M17星雲の光と影

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2006.12.30
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カテゴリ: その他
長田弘『単独者の言葉』(いいタイトルである)の中にこういう書き出しの文章がある。

「思いたって、正月を、独りで京都の小さな宿で過ごした。知恩院の除夜の鐘を聞きながら、にぎわう明るい闇の中の参道を八坂神社のおけらまいりに行き、それからだれもいない深夜の道をとばして、神戸の六甲に登って神戸の港の初日の出を見た。宿に帰って、お雑煮を食べた。京都のお雑煮は、東京のおすましと違って、白みそである。初めて食べる白みそのお雑煮はおいしかった。」

たんたんとした旅の描写である。だが、この文章には「言葉についての反省」というタイトルがついている。これは単なる旅行記ではないのだ。

「私はこの初めてのお雑煮を食べながら、しかし、ふと奇妙なことに気づいた。『お雑煮』ということばは同じでも東京と京都ではこのことばによって表されるものはまるで違っている。それは風習の違いということもあるけれども、同時にことばが意味しているものそのものの違いでもあるのではないか。そのことをわたしはふいに考えたのだった。奇妙、というよりもむしろ不安、というほうが正確かもしれない。それは、わたしが『お雑煮』ということばでイメージするものと、京都の人が『お雑煮』ということばでイメージするものは全く別のものである、ということだ。」

ここに述べられている「奇妙さ」や「不安」の意味するところはよくわかる。「ねえ、お雑煮ってあるよね」と話しかけられて、相手の頭の上にぽっかりと浮かぶ「お雑煮」のイメージ。そこに10人の人がいて、そのイメージを瞬時に画像化することができたとしたら、そこには10通りの異なるお雑煮の像が映し出されるはずである。だが、同時にそこには「お雑煮」というたったひとつのことばしかない。互いにまったく異なるものが「同じ」ものとして流通していることの奇妙さや不安。ここに述べられているのはそういうことだろう。

われわれはひとりひとりの頭の中にあるイメージの微細な違いを徹底的にたたきならして、「共通の言語」を作り、それを使うことに躍起になってはいないだろうか。その陰で「差異の言語」は窒息させられているのではないか。ことばがそういう危機に直面していることを認識すべきである。長田氏はそう言う。だからこそ、この文章のタイトルは「ことばについての反省」なのである。

この「お雑煮」という喩えはなかなかうまい。うどんやそばなら、全員に共通する近似的平均的イメージをなんとか思い浮かべることもできるだろうし、ラーメンならば、即座に「何味?」という質問がとんできそうである。でも「お雑煮」といわれたら、たいていの人は「ああ、お雑煮ね」というところで判断が停止し、その先の具体的な素材や形状や特徴の詮索にはなかなか向かわない。しかし現実にそのことばが喚起するイメージは多種多様であり、とても一語でカバーできるような単純なものではない。それぞれの地域色に、家庭ごとの微妙なバリエーションが加わり、およそひとくくりにはできない複雑さを帯びた料理、それが「お雑煮」なのである。

みなさんは「お雑煮」ということばを聞いて、どういう具体的なイメージを思い浮かべられるだろうか。

先日、なじみの床屋に行った時のこと。いつものように髪型以外のあらゆる話題が飛び交った後(なぜ髪型が話題にならないのか、不思議である)、マスターがこう言った。


「うん、去年は帰れなかったんで、今年は帰ろうと思ってるんですよ。両親も年取ってるけど、幸い元気にしてるんで」
「そりゃあ、いいですね」

少し離れたところで掃除をしていた、立木義浩に少しばかり風貌が似た「ちょいわる」どころか、「かなりわる」おやじの店員が、

「いいねえ、そういやあ、○○さんが福岡に帰る目的はお雑煮だったよね」
「え、そんなこと、オレいったっけ」
「いった、いった、2年前の今ごろ、福岡のお雑煮がどんなものかを説明してくれたじゃない。あれ以来、あのお雑煮のことが忘れられなくて、いまだに頭に焼きついてるよ。でも、福岡に旅行に行ったって、なかなか食えないんだよね。」
「うん、やっぱり家庭料理だし、お正月以外でお雑煮を食べるってのもむずかしいだろうね。あまりお店で出すってものでもないし。」

しかし、ほんとにそんな話したのかな。でもお雑煮は大好物だし、たぶん話したんだろう。でもいったいどんな話をしたんだっけ。

そう思って、頭の中に私の「お雑煮」を思い浮かべる。

まず「だし」。これは「焼きあご」でとる。「あご」ってわかりますかね。トビウオのことです。たしか長崎の平戸あたりでとれるトビウオのことだったと思うのだが、直接食べるには少しクセがあるので、天日で乾燥させてだしの材料にする。その「焼きあご」からは薄い黄金色をした、しかし味は濃厚で奥深いこくのあるだしがとれる。しいたけやこんぶや鰹節とは異なる、やや野性味のある、それでいて深く体の中に浸透してくるような独特の風味が口の中一面に広がる、そういう味である。

もちは丸もちだ。つきたてのもちを女性陣が手に粉をつけてくるくるっと丸める。ちょうど手のひらにのるくらいのやや小振りな小もち。大きなお椀に二つか三つ入れるのが適量である。雑煮のもちは焼かない。「煮る」といえばいいのだろうか、とにかくお湯でやわらかくする。前の晩から大きな鍋に水を張り、その中に昆布を入れ、その上に翌日食べる分のもちをつけておくのである。水で少しふやかして食べやすくするためである。だから、前の晩に「明日もち何個食べる?」と聞かれたら即座に答えなければならない。食べ始めて、えっとあと一つ追加でもらおうかな、と思っても、それではまにあわないのである。過少申告も過剰申告も許されない。子供心に、この質問に答える時にはある種の緊張を感じたことを覚えている。



適度なやわらかさに煮られた真っ白なもちが盛大に白い湯気をたちのぼらせながら、朱塗りのお椀の底にそっと入れられる。その上から薄い褐色の黄金色のだしがこれまたそっと注がれる。そして、そこに具が次々に載せられていく。

青菜に使われるのは「かつおな」である。色はほうれん草に近い。濃い緑色である。大きな葉っぱで、茹でてもまだ「ごわごわ」「しゃきしゃき」とした歯ごたえが残っており、これがもちのぐにゃりとしたやわらかな食感と対照的な音を奏でる。やわらかなもちを「かつおな」でくるりとつつんで食すと、すいすいといくらでも食べられる。かつおなは熱を通しても濃い緑色はまったく褪せない。「まみどり」のかつおなと「まっしろ」なもちという二つの食材が朱塗りのお椀のなかで絶妙なハーモニーを醸しだす。視覚的にも申し分がない。かつおなは雑煮以外ではあまり用いられることのない食材だが、ことお雑煮に関しては、これがなければはじまらない。わが家では自宅のはずれの小さな庭にこれが植えられており、朝もぎたてのかつおなをばりばり、もしゃもしゃと食すことになる。ほうれん草や小松菜よりも「あく」や「えぐみ」が少なく、やや肉厚な青菜をほおばる食感も捨てがたい。

そこに焼き豆腐が入る。これも焼きが入っていないと締まらない。オレはやわなもちさんとはちがうけんね、という黄金色の焼き印による自己主張が望ましい。

そこに塩でしめた寒ぶりの切り身が入る。「え、ぶり?」と驚かれる方もあるだろうが、ぶりのない雑煮など、私は雑煮とは認めない。元旦の朝の祝祭気分の中核となるのはなんといってもこの「ぶり」である。きちっとしまった肉厚のぶりの切り身がお椀の一番上に二切れほど載っている。それを見ると、「あああ」とため息がでる。雑煮における「ぶり」の重要性はどう説明すればわかってもらえるだろう。そうだな、行列の出来るラーメン屋に並んで、長い間待ったあげくにカウンターに座る。「へい、お待ち」と「どん」とどんぶりが置かれ、湯気が立ち上る。どんぶりの上には肉厚のその店特製のジューシーなおおぶりのチャーシューが「でん」と載っている。そのチャーシューを眺めた時の興奮を思い起こしてもらいたい。これに近い役割を果たすのが、博多雑煮の「ぶり」なのである。当然、このぶりをどの段階で、どのような流れで食すかというのは、新年初冬のもっとも悩ましい問題となる。早くは食べたいし、食べるとなくなってしまってさみしいし、どうしよう、どうしようと心は千々に乱れるのである。小心者の私は最後に小さなぶりを残してお代わりをし、二杯目の時に新たに入れられたぶりと合わせて食べることが多い。だが、二杯目にぶりが追加されていなかったりすると、今年初めての悲痛な叫び声を上げなければならなくなる。

「あら、ぶり残してるから、もういらないかと思って、いれなかったわよ」

「だからー、そうじゃないんだって。わかってないよなー、ったく。」
(原語訳:あんねー、なしてそげんことばするかいな。いっちょんわかっとらんねー、ほんなごつ)

私の繊細でかよわい神経は現実的、皮相的な臆断によってしばしば踏みにじられるのである。

あとはかまぼこ。これもすり身の周囲をストローほどの太さの藁(博多では「すぼ」という)を巻きつけて焼き上げたものを使うことも多い。

次に大分産のどんこ。まるまっちいおおぶりのジューシーな椎茸と思ってもらえばいい。

それに縁起を担いで、昆布やするめを細く切ったものを載せる。梅の花の形に切ったにんじんも彩りに添えられる。

これで見事に博多雑煮の完成である。

熱々のもちを箸でつまみ、かつおなでくるんで食べる。焼き豆腐をつまみあげ、どんこをかじり、かまぼこを一口食べて、ぶりの切り身にかぶりつく。口の中で黄金色のあごだしともちとかつおなととうふとかまぼこと塩味のきいたぶりが渾然一体となって広がる。そして、さきほど飲み終わったばかりの極上酒のお屠蘇の残りをぐいっと呑み干す。

くーーー、至福の瞬間である。



「オレが二年前にしたのって、こんな話だっけ」

「くー、くいてー」。隣で「かなりわる」おやじが悶絶の叫びをあげている。

そのお雑煮を食いに、今から帰省する。そろそろ、電車の時間である。では、しばしのあいだ、ごぶれいする。さらばぢゃ。

みなさんもよいお年をお迎えください。来年もよろしくおねがいします。







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Last updated  2006.12.30 07:28:17
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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