美しき月の夜に

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2006.08.09
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玄関の扉を開けると、ビルの狭間に反射し合う日差しが眩しい。

……夏が、来たんだ。

昨日までのじっとりとした重い空気とはまるで違う暑さを感じた。

涼子は思わず一度扉を閉めてパンプスからサンダルに履き替え、ショルダーバックから

折りたたみの傘を出して、シューズボックスの上に置き、玄関の鍵を閉めた。

エレベーターから降り、マンションから出ると朝の通勤通学のいつもの顔ぶれが駅へと

急いでいる。

歩き始めると、サンダルが新しいせいか足になじんでいないことを少し悔やんだ。



涼子の部屋は、東横線中目黒駅から徒歩7分程の6階建てマンションの最上階にある。



7歳上の兄、修一のマンションからここに引っ越して来たのは、当時通っていた美大が

近かったことと、自分だけの空間で、思い切り絵を描く暮らしがしたかったからなのだが、

新築だったが故に結局、絵の方はあまり描かれることがなかった。

12年も経てば、周辺は大きく変わる。

変わったのは周辺の環境だけではなく、涼子自身もその頃思い描いた自分とは大きく変わ

っていることに気付いてはいたが、所詮10代の頃の自分と31歳となった今の自分自身の

価値観に多少の”ブレ”があったとしても不思議ではないと思っている。

美大を卒業した後はアクアラインという照明器具の商社に就職した。

好きなことで生計を立てられるほど、自分に才能があるとは思えなかった。

アクアラインといえば洗練されたスタンドなどで有名であったし、何より大学時代好きで

集めた部屋の照明は、すべてアクアラインの製品だった。



な美大を出たというだけで他に何の実用的な取り柄もない、就職希望者は大手の商社など

には嫌われたがアクアラインはそのセンスを信じてくれたのか、奇跡的に内定が通ったことも

大きかった。だがそれで、クリエティブな部署に所属出来るかといえば、世の中そんなに甘く

はなかった。

配属先は営業部営業一課。



研修を終えても1年間はひたすら訪問先の設計事務所や取引先、インテリアショップや

百貨店などに名刺を配っては笑顔を振り巻き、頭を下げる日々が続いた。

だが、営業センスのない涼子の成績は、まったく目も当てられなかった。

会社としても1年は、様子を見るつもりだったのだろう。2年目には営業アシスタントを

命じられた。同じ部署の内勤に変わったのだ。多少のバツの悪さはあっても、

業績の上がらない営業をやるよりどんなにマシかしれなかった。



……あの時の配置換えがなければ今でもアクアラインにいたかどうか怪しい。

駅の改札を抜けるのと、上り電車が来るというアナウンスが同時に流れる。

それは涼子にとって時計替わりでもある、いつもの朝の合図だった。



内勤に変わると涼子はそれなりにパソコンのスキルを磨き、持ち前の手際の速さ、面倒見

の良さなどから周りの同僚や営業職、上司からの信頼を得ることが出来、今では営業一課

だけではなく、営業部としてもなくてはならない存在となっている。

最も、涼子より上の先輩達は、それなりに転職したり、結婚したりで気が付くと社内のアシ

スタント職の中では、年長になってきてしまった事実は決して喜ぶべきことではない。



中目黒から地下鉄となるむっとする車内で、サンダルのバックストラップが擦れて足首に

痛みを感じるが、身動きひとつとれない。

……やはり結婚を期に会社を辞める方がいいんだろうか。

ふと「あの韓国スター極秘来日、あなたの奥様は大丈夫?」というつり革広告が目に入り

思わず失笑した。

……主婦ってそれほど暇なの?

……わたしもああいう主婦になるんだろうか?

足首のバックストラップをなんとか踵で踏み、幹部の痛みは和らいぎこそしたが直接、

見てみたいもどかしさと、これから主婦になろうとしている涼子の気持ちが交差する。

次で乗り換えて、外苑前までたどり着けばこの通勤地獄からは開放される。

……遠くから通勤している人は5万といるのだから、このぐらい我慢しなくちゃ。

電車はカーブを曲がり大きく揺れる。

……でも、何かもっと他にわたしにはやるべきことがあるはず。

……っというより、わたしのやるべきことが”あった”んじゃないだろうか。


漠然とした不安とも後悔ともつかぬ思いにふける間もなく、ブレーキ音が響き渡り、次の

瞬間にはドアが開いたかと思うと、大勢の「月曜日の戦士たち」と同様、涼子も吐き出され

るかのようにホームに降り立った。







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Last updated  2006.08.16 11:14:16
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