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2006.12.26
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内田樹「私家版・ユダヤ文化論」(文春新書)を読む。

そろそろ年末も押し迫ってきて、年内に読むことのできる本も数少なくなってきた。なにしろ11月上旬からほぼ一ヶ月にわたって、「グレート・ギャツビー」以外の本は一冊も読んでいないので(春樹訳3回、原書1回)、それが終わると、もういくらも時間が残っていなかったのである。べつに今年中に何を読むかということにこだわることもないのだけれど、今年はなぜか少しこだわってみたくなった。読んだ本について文章を書くようになったからか、時間意識そのものに変化が生じたのか、その理由はよくわからない。

ギャツビー読了後、さて何を読むべきかと考えた。これまで読もう読もうと思いながら、いまだに読んでいない本、しかも、読む前からすでに充実した読後感が約束されているような本(奇妙な表現ではあるが)を選ぼうと思って、とりあえず(というのもまた奇妙な表現だが)網野善彦『日本の歴史をよみなおす』を手にとった。読後の感想は、「すばらしい」の一語に尽きる。世界史履修漏れの高校生諸君には(以前の履修漏れの元高校生も含めて)この本を一冊読むことを条件に「チャラ」にしてあげてもいいのではないかと思うくらいである。日本とか世界とかいうせせこましい問題を超えて、ここにはとても本質的なことが語られている。感想文なんか書く必要はない。ただ読後に残った様々な思いを抱えて生きていく。それだけで十分である。この本を読んで、しばし考えこむ。そういう時間を彼らが持つことは、大人たちの不毛な教育論議に耳を傾けるよりもはるかに有益である。しみじみとそう思う。

しかし、さすがの名著とはいえ、なにぶん高校生が読んでもわかるように書かれた本である。3~4日で読み終えてしまった。年内にはまだ一週間ほど時間が残っている。どうしよう。読もう読もうと思いながら、いまだに読めずにいる本か。ふと本棚を見上げると、最上段に燦然と「文語訳 聖書」が鎮座ましましている。うーん、クリスマスも近いし、まことにつきづきしい選択ではあるが、さすがにちょっとばかりヘビーすぎる。年を重ねるごとに罪は重くなるばかりだし、ええっと、また今度にしよっと。ごめんなさいね、えほばさん、というような罪深いことをつぶやきながら、もう少し読みやすそうな本を探すことにする。

おお、そうか、これこれ、これはぜひとも年内に読んでおかなければ。そう思って、抜き出したのが、内田樹「私家版・ユダヤ文化論」だったのである。(長い前振り、終了)

さきほど本書を読了した。四日ほどかかったろうか。ほんとうはもう少しちびちびと味わいながら読みたかったのだが、後半、とくに終章のあたりでドライブがかかってとまらなくなってしまった。少しその感想でも書いてみようかと思う。(なぜかえらそうである)

この本を読み始めた時、正直にいうとすこし違和感があった。いつもの文章と微妙に手ざわりがちがう。頁から活字が「立ち上がって」みえる、内田氏特有のことばの居住まいの正しさに変わりはないのだが、あちこちで文章の流れがとどこおっているように感じられる。屈曲というか、佶屈というか、いつものしなやかな流線形が見えてこず、なかなか文章のなかに入っていけないのである。「文学界」に連載されたものだから、回次によって微妙にスタイルがちがっているのだろうか。そうも考えてみたのだが、それにしてもいつもの書きぶりとは異なった感触がある。これはなんだろうと思いながら、読み進めていった。

もちろんテーマのむずかしさということもあるだろう。なにしろ「ユダヤ文化論」である。一筋縄でいくわけがない。このごつごつとした文章の感じは、あるいはテーマの困難さのもたらすものかもしれない。そんな凡庸な感想を抱いていたのだが、ふとそうではないと気づいた。「困難なテーマ」について論じられているから文章がよどんでいるのではなく、むしろ「テーマの困難さ」を明示するために、そのような文体が意識的に選択されているのである。何十頁が読み進めるうちに、そう思うようになった。

内田氏ほどの強力な咀嚼力と強靱な消化・吸収力の持ち主が、困難なテーマを扱いかねて文章がよどむなどということがあるはずはない。その困難さを軽々と跳び越える知的跳躍力の所有者が、あえてこのような書きぶりをしているということは、これはもう意識的な行為としか思えない。



要するに、読む人間の頭のなかを「片づかせない」ために、それにふさわしいスタイルが本書の前半ではとられているのである。流れがみえず、片づかず、すっきりしない。読み手はそういうもやもやとした空気の中に置かれることになる。

しかし、終章に至って、いつもの内田節が戻ってくる。しかし、それで話はすっきりと片づくかというと、けっしてそんなことはない。読み手の頭のなかにはさらに混迷が広がっていく。これはそういう本なのである。

もしも誰かに「この本の内容がわかったか?」と聞かれたら、私は「よくわからない」と答えるだろう。そして「おもしろかったか?」と聞かれたら、即座に「おもしろかった!」と答えるだろう。これはそういう読後感をもたらす本でもある。

え、いってることがよくわからない?そうですか、やっぱりね。だって、わからないまま書いてるんだもん。しかたないじゃないですか。

この本を指して「名著である」とか「感銘を受けた」とか「良書である」と評している文章をあちこちで目にした。

私とはかなり異なる感性をもった人の感想だと思う。正直いって私はこの本を名著とも良書とも思わない。「感銘を受けた」とはいえるかもしれないが、むしろ「混迷のなかにたたきこまれた」というほうが実状に近い。でも、この本が内田樹氏の主著であるということは断言できる。これが率直な感想である。

「名著じゃないけど、主著である」ってどういう意味なの?と思われる方もおられるだろう。この本をひとつの構成物として俯瞰すると、かなりバランスの悪いところがある。前半部のエピソードの配置や相互の分量的比率にはなんだか落ち着きの悪さを感じる。終章はがらりと文体が変わり、おそらくは当初の予想に反して、分量がどんどん膨らんでいき、かなり長大なものになっている。全体としてみると、ややいびつな印象を受けるのである。これはいわゆる「名著」や「良書」の呼称にはふさわしくない。第一、内田氏にはすでに数多くの「名著」がある。それらをさしおいて、この本を名著、良書と評定する気は少なくとも私にはない。

「感銘を受けた」?たしかに感銘は受けた。とくに終章の展開は圧倒的である。だが、終章の呼び起こす風の強さ、風圧の大きさをはたして「感銘」というような「きれいな」ことばで表現していいものかどうか。私は迷う。

正直に言おう。終章を書き進めながら著者の脳からは大量のドーパミンが分泌されている。私にはそのことだけはよくわかる。ユダヤ文化の本質を探究し、ようやく終点が見えてこようとするところで、突然視界が開け、まるで予想もしなかった密林が目の前に広がる。そこまでは私の目にもとらえられる。だが、大きな足でずかずかと森の中へ分け入っていく著者の向こうに広がる風景、私にはそれがまだよく見えない。だから「よくわからない」。でも凶暴とも思えるようなその脚力の強靱さ、思想的膂力は十分に伝わる。それだけは「よくわかる」のである。

そして、読み進む私の脳内にも微量のドーパミンが放出されているのを感じる。要するに「わからないのにおもしろい」のである。いや、「わからないからおもしろい」のかな、ひょっとすると、「わからないところがおもしろい」のかもしれない。よくわからなくなってきた。

もちろん理解することの困難なテーマを鋭利な包丁でみごとに切りさばいて料理することにもある種のおもしろみや爽快感はあるだろう。しかし、料理のしようがないほどに処理の困難な素材を眼前にしたときの圧倒的な質感、そしてそれに無謀にも挑みかかっていく著者の蛮勇、その時に全身に走るうちふるえるような快感。それにくらべれば、「わかる」ということの快感などどれほどのものでもないのである。



かなりの字数を費やしても、本書の具体的な内容にまったく触れることもできない哀れな書き手としては、それが不思議でならないのである。

なんだよ、今回の感想文は中味なしかよー、といわれそうなので、最後にあわてて印象的な部分を少しだけ引用しておく。

「道徳性についての根源的直観とは、おそらく私は他者の等格者ではないと気づくことである。私は他者に対して責務を負っていると感じることである。それゆえに、私は私自身に対しては、他の人々に対するよりもはるかに多くを要求することになる」(同書、p187。レヴィナスの引用部)

「聖性とは総じて他なるものには最優先権を譲らなければならないという確信のうちに存在するものです。それは開かれた扉の前で、『お先にどうぞ』と言うことから始まって、他者のために、その身代わりとなって死ぬこと(それはきわめて困難なことですが、聖性はそれを要求しています)までをも含みます」(同書、p187~188。レヴィナスの引用部)

え、これじゃさっぱりわからないって。だからいってるじゃないですか、さっきから、私もよくわからなかったって。もしもご不満ならご自分で手にとって読まれることをお薦めします。でも、きっとよくわからないと思いますよ。そして、その「わからなさ」にしっかりとついていくと、ある地点からあなたの脳からは快楽物質が分泌されてくる。それだけはうけあいます。



読了後、放心状態の私は書籍のカバーをはずして、本書の裏表紙をぼんやりと眺める。

「○○○○様」と私の名前が手書きで書かれている。その横には「恵存」と書き添えられている。「けいぞーん」(ないしは「けいそーん」)とはフランス語のような響きである。無学な私の語彙にはなかったことばだが「自分の著書などを人に贈るときにあて名の脇に添える語」のことである。「手許にお置きください」という意がこめられている。

その下には「2006.10.10」という日付。その上には英字の署名とキュートな猫マンガ、その横に「よんでね!」とひらがなで書いてある。

わーん、せんせーい、ありがとうございまーす。せんせいのブログへのアクセス7999999を見事げっとして、あこがれの猫マンガをついに手に入れることができましたー。この本もとってもおもしろかったでーす。よくわかんなかったですけどー。これからもよくわかんなくて、おもしろい本をたくさんたくさん書いてくださいねー。おうえんしてまーす。

おっと、おもわず取り乱してしまった。失礼。要するに「真に困難なものと格闘する快楽以上の快楽はこの世には存在しない」というのが本書のテーマなのである。(ぜったいちがうな)

私がなぜこの本だけは年内に読みおおせなければならないと思ったかということだけはご理解いただけたことと思う。

とてもわかりにくい自慢となってしまってすまない。





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Last updated  2006.12.26 22:57:03
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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