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山海塾の2010年度新作『二つの流れ----から・み』。ひらかななのでわからなかったが、ポスターをみると、「殻・身」であるのがわかる。もちろん、かけているのだろうが。さらに深読みするなら、二つの流れから、「身/見」というふうにも。アクリルだろうか、透きとおった板が12枚、吊り下げられている。赤か青(青?紫にちかい?)の色がついていて、ほとんどは静止しているが、ときに、上にあがるものもある。ステージのはし、床に黒いところがある。透きとおった板は、色がついているけれども、「むこう」がみえる。「むこう」がみえることの意味。デュシャン?電子音なのか録音なのか、セミや小鳥のなきごえが。最近の山海塾の作品では、アラブ、中近東、アフリカの音楽的要素が、ときに。さいごの部分は、指先に赤い色をつけ、ほかにもすこしだけ赤を衣裳に加え、その指先を始終、動かしつづける。サカナのよう?山海塾におけるサカナ的な、というか、水中的なところは、以前にもあったのだったけれども。このうごきがつづいているなかで、何枚かの板が回転する。『とばり』は未見-----来週観る予定-----なのだが、この作品では、沈黙の場面が以前より増えているように感じる。『から・み』、はじまってからしばらく、ほとんど無音で数人が動くのだが、隣席の人物(山田洋次に似ていた)が、がさがさと包みをひらき、たしか三度ほど、口に運んでいるのが、どうにも気になってしまう。そのむこうのフランス人女性も、ちらちらとみていた。どうも、演劇・ダンス系の観客は、たとえ関係者であっても、音についてのマナーがなっていないように感じる。いや、マナー以前に、ほとんど気にしていないのがほとんどなのだが。2011年1月29日(土)15:00-ちなみに、『降りてくるもののなかで----とばり』2月3日(木)公演のポスト・パフォーマンス・トーク、天児牛大氏との対話者はわたくしです。
2011年01月29日
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『ナンネル・モーツァルト 哀しみの旅路/Nannerl, la Soeur de Mozart』タイトル、正確には、「ナンネル、モーツァルトの姉」。モーツァルトの姉という設定だが、モーツァルトの周辺の人物、特に姉ナンネルにおこった何かというより、才能のある子どもの音楽家をめぐるひとつのフィクション、としてみる。というか、そういうものとして、ある。言ってみれば、モーツァルトの時代の女性の問題をあつかう。つまりは、音楽をすることについての一種の偏見、因習、そして、恋をすること、家庭、といったことども。監督は、ルネ・フェレ、ナンネルを演じているのはその娘のマリー・フェレ、ナンネルのことを「ナナ」と呼び、親友として遇するフランス王家の娘、ルイーズ・ドゥ・フランス、は、マリー・フェレの妹、リザ・フェレ。つまり、父親と娘2人が映画にかかわっている。ルイーズ・ドゥ・フランスは地方の女子修道院に軟禁状態。そこでヴァイオリンを弾くヴォルフガング、クラヴサンを弾くナンネル、背後にさりげなくおかれているのがハーディガーディ!ただ、添えものという程度だろうが、おもしろく感じる。女子修道院の広間、真上から、床の模様を撮り、そこにナンネルとルイーズが歩く。あの、石の冷たさ、ヨーロッパという、木の建物ではない、地域のこと、最終的に親和できない地域、距離をおもう。セリフはフランス語。でも、まあ、モーツァルト一家が訪れるのがフランスだから、さして違和感はない。楽器の訳語として、クラヴィーア/クラヴサンが気になるけれど、これは、一般の観衆への配慮だろう。大雑把に考えれば、大して違いはない、ともいえるし(いや、かなりほんとは違うけど、まあ、いいのだ、きっと)。ナンネルは男装をして、王太子とあう。ちょっと≪薔薇の騎士≫をおもいだす。あるいは、宝塚?男装して、「作品」を提出するのではないと、認められない……。ナンネルは父親に文章を書きたい、作曲の規則が知りたい、という。でも、こたえはといえば、「女性にはむずかしすぎる」だ。男装して、美術/音楽学校へと聴講に行くナンネル。ナンネルは、二度、暖炉でものを燃やす。ともに、書かれたもの、であること。ひとつは本であり、ひとつは自分の書いた楽譜。いずれにしろ、書くもの/書かれたもの、という意味でのエクリテュールと、エクリテュールの断念の物語。映画の音楽はいい。ナンネルのつくった曲は残されていないので、マリー=ジャンヌ・セレロが書いている。その他の部分も、このひとの曲だが、なかなか。そして、これが”現代”の、”女性”の作曲家によって書かれていることに、意味を見出すことができるのかもしれない。春に、Bunkamura ル・シネマにてロードショウ。
2011年01月26日
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静かなのに、どこか緊迫しているのは、まだストーリーとして動きだしていないときから、だ。『神々と男たち/Des Hommes et Des Dieux』。Les Hommes et Les Dieuxと各名詞が定冠詞でなく、不定冠詞になっているところに、作品のニュアンスがあるだろうか。監督は、グザヴィエ・ボーヴォワ。1990年代、北アフリカ、アルジェリアのある地域での事件をもとにした映画。ちらしのことばをそのまま引けば、「1996年アルジェリアで実際に起きた、武装イスラム集団によるフランス人修道士誘拐事件。15年目の今明かされる、真実の物語。」映画は、2010年カンヌ国際映画祭 グランプリ受賞。クリストフ・ランベール(英語読みなら、クリストファー・ランバート)が「クリスチャン」という名で、主役の位置にいる。リュック・ベッソン『サブウェイ』での印象をいまだに引きずっているこちらとしては、まぁ、こんなふうに齢をかさねて、との感慨がある(映画館以来で『サブウェイ』をみたいとおもったら、Blue-Rayしかでていなくて、がっかり……)。かれがひとりで歩いて、ヤギのいる山や、水のあるところや、の風景が映しだされるシーンの美しさ。あれが、アトラスなのだろうか。また、賛美歌で先導するときの声の高さ。マイケル・ロンズデール/ミシェル・ロンスダールが年長の宣教師であり医師「リュック」として、出演している。『アレクサンドリア/AGORA』では、キリスト教からすると異教の学者だったのに、当然、作品が違えば役柄も違うのだけれど、観るのが近いと、ちょっと困惑(笑)。インテリであるという意味では変わらないけれども。広い風景。ろばのいる市場。はちみつの収穫。なまった現地の人たちのフランス語。修道院では、修道僧/宣教師が7人のみで、フランス語の賛美歌をうたう。ひたすらにストイックな生活。僧ひとりひとりの生、過去、があること、そこから切れている現在。テロのある状況のなか、教会に残ることは、テロに「犠牲心が利用される」とまで言われてしまう。だが、僧たちにとっては、むこう(現世)に対しての、教会があり、二つはべつのところ、だ。そのあいだに、ごくごくふつうの人たちがいる。その人たちのありようが、ところどころにあらわれてもくる。過激派のリーダーと「クリスチャン」との緊張感のある対話。手下たちはアラビア語(だろうか?)で話し、リーダーはフランス語。そして、コーランの引用を「クリスチャン」がアラビア語ですると、つづけてリーダーも、その句をつづける。クリスマス・イヴであり、その話がでてくると、リーダーもイエス・キリストの名をだし、失礼した、知らなかった、と去ってゆく。教会からしてみると、テロの集団もアルジェリアの軍も、ともに「暴力」としてみえている。教会から、のみならず、カメラから、つまりは、映画の観客としても。「リュック」が疲れて眠っている。明かりがついているし、メガネもかけたまま。「クリスチャン」がそっとメガネをとってやり、明かりを消す。手元にある本は、よくみえなかったけれども、おそらくは、モンテスキュー『ペルシャ人の手紙/Lettres Persanes』だ。「リュック」はあとで、パスカルを読んでいる、とも言っていたのだが。ほかの修道院から尋ねてきた僧から、さしいれがはいる。ワイン2本をあけ、カセットをかける貧しい晩餐。チャイコフスキー≪白鳥の湖≫の〈情景〉が2度くりかえして。みんな黙って、笑顔から、涙をながし、音楽は、ベルベル人たちの奏でるもの、聖歌以外、このチャイコフスキーのみ。一種のクライマックス。そのあとで何がおこるかを予感している僧たち、そして、「わたし」たち。「野の花は光を追って動くものではない」光がそこに届いて、受粉する。……こうしたたとえばなしがでてくる。当然、野の花はふつうの人たちを指し、光は神を指す。受肉。生きつづけること。庭のマリア像が何度か映しだされる。最後のあたりでは、雪をかぶった姿で。アフリカの、おそらくはアトラス山脈の雪、を。試写会場には、修道女の方々が何人かみていた。フランス人も何人か。3月上旬よりシネスイッチ銀座ほかにて全国ロードショー
2011年01月25日
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笹目浩之『ポスターを貼って生きてきた』(PARCO出版)。著者は、現在、三沢市寺山修司記念館副館長でありつつ、ポスターハリス・カンパニー代表取締役。「ポスターハリス・カンパニー」の名をはじめて認識したのは、80年代の半ばだったとおもう。行きつけの、池袋のジャズ・バー、ぺーぱーむーんで、マスターのそばにおいてあったエンピツに、その名があった。これ、なに?と尋ねたら、マスターが、どういうものかを教えてくれた。たしかに、店と、外の階段のところには、ポスターが貼られていて、自分としては、こうしたものを自然にみて、おもしろそうだな、とか、いろいろ勝手におもっていたのだった。当時は演劇嫌いの時期だったから、それ以上のものではなかったのだけれど(まさか、演劇が好きになるなんて、予想していなかった)。ポスターハリスの誰かがちらっと寄ってきたのを、見掛けたような気もする。でも、笹目氏ではなかっただろう。池袋はかれ自身のテリトリー外だし。本はおもしろかった。個人史といえば個人史だけど、それをとおして浮かびあがることがある。そうしものがない本はダメだ。ゴチック体になっている部分だけ読んでもたしかに何かはわかるが、それだけではほそくなってしまう。やはりちゃんと読まないと。そこには、演劇のポスターなるものについての歴史もあれば、その「見え方」、「表現」というものもでてくる。そして、そこには、ポスターなるものの「戦略/戦術」、メディアとしての意味だって、しっかりとでてくる。ポスターからチラシ、そしてネットへの変遷を追いつつ、ポスターだからこその現代的意義だって提示される。どこかで笹目氏とすれちがっているのだろうな、とおもう。世代的にはほぼかさなっている。でも、ちゃんと会ったことはない。寺山修司記念館に出向いたのは随分前で、だから、笹目氏は就任以前。本の副題は「就職もせず/何も考えない作戦で/人に馬鹿にされても/平気で生きていく論」。帯には「ブラボー!貼ったり人生!!」気が小さいからできなかったけれど、どこかに憧れがある生き方……。
2011年01月23日
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竹橋の近代美術館で『「日本画」の前衛』展へ。発見、驚きがある、という意味では、最近でいちばん。すいているのがもったいない。端的に、戦前の日本画でこんなことが!、である。歴程第1回展芳名録(ほかにも芳名録はあったが)には知った名がたくさんでてくる。柳宗理、福澤一郎、靉光、難波田龍起、瑛九、瀧口修造……。山岡良文『シュパンヌンク・袋戸棚小襖』は、幾何学的な形態と襖の木目が図と地のようになっていて美しい。この山岡良文、はじめのほうにいくつもならんでいるが、初公開作品が多い。先の作品のように、自宅の襖につかわれていたものなどがあるのだが、どういうふうに、これまで「知られていなかったのか」、が気になるところ。丸木位里『紅葉』は、けっして大きくないが、その赤がみごと。有名だが、これまであまり気にしていなかった作家だったのだけれど、今回いくつかを観て、さすがに名が知れているだけのことは、と。靉光『ライオン』、岩橋英遠『都無ぢ(つむじ)』、 船田玉樹『大王松』、北脇昇(この作家の作品は、4階の常設展にもべつのものが展示されている)の、あまり大きくない作品。対して、 広い空間に山崎隆の作品がならぶ壮観。このコーナーには「戦争」とからむものがあって、それは常設展の「戦争画」と共鳴しあう。山崎隆の作品をとおして、 屏風として描かれている意味、立体性、時間性といったものを、はっきりと認識する。 常設展は、4階から2階まで。ココシュカ『アルマ・マーラーの肖像』が。小品だが、今年の「マーラー・イヤー」の記念として、飾られているのかも。かつての常設展はただ作品が時代ごと、作品のタイプごとでならんでいたのだけれど、いまは、そうしたやり方もしつつ、コーナーがあるのも特徴。特集「神仏を表す」は、奇妙な作品があって、開国以後の一種の「混乱」とでもいうべきか。以前から奇妙だと感じていた作品はもちろん、今回は岸田劉生『天地創造』からもあり、おもしろい。卯年にちなんで、なのかもしれないが、何点かウサギにまつわる作品があるのになごむ(特にうたわれているわけではないが)。すごいのは(やはり!)高村光太郎。藤川勇造の作品が隣りにあるが、もう、ぜんぜん、ちがう。立体として、というより、生命感が。竹内栖鳳『飼われたる猿と兎』は日本画で、これは、まあ、ふつう。そばににんじんの絵があるのもおかしい。 瀧口修造の特集が3階の一角でおこなわれているのはうれしい。最近収蔵されたものらしいが、わたしにとっては「再会・再再会」ともいうべき、親しんだものばかり。 かつて、本の表紙になっているものもあったし。河原温の作品は、最近、オースターの短篇の話を1年生にしたとき、ちょっと引いたりしたこともあって、いま、みられたのがうれしい。 『栄木正敏のセラミックデザイン デザイン&ウェーブ』は、カップなどがうつくしくならんでいる。1階には、栄木作品を中心としたアンケートがあって、これに応えると特製のエンピツがいただける(しっかりもらってきた)。館をでて、メトロの駅まで歩きながらふと、おもったのは、シュルレアリスムと地平線、というテーマ。タンギーのならびにあった作品のせいかもしれない。ま、自分で書くことはないだろう。ちなみに次回は岡本太郎展。
2011年01月21日
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ことしはじめの試写は『白夜行』のはず、だった。でも、何かひっかかるものがあって、やめ、かわりに小説を読んだ。読んで、これがまた、考えてしまうのである。なんか、後味が「わるい」というのともちがう、いや、けっして良くはないのだけれど、主人公2人のことを、「考え」させられてしまう。なので、やはり観てみようかと、最終の試写に。原作は東野圭吾、映画の監督は深川栄洋。さすがにあの長篇をそのままなぞることはできない。かなりちゃんとたどるけれども、ひとりの人物にべつの人物の属性を重ねたりしている。原作全体を読んで、記憶につめこみ、あらためてどう再構成するか。そして、原作よりもっと親しまれるようにするか。これは、興行としての映画には必須ということなのだろう。もし原作のとおりでは、「共感」が抱けない(そのぶん、あとあとまでひっぱる力があるのだけれども)。言い換えれば、エピソードは省略され、足りなくなった分の情報をほかのところで補いつつ、といったところ。もちろん補いきれないのだが、まあ、小説を読んでいなければ、2時間半あるけれど、充分楽しむことはできるだろう、ストーリーとして。いや、これは非難ではない。そもそも、原作があって、みごと!という映画はごくわずかなのだから。船越英一郎演じる刑事の、原作にはない「個人史」、高良健吾演じる「桐原亮司」、ともに、とても「人間」ぽいのである。特に後者は、おもいがけない、短いシーンでの「人間くささ」をだす。また、堀北真希演じる「唐沢雪穂」と「桐原亮司」との、思いがけぬコミュニケーション手段。おもいだしたのは、もちろんまるでちがうけれど、『砂の器』だった。「唐沢雪穂」は、途中で、「わたしはにせものだから」と言うのである。それは『砂の器』の和賀英良(だったかな?)は口にできないセリフではあるが。小説ではつかみきれなかったものも映画にはある。「唐沢雪穂」が、子どものときに育った地域(「川のむこう」)の貧しさは、久しく見たことがなかった、というか、こういうところがあった、と忘れていたもの。これは想像が追いついてもいなかった。それが、また、終わりのほうとコントラストをなす。その意味では、「場所の物語」でもある(タイトルからして、そうかも)。あるいは、「桐原亮司」の父親にあった不能性と、「桐原亮司」自身の遅延性。つまりは、性をめぐる一種のねじれ。切れてしまっているけれどもつながっている「父子」のつながり。喫茶店でだされるスパゲティ・ナポリタン。本田美奈子のポスター(と歌)。斎藤栄の小説。質屋の二階とみごとな切り絵。1980年から1999年というほぼ20年の時代設定は、個人的に、多分に重なっている時期でもある。それは、わたしより1つ年上の原作者にとってもまた。堀北真希というのは特に興味もない女優なのだが、ここでは、80年代当時の言葉でいえば、「ぶりっこ」として、なかなかイイ線なんじゃないか、と感じさせられはした。ほかでは、ウェディングドレスを着て、ガラスのこちらにむけて、唇を一瞬内側にまきこみ、それからふうっと微笑むところは、これまた、なかなか、であるような。音楽は、平井真美子。冒頭から何度もひびくコントラバスによるピッツィカートのアクセント、アルコ(弓弾き)の「のび」によるコントラストは、なかなかのもの。どこかでコル・レーニョ奏法もでてきたような。対して、ピアノの「如何にも」の「かなしみ」をたたえたようなメロディ。そう、コントラバスのソロは、斎藤順である。エンディング・タイトルは、珠妃というひとであるらしい。謎であるとか(笑)。例によって、まあ、あまり本篇とは関係なく、それらしき「イメージ・ソング」でしかないのだが。気になったのは、はじめのほうの、妙にうちこみっぽい音。このごろは、その「わざとらしいうちこみ」の音が好まれたりもするのだろうか。だとすると、なかなか時代はイロニックになっているのかも。
2011年01月20日
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91歳の、犬と一緒に暮らしているひとりの女性の物語。モノクロームの。『木洩れ日の家で』、ポーランドの女性監督ドロタ・ケンジェジャフスカ。犬が何ともすばらしい。フィラデルフィアという名の、相性でフィラと呼ばれる。主役アニェラ(ダヌタ・シャフラルスカ演じる)はフィラに声をかける。ひとりで住んでいるから、当然、この犬が話し相手になるわけで、声=ことばは、フィラへの語りかけが中心となる。フィラの応答、臥せをし、手をテーブルにのせ、みつめる眼差しは、それだけで、いい。この犬は、しばしば、吠えたりすることで、老女を「夢」や「幻想」から現実に引き戻す役割をはたす。いろいろな鳥の声がまじりあう。フィラと、それ以外の犬の声もする。このサウンドスケープ。あるいは、古いものがある。雨戸、柱時計、電話、ラジオ。蝋燭の火も。とてもやさしい気持になるのは、椅子に座ったアニェラがリキュールを飲み、フィラにもなめさせ、両者が眠っているシーン。そのままになっているリキュールのグラスのなかに、蜂がはいって小さく身動きしているところも。過去については、あまりあらわれてこないのだが、「同志」という語があったり、「ロシア人をとじこめていた」とのセリフがあったりする。また、侵入してくる隣りの少年が、「ドストイェフスキ」というあだ名で、「シベリア」と呼ばれるところから来ているのは、くすり、としてしまう。ハープ、パーカッション、ピアノ。昔日の姿をおもいだすときのヴァイオリン。笑い声。調律がくるっているピアノ。この映画にあるのは2つの領域。古い屋敷と、むこうの、新参者の家、そして音楽教室。アニェラはずっと敵対心を抱きつづけている。それが変わる。「むこう」に行くとき、フィラは窓ガラスごしに吠える。はながガラスについて、あとをつける。2つの領域を「わたる」アニェラ。アニェラは、ブランコに乗って、「ご主人様は狂ってしまった」とフィラにむかって言う。この、ブランコに揺られる老女のシーンはうつくしい。ラストのすこし前、カメラは、犬と写真と少年のまなざしがガラスごしに交互に映しだす。そして、ラスト、カメラははじめて、空をみあげる。庭から、何の花だろう、白い花が咲いていて、屋敷から、木々をこえて、雲がみえる。あぁ、これは家の物語。さまざまな記憶をつめこんだ家の映画。古い屋敷のむこう、もうひとつの領域である音楽教室のようなところでは、子どもたちの、へたくそなトランペットの合奏がある。「また始まった」と、アニェラは言うのだが、エンドロールでひびくのは、オーケストラとともにあるトランペット。こちらはもちろんかなりすてきなのだが、そこに先の子どもたちの楽器と、音色のつながりが考えられているのでは、と考えられる。4月16日(土)、岩波ホールにてロードショウ。
2011年01月18日
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冒頭に汽車があらわれる。マーラーがフロイトのいるホテルにむかうため、だ。ケン・ラッセル『マーラー』の、ラストだったろうか、やはり駅がでてきて、ホームにマーラーがいる、というシーンがあった。それを想いだす。『シュガー・ベイビー』『バグダッド・カフェ』は1980年代で、それから随分と時間が経った。以後、パーシー・アドロン監督が撮った作品は観ていない。そこに突然、マーラー、である。グスタフ・マーラー(1860-1911)の生の始まりと終わりをみれば2010年が生誕150年、2011年が歿後100年にあたるのがわかる。短い生涯だ。そして、去年から今年にかけての意味もわかる。この映画では、マーラーがフロイトとただ一度の面談をした事実をひとつの枠組みとして設定する。浮かびあがってくるのは、マーラーより19歳若く、若く才能もあり、男性にもモテたアルマとのこと。病気で亡くなった長女のこと。マーラー自身の妙に潔癖な性格。などなど。おもしろいのはつくりで、枠組みはしっかりしているけれど、ドキュメンタリー風だったり証言風だったりという断片を挿入してくる。いわば「多声的/ポリフォニック」である。登場する人物たちは、何と、「カメラ目線」だったりもするのだ。そして、そこでながれる音楽は、もちろんマーラーの交響曲(第10、第5、第4)なのだが、とても限定されていて、しかもかならず緩情楽章、-----それが副題に反映しているわけだ-----さらに、ときには、あるパートのみだったり、いくつかのパートのアンサンブルだけだったりする。このあたり、指揮をしたエサ=ペッカ・サロネンの真骨頂というところだろう。作曲をしないような指揮者ではこうはいくまい。フロイトの音楽嫌いもでてくる。最近読んだ北山修『最後の授業』(みすず書房、2010)にこうしたフロイトの音楽/芸術嫌いのはなしがでてきて、そのことも想いだしたりする。フロイトはここで、シンコペーションがもともと気絶や失神を意味するのだ、とマーラーに言ったりするのだ。二人がモーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》の一節を、声をあわせてうたうのは、おかしい。おかしい、とは、こんなことありえないだろ、という意味と、あの年齢の男性が声を張り上げているさまが可笑しい、という意味と両方。おかしい、といえば、ごくまれに、Bonne Appetit!とかEntrez, Monsieurとか、社交的なフランス語がでてくるところ。マーラーがアルマをオペラ座の楽屋を案内しながら、「オペラ座は幼稚園とおなじだ」というところ。もうひとつ、おかしさついでに言えば、役者がみな、実物(写真?)に似ていること。若きツェムリンスキーはちょっと違うかもしれないが、マーラーもアルマもヴァルターもグロピウスもクリムトも、似ている。(ちなみに、アルマの実家にはクリムトの絵が飾られている)グロピウスがマーラーに自己紹介し、装飾を排除する、というような発言をし、マーラーに笑われる(そして、いやがられる)ところなど、なかなか凝っている。凝っているのはまた、アルマのつけるあおいピアスだったり、アタマのなかで《5番》のアダージェットがひびいているときの恍惚としたアルマの表情だったり。もしかすると、ここは『ヴェニスに死す』へのオマージュなのかも。街での水、険しい山の岩々、あるいは、娘が亡くなったとき、棺がはこばれるときのひとの配置、といったところは美しい。音的には、山でのエコーも。あぁ、やっぱり、パーシー・アドロンはドイツ映画のなかにいるひとなのだなぁ、とおもったり。そういえば、『バグダッド・カフェ』だって、おなじように濃密ではなかったか、とあらためておもう。個人的には、この映画に、結婚の問題、ひとがひとを選ぶということ、を考える。公開は、渋谷ユーロスペースほかにて、ゴールデンウィークであるらしい。
2011年01月12日
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新年最初の告知です。それも、ダンスの。佐東利穂子というダンサーがいます。勅使川原三郎作品のソリストをつとめていますが、数年前、久しぶりに勅使川原三郎作品を舞台で観たとき、この女性は……と驚嘆したのでした。あぁ、勅使川原三郎は、こうして、自らの「イメージ」を実現する身体を、「他者」において、みいだしたのだな、とおもわずにはいられなかった。『オブセッション』『SKINNERS』と、舞台に接して、その存在感、うごきの強度に、文字どおり、圧倒されました。個人的に、この何年か観ているダンサーのなかで、もっともつよい印象を抱かせられたのが、佐東利穂子です。しかも、勅使川原三郎氏と「トーク」のためにうちあわせたとき、そばに佐東氏がいたのでしたが、ステージでみるのとはまたちがった、ごくふつうの、華奢な女性、だったことにも驚かされました。いえ、ダンサーにおいては、しばしばそういうことがあったりもしますけれども、「存在感」と、身体、と、日常/ステージとの変貌にあらためて、表現者の何たるかを考えさせられたりもし。以下、告知用の文章を引用します。佐東利穂子は、勅使川原三郎作品のソリストとして国際的に活躍し、日本のみならず欧米各国で熱狂的な反響を巻き起こしています。 仏・伊のダンス誌「Ballet2000」の2005年度年間最優秀ダンサー賞、2007年度日本ダンスフォーラム賞を受賞。現在、世界のアートシーンで注目のダンサーです。 昨年、川崎市アートセンターで初演の際には、ご覧になったお客様から、「偉大な身体芸術家の誕生」「ダンスの真髄」「とてつもない豊かさを持つダンサー」「すべてが新鮮」「涙が止まらなかった」などと絶賛され、今年2月からはヨーロッパ各地でのツアーも始まります。 『SHE-彼女』 ダンス・佐東利穂子ディレクション・勅使川原三郎 公演日:2011年1月15日(土)午後3時開演 会 場:兵庫県立芸術文化センター 阪急 中ホール 料 金:3,000円(全席指定・税込) 公演詳細及びチケットの購入方法に関しては劇場ホームページをご覧下さい → http://www.gcenter-hyogo.jp/ 作品についてはコチラ→ http://www.st-karas.com/works/she.html
2011年01月09日
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アレハンドロ・アメナーバル監督による『アレクサンドリア』。原題は「Agora」。映画のなかにおけるagora/広場の意味がポイントなのだろうが、それだとわかりにくいし、より広い場所、エジプトの特異な土地としてのアレクサンドリアとするのは妥当なところ。アレクサンドリアの女性天文学者・数学者・哲学者のヒュパティアを主人公としつつ、かの地における古代ローマから中世へと変転するさまを描きだす。ヒュパティアについては、名前のみで、どういう存在なのかは知らなかった。お恥ずかしい。アレクサンドリア図書館の蔵書については歴史上でも高名だが、かならずしも、ヒュパティア存命中に攻撃をうけただけではないらしい。とはいえ、知を愛する人びと(philo-sophia!)が懸命に巻物を集め、脱出を試み、その後、キリスト教徒たちが宙にパピルスを舞わせ、広場で焼き尽くすシーンには、いくらフィクションとはいえ、胸がいたむ。ちなみに、古代において、書物とは葦からつくるパピルスがあり、その後、羊皮紙がつくられるようになったのだったが、そこには政治的な意味合いもあったのだと最近知った。エジプトとペルガモンの図書館建設競争がB.C.2世紀にあったのだという。「アレキサンドリアに七十万巻もの書巻を集めて、世界一の図書館を建設しようと企てたエジプト王プトレマイオスが、それに対抗して二十万巻を集めたペルガモン王エウメネスの企てを妨げようとしてパピルスの輸出を禁止したため、ペルガモン側がパピルスに代わる書写材料として羊皮紙を開発したのだ。」(木田元『ピアノを弾くニーチェ』、2009、新書館、p.91)その後、朽ちはてた図書館には蜘蛛の巣がはり、いろいろな動物が収容されている。かごのなかにトキとニワトリの姿もみえる。あぁ、書記と学芸の神トートの化身たるトキ!それが、まぁ……。この映画を観ていると、親しみのあるキリスト教に対して、何ともいえぬ居心地のわるさをおぼえてしまう。(あまりそんなふうに感じないひとも多いだろうが、その意味では、かなり「いや」な映画だ、わたしにとっては)一神教的な狭量さ、野蛮さ、と言い換えてもいいかもしれない。エジプトの神々の像を縄かけて倒すところなど、東欧諸国でレーニン像が倒されたり、タリバンによるバーミヤン巨大仏破壊を、否応なしに想起させる。ヒュパティア(レイチェル・ワイズ)をめぐって、長官となるオレステス(オスカー・アイザック)と奴隷のダオス(マックス・ミンゲラ/監督アンソニーの息子!)、2人の男性が、ストーリー的には需要な意味をなす。身分や宗教上もあるが、面とむかっての対立ではなく、それぞれが「いる/活動する」場所のちがいゆえに、途中からは顔をあわすこともない。それが、ヒュパティアがずっと考えている天文学的な問題、他の天体がではなく、地球が動いているのではないかということ、完全な「円」ではなく、二つの中心を持つ楕円を発見することと重なっている。2人の男性と2つの中心。この映画では、しばしば、図書館の天窓などを含め、「円」が映しだされるのだが、そこに、楕円ではなく円である世界観があらわれているのかもしれない。ときどき、映画は、アレクサンドリアの街からぐーっと視点をあげていって、宇宙から地球をみおろすようになる。その土地の人びとにとっての重大事が、視点を変えてゆくと、どんどん、「小さな」ものになっていくかのように。映画のはじめのほうで、黒い着衣のキリスト教徒たちが、広場で戦ったりするシーンがある。そうしたところで、カメラがうえにきて、はなれてゆくと、その黒さがまさにアリのようなのだ。当然、それは、鳥瞰的な見え方とシンクロする。それにしても、男性の横暴さ……。で、これまた知らなかったことだが、ヒュパティアの父・哲学者のイオンを演じているのは「マイケル・ロンズデール」。『自由の幻想』や『インディア・ソング』で「ミシェル・ロンスダール」とおもってきたが、じつは現在、マイケルがほんとの名前なのだそうである。古代のアレクサンドリアを舞台にしていながら、英語がつかわれているのは、やっぱり、違和感がある。監督は、アレクサンドリアは多言語的な場所で、とか言っているようだが、なんか、なぁ、である。以下、音楽をめぐって。芝居が演じられるシーンがあって、拍手のかわりに、二枚の小さな板をうちあわせるのだが、かつて(77年?78年?)みたクセナキス《オレステイア》で、聴衆が紙だか銀紙だかをふって音をたてたことをおもいだしていた。(まったくの偶然だが、この劇場のシーンで2本の管のアウロスを吹くのはのちにアレクサンドリアの長官となるオレステス。)テーマの音楽のなかには、サミュエル・バーバー《アダージョ》風の弦楽が。目立つのは、ドゥドゥク(はじめはクロムホルンかとおもった)。このアルメニアの、二枚リードの楽器、ジヴァン・ガスパリヤンが『グラディエイター』で吹いていたから、これもそうかとおもったけれど、どうもディック・キャンベルの演奏だったらしい。
2011年01月07日
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小学校のはじめのころ、地元から東京駅にむかうバスに乗っていた。常盤台、池袋、江戸川橋、大曲をとおって飯田橋で下車。2年生か3年生になって、地元からのバスがなくなったので、常盤台まで東上線で行き、そこからバスに乗った。もうすこし経ってから、バス通学はやめ、東上線、山手線、東西線を乗り継ぐようになるのだが、それはまたべつの話。小学校のころから、バスで、あるいは父親が運転するくるまで川越街道をとおっていくと、下赤塚と東武練馬のあいだくらい、すこし下赤塚よりのところにひとつの看板が目にはいっていた。とくに気にしてはいなかったのだが、じぶんのなかで近年にわかにクローズアップされたのである。深夜、タクシーで帰宅するとき、街道の多くの店は閉まっている。ところが、この店はけっこう遅くてもしっかりあかりがついているのだ。2時とか3時なのに、である。むかしから、わたしが小学校のころから、おなじ看板で、だ。車窓から通りすがりにのぞくと、人影が。ピザ専門店/PIZZA/モンマルト/イタリアングリル/TEL 933-5069電話番号が、3桁プラス4桁。このごろ、深夜帰宅がすくなくないので、そのぶん、気になり度が高くなる。ネットで検索すると、探訪者もちらほら。なんでも、1959年に店をあけ、そばにあったグラントハイツのアメリカ人たちが通っていたとのこと。現在もおやじさんが1人でやっている。ピザはクリスピーなものらしく、探訪者は褒めているではないか。59年といえば、わたしの生まれた年。しかも、おやじさんがやっているなら、かなりの年齢のはず。ならば、行かねば……。で、新年明けて、5日、commmonsの用事のあと、いそいそとでむくことに。地下鉄赤塚で下車、寒風のなかを歩いていると、こちらは何度か来たことのある古書店 司書房にひっかり、しばらくみてまわって、文庫など数冊を購入。モンマルトへの到着は、20時すこし前くらいだったか。店内には旧グラントハイツの写真が何枚も。分厚い、アルバムのようなメニューがテーブルにあり、めくってみると、けっこうな種類が。結局、ビール、プレーン・ピザとミネストローネ(にパスタがはいったもの)のセットを注文。噂どおりのクリスピーなピザで、なかなかいける。後者は、これは昭和だよなあ、という代物で、個人的にはなつかしいし、おいしくいただける。テレヴィがついていて、まったくの偶然だが、かつての「バンド」がいろいろでているのである。甲斐バンド、ゴダイゴ、プリンセスプリンセス(《DIAMONDS》!)……(ちなみに、司書店ではべつの番組だろうが、麻倉未稀が《ヒーロー》をうたい、ダイエットをして云々というのがかかっていた)あたかも「わたしの昭和」を再現しているかのような演出(笑)。また来たら、べつのピザを食べてみたいな。20センチの大きさだから、複数で、何枚か、がいいかもしれない。帰りは、やはり寒風のなか、一駅半くらいの距離を歩いて。それにしても、「モンマルト」の名称がよくわからない。モンマルトルではないのだ……。昔からの謎だが、尋ねそびれてしまった。
2011年01月05日
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高山良策をめぐるドキュメンタリー『怪獣のあけぼの』は、DVDにして2枚におよぶ、相当に豊かな内容を持っているのだが、あらためての発見が、また、あった。うしおそうじ、こと、鷺巣富雄が、『怪傑ライオン丸』などをつくった人物として、また、ピープロの代表として登場してくるのだが、ふと、この姓が気になったのである。中高の先輩で、この名の人物がいた、と。もしかしてもしかすると、とおもってクレジットをみていると、やっぱりそうだった、先輩の「父」がうしおそうじ/鷺巣富雄だったのだ。先輩の名は鷺巣詩郎、比較的めずらしい名だろう。中学3年のとき、わたしは数カ月、キーボードを必要とするサークルに身を寄せていた。そこで2年上の先輩として、サックスを吹き、キーボードを弾き、アレンジをし、という強力な個性を持っていたのが、ほかならぬ、この人物だった。音楽的な知識はずばぬけていた。クラシック/現代音楽系ではなく、ジャズ/ロック系として、だったが。わたしとしては、かれがいたおかげでソプラノ・サックスの魅力がわかったし、シンセサイザーの何たるかもかいまみることができたし、スコアを書かず、パート譜だけでアレンジができるというのも目の当たりにした。まったく知らなかったのに、キース・ジャレット『ソロ・コンサーツ』のLPを売りつけられ、そのおかげで、キースにはまるということもあった。とてもアンビヴァレントな影響のあった先輩だった。知っているひとは知っているだろうが、この人物、業界ではちょっと知られており、「笑っていいとも!」のテーマ曲をはじめとして、多くの有名曲がある。いまは、父の会社を継いでいるらしいが、当時、うしおそうじ、が父親だとか、そんな話はまるで知らなかった。そうしたことは、会話にならなかったのだったか……。ちなみに、このドキュメンタリーの題字と監督は、すでにこのblogでも書いたが、實相寺昭雄。このひとも、ずっと上ではあるが、先輩であった。鷺巣さんは、實相寺さんと、同窓であることで意気投合とかしたのだろうか。どうでもいいことのようだが、ちょっと気になる。
2011年01月02日
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12月に発売されたDVD-BOX「中森明菜 in 夜のヒットスタジオ」、その1枚目、1982-1984を深夜に。《少女A》から《飾りじゃないのよ涙は》までを収録。まだ、番組にはビッグバンドがいる。おなじ曲でも、微妙に毎回のテンポがちがったりする。いまのように、うちこみで、おなじように、というのではない。この番組はまた、はじめのところで、つぎつぎにべつの歌手を紹介してゆくのだが、つぎの歌手の持ち歌をうたわなくてはならず、一言のコメントもいる。だから、逆に、音域などがちがって、おもいがけない力量が発揮されたりもする。それにしても、この時期、来生たかお、細野晴臣、高中正義と、その名だけで、いいなあ、という人たちの曲づくり。《飾りじゃないのよ涙は》は、井上陽水。どうしてこの曲がいいのかといえば、同時代性はもちろんあるにしても、詞にあるのは「現在」を中心にしつつも、過去も想像的未来もふくんでいるところ、そして、「ララ/ハハ」という音韻的なおもしろさ、おなじ「a」音をつかいつつ、「ラ」がしっかり喉をつかうのに対し、「ハ」の息音とが対照され、コントラストをなしている。しばらくみないだろうとおもっていたDVDだが、みはじめると、あとも気になる。
2011年01月01日
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