが体と精神に混乱をともたらし始めていた。 H家の親切はありがたいが教会という場所は苦手だった。彼らは今日、貨物船の船員と中国の船員を家に招いてその数10人以上、「Suicide Mountain」というキリスト教の映画を家で上映してくれた。私には彼らがなぜそんなことまでして、日本人のわたし、のみならず中国人たちをもてなすのか、その理由が分からず、信じられがたい、と日記に書き綴っている。 車がほしいというと、水曜日にトニーの友人が中古車販売をしているから車を持ってくるという。撃てば響くほどにその親切は度を越している。無から有を生み出すようにドンドン恵まれてこのニュージーランドで精神的に物理的に財産を増やされていった。こんなことがあっていいのだろうか。 しかし一つだけ、どうしても財産にしたくないものがある。日曜日、正装して教会に行くことだった。これだけがなければ、申し分ない旅なのだが。
2003年09月28日
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マレーシアから帰える途中マニラ上空あたりでマレーシア語で何か放送されたそうだ。その後急にイヤホーンを回収され、何事がと思ったら、マレーシア語、につづいて英語、そして日本語で計器の故障でマニラ空港に緊急着陸しますとのことだったらしい。不安だったと言っていた。お客さんがほとんど日本人だったのに日本語でちゃんと説明がなかったのは、不親切だと息子。旅行会社は反省すべきであろう。 そんなわけで7時5分着が3時間ほど遅れて、関空に到着したのだが無事に帰ってきてくれたのでほっとした。レダン島の写真を見せてくれた。 南国の海と白い海岸、海中写真に写っている無数の色鮮やかな魚などから恵まれた旅をしてきたのだと、親は一安心。 私のNZへの旅は、その頃(40年前)だれもニュージーランドがどこにあるかさえ知る人はいなかった。 母が、ニューギニアとまちがえてえらく心配したのを覚えている。 そこからアメリカに渡り、ヨーロッパから中近東、インド、中国と巡って日本に帰国する計画で全く知人はいないのだからどんなに両親は心配したことだろう。 今振り返るとよくぞやったものだと、自分で自分をほめている。子は親を離れて、自立するものなんだから。親はそれでも子が自分より早く死ぬことを絶対に望まないから心が騒ぐのだ。 親孝行をしたいときには、親はなし。
2003年09月27日
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今週の月曜日にマレーシアのレダン島へ行った。これからの島だそうだ。周囲4~5キロの小さな島に6日間の旅をして、今日帰ってくる。 7:05分に関空に着く予定で8時前には電話があるはずなのにまだない。オーキャットへ迎えに行くことになっているのが8時半。今、8時15分なのにまだ連絡がない。 土曜日の朝、キーボードをたたきながら電話を待っている。海外旅行をしている本人より、家で待っている家族は要らぬ心配をするものだ。無事帰ってくることを祈っているのは親の常だ。家内がまだ電話ないね、と心配している。 私が40年前、貨物船でリュック担いで出かけたとき神戸港で今はなき母が泣いていた。
2003年09月26日
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10月7日に初日を向かえて朝8時半から午後4時半まで工場で肉体労働だ。英語がダメなんだから体でやる以外仕方がない。そこの壁に挟まっているじゃまなものどけてくれ、その英語が分からず、まぁこれを取りのぞくんだろうとやってみるといった具合だ。 二日目にして残業をして12時間働いたら、もう明日はだめだ、体が持たないとやわいもの。慣れないことをやり始めた矢先に残業などやるもんじゃない。 4日目にして無味乾燥な毎日の中でも、朝10時のお茶、12時になると30分のランチタイム、午後3時にまたお茶、10分から15分の休憩、そして4時半にタイムレコーダーを押してバスに乗って学生寮レイハウスにもどる。 5日目の金曜日になった。明日の土曜、日曜日は休みだが残業はさすがに言い出せなかった。しんどいのだ。するとその夜H氏の奥さんから電話で土曜日2時に迎えに行くからいっしょに過ごしましょう、とのこと。 息子が迎えに来てくれた。10月16日が長女の誕生日で私が10月2日だったので、同じ歳になると聞いた。「その日に一緒に誕生日をお祝いしましょう」 友達も知人もいなかった私に、だぜそんなに親切にしてくれるのか不思議だったがそれを考える暇もないほど物事はドンドン進んでいく。 14日(寮生になって1週間目くらい)にレイハウスの寮生の記念写真を撮る。6時20分ということだったが写真やがやってこない。そこへトニーがやってきて日本の漁船がオークランドに着いてその日本人がH氏のところにきているから、やってこないかと誘いに来た。 写真を夕方の6時半ごろとるのだから、まだまだ明るいのだ。でも時間を守らないのを平気で学生たちは歓談して待っている。 H氏の家に着くと3人の日本人が居間でコーヒーを飲んでいた。漁船員だ。なぜ彼らがこんなところにいるのだ?トニーが私に貨物船に会いに来て私を誘ってくれたのと同じか?そんなことを考えている暇もなく、歓待してくれたのをうれしく単調な仕事に飽き飽きしている身だからうれしくてしょうがない。 400トンの漁船で鯛、マグロと100トンとったとのこと。3800トンの貨物船でも大洋のなかではチリみないなものなのに400トンという10分の1という小ささは、もう想像の域を越えている。 その名は第6千代田丸であった。その船に乗って操業している船員たちは10代の少年たちもいた。そしてその寝床は蚕棚であった。 私は単調な仕事だと文句を言っている。彼らの漁船を見ながらその生活をうかがい知ってこの身の恵まれているのを忘れている心の小ささを教えられていた。
2003年09月25日
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H氏は50歳くらい、時々トニーに連れられて会わせてもらっていた。H家は5人家族、P奥さん、長女R24才、長男J21才、次女J17才はマウントロスキルに住んでいた。私のレイハウスはマウントイーデンで車で15分くらいのところにあった。(距離にして10kmくらいか) そのH氏から電話、「今からトニーに行かせるからやってこないか」とのこと。トニーは彼の友人で独身の会社員。彼が最初に私が会ったニュージーランド人だった。 仕事の初日だった。夕食も終えていたが、髭もそり背広に着替えて待っていた。そこへトニーがルノーのぼろ車で迎えに来た、と思ったがそうではない。仕事をやり始めてどんな具合かトニーが行って様子を聞きに行くからねという電話だったのだ。 電話で話をちゃんと聞くなどまだ2週間の滞在では不可能なのだ。10年間も英語を勉強していてなんだこのていたらくは、と自分に言い聞かせてるが、そこで言い訳を考えるのだがこれは日本の英語教育が悪いのであって「俺」のせいではない、と。 とにかく、背広を着てピシッと決めている私をみてトニーは誤解を見抜いた。 彼はそんならH氏に電話して今から訪ねてもいいかどうか聞いてあげようということになった。 電話から帰ってきた彼は、「OK]と言って車に乗せてくれた。 「なんでもみてやろう」という小田実氏の本が売れていた頃、私は外国にいたのだ。その本を地で行くのがモットーであるから寮にくずぶっていたのでは何のためのニュージーランドかである。家族と知り合って2週間、それまでも2,3度連れて行ってくれていたので楽しくなり始めていた頃だった。若い男性にとって若い女性が二人もいるH家は、私には天からの降って沸いたようなところであって、行くところもない者にとってはこれ以上のところはない場所であった。 電話での聞き取りミスが次のステップへの踊り場になっていくことになる。
2003年09月24日
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週給である。中学を出て働いている連中と同じ仕事をしている。働いている最中にボスがタイムカードを配って歩いている。午後になるとオフィスにいる二人が金の入った袋を箱に入れて肩に担いでやってきた。 タイムカードと交換してその金を受け取る。働いている最中に金を配るとは、合理的というか変わったやり方だ。 私は大学生(NZへ行く前の4年間)のとき、家庭が貧しかったので小遣いや旅行費はアルバイトをしたものだ。土方、車の交通量の数勘定、宛名書き、家庭教師、出版会社の使い走り、等々大阪の扇町の学生アルバイト斡旋所に通って満員の学生たちと仕事にありつくために競い合ったものだ。そのとき1日働いて350円なり、今このニュージーランドではるかに楽な仕事をして1日、税金と保険を差し引いて2000円もらっている。1週間1万円貯金できる。 私は学生としてNZに渡った。スポンサーがいたのでパスポートを入手できたのだが、その肩書きは「親善使節」であった。日本を紹介するという名目を掲げて準備をしてNZのジャパンソサエティーなどを巡って回るという目的である。そのために学長の推薦状等をもらっていた。学生としてNZでも働くということは合法的だと思っていた。いわゆるアルバイトである。紹介してもらったオークランド大学の教授もそのアルバイト先への推薦もしてくれたから安心をしていた。(2回目NZに行くときすんなりと私にビザは降りなかった。ブラックリストに載っていたのだ。)そして2ヶ月後、手に入れた車でクライストチャーチまで旅をしながら、日本を紹介して周った。 町々で歓待を受けながら、オークランドに戻って今度はプラスチックカンパニーで働いた。そしてまたベッド製作会社でも働いた。 私にはアメリカへ行く夢があった。金を貯めないと夢が実現できないので、私は親切な家庭の毎日のようなもてなしを喜んで受け入れて、オークランド到着後1ヶ月したときはH家の人々とだんだん溶け込むようになっていった。溶け込まされていったといったほうが合っている。
2003年09月23日
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3週間たったころには、オークランドで仕事を見つけて働いていた。分からない英語の環境の中での仕事が単調とはいえ疲れて、残業もしんどくなってきたころだった。南島を回って再びオークランド港にもどってきた「徳和丸」を訪ねた。広いハーバーのどこに寄航しているのか分からずに歩いていると、日本語で突然「徳和丸は向こうにいますよ」と声をかけられびっくり。探し回る手間がはぶけた。チョッサー(チーフオフィサー)の部屋に行くとセコンドッサー、サードッサーがいて歓待してくれた。3,4時間もいたろうか。久しぶりの日本語がいたくなつかしい。18日間の太平洋を南下した旅の後、3週間目の再会であった。ビール、刺身、ラーメンでのもてなしは日本ここにありである。「風呂とメシ・・・・」とのどにでかかったが3週間の間にあった出来事に花が咲いて、言い出せなかった。 そのころ、時は1963年のニュージーランドには商社マンが数人いるだけで日本人はいなかった。その3週間で私は、最初に貨物船に訪問しに来たトニーに電話をして彼と深く親交をもつようになる。そして今も年2回は会いにいく恩人H氏家族にめぐり合ったのである。 人とのめぐり合いが人生を変える。思いもよらない道への歩み始めることになるその変遷のごく一部だがこれから思い出しながら書いてみたい。 これは真実な私の歴史である。なぜなら私は幸いに日記を書き続けていたのだ。それを頼りながらのニュージーランド紀行を少しは楽しんでもらえるかもしれない。
2003年09月22日
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グラスカンパニーで働くことになった。Teacher TrainingCollegeのRAY Houseに落ち着いて寮生活をすることになって間もない頃である。3ヶ月の就労が決まった。週給15ポンド、寮代が3ポンドで10ポンドが残る。1週間の貯金が1万円だ。日本の物価が月給大卒で15,000円なのに。残業すると1時間1.5倍の週給をもらえる。日曜日だと2倍の時間給である。 ことばの壁を乗り越えて私はがむしゃらに働いた。夜の10時ごろまで働いたとき、友人になった17歳のマックスに車でレイハウスまで送ってもらった。 ニューマーケットからバスに乗って通っていたのでニュ-マーケットまでというと、そのバス停で降ろしてくれた。そこからの道が分からなくなった。まだ通勤して4日目くらいだったから車で送ってもらったが道には不慣れであった。 道を聞くにも誰も歩いていない。やっとアベックがきたのでレイハウスは?と聞くと教えてくれた。小一時間も誰もいない寂しい町(NZ最大の人口の町なんだよ)での夜中の仕事疲れの体は精神衛生上も大きな穴ぼこをあけてくれた。 日本に外国からやってきた右も左も分からない若者には泊まっている宿舎の前まで送るの至極当然なのに、何だこの国のやつらは?親切心はあるのだが、一マイル行ってくれというときっかり1マイルしか行ってくれないのか! 私はそれから西洋人の親切心?をいやというほど知らされることになるが、日本人のそれとは雲泥の差があることなのだと理解することになる。 しかし、1マイル求めたのに、10マイルも行ってくれる人たちに間もなく会うはめになる。
2003年09月20日
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わが塾でも、2科目しか習いに来ていない男性徒3人が野球のシニアチームの練習が終わったので、5科目に変更した。 社会が得意な男性徒だが英語が苦手、社会の白河上皇を覚えているのに、rememberが覚えられない。その上字がきたない。自分は正解を書いているつもりだが読めないので×をつけてやる。厳しくしないと直らないから。 180センチの素直を絵にかいたような男性徒は、野球をやめてバレーをやり始めた。彼の得意は野球ではなかった。気がついたのか高校受験にのめり込むのではなくて、バレーの試合ですと言って塾の特別補習に来ない。素直にバレーをやっているが、大学行くには苦労するだろうな。 中学2年の理科の得意な女生徒が、横にいるその素直な中学3年生に理科を教えてやっている。昨日はそんなほほえましい塾の夜でした。
2003年09月19日
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これはチャペルのステンドグラスです。色彩はなくとも外は自然の林であり、お花が植えられています。 ノルウエーの宣教師、友人F.が家族と共にその隣に住んでいます。 私は信州の茅野や諏訪湖が大好きです。また一つ訪ねるところができました。静寂の中で深呼吸するそのとき、いのちの風を肺に入れると同時に都会では感知できない何ものかを体内に取り入れることができそうでそこへ足を運ぶのです。 そのところにいる友人に会えるのもまた最高!
2003年09月18日
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14日の午後から新幹線で、東京に行った。日本そのものとアイデンティティー(天皇制や神道)を学ぶ研究会のための集会に参加。イスラエルとの関連などの研修は、日本の現状に明るい明日をもたらすと言うと、何で?と言われるかもしれないがそこは「じゃの道は蛇」でありまして、これは深い洞察と知恵がいりまして、世界の歴史(HIS story=History)を学ぶ人は「なるほど」とうなづかれるでしょう。 どちらにしましても15日16日の午前中まで東京にいました。16日の午後車で中央道に出まして、5人の仲間と東京の八王子を通り過ぎ午後3時には甲府まで来たときは冗談半分で「もう大丈夫」などと軽口をたたいておりました。私の友人などは、本心心配して飛行機で大阪から往復したくらいです。 阪神淡路大震災で私は大阪のマンションで地震の恐怖を体験しました。それが東京で起こるとなるとそれはもう筆舌ではその恐ろしさを言うは不可能でしょう。そしてその恐ろしさはいつかやってくるのですからそこにいる人たちは、そこを逃れる以外に道はないのではないでしょうか。 東京遷都を私は強く要望するものです。一極集中は、危険です。 帰阪途中私たちは、長野の八ヶ岳原村の完成したチャペルを訪問しました。そこは白樺林の真ん中に立つ閑静な平和なたたずまいで私たちを迎えてくれました。人の心に安らぎと希望を与えてくれる暖かい人々との交流(東京でのそれも含んで)と緑に映える清らかな空気は、早朝の散歩と相まって私を新鮮にしてくれました。そのチャペルの写真をすぐに貼りますのでまたこの日記を訪問してください。
2003年09月17日
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食堂で彼が声をかけてくれた。「私の家に来ないか」タウランガから200マイル離れたMangateka北島の中心部まで連れて行ってくれた。1500エーカーの牧場主であった。見渡すかぎり彼の牧場である。丘の上に一軒ぽつんと彼の家があった。 彼の口笛一つで牧場犬は、右にも左に行く。犬は羊の群れを自由に操る。見事と言うか壮観でさえある。13才の長女、12才のマリアン、長男、3女のジェニス、次男のハンク。マリアンがかわいい。顔の左目の下に米粒半分くらいのほくろ。笑うとこれほどかわいい顔を見たことがないというほどの美しさ。私は一目で虜になってしまった。Ⅰメートル50センチ、私は23歳だったがいつも私のそばにいて話しかけてくれた。マリアンは馬に乗ってやってきて、見下ろして笑っている。降りてきて「乗って」と言う。私の足をもって乗せようとしてくれるが、できないので柵のところへ連れて行ってくれて乗せてくれた。生れて初めて馬に乗った。 次の日帰らねばならないときが来た。車に片方の足をかけたそのとき、マリアンに半分冗談に「一緒にタウランガに来ないか?」と言った。彼女は恥ずかしそうにうつむいて芝生をみて笑った。私はひとりつぶやいていた。「必ずここに戻ってくる」と。 それから時が過ぎて去年、私は手を尽くしてブラウンリー家を探した。いろんな人が電話をして探してくれた。その家族はもう牧場主では見あたらなかった。その地の詳しい人から、彼らの行き先は誰も知らないと言われた。 私は、私の日記をもっともっと前に読んで振り返るべきであった。マリアンに会いたかった。彼らは今どこでどうしているのだろう? なぜ私はオークランドにいるときに、彼らの暖かいもてなしに応えなかったのだろう。その後の私のオークランドでの生活があまりにも刺激多い充実したものとなったとはいえ、それは言い訳にはならない。 私のこころ残りな旅の汚点である。
2003年09月12日
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現在そこはニュージーランド屈指の観光地のひとつである。山からの眺めは、息を呑むとはこのことだろう。タウランガに行かれたら、フィッシングもよいがこの山へ1時間もかからないから登られることをお勧めします。 マウントマウンガヌイの頂上からのながめ マウントマウンガヌイ海岸での虹 知人といっても、76歳の酪農家である。私がパスポートを入手するために骨折ってくださった恩人だ。電話帳で番号を調べて、なんとかかかったではないか。奥さんの英語がまた分からない。タクシーと言うことばが分かったので飛び乗った。5分ほどでチャドウイックロードの玄関に停めてくれた。 彼の助けなくして私はニュージーランドへ来れなかったのだから感謝の気持ちを心を込めて述べたいのだが、ままならないことばの壁は、自分が情けない思いでイッパイだった。 海岸近くのシーダーロッジを紹介してもらいそこで1週間落ち着くことになった。1週間5ポンド、のロッジはすばらしかった。食堂はカフェテリヤのようで、部屋は離れたところにあって明るさ満点の部屋だった。 朝の7時に紅茶が部屋に運ばれてくる。そして1日が始まった。その紅茶など飲む習慣のない私には朝一番寝起きに紅茶をのむなど、のどが受け付けない。それでもその新鮮な習慣が1週間もすると体がなじんでくるもの。不思議な新鮮な体験が私を待っていたのだ。 そして、その晩私は泊まっている人たちにフルートを演奏した。彼らの喜んで拍手してくださる顔は、ことばを越えていた。そこで二人の若者と仲良しになる。「ここは老人の町だ」とのこと、リタイヤファーマー(引退農家)が多いとも聞いた。今タウランガは若者であふれかえっている。
2003年09月11日
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オークランドからバスに乗った。150kmくらいだろう。バスの乗客は皆女性、それも皆中年と老人、1ポンド6シリング。日本円にして1500円くらい、少々高い。その当時の大学出の初任給が15,000円だから。 完全舗装のアスファルトの道、80km/hで田園風景をひた走る。出会う車は全くないほど、時々停車するのは停留所か、休憩かわからない。でも人影がない。どこにも人がいない。でも2歳くらいの子が砂遊びをしていたので、「寒いね」と言うと笑ってくれた。なんとかわいらしい笑顔だ。バスが発つのでバイバイというと、バイバイと返事をしてくれて、「コールド?」と言って聞いてくれた。 人影のないバス停の寂しい町でのこころやすらぐ、一こまであった。 道の両側の羊は今でも同じ。道路の中まで入り込んでくる。 バスは牛を両側によけるように走り出す。運転手は新聞の配達もかねている。80km/hで走る窓から丸めた新聞をポイポイと投げている。 門のところで待っている奥さんが手を振っている。運転手も手を振る。 平和な国、ニュージーランドの田園風景の緑あふれるバスの旅。 今年の春もそこを私は友人とキャラバンで走ったが、田園風景は同じでも、車の量は段違いに多い。それでも平和な国ニュージーランドは今も同じだ。 タウランガに着いて、バス停で知人の家に電話するのだがそこでどうやって電話をかけてよいのか分からない。 そこにまた人がいない。現在はかなりの都会になっているが、そこは老人の町だった。 私がオークランドで貨物船を降りて、3日目の旅である。(またこの続きは明日です。)
2003年09月10日
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オークランドもそうだが、交差点がロータリーになっているところが多い。信号がない、とくに小さい町などは交通量も少ないのでこの方式がドライバーにはうれしい。 あくまで自分の判断で運転をしなければならないということ。これは人生の歩き方にも共通する。 信号機に頼っておれば安全無難に交差点を渡れるかもしれないが、自分で判断しなければならないときは、責任はこちら側にある。だがこの方法は、人生を楽しくする代わりに危険率も高い。 さて、その交差点のロータリーや信号機のないところにきたときだが、日本では左側優先だが、ニュージーランドでは右側優先なのだ。 40年間、日本の道路を走ってきた体で覚えたこの優先基準はそう容易く反応しない。 南半球ということもあり、太陽が北側に常に輝いているのも体が受け付けないところに、右側優先となるともう隣の人と英語で?しゃべりながら、交差点に入ることなどできはしない。 もう何百回と交差点に差し掛かった経験があるが一度だけ上の空のときがあった。 右側から来た女性ドライバーが、目を吊り上げて威嚇してきた。彼らは一緒に並んで交差点で待っているときはウインクをしてくれ、ニコッとするがそのようなこちらが間違って彼らがマイナスとなり公の益がそこなわれるような場合は、俄然態度が厳しくなる。 追突は避けられたが、私が日本式で「左優先をしたからである」車は、同じ左側通行なのだが交差点では優先基準が逆なのだ。 体が覚えている基準が所違えば逆なんて場合は、若いうちは問題ないかもしれないが、歳をとるうちに直せなくなることが多いので年寄りは頑固だといわれて嫌われるのがそんなところにあるのかも。
2003年09月09日
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大学4年それも英語で有名な京都のD大学に在籍していてニュージーランドで思うことの100分の1も言えないもどかしさは、はかりしれなかった。 あるとき空があまりにも青々しているので「Sky is blue」と言った。これが通じたのである。空の青さも感動なら、私の英語も通じるじゃないかと感動した。こんな簡単なことばが、相手の心に入っていってその人の顔をほころばせたのだ。 空は青いものなんだ。あたりまえのことなんだがこの空は大阪の今まで私が見てきた空とは、違うのだという私の気持ちを日本語で表現するなら、私の気持ちは納得しただろう。でも英語のただ音の響きのような単なる音の羅列「Sky is blue」が、相手の心を動かしたのだ。 これは、新鮮な驚きであった。 今まで使ったこともない道具を使ってもの造りを完成させたような感じがした。 その道具の魅力に目覚めたものだけがその道具の使い方に磨きをかける努力をする。 私は「I love you」を使うことができるようになり同じことばを聞くことになる。ことばとは、力なりなんだと感じて40年、それをまだ十分使いきれていない。 英語にかぎらず、日本語も。しかしことばは感動の道具である。 皆さんの空は青いでしょうか?今日も「Sky is blue!」
2003年09月08日
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ニュージーランドの40年前の車事情である。私が大変お世話になったジェトロ(日本貿易振興団体)のN氏がトヨタのコロナを日本から持ってこられて走っておられた。それがった1台。 私は自分より1歳年上のブルー、ボクソル(イギリス製)1939年型を買った。40ポンド、4万円なり。 先日にも書いたように、通勤でバスは不便だったし各町にあるジャパンソサエティーを訪問する予定もあった。旅は1月、ニュージーランドの夏である。行く町々で新聞記者に囲まれた。翌朝の新聞トップページに写真入で報道されるほど日本人は珍しかった。今でもその記事は机の中にしまいこんであるが、たわいもないことを言っていたことが記事になっている。 「どこに人はいるの?」と日本の学生は言う。街角にたって道も聞けない、のだから。 「マッシュポテトがうまい」と日本人。そんなタイトルだ。尺八をもっていたので、吹いてくれと言う。写真を撮るから、と言う。ボクは上手にふけないんですけど、と言うと「心配ない、(Don’t worry) 音は新聞には写らない」と若い女性記者がのたまう。翌朝私は新聞トップ面の真ん中で尺八を吹いていた。さすがに音は聞こえなかった。 オークランドからクライストチャーチを往復した。すれ違う車が来ると懐かしくなり手を振ってしまうほどの素晴らしいドライブであった。 追い抜かしていった車が前で止まった。停まれと言う。何事かとびっくりしていると「マフラーが落ちた」すぐに引返して腐って落ちたマフラーを次の町の修理屋さんに持っていった。あるときなどは、ヒートアップで坂の上で停まっておかないとエンジンがかからない恐れがるので、坂を利用してスターターの役をさせたりした。 それでもわが同輩は、病気入院しても頑張って2000キロメートル走破してくれた。 イギリス製の車が大半であった。ゼファーに載っているH氏は見事な運転ぶり、オーストラリア製のホールデンはそのスタイルが魅力的であった。ドイツのワーゲンのカブトムシスタイルは今でも同じだ。最近少し変わってきているが・・・・。T青年はおんぼろのルノーによく乗せてくれた。私のボクソルはそれよりおんぼろであったが、よく走ってくれた。 信号で隣に停まる運転手がこちらを見ている。目が合うとウインクしてくれる。実に心豊かなドライバーたち。彼らは初めて見る日本人に暖かい視線を注いでくれた。 車の話はまだつづきます。また明日書くつもり。
2003年09月07日
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1ポンド1000円だった。アメリカドル1ドルは360円。私は働いたらいけないのに、プラスチックの会社やベッド製造会社でアルバイトをした。(もう時効だし、政府からも許されてブラックリストからも名がはずされている)そのとき1週間5日で15,000円もらっていた。日本で大学出の月給にあたる金額だ。水曜日が週給日で、毎週お金が入るのでなんだかうれしくてしかたがなかった。日用品や寮(Teacher Training College)の寮代を払っても1万円は残った。毎月4万円は貯まる。大学出が土曜日も働いて月給15000円もらって4万円をためることは、不可能なのだ。 ボクソル39型のイギリスの車を買った。4万円なり。私より1歳年上の車でNZ中を走った。途中でエンコした。修理を出す間、次の予定地へ向かうのに汽車にも乗った。田舎の駅である婦人に「あなたの歯は総入れ歯か」と問われた。20歳の友人B君は総入れ歯だったので、余り珍しいことはないらしい時代だったようだ。「どうしてそんなこと聞くんですか?」と私。「あまりあなたの歯がきれいので」これにはまいった。 車を買う前は、毎日バス通勤。女性が乗ってくると男性は立ち上がった。これにはたまげた。なんという礼儀ただしい国民なのだ! 私は、それ以後バスでは座らないことにした。いちいち女性が乗ってくるたびに立ち上がるなど体がついて行かない。そんな風習は日本人にはない。 それから40年、そのバスはらぐがきだらけ、若い男性は足を前の座席の背もたれにかけて平気でお座りになっている。1ドル500円が今や68円なり。ニュージーランドは変わった。
2003年09月06日
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地球の大きささというのはこちらの勝手な体験によるものだとつくづく思う。40年前、私は貨物船でニュージーランド行った。そのとき18日かかった。1年後カンタス航空で香港経由1泊してちょうど24時間で帰ってきた。毎日大海原を見て過ごす18日は教えてくれた。「地球はでっかい」だ。が同じ距離をたった1日なんだから「地球なんてちっちゃなもんだ」くらいになってしまう。 地球そのものは変わらない。だが人の感覚は体験によってどうにでもなり、ひとつの事実が全く逆の印象をもたらすこともあるわけだ。 さて、その後私はこの国と結びついてしまった。国と結びつくと言うことは人と結びつくということなんだが、男性女性を問わず、年齢を問わず深く交流を交わすことになった。 それから4,5年して再び訪れたとき、親しくしていた女性が結婚して男の子を連れて私がお世話になっている家(実は彼女の実家)にやってきた。私はその男の子に浦島太郎の話をした。その子は3歳だったと思う。その子は目を丸くして聞いてくれた。目のクリッとした母に似たかわいい顔をこちらに向けて耳を傾けてくれた。だが子どもだけでなく母親もちょっと離れたところで何か用事をしながら聞いていた。浦島太郎が亀を助けて、竜宮城で歓待を受けて帰って見ると彼の町は変わっていた。見知らぬ人が歩いている。開けてはならぬ箱を開けてしまう。すると彼は老人になってしまうという物語。日本でよく知られた物語だ。 するとその子の母が近くに来て、「面白い、素晴らしい話だ。Wonderful! 開けてはならぬ箱を開けて老人になるところが面白い、面白い」と感激してくれた。なぜそんなに面白くて興味があるのかそのとき分からなかった。その子もよろこんでくれた。「今晩泊まるので一緒に寝てよ。」と言う。ディーン君は私にせがむ、母も喜んでそうしてほしいと言う。なんだかこちらもうれしくなってしまった。 彼が、私の横でスヤスヤ寝ているその寝顔がなんともいえない。私、26歳の時の思い出である。
2003年09月05日
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国会議事堂に3日の昨日雷が落ちた。今朝、朝日新聞にその雷の写真があった。国会議事堂の塔の上を直撃して、衆議院の方にその破片が落ちて損傷を与えた。参議院でないところが意味深長。 聖書に「三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、・・・宿営の中の民はみな震え上がった」とある。そのあと大地震が起こっている。日本の国政に大地震が起こる前触れか。また、神さまを信じる者には、ちゃんと意味の通ることばとして聞こえたが、不信のものたちは、「ただ雷が鳴っただけだ」と言った、という箇所もある。 日本は、国を代表する国会議員の代表(自民党総裁)そして(首相)を選ぶこの時期に喧喧諤諤の騒動をしているが雷が議事堂に落ちたことを、単に雷じゃないかという人と神さまの声とする人がいるかもしれない。その声は何を言わんとしているのだろうか。 日本にはその中心地に大地震が予告されて久しい。北朝鮮は核をもって、敵対国日本を振るわせる言動をして久しい。日本内部は犯罪が増え、人の心は昔の価値観を失って久しい。日本をよくすると言って大言壮語して出没した人が多く出たが日本は精神的に失って迷った羊のようにさまよって久しい。 そのときに雷が国会議事堂に落ちたのは、何かを神さまが語っておられるのではないか。それでも日本はその声を聞き分けないので近いうちに全山が震えるかもしれない。 私は今月14日~16日まで東京に行ってある集会に参加する。そのとき、日本の希望がここにありと話す人たちの声を聞く。その場に来る人たちがいるだけで全山は振るわないと私は望みをもっている。 昔、ソドムゴモラの地を5人の義人がいたら滅ぼさないといわれた神は、4人の人を救ってその地に硫黄の火を降らせた。5人の正しい人もいなかったのである。 果たして東京にどれだけの正しい人がいるのだろうか? 朝刊の国会議事堂に雷が落ちた写真を見て希望の抱かれるよい印象より、なにか不安な気持ちがよぎってしまったので・・・・・。
2003年09月04日
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生れて初めてエチオピア料理を食べた。知人がそのオーナーになったと言うので早速家内と食べに行った。大阪道頓堀の「Blue Nile」というお店。料理そのものが珍しいという初印象が正直なところ。大阪には2軒しかないらしい。東京でも4,5軒という。シェフは頑固に日本人向けに味をあわせず、エチオピア風に固執しているので、オーナーとしては難しいところと1週間の成り立てオーナーは笑っていた。 料理の味だが、説明不可能。食べないと分からないだろう。スパイスが効いているがそのスパイスというものを活字にはできないので歯がゆい。うまいかどうかは、それこそ個人差があるのでうまいともまずいとも言えないのですみません。 私はまずまずと言っておこう。家内はノーコメント。だから食べてみないと分からないので一度はトライしてみては? 人生で初めての体験をこの歳になって味わったのは、その料理の味よりうまかった、のは確か。 行きたい人はメールください。掲示板に書き込んでください。喜んでお教えしますよ。ひとりでもご依頼があれば次の日記で返事します。 そこでサービスして働いている人は、私も親しくしているエチオピアに帰れないご夫婦、つらい境遇の人たちで友人が助けの手を差し伸べている、そんな人たちだ。 二人とも紳士と淑女で、かなりの身分の人である。 「ブルーナイル」とは、ナイルの源流のエチオピアにあるすばらしい大きな滝の名前だそうだ。
2003年09月03日
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毎月、2~3名くらいがわが友人の設立しているライフウエイカレッジに飛び立っている。ライフウエイカレッジの一部、むこうに見えるのがスネルズビーチ日本の窓口をさせてもらっているが、若い女性が多いのが特徴。ところが8月の末頃から若い男性が二人行きたいと申込みがあった。どちらも私の知人の息子さんたちである。ひとりはアメリカへの留学のために英語をみっちり勉強したい、もうひとりは、8週間の英語コースに挑戦する19歳の男性。昨日は、沖縄から素晴らしい声の持ち主の若い女性が英語22週間コースに申し込みたいのです、と電話があった。このトップページのところにも紹介させてもらっているインターネットのページを見たのが一昨日の夜とのこと、すぐに電話してこられたのだから、うれしい。 私が留守中に電話してこられて、留守電に名前と住所と電話番号を入れてくださっていたので、すぐにこちらから電話した。長い電話だったが、一通りの説明をした。 寮ですよ。ビザは3ヶ月まで必要ないが22週間ですので延長をするために、銀行の残高証明書をもっていくこと。寮でNZの若い女生徒一緒の部屋を希望なら、頼んであげよう。もし可能ならその方が英語の力はよくつくよ。飛行機は1年オープンで購入しなさい。関空なら私の友人の旅行会社を紹介するよ。海外傷害保険は入っておいたほうがいいよ。などなど。すぐに資料と申込み書(願書)を郵送した。9月29日からのコースに入学したとのことですぐに手続きをしなければならない。十分間に合いますよ、と言うと丁寧で美しい声と弾んだトーンはえらく喜んおられた。 受話器を置いて、どんな人なんだろうあってみたいと心底思った。余りこんな体験したことがない。 声とその響きから人柄の魅力が伝わるしこの日記の文章からでも、人柄が伝わってくる。まして会って顔と顔を合わせて話してみると人というのはもっと親しくなり、その交わりがすばらしく親密になる。 これらの人たちがニュージーランドで異文化のことばも違う人たちと交わって短い間であってもすばらしい交流の時をもってほしい。 人生の旅路で彼らの途中下車がニュージーランドの駅からどんなおみやげを買って帰ることやら。インターネットをみて資料請求の依頼がやってきているのがうれしくて、その返事に追われている。私の希望は、それでもその数が少ないと思っている。もっと来てもいいはずだが、まだまだ知られていないのかもしれない。宣伝しなくちゃ。
2003年09月02日
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にわとりが先とすれば、その創造が何百万年も昔であったと考える必要はないことになります。実際そう考えた方が理屈に合います。 人類が下等な生物から「進化」してきたのではなくはじめから人間として「創造」されたのとにわとりの話はちょっとずれている?そうでもないのですけれど・・・・・。 さて、この話、数日間であまり人気がないのはわかっていますが、もうすこし付き合ってください。私案外、ひつこくてこの話題にくらいついています。すっぽんみたい?! 数日前に書いた炭素14法の「数万年」という人類の年齢ですが、本当の年齢は実際の年齢より大きくなってしまっている、というには理由があります。 炭素14法は、4000年くらい前までのものなら考古学的年代のわかっているものと照らし合わせるとその精度はOKです。しかしそれ以上なら確かめられる相手がありませんので確かさを確かめられません。ですからある前提上ならOKなのです。こういう条件です。「大気中の炭素14の量が全時代を通じて一定だ」というものです。それなら4000年以上前のものでも正しい計算がOKですが、そうでなければダメです。 そこでノアの洪水以前も同じ条件だということが前提になるのですが、そうじゃなかったのです。ですから、進化論者の言うな何百万年も前に人類の先祖がいたという論は、なりたたないわけですね。 上空はるか上の「水蒸気層」は、宇宙線の進入をはばみ、宇宙線によって生成される炭素14の量をすくなくしていた、と言えるわけです。 すなわち、大洪水前のものを炭素14法で測ると、その結果は、真の年代より古く出てしまう、わけです。人類の真の年齢は、先に述べた炭素14法の示す結果「数万年」にさえも及びません。 人類の創造は、約6千年前です。炭素14法の示している結果は、そんなに若いのです。 さて、人類が何百万年も前に出てきたのならこれからもずっとつづくだろう、と案外考えてしまいやすく、この地球も宇宙も、創造されて経てきた年齢は案外若くて数千年なんだ、と思うと人間たちの愚かな文明と身勝手が案外早く滅びの日をもたらすのが早いのでないかと考えるのはいとも容易いなのではないでしょうか? 進化論は無意味で空虚な希望を潜在意識の中に植え付けているように思えてくるのです。 人類は地球を滅ぼし、もう一度ノアの時代のようにこの世が人時自身が滅ぼしてしまうのが、アッというまに来るような気がするのです。 6000年という時代のあとにミレニアムがくるというこの説は、創造論では納得させる何かをもっています。 後に引けないような、システムのなかで人類は戦争から戦争への明け暮れ、民族は民族に向かって歯をむき、犯罪はより低年齢化し、凶暴となりその人の心は、昔の人なら考えも及ばないようなことを平気で考え実行に移しています。人としての目的もなく、ものの価値観は、下落してそれがなんとも思われないようなTV番組が流され、政治は自分たちのセクトが存続することのみに走り、彼らの基準は「金」の価値であるのは、その代表者を選ぶ国民も同じ穴の狢のようです。 あなたは、どう思いますか?ケネディー元大統領は言いました。「あなたが国に何ができるかを考えてください」と。 私だけでなく友人も言っています。無力感で脱力しそうです。「だれがこの虫けらたちをして像に立ち向かわせるででしょうか」と嘆息しています。涙!そしてあきらめの笑い、そして涙もでないときは祈りしかありません。 (ちょっと深刻すぎるところへやってきたかな?)
2003年09月01日
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夏休みは、普段の生活より忙しいのが塾をやっている身の宿命です。特訓というのがありまして、今までの復習に身を入れるのです。 朝から勉強して、夕方またやってくる。「あぁ、しんど」と中学生が教室に入ってくる。昨夜は8時から机に伏せて、寝てしまった中学3年生がいた。あえて、起こしもしなかったがなんだかかわいそう。 同じく朝9時にやってきた中学3年生の女子生徒は眠そうな目をして、気力がない。なぜ眠いの?と聞くと朝3時まで起きていた、と言う。 遊ぶだけ遊んで、朝は塾に来て勉強するという態度に感心してしまう。 それでも、来年の高校受験めざして頑張っているのだから「えらい!」と励ましている。勉強も遊びもたっぷりしてこそ、中学生だ。若い者はうらやましい! わたしなど3時まで起きて、遊ぶことはないが何かしていたら次の日は、朦朧としている。歳はとりたくありませんね。
2003年08月30日
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私たちがこの世で人生の旅をしていますが、私たちがなぜここにいるのかという問いの答えはこの二つのうちのどちらかからやってきます。 そんなこと考えたこともなかった、と言われるのですか?そうなら考えた方が旅の仕方が変わると言うものです。 神さまがこの宇宙を造られた、近づいてまた離れていく火星、私たちの水の惑星地球、そしてあなたや私を造られた、とする創造論。 いやそうではなくて、自然に宇宙ができて進化して生物がたくさん現れてきた、そのために何億年という年月が過ぎ去った。前に火星が地球が近づいたときは6万年前だった、とする進化論。 この二つしかないのです。どちらかが真実でどちらかが偽ものです。創造論は全能の神さまを認めねば成り立ちません。進化論はその神さまを否定しなければ成り立ちません。創造論は私たちが生れてきた意味や目的があり、人生の旅に意味も目的もあるとすることになります。造られた方には、大いなる意志があるからです。実はこれを知るために人生の旅をしていることになるわけです。進化論はわたしたちは偶然の産物ですから、すべて偶然で人の出会いも私たちのすべての行為も意味ないわけです。そのすべての発生がすべて偶然だからです。人間の思考力も決断も自然のままの自然の成り行きであってその場かぎりを楽しんで生きればいいじゃないかとする無神論からの論なのです。死んだら無になるとする虚無感をもたらす論なのです。 この論に大賛成しているのが、昨日死刑を求刑された宅間被告です。その言動がその証拠です。 さて、この二つは結局のところ宗教なのです。私はどちらが真実かと問われますと、もちろん有神論の創造論です。だから「Life is Wonderful」だとこのホームページを書いているのです。 明日からも、このことをもっと煮詰めていきたいと思っていますが、この数日書いてきた論点にコメントがほとんどないのです。訪問者はかなりあるのですが、なぜでしょうね。その辺りの理由や意見がないわけを誰が教えてくれませんか?一生懸命書いて何の音沙汰もないのはどうでもいいことかもいれないし、何の関心もないからなんでしょうか?ちょっとさみしい感じです。孤独なおじさんカ・パイ!です。
2003年08月29日
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でも、天空高いところにあった「水蒸気層」が破けて地球上に降ってきたならこれは大変な変化をもたらします。それ以前と以後の地球上の条件はぜんぜん違うものなのです。「水蒸気層」が上空にあった場合、緯度の高低に関係なく地球の気温は高いのです。その証拠に南極大陸に延々とつづく石炭層が発見されています。北極圏にも発見されています。石炭とはなんでしょうか?植物の死骸です。今では両極地方もかつて植物が生い茂っていた温暖の地であったことは周知の事実です。珊瑚の化石も発見されています。これは摂氏20度以上の水温がないと生育できません。つまり今はすごく寒いところなのに昔は温順であったことがわかります。「太陽が当時は今より明るかったのだろう?」と言われるのですか。いいえ、若干次第に明るくなる途上で過去の太陽は今より暗い状態だったのです。「大陸移動して別の場所にあったのだ」、という人もいます。これでは他の事柄の数々の説明がつきません。例えば古生代の木にはほとんど年輪がないのです!山形大学の月岡世光氏は、「過去の地球においては冬と夏の寒暖の差がなかったからで、一年中温暖であった証拠です。」と書いておられます。また、現在は暖かい地方にしか住まない動物の遺骸が、地球上いたるところで見いだされています。恐竜やマンモス、変温動物の遺体、が世界中で発見されています。グリーンランドの北緯70度地帯で無花果(イチジク)の木が発掘されシベリアでシュロの木が掘り出されています。そのために、大気中の酸素濃度が今より高かったことも分かっています。琥珀(コハク)の中の空気(気泡)に、酸素濃度が30%もあったのです。現在の濃度は12%です。そのために大陸移動説ではこの事実とは合致しません。 「上空にあった水蒸気層は、全世界を覆い、地球全体をちょうどビニールハウスのように温暖にしていました。」とわが友人K氏は述べています。大洪水前の気圧も違っていました!プテラノドンはすごくでかい空飛ぶ爬虫類ですがその化石から判断しますと、翼を広げると幅6メートルから10メートルこのような大きな動物が現在のような1気圧の下ではとても飛べません。せいぜい5メートルの翼が限度です。それ以上なら強風のときは飛べても、まして平地からは飛び立つなどできません。なぜプテラノドンはとべたのでしょうか。それは当時の気圧が現在より高く、約2倍あったからです。 さて、このような地球上の条件「膨大な水蒸気層」の下では、放射線が遮断されている状態が保たれていたのです。有害な放射線は、遠くの銀河から飛んでくるのを宇宙線といい、太陽からのものを「太陽風」と呼ばれています。宇宙はこのような有害な放射線が満ちている恐ろしい空間です。現在でも降り注いでいますが、大気がかなり遮断してくれており、細胞損傷は軽減されています。オゾン層などの破壊によって危険な地域も出てきました。さて、結論です。このような条件の下で炭素14でもカリウムアルゴン法でもいかなる想定値でも、現在の測り方では値が正確ではないということです。現在とノアの洪水以前の地球環境が違いますから現時点で発見されたものを現時点の測り方で測ると何万年経過したとなるでしょうが、その当時の条件下では人は969歳まで生きていたという記録もあるくらいですから。これは、今の条件下思考では全くその枠をはみだしていることです。今の常識は通用しません。それくらい今の人間は、地球規模、いや宇宙規模的思考をもはやもてなくなった「井の中の蛙」的知的生きものなのでしょうか?何でも神話だとか昔の人のたわごとだとして埋葬してしまうのはやめましょう。これはロマン以前のことです。そう思いませんか?「科学の説明が聖書に近づいた」レムナント出版を参考
2003年08月28日
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海と大気は同じく誕生したのです。これは原始地球は「水蒸気大気」のよって覆われていました。現在の水蒸気大気とは異なるもので、その成分のほとんどを水蒸気とする大気です。 東大の松井孝典博士は、「水が(鉱物からの発揮生物質)80%以上を占めるもので、原始地球の大気は水蒸気でできた大気といってもいい」と言っています。(『地球・宇宙・そして人間』191ページ)この水蒸気大気の大半は、後に冷えてその水蒸気成分が地上に降り注ぎ、広大な海洋を形成したのです。 すなわち、まず水蒸気大気が存在し、それが後に分離して(窒素やアルゴンなどからなる)大気と、その下の海洋になったのです。 その大気中の膨大な水蒸気が、4500年ほど前に大雨となって降ってきたのです。 ノアの大洪水以前の地球上の「水蒸気層」(water vaporcanopy)のことです。(米国ミネソタ大学、水力学博士ヘンリーMモリス博士による)この水蒸気は無色透明です。水蒸気は沸騰したお湯のなかでふつふつとわいてくる気体が水蒸気です。空気中に白く湯気として見えるのは、水蒸気に空気が触れて冷えて、小さな水滴に戻ったものです。それは液体状態の水です。(勘違いしないでね) 大洪水前のこの水蒸気の層は、太陽の光をサンサンと降り注いでくれます。雲ではありませんので。水蒸気は空気より軽いので、ノアの大洪水以前上空に安定して存在しておりました。温度にも関係します。そして気圧に関していいますと現在よりも高い状態でした。水は、1気圧で接し100度で沸騰します。そして水蒸気になります。もっと低い気圧下では、もっと低い温度でも水蒸気になります。 ですから当時の大気における各高度の圧力と温度のバランスが水蒸気状態を保つ場所では膨大な量の水蒸気層が存在することが可能であったことになります。 このことを説明して理解しておかないと大洪水の話が神話、伝説、何かの話の誇張ものがたりとして片付けられてしまうから、ちょっと前置きを書いてみました。それもはしょってしまいました。もう少しお付き合いをお願いして、気温は10メートル上がるごとに0.6度下がりますね。10㌔ぐらいまでで、約130㌔以上になると温度は逆に非常に高くなります。摂氏100度を越え、高いところでは1000度以上にも達するのです。これを「熱圏」(ねっけん)と呼ばれています。 上空50㌔前後のところも、オゾンの出す熱のため比較的温度が高くなっています。 このような状態ですので、高温帯の中で膨大な量の水蒸気は安定してそこにあったのです。 さぁ、それがあるときに降ってきたのです。それ以前の地球上の状態と後の状態が違いますので今の状態で検査してもその「年齢」の値が狂ってくるのです。それは明日またいっしょに考えましょう。すみません、今日ももう出かけなければならないのです。
2003年08月27日
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炭素14測定法は直接、生物の化石を調べます。しかし、このカリウムーアルゴン法は放射性同位元素を用いている点については同じですが、原理的に全く異なっています。 化石の近くの火山岩の年代を調べるのです。火山岩が冷えて固まった時の年代を調べてその年代をもってその生物の年代とみなす方法です。 1967年発見、化石化したひじ骨の小片で新聞は「ケニヤえ発見された骨は、人類の年齢を250万年である」と報告したのは、このカリウムーアルゴン法によったものでした。 放射性カリウムの「半減期」を利用します。その「半減期」は13億年でカリウムはその半分がアルゴンになるのです。この割合を測って年代を決めます。 数千年前のものでも、数百年前のものでもこの方法で年代を測るものですから「半減期」の数字が何桁も違うことになります。私の友人A先生は、「時針で時計の秒針を測るようなもの」と言いました。 このように170年前のものを測ると、その測定値はほとんどゼロなのに、1億6000年ないし30億年前に形成されたと出てどうしたらよいか分からない、と報告されています。(マハナイム9号4ページ)このように、1968年10月11日付けの科学雑誌「サイエンス」が200年に満たないと分かっている火山岩が、1200~200万年を示した、と報告しています。 リチャード・リーキー博士が発掘したアウストラロピテクス『(猿人)と呼ばれる最古の人類』これは、現在も中学生の歴史の教科書で人類の発生の項で最初に記載され教えられていますがこの方法で調べた結果「260万年」とされています。ところが、年代測定の専門家E・Tハル教授によると最初調べられた時は、実は「2億2000万年前」とでたということです・ これでは何が何でも古すぎるというので別の岩石を調べて受け入れやすい260万年が採用されたのです。(シルビア・ベーカー著「進化論の争点」93ページ) 驚き桃の木、山椒の木です。進化論者はつねに自分たちの進化論に合う結果だけを選び取り他の結果は無視します。信憑性のない結論と言わねばなりません。 私が現在納得している年代測定のからくり、判断の条件になっている事柄を明日書きます。それはノアの箱舟のノアさんに時代に関係しています。それではまたお越しください。 暑い日々が続いていますが熱い論戦を繰り広げましょう。少しでも涼風をいただくためにも。さもなくば、旅も快適さがなくなります。
2003年08月26日
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火星が6万年ぶりに地球に近づくとかネアンデルタール人が同じ火星を見ていたのでしょうね、とか言われていますが、本当なのでしょうか。何でも疑ってみることから、(自分の属している宗教もです)進歩と新発見がみられると思いますので、ここらでその検証をしてみましょう。 私は進化論者でした。でも今は違います。「150億年ほど前にビッグ・バンがあって、宇宙がはじまった」「地球は45億年前に誕生した」「2百数十万年前になって、わたしたち人類の祖先がついに誕生した」 確かでしょうか?測定方法は確かなものなのですか?さて、その測定方法の一つ:炭素14(C-14)法・・・ウォレット・レビーが考案。彼はこのために1960年ノーベル賞を受賞してます。これは、4000年前まではかなり正確だと考古学的に確認済み。それ以上前のものになると考古学的資料がほとんどないため信頼性をチェックできません。 この方法で人類の化石を調べ、人類の年齢を推定しますと数百万年という値が出たのではありません。彼の論文(アメリカンジャーナル)を読みますと人類の遺骸に関して到達できた年代は、いくら長く見ても2万年から4万年である、と結論しています。(マハナイム9号4ページ) E・ハロンクウィスト博士もこの炭素14法で調べて「ホモ・サピエンスの最も古い化石の一つと考えられている頭骸骨(進化論者が20~30万年と考えている)は、8500年を示した。アウストラロピテクスは、100万年前から200万年前のものとされていますが同じ位置からのエチオピアのオモ川渓谷の動物の骨の年代は、1万5500年を示したのにすぎません。 ジャンジャントロプスが発見されたと同じところのアフリカのケニアのオルドバイ渓谷の哺乳動物の骨は200万年前と報告されていますが、わずか1万100年と示したにすぎません」(マハナイム9号3ページ) 図書館で調べてみてください。「Radiocarbon誌」で次のように読み取ることができます。ネアンデルタール人、クロマニオン人、ブロークンヒル人、マンモス、マストドン、犬歯がサーベル状に発達したトラ、さらに化石の木、森、石炭、石油、天然ガスの年代も調べられて、すべてわずか数千年の古さにすぎないことがわかりました、と。 進化論者がとてつもなく長い年月だとしている化石も、炭素14法によればどれもこれも2万年以下なのです。桁のまちがいでしょうか?いいえ!この炭素14法によると人類の年齢は長くても2万年程度なのです。進化論者の何百万年、という数字はどこからもってきたものなのでしょうか? 明日は、カリウムアルゴン法での年代を考えましょう。お楽しみに。どうでもいいことじゃないですか?と言われる人もまた覗いて見てください。私やあなたの発生がおかしな基準で教えられていると人生の旅の仕方にも影響すると私は心底思っているのでおせっかいかもしれませんが、これを書かないわけには行かないのです。 もうひとつ:私たち人間は進化しておりません。むしろ退化?しています。
2003年08月25日
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進化論が政治に利用されたのが最初の出現とは・・・。 驚き桃の木山椒の木、ではありませんか。人間がどうしてこの世界に現れたのかという生物、動物の起源は二つの方法論しかないのです。すなわち、創造論と進化論です。どちらかが正しくてどちらかが間違っているのです。宇宙人が地球にやってきて命を落としていった、人を置いていったなぞ信じている人がいるならそれはもうここで論じる時間的余裕とか、そんな暇など私にはありません。そのことにしても、その宇宙人はどうして出現したかという論になると、やはりアメーバからでしょうか?それとも神様によって造られたのでしょうか、のどちらかになるのです。 神さまというのは、日本人が普通考えている汎神論的神ではなく宇宙の創造主、であり自然のなかに存在しすべてに満ちているとする神概念ではありません。 私たちが今、この世に存在しているのは宇宙をそして地球を、そしてすべての生き物を人間も大いなる意志の下で目的をもって造られたとするのか、それともただ偶然に宇宙も地球も200億年くらい前に出現し、雷がなって生命が発生しただけで、それが億年というスパンで進化したとするかどちらかなのです。 同志社大学を創立した新島譲先生は、聖書の冒頭の句を見つけたときその神を信じたというエピソードがあるのですが、その句こそ「初めに、神は天と地を創造した。」という句です。 さて、進化論です。徳川幕府が崩壊し明治政府になっても、キリシタン弾圧は続いていました。1868年4月25日、明治天皇の前で会議を開き迫害を決定しました。200数十年の徹底した迫害にもかかわらず、浦上全村で隠れキリシタンが3千人も見つかったことは、明治政府にとって驚きであり恐れでした。そこで政府は浦上一村を流刑にして迫害したのですが、それが外交問題となりました。諸外国の圧力により、「キリシタン邪宗門禁令のこと」は1873年(明治6年)2月24日に撤去。この間わずか6年なのです。政府は、その心おだやかならずです。そこでどうしたでしょうか?反キリスト・反聖書教育を積極的に行ったのです。 その際たるものが進化論なのです。1877年ですから、4年後にアメリカ人エドワード・S・モリスが招かれて、東京大学の自然科学の教授となり、日本で最初のダーウィンの進化論の講義を行ったのです。権力者におもねる学者、知識人はどこの国でもいつの世でも多数を占めるものです。それを覆すが革命です。ルターの宗教改革がその最たるものでしょう。その他の革命はこれを根として発生したようなものですから。モリスは、進化論は宇宙論(キリスト教)と対立するものであることを強調して講義を始めました。これを日本人は大歓迎したのです。モールスのあとは、ホイットマン教授がドイツ人としてその緻密な比較発生学を学んだ動物学者の知識を伝え、進化論は科学的事実という説を唱えたのです。 そのようにして、明治政府は「禁令の高札撤去による日本のキリスト教化」を進化論という教育をして阻止していくことに成功したのです。 それが今にいたるまで、文部省は教科書に載せ、NHKでも頻繁に進化論特集として放映して、日本人の意識をキリスト教的創造論からそらせているのです。もちろん政府も自分のやっていることがどんなことかはっきりと分かっているわけではないでしょう。人として生れてきた目的意識を抹殺するがごとく神なし政策の片棒を担いでいるマスコミニケーションの力は、日本人に自由の思想をもつことを邪魔させる陰謀じゃないかとさえ思わせるほどです。政府はそれを時々するのですから、恐ろしいですね。今の北朝鮮を見ればよく分かるでしょう。 進化論の日本に入ってきた経緯が、政府の横槍ではなく正に正攻法として取り入れられて現在100年以上も経っているとは、日本の国は神の国、瑞穂の国としての生い立ちを否定しているのにほかなりません。神道にも背くものではないかと日本人として、アメノミナカヌシ(天之御中主神=宇宙創造の神として古事記にある)をいただく国民として憂いを深くするのは私だけではないでしょう。それともどこかの宗教が手をまわして、自分たちの教えがすたらないように政府の奥深くに侵入しているのでしょうか? 教育にたずさわってきたものとして、進化論がもたらす神なし教育が道徳的にいかに悪い影響を与え始めているか、この120年余りの世の中の動きが世紀末的様相を呈しているのが何よりの証拠じゃないでしょうか。 日本の良識ある丈夫が立ち上がるときが来ています。
2003年08月23日
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誰かが質問!と手を上げているようですね。「でも化石ができるには、何万年、何億年もかかるのじゃないですか?」 そうではありません。そんなにかかりません。化石というものは急激に葬られ、高圧力の下に置かれた時にできるのですが、生物の遺骸は意外に比較的短期間で化石化するのです。「石」化するのは化学変化の一つにすぎないのです。同じ物質でも高圧力をかけると、全く違う物質になります。 人口ダイヤモンドなどいい例です。これも炭を高圧力で閉じ込めて造ったものです。炭から人口ダイヤモンドを造るのに数万年もかかりません。最近はピーナッツ・バターから人口ダイヤモンドをつくったりビーカーのなかでオパールを造ることにも成功しています。 今日、世界各地で化石が出土していますがその大部分は約4500年前のノアの洪水の時に形成された、と反進化論者は考えています。 大洪水は世界各地の伝説のなかで語り伝えられています。地質学、そして生物学が実証しておりそのことを疑う科学者はもはや科学者ではありません。推論では科学は成立しないからです。進化論などその粋たるものです。猿から人類が発生したなど、全くおとぎ話以上にこっけいそのものです。動物は種類にしたがって存在していますし、それはまぎれもない事実です。その中間はおりません。実証されていないのですから。 余談かもしれませんが、私は小学生や中学生に人は猿から生れてきたのかな?と問うとみんな「そうや」と答えます。そこで「そんなら君たちのお父さんのまたそのお父さん、おじいちゃんのそのおじいちゃんのそのまたおじいちゃんは猿やな」と聞くと「そんなことない」「人間や」と言います。(このことは、またの機会にすることにしまして) 大洪水は当時の生物を急激に葬り去り、厚い堆積層の中に閉じ込めました。その際、その堆積層内の非常な高圧力のもとで生物の遺骸は比較的短期間で化石化したのです。 要するに、何十万年も前に猿みたいな人類がナウマン象と戦っていたなど、私にはとうてい信じられないのです。何億年も前にそんな動物がいたなどうそもいいとこでしょう!「新・科学の説明が聖書に近づいた」レムナント出版 久保有政著から参考にさせてもらいました。
2003年08月22日
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どうしても納得いかないので、それを見てから1週間以上もたっているのに、ペンを走らせるハメに。 野尻湖のナウマン象博物館に500円払って雨の日に入って思ったことは、その説明に首かしげてしまったからだ。 何万年(何十万年)も前にいたということをさも事実のように科学的(?)に化石や地層を復元して展示してあった。どこの博物館も同じように展示しているが。さて、ここで「化石」というものを考えてみよう。 動物や植物が自然に地層が長い年月をかけてゆっくり堆積していったような場合は、化石は形成されない。そうでしょう?私やあなたが自然に地中に埋められてゆっくり土砂が堆積していったなら、どうなる?生物は化石になる前に腐敗し、分解され、骨格をとどめることはできません。“風化”するのです。魚が死んで静かに海底に沈んで化石になることは絶対にない。腐るじゃありませんか。 だから化石が存在することは、なんらかの激変的過程が起こり、厚い堆積層の中にすごい速さで葬られ、空気とバクテリヤから遮断されたのだという事実を物語っています。 だから化石は何を私たちに語っているのでしょうか。案外新しいということなのです。何万年も前に私たち(動物や草木)は生きていたのではないのよ、と叫んでいるのじゃありませんか。 ナウマン象も日本カモシカのはく製も常識を破る大きさに驚きました。日本カモシカなどは、馬よりデカかった!まさに巨獣でした。彼らの骨から復元されたのですが、なぜ骨が何万年もそこにあったのでしょう?腐らずになぜ。その説明は一言もされていないのです。 明日またその解き明かしをここでしますのでぜひご来訪を!
2003年08月21日
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2ヶ月前には雑草より背が低かったヤーコンは種植えをして4ヶ月する今日、雑草よりたくましく背が高く葉っぱも茂り育っていた。 600坪の1000本のヤーコンは、青々として羽を広げた鳥のよ群れのように立っていた。 生れて初めて自分が地中に植えた種が50センチから70センチの高さになっている。あと3ヶ月もすると刈り入れのときだ。 初めはこんな状態、一つだけ大きい
2003年08月19日
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F先生グループ、もうあと1週間になりました。今はキャンプに行っていて火曜日の4:30頃に帰ってきます。また英語クラスと午後の遠足に戻り、日曜日の午後はお別れ会をします。皆元気でやっています。 3週間の予定でニュージーランドへ行っている小中高生グループの上記のような便りが届いた。わが塾生からは1人も参加しなかったのは非常に残念!来年は行きなさい!と声をかけているが来年、中学3年生になる娘の母親は、「だめ!」「受験生の夏休みに何を言っているの!」だとか。(言っておくがこの場合の経済的理由はない) 塾をやって30年、夏休みの2~3週間の海外での滞在が成績のマイナスに響くなど想像だにできない。まったくのナンセンス意見そのものでありむしろ英語の実力など、また中学生にっとは英語だけでなく全科目への潜在意識へのプラス影響力は計りしれないものがある。 目先の成績だけを考える親の無知をどうすれば教育できるのか、もうお手上げ状態である。 親のための塾を開かなければならないがそんな塾に来る親は少ない、いやむしろいない現状だ。その内容を含んでいる塾らしきものを、現に日曜日の朝にやっているが、一人来ておられるだけ。その母親のお子さんたちは、抜群の成績をそれぞれの学校で修めておられるが、これは私の前で実際起こっている現実ですぞ。
2003年08月18日
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みなさん、これは仏教からのものだとお考えのようですがそうではありません。キリスト教なのです。 8月16日の夜にお盆の送り火として行われます。山の斜面に大きな火の文字が浮かびます。風流であり、また先祖の霊を思い浮かべる何かがそこにありそうな感がしています。 京都のみならず日本国中の人が親しんでいる行事です。でもこれは京都よりもっと古い文字焼きの風習が群馬県にあるのです。 1300年ほど前に羊太夫というクリスチャンがいました。秦氏です。700年A.D.ごろです。 彼の墓から「INRI」(ユダヤ人の王ナザレのイエス」の略と記された銅版が発見されています。 その辺りのリーダーでして、彼がなくなったとき人々は彼を惜しんで弔いの行事を始めたのです。 山の斜面に大きな火の文字をうかび上がらせたのです。 火は、ユダヤ教でも原始キリスト教でも祈りの時に使いました。ローマ・カトリックでも、東方キリスト教でもロウソクを立てます。 火は、祈りを表したものです。その風習を9世紀に弘法大師が見て、京都で始めたのです。 景教(キリスト教であり、光の宗教と言う意味)研究家エリザベス・ゴードン女史も「京都の大文字焼きは、空海が景教の風習を取り入れて始めた」と言っています。 あの大文字の「大」は人の姿を表したものです。大の字になっている人の姿。 仏教の風習と思っている人がほとんどですが、その本当のルーツは、キリスト教なのです。 大の字になって祈るのは、旧約聖書のなかでモーセ(神さまから十戒を授かった人)は、芝が燃えているのを見てそこにひれ伏して祈りました。その当時の祈りの姿は大の字になってひれ伏すのです。山で燃えている芝の前で大の字になっている祈りの姿とあいまって、日本人の祈りがそこに込められているなら第2次世界大戦の戦争終戦日の翌日に京都で神に祈るその行事も大きな意義をそこに見出すことができるのではないでしょうか。私は感慨深くそれを見るだけでなく1人静かにひれ伏して祈りたい思いになるのです。そんな日本人が1人でも多く起こされますように。 ユダヤ教徒は、死者を大切にしました。東方キリスト教徒も景教徒も死者を丁重に弔いました。 古代の日本にいたキリスト教徒たち(秦氏など)は死者や先祖を非常に大切に弔ったものです。 この内容は、レムナント誌から参考にさせてもらいました
2003年08月17日
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この道はひやっとした空気が漂って、真夏の暑さなどみじんも見受けられなかった。神さまはどこにおられるのかと、人々は奥社に行く人が絶えない。その横に植物園があり、森林浴の中にたたずむひとときは、今回の旅のハイライトであった。 杉の大木は、まっすぐに上に向かって伸びていて気持ちがいい。 まっすぐに上に向かって伸びている杉のように、また まっすに続くこの道のように、日本が伸びてまた歩んでほしいと隠れた神さまは願っているようだ。 その戸隠の神は、戸の外に立ってあなたや私の心の戸をノックして「入って一緒に食を共にしようじゃないか」と言っておられる・・・・・。 私は決して隠れておられるとは思っていない。
2003年08月15日
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火曜日からの旅は、金曜日の夜8時に終わった。まるで秋空、半ズボンの服装では寒い。木曜日の朝は、早朝からブラックバスを釣るボートが野尻湖の水面を雨をものともせず、ごぎ出していた。 それから今朝の黒姫高原は、寒かった。かろうじて雨は降ってこなかったが、曇のしたの高原はひんやりしており、昨夜などはストーブに薪をくべていたパチパチと言う音がなんともいえない風情をかもし出していた。 真夏の旅は、まるで私が何回か体験したことのあるニュージーランドの冬のようだった。 静かでひんやりしていて、草原と木々の間に吹く風はどことなく、ニュージーランドであった。
2003年08月14日
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旅は行く前が楽しい。車で行くのも電車(大学生のときは、汽車で行くと言うことばの響きがよかった)で行くのもその日の朝は、うきうきする。日頃見られない何ものかが行く手に見えるようでその期待感は好奇心をくすぐる。 海外はなんだか特別の雰囲気が心を覆う。その心は、高ぶり静かに興奮している。旅に出かける直前は、甲子園での戦いを前にして入場行進している高校生のようだ。 ちなみに私は高校3年間甲子園にフル出場した。入場行進だ。私の後ろにあの世界的選手“王”がいた。私は野球ではない。ブラスバンドで先頭を歩いた。一年からレギュラー選手だったのだ、それも旅に出かけるような心の高ぶりを胸に抱いてアルプススタンドの横で楽器をもっていた。 金沢から長野の野尻湖、黒姫を巡る旅が今日始まる。もうすぐ車に乗ってハンドルを握る。高速道路に入る入り口が、その心をくすぐる。 旅はそのものが心、思い、気、そして精神をリフレッシュする。高原で立ち止まり、遠い山に目をそそぎ、真っ青な海が近寄ってきて語り掛ける。明日は必ず来る、波を見よ。波は必ず打ち寄せる。明日の波は、白くて青い。水平線のかなたに着くときをはるかにめざして心は跳ねる。跳ぶ、そして飛ぶ。 旅は日ごろの生活を忘れさせるのではなく、明日のエネルギーとなり日常の自分をはっきりと見させてくれる。自分が何もので明日の自分はどうなるかをはっきり見させてくれるので旅は旅で終わらない。 その旅がたった1日の旅であっても。
2003年08月12日
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塾が今日から1週間休みだ。生徒には思いっきり宿題を出して、先生は羽を広げる。こんな青写真がうまく写るわけがない、がそんな中でも、これを頑張る生徒がいないことはない。彼S君は頑張る生徒だ。来年中学受験をめざしている。先生として彼の成績を心配などまったくしてない。どちらにしても亀のようにこつこつ歩くなら、その努力が功を奏して頂上にやがて着く、それもウサギの怠けを横目にみながら。 彼はダイヤモンドの原石だ。磨けば光る。 だが、塾をしていて気がついていることはウサギなのにこつこつ走る子が多いということだ。亀は走れないのに甲羅を裏返しにして寝ているのが多い。世の中の人の世界のDNAはどうなっているのだろう。 昨日は、朝から夜遅くまで集会の連続、すべて主役(?)を任されていたので、11時に帰宅したときは、疲労こんぱい、神経の糸が切れかかり衰弱しきっていた。全身の力が抜けるとはこのことだった。 でも私は幸せだ。1日なにがあったかを家内と話しているうちに気が安らいでくる。その後1人で静かなときを過ごしているうちに内から力が湧いてくる。そして枕する。 今朝6時いつものように目覚めて、今日は休みと思った途端全身に喜びがほとばしりでる。でも今日は午前中、京都から青年がニュージーランドへ行きたいからと言って助言を求めに来る。午後は奈良へ病人を見舞いに行く。私の飯の食いだねは休みだが、心の食いだねは夜までまた続くがこれは、人はパンだけでは生きれないと言う実践だから素晴らしい旅の糧なのだ。 でも明日からの4日間、私は信州野尻湖と黒姫へドライブしてさわやかな空気を吸いに行く。これこそバッテりーチャージだ!
2003年08月11日
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ダイエットをしてお腹の周りについた贅肉を家内と一緒に落とそうとして歩き始めた。もう1週間くらいになる。プロティーンを飲んで夕食を抜く。 近くに公園を昨夜9時過ぎ家内と歩いていると家内が急に私のそばに寄ってきた。薄暗い公園である。家内のすぐ後ろに音もなく黒い影があった。その影は歩くともなく走るともなく横にきて通り過ぎた。 なかなか離れていかない、スピードが遅い。まったく音もなく全身黒ずくめ、この暑いのに長袖のジャンパーと長ズボンのいでたちだ。若い長身のやせた男だった。 10メートルくらい前に離れたときに、私はほっとした。なぜそんな感じがしたのか、今もって不思議である。
2003年08月10日
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