M17星雲の光と影

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2006.01.13
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カテゴリ: SELECTION
村上春樹「レキシントンの幽霊」を読んでいる。いま、表題作の「レキシントンの幽霊」「緑色の獣」「沈黙」を読み終わったところだ。

「レキシントン」は淡々とした出だし。最後にケイシーと出会ってからの彼の独白のところで眼がページに吸いついて離れなくなる。こういう瞬間が彼の作品ではまず間違いなくやってくる。これはきっと彼自身が、「こうやって、こう書いていれば、きっとあの瞬間がやってくる、あの瞬間が」という確信を持ちながら、筆を運んでいるせいだろう。そして、その確信に導かれて、確かに「あの瞬間」はやってくる。

「緑色の獣」。ぎりぎりに切りつめられた作品であるが、その分だけ、余韻が尾を引く。「緑色の獣」とはなんだったのか。夫を見送った後、妻は子供の頃に自分で植えた椎の木の根もとから這い出てきた緑色の鱗におおわれた長い鼻をもつ獣に出会う。彼は家のなかに入って来、不思議な言葉遣いで彼女に求婚しにきたことを告げる。その獣は人の心を読むことができた。しかし、彼には何の悪意も敵意もない。彼女はいったんは恐怖に脅えたけれど、気を取り直し、彼に対するありとあらゆる残酷な想像を頭に思い浮かべる。それをあたかも現実そのもののようにありありと読みとることのできる獣は深いダメージを受け、最後には眼だけになって空中に浮かび、やがてその眼も消滅していく。

この獣は何か。それが彼女自身の何かであることは間違いない。いっさい手も触れることなく、ただ思念するだけでそれを殺戮することができるのだから。いったい彼女は何を殺したのか。無意識か、感情そのものか、自然か、あるいは彼女そのものか。深い謎が余韻として残る作品である。

しかし、やはり「沈黙」。この作品は今読み終えたばかりだが、春樹くんにしてはかなりストレートな書きっぷりの作品である。この作品が高校生向けの朗読用の小冊子として古本屋に並んでいたのを見たことがあるが、そういう教育的素材として用いられてもけっしておかしくはない。そういう意味では、これは逆の意味で村上作品としては「異色」のものといってもいいかもしれない。

この作品を読みながら、思い出したことがある。感想に代えて、その思い出話を書く。

高校三年生の頃、鬱屈した毎日を過ごしていた。朝から一言も口をきかず、高校からの帰り道に唇を開こうとすると、「ばりっ」という乾いた音がして、「ああ、今日も一言も話さなかったんだな」と思った、そういう日々がずっと続いていた。

昼休みのことだったろうか、私は何をするでもなく、一人で本を読んでいた。安部公房の「R62号の発明」あたりだったろうか。同じクラスにSという剣道部の主将をしていた男がいた。彼は医者の息子で、やや太めながら筋肉質で、剣道は三段。声も大きく、態度も堂々としていて、クラスのリーダー的存在だった。彼にはいつも二三人の取り巻きの同級生がついていた。私はSのことがそれほど嫌いではなかった。好意的というのではないけれど、彼は率直で正直だったし、けっして優等生でもない。どこか憎めない性格の持ち主だったからだ。

その彼が明らかに私の方を向いて、やや大きな声でこういった。「よかったよなー、俺達はよー、ふつーで。ふつーでよかったよ。ほんとに。」あからさまに私の顔を見ながらそういったのである。まるで戦争で腕を吹き飛ばされた主人公の映画を見て、そっと自分の腕をもう片方の腕でつかみ「あー、よかった」と言っているような口調で。



私はちらっと彼の顔を見た。そこには不安の影などみじんもなかった。安心しきった表情だった。口先のことばだけではなく、心底自分が「ふつー」であることに感謝している顔つきだった。

その時、私の心になんだか久しぶりにある感情が湧き起こってきた。自分でも照れくさいくらいあからさまな感情だった。誤解のしようのないくらい明解な感情、それは実にストレートな「怒り」だった。

自分でもやや意外だったが、私は彼の「ふつー」ということばの使い方に激しく憤っていた。このことば自体は別に嫌なことばではない。敵意や悪意を含むものでもない。しかし、このことばが最悪の用いられ方をした場合、それは卑屈と傲岸を同時に表現することができるのだということを、私はその時知った。

自分はふつうである。並はずれた者ではない。これは考えてみると、謙遜のことばである。へりくだった言い回しである。自分は傑出した存在ではない、と自ら口にしているのだから。それはいい。しかし、同時にこの言葉は、「自分は絶対的な多数派だ」ということをも意味している。俺達は絶対に少数派ではない、「ふつー」という名の多数派なのだ。だから、お前ら少数派の側に回ることなど絶対にないのだ、よかった、「多数派で」。そういう意味では、この謙辞は同時に少数派への痛罵でもあるのだ。「おまえとちがって、俺らはなー、ふつうという名の多数派なんだよ。おまえなんかかないっこないんだよ。ふつうじゃない、おまえなんかにはな」。

私の耳には、彼のことばはそう聞こえた。被害妄想だったのかもしれない。しかし、その時に感じた深い嫌悪感はいまでもありありと思い出すことができる。

その頃、体育の授業で私は剣道を選択していた。柔道か剣道か、どちらかを選ぶ必要があったのだ。私は剣道にどこか引かれるところがあった。武具を身につけて、竹刀を構えると、なんとなく気持ちがすっきりするように思えた。

その剣道の時間に、一対一で試合のようなものをやらされた。どちらかが一本とったら勝ち。体育教師は国士舘大で日本選手権に出たこともあるという剣道部の顧問だった。たぶん五段だったと思う。私は、なぜかSと試合をやれといわれた。相手は三段である。かなうわけがない。私はまっすぐに竹刀を構え、すぐにこの試合は終わると思った。Sの剣さばきは見事なものだったし、特に小手を打たせたら、彼にかなうものはないという評判だった。

しかし、こちらの予想に反して試合はなかなか終わらなかった。彼はこちらの剣先をかいくぐってやすやすと私の目の前まで竹刀を運ぶのだが、なぜか決定打を打たないのである。微妙に的をはずして試合を長引かせているのだ。彼は遊んでいたのである。ちょうど逃げ場を失った鼠を猫が余裕たっぷりの様子で弄ぶように。面ごしの彼の口元ににやりとした笑みが浮かんだように見えた。その時、私の頭のなかに「おれたちはふつうーでよかったよ、ふつうでよ」という声が響いた。

彼に嘲られているという気持ちが心の中に湧き起こった。あのことばを聞いた時の怒りもありありと甦ってきた。

私は考えた。でも、どう見ても勝ち目はない。相手は有段者なのだ。しかし、このままもてあそばれていることにはどうしても耐えられない。何か手段はないか。

その頃、私は毎晩バットの素振りを何百回もやっていた。別に野球をやっていたわけではない。ただテレビで野球を見ていて、阪神の藤田平の美しいスイングにひかれ、左で打てるようにしようとなぜか思い立ち、バットを買ってきて、ひたすら素振りをやったのである。何ヶ月かすると、バッドのヘッドがぶうんと回る音がするようになった。実戦経験ゼロながら、スイングだけ見ると、野球部の人間にあまり遜色がないくらいにバットを振れるようになっていた。



私が狙ったのは彼の背中である。ほとんど右手一本で私はまるで野球のスイングのように竹刀を横殴りにぶんまわした。彼はやすやすと自分の胴を竹刀で守った。しかし、大きく伸ばした右手の先に握られた竹刀は彼の予測よりももっと彼に接近していた。竹刀の根もとを彼に払われながら、私は右前に一歩踏み込み、竹刀の先端で防具をつけていない彼の背中を狙った。「ばしっ」と獲物をとらえた感触があった。もちろんそれは無効な攻撃だ。しかし、そんなことはどうでもいい。私は彼にダメージを与えることができればそれでいいのだ。

さすがに超初心者に痛い思いをさせられて、彼も平常心を失った。微妙に攻撃が的をはずれるようになった。私はこれ幸いと同じ攻撃を右から左から試み、彼の背中をしたたかに打ちのめした。最後はさすがに見事な小手をとられて、試合は終わったけれども。

体育の時間が終わり、教室で着替えをしていると、Sの背中がみみずばれに腫れ上がっているのが見えた。人づてに聞いたところでは、「○○は怒らせないほうがいい、あれは怒るとこわい」といっていたそうだ。その後、彼から不愉快な思いをさせられたことは一度もない。

「沈黙」という作品を読みながら、なぜかこの経験を思い出していた。あの時から、私は「ふつー」ということばが嫌いになった。「ふつー」という多数派の安全地帯から、少数派をあざわらう人間が大嫌いになった。

だから、「日本もちゃんと軍隊をもって、他国と同様に国際貢献の義務を果たし、「ふつー」の国の仲間入りをしようではないか」などという言説を聞くと、いまだに肌が粟立つ思いがするのである。







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Last updated  2006.01.14 08:11:44
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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