美しき月の夜に

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2006.08.09
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「じゃ、体に気をつけて」

受話器を置こうとすると、向こう側で先に通話が切れたのがわかった。

瞳がじんわりと潤む。

相手は婚約者ではなく、元カレでもなく、単身赴任の夫のはずもなく、

不倫相手であろうはずがない。

……父。

連絡を取ったのは十年ぶりだというのに、せっかちなところはまるで変っていなかった。

父が31歳の時に私が生まれたことを思うと、今年で62歳になるはずだ。

……なぜ、結婚の報告をしただけなのに、涙が出ようとするのだろう。



苦笑しインスタントコーヒーでアイスカフェオレでも作ろうかとソファから立ち上がった。

すべては遠い日々       





       あれは多分5歳くらいの、母が出掛けた夏の午後、

「涼子、パパと冷たいコーヒー飲もうか」

父はそう言って、インスタントコーヒーで“コーヒー牛乳”を作ってくれたことがあった。

台所に立ち、食器棚からグラスを2つ取り出し、コーヒーをスプーンで1杯、

砂糖を山盛り2杯。ポットのお湯を入れようとして、殻であることに気づき、ヤカンに

水を入れて火を点ける。と一緒に煙草にもそのガスから火を点け、煙がくねった。

私の視線を感じたのか、手持ち無沙汰だったのか、すぐ脇の居間に新聞を取りに来て

「すぐ出来るから、いい子で待っているんだよ」



ダイニングに座って新聞を広げたとたん、狙っていたかのようにヤカンから

沸騰の合図の音がけたたましく鳴った。

父は「ハイハイハイ」とおどけながら、あわててガスの火を消しにいった。

グラスに少しお湯を注いでは、スプーンでかき回すという作業を何度か繰り返す。

冷蔵庫を開けて牛乳瓶を取り出し、ビニールと厚紙のキャップをやっと外し、



冷凍室から氷を出そうとして、霜が邪魔だったのか舌打ちをしながら、派手に製氷皿を

引き出し、容器に思い切りたたきつけるようにして氷を写し、グラスの中に3、4個入れる。

と……、“コーヒー牛乳”が父の白いポロシャツに数滴跳ねた。

腰をひねって避けようとして、避け切れなかったのだ。父が眉根に皺をよせるのと私が

「あー」という声が同時だった。「たいへん」という私の表情を見ると父は布巾でシャツを

払いながら、口をへの字にして見せたその姿がとても可笑しかった。

「よーし、出来たぞ」差し出された“コーヒー牛乳”を両手で口に持っていきゴクリと飲む。



……それはとても甘く、とても苦かった。……そしてとても冷たかった。



少し驚き、まるで酸っぱいものでも頬張った後のように「っあー」と口を開けると、

じっと見ていた父が「うまいだろ」と満面の笑みで聞くので、幼心にも一生懸命作って

くれたことが嬉しくて笑顔で返した。

「うん、おいしい」

「そうか、おいしいか」

父はとても満足気に何度も何度も頷いていた。

大人の目から見れば一口目のビールを味わった後の「っあー」でも想像したのだろう。

今にして思えば、幼児にコーヒーを飲ませること自体、常識を逸しているかもしれない。

でも、それは、その後唯一何度も思い出すことになる、父との楽しい休日になった。

母が台所で流暢に仕事をする姿を見慣れていた私にとって、たったそれだけの父の不慣れな

一連の動作がとても不思議な光景となり、いつまでも忘れられないシーンになってしまった。

たった一度だけ、父が私に作ってくれた“コーヒー牛乳”が今、目の前のアイスカフェオレ

だった。



……いつからアイスカフェオレと呼ぶようになったのだろう。


「そうかお砂糖を入れなくなってからだ・・・・・・」

あの日、とても甘く、とても苦く、とても冷たかったあの“コーヒー牛乳”がいつ頃からか、

程よく甘く、程よく苦く、程よく冷たく感じるようになり、いつしか甘すぎると感じるように

なった。

あの味は私にとって父そのものなのかもしれない。







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Last updated  2006.08.19 01:45:26
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