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啓太が、薄暗い部屋のカーテンを開けると真夏の日差しが一気に部屋へ刺しこんだ。高い雲の下に、ゆっくりと動く飛行機が小さく見える。急に、人々が歓談し、賑わう音声が聞こえてきた。啓太は振り返ってリモコンを取ると、TVのボリュームを下げた。木谷から預かったDVDは、先月ニューヨークからやって来た人気ポップアーティストのリハーサルからコンサート本番、そしてバックステージの様子が撮影されたものだった。まさか、こんなものを木谷が持っているとは思わなかった。人づてに聞いて木谷に確かめたところ、このアーティストのポスター撮影をしたとかで巡りめぐって、入手していたものらしい。啓太とよくコンビを組む舞台監督が、どうしても本番前に見たいと散々吟味し、また啓太に戻された。しばらく忙しくて忘れていたが、今日は、夕方まで時間が空いたので、返却する前に、せっかくだからと、観賞していた。画面にバッグステージの様子が流れ始めたので、DVDプレーヤーの停止ボタンを押すと”信号がありません”という青い画像に変わった。「驚いたな」そのステージは、最近ニューヨークで引っ張りだこの、有名ディレクター演出による最新のライティング技術が駆使されていて、日本では見たことのない不思議な世界観を創り上げていた。啓太は、もう一度眩しそうに空を見上げ、手にしたライターで、煙草に火を点けた。自分の探している世界に、まだ近づけないでいる自分が歯痒い。この映像は、確かにもの凄い。だが、自分が求めている世界とは何か違う。でもある意味、ここでもし、自分の求めている世界が、繰り広げられたとしたら、それは、失望を意味することになる。自分にしか表現できない世界だからこそ、意味がある。また、満足出来る自分の世界観など、本当はないのかもしれいない。一生こうやって、あがき続けることこそ、クリエーターとしての使命かもしれない。啓太はベッドに寝転がると携帯電話に手を伸ばし、今や一番下になってしまった保護されている一通のメールを表示した。 この絵が完成したら、啓太がコンサートで表現していね!涼子から届いたものだ。日付は今から6年半程前のものになっている。携帯電話を換えるたびに、迷いながらもそのまま残し続けていた。……涼子が描いた世界を、俺が表現する。そう、あの頃はふたりの夢を語り合い、そんなことをよく言っていたものだ。二人で触発しあって、夢を実現させる。当初、風景画や肖像絵を描いていた涼子の絵は、その背景となる抽象画の方により魅力が現れた。学校の先生や絵を評価する種類の人間に、涼子の構図の斬新さ、大胆なタッチ、繊細な色使いがどう写ったか知らないが、啓太は唯一認めていた…というか賞賛していた。自分の求めるライティングのヒントが、そこに隠されている気がした。何が啓太にそう思わせるのか、啓太自身にも理解できなかったが、直感的にそう感じたのは確かだった。交際相手を尊敬できること自体、啓太には驚異でもあった。理想的とも言えた。だからこそ、涼子であれば、人生においても、仕事においても最高のパートナーになれそうだと思っていた。煙草の灰が、落ちそうになるのに気付いて、慌てて灰皿に灰を落とす。いつの頃からか、涼子は絵を描かなくなっていた。そして、啓太との将来ばかり気にするような普通の25、6歳の女となっていた。啓太は遠い過去に思いを馳せながら、先日会った涼子を思い浮かべた。……デザフィナードか。先日会った涼子の、容姿はほとんど変わりがなかった。むしろ以前より美しく魅力的になっていたようにさえ思う。ただ、何か自分が幻想に、振り回されているような気もする。……俺は、きっとあの頃の涼子を忘れられないでいるだけだ。本当に楽しかったのだ。あの頃は。……涼子があの頃のままで、いてくれたなら……。軽くため息をつくと、煙草と共にその先の自分の思いも一緒にもみ消した。それにしても、以前何度か同じプロジェクトで仕事を共にし、意気投合した木谷と、涼子の友達が繋がっているとは思いがけないことだった。あの場に佳奈が現れたことも、その後涼子と再会することになったことも、予想もしなかった。啓太は身支度を整え、サングラスを掛けながら、ふと笑う。……サングラスと髭があって、助かった。さすがの啓太もその実、動揺していたのだ。愛車のゴルフに乗り込み、エンジンを噴かす。珍しく打ち合わせに知らない場所を指定されたので、ナビゲーションシステムを設定した。すると、自宅付近のいつも通る近道からではなく、遠回りとなる正規のルートが表示された。……面倒くせえな。啓太が迷わずナビゲーションを無視して、いつもの近道をしばらく走っていると先に工事中の看板が見えてきた。どこにも抜け道がないため、仕方なくそこまでたどり着くと、工事現場の警備員から迂回するよう指示され、啓太は舌打ちをしてUターンすることになった。ナビゲーションシステムはとても便利なものだが、自分の認識との融合が難しい。そればかりに頼るのは、つまらない気がするし、自分を信じると、こんなことになったりする。時に、人間は利便性を追及するあまり、使う側である自分たち人間の許容量を超えたものを生み出す。生み出した人間が特別な才能を持つ故に、凡人の才能まで考慮する余地がないということなのか。ナビゲーションシステムに限らず、何かを生み出したパイオニア達は、恐らくそのものが、よかれと思い創り上げたに過ぎない。それを使用する側の愚かさが、悲劇を生むのだ。あるいは、生み出した人間に配慮が足りないのであろうか。迂回した道を走りながら、啓太は思いを巡らした。……時代が進化しすぎて、人間がついて行けていないんだ。「急がば回れってことか……」啓太は嘲笑しながら呟くと、自分のこだわりが、いやこだわりを追求する姿勢がひどく時代遅れに感じられた。……俺が、理想を追いすぎるのか。でも、妥協したら、自分じゃ無くなるじゃないか。……こんな生き方があったって、いいじゃないか。涼子からのメールを未だ、消去できない自分に半ば呆れながら、自問自答する啓太には、夢の実現とそれまでの道のりが、やけに遠く思えた。 ...... See you next time! ...... 登場人物紹介 人物相関図
2009.09.06

「おう、涼子ちゃん、久しぶり」「マスター、あたしもビールね」涼子が目黒川沿いにある、お好み焼き屋「はなや」に約束より30分程早くやって来ると、店内に客はなく、珍しく佳奈が先にカウンターに座り既にビールを飲んでいて、集まろうと言い出した優美はまだ来ていなかった。「早いね佳奈、風邪はもう大丈夫なの?」「あれから、何日経ってると思ってんのよ。 そう、いつまでも寝込んでいられないってば。 それより涼子こそ早いじゃん。あ、ジーンズ?!珍しいねぇ」「平日の5時前に商社のOLが来れると思う? パスポートの更新したくて有休取っていたんだけど、中途半端に時間が 空いたの。一度家に帰るのも何だしね……」「なーんだ。あたしは……優美の話聞く前に少し酔っておこうかなって。 だって、な~んか、気が重くって……」この店は学生時代、3人でよく通った。学校からも近く、お好み焼き以外にもメニューが豊富で、カウンターに8席、ボックス席が6席と程よく、生粋の江戸っ子の主人や奥さんとも、すぐ顔なじみになった。言わば3人にとって隠れ家的存在で、卒業後も涼子と佳奈は、それぞれでも結構利用していた。今日は何年かぶりに優美の方から「ここに来たい」と指定して来た。「あ、マスター、今日はあっち行くわ」佳奈が、ビールとお通しの小鉢を持ってボックス席に移動したので、涼子も今座ったばかりだったカウンターの椅子を元に戻して、佳奈に従う。「優美もやっぱり、参ってるんだよねぇ。 まさか、宝田さんがあんな風に優美を殴るなんて……」涼子は、あの時の光景が信じられないでいた。「ほ~んと、びっくりだったよねぇ。 でも、あたしが彼だったら、もっと問い詰めてるっ……て言うか、 涼子!貴方はあの後、啓太とは何でもなかったんでしょうね? 朝起きたら、居ないし」「もぉ、佳奈はあの時のこと、熱でよく覚えてないんじゃない?! とりあえず乾杯!」……何でもなかった訳ないじゃない。そこへ、扉が開き優美が入って来た。「お、やっと3人揃ったね。優美ちゃん何年ぶり?」「えーっと、里奈が生まれる前だから、4年ぶり位かな……。 ほーんと久しぶりマスター。あ、ご無沙汰しています」優美が、横でお通しの用意していた奥さんへも目配せをする。「ま、たまには顔出してよ。美人の若奥様を拝みたいからなぁ」「美人の若奥様じゃなくて、悪かったよ」と、お絞りを持ってカウンターから出てきた奥さんが、主人に悪態を付く。涼子と佳奈が噴出すと、優美も釣られて噴出した。……そうそう、この空気、何年ぶりだろう。注文した料理が揃い、通り一遍の社交辞令が終わると、おもむろに優美が背を正して頭を下げた。「この間のこと……迷惑掛けちゃって、悪かったと思ってるわ。ごめん」「……里奈ちゃんが大事に至らなくて、本当に良かったよねぇ」「あたし達に謝らなくてもいいわ。それより、あんた達どうなってるの?」改めて頭を下げられると何と返していいのか、涼子にはわからなかったが、佳奈は、さすがにレスポンスが早い……っていうか、剛速球ど真ん中。「あたし、何だか取り乱しちゃって……」優美は、自分自身を嘲笑した。「笑ってる場合じゃないでしょ。宝田さんとはちゃんと話したの?」優美は首を横に振り、小さくため息を付くとバツが悪そうに、「……二人には、ちゃんと話さなきゃいけないと思って……。 実は……陽平に……女がいるの」と、言ったかと思うと後は堰を切ったように、吐き出し始めた。里奈が生まれて1年もしない内から、夫、陽平の外泊が増え始め、今年のゴールデンウィーク明け位から、週に3日は当たり前になっていたこと。優美は優美で、大学時代からの友人、賢司とたまに会って食事をする程度の関係が続いていたが、それと比例するようにここ最近は頻繁になったいたこと。それ故に佳奈の事務所でアルバイトをしてると、家族に嘘の説明をしたこと。そして、以前から夫婦の会話らしい会話はされていなかったが、里奈の事故後、1度着替えを取りに家に帰って来た陽平とは、ほとんど口も利いていないこと。「でもね、あたし賢司とは、今も昔もまだ寝てないからっ」涼子は返す言葉を捜してみたが、見つけられず、目を細めて身震いした。「何言ってるの優美っ?!やっぱり、遭えて言わせてもらうけど、 優美も宝田さんも 里奈ちゃんのこと考えてる? あなた達、いつまで恋人ごっこをやってるつもりなの?」佳奈は視線を逸らすことなく、優美の話をまっすぐ聞いていたが、訪れた静粛をグサリと切り取った。「子供がいるんだよ。親が自分のことばっか考えて、余所見していたら、 子供は一体どうすればいいのよ!」「佳奈は、母親だったらあたしに我慢しろって言うの?」「そうじゃなくて。あたしは、夫婦で、よく話し合えって言ってるのよ。 女がどうとか賢司とどうしたなんてことは、この際、関係ないわよっ!」優美は、涙目になりながらも強い視線を送ってくる佳奈を一時見つめると、我に返ったように煙草を取り出して火をつけた。心なしか、店主と奥さんの心痛な面持ちがこちらを伺っているような気がした。「ムキにならないでよ佳奈。あたしはただ二人に謝りたかっただけなんだから。 独身の二人に、判ってもらおうだなんて思ってないし!」優美は煙を吐きながら、美しいが為より冷たく見える凍った微笑みを浮かべた。「優美 っ!」「待って、二人とも」目を見開いて大きく息を飲み込む佳奈を、涼子は制した。話し始める前には湯気が立って熱々だったお好み焼きや、ホタテの焼き物がすっかり冷たくなってしまっている。「優美、あたしの家の話、したことあるよね」「涼子の家?確か、小学校5年生の時ご両親が離婚されて今のお義母さまは 本当のお母様じゃないのよね」「そうじゃなくて……、離婚のいきさつ」「いきさつ……?!そこまでは……」「前に話したような気がしてたけど、優美には話してなかったんだね。 父は当時、秘書をしていた今の義母と、あたしが2才の時から不倫関係に あったのよ。本当の母は9年間、父に欺かれているって気づいていた……」「……9年?!」優美は短くなった煙草をもみ消しながら、呆れたように呟き、佳奈は温くなりかけたビールを一気に飲み干すと、頷きながら優美にとも涼子にともなく言った。「涼子のお母さんってホーント凄いよ。母親の鏡って感じ」「だからって、優美にあたしの母のようになれって言ってるんじゃないからね。 むしろ逆よ」「……逆?」優美は、その長い睫毛を何度も上下に動かしていた。「そう。逆。我慢とか犠牲なんて絶対駄目。先延ばしにしないで一つ一つ結論 を出さなきゃ。そうやって優美自身幸せになって行くことが、結果的に里奈 ちゃんの幸せでもあるんだよ」「あたしの幸せが、里奈の……幸せ?」「あたしは、母があたしや兄の為に、我慢しているのなんて見たくなかったわ」優美はすっかり考え込んでいる。「母は自分を犠牲にしてるつもりなんか、なかったかもしれないけどね。 少なくとも兄はそう思っていたと思うわ。今思えば、父の代わりに母の話を聞く 役目をちゃんと果たしていたもん……あの頃。 当時小学生だったあたしに、大人の難しい話はよくわからなかったけど……。 母が決して幸せじゃないってことは、子供心に感じてたんだよね……確かに」佳奈は、涼子が遠くを見つめ、ふと寂しげな微笑を浮かべたのが堪らなかった。……優美は?優美だって涼子の寂しさがわかるでしょう?!「里奈も……涼子みたいに思うのかしら……」優美は少なくとも夫の陽平より、里奈が自分を求めていると肌で実感していた。「里奈ちゃんがどう感じているかはわからないけど、少なくとも今のあたしは、 そう思ってる」「……あたし、最低」「別に、涼子もあたしも優美を責めようと思って言ってる訳じゃないからっ」「佳奈はうちの事情を知ってたから、余計に腹がたったのよね」佳奈は、懐っこい表情で頭を掻いた。そして優美は、独り言のように呟いた。「でも、よく話し合った方がいいっていうのは、確かに、佳奈の言う通り……」「実際、優美にしてみれば、どこから紐解いたらいいのか、難しいわよねぇ」優美の立場になって考えてみると、話し合うにしろ何から切り出せばいいのか、涼子には見当もつかなかった。賢司との時間を過ごすことで、紛らわしたくなる気持ちも分からないでもなかった。「うん。もう少し冷静になって考えてみるわ……」優美が声にならないような微かな声で最後に「ありがとう」と言ったのを涼子は聞き逃さなかった。「マスター、このお好み焼きって温っめられる?」いきなり佳奈が大声を出した。……気まずい空気を打ち破るのは、任せてよ。「あたしって、どうしてこう、すぐ喧嘩越しになっちゃうのかなぁ……。 ほらぁ。すっかり冷めてる。これぇ」佳奈は間を持て余している二人に、箸でお好み焼きの一切れを引き上げて笑う。「おうっ!」威勢のいいマスターの返事と共に、奥さんがテーブルのお好み焼きの鉄板を下げ、カウンター越しのマスターに手渡す。「大人になると、いろんなことがあって厄介だよ。 男ってのはホント、いくつになってもどうしようもないとこがあるからねぇ。 ねえ、あんたっ!」「いつまでも昔のことガタガタ言ってんじゃねぇよ!」「ほらっ。いっつもこの調子なんだよ。この人ったら」「大体男ってのは道草が趣味みたいなもんだい。帰り道に石ころ蹴って、夢中 になったりしてよ。気がつきゃあ、行き止まりがでっかい森だったりして、 そうすっとよ、今度はもっと夢中になれる昆虫追っかけたりしてなっ。 ま、子供の頃はかわいいもんだよ」今は忙しく店を切り盛りしている二人にも、長い間にはいろいろなことがあったのであろう。「何言ってんだよあんた!親が子供を思うのとおんなじ位、子供だって親のこと 思ってるっていう話してんのにさぁ」「あはっ!さっすが年の功!」「佳奈ちゃんっ!」心ならずもピタリと同じ呼吸で、夫婦二人が一緒に声を張り上げる。「ビールお代わりっ!」空のビールジョッキを、差し出しながら佳奈が不意に言い出す。「で、涼子と啓太はどうなったの?」「えっ……?」……ああ、もうぉ、佳奈ったら、しつこい!「そうそう!あたしもどうしてあの時、啓太がいるのか不思議だったのよねぇ」「……」……優美もあんな状況で、そんなこと観察してないでよぉ! 女同士の結束って強い。だけど女同士の抜け目ない会話って怖~い。
2009.08.28

こんにちは。みづきいちえです。いつもご訪問、コメント、応援、ありがとうございます。実は、2~3日前から、風邪でダウンしています コメントへのレス、ご訪問及び応援への返礼が遅れています。復活ののろしを上げるまで、しばらくご猶予下さいませ。どうぞよろしくお願いします。
2006.10.26

中澤は、何でこんなことやっているんだろうと思いつつ、床に腹ばいになって、新商品の携帯電話を、等間隔に並べていた。今秋発売予定の、薄型携帯電話の新商品のポスターに、1000台の携帯電話をドミノ倒しのピースに見立て「犬の尻尾が触れて、倒れ始める」というコンテが上がって来たと聞いた時から、ちょっとどころか、かなり嫌な予感はしていたが、案の定、自分がこのピースを、並べるという作業を手伝う羽目になった。「そこ、もうちょっと右向き!」佳奈が、カメラの向こうで指示を出す。「先輩、そこじゃ、わかんないっすよ」「ほら、そこのカーブのところ、クリーム色のヤツよ」見ると15台位前に置いた、クリーム色の携帯の向きが、ほんの5ミリ程ズレている。それを置き直せば、また、その後に並べた分も、やり直さなければならない。「先輩、ファンダーばっか、覗いてないで、手伝って下さいよぉ!」メーカーも、この新商品には力を入れてるらしく、2世帯同居の家族が全員で持てるよう、カラーもライトな色合いで10種類と豊富だし、綺麗にグラデーションしている。確かに、商品の軽さと薄さ、そして発色の美しさを強調するには、いいアイデアだとは思う。だが、言うは安しだ。中澤と佳奈は、夕方から何度も、この携帯電話を並べては確認して、犬の機嫌をとり、撮影という、気が遠くなるような作業を、行っていた。午前中に撮影を開始した頃は、携帯電話を並べるアルバイトが何人もいて、中澤も他の現場で別の仕事をしていた。アルバイトの拘束時間が過ぎ、ディレクターや、スポンサーなどの見物人も帰って行くと、事務所に戻って来た中澤は、佳奈から電話で呼び出された。スタジオにやってくると、佳奈が一人で、携帯電話を並べては、レンズで確認するという一連の動作を、飽きずに繰り返していた。……ドミノ倒しと、犬と、井上先輩だぞ。すんなり終わる訳、ないじゃん。皮のリードで繋がれ腹ばいになっている、ゴールデンレトリバーのマロンは、退屈そうに、カメラの前から離れた佳奈に、目を向けた。「中澤、これで、カップラーメンでも買って来て!」佳奈が財布から、千円札を数枚テーブルに置き、コーヒーメーカーの方に歩いて行く。マロンは、そんな佳奈の行動を目で追っていた。「そんなことやってたら、12時回っちゃいますよ。 並べるの、 あと50個位だから、それだけでも、やっちゃいましょうよ」中澤は、そのマロンと同じような姿勢で、佳奈に答えた。「もう、今日中には終わらないわ。休憩しよう」中澤は、ドミノに触れないよう、そおっと立ち上がると、佳奈の方に歩み寄る。「でも先輩、病み上がりだし……」「仕事だもん、大丈夫よ。あ、この子にも、何か買ってきてあげて」佳奈は、マロンの頭を撫でながら、テーブルの椅子に座った。撫でられたマロンは起き上がると、嬉しそうに尻尾を振っていた。「おまえ、今みたいに、もう少しタイミング良く、尻尾振ってくれよ」中澤が軽くマロンの頭を押さえると、低い声でワンと唸ったので中澤は一瞬、後ずさりした。「なんだ、こいつぅ」「やだ、この子、今日始めて吠えた」マロンが中澤に向かってリードいっぱいに、歩み寄り喉を鳴らし始めた。どうやら相性が悪いらしい。「ムカツクゥ!こんなに、苦労してやってるのに、恩知らずめ」中澤がマロンに向かって言うと、今度は大きな声で吠えた。「犬って、自分のこと嫌いな人が、わかるって言うじゃない」佳奈が笑いながら「マロン」と呼ぶと、マロンは、得意気に大きく尻尾を一振りし佳奈の足元まで数歩、歩いて行き、お座りをした。「おまえの分、買って来ないぞぉ」「お、やってるね」と、いつの間にか、木谷が明治屋の紙袋を抱え、携帯電話で描かれた壮大なドミノを見渡していた。「社長、来てくれたんですか?」思わず、中澤と佳奈はニヤリと視線を合わせた。「先輩、いい助っ人が、ひとり増えましたよ」マロンは、品定めでもするように鼻を動かしながら、木谷の動きをじっと見つめている。「いやあ、やっと開放されたよぉ。今日のクライアントは、しつこかったなぁ」木谷が「凄いなぁ」などと感心しつつ、ふらふらとドミノに近付く。「社長!気をつけて下さいよ!それ、2時間は掛かるんですから!」「わかってますよぉだ」毒付く中澤に、木谷は、何だか調子がいい。こちらに歩いてくると、佳奈が感じるより、マロンが吠える方が早かった。しかも3連呼で。「社長、もしかして……」「あ、酒くせぇ」中澤も、ようやく木谷のそれに気付いた。「なんだよ、折角差し入れに来たのに、中澤には、やらないぞぉ」木谷は、そう言うとテーブルの上に、カップ焼きそばと、魚肉ソーセージ、紙皿に、シュークリームに、チョコレートという脈略のない代物を並べ出した。さすがは、酔っ払いだ。「これ、探すのに苦労したんだよ」そう言うと、マロンのリードを外し、ドックフードの缶を開け紙皿に移してマロンに差し出す。マロンは、先程までの警戒が嘘のように「角切りビーフ」と書かれたご馳走に、一瞬にして虜になっていた。「ああ、いのちゃん、あゆちゃんとは長いつき合いなんだって? さっき、バッタリ会ってさぁ」木谷は、椅子に座り、魚肉ソーセージの封を口で器用に裂きながら、言い出した。ポットの「沸騰」というボタンを押すと、佳奈は苦笑した。「ああ、長いつき合いって言うか……」……そうそう、アイツ、先輩と、どういう関係?「何?結婚とかするつもり?」……うわ、いきなり核心?!中澤は、慌ててカップ焼きそばのパッケージを開け始めた。「まさか!そんな訳ないじゃないですか!友達の……」「あ!」木谷の魚肉ソーセージが床に落ち、マロンがそれに気付いて咄嗟に咥えた。「こらっ!それ、俺んだぞぉ」木谷が椅子をテーブルの足にぶつけながら派手に立ち上がると、マロンは殺気を感じたのか、一目散に非難した。「あっ!」が、佳奈が声を上げる。中澤は、するどい反射神経でマロンを追いかける。「セーフ!」と、マロンを取り押さえた反動で中澤が倒れ、仰向けになった。やっと、遊んでくれる思ったのか、マロンは中澤の顔を、大きな舌でベロリと舐める。「わあっ、辞めろよぉ!」中澤が、身を交わしていると、背面で、携帯ドミノがパタパタと音を立て、綺麗にラインを描きながら、あっと言う間に倒れて行く。中澤の手が触れてしまったのだ。佳奈の悲鳴より、「あーあ。畜生!」と、ぼやく中澤の声の方が大きい。 ドミノのピースは、果たして携帯電話だけ……かな?! ...... See you next time! ......いつも読んでいただいてありがとう♪重い話が続きました。今回は軽~く、流して下さい(笑)ランキング参加中です。別ブラウザで開きます。たいへんお手数ですが、応援していただけると感激です。:゚(。ノω\。)゚・。 ↓↓↓ 登場人物紹介 人物相関図
2006.10.23

人は、どうして思うように生きられないのだろう。現実というザラザラと乾いた砂の上で、うごめく虫のように、ただ、這い蹲ることが生きていることの証だとしたら、一体、何を思い彷徨っているのだろう。優美は、病院の外のベンチで一服しながら、まるで、自分の分身を見る様に足元にいる一匹の蟻から、目が離せなくなっていた。蟻は、すぐ脇にあるメッシュのゴミ箱に向かって、せっせと足を運んでいた。里奈は検査の結果、特に異常がなく、外傷が癒えれば心配ないと主治医に告げられた。もう通院でも構わないと、今さっき言われ、安心すると改めてこの何日かの騒動とそれと共に訪れた、誰とも口を利かない篭城のような日々が、じわじわと重く圧し掛かってきていた。ここ数日、必要最低限会う人 、医師や看護士、そして売店の店員など、余所行き顔で会う人たちとしか、会話らしい会話を交わしていない。幸子が翌日、見舞いに来たが、付き添うと言ってくれたのを優美が断った。実家の母や兄の手前もあるし、さすがにもうこれ以上、幸子には迷惑を掛けられないと思ったのだ。夫の陽平は、あの夜から一度も帰宅していない。陽平は、里奈の病状を一日一回メールで伺ってくる。それに対して優美は、医師から言われたことを、そのまま機械のように応える。そんな毎日だった。賢司は論外で、このことがあってから電話も掛かってこない。こちらから連絡をしていないので、遠慮しているのだろう。もっとも、優美の方から連絡をとる気が起きない。少なくとも今は 。優美は、深い空虚に包まれていた。全ては、うまくいっているはずだったのだ。里奈のことは、子供好きの幸子に任せておけば、自分が手を掛けるより、却って安心だったし、陽平はいくら女がいようと、妻として最低のプライドは傷つけずにいてくれた。あとは、自分自身の心の安息さえ保てれば、不自由はないはずだった。そんなに、大層なことを求めていたつもりはない。……あたしが、一体、何をしたって言うのよ?蟻が、ゴミ箱に入りそびれた、缶コーヒーの飲み口に向かって、もがいている。括られた透明の菓子パンの空き袋がぴったりとくっつき、目的地に行けないのだ。透明の袋は、一見、飲み口がすぐそこにあるように見える。空き袋の内側には、少し飲み残され、こぼれたコーヒーに、何匹もの蟻が群がっていた。……結婚しているからって、男友達くらい、いたって、いいじゃない。そりゃあ、夫に内緒で賢司に会っていたとはいえ、最後の一線は越えないでいる。もちろん陽平だけではなく、周囲にも気付かれないよう、十分に気を配ってきた。それが功を奏し、今のところ、そのことは誰にもバレていない。 と思う。里奈のことだって、幸子の話だと、最近では、お教室の中で誰より優秀で、先生にも期待されていたと言う。母親がついて行くから、子供は甘えが出てしまうのだ。受験に受かりさえすればいいのだから、誰がお教室に連れて行ったって構わないじゃない。それのどこが、問題だと言うのか。……陽平の罪に比べれば、あたしのしたことなんて、大したことないわ。今回の事件を「たまたま起きた事故」ということにしてしまっては、幸子や里奈が少し可哀想な気がする。そのくらいの分別はあるつもりだった。だけど、だからといって、どうしても、自分だけの責任とは思えない。……それとも、娘に起きた災いは、すべて母親のせいだとでも、言うの?あの時、陽平は、優美を殴った。結婚以来、いえ、生まれてから、優美は人に手を挙げられたことなどなかった。その場では、いろんな悔しさが優美を突き抜けたが、冷静になって考えると、あれでは「自分は、当事者ではない」かのように 、陽平が「いつも父親としての責任を十分果たしている」かのように 、”見える”ではないか。優美自身の思い以上に、そう”見える”ことが、問題だった。あの場で、目撃した人たちには、少なからずとも、そう見えたに違いない。幸子にも、涼子にも、佳奈にも。一緒に居た、男たち二人にも。……あたしの気持ちなんて、判るはずないじゃない。幸子は身内だし、半分は当事者でもある。男たち二人は、この際、関係ない。涼子や佳奈は、大学時代から、ずっと同じ時間を過ごし、誰かに男が出来たと言えば喜び、別れたと言えば一緒に泣き合って来た。女として、一番華のある時代を共に生きて来た、言わば戦友みたいなものだ。判って欲しくないと言ったら、嘘になる。いえ、逆に、一番判って欲しい。……でも、本当のことが話せなくて、親友って言える?結婚してからは、二人の誘いにあまり乗らなくなっていた。どうしても、羨望の眼差しで見られている気がするからだ。元々、市議会議員をしていた父親の影響で、子供の頃からそんな風に見られることには慣れていたが、上辺だけの友情しか育めなかった、高校時代までの友達とは違い、本当の親友と呼べる二人には、そんな風に見て欲しくなかった。結婚したからって、優美自身、昔と何も変わらないのだから。でも、そう見られることで、あえて「宝田陽平の妻」を装っていたのかもしれない。そして、そう装うことが、いつからか苦痛になっていた。二人には、やはり、議員の娘でもなく、社長夫人でもない、本来の自分を知っていて欲しかった。果たして、結婚していない二人に、この気持ちが伝わるだろうか。蟻は、缶コーヒーの逆側に向かって、方向転換して歩き始めた。菓子パンの空き袋と缶本体が邪魔で、ぐるりと向こう側を回らなければ、こぼれたコーヒーに辿り付けないことに気付いたらしい。……今度、会って、全部……、話してみようか。もう、どんなに装っても仕方がないのだ。あの一夜で、家の状態が普通じゃないということは、大方察しがついてしまっただろう。今まで、何とか「HeIZの宝田陽平の妻」であるという対面を崩さないように努めて来た。陽平に女がいるということにも、目を瞑って 。でも、それがどうしたというのだ。こうして限られた世界で、何とか妻としての役割を果たしているうちに、窒息しそこなった自分が、確かにここに、いるではないか。あの夜、涼子たちに「家庭の問題に立ち入って欲しくない」と思った。だけど、家庭の問題以上に、女としての心の問題が、今、燻っている。賢司と会うことで自分自身を誤魔化し、現実逃避していたのかもしれない。何かに縋りたかった。でもこればかりは、自分で答えを見つけなければ、救われないのだろう。悶々と迫り来る問いかけに、優美は、涼子や佳奈の心配そうな表情を思い浮かべてた。……この間のこと、許してくれるかな。あの夜の出来事については、何度も思い起こしていたが、陽平のことばかり考えていた。涼子や佳奈たちの気持ちを、今改めて考えると、優美は急に恥ずかしくなった。いかに普段と違うといえ、二人には、とても酷いことを言ってしまった。……謝らなくちゃ。缶コーヒーに辿り着いた蟻は、やっと仲間たちと合流した。甘いコーヒーの味はどんなものだろう。きっと、涼子や佳奈なら、話せば判ってくれる。そんな気がした。……だって、親友だもの。優美は、もう1本煙草を吸おうをしたが辞めて、里奈がいる病室に戻ることにした。退院の準備を、しなければいけないのだから。院内へと向かう優美は、もう一度、蟻に振り向き、小さく微笑を浮かべた。 ...... See you next time! ......いつも読んでいただいてありがとう♪ランキング参加中です。別ブラウザで開きます。たいへんお手数ですが、応援していただけると感激です。:゚(。ノω\。)゚・。 ↓↓↓ 登場人物紹介 人物相関図
2006.10.17

計算が合わない。さっきから、こうしてずっと見積書と向き合っているが、検算してみると、どうしても誤差が出てしまうのだ。雄二は机から離れると、部屋の角に置いてあるアコースティックギターを抱え、一人掛け用のソファに座りなおし、おもむろにポロポロと演奏を始めた。こういう時、雄二はよく、気分転換にギターを弾く。曲は何でも良かったのだが、今夜は”スティングのフラジャイル”のイントロを繰り返してしまう。つい、これが出るということは、決して愉快な気分では、ないということだろう。行き詰まっているのだ。仕事も、結婚も。と言うより、この憂鬱な気分の理由は明らかだった。別に、仕事に問題がある訳でも、涼子との結婚が嫌な訳でもないのだ。恵理子のことが引っかかって、集中出来ないだけだ。”だけ”とは言え、これが、全てに起因するのだから、やっかいだった。新しい店舗へのクレームの嵐が済んだと思ったら、今度は「結婚式をするのなら、涼子のハンドケアとネイルは、自分がお祝いするから、ぜひ一度、店の方に連れて来て欲しい」などと言い出した。それが嫌なら、別れるなどと言わず、結婚してからも少しぐらい時間を作ってくれても、いいではないかと。そんなバカな話があるか。これでは、まるで脅迫ではないか。何を考えているんだ。恵理子だって、夫がいる身なんだ。そこまで言われる筋合いは、ないと思ったが、恵理子と対峙していると、どうも、自分がとんでもなく悪い男に、思えて来る。何とか別れる方向に、話を持って行くと、散々憎まれ口を叩き、その後は、詰られ、最後には、泣かれてしまうのだ。この1ヶ月、何度それを、繰り返しただろう。いつも強気な恵理子の涙は、例え、それが恵理子の計算だとわかっていても、雄二には、相当応えた。どうしていいのか、わからなくなる。これを振り切りさえすれば、と思うのだが、性格的にも非情な男に、なりきることが出来ない。こうして一人になると、別に、憎まれたって、いいじゃないかと思うのだが、いざ、その場になると、どうしても最後には、話が違う方に向かってしまう。雄二は、もう、何もかも面倒になっていた。ゴタゴタと揉めて別れるより「いっそ、このまま自然の流れに身を任せようか」という思いと「やはり、ここですっぱりと、別れるべきなのだ」という思いが、寄せては返す、波のように、雄二を飲み込んでいた。携帯のコールが鳴り響く。慌ててギターを置くと涼子からだった。「涼子か?」「うん」涼子の声は、いつになく沈んでいる気がした。「どうした?」「……なんとなく」「佳奈ちゃんのとこ、泊まってるんだろ?」「今日は、佳奈の具合が悪そうだから……」「家か」「うん」何やら、涼子の口が重い。「何だよ」「……雄二、あたし達、結婚するんだよね?」「何言ってるんだよ、今更」「ねぇ、あたしのこと……、愛している?」雄二は、軽く失笑した。「どうしたんだよ、急に」「ねぇ、愛している?」「だから、結婚するんだろ」ガラス細工のようだ。フラジャイルという曲が、今夜の涼子に似合っている気がした。……きっと、この間話していた、両親の話を、まだ気にしているんだ。雄二は、さっきまで考えていたことが、涼子に対して、ひどくすまない気持ちになった。「安心しろよ。絶対、幸せにするから」「ごめん。急に変なこと言ちゃって。 ちょっと、声が聞きたかっただけなの」「俺は、いつも涼子の側にいるから」「ありがとう」「おやすみ」「おやすみなさい」電話を切ると、雄二はやはり「涼子を傷つけるようなことをしては、いけないんだ」と思った。涼子に、こんなに頼られ、愛されているのだから。「お兄ちゃん、コーヒー入ったけど……」部屋がノックされたので、ドアを空けると母の宏子が入って来た。「たまには、涼子さんを、家に連れて来て頂戴よ」……お袋まで、こんなことを言うのか。「いろいろ忙しいんだよ」「あら、だけど、母さんだって、涼子さんと仲良くしたいもの。 これからのこともあるし。それとも涼子さん……迷惑なのかしら?」……女ってのは、いくつになっても面倒な代物だよなぁ。「そんなはずないだろ。涼子は来たがってるんだよ。だけど、 俺が忙しいんだから、しょうがないじゃないか」「もう、これだから男の子二人なんて、つまんないわねぇ。 あなたといい、和弘といい。……母さん、娘が欲しかったわ」最近、自分が嫁にでも行くかのように、はしゃぐ母を見て、雄二は母が10年は若返ったような気がしていた。「涼子さんとは、気も合いそうだし、フラワーアレンジのお友達にも、 そう話したら、羨ましいって。ほら、よくある嫁姑にはならないって」……嫁姑なんて、これ以上、やっかいごと増やさないでくれよ。「一緒に、お買い物したり、 お料理したりするの、 母さん、楽しみにしているんだから」「結婚したら、嫌でも出来るよ」「あら、だけど、結婚したら新居に移っちゃうじゃない。 今のうちに、教えておいてあげたいこともあるし。 あなた忙しいなら、母さんは、涼子さんと二人でも構わないわよ」雄二は、ウエッジウッドのカップに注がれた、モカコーヒーを口に入れた。……こんなカップ、今まで家にあったっけ?「却って、いいかもしれないわ。その方が、女同士、楽しそうじゃない?」涼子との結婚が決まってから、高価な食器を買って来ては「これ、涼子さん気に入るかしら」とか、派手なバスマットを広げては「これなら、新婚家庭にぴったりでしょう」だとか、母の浪費が増えたような気がする。「今度、涼子さんに会ったら、母さんがそう言っていたって、言っておいてね」「ああ、わかったよ」「そうだわ。今度、涼子さんに、お花のことも少し教えてあげようかしら。 それがいいわ」ひとり楽し気に、そういい残し、母は部屋を出て行った。きっと、念願の、娘の母親になったような気分を、味わっているのだろう。となると、問題はここにもある。「親父、まだ言ってないんだな」例の涼子の両親を、結婚式に招かない件だ。この間、父親の雄一には話して、了承を得ていた。だが、この様子だと、母はまだ知らされていないらしい。涼子の家庭環境については、交際が始まり、雄二自身が涼子から聞かされた時点で、雄二の両親にも話していた。最初に涼子が家に訪れた時、母も「これからは、自分が本当の母親だと思って、何でも相談して欲しい」と涼子に同情的だった。涼子も「優しそうなお母様ね」と嬉しそうにしていた。が、とかく世間体を気にする母のことだ。親戚や、父の会社関係、それに長年の趣味であるフラワーアレンジのお友達の手前もあり、気にするのではないだろうか。……一悶着ないといいけどなぁ。雄二は、カップの横に添えてあった母手作りの小さなクッキーを口に入れ、そんな不安を振り切るように、見積書に向かって計算を再開した。 ...... See you next time! ......いつも読んでいただいてありがとう♪ランキング参加中です。別ブラウザで開きます。たいへんお手数ですが、応援していただけると嬉しいです f^_^; ↓↓↓ 登場人物紹介 人物相関図
2006.10.11

こんにちは。みづきいちえです。いつも<美しき月の夜に>へお越しいただき、「熱砂の霧」を読んでいただいて、ありがとうございます。また、ランキングの応援、誠に感謝いたします。前回から結構、間が開きました。「熱砂の霧」も「ブレイクタイム」もです と言って、こう、しょっちゅう みづき が登場すると、商品価値が下がってしまいそうで…… 何?商品価値って……? ナンノカチヤネン?ええ、ええ。こんな風にしゃしゃり出てくる時は、タダじゃ転ばないんです 最近、コンテンツが増殖中です 中秋の名月でおなじみになったかもしれませんが、ムーンカレンダーなんていう代物を貼り付けています。はい、自他共に認める私設応援団長、管理人@しんじワールド さんご指摘どおり、これ自家製です。ソフトじゃないので、 完全アナログ式フル手動管理 せっせと夜も更けた頃、トップページには一言コメント付きで縮小版を更新しております。今日の月はどんな月か知りたくなったら、見に来てやって下さいませ。飽きたら、やめます だって……、当ブログは小説がメインですから支障が出たら、いけないし 「もう、ムーンカレンダーなんて、とっくに知ってるわよ!」と、お嘆きのそこの貴方。はい、もうひとつ、本日お披露目のコンテンツがございます。じあゃ~ん! The Music of NESSA!だから何って?今回の19話で、またもや性懲りもなく音楽を登場するシーンを描いてしまったのです。デザフィナード以来ですが、なんのこっちゃ?という方も、そうでない方も改めて「熱砂の霧」由来の音楽コーナーを設けました これで、心置きなく、どんな音楽のシーンでも描くことができる?!ちなみに今回19話登場の「スティング/フラジャイル」は当初、かなり流行ったものなので、ご存知の方も多いかと思いますが、もちろん視聴サイトを探してきましたので、よろしかったら、ご賞味くださいませ。スティング/フラジャイル視聴最近、こうして小説がコンスタントに描けるのも、コメント欄や掲示板へ書き込む頂く、皆様のお陰だとつくづく感じます。12話「求めぬもの」では、ななこむ さんのブログからヒントを得て陽平とマリアのホテルでのシーンが誕生しました。18話「白い陰影」では、お局ちゃん さん、you170204 さんのコメントを参照して ……きっと、熱が下がり切っていない、佳奈を置いて 帰って来ちゃった、バチが当たったんだわ。なんていう涼子の心の声が生まれたり、今回19話「フラジャイル」のウエッジウッドのカップはわらしべYOSSYさんと掲示板で戯れている内にその銘柄があがりました。本当に皆様、ありがとうございます。他にもたくさんありますが、またまた機会がありましたら、ご紹介させていただければと思います。あとあと、お陰様を持ちまして、この間に当ブログが10000アクセスを超えました。これもひとえに、お越しいただける皆様のお陰でございます。末筆ながら、重ねて深く感謝を申し上げます。更なる躍進を目指して、小説も、コンテンツの充実も図って行きたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします
2006.10.11

19話のタイトルにもなった「フラジャイル」小説では、涼子の婚約者、雄二がアコースティックギターでイントロを繰り返し奏でるシーンとして、使わせていただきました。「フラジャイル」は「こわれやすい」という意味。この曲はまさにそんな繊細なギターのフレーズが聴いた人の心を離さない美しいものです。1987年発表当時、イングリッシュマン・イン・ニューヨークが流行り、後に、映画「レオン」の主題歌となったことで、あまりにも有名な曲です。耳にされたことがある方も、多いのではないでしょうか。このスティングのフラジャイルの視聴はこちらから出来ます。◇本日のみづきオススメアルバム◇スティング /ナッシング・ライク・ザ・サンスティング自身の母親が逝く前後にレコーディングされた3枚目のソロアルバム。母性や母への愛情といった面が全面に押し出され、初のソロアルバム『ブルー・タートルの夢』などとは趣を異にする叙情的な内容に仕上がっています。ジャズやレゲエ、ボサノバなどをうまく取り入れ、独特なスティングワールドが繰り広げられます。クラプトンやマーク・ノップラー、アンディ・サマーズ、そしてギル・エヴァンスなどゲスト陣も超豪華。みづき個人としては「リトル・ウィング」のハイラムブロックのギターソロが泣けます。 <曲目リスト>1. ザ・ラザラス・ハート2. ビー・スティル・マイ・ビーティング・ハート3. イングリッシュマン・イン・ニューヨーク4. 歴史はくり返す 5. 孤独なダンス 6. フラジャイル 7. ウィル・ビー・トゥゲザー8. ストレート・トゥ・マイ・ハート9. ロック・ステディ10. シスター・ムーン11. リトル・ウィング 12. シークレット・マリッジ ※〈CDエクストラ〉内容:イングリッシュマン・イン・ニューヨーク 【スティング】1952年10月2日 イングランド北東部のニューカッスル・アポン・タイン生まれ。1977年ポリス結成。1978年デビュー。1985年からは本格的にソロ活動を開始。1999年発表のブラン・ニュー・デイではグラミー賞を2部門で受賞。熱帯雨林の保護運動家、国際的な人権保護運動家の側面を持つ。
2006.10.11

7話「昔の自分」で涼子が寄り道して聴いた曲、デザフィナード。涼子と啓太の思い出の曲として、18話「白い陰影」にも再登場と、これからもまだまだ登場しそうな気配です。ポルトガル語表示では DESAFINADO発音は「ジザフィナード」意味としては、小説内にもありますが、「調子っぱずれ」「音痴」など、有名な楽曲らしからぬものです。この曲については、ガル・コスタ、アントニオ・ カルロス・ジョビンニューヨーク・ヴォイセス等数多くの有名ミュージシャンがカバーしています。高度なギター奏法と、ジョアン独特なささやくような歌声をかのマイルス・デイヴィスは「ジョアン・ジルベルトは電話帳を読んでも美しく聞かせることができる」と言ったとか(笑) ジョアン・ジルベルトのデザフィナードの視聴はこちらから出来ます。 ◇みづき、オススメのボサノバ初心者向けアルバム◇ボニータ!ボサノヴァユニバーサルというアメリカの大手レーベルが所有する膨大なボサ・ノヴァ音源の中から、爽やかで明るい楽曲ばかりを選曲。今年の5月に発売された、ボサノバ・コンピレーションアルバム。名曲ばかりが収録されているので、ボサノバ初心者の入門編としてはGood!みづきもこれを聴いて、7話「昔の自分」のイメージを描きました。<参加アーティスト>ナラ・レオン/スタン・ゲッツ,ジョアン・ジルベルトアストラッド・ジルベルト&ワルター・ワンダレイアストラッド・ジルベルト,ワルター・ワンダレイタンバ・トリオ/ジルベルト・ジルアントニオ カルロス・ジョビンエリス・レジーナ/マルコス・ヴァーリ<曲目リスト>1. ワン・ノート・サンバ 2. ソ・ダンソ・サンバ 3. ソー・ナイス(サマー・サンバ) 4. マシュ・ケ・ナーダ 5. ホーダ 6. イパネマの娘 7. 小舟 8. ペピーノ・ビーチ 9. オルフェのサンバ 10. ビリンバウ 11. 帆掛船の疾走 12. バイヤの想い出 13. クリケット・シング・フォー・アナマリア 14. 波 15. サーフボード 16. ネガ・ド・カベロ・デュロ 17. 想いあふれて 18. デザフィナード 19. ビーチ・サンバ 20. オ・サンバ・ダ・ミーニャ・テーハ 21. ア・ハン(カエル) 22. ドミンゴ・ア・ノイチ 23. ウッパ・ネギーニョ 24. トリステーザ 25. 三月の雨 ◇ジョアン・ジルベルトのアルバム◇アコースティック・ライヴ~あなたを愛してしまう~これは彼が94年に発表した、本国ブラジルのサンパウロ、パラセにおけるライヴ盤です。デザフィナードを始め、あなたを愛してしまう、想いあふれてなど有名な名曲揃いです。あの、ささやくような歌声をライブ盤で聴いてみたい方はこちらがオススメです。<曲目リスト>1. あなたを愛してしまう2. デザフィナード3. 君は愛を知らない4. フォトグラフ5. ホーザ・モレーナ6. バイアーナがやってくる7. マダムとの喧嘩はなんのため8. イスト・アキ・オ・キ・エー9. メディテーション10. 罪の色11. グアシーラ12. さよならを言うくらいなら13. 想いあふれて14. 愛なき者のワルツ15. コルコヴァード16. エスターテ17. 平和な愛18. 十字架のもとで【ジョアン・ジルベルト】1931年6月10日、ブラジル北東部バイーア州ジュアゼイロに生まれ。ブラジル在住。マスコミを嫌い何十年も、自分の音楽を探究し続けてきた「ボサノバ」の創造主。ソロデビューは1951年。「イパネマの娘」はボサノバ・ファンならずとも有名。2006年11月、来日予定。※この記事は、8月22日のブレイクタイムとフォトアルバムのコメントに、 加筆したものです。
2006.10.08

……あり得ない。こともあろうに「やらせてよ」とは、どういうつもりなんだろう。……きっと、熱が下がり切っていない、佳奈を置いて 帰って来ちゃった、バチが当たったんだわ。啓太に歩み寄ろうとした、涼子の足は、一歩も前に出せなかった。啓太は、そんな涼子を軽く嘲笑する。「なぁ、トイレ貸してくんない?」「……?」「いいじゃん、トイレくらい」そして何事もなかったように、涼子のマンションのエントランスに向う。「ちょっ、ちょっと、待って。何なの?」「トイレだよ……」啓太は、急ぐ足を止めない。「もお!待ってよ!」涼子は、つき合っている時と同じように、啓太の後を追う。まるで 、4年間の時など、無かったかのように 。嵐は、急速に遠ざかる。流れ行く雲をフィルターに、薄っすらと光って見えるのは、月だろうか。そうだとしたら、今、足早に歩いて行く、白い背中は、狼?最近のマンションは、エントランスにもオートロックが付いているが、この時程、涼子は、それがあって欲しいと、願った記憶を持たない。エレベーターの前でようやく、啓太に追いつくと、ここでもまた出鼻を挫かれる。「飯、食った? トイレ済ませたらさ、何か、食べ行かない?」「ねえ。だから、そうじゃないでしょう?」「じゃあ、何? 涼子は「元気だったぁ」みたいのが、いいの?」「……」「昔から、マニュアル通りが、好きだったもんな」もう、呆れすぎて、溜息しか出ない。「そういうのが、いいんなら、もう一度、道玄坂、行くか?」「そういうことじゃなくて……」エレベーターに乗り、何の迷いもなく6階のボタンを押しながら、啓太が笑う。まるで、昨日も一昨日も、こうして二人並んで、歩いて来たみたいに。昔、デザフィナードを聴いて「調子っぱずれって意味なんだぜ。俺の人生そのものだろ」と笑った、あの時と同じ顔だ。もっとも、あの頃の啓太は、髭など生やしていなかった。やはり、あの頃と同じであるはずがない。時空を戻してみると、涼子にだって、言い分はある。「大体、いきなり、人の家の前で待っていて、あの第一声は、なんなの?」「別にいいじゃん、男だもん」「4年ぶりで会った、元カノに対して、失礼だと思わない?」「何?本気にしたの?」「本気にって……」それは、鮮やかな手口だ。あっと言う間に啓太の唇に、言葉を塞がれる。何秒だろう、6秒?7秒? 涼子は、息が出来ずにやっとの思いで、啓太から離れた。啓太の瞳に写る、自分の表情がここでも「あり得ない」と涙目だ。「最初から、こうして欲しかったんでしょ?」啓太が涼子を覗き込み、そう、ささやくと、エレベーターの扉が開いた。……冗談じゃないわ!「お手洗いは、使って行けば、いい。だけど、用が済んだら、帰ってね!」エレベーターから降り、部屋の前まで、今度こそ、先に発って歩くと、玄関の鍵を開け、啓太に向かって「どうぞ」とドアを開き、自分は、廊下で、啓太が出てくるのを、待つことにした。唇の感触と、昔はなかった髭のくすぐったさが、今も、はっきり残っている。涼子は、自分が動揺していることも、十分判っていた。塞がれたのは、唇だけではない。心もだ。……別に、キスぐらい、何よ。この状況に対して、自分がどこに気持ちを落ち着けていいのか、判らない。ムカつくのと、気恥ずかしいのと、ほんの少しの懐かしさ、それだけじゃない。情けないのと、ちょっと嬉しいのと、悲しいのが、一緒くたになって染まり、それが何色なのか、見当もつかない。更に、そんな想いを悟られたくない、というプライドまで、一役買って、よじれている。これを「ときめき」と呼ぶには、あまりに乱暴すぎる。涼子が大きく溜息をつくと、啓太が部屋から出てきた。「なあ、本当に、何か、食いに行……」「行かない」涼子は、とにかく、早く、ひとりにして欲しかった。「涼子も持ってたんだな。デザフィナードのCD」……嘘!この間、ボイスに寄り道した後、懐かしくなって、 出して、そのままにしていたんだわ。 もう、一瞬たりとも、顔を見られたくない。涼子が急いで、ドアを閉めようとしているのに、啓太はまだ話しかけてくる。「俺……、今でも好きだよ。デザフィナード」「……」啓太を無視して、涼子は、ドアを閉めると涙が零れ落ちた。と、同時に 、「涼子のことも」今夜、最後の啓太の声が聞こえた。 ...... See you next time! ......いつも読んでいただいてありがとう♪ランキング参加中です。別ブラウザで開きます。たいへんお手数ですが、応援していただけると感激です。:゚(。ノω\。)゚・。 ↓↓↓ 登場人物紹介 人物相関図
2006.10.05

台風は、それが通り過ぎてみないと、被害の大きさは判らない。その、 深刻さも。関東地方の太平洋側をすり抜け、宮城沖で熱帯低気圧となった、台風1号の場合は、どうであろうか。家屋の浸水、農作物への被害、積んであった荷物が水浸しになって、二度と利用することが出来ないなど、今夜の台風がもたらした影響は、各方面にて、これから調査され、明らかになるだろう。幸いにも、死者や行方不明者が出た、といったニュースは、今のところ聞かない。少なくとも、中澤の車のラジオから流れるニュースでは、そんな報道はなかった。……里奈ちゃんの事故は、災害事故? それとも、人災って呼ぶのかなぁ。中澤から、佳奈と共に、佳奈の恵比寿のマンションに送り届けられた涼子は、貰ってきた薬を佳奈に与え、タオルを探しながら、そんなことを考えていた。中澤は、佳奈と涼子を車から降ろすと、佳奈の22階の部屋の前までは、一緒に来てくれたが、当然のように帰って行った。中澤は病院を出てから、車の中でも、今夜のことは、一切口にしなかった。……あんな光景を目の当たりにして、中澤君は、一体どう思っただろう。佳奈は、家に着くとホッとしたのか、具合の悪さを隠さなかった。「ごめん、涼子。横にならせてもらうね。適当にくつろいで......」涼子にそう断ると、湿った服からパジャマに着替え、すぐにベッドに入った。今夜は元々、佳奈の家に泊まる約束だったが、当の佳奈の具合が悪い時に、そんな問いかけをする訳にもいかない。ある意味、佳奈こそ、今回の台風の、一番の被害者なのかもしれない。涼子は、氷枕を買ってくれば良かったと後悔しながら、冷凍庫から保冷剤を見つけ、探し出したタオルで包むと、佳奈の頭を抱え、氷枕代わりに枕へ置いた。佳奈は、熱のせいか、薬が効いたのか、あっという間に眠りに就いていた。……かわいそうに。佳奈が寝込むなんて何年ぶりだろう。 もっと早く 、せめて、待ち合わせをしていた喫茶店で、 最初に疲れた表情を見た時、気付いてあげれば良かった。だけど、今思えば、あの時は、それどころではなかったのだ。涼子は、佳奈に申し訳なく思いながらも、こんな日に、誰とも話せないことを苦痛に思った。……なんだったんだろう。夕方5時から、ほんの1、2時間の間に目まぐるしく、いろんなことがあり過ぎた。今、やっと落ち着いてみると、全て絵空事のようだ。あの宝田さんが、優美を殴るなんて信じられなかった。いつも静かに微笑んでいて、大人で。マスコミ等で取り上げられていても、浮かれてる様子はないし、理知的で、もっと穏やかな人だと思っていた。少なくとも感情任せに暴力を振るうような人では、絶対にないと思っていた。宝田さんに直接会うのは、2年ぶり位だが、優美は、理想的な結婚生活を送り幸せなんだとばかり思っていたのに。……いくら理想的な結婚をしても、幸せになるとは、限らないのね。 優美に一番最近会ったのは、ゴールデンウィーク明けの週だった。里奈ちゃんの教室の合間に、涼子の会社の近くでランチを共にした。以前より会って話す頻度は減ったが、優美は連休中に家族でハワイに行って来たとかで、お土産を持って、わざわざ会社の近くまで足を運んでくれたのだ。昔に比べて、男がらみの話題こそ無くなったが、それでも、涼子の恋愛観や結婚観など、もう、結婚している優美にはあまり関係ないかもしれない話を親身になってアドバイスしてくれるし、コスメの話に至っては、OLの涼子や、会社の同僚なんかより、数倍詳しかった。さすがに、社長婦人だけあって、エステやネイルサロンなんかにも、よく行くらしく、女っぷりが上がったように感じた。外見だけではなく、幸せな結婚がより優美を輝かせているのだろうと、その時も思ったのだ。どんな事情があって、今日、里奈ちゃんをお義姉さんに預けたのかは、わからなかったが、佳奈の事務所に行くと嘘を言うのは、決して好ましいことではない。家族に嘘を言わなければならない、環境は決して幸せだとは思えなかった。……やっぱり、里奈ちゃんの事故は、人災なのよ。里奈の怪我も心配だが、宝田と優美の夫婦関係もいくら、突飛な事故とは言え、あの様子だと、何やら雲行きが怪しい。結婚したら、したで、抱える悩みを優美は、誰にも言えずにいたのかもしれない。そう言えば、優美には、たまにしか会わないのに、最近は一方的に結婚式についての相談ばかりしていたように思う。優美は既婚者でもあり、母親でもある。片や、これから結婚を控えている身だ。涼子はそれを当然のことのように思っていたが、それだけに、今夜のことは、とても衝撃的だった。 ……あの時、あんな言い方しちゃったけど、 もっと、優美の身になってあげなきゃ、いけなかったのかな。 里奈の様子も気になるし、落ち着いたらお見舞い方々、今日のことを謝り、「優美の話も聞いてあげなくちゃ」と、佳奈の寝顔を見つつ、涼子は心に決めた。 佳奈のおでこに手を当てると、病院で倒れた時に比べて、ずいぶん熱が下がったように思う。涼子は、体温計がないだろうかと思い立つと、また家捜しを始めた。友達とはいえ、こんな風に家捜しするのは、プライベートな部分を、覗き見るようで気が引けたが、今夜はやむを得ないと思った。佳奈は、男っぽい性格の割りに、几帳面で、引き出しの中など、きちんと整理が行き届いていた。涼子は、改めて「佳奈を見習わなくちゃ」と思った。……常に整理整頓は、しておくものなのよね。こんな時に関心する自分も妙だと失笑したが、人間、いつ何が起きるか、わからないのだから。いつ何が起きるか、わからないと言えば、今夜、特筆すべきは、やはり啓太との突然の再会だった。……一体、どんな偶然だって、言うのよ。あれほど、啓太のことで悩んでいて、会いたくて仕方ない時には現れず、結婚が決まり、ほんのちょっとだけ不安を感じ、戸惑い始めたその隙に、現れた。ついこの間、"ボイス"での「リハビリ」が済んだばかりだという、このタイミングで会うことになるとは、夢にも思わなかった。再会することがあるとしたら、それは自分が幸せな時じゃなければ、嫌だった。幸せになったら、逆に、こちらから幸せ自慢をしがてら、様子を伺いに行ってやるぐらいに、以前はよく思ったものだ。最近はそんなこと、考えもしなかった。 涼子は、体温計を見つけると、佳奈の脇にそっと挟んだ。今夜、佳奈の診察が終わると、中澤が「僕が送りますよ」と言ってくれたので、啓太は「じゃあね」と姿を消した。何か、引き止めたいような、ホッとしたようなこれもまた、涼子にはとても複雑な思いだったが、却って良かったのかもしれない。二人にされたら、それこそ、何をどう切り出していいのか、わからない。4年という歳月は、思い出話をするには近過ぎるし、近況報告をし合うには、少し遠い時間だった。……37度8分。平熱とは言えないけど、徹夜で看病する程でもないか。佳奈の熱は、下がりつつあった。明日は休みだが、このままここに居ても仕方ないように思え、保冷剤を差し替えると、涼子は佳奈の部屋を出た。 涼子がタクシーから降りると、80メートル先の、自宅マンションの入り口付近に、見覚えのある、紺色のゴルフが止まっていた。 ……まさか。 少し歩くと、その車の運転席側のドアが開き、白いジャケットの男が近寄ってくる。 ……やっぱり、啓太。 涼子は一瞬、足を止めた。啓太はあの後ここまで来て、いつ帰宅するかも、わからない、私を待っていたというのか。予定通り、佳奈の家に泊まっていたとすれば、今夜は帰らないはずだった。とにかく、まさか、ここに啓太が来るとは、思いもよらなかった。軽く溜息をつき、啓太に歩み寄る。 「やらせてよ」 「……」 ……はぁ? 涼子は、耳を疑った。これが、4年ぶりにまともに顔を合わせた、元恋人に対しての、啓太の挨拶なの?昨日の今日、会う恋人同士じゃあるまいし、今時、痴漢だって、もう少し、マシな言い方をするだろう。台風の被害、それは、何も、目に見えるものだけとは限らない。気が付くと、思わぬところに、爪後が残っていることも、ある。 ...... See you next time! ......いつも読んでいただいてありがとう♪ランキング参加中です。別ブラウザで開きます。たいへんお手数ですが、応援していただけると嬉しいです f^_^; ↓↓↓ 登場人物紹介 人物相関図
2006.10.02

賢司と映画館から出た優美は、携帯電話の電源をONにすると、着信履歴が、24件も入っているので、何事かと思った。兄嫁の幸子から14件、涼子からが9件、そして、夫の陽平からは、1件。皆、どうかしてるのかと思ったが、最初に入っていた幸子の留守電を聞いて、慌てて新宿から、病院に飛んで来た。病室に入ると、何人もの目が一斉に優美を振り返り、一瞬ドキリとした。まずは、里奈を確認すると、頭を包帯でぐるぐる巻きにされ、眠っていた。ベッドの脇で里奈の手を握りながら、青ざめた顔で座っていた幸子が、立ち上がる。「優美ちゃん、ごめんなさい。こんなことになっちゃって」「容態は?」「前頭部の傷からの出血が酷かったらしいの。傷自体は 大したことないって。ただ、頭を打っているから、 入院して検査が必要だ。って。 あと、肩も脱臼しているみたい……」「そう」良かった。さすがに、やっと落ち着き、溜息まじりに安堵した。「あたし……、本当に何て言ったらいいか。 お料理をしている時に、ちょっと、目を離したら……」「お義姉さんが、気にすることじゃないわ。 誰が居たとしても、事故みたいなものなんだから……」優美がそう言うと、幸子は弱々しく笑いながら、「里奈ちゃん、ママが帰って来たわよ」と、優美に席を譲った。……本当に良かった。安堵すると共に、今まで病室の壁と同化していたギャラリー達に、ようやく意識が行く。「みんな、一体、何?」優美の言葉に唖然としている啓太と中澤、そして涼子を代表して、口火を切ったのは、佳奈だ。「一体、何?じゃないでしょう。何やってたのよ」「ええっ?」「今まで、どこでどうしてたのよ!」「……あたしだって、いろいろ忙しいのよ」「お受験で。でしょ?」佳奈は、まっすぐ優美を見据えて、捕らえた獲物を逃す気はないらしい。「……他にも、……色々あるのよ」「だいたいね……」だが佳奈は、眩暈がしたらしく、勢いが途切れた。助かった。自分が獲物だということを自覚していた優美は、そんな佳奈の性格を昔から熟知していた。どう言い訳しようか、何も考えていなかったのだから。「ねぇ、風邪引いたんじゃないの?」涼子が、佳奈を支える。「凄い、熱じゃない。横になった方がいいわ」「僕、先生、呼んできます」中澤が病室を出ようとすると、佳奈が「大したことないから」と引き止めた。佳奈を病室のソファに落ち着かせると、佳奈のピンチヒッターを、涼子が勤める。「優美、里奈ちゃんが、どんな思いでママを待っていたと思っているの? もう少し、考えてあげた方がいいわ」「陽平みたいな言い方するのね。辞めてよ。そういうの」優美は涼子にまで、そんな言い方をされる覚えはないと思った。涼子は、少しびっくりしている。「優美、どうしちゃったの? 昔は、そんなじゃ、なかったよね」「余計なお世話だわ。第一、涼子たちには……、関係ないでしょう」「……」一瞬、気まずい空気が流れる。いくら親友だからって、夫婦や家庭の問題には立ち入って欲しくなかった。遠くから、院内アナウンスや、廊下すれ違う足音、そして雨音が響く。「腹、減ったよな」啓太が誰にともなく、呟いた。……なんで今更、鮎川啓太がここにいるんだろう。 涼子だって、結構うまくやっているじゃない。「そう言えば、お腹、空きましたよねぇ」佳奈を心配そうに寄り添っていた中澤が、無理に笑う。……今度は、年下?佳奈だって、節操がないわ。「もう、お引取り下さって、結構よ。佳奈も具合が、悪そうだし」優美がギャラリーたちに背を向け、里奈の方に姿勢を正すと、病室のドアが派手にガラガラと開いた。「里奈!」宝田陽平が、里奈の傍らに走り寄る。「一体、どういうことなんだ、説明しろよ」陽平の目は言葉以上に、優美に厳しかった。「……ちょっとした事故よ。……大事に至らなくて良かったわ」優美の歯切れは、悪い。でも、陽平より、一歩でも先に病室に来れたことが唯一の救いだった。「お前、側にいなかったのか」「優美ちゃんのせいじゃないの。あたしが……」思わず、幸子が黙っていられなくなり、口を挿む。「仕方ないでしょう。ちょっと目を離した隙だった……」優美が全てを言い終わらないうちに、陽平の手がピシャリと優美の頬を打つ。「仕方ないで済ませるのかよ。お前、母親だろ!」「……」……「母親だろ」ですって?じわじわと頬が熱い。頬を手で抑えながら、優美は今、大嫌いな一言を、大嫌いにならないよう努めている、陽平から、聞いた。……まただわ。涙が出そうだ。でも絶対、泣きたくない。陽平の前だけでは、絶対。……最低ね。「母親だから、仕方ないって言っているのよ。 そう言う貴方は、立派な父親なんですもんね」雨が、もう降ることに飽きたのか、ピタリと止んだ。台風は、峠を越えたらしく、風も穏やかになった。涼子と中澤は佳奈を支えて、病室を出て行き、啓太もそれに続いた。間もなく、幸子も、一度家に帰ると言って、病室を出た。夫婦二人、久しぶりにまともに向き合ってみると、何を話したらいいのかわからない。……あたし達、どうして、こんな風になっちゃったんだろう。それは、今まで優美が、考えることを先送りにして来た、問題だった。なんとなく曖昧にして過ごすことが、一番の解決策だと思っていたからだ。でも、こんな風に言い合ってしまっては、何か新しい結果を出さなければ、いけなくなるではないか。とりあえず、賢司とのことは、バレないで済んでいる。だけど、今までの自由で平穏な日々は、戻らないかもしれない。いろいろな意味で、取り返しの付かない事故となってしまったことを、改めて、優美は、悔やんでいた。 …… See you next time! ……いつも読んでいただいてありがとう♪ランキング参加中です。別ブラウザで開きます。お手数ですが、応援いただけると嬉しいです f^_^; ↓↓↓ 登場人物紹介 人物相関図
2006.09.28

こんにちは。みづきいちえです。いつも<美しき月の夜に>へお越しいただき、「熱砂の霧」を読んでいただいて、本当にありがとうございます。また、ランキングの応援、誠に感謝いたします。なんだかんだと「熱砂の霧」も「ブレイクタイム」も間が空いてしまいました。申し訳ありません。 旦那の両親の接待から、怒濤の15話「意味のある偶然?」を書いたら、少し頭を冷やしたくなり、あちらこちらへネットサーフィン勉強の旅。息抜きにスパイダ ソリティア(パソコンのプログラムに入っているトランプのゲーム)なんかで頭を真っ白にしてみました どうも、一度まったく違う世界に行かないと涼子や佳奈、優美の気持ちをスイッチ出来なくなりつつあります。 少し古いですが、大河ドラマ「新選組!」の脚本を書かれた、三谷幸喜さんなんか尊敬に値します。主人公は1人ですが、7人位のレギュラーの気持ちを行ったり来たりと、さぞ、大変だったのではないかなぁ さて、創作のグチは置いといて、公言していました両親の接待ですが……なんと、こちらも台風で、すべての予定はキャンセル 81歳のお義父さんは、やっぱり長時間歩くのは無理なんですよ。それでも皆の気持ちを汲んで、無理に頑張って歩こうとするから、かわいそうで。天気の悪さを口実に、家でのんびり過ごしていただきました。ま、みづきの家に来る前に、既に今回結婚した従兄弟の父で、お義父さんの弟に当たる、叔父の家に3日程、滞在し、何かと観光に連れ出され、かなりお疲れになってしまっていたのもあったのですが。しかし!家でのんびりとなると、今度は、朝昼晩のご飯の支度とか、却ってみづきにはプレッシャーだったりして ふだん二人分の食事しか作っていないのに、一気に総勢14名のご飯は、一体、何合お米磨いだらええんじゃい(>o
2006.09.28

渋谷駅の渋東シネタワーは、この天候のせいか、若者でごった返していた。金曜日の午後5時半なんて、誰もが待ち合わせをしそうな時間帯だし、台風のせいで皆、表を歩きたくない気持ちは同じだろう。涼子はその2階にある、喫茶店で携帯を手に、佳奈の到着を今か今かと待っていた。大きなガラスが壁の一面を占めている店内のカウンターからは、異様に早く流れる雲がよく見え、激しい雨が、まるで顔に直接掛かるのではないかと思う程、激しさを増していた。会社からここまで幸いにも涼子は、あまり雨に当たることなく、やって来ることが出来た。こういう時、地下鉄から直接アクセス出来る待ち合わせ場所はありがたい。佳奈の携帯から電話が入ったときは、遅刻の言い訳かと思った。突然、男の人の声が聞こえ驚いたが、用件はそれ以上に緊急を要した。中澤から「優美の娘の里奈が、大怪我をして運ばれた」と連絡を受けたのは、頼んだカフェラテに砂糖を入れ、飲もうとした時だった。連絡を受けた涼子は、折角のカフェラテにも手を付けず、何度も優美の携帯に電話をしているが「電波が届かないか、電源が入っていない為、掛かりません」というアナウンスが、虚しく流れるだけだった。……優美、何やっているのよ。そもそも、今日、優美が佳奈の事務所に行くことは、聞いていなかった。3人の間では、昔から、二人の内、どちらかに何か話せば、体外もう一方にも、話は筒抜けになる。取るに足らないことであっても、特に佳奈は、優美がらみで何か聞くと面白おかしく伝えてくれるのだが、今日のことは何も言っていなかった。突発的に予定が入った、可能性が大きい。だいたい優美は、当の里奈ちゃんの受験準備が忙しいとかで、最近、あたし達との付き合いから、遠ざかっていたではないか。……佳奈が来れば、少しは何か、わかるかもしれない。涼子は出入口付近を気にしながら、根気よく優美の携帯の番号をリダイヤルしていた。……佳奈?しばらくそうしていると、見紛う程、頭からびっしょり濡れた姿で、ぐったりと疲れた顔の佳奈が、歩いて来た。「ずぶ濡れじゃない。風邪引いちゃうよ。傘持ってなかったの?」「こう酷くちゃ、傘なんて、ぜんぜん意味ないわ。車、下に待たせてるし……」「……」佳奈は座りもせず、ぼうっと立ち尽くしていたが、必死に電話を掛け続ける涼子の様子に異変が伝わったらしい。「……?」「大変なの。優美のところの里奈ちゃんが救急車で運ばれたって、今、中澤君 から連絡が入ったの。座って温かいものでもって言いたいんだけど……」「ええっ?」涼子は、携帯を片手に、立ち上がって、バックと傘を手にした。「それが、優美に連絡取れないのよ。とにかく病院に行った方がいいよね」「えっ?ちょっと待って。頭働かない。……中澤?」「佳奈の事務所の中澤君よ」「ああ。……えっ?なんで?」「携帯、事務所に忘れたでしょ」「うん。でも、どうして?」「こっちが聞きたいわよ。優美が佳奈の事務所に行ってる筈だって 連絡が入ったんだって。優美のお義姉さんから」「何それ?」「ええっ?佳奈も聞いてないの?とにかく病院行こ!」涼子はそう言うと、一目散にレジに行き、会計を済ませた。エスカレータを1階まで降り、更に地下鉄に向かうエスカレーターを下ろうとする涼子に、佳奈が呼び止める。「病院どこ?」「池尻」「表に車待たせてあるのよ。こっち」「……?」「社長の知り合いなんだけどね、行きがかり上、送ってもらうことになってるの。 恵比寿って言ったけど、彼、この後、暇だって言ってたから、池尻の病院まで、 行ってもらっちゃおうよ」佳奈が目尻に皺を作りながら、得意気に笑った。「ラッキー」涼子は笑顔を佳奈に返し、佳奈の後に続いて、送迎車を目指した。たった1分間で今日の雨がいかに凄まじいか、涼子も思い知った。渋東シネタワーを出て歩道を渡り、路上にハザードを出して停車していた車の、後部座席に乗り込んだ時には、涼子も佳奈程ではないが、かなり濡れていた。「すみません。便乗しちゃって」涼子は、ハンカチで湿った髪の毛を拭いながら、運転席のサングラスの男に声を掛けた。運転手は、涼子の方を振り返ることもせず、無愛想だった。佳奈は、これだけ濡れたら、もう身なりに構っても仕方ないと思っているのか、特に濡れていることなど、気にもせず助手席に座り、「恵比寿って言ってたんですけど、大橋の救急病院に 急用が出来ちゃったんです。お願いしてもいいですか」と、めずらしく下出に言った。運転手は、頷くと黙って車を発進させた。……さすがに、佳奈も気を遣ってるんだわ。 でも、こりじゃ、タクシーと同じね。涼子は、社長の知り合いと聞いて、少し緊張していたが、佳奈らしくない腰の低さが可笑しく、返って気が楽になった。「でもさ、こんな時に優美、何やってるんだろうね。 里奈ちゃん、大したことないといいけど。あ、宝田さんは?」「宝田さんは仕事中みたい。里奈ちゃんはジャングルジムから、落ちたって」振り向いて話しかけてきた佳奈に、涼子は、更に足首を拭きながら答えた。「この嵐の中?」「ママの帰りが、待ちきれなかったんじゃないかって」「もお、優美ったら、だいたい、なんでこんな日に出歩いてるんだろ」「それを佳奈が、知ってると思ったわ」足首を拭き終わると、今度は、持っていたバッグの水滴を拭う。「知るわけないじゃん。知ってたら話してるわよ。 で、里奈ちゃんの怪我は、どうなの?」「命には別状ないって。詳しいことは、あたしもわかんない。 中澤君もよくわからないって言ってたわ。あ、そうそう、中澤君に佳奈に 会ったら、病院に向かうって言ったら、彼、携帯持って来てくれるってよ」涼子は、濡れたハンカチの始末をどうしようか迷った。「あ、アイツ……、あたしの携帯見たんだ」「しょうがないじゃない。こんな時なんだから」涼子は、仕方なくハンカチをバックに押し込み、佳奈を見て笑った。「どうせ、忘れた、あたしが悪いのよね」佳奈は、冗談混じりに口を尖らせ前を向いてしまった。相変わらず雲の流れが速い。東京の台風は、今がピークなのかもしれない。走っている車は皆、どうしても徐行運転になっている。早く到着すればいいが、車はまるでディズニーランドのカリブの海賊のような、乗り心地だった。涼子は、携帯を取り出すと、引き続き優美へ連絡を取ろうと試みた。……やっぱり繋がらない。苛立ちながら何気なく、涼子の目が、バックミラーに行った。何気なく 。「……」「!」……嘘。心臓が凍った。「……ケイ……タ?」運転中の男のサングラスが、バックミラー越しに少し動いたような気がした。「ねえ、……啓太なんでしょう」車が信号で止まると男は、 鮎川啓太は、煙草をくわえ車に装備されているシガーライターを押した。「煙草いい?」「……」「うっそぉ……、あゆちゃんて……」佳奈も驚きを隠せず、ただただ、啓太の横顔を呆然と眺めていた。「優美って、あのHeIZの宝田陽平の奥さんになった人だっけ?」啓太は煙草に火を点けると、煙を吐き出した。「最近の若い母親は、これだからなぁ」啓太は、独り言のように呟くと、雨が吹き込まないよう、ほんの少しだけ運転席側の窓を開けた。信号が青に変わり、車は、ゆっくり走り出す。……なんで、どうして、こんな時に 。突然、啓太に会うの。これも、あの時と同じ「意味のある偶然」なのだろうか。涼子の脳裏に、ふと、この間”VOICE”に寄り道した夜のことが過ぎる。雄二と結婚するまで、あと3ヶ月。それは、突然訪れた、7年交際した元恋人との4年振りの予期せぬ再会だった。 …… See you next time! ……いつも読んでいただいてありがとう♪ランキングが3箇所に増えました m(_ _)m応援いただけると嬉しいです f^_^; ↓↓↓ 登場人物紹介 人物相関図
2006.09.23

200×年7月27日 金曜日 午後5時……どうして、寄りによってこんな嵐の日に、頼まれごとなんか しちゃったんだろう。しかも、携帯電話を事務所に忘れた。佳奈は、公衆電話の前で、ずっと話中の受話器に向かって、苛立っていた。……きっと、また社長が、長話しているんだわ。携帯を取りに戻れば、涼子との待ち合わせの時刻に遅れる。せめて、携帯が本当に事務所にあるかどうか確認したかった。佳奈が事務所を出た時点では、木谷は外出していたが、帰ってきたばかりの中澤が、佳奈を見送ってくれたから、まだ居るはずだった。木谷も、間もなく戻ったのだろう。佳奈は、木谷社長から頼まれた水色の封筒を代々木第一体育館に届け、そこの公衆電話から、事務所に何度も電話を掛けながら、木谷の首を絞めてやりたいと本気で思った。事務所の前からタクシーを使って、ここまで来たまでは、良かった。体育館の門前でタクシーを降りると、この台風では傘なんて、何の役にもたたず、関係者出入口に辿り着くまでの5分間に、頭からバケツの水を被ったような有り様だった。ジーンズの下まで通しているのではないかと、思う程びしょ濡れだ。体育館の守衛にも、同情を通り越し「この天気に物好きだ」と言わんばかりの目で見られた。ここ代々木第一体育館では、翌日の人気ロック歌手のコンサートを控え、ゲネプロという本番そっくりのリハーサルが行われていたので、追っかけの女の子が、出演アーティスト会いたさにやって来た、とでも思ったのか。「KIYAプロの井上」と名を告げただけで、それを訂正するような表情で無線を使って連絡を取ってくれた。バスドラムやベースの低音がお腹に響き、時折、派手な旋律のギターやキーボードの高音と混じって、スネアの音が頭に響く。しばらくすると、黒いスタッフTシャツを着た、若い男の子が現れた。「お疲れ様でーす。これ、渡しておきまーす。失礼しまーす。」10代だろうか。どう見ても使い走りで、ことの詳細など何も聞かされておらず、文字通り、封筒を受取ると、さっさと走って行ってしまった。……なにあれ。本当に失礼だわ。この状態見てあれだけ?こうして、ずぶ濡れになった割りには、あっさりと用事は済んだ。「だいたい出演者じゃないんだったら、本人が受け取りに来て、 労いの言葉ぐらい、言うべきでしょう?」木谷の彼女が、ここでどんな仕事をしているのか知らないが、こんなに苦労してやって来たにも関わらず、当の本人に直接会えないことが、妙に腹立たしかった。ゲネプロが終わったのか、ロックの音が止むと、体育館の分厚いガラス張りの扉に突き刺すような勢いで降る、激しい横殴りの雨音がよくわかる。事務所への電話は諦め、携帯に掛けてみたが、3コールで留守電に切り替わった。自分が、そう設定しているのだから無理もない。佳奈は、溜息をついた。扉の向こう側には、またバケツの水が何杯も待っているかと思うと、ものすごく憂鬱だった。涼子の番号さえ、携帯がないとわからない。今日はこのまま渋谷駅で涼子を拾い、恵比寿の佳奈のマンションまでタクシーで直行しようと考えていたが、扉から見える門の向こうは、タクシーがそう簡単には捉らないと、小学生でもわかりそうだ。渋谷駅までは、普通なら歩いて行ったって、15分程度の距離だ。だが、今日はこの嵐が、それを躊躇させる。しばらく佳奈は雨の様子を伺っていたが、ここは覚悟を決めて行くしかないと、重い足を引きずって扉に手を掛けた。「どこまで行くの?」よく響き渡る声に振り向くと、黒いTシャツとジーンズに、白い麻のジャケットを羽織った男が、佳奈の方に向かって、歩いて来た。見たことがあるような気がするが、うっすらと無精に見えるよう丹念に気を遣っていそうな髭にも、黒いサングラスの奥の眼差しにも、心当たりがなかった。「KIYAプロの井上さんでしょ。木谷さんから、ほら、受け取ったから」男はそう言うと、確かに先程、佳奈が若い失礼な男の子に渡した「あゆちゃん」宛ての水色の封筒を、肩の高さで揺らして見せた。「終わったからさ、送るよ」「あの、あゆちゃんて……」「ああ、俺、俺」「てっきり女性だと……」「よくね、間違われるんだよ。この業界、人の名前に なんでも”ちゃん”つけるから」そう言えば、木谷は佳奈のことも「いのちゃん」と呼ぶ。……神様っているもんよね。この際、それが本当に木谷の彼女であれ、彼氏であれ、佳奈にはどうでもよかった。とにかく、この台風の中、タクシーが捉るまで外で待つか、渋谷まで歩くか、という究極の選択から、間逃れることが出来たのだ。「助かります。渋谷までお願いしてもいいですか?」「悪いけどさ、これケツに敷いてくれる?」あゆちゃんは、手に持っていた黒いタオルを投げた。「……?」「シートが汚れるから」佳奈があっけに取られていると、あゆちゃんは踵を返し、体育館の地下駐車場に向かって、歩いて行った。30代だろうか。この男も先程の10代の男の子に負けないくらい、失礼なヤツだと佳奈は思いながら、その男の後に続いた。「出来れば、渋谷でひとり拾って恵比寿まで行って欲しいんですけど」「別にいいよ、このあと暇だから。そんなんじゃ、電車に乗れないか」佳奈は、笑う無精髭を見て「神様と思うのは、辞めよう」と心に誓った。 同日、同時刻、KIYAプロ中澤は、佳奈の携帯を前に、腕を組んで考え込んでいた。佳奈が出掛けて、しばらくすると「宝田優美の姉の佐々木」という人から半狂乱で事務所に「宝田優美はいますか」と電話が入り、なんでもお嬢さんが大怪我をして救急車で運ばれたとかで、大至急、連絡を取りたいと言う。「宝田優美?」中澤は不信に思い、事情を聞くと佳奈の友人で、今日はこの事務所にいるはずだと言う。優美本人の携帯が繋がらず、わざわざ104で調べて、この電話に掛けて来たと、もう、半ベソ状態だ。「自分は留守番だから、よくわからない」と、とっさに大人の対応をしてみた。聞かれるがまま、佳奈の携帯の電話番号を教え、腑に落ちないまま受話器を置いた。……よくわかんないけど、これって、なんだかヤバクナイ?あまり深く考えるのは辞めて、佳奈の携帯に電話を掛けようとすると、今度は、肝心の佳奈の携帯が、ちらかった机の上で雑誌に埋もれて、何度も鳴った。中澤は、佳奈が代々木体育館に行って、そのまま涼子と会うと、この間、言っていたことを思い出した。が、涼子の連絡先は知らない。が、目の前にある、佳奈の携帯電話には、涼子の連絡先が入っているはずだった。……いくらなんでも、人の携帯見ちゃ、ヤバクナイ?じりじりと時間だけが過ぎていく。このまま佳奈が涼子に会ってどこか、携帯の繋がらない地下の店にでも入ったら、アウトだ。こんなことなら、この間、涼子に会った時に携帯の番号を聞いておくのだったと、舌打ちしたが、後の祭りだ。……だけど、それ以上に、この状況、もっとヤバクナイ?中澤は散々悩んだ末、佳奈の携帯を手にアドレス帳を検索し始めた。 …… See you next time! ……お待たせいたしました!無事、旦那の両親の接待は完了(^-^)そのお話は後日、ブレイクタイムで報告しますね♪まずはこちらが先ですよね~(^ ^;)ランキングが3箇所と、たいへんお手数ですが応援いただけると嬉しいです (*^^*) ↓↓↓登場人物紹介 人物相関図
2006.09.20

こんにちは。みづきいちえです。いつも<美しき月の夜に>へお越しいただき、「熱砂の霧」を読んでいただいて、本当にありがとうございます。また、ランキングの応援、誠に感謝いたします。既にご存知の方も多いと思いますが、この連休、みづきの旦那の両親が長崎から、遠路はるばる泊まりに来る予定です。 これはその旦那の故郷の写真 みづきは神奈川在住なのですが、東京で親戚の結婚式があるんですって いつもこちらから押し掛けてばかりで、お義父さんもお義母さんも、我が家にお泊りするのは、なんと始めて 何十年ぶりかの東京に、タイムリーにも親王が生まれたこともあって、皇居に行きたいとか、靖国も見ておかなきゃだとか、浅草は外せないとか姑以上に4人兄弟の息子、娘、嫁、夫達は大騒ぎです。とにかく81歳と76歳の高齢だし、これは、皆で「はとバス」かいな という展開になりつつあります。旦那の実家に住む長男が、連れ立ってやってくるのですが、みづきの近所に、偶然住んでいる旦那の姉夫婦、弟家族と、日曜日は、どっかの小説のキャラクターじゃないけど、お食事会と相成りました。えっ?これじゃやっぱり「幸子はみづき」という声が上がりそうですが、決定的に違うのは、みづきは「生活の中の美」など追求せず、時間があれば、家事をほったらかして、ブログのメーキングモードに突入してしまう、超ぐ~たら主婦だということ 今週に入って、少しずつ準備してはいたんだけど、天気がずっと悪く やっと本日布団干しやら、クッションのカバー類の洗濯なんかが出来た明日はお掃除や、食材の買い物、下準備等でバタバタになりそうです。という訳で、無事帰郷するまで、きっと、ぜったい、パソコンを開けることすら不可能な状況になりそうです。 よって、「熱砂の霧」の更新は、おそらく来週の中旬以降になるかと思われます。今回13話は緊迫の急展開で、この先3~4話のイメージが、既に明確なので、みづき的にも一気にうわぁ~と書きたいところ 内容を忘れないようにあれこれとメモはしてるけど……忘れたらごめ~ん 嘘!嘘!涼子や、優美や、佳奈が長崎言葉になってないこと祈っていて下さい結局、更新が遅くなりそうな言い訳でした そういえば「熱砂の霧」の登場人物がかなり入り乱れて来たので、人物相関図 なるものを作ってみました。急いで作ったので、完成度はイマイチだけど、よろしかったら、ご参考にどうぞ それでは、これからもどうぞよろしくお願いします。
2006.09.15

200×年7月27日 金曜日 午後4時幸子はフルーツトマトをていねいに洗い終わると、まずはビーフシチューを作ろうと思った。優美の実家では、キッチンで優美の兄嫁、幸子が鼻歌まじりに、今夜の夕食会の準備を始めていた。教室の帰りに、いつも行く八百屋へ里奈と寄ると、新鮮なフルーツトマトが半額で手に入ったのだ。しかも「こんな台風の日に来てくれたんだから、おまけするよ、お姉さん」と、ちょっと好みの若い店員に言われた。まさか、里奈と姉妹に見えるわけでもあるまいとは思うが。「お姉さんだって。一体、あたしのこといくつだと思ってるのかしら」幸子は、笑みが止まらなかった。そもそも今日は、朝からついていたのだ。姑の芳江は、今日は友人のお琴の発表会とやらで朝から外出しているし、里奈をギリギリの時間に、押し付けていく、義妹の優美は、今日は、めずらしく、かなり早く来て、里奈を置いていった。いつもは遅刻するのではないかと、幸子が慌てるのだが、今日は、朝から余裕があった。そしてその教室では、里奈は一度も愚図ることなく機嫌よく授業を聞き、先生にも褒められた。そんなこと、初めてだったので、少し恥ずかしかったけど、誇らしい気持ちにもなり、それはまるで、母親になったような嬉しさだった。里奈は、カウンター越しに折り紙で、今日教わった、紙風船を織っていた。「里奈ちゃんね、これ、さっちゃんに、ぷれぜじぇんと。はい」そう言うと、今、出来たばかりの、ペールピンクの紙風船を幸子に差し出した。「あらっ。ありがと」「あ、ママにも、ぷれぜじぇんとするぅ」幸子がニコニコと紙風船を受け取ると、今度は、紫色の折り紙を選んで、やはり紙風船を折り始めた。「ママ、もうすぐ帰ってくるぅ?」「うーん、そうね。もう少しかなぁ。 それにしても、こんな嵐の日に、ママ達は 揃いも揃って、なんでお出掛けなのかしらねぇ」幸子は、紙風船をエプロンのポケットに仕舞いながら、この家の女達が、とにかく、よく外出したがることに、半ば呆れつつも、関心していた。お陰で、姑問題で悩まされることは、普通の同居している主婦に比べれば、多分皆無に等しい。義母はごく稀に「早く内孫の顔が見たい」というようなことは言うが、悪意がある訳ではなく、どちらかと言えば、幸子に言うより、息子であり、幸子の夫の孝之に対して言っているように感じる。それもこの一年は、里奈がこうして家に訪れることが多くなり、お陰で、緩和されていた。姪を預かるということは、幸子とって、いいことだらけで、ちっとも迷惑なんかじゃない。優美は、多少強引なところはあるものの、世間の小姑のような干渉の仕方は、しないし、嫁としては、楽な方ではないだろうか。今日も、ミニスカートにブーツという抜群のセンスで、嬉しそうに仕事に向かう優美を少しも疎ましいとは、思わなかった。幸子は牛肉を切りながら、ただ、出掛けて歩く主婦の、気が知れないと思った。……専業主婦。これ程、恵まれた職業は、他には、ありえない。「生活の中には、美がある」と幸子は、いつも思う。洗濯物の干し方ひとつとっても、シャツの肩のラインがハンガーからズレないように縫い目に沿って干すことも、ひとつの「美」だ。洗濯物の色をグラデーションさせて、綺麗に干すことも「美」だ。玄関のシューズボックスの上は、幸子にとって、ささやかな我が家のディスプレイだった。季節ごとに花を飾り、この時期なら、小さなガラスのオブジェをイルカやらカニやらで、夏らしくレイアウトを考えながら演出することも「美」。お料理の盛り付けなど、キャンパスに、絵を描く画家になった気分だ。すべては「生活の中の美」なのだ。「生活に中にある美」を追求することこそ、専業主婦としての生きがいだった。出来れば、40歳までに一人ぐらい子供は欲しいが、まだ5年もあるし一応、病院で検査してもらい、特に問題がないことはわかっているから、そう慌てることも無い。幸子は、今この時間も、専業主婦であることを楽しんでいた。「あらしなのにママ、お仕事?」カウンター越しに、里奈が訪ねる。カウンターには、色とりどりの紙風船が、散らばっていた。「そうね。お外は、台風なのに大変よね」「たいふうって、なあに?」幸子は、手を洗って、牛肉に塩コショウをすると、「たくさん雨が降ったり、強い風が吹いたりするの。 さっき、帰ってくる時も、凄かったでしょう」と言って、カウンターに歩み寄り、里奈の横に座ると、さっき貰ったペールピンクの紙風船を、ポケットから出して、ふぅっと膨らませて微笑んだ。「里奈がね、お教室からね、帰るときもね、雨いっぱい降ってたよぉ。 ママ濡れちゃう?」「ママは、お車で帰ってくるから、濡れないわ」「お車、かじぇひいちゃう?」「お車は風邪ひかないわ。大丈夫よ」幸子がそう言って笑うと、里奈はテラスの方へ行き、背伸びして窓から外を伺っている。やっぱり、子供には「母親なんだな」と、幸子は思った。そしてこんなに、思いやりがある子を持つ、優美を、始めて羨ましいと思った。……最初の子は、女の子がいいわね。幸子は、必死に背伸びして外を伺う里奈を尻目に、そろそろ本気で子作りを考える時期なのかもしれないと思った。でも今は、お食事会の支度が優先だ。幸子はキッチンに戻ると、圧力鍋に火を点けキッチンタイマーの時間を20分に指定し、玉ねぎの皮を剥き始めた。幸子は、牛肉を圧力鍋で火に掛けながら、玉ねぎをスライスするとフライパンで炒めていた。台風のせいか、外を走る救急車の音が歪んで聞こえる。でも、とにかく木箆を動かすことが、今の幸子に与えられた使命だった。玉ねぎは、うっかりすると、すぐ焦げ付いてしまうから、気を抜けない。ここで、いかに玉ねぎを上手に炒めるかが、ビーフシチューを美味しく作れるか、否かの分かれ目だった。圧力鍋の錘がくるくると回転して、蒸気がシューツと勢いよく出たので、もう牛肉の加圧は十分だった。右手は忙しく動かしたまま、圧力鍋が掛かっている方の火を、左手で止めた。これで、10分程蒸らせば、お肉は柔らかく仕上がるはずだ。キッチンタイマーの音が、けたたましく鳴り響いた。タイマーはすぐ止まる。でも今は、手も目も、離すことが出来ない。というか、離したくない。……もうちょっとで飴色になる。10分もそうしていると、りっぱな飴色の玉ねぎになった。ここで、いため過ぎると、食感が無くなってしまう。……今!幸子はこのタイミングを待ち、フライパンの火を止めた。……ここまで出来ればあとは、他の野菜と一緒に煮込むだけ。幸子は、ようやく玉ねぎの集中から解き放たれると、喉の渇きを感じた。「里奈ちゃん、オレンジジュース飲む?」冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、幸子が呼びかけた。「里奈ちゃん?」食器棚からコップを二つ出して、リビングの方を見渡すが返事がない。「里奈ちゃん?お手洗い?」幸子はトイレを覗いてみたが、里奈はいない。「里奈ちゃん、お2階なの?」2階の夫婦の寝室や和室にも、見当たらない。突き当たりにある、義母の部屋を、覗くが、やはり気配がない。幸子は、さすがに嫌な予感がしてきた。「……」階段を駆け下り、玄関に行くと、里奈の赤い長靴も、赤い傘もない。「嘘でしょう」急いでキッチンへ戻り、ガスコンロを確認したが、火に掛けているものなど無いことに気付いた。悲しいかな主婦の性だ。「あん、もう、こんな時に、何やってのよ」軽い自己嫌悪に陥りながら、玄関の方へ走ると、チャイムがなった。幸子は溜息をつくと、里奈が帰ってきたんだと思い、すぐにドアを開けた。「もお、里奈ちゃんひとりでお外に……」ドアの向こうにいるのは里奈と信じ、視線を落として声を掛けると、びしょ濡れの男性の太腿だった。……里奈ちゃんに、チャイムが届くわけないじゃない。見上げると、制服に透明のレインコートを着た、警官が立っていた。「お宅に "たからな りな" ちゃんていう3歳位の、 お嬢さんいらっしゃいますか」「りなちゃんに、何かあったんですか?」「お宅は 佐々木さんですよね」「家は、”たからな”ではなく、佐々木です。でも”宝田里奈”なら 預かってますけど、今、見当たらなくて……」幸子は、こんな状況で、そんなことを勝手に説明している、自分の口がおかしいのではないかと、頭の隅で思った。それどころじゃない。「だから、何があったんですか?」「ああ、”たからな”じゃなくて、”たからだ”さんでしたか。 実は、20分ぐらい前にたまたま事故を目撃した通行人から、通報が ありましてね。いや、女の子がすぐそこの公園のジャングルジムから 滑り落ちたんですよ……」「……」「ああ、良かった。すぐにわかって。傘に名前が書いてあったんですが、 字が消えかかってるし、”たから”なんて付く苗字のお宅、この辺に ありませんからね。こうして、ご近所を片っ端から、聞いて歩いてい たんですよ」「良かった」訳ない。幸子は、一瞬眩暈がした。里奈が、頭から血を流し救急車で運ばれたという。……今日は、ついているはずだったのに。圧力鍋の蒸気や、キッチンタイマーのベル、おまけに台風の騒々しさで、里奈が出て行ったことに、迂闊にも気付かなかったのだ。……いいえ。そうじゃない。玉ねぎよ。「さっきの救急車……」幸子は、激しい自己嫌悪に両手で顔を覆うと、その場にしゃがみ込んでしまった。
2006.09.14

東京駅から徒歩2分という絶好のローケーションに位置する、フォーシーズンズホテル丸の内東京、5階のプレミアスイートルームでは、暗闇の中で律動する白い毛布の皺だけが、大きな窓から夜景を浴び、光を放っていた。男と女の熱い吐息が漏れる。どれだけの時間をそうしていたのか、突然、携帯電話の着信音が鳴り響き、その静寂を破った。「……」「……デンワ?」女の方は、その音に一瞬、別世界から引き戻されてしまったらしい。毛布から腹ばいになった男の手が伸び、着信音を止め、何事もなかったように、規則正しい動きを続ける。「……」「……」着信音は鳴リ続けるが、男は動きを止めない。止められない。「タッカラーダさん!…… Oxala! 」「……」女の感極まるイントネーションが、独特だった。男は……宝田陽平は、かまわず目的を果たした。陽平が携帯メールを確認すると、妻の優美からのメールで「明日の優美の実家での食事会は、7時の約束だが、会社から直行出きるのか」という確認だった。陽平は舌打ちして溜息をつくと、サイドテーブルに備えてあるテレビのリモコンを探して、電源のスイッチを入れた。壁掛け式の42型プラズマスクリーンからは、日本代表監督の顔が、アップで映し出されたが、この位置からだと、画面が小さく感じる。陽平は全裸のままベッドから出ると、ゆっくりとバスルームへ行って、蛇口を捻り冷蔵庫からハイネケンを2本取り出し戻ってきた。そして、アッシュブラウンの長い髪の女……ポルトガルからモデルとして日本にやってきた、マリア・デ・ミランダ……に、1本をそれとわかるよう、頬に少しだけ触れさせた。マリアは閉じていた瞳を明けて大きく動かし、小柄な体をくねらせて、「ボアノイテ……」と、ポルトガル語で日本語で言うところの「おやすみなさい」を寝言のように囁くと毛布に包まり、再び眠りについてしまった。テレビでは代表監督の会見が続いていたが、そのブラジル人監督が話すポルトガル語は、ボリュームの低さも手伝って、遠くから微かに伝わる呪文のようしか聞こえない。……わからないから、いいんだよな。陽平は、ハイネケンをサイドテーブルに置き、マリアの横に座ると、その長い髪を撫でた。マリアは外国人にしては、例のブラジル人監督に比べて日常会話くらいは話すことが出来るが、やはり複雑な話や、興奮している時などは、お国言葉になる。普段、陽平との会話は、日本語と英語とポルトガル語が入り混じって、国際色豊かだ。……言葉なんて、何もかもわかったら、うっとおしいじゃないか。陽平は、昔から常々そう思っていたが、優美との結婚生活がより一層、その思いを強くさせたと自負している。優美は、知り合った頃からその知的なクールさが、陽平にとって最大の魅力の一つだった。ところがどうだろう。一緒に暮らしてみると、一見クールに写っていたのは、利己的合理主義の表れだし、その割には頑固で、なんでも要求が通らないと気が済まず、十分望み通りにしてやっているつもりでも、その要求は留まる所を知らない。おまけにプライドが高く、元々お嬢様育ちではあるが、まるで女王気取りだ。子供が思い通りにならないことまで、自分のせいにされては溜ったもんじゃない。里奈が今だに「たからだ りな」とは言えず、「たからら りな」と言うことまで。そんなことは、母親のしつけの範疇だろう。……言葉じゃなくて、相手のことが全部わかったら……か。とにかく全ての不幸は、俺のせいだと思っている。俺は、優美の要求を満たす道具なのか。それとも召使か。これ以上、一体何が欲しいと言うのだ。……タッカラーダさんか。マリアとは始めは、ちょっとした浮気心でしかなかった。取引先から接待された時に、麻布のクラブで知り合ったが、その片言で話す懸命さにつき合っているうちに男と女の関係になっていった。最近では、こんなふうにホテルを利用するのではなく、マンションの一つくらい与えてもいいと思っているが、マリア自身、それを好ましいと思わないのか、何度か切り出してみたが、首を縦に振らない。マリアの身になれば、遠い異国の地で結婚している男とつき合っているのだ。よく考えれば、やはり逃げ場を残しておくべきなんだと思った。だが、男として、それに甘んじているような気が、しないでもない。ただ、これが、日本の20代の女性だったら、どうだろう。いくら社会的地位があり、経済的援助を出来たとしても、援交などと呼ばれているそれなりのつき合いになるか、面倒くさい状況になるか、どちらかであろう。自分に妻があることを承知で、果たしてマリアのように何も望ない関係を、2年も保てるだろうか。……こういうのを相性がいいって、言うんだよ。マリアのそれは、普段は少女のようなあどけなさを持ちながら、日本人にはない、大胆な情熱を秘めていた。優美とは、まったく違う。それが、性格なのか、国籍なのか、年齢なのか。もっとも年齢で言えば、優美とマリアは4歳しか変わらないから、そうそう違うとは思えない。結婚前の優美を思い出しても、決してこんな風ではなかった。とにかく、陽平にとってマリアは、今まで知ってるSEXとは、まったく異なる種の感動を与えてくれる女であることは、間違いなかった。それは体だけなのか、それとも、もっと高尚なことなのだろうか。陽平はハイネケンの栓を開け、それを半分程一息に飲むとバスルームに向かった。バスタブに身を沈めると、大きな窓から、東京駅に出入りする列車の青白い光が幾重も交差して見える。しばらくぼうっと眺めていると、自分がその起点となり、全ての列車を動かしているような、気さえしてくる。……ハマってるな。陽平は、眠りそうになる意識を奮い立たせ、バスタブから出て、熱いシャワーを浴びると、急に現実が戻ってきた。明日は、午前中は会議だし、午後は、打ち合わが2件あり、その後は4時から、新しく立ち上げたプロジェクトの、取材に応じなければならない。取材が終わったら、その足で優美の実家に向かう。陽平はそのスケジュールに、つい今しがたまで、あんなに愛おしいと感じたマリアが、一切存在しないことに、何の違和感も感じていない。違和感どころか、そのこと自体にまったく気付かずにいた。 違和感を感じないという点で、この夫婦は、均整がとれているのか。南平台の陽平の自宅では、妻の優美が2階にある里奈の寝室で、里奈の頭を撫でながら、夫からの返信を待っていた。”重要なことはすべてメールで確認”しないと、ここ最近、漏れることがある。今夜が泊まりになるということも、うっかりしていて、陽平からメールが来なければ、もう少しで夕飯の用意をするところだった。”重要なことをメールで確認”するということに対しての違和感は、特にない。明日は、久しぶりに実家での食事会だ。たとえ普段あまり会話の無い夫婦だとしても、そこは、あうんの呼吸で、すぐに普通の夫婦となれる自信はあった。ただ、何事も几帳面で時間にうるさい母は、遅刻を嫌う。それが仕事であれ何であれ、言い訳は通用しない。ましてや、以前から約束された事なら尚更だ。優美はこの暮らしが守れさえすれば、どんな夫婦関係であってもいい、と思う寛大さだか、諦めだかを持ち合わせていたが、ここ一番の時に、守って欲しいことは、夫であれ、譲れなかった。……どうせ、また女と一緒だわ。里奈の寝顔を見ながら、優美は直感していた。でも、優美も明日は、賢司と映画を見る予定なのだ。その間に、メールは出来ない。返事が今夜のうちに来ないと、お互いのスケジュール確認が、出来ないではないか。「困った人ねぇ」優美は、里奈の部屋を出ると、溜息交じりに、呟いた。廊下を歩き始めると、里奈が寝静まってしまった室内では、ざわざわと外の物音が、やけに気になった。……今夜は、風が強いのね。階段の窓から外を覗くと、側道では誰かに投げ捨てられた空き缶が、カラカラと派手な音を立てて、転がっていた。どこからか飛んでくるスーパーの袋も、時折吹く強風に運ばれ、彷徨っている。……明日は、ミニスカートにブーツがいいかしら。優美は、明日の天気と服装のことを考えていた。肩を寄せ合って震えるベニカナメの垣根が、宝田家の敷地内に、それらの入ることを拒んでいるというのに 。 …… See you next time! ……いつも読んでいただいてありがとう♪ランキングが3箇所に増えました m(_ _)m応援いただけると嬉しいです f^_^; ↓↓↓ 登場人物紹介
2006.09.11

日本代表監督が辞任を表明した頃、涼子は雄二と、表参道駅近くのイタリアンレストランで、食後のドルチェ、アフォガードを口にしていた。今日は仕事が忙しく、甘いものが食べたかった。だけど、甘すぎるのは嫌だった。冷たいバニラアイスに、熱いエスプレッソがかかったアフォガードは、イタリア語で”溺れる”という意味のデザートだが、少し違うなと、涼子は思った。”溺れる”というより、”セービング”にふさわしい。バニラアイスが溺れる前に、救済しなければ、溶けて無くなってしまう。それじゃあ、生ぬるいコーヒーフロートと一緒ではないか。いずれにせよ、イタリア人のユーモアが生んだネーミングなのだろう。「そろそろ、結論出してくれたかな?」「……両親のこと?」「やっぱり、式に、来てもらわない訳には、いかないんじゃないか?」「……」ここ1ヶ月程前から、招待客の話になると煮詰まってしまう原因に、涼子の両親を式に呼ぶか、呼ばないかという、普通ならあまり悩まない問題が、二人にはあった。「うーん。どうしても呼ばないと駄目かしら?」「涼子は、やっぱり嫌か?」「……」涼子の両親は、涼子が小学校5年生の時に離婚していた。母が離婚届を置いて家を出ると、そのまま離婚という結果になったのだ。あとから聞いた話では、母は本当は兄の修一と涼子の二人を連れて家を出たかったらしく、落ち着いてから、引き取るつもりだったらしい。だが、父は二人の親権を母に譲ることはしなかった。しかも、離婚して半年も経たないうちに、秘書をしていた清美をすぐ家に入れた。これもずいぶん後から知ったことだが、父は涼子が生まれて間もない頃、今の会社を興し10年もの間、清美との関係を絶てずに、ずっと母を欺いていたのだ。高校3年生だった修一には、清美のせいで、母がいなくなったのだという気持ちを捨て去ることが、どうしても出来なかったらしい。それが証拠に修一は、大学受験に失敗し、不合格を告げられると、それを口実に、浪人生活は、一人で勉強がしたいと、家を出てしまった。小学生だった涼子は、どちらかと言えば、母が急に居なくなり、置き去りにされたという気持ちの方が大きかった。「どうしても嫌なら無理することないけど」「……」清美は、特にいじめるようなことをする訳でもないし、気さくな人ではあったが、3人となった設楽家には、どこかよそよそしい”家族ごっこ”が待っていた。当たり前のことだが、父は会社があるから、家を留守にしがちだった。いくら、まだ少女だったとはいえ、清美とは、お互いに違和感があると感じているお互いの気持ちが見え隠れしていた。どんなに仲良く過ごそうと、二人が共に努力しても、そうすればそうするだけ、逆に上滑りしてしまう。たまに在宅している父が、そんな二人に気を遣うのが、清美にも涼子にもわかってしまうことが、虚しいくらいその旋回に、拍車を駆けた。思春期を迎えるにつれ、その傾向は、あからさまになっていった。……もっと別の出会い方をしていれば、いい話し相手くらいには、 なれたかもしれないのに。「涼子の気持ち考えると、わからないでもないからな」「……」雄二が白いデミタスカップを置くと、携帯電話が胸元から音を立てた。「なんだよ。またかよ」「仕事?」「ああ、ちょっと悪い」雄二はそういうと席を離れ、化粧室の方へ歩いていった。アフォガードのアイスクリームは、エスプレッソと同化してスプーンですくうとドロっとした液状となっている。時間を掛けて食べるものではないらしい。……両親へのわだかまりも、溶けて無くなってしまえばいいのに。溺れて息が出来なくなるくらいなら、いっそ溶けてしまえばいい。涼子は、修一が大学を卒業するまでの5年間、”家族ごっこ”をして過ごし、修一の就職が決まるとそれを待っていたように、スピンアウトした。高校2年の時に、学校が遠いからという理由で、父と清美が暮らす、鎌倉市の一戸建ての家から、修一の住む菊名のマンションに移り、やっと新鮮な空気を吸えた気持ちになれた。つまり父と暮らしたのは、高校2年生までであり、義母である清美とは5年間しか生活を共にしていない。その後は余程のことがないと実家にはいかないし、電話で父と話したのだって、雄二と結婚すると、ようやく言ったついこの間が10年ぶりだったのだ。二人とも、呼べば喜んで出席してくれるだろうとは思う。だが、実の母のことを思うと、すんなり招待する気になれない。……お母さん、どうしているんだろう。涼子の母は、鎌倉の家を出てから、しばらくは茅ヶ崎の祖父母の家で暮らしていて修一を経由して連絡を取り合っていたが、涼子が修一の元に身を寄せたこと知らせると間もなく、別の人と再婚し立川で新しい生活を始めたと、祖母から聞かされた。そうなるとやはり、こちらからは連絡しずらくなり、時折母の方から来る、連絡を待つだけの状態が続いた。だが、この何年かは、音信不通になっている。結婚のことを知らせようと、思い切って電話をしてみたが、留守番電話の応答で、さすがにメッセージを残すことは出来なかった。その後、何度電話してもやはり同じだった。……元気にしていればいいけど。「やっとOK出たよ」雄二が電話を終え、戻ってくると席に着いて溜息まじりに言った。「仕事、大変?」「いや、大変って言うか……、なんだろうな」雄二はそう言うと、煙草に火を点けた。「あたし、やっぱり、バージンロードは兄と歩きたいわ」「気持ち、変わらないかぁ。まぁな。涼子の気持ちが、一番だからなぁ」「いいの?」「嫌なもの、無理して呼ぶことないだろ」雄二は、涼子を諭すように言った。やっぱり大人だ。「ごめんなさい。雄二のご両親や親戚の方には、 本当に申し訳ないんけど」「そんなの、なんとかなるよ」涼子はアフォガードの甘さが残っている気がして、グラスの水を一口含んだ。「明日は佳奈ちゃんとこ泊まるんだよな」「うん、せっかく誘いのメール貰ったし、 この間、話しそびれたこともあるって言うから」「南平台の社長婦人は、元気なの?」「優美は最近、里奈ちゃんのお受験で忙しいんだって」「あんな家に住んでるんだもんな。そりゃ、お嬢様は付属の幼稚園か」「あんな家に住みたい……、なあんて、無理なことは言いません」「言ったなぁ。いつか、涼子がびっくりする程、センスのいい家を、 設計して、プレゼントしてやるからな」ようやく二人に笑みがこぼれた。「それより、俺、この後、会社戻らなきゃいけなくなった……」「え?だってOK出たって?」「そうなんだけど、ちょっと気になることあってさ。 新婚旅行の話しは、またな」雄二は、まだ長い煙草をもみ消すと、グラスの水を一気に飲み干した。二人がイタリアンレストランを後にすると、外の空気がじっとりと、また梅雨が戻ったかのように、纏わりついてきた。「ねえ、台風来てるんだっけ?」「そうみたいな」駐車場に向かって歩きながら、空を見上げると、ビルの電光掲示板に『サッカー日本代表1‐0勝利後に監督辞任発表!後任選出は難航する模様』というテロップが、雲の重さと同じくらい、ゆっくりと流れていた。 いつも読んでいただいてありがとう♪ランキング3箇所に増えました m(_ _)m応援いただけると嬉しいです f^_^; ↓↓↓ 登場人物紹介
2006.09.07

「明後日でいいって言ってたじゃなぁい。あゆちゃん、そりゃないよぉ」佳奈と中澤が事務所に戻ると奥の部屋から、社長である木谷の詰る声が聞こえてきた。マンションの1LDKを使用しているKIYAプロは、入ってすぐの18帖で、45インチの液晶テレビ画面から、日本代表の青い戦士たちがそれぞれ笑顔で、ゴール裏のサポーターに挨拶している様子が、写し出されていた。そのテレビのボリュームより、よく通るその声は、廊下まで聞こえそうだ。木谷は日頃から奥の部屋で電話をしているが、本人は密談のつもりでもそれは、公開座談会さながらだ。 「先輩が、トロトロしてるから間に合わなかったじゃないですか」「勝ったみたいだから、いいじゃない。それより、またぁ?」佳奈は、奥の部屋を顎でしゃくった。「いいじゃないですか。いくら47でバツイチって言ったって、 社長だって、独身の男なんだし……。 あ、先輩、それとも社長みたいなタイプ、好みですかぁ?」 当然中澤は「そんな訳ない」と言う答えが帰ってくることを、予測した上で言ってるんだ……。……その位、わかるわよ。あたしにだって。「そうかもね」佳奈は、しれっとした顔で言ってのけた。「……」中澤は一瞬呆然としたが、持っていたコンビニ袋から、打ち合わせ用の大きなテーブルにビールと菓子を並べながら、電話が終わった木谷に向かって叫んでる。「社長、電話終わったなら、ビールありますよぉ」……この勝負、あたしの勝ち。佳奈は、中澤に対して優位に立ったことが嬉しくて、目の前に置かれたビールを開ける。と……、勢いよく、泡が吹き出した。「ひっかかったぁ。……先輩、気をつけなきゃ、ダメじゃないですか」当の中澤は、手がビールだらけになった佳奈を見て、クスクス笑ってる。「もぉ」佳奈が慌ててテーブルにあった、ティッシュペーパーで汚れを拭っていると奥の部屋からサーモンピンクの派手なジャケットの下に、日本代表の青いレプリカを着込んだ木谷が顔を出し、にやにや笑った。「なあんか、俺、お邪魔じゃない?」「あ、やばっ」中澤が、咄嗟に椅子にあったタオルで、佳奈の足元にこぼれたビールを拭きながら、木谷にティッシュボックスを投げた。「それより、見てないで、これで一緒に拭いて下さいよ」「あ、ああ」木谷は頷くと、慌てて一緒になってフローリングの床を拭き始めた。「おい、それ、俺の日本代表のタオルマフラーだぞ」中澤が床を拭いているタオルは、確かに青い。「あ……。洗えばいいじゃないですか」どうやら、3人しか所属しないこのKIYAプロでは、中澤が一番偉いらしい。 騒ぎがひと段落すると、やっと、目的のない、ささやかなパーティがテーブルを囲んで始まり、木谷が申し訳なさそうに佳奈に話しかけてきた。「いのちゃん、明日、なんもないんだよね」「明日は……。一日事務所で電話番の日だけど……。 あ、また、電話で、アリバイ作りか何かでしょう?」佳奈が壁のボードにあるスケジュールを確認しながら、冗談交じりに言うと木谷は更に言い出しずらそうに、「いや、急で悪いんだけどさ、明日、届け物、頼みたいんだよねぇ。 俺、どうしても、からだ空かなくてさぁ」そう言うと、A4サイズの封筒を差し出した。佳奈が受け取ると、写真を送る時によく使う「KIYAプロ」のロゴが入ったクッション封筒で、それ自体に多少厚みがあって、ただ、手にしただけでは一見、中身が何だかわからない。「社長、今の彼女にですか?」ポテトチップスの封を開けながら、中澤がすかさず口を挿んだ。「ああ。ええっ?そんなんじゃないよ!」「またまたぁ」中澤の尋問は、封がなかなか開かないポテトチップの袋同様、執拗だ。「代々木体育館なんだけどさ、 行けばわかるようにしてあるから」木谷も中澤のことをわかってるから、無視して佳奈に言う。中澤の不器用な手先を見ていた佳奈は、ポテトチップスの袋を取り上げ、上手に袋を開けて差し出した。「ああ、やっぱり彼女だぁ!先輩、嫌なら断った方が二人の為かもしれないですよぉ」中澤は確信したらしく、ポテトチップスを満足そうに口に入れると、テレビのチャンネルを、紀伊半島付近に台風が接近して東海地方の海が荒れているという天気予報から、日本代表監督の記者会見の模様を写し出してる、スポーツニュースに合わせた。「だから、違うって」「彼女でも、なんでもいいけど。明日、夕方、友人と会う 予定があるから、その前でいいですか?」佳奈はふと、涼子に明日会おうと言った事を思い出した。「そこまで行く分も、タクシー使って経費で落としていいからさ、頼むよ」 「ラッキー」 明日は天気も悪そうなので、佳奈は、渋谷で涼子を拾い、自宅で一晩じっくり話しを聞こう、と咄嗟に思った。 「うっそぉ!監督辞任するとか言ってる!」 中澤はそう言うと、テレビのボリュームを上げた。「ええっ?!」佳奈も木谷も、思わず声をハモらせた。木谷の彼女のことなんかより、この場にいる3人には、いえ、日本中の大半の人間にとって、そっちの方が一大事だ。 KIYAプロで3人がこのニュースに釘付けになっている同時刻、 何も知らずにレストランで食事をしている男と女、 自宅で娘の寝顔を見守る女、 そして、ベッドでこのニュースを知った、男と女が居た。 今夜、東海地方を通過している今年最初の台風は、関東地方にやって来るのだろうか。・・・・・・ いつも読んでいただいてありがとう♪ランキング3箇所に増えました m(_ _)m応援いただけると嬉しいです f^_^; ↓↓↓ 登場人物紹介
2006.09.04

【 美 し き 月 の 夜 に 】 へお越しいただき、誠にありがとうございます。トップページにも、ご案内させていただきましたが、このブログは、オリジナル小説がメインです。ただ、皆様に、末永く可愛がって頂くために、他にもコンテンツの充実を目指しております。こちらでは、はじめていらしていただいた方にサイトマップをご提示させていただきます。どうぞ、心ゆくまでご満喫下さいませ。 美 月 一 恵 熱 砂 の 霧 このブログのメインコーナー。 現在連載中の 美月一恵 の長編小説です。 ○小説のはじめからご覧いただくには こちらから ○最新版は こちらから 小説を読みやすくするための参照は下記の通りです。 ○前回までのあらすじは こちらから ○目次は こちらから ○登場人物紹介は こちらから ○人物相関図は こちらから 小説以外にもコンテンツがありますので、 ご紹介します。 ○フォトアルバム「 熱 砂 の 霧 」は こちらから 創作中のキーワードを、写真集にまとめてみました。 ○The Music of NESSA!は こちらから 創作中に登場した、音楽の情報です。みづきいちえのブレイクタイム 作者 みづきいちえ の雑談コーナー。 たま~に、素で登場します。 ○はじめからご覧いただくなら こちらから ○最新版は こちらから 作品のイメージとはまったく違う、作者と どうぞ遊んでやって下さい。 Moon Calendar 月の満ち欠けのカレンダー。 トップページにも、日々の月齢を掲載してますが 月のインスピレーションを、より身近に感じてみ ませんか?どうぞ参考になさってみて下さい。 HOME
2006.09.01

こんにちは。みづきいちえです。いつも 美しき月の夜に へお越しいただき、「熱砂の霧」 を読んでいただき、本当にありがとうございます。また、ランキングの応援、重ねて感謝いたしますm(_ _)mえーっと、9話が終わったところで、佳奈が撮った 「一枚の写真」 についてのコメントをたくさん頂きました。ありがとうございます。あくまで、小説がメインのブログなので、本文に挿絵とか写真などの挿入は出来れるだけ避けたいかな…と考えていたのですが、ご要望を頂くのは、本当に嬉しい 可能な限り、ニーズにお答えしていきたい 思案した末、楽天ブログには『フォトアルバム』という、素晴らしい機能があることをやっと思い出しましたこれなら、読んで頂き、見てみたい方が好きなようにご欄いただけるので、Nice! トップページ のサブメニューから入れるようにしてみました。あ、このページをご覧になった方は こちらから 行った方が楽でした(^ ^;) 今後も小説同様、キーワードにちなんだ写真があれば、UPして行く予定です。よろしかったら、時間のある時にでも、お誘い合わせの上(笑) 覗いてみて下さい♪今日は特別に(≧∇≦) 例の佳奈の「一枚の写真」をご用意いたしましたイメージに近いものを探してみましたが…… あとですね……、お陰様で、小説ブログ村1位、人気ブログランキング2位の栄光を頂いておりますこれも皆様のご支援があってのこと。本当に、本当に、ありがとうございますm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)mこれからも出来るだけ維持出来るよう、充実した作品にしていきたいと思います どうか、末永くよろしくお願いします<(_ _)>
2006.09.01

都会の喧騒の中で、蝉しぐれは一服の清涼剤と言えるだろうか。それとも、それは喧騒に取り込まれた、ひとつのオプションに過ぎないのか。新宿御苑の横に位置する千駄ヶ谷駅の付近では、国立競技場でのサッカー日本代表の試合歓声と相まって、蝉も普段より一層大きな鳴き声を張上げている。その近くにある某スタジオ内では、それとはまったく別の静寂に包まれていた。そこでは、マネージャーやメイク係たちが時折ひそひそと話す声と、アシスタントが動く、スニーカーのゴム底と床の擦れるキュッ、キュッという足音、そしてカシャッ、カシャッ、カシャッと聞こえてくるシャッター音のみを、まるでマイクが拾っているようだ。佳奈はただひたすら、カリスマといわれた雑誌モデルの動きとファインダーをその大きな瞳で確認しては、シャッターを切る。1時間程前にCDの音が止み、アシスタントの男の子が「すみません」と走って、スタートボタンを押そうとしたのを「このままっ」と制止したのは佳奈だった。それから瞬きする間を惜しむかのように、一連の動作を繰り返していた。被写体は、撮って貰っているという遠慮を忘れ、撮らせてるという高慢さが、態度となって表れ始めた。「オッケー。お疲れ様」佳奈の声がスタジオ内に、勢いよく響き渡ると、その場に居た誰もが安堵の表情を浮かべた。静寂とは、こうも緊迫を呼ぶものか。佳奈がスタジオの隅にあるテーブルセットの椅子に腰を下ろすと、月刊誌の担当ディレクターが話し掛けて来た。「井上ちゃん、頼むよ。こうさ、もうすこ~し、和やかに、行かない?」佳奈は、ちらりと見上げたが無表情のまま、タオルで汗を拭った。「いつもこうなんです。この人。 普段は、必要以上に和やかなんですけど」佳奈の撮影の様子を、途中から後ろで伺っていた中澤が、代弁するとコーヒーを持って来て、佳奈に差出した。「お疲れっす」佳奈は、コーヒーを一口飲んで溜息を付くと、ようやく誰ともなしに呟いた。「だって、仕事じゃない」「いやぁ、井上ちゃんのそこがいいの、わかってんだけどね。 ま、来月号も頼むよ」ディレクター氏は、窘めてるのか、機嫌をとっているのかわからない。「ありがとうございましたぁ」「お疲れ様でしたぁ」遠くから、被写体のモデルとマネージャー達が、佳奈達の方を見て口々に立ち去ろうとすると、つい今まで愛想笑いをしていたディレクター氏も「おっと、ハーフタイム終わっちゃうじゃん。じゃ、お疲れ」と言い残し、スタジオから出て行った。この後、サッカーの試合でも見に行くつもりなのか。そういえば、青いタオルが鞄から顔を出していた。佳奈は、椅子に座りながら大きく伸びをすると、そのままずるずると腰をずらし、背と手足を伸ばしたまま目を瞑った。浮かび上がるは、今日のモデルみたいな”ぬるい被写体”ではなく、昔、異国の地で出会った、子供たちのキラキラと輝く表情だ。……あんな目に、あれから会っていない。それは、ブラジルのサンパウロに、旅行した時だ。まだ大学在学中、当時サッカー好きだった彼と、半分は付き合いで、半分は地球の裏側を見てみたい好奇心から、出掛けた旅だった。街を歩いていると、政府への要求を掲げる、住民組織のデモ隊に出くわした。それだけでも、日本では見ないブラジル人特有の、お祭りのような光景に暫し見取れたが、その中にまだ幼い子供まで参加していたのが、驚きだった。そして、それ以上に、その子供たちの瞳には、大人の思惑など関係ない輝きが確かにあったのだ。その方が佳奈にとっては、より衝撃的だった。佳奈は、夢中でシャッターを切った。子供たちの表情を見ると、その国の事情が、透けて見えるような気がする。佳奈が信じてきた価値観が、あの子供たちの目によって崩された。その時の一枚が、大学のサークルの薦めから、新聞の広告となり、広告新人賞を受賞した。大学時代は趣味のひとつに過ぎなかったが、その一枚の写真が佳奈の人生の指針となった。それは、今、思えばいい意味でも、悪い意味でも。……伝わってくるものがなきゃ、人形と一緒よ。お約束のCD音が止まってからが、佳奈にとっては撮影の真価だった。ただの綺麗な写真なら、機材が進歩している今、誰でも撮れる。だけど、プロとしては、そのワンショットにどれだけ情熱を込められるかが大切な気がする。黙って向き合えば、被写体の心を感じることが出来るのではないかと、いつも思う。サンパウロでの写真なんて、何の施しもなく、設備もない所で、あの、訴え掛けてくる眼差しに魅せられて、夢中で覗いたファインダーの中から、偶然生まれた作品だった。なんとかそれに近づきたくて、感覚を研ぎ澄ましてみても、何も感じない。商業用の撮影に慣れている、モデルや芸能人相手じゃ、いくら派手な動きをしたところで、いつも失望感だけが残る。……これじゃ、不感症のおばさんよね。「なんて格好してるんですか」「あれ?いつ来たの?今日、ロケじゃなかったっけ?」伸びたままの体勢で目を開けると、中澤は相変わらず生意気というより、母親みたいだ。「これだもんな。思ったより早く終わったし車だから、ピックアップしに 来てあげたんですよ」「別に、事務所まで歩いても、20分位だから、いいのに」「それより、先輩、いい加減、諦めた方がいいですよ」「え?何が」「ジャーナリストとしてのこだわり」「何、言ってんのよ」「だって、もう報道じゃないんですよ。 うちの事務所は、そういうのやらないんだから」「あたしは、ジャーナリストとは違うわ。 これでも写真家よ」「もお、また、すぐ向きになる。そんなだと嫌われますよ」中澤が、口元で笑いを堪えているのがわかる。「あのね」さすがの佳奈も椅子から立ち上がると、中澤は笑顔を見せた。「元気出たみたいですね。事務所帰って、ビール飲みながら TVでサッカー観戦でもしましょうよ」何か、中澤にはいつもやられて、悔しいったら、ない。「ビールは、奢ってよ」中澤は、もう佳奈に背を向けて、さっさとスタジオを出ようとしている。……あ、また言っちゃった。これじゃ、ホントに嫌われる。「ビール、ご馳走様です。なかざわっ!……く~ん」 いつも読んでいただいてありがとう♪ランキング3箇所に増えました m(_ _)m応援いただけると嬉しいです f^_^; ↓↓↓ 登場人物紹介
2006.08.31

今日も朝のうちは曇が広がっていたが、お昼近くなると猛暑となった。黒のノースリーブに、ダークグレイのロング丈のタイトスカートをシックに着こなしフェラガモのミュールを履いた指先は、赤のペテキュアが見事にマッチしている。エルメスの黒のガーデンパーティーを粋に肩から掛け、セミロングのボブにあてた、ゆるいウエーブが、タクシーから降りて、歩きはじめた優美を一際引き立てていた。今年1番目の台風が近づいているとかで、関東地方にまで、そのじっとりと湿った空気は広がり、新宿ではビルの谷間からエアコンフォルターの、生ぬるい風や、片付けられていない飲食店の廃棄物が、ツンとする匂いと相まって不快な肌感触をもたらしていた。が、この町で優美が歩いていても、そんな不快感は微塵も感じない。それでも、当の優美は、そんな街並みを大音響がそれをガードするとでも思っているのか、吸い寄せられるように、涼しい顔でここに入った。この場に似つかわしくない妖艶で上品な佇まいに、一同が振り向くが顔を見ると皆、納得して自分の世界に戻っていく。ただ、ひとりを除いては。「おはよ。早かったじゃん」「遅いわよ。思ったより手間取ったから」「えっ?」優美のクールな話し方が、騒々しさにかき消されて、賢司には聞こえなかったらしい。「あたしも、里奈みたいに愚図りたいわ」優美は賢司の横に座ると、別段大声を張り上げる訳でもなく、独り言のように呟いた。「それより、すごいじゃない。今日何箱目?」見ると賢司の足元には、パチンコ玉が入った箱が、何段にも積み上げられている。 パチンコエルシオンでは、暑さに拍車を掛けるような騒音を撒き散らしていたが、優美には慣れたもので、いつも何時間もいると眠くなる程だった。今まで、パチンコなんて野蛮人がするものだと思っていた。去年までは、とにかく里奈の受験のことで頭がいっぱいだったが、お教室も1年間通い詰めると、里奈以上に優美の方が飽き飽きしていた。目の色を変えて我が子を見守る女達に、調子を合わせることが、何より苦痛だった。"自分程、こんなことが、似会わない母親もいない"そう思っていた。母親として、里奈を可愛いとは思うが、こればかりは性分だから仕方がない。母親同士の牽制しあう、あの会話がとにかくウザったかったし、元々、人に調子を合わせるなんてことが、子供の頃から優美には程遠いことだった。そんな時期に、夫の陽平と優美の教育方針について、つまらないことから口論になり、なんだか急にバカらしくなった。陽平にだけは、言われたくなかった。「お前は、本当に里奈の将来の為にやっているのか」と。じゃあ、一体、何の為にやっているのというのだ。これ程、苦痛な思いで必死になってお教室に毎日連れて行っているのは、紛れもなく優美なのだ。陽平は何もせず、高見の見物をしていればいいかもしれないが、母親である優美はそうはいかない。そして、気付いた。別に優美が行かなくても、里奈がお教室に通えて、合格さえすればいいのだと。自分のことなど誰も知らない種類の人たちの中で、賢司と気楽に過ごせるこの場所が、気晴らしには、ちょうど良かった。最近はいつも、目黒区松見坂の実家に住む、兄嫁の幸子の元に車で里奈を送り届け、お教室の送り迎えを頼み、少し離れた場所に、今度は賢司が優美のことを、車で送迎してくれる。今日はいつになく里奈が言うことを聞かず、お教室を経由して来て遅くなってしまった。お陰で、ここまでタクシーで来る羽目になった。「これで、ぱぁっと旅行にでも行く?」「どこに?」「ふたりっきりになれるとこ」「バッカじゃない。それよりエステに行きたいんだけど」「はいはい。お送りいたしますよ」田辺賢司とは留学時代に知り合ったときから、この調子で気楽な男友達としては、最高の関係だった。涼子や佳奈には「二人はいつか、くっつく」と、賭けまでされた程だ。確かに男友達としては、会話も途切れないし、気も合うのだが、結婚相手となると、話は別だ。賢司は容姿も下手をすると夫の陽平より、優美の好みだし、嫌いな訳ではない。……この、いつでも、手を伸ばせば届く、距離感がいい。それに、やっぱり生活の安定がまずは、先だった。賢司は、新宿でワインバーを経営していて、ソムリエの資格も持っていたし、それなりの暮らしは保障してくれるとは思うが、夜の仕事の男には変わりない。……会いたくなったら、こうして、いつでも会えばいいのよ。長くこんな風に接してるせいか賢司のことは、男として見れない。それでも商売柄か気のいい賢司は、優美の女心をくすぐる術を心得ていて、こんな会話だって、半分冗談かもしれないとは思うが、まったくないよりいい。だけど、これがリップサービスのようで、賢司が自分のことを、昔から女として好きでいてくれていることも、心のどこかで知っていた。それ故か賢司といると、陽平の妻であることも、里奈の母であることも全て忘れて、開放的になれる。「実家には何て言っておいでですか?お嬢様」優美がパチンコ玉を、ガラス玉のような透き通った目で追いながら、煙草を差し出すと賢司はライターの火を向けながら、優美を茶化した。「いつもと同じよ」「えっ?」「友達の事務所の電話番」優美がパチンコ台から目を逸らさずに言うと、やはり聞こえないらしい。「えっ?」「佳奈の事務所の電話番!」「ああ、あの報道雑誌のカメラマンの子ね……。何?独立したの?」「そんな訳ないじゃん」「えっ?だって、昔なんかの賞とったって言って、お祝いしたじゃん」「去年、別の事務所に引き抜かれたのよ」少し、うんざりして来た。賢司はいちいち優美の言うこと全てを聞きたがる。陽平とは大違いだ。そこがいいのだが、この場所では話にならない。「早く、ふたりっきりになれるとこ連れてってよ」「……」優美が賢司に顔を向けて笑うと、賢司は慌てて優美の煙を吸い込み、ゴホゴホと咳き込んだ。「冗談よ」優美は嘲笑しながら、いっそ、それも悪くないかもしれないと思った。二人は、パチンコエルシオンを後にして、昼食を取る為に、近くの24時間営業の喫茶店に入った。「最近さ、カフェっていうの多くない?」賢司は、紙ナプキンで包まれたフォークをくるくると出し、運ばれて来たナポリタンに長い人差し指で慎重にタバスコを2滴垂らすと、微笑んだ。「でもパリのカフェとは、やっぱりどこか違うのよね」「変に真似するより、ここの昔ながらのナポリタンの方が旨いよ」優美がコーヒーカップを置くと、賢司はさも嬉しそうにナポリタンを頬張っている。決してお洒落とは、言えないこの喫茶店での昼食も、気取らず長居出来て、優美は結構気に入っていた。……他人から見れば、所詮、通りすがりの男と女に見えるだけ。賢司は、ここのとても美味しいとは言えない、ナポリタンがお気に入りだった。なんでも「日本にいる」っていう気がするらしい。そう言われて、優美も何度か食べているが、コテコテのケチャップがどこか妙に懐かしい味に思えた。「エステより、映画にしない?俺、観たいのあるんだよね」「駄目よ。もう予約入れてあるんだから」「なーんだ。今日もアッシーか」……子供みたい。 「それ死語よ」「じゃあさ、明日は?」……でも、賢司だって、もう35歳なんだ。「もお、水曜日は、お義姉さんがお茶のお稽古で、お迎えが駄目な日じゃない」「じゃあ、明後日は?」「明後日は、お教室お休み」……特定の彼女は、いないの?「あ、金曜日がいいわ。実家で7時からお食事会だから、それまでに帰れば、 少し位遅くなれるわ」「やったぁ!本当に?ミッション・インポッシブル3の指定、買っちゃうよ」……じゃあ、賢司と寝れる?「本当にいいの」「自由席なんて、嫌よ」……寝れるかもしれない。「決まってんじゃん。後で買っておくよ。えーっと、エステはどこだっけ?」「自由が丘」……どこの国の女と寝ているかわからない、陽平よりマシだわ。今度誘われたら……、断らないかもしれない。優美はふと、クシャクシャに笑う賢司の、長い指を見つめながら、本気で賢司と寝ることを考えていた。読んでいただいてありがとう♪続き読んでみたくなりましたか?読んでみたいと思われたら……ランキング参加中♪ご協力お願いしますm(_ _)m↓↓↓ 登場人物紹介
2006.08.25

こんにちは。いつも<美しき月の夜に>へお越しいただき、「熱砂の霧」を読んでいただいて、本当にありがとうございます。また、ランキングの応援、誠に感謝いたします。さて、長々読んでいただいていますが、物語は今日UPした7話目で、2話「新しいサンダル」から、やっと1日が終わりました。やっとです。この先、このペースで収集が着くのか、本当に100話に収まるのか、みづき も少々不安です。あくまでも100話完結は予定ですが、長くなることは、あってもそれ以下にはならないと思います。飽きられることないよう頑張ります!なんて、言ったりして でも、ちょっとだけ言い訳もしたかったりして で、こんなふうに、素を出したくなりました このBlogの世界観をぶち壊してしまったら、ごめんなさい。まずは大切な事。美月一恵は「みづきいちえ」です(笑)「かずえ」ではありまさんので、お見知りおきを……もちろん本名ではありませんから、いいんですけどねっ 普段は、普通の働き者の主婦です。間違えました、変な働く主婦です (注意:決して優美さんみたいなセレブでは、ありません)子供はおりません。だからこんなことやってられるでしょうか。あ、だからって、そこの男性の方、急に去らないで 折角ですから、今回登場のデザフィナードが視聴出きるサイトをご紹介しますね。よろしかったら、聴いてみて下さい。より一層「熱砂の霧」に近づけるかもしれません♪☆ 本家 ジョアン・ジルベルト versionはこちら☆ 小野 リサ versionはこちら他にもガル・コスタ、アントニオ・ カルロス・ジョビン 、ニューヨーク・ヴォイセス等数多くの有名ミュージシャンがカバーしています。ウフフッ、何かブラジルの匂いがようやく漂ってきましたでしょうか?ちなみに、ポルトガル語表示は DESAFINADO 発音は「ジザフィナード」になります。みづき は、ジャズ・フュージョン好きですが、ボサノバに関しては、あまり造詣が深くありません。あくまでも、この物語のイメージで使わせていただきました。ボサノバやこの曲に関してのこれ以上突っ込んだご質問ついては お答えいたしかねますので、ご了承下さいませ。 というわけで、また、たま~にこんな形で登場するかもしれませんが、あまり不評でしたら、ただちにこのページは削除します (ミッション・インポッシブルみたい )物語は、ここからが本当の意味でのスタートです。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
2006.08.22

”VOICE”は、小さな店構えながら、落ち着いた通好みのジャズなどを聴かせる老舗としては有名だった。涼子が20歳の頃から27歳までつき合っていた鮎川啓太と、初めて出会ったのもこのライブハウスだった。当時はよく足を運んだものだ。20歳そこそこの涼子は、ここに来ると、大人のいい女の仲間入りをしたような気がして、普段の自分とは、ちょっと違っていたように思う。この店に出入りすることで、他の20歳の女の子なんかより、自分のセンスの方が格段上になったような気がした。それは深夜ボイスを訪れる時は、様々なコンサートのライティングという生業を持ち音楽業界に精通している啓太と、決まって一緒だったことも、そんな涼子の優越感を満たすに充分値していた。だからこそ、啓太と別れてすぐは、ここを通ることも避けるよう努めて来た。雄二と出会う、少し前位には、気持ちもだいぶ和らいでいたが、通るたびに啓太との思い出と直結するこの店を、複雑な思いで通り過ぎていた。そして、雄二と結婚を前提に交際し始めた頃からは、その存在さえ気に掛けなくなってきていた。が、今夜の涼子には、この”VOICE”が、堪らなく懐かしく思えた。懐かしいと思う今の自分なら、もうここに足を踏み入れても、平気なような気がする。……そうよ。啓太とのことは、もうとっくに終わってるんだから。雰囲気ぐらい……。腕時計を見ると、まだ9時半を少し過ぎたところだった。家まで30分はかからないし、いざとなれば、もうタクシーだって、簡単に掴まえることが出来るはず。”平気なような気がする”というより、自分自身を試してみたい好奇心のようなものかもしれない。こんな機会でもなければ、わざわざ出向いて来るようなことは、きっと無いだろう。涼子は、いくつも間違えがないことを確認しながら、何年かぶりに通りから路地を右に曲がった。”VOICE”までの50m程を歩くと、看板横の地下に繋がる、暗い階段の間口からラテンのようなリズムで、女性ボーカルの伸びのある耳障りのいい声が、漏れ聴こえて来る。間口の横に吊られたホワイトボードには、今夜の出演者と称して黒いマジックで殴り書きのように”今夜はブラジリアンナイト”と記されていた。しばらくその場で唄声を聴いていたが、その明るい曲調に招かれるように、嬉しくなり階段を下りていった。店の扉を開けると、今まで聴こえていた音が現実味を増し、薄暗い店内はステージだけが明るい。受付を済ませて案内された奥のテーブル席に座ると、涼子はボーイに昔もここでよく頼んだソルティドッグを注文して、しばらく演奏に耳を傾けた。ステージ上では南国風の衣装を纏った女性ボーカルと、男性のドラム・ベース・ギター・ピアノというシンプルな構成のメンバーが、それぞれの音と戯れ、互いにアイコンタクトを取りながらリズムを楽しんでいる。2、3曲聴いて目が慣れてくると、店内は思った以上にリスナーが多いことに気付いた。20坪程の店内に20~30人はいるだろうか。ほとんどがカップルだが涼子のように一人で来ている者も結構いる。それぞれ静かに談笑しながら、思い思いにこの場を満喫していた。こういう音楽を好きな人ばかりが集まっているせいか、そう騒ぐような人はいない。1曲終わるごとに上がるささやかな歓声や拍手を、ステージのミュージシャン達も、必要以上に、強要したりは、決してしない。通りすがりの見ず知らずのバンドだが、涼子にはこの空間が、至極心地の良いものに感じられた。……もう別れてから、4年も経ってるんだ。ここでこうしていた日々が、昨日のことのように思える。啓太とはいろいろあったけど、思い返せばここに来ている頃は、まだ楽しかった。涼子は演奏を堪能しながら、知らず知らずのうちに20代始めの、恋に夢中だった頃の自分を思い起こしていた。啓太のことが、好きで好きで、一緒にいることが嬉しくて楽しくて、仕方なかった。ずっと啓太の側にいたい。そこには、何のしがらみもなく結婚とか、そういうことではなく、純粋に啓太を大好きな自分が確かに存在していた。ただ、ただ、啓太を信じていた。きっと一緒に歳を取って行くものだと。……あの頃、ここに、確かにいた私は、一体どこへ行っちゃったんだろう。あんな風に、人を好きになれる自分には、もう二度と戻れないのだろうか。今の自分とは、まるで別人のような気がする。髪も綺麗に巻けるようになった。マニュキュアだってあの頃に比べて、はみ出さずに上手につけることが出来る。美味しいイタリアンもあの頃より知っているし、太らないようにヨガだって、毎晩家でやっている。仕事だって、満足している訳ではないが、そこそこ頼りにもされている。31歳の女性として、自分を磨くことに、今まで手を抜いたつもりはなかった。でも、何かが違う気がする。啓太を好きだったような気持ちで、雄二を想うことは出来ないのだろうか。ふと、その現実に気付き、涼子は愕然とした。今の自分にはないあの頃の自分が、今夜の涼子には、何かとてつもなく愛しく尊い存在に思えてきた。……それとも、あれは、まだ子供だったってこと?啓太とだって、別れる2年くらい前からは、決してあまりいい関係じゃなかった。そうだとしても、雄二へのそれとは、全く違うものにさえ感じられるから、不思議な気がする。「ラストソングはわたしの大好きな曲です」女性ボーカルが上気しながらそういうと、店内は今までの曲紹介の時より、少しどよめいた。この10年の時を感じているうちに、いつの間にかもう最後の曲だという。テーブルには、ずいぶん前にボーイが置いていった、ソルティドックの氷が解け、紙のコースターにたっぷりと水を含み、所在なげだった。ほんの少し雰囲気を味わいたかっただけなのに、1時間以上も、こうして、ここに座っていたらしい。イントロが始まると、それまでの明るい曲調から一変してボサノバ調になり、涼子は一瞬、心をギュッと鷲掴みにされたような衝撃を受け、思わず空を凝視した。視覚では何も捕らえることが出来ず、聴覚だけが異常に覚醒され次の瞬間には、思い切り目をつぶっていた。デザフィナード。それは、ボサノバの神と言われたジョアン・ジルベルトの名曲だった。……デザフィナード。この曲こそ啓太と共に、大好きでよく聴いていた曲。「調子っぱずれって意味なんだぜ。このタイトル。俺の人生そのものだろ」最後に見た啓太の笑顔が、鮮明に蘇る。二人が始めて大人の男と女になった夜も、この曲が遠くに聴こえていた。別れ話をした時も、啓太の部屋のステレオから静かにこれが流れていた。涼子の部屋にもCDはあるが、あれからずっと今日の今日まで封印されている。涼子は一瞬にして一度に、啓太と結ばれた時の深い感動と、別れた直後の身が引き裂かれるような辛さを体現し、身体が震えた。今日も「デザフィナード」が、静かに涼子の身体を包み込み、呼吸と連動して、心の中に1滴落ちた水滴のように、じわじわと染み込んでいく。深く。深く。「二人でいつか本物のジョアン・ジルベルトのコンサートに行こう」啓太の声が、聞こえる。……そういえば啓太とは、守れなかった約束がいくつもあったっけ。果たせなかった夢を持っていた。届かなかった想いが……。間もなく演奏は終わり、アンコールの拍手が沸き起こった。やっとそれが幻想だとわかった時には、涙が頬を伝っていた。……一体わたしは、ここで何をやっているんだろう。我に返ると明日も、明後日も仕事に行かなければいけない現実が待っている。バックから携帯電話を取り出すと、雄二からメールが入っている。「……そうだ。新婚旅行のオプショナルツアー、どれにするか決めなきゃ」涼子は、ぼうっと呟くと居ても立ってもいられなくなった。店内では、一度ステージから去っていったミュージシャン達が、アンコールの為に出てきて、ギターやベースの調律を合わせていたが、慌てて席を立って会計を済ませると”VOICE”を後にした。……今度こそ、まっすぐ帰ろう。涼子は、もう何も考えずに家を目指した。というより、何も考えられなかった。ただ、今夜、あの場に居合わせ、「デザフィナード」を聴き、感じたことの全てが”とても意味のある偶然”に思えて仕方がなかった。読んでいただいてありがとう♪続き読んでみたくなりましたか?読んでみたいと思われたら……ランキング参加中♪ご協力お願いしますm(_ _)m↓↓↓ 登場人物紹介
2006.08.22

このままバスやタクシーの待つ人の列に並べば、1時間は有に待つことになる。涼子は、駅に引き返そうかと思ったが、いつ動き出すかわからない電車を待つより、家までの道のりを歩いて帰ることにした。1時間もあれば、涼子の住む中目黒のマンションに到達出来るはずだ。ふと、足首のマメが気になりはしたが、涼子はバスターミナルを渡り、歩道を歩き始めた。国道246は鉄の鎧で武装した、エンジン達が沸々と本領が発揮出来ないことを苛立っているかのようにテールランプが連なっていた。そんな車達を尻目に歩いていると、夜風にセミロングの髪が耳元でかすかに揺れて、気持ちが良かった。佳奈は、あんな風に言ってたけど、中澤くんとは、いい感じじゃない。少しお酒が入っていることで、楽しい気分が続いているせいか、今まで一緒にいたふたりのことを思い出し、涼子は歩きながら、クスリと笑った。そして、公私共に充実している佳奈を羨ましく思った。しかし、足取りが軽いのは、佳奈のことのみを思い出しているうちだけだった。確かにもうすぐ結婚を控え、誰に言わせても、今が一番幸せな時なのかもしれない。でも、就職して8年以上も同じ会社に居ながら、書類作成と電話への応対だけが日々の仕事だった。たまに新人教育を任され「設楽さんが居ないと困る」などと口々に言われたりもする。……だけど私には一体何が残ったんだろう。実績らしい実績もなく、何か物足りない。佳奈のように自分の仕事が作品として残り、評価されれば、それがいいにしろ、悪いにしろ、自分自身が納得出来るではないか。なだらかだった坂を昇りきり平坦な道になると涼子は、足首の痛みを感じ、今度こそ目視できる足首を見た。今朝、会社で貼った絆創膏から血が滲んでいた。佳奈から貰った絆創膏に貼り変えようかと立ち止まったが、目の前の青信号が点滅していたので、思い出した足首の痛みを抑えて旧山手通を渡り切った。この辺りは、代官山に繋がる道で昼間は、結構人通りもあるが、この時間には往来する車だけが、無機質な音を立て通り過ぎて行く。涼子は立ち止ることも忘れて、朝、電車の中で一瞬よぎった思いへと心を巡らせていた。結婚したら、会社を辞めた方がいいのか。……でも、最近。雄二は恋人としても、結婚相手としても申し分ないと思うが、このところ、結婚式場での打ち合わせや、招待客のリストアップ、旅行のスケジュールなどデートというより、ミーティングのようになってしまっている。その癖SEXだけはお約束になっているから余計に寂しい気持ちになる。今からこんなことを思うのだから、このまま結婚して会社を辞めたら、その思いは、もっと色濃くなるんじゃないだろうか。そう思うとより一層、佳奈が羨ましく思えた。佳奈のように自信の持てる仕事でもしていれば、結婚か仕事かなんて考えないだろう。第一、佳奈のような性格だったらこんなこと、決して思わない。結婚するのは自分のはずなのに、無邪気に喜んでばかりもいられず、どこか人事で、大きな幸福感が足りない気がする。普通なら、結婚前はもっと幸せなんじゃないか。これといって大きな不満がある訳ではない。だからって大きな目標がある訳でもないが人並みに幸せになりたいとは心から思う。きっと中途半端なんだ。「じゃあ、人並みの幸せって何よ?」涼子はひとつ溜息をつくと、声に出して呟いていた。涼子は得体の知れない何かに心を奪われてしまいそうで、それを断ち切るように足を止めて屈み込むと、今度こそやっとの思いで、絆創膏を剥がし、さっき佳奈から貰った新しいものと張り替えた。人並みの幸せと言っても、それは人それぞれ違うのだから、たとえば佳奈にとっての幸せが、涼子にとっての幸せとは限らない。絆創膏から出たゴミをポケットに押し込みながら、どうどう巡りにしかしない自分のことがちょっと可笑しくなった。……でも絆創膏を取り替えた方が、いいって思う気持ちは、一緒だったのよね。涼子はなんとか気持ちを切り替え、苦笑しながら立ち上がろうとした、その時。右側の路地の50m程先に、意味をなさない程、細く薄い文字で書かれた”VOICE”という小さな立て看板が目に止まり、看板と同じぐらい目立たぬ「あっ」という声を発した。この道はたまに通るが、いつもはほとんどバスか車で通るし、バスは余程のことがない限り使わない。雄二と車で通る時は、助手席で雄二との会話を楽しんでいるから、通りを少し右に折れた看板などに気にもしていなかった。「ボイス、まだあったんだ……」小さな驚きは、すぐに喜びへと変わった。読んでいただいてありがとう♪続き読んでみたくなりましたか?読んでみたいと思われたら……ランキング参加中♪ご協力お願いしますm(_ _)m↓↓↓ 登場人物紹介
2006.08.20

待ち合わせの場所で待っていると、いつものように佳奈は息を弾ませながら、席に座り、涼子のビールを横取りして喉に流し入れると開口一番、「ちょっと、聞いてよ!もう!ホントむかつくんだから」と一気に話し始めた。同じ事務所の2歳年下の後輩が、いかに生意気かをひとしきり話さないと気が済まないらしい。これも、ここ最近のいつものことだった。佳奈とは大学時代から、ずっと同じ学校に通い学科こそ違ったがお互いが社会に出てからも変わらぬつき合いが続いていた。ずいぶん経ってから、実は高校も同じだったと、気付きその親密さが増した。更にお互い親元を離れて30を過ぎても独身でいることが、そのつき合いの深さを増長させていることは否めない。佳奈は元々さっぱりとした性格で、涼子が結婚することを決めた時も女性特有の嫉妬心のようなものを微塵も感じなかった。そんな佳奈だから、長いつき合いが出来たのだ。ただ、カメラマンという職業柄か、ショートカットのせいか、それともその性格のせいなのか、”男っぽい”とは口が裂けても言わないことにしている。大きな声で「すみませ~んお姉さん、ビール!ピッチャーで」という佳奈を涼子は羨ましくも愛しくも思う。「あとグラスももうひとつね!」「あ、あとホタテのカルパッチョとローストビーフとフォークじゃなくてお箸下さいっ」さっとメニューを見ていち早く早口で注文する佳奈に、バイトの女の子が圧倒されている。初めて来た店でもどこでも佳奈は、いつも佳奈らしさを失わない。その気性のせいか、昔から男がらみの相談に関してはよく話を聞いてはくれるが、最終的には「もう、飲もう!飲もう!」と酒を勧められ、涼子の飲酒の量が増えたのは内心、佳奈のせいのような気がするから可笑しい。もっとも、それだけ男を見る目がなかった涼子自身のせいでもあるのだが。今日も、雄二の仕事が忙しく会う約束が変更になり、急なことで時間をもてあまし”涙顏”の絵文字入りメールを携帯電話に入れると、 結婚するからって、あたしの愚痴から逃れようと思っても そうはいかないんだから\(^^;)という返信がすぐに来た。 あたしも偶然仕事がドタキャンになって、今夜暇になっちゃった。 渋谷に出来たダイニングバーが気になっているんだけど、どう? ( ^_^)/□☆□\(^_^ )と誘ってくれたのは佳奈の方だった。さっぱりしている上にさりげないフォローか効いている。佳奈は昔から心優しい。今、目の前で2つ下の後輩の愚痴を面白おかしく語る佳奈は、そんな気の置けない涼子の親友のひとりだった。「……で?大友くんは残業なの?」さすがの佳奈もひと心地ついたのかビールのピッチャーが2回目に来る頃にはようやく、涼子の話を聞く気になってくれたらしい。「うん……。なんか急ぎの直しが入ったとかで、何でもスケジュール的に一杯一杯 なんだって」「ふ~ん。いいなあ。結婚前の男って、なんか乗ってるって感じで生き生きしてない? でもさぁ、女の方は違うんだよねぇ……」「……」涼子は心の中を見透かされたようで内心ドキリとした。確かに何か割り切れないモヤモヤが涼子の心の中を占めている。佳奈は未婚なのに既婚者のような物知り顔で、テーブルの上の皿に残った、オニオンスライスを箸で器用に集めてローストビーフで包み込み頬張った。やっぱり、このモヤモヤは結婚前の女性がみんな経験する、バージンロードのようなものなのだろうか。涼子は1/3程グラスに残っていたビールを一気に飲み干した。「マリッジブルーってこういうものなのかな……」「大友くんに女がいる訳でもあるまいし、素敵な旦那様になる人が残業で会えないくらい、 どぉってことないじゃない!そんなんでいちいち落ち込んでいたらこの先……」やっと話の核心に入ったと思ったところだった。佳奈の目が泳いだので、視線の先を振り返ると、涼子達と同世代くらいの背の高い白いTシャツにGパン姿の男性が、入り口付近でキョロキョロと店内を見渡し、なにやら人を探しているようだ。佳奈は飲みかけていたたビールをゴクリと飲み込んで目を見張ると、「中澤!」と言ってひどく慌てて、身を小さくした。「さっき、話した事務所の後輩」そそくさと涼子にそう言うと、今度はそれとわかるように”中澤”に手を振った。手を振られていることに気付いた”中澤”は、大きく溜息をつきこちらに大股で歩いてきた。「どうしてここがわかったの?あ、KIYAプロの有望な新人カメラマン、中澤透くん」佳奈はテーブルナプキンで口の周りを拭いながら、何度も頷き、照れくさそうに中澤を紹介してくれた。中澤は涼子に「あ、どうも」と一瞥すると、なるほど生意気そうに右手を腰に当て、椅子に座っている佳奈を上から見下ろして「井上さん、これ、明日スタジオに持って行くんじゃなかったんですかぁ?」と肩に下げていたレンズケースを腰に当てていない方の左手で差し出した。「ち、違うわよ!飲んで忘れると困るから、わざと置いて帰ったの!」佳奈も先輩カメラマンらしく負けていない。「わざとって、明日5時に新宿ですよ。そんな時間事務所に入ったら、セキュリティー会社の 警備員飛んできますよ」「……。ごめ~ん。持ってきてくれたの?」佳奈は首を少し窄めて、一瞬静止したが、次の瞬間にはもういつもの佳奈だった。「でもさぁ、よくここわかったじゃん。ま、座れば」「そりゃあ、誰だって井上さんが今夜ここに来るってわかりますよぉ。あれだけ帰る時に大騒ぎ して場所調べて出て行ったんですから。それよりこちらのお友達紹介してくださいよ。 井上せ・ん・ぱ・いっ」涼子は二人のやり取りに思わず噴出してしまった。とても佳奈らしいと思った。やはり今日のこの席は偶然ではなかったのだ。「あはっ、彼女はわたしの大学時代……ホントは高校からなんだけどね、ま、いっか。 とにかく、ずうっと親友の設楽涼子さん」中澤は腰に掛けていた手を正し、椅子には座らず涼子に軽く会釈をした。「したらさんって、めずらしいですね」「よく言われます」涼子も初対面の笑顔を返した。「駄目よ!彼女10月に結婚するんだから。で、ビールでいい?」佳奈は涼子を見て笑顔を返す中澤に釘を刺しつつ、グラスとピッチャーを頼もうとしている様子で、忙しそうなバイトの女の子の手が空く瞬間を逃してなるものかとでも言わんばかりに見入っている。「そうか、長いつき合いだからあんまり気にしてなかった。うちの社長の木に谷って書いてキヤ っていうのも珍しいけどね……すみませ~ん」「なら、僕やっぱり帰ります」やっとバイトの女の子の手が空き、佳奈が呼び止めるのと同時に中澤が水を差した。バイトの女の子はもう佳奈には慣れたのか、中澤の座ろうとしない様子に自分には用がないと気付きと、さっさと別の仕事に行ってしまった。「何に言ってんのよ。今来たばっかりじゃない。第一、涼子に失礼だと思わない?」「冗談ですよ。明日早いから。井上さん、もう9時ですよ。今から帰って井上さんは9時半。 僕は10時半。目、大丈夫ですか?嫌ですよ僕。”また”代打で、急に撮るの」中澤は”また”を強調して佳奈に毒付いて笑った。佳奈と中澤は明日、新宿のスタジオで一日CDアルバムジャケットの撮影の仕事が入っていた。タレントの都合で早朝からの撮影になってしまったらしい。カメラマンというと誤解されがちだが、早朝からの撮影の前日に深酒は厳禁だ。中澤は佳奈が”レンズケースを本当に忘れた”と思ったのではなく、それを口実に、佳奈のことを心配してここにやって来たのだ。……そもそも明日同じところに行くなら、中澤くんが持って行けば済む話じゃない。涼子は口が悪い中澤の、これが佳奈への思いやりなんだと察して、職場にこんな後輩がいる佳奈を羨ましく思った。「ねえ、今夜はありがとう。大丈夫だから。佳奈の言うとおりよ。細かいこと気にしても 仕方ないもんね。今日はまだ月曜日だし、あたしも明日仕事があるから……」涼子は佳奈に礼をいい今日のところは、これでお開きにすることにした。店を出ると、昨日の晩に比べていくらか涼しい。駅まで10分程の距離を、息の合った佳奈と中澤の漫才のようなやりとりをBGMにふらりと歩き、佳奈は山手線、中澤は井の頭線に、そして涼子は東横線へとそれぞれ家路への路線が違う為、ハチ公口で別れを告げた。ふと、歩いていった佳奈が不意に立ち止まり涼子のところに走って戻ってきた。「血が滲んでる」「えっ?」「足首のマメ」佳奈はそう言うと、そっと絆創膏を差し出して微笑んだ。「今日はごめんね。埋め合わせするからさっ。今週……金曜日なら時間取れるから、またね」そう言い残し走り去っていった佳奈の友情に、涼子は心から感謝しながらホームへの階段を急ぎ家路についた。東横線の階段を昇ると、普段のこの時間に比べてやけに人がごった返している。涼子は嫌な予感がして、注意深く耳を澄ますと、踏切事故で上下線共に電車が止まっているという場内アナウンスが流れている。このまま待とうか一瞬躊躇したが、この様子だと朝のラッシュ時以上の混雑が予想され、涼子は迷わず、バスかタクシーを使って帰ろうと今昇って来たばかりの階段を降りた。が、地上に降りる階段の途中で、バスを待つ列もタクシーの方も大行列しているのが否おうなしに目に付いた。……いつから止まっていたんだろう。読んでいただいてありがとう♪続き読んでみたくなりましたか?読んでみたいと思われたら……ランキング参加中♪ご協力お願いしますm(_ _)m↓↓↓ 登場人物紹介
2006.08.16

怒っている。雄二はこの9月オープン予定の”ネイルサロンERI代官山店”の店舗図面を仕舞いながら目の前でこの店のコンセプトについて話す、オーナー佐伯恵理子を見て、そう思った。「このエントランスのところのクローゼットが、どうして1個なのよ」そんなクレームの電話が恵理子から事務所に入り、アシスタントの竹内正幸に図面を持たせて、ここ”ネイルサロンERI 自由が丘店”で待ち合わせ、他の現場で仕事をしていた”ネイルサロンERI代官山店”の店舗デザインを一任されている大友雄二は、急ぎタクシーを飛ばして取るものも取りあえずやって来た。炎天下の中、流行りのアジアンテイストで彩られたERIの店内はエアコンが程よく効き、買い物帰りかこれから遊びにでも行くのか数人いる女性客は、それぞれのネイルアーティストたちと指先の一点を見つめ合い談笑していて、都会の喧騒とは異なる一種独特な空間を醸し出している。その店内の奥に応接室替わりに使用している恵理子専用のオーナールームで、雄二と竹内は恵理子のご高説を賜っていた。……この女は、まだまだ自分の利用価値を放棄してはくれないようだ。店舗デザイナーとしても……、男としても……。恵理子の意気揚々と話す顔をじっと見ながら、雄二は直感していた。最初に打ち合わせをした時点では「大きなクローゼットは1個だけにして欲しい」と本人が強く希望していたのだ。つい昨日までは図面を見て観葉植物の置き場まで決めてやる気満々だったではないか。何より今更プランを変更していたら、他の関係業者にも迷惑がかかる。今頃になってこんなことを言い出すのは、新しい店の為なんかではなく「他の理由」がある。雄二には、恵理子のしぐさひとつひとつがすべてその「他の理由」に映った。「……だからやっぱり、ジャケットやバックを入れておく場所はたくさんあった方がいいわ。 冬場にお客様が大勢来た時に困るじゃない。それとも繁盛して欲しくないはのかしら」恵理子は片側だけ眉毛を動かし、雄二から視線を外すと、はき捨てるように言い放った。最初から雄二がそう言ってたにも関わらず、見た目を気にして1個にして欲しいと言ったのは当の恵理子の方じゃないか。「えっ、でもこれで行くって、この間も……」隣に座るアイスタントの竹内が思わず口を挿んだが、雄二はそれを制するように、「わかりました。今から事務所に帰ってもう一度練り直して、違うプランを持って来ますよ」と竹内を引き連れるようにして、ERI自由が丘店を出た。外に出ると遅れてきた今年の夏は、夕方になろうとしていることなど容赦なく眩しく、雄二は思わず目を細めた。何かまんまと佐伯恵理子の手中に落ちたように思えて軽く舌鼓を打ち、大きく溜息をついた。「大友さん、いいんですか」竹内が心配そうに雄二の顔を見たが、苦笑するしかなかった。今夜は涼子と結婚式の招待客や新婚旅行のプランについて、話を煮詰めようと思っていたが、この調子だと会う時間さえ取れるかどうか怪しい。雄二と竹内は、目黒通りを乃木坂の事務所へと車を走らせた。やはり、涼子と結婚することはギリギリまで伏せておいた方が賢明だったと雄二は確信した。恵理子との初対面は、雄二が今ちょうど隣で運転する24歳の竹内くらいの頃、やはり先輩のアシスタントとして打ち合わせに来た時だった。恵理子は当時29歳の若さで銀座のクラブママをしていて自分のような若造など、目もくれないと思っていたが恵理子のネイルサロンが新しくオープンする頃には、何事にも逆らわない雄二はすっかり気に入られていた。雄二にしてみればまだ駆け出しのアシスタントだったし、仕事のひとつと考えていたのだが、どこからどこまで仕事なのかわからないままに、サロンがオープンしてからも、やれ棚を作れだ、電球が切れただと、便利屋のように呼び出しては雄二を顎で使った。その頃の恵理子はクラブのママからサロンのオーナーへと転進したばかりで、何かと男手に困り雄二のような従順な”子犬”がちょうど手頃なのだろうと思っていたが、サロンのスタッフや客たちの一部が「クラブ時代の”老獪な愛人”と縁が切れ、雄二のような若い男を狙っている」と、噂をする頃には既に噂以上の関係となっていた。若い雄二にとって奔放な恵理子はとても魅力的だったし、年上であることにもかまわず上手に甘える彼女はかわいい女でもあった。それなりに女に慣れていない訳でもなかったが、大学時代からつき合っていた自分より年下の女達に比べ、とても新鮮なものだった。たとえ恵理子が年上であったとしても、いつか男としてのけじめはつけなければいけないと思い始めた矢先……3年程前、ちょうど一人身となった”老獪な愛人”と恵理子は、あっさり入籍してしまった。幼い頃のトラウマからか上昇志向の強い恵理子にしてみればサロンの経営が難色を示し始めたこともあり、一介の店舗デザイナー雄二との結婚ではなく、財界の実力者である佐伯の正妻という”立場”を選んだにすぎなかった。恵理子が入籍して間もなくは疎遠になっていたのだが、1年もたたないうちにはまた”子犬”が恋しくなったのか頻繁に呼び出されるようになった。それからはいわゆる”不倫関係”が続いていた。雄二の方は恵理子が結婚した時点で、気持ちの切り替えが出来ていて割り切ったつき合いのつもりであった。この時点で出会ってから8年も過ぎてるのだから子犬だって立派な成犬に成長しているのは当然だろうと雄二は思っていた。車は夕暮れに向かおうとする混雑で、なかなか国道246へ出ることが出来ない。「参りましたね」竹内が渋滞のこととも、今日の打ち合わせのことともつかず呟いた。雄二は目だけ動かして、簡単に頷きポケットから煙草を出して火を点けた。少し窓を開けると、この時間になるというのに陽炎がいかにも夏が来たということを主張していた。……いい加減になんとか縁を切らなきゃまずいな。涼子と交際をはじめてからは、これが良い機会と思いなるべく避けるようにしてきていたが、雄二の設計したカフェが若い女性向けの雑誌などで取り上げられ話題となった半年程前に、今度は新しい店舗の設計を依頼して来たのだ。個人的な話ならうまく断りもしたものの、事務所を通して正式なものであったから、雄二もやむなく引き受けるしかなかった。それから何度か、どうしても断りきれず夜を共にした。それもまずかったのかもしれない。そして昨夜は、思い切って10月には結婚を控えていることを恵理子に打ち明けた。さすがに恵理子もその場では「良かったじゃない」と喜んでくれたが、それはあくまで結婚する報告にしか過ぎず、二人の関係を終わりに出来るものではなかったようだ。甘かったらしい。「そういえば…、大友さんお昼、取らなかったんじゃないですか」「……」「大友さん、マリッジブルーですかぁ」黙り込んで煙草を吹かしていた雄二に、今日の不愉快な空気を払拭するように竹内がおどけた。「マリッジブルーですよ!」「マ、マリッジブルー?まさか!あれは女だろ」雄二は思わず苦笑したが、それでも竹内は雄二の心を知ってか知らずか、からりと笑った。「いやぁ、今は男でもあるらしいですよ、マリッジブルー」「ふざけんなよ……」雄二も一緒に笑った。いや、冗談ではないのだ。この仕事を成功させた上で、うまく恵理子との関係を切ることは雄二にとって「結婚への準備」そのものだった。読んでいただいてありがとう♪続き読んでみたくなりましたか?読んでみたいと思われたら……ランキング参加中♪ご協力お願いしますm(_ _)m↓↓↓Back Next登場人物紹介
2006.08.14

「早く食べちゃってよ」優美は今見送ったばかりの夫の食器を片付けながら、ため息をついた。3歳になる娘の里奈はそれでもテレビの子供番組に夢中になっている。毎朝、夫の陽平が出勤するまでは、NHKにチャンネルを合わせているが、出掛ける間際になると、親切なことにわざわざCS放送の子供向け番組にチャンネルを替えてから玄関に向かうのが、いつ頃からか宝田家の悪しき習慣となっていた。陽平はひとり娘である里奈の機嫌を損ねないよう、彼なりに努力しているつもりなのであろう。大学時代にパリ留学の経験がある優美でさえ、学生時代に会社を立ち上げる陽平のような行動力などない。頭の回転が早く、人当たりが良く、経済力まで備わった陽平ならば、きっと普通の主婦のようなストレスなど抱えることなく、幸せに暮らせるに違いないと優美は知り合った頃からぜったい夫にすると決めていたのだ。渋谷区の南平台に人がうらやむような豪邸を構え、そこに暮らし、里奈が生まれるまではその贅をつくした暮らしぶりに、普通の主婦では味わうことの出来ない優越感さえ感じていたが、まさか子供の機嫌取りをし、妻である自分を母親としてしか見ようとしない、普通の男になるとは夢にも思わなかった。洗い物をしていると、シンク横に備えられているコントロールパネルから、パウダールームの洗濯機が洗濯乾燥の終了を示すブザーが耳障りな音を立てた。……男の人は暢気でいいわよねぇ。たとえ世の中の主婦の大半が口にすることだとしても、優美にはこれが自分だけに与えられた特別な試練なのだと思える。……そうわたしのような女には。洗い物を終え時計に目をやると7時半になろうとしている。身だしなみを整え、8時には家を出なければ遅刻してしまう。「里奈ちゃん!」テレビを見ながら食べたオムレツはフォークでもて遊ばれスクランブルエッグのように……、いいえ、そんな生易しいものではない。それは”いりたまご”の形相だ。……一体いつになったら遊び食べをしなくなるのだろう。……この夏の間にはなんとかしなくちゃ間に合わないじゃない。優美は、あきらめて寝室に向かいドレッサーから化粧ポーチを抱えると、ポケットの中で携帯のメール着信を知らせるバイブレーターが振るえ、キーに触れてその振るえを止めた。……この冬こそが本番なのだ。化粧ポーチを脇に挟み、携帯のメールの相手を一応確かめながらダイニングに向かう。聖シシリア女子大附属の幼稚園受験までにそう時間がない。昨年から通い始めた受験準備の為のお教室に行くのもあとわずかだ。……悠長に構えていては一生後悔することになる。化粧ポーチをダイニングに置いて椅子に座ると、ヒリヒリとした焦燥感に突き動かされた。「もう!食べないんだったら、ご馳走様しなさい!」「ママ、今日もお教室ぅ?」里奈がやっと”いりたまご”から解き放たれたことを嬉しそうに愛くるしい笑顔を向ける。「そうよ。今日も明日も明後日もずっとよ」優美は鏡を覗き込みながら、投げやりに答えた。「里奈ねぇ、あの女の先生、嫌い」ここのところ使っている50000円もした、クリームの効果を確かめるように朝一度、簡単に済せた化粧の後の目尻を軽く指でなでながら、里奈のなじるような目をチラリと見る。「嫌いって言ったって仕方ないでしょう、里奈ちゃんの為なんだから」フェイスパウダーのコンパクトを左手に、右手はパフで細かく頬を押さえる。「だって怖いんだもん。里奈ちゃんのことね、怖い顔で見て里奈さんって言うんだもん」「もう、お願いだから今日はいい子にしていて」優美は気持ちを集中させてマスカラを一気につけ終わると里奈に言った。「ちゃんでも、さんでも里奈は里奈でしょう。あともう少しなんだから我慢して」里奈にとって唯一の切望を訴える相手である優美の化粧は、あとは口紅を引く作業だけだ。優美は今日2度目のため息を大きくつくと、置いてあった煙草に火をつけ、細い煙を吐きながら、携帯を取り出しメールの内容を確かめた。「おはよう。今日の教室エスケープは何時がいい?場所はいつもの所でいいよね。by賢司」Back Next登場人物紹介
2006.08.10

玄関の扉を開けると、ビルの狭間に反射し合う日差しが眩しい。……夏が、来たんだ。昨日までのじっとりとした重い空気とはまるで違う暑さを感じた。涼子は思わず一度扉を閉めてパンプスからサンダルに履き替え、ショルダーバックから折りたたみの傘を出して、シューズボックスの上に置き、玄関の鍵を閉めた。エレベーターから降り、マンションから出ると朝の通勤通学のいつもの顔ぶれが駅へと急いでいる。歩き始めると、サンダルが新しいせいか足になじんでいないことを少し悔やんだ。涼子の部屋は、東横線中目黒駅から徒歩7分程の6階建てマンションの最上階にある。最初に引っ越してきた頃は新築だったし、周りのビルも今よりはいくらか少なかった。7歳上の兄、修一のマンションからここに引っ越して来たのは、当時通っていた美大が近かったことと、自分だけの空間で、思い切り絵を描く暮らしがしたかったからなのだが、新築だったが故に結局、絵の方はあまり描かれることがなかった。12年も経てば、周辺は大きく変わる。変わったのは周辺の環境だけではなく、涼子自身もその頃思い描いた自分とは大きく変わっていることに気付いてはいたが、所詮10代の頃の自分と31歳となった今の自分自身の価値観に多少の”ブレ”があったとしても不思議ではないと思っている。美大を卒業した後はアクアラインという照明器具の商社に就職した。好きなことで生計を立てられるほど、自分に才能があるとは思えなかった。アクアラインといえば洗練されたスタンドなどで有名であったし、何より大学時代好きで集めた部屋の照明は、すべてアクアラインの製品だった。バブル崩壊後の当時は短大卒業の方が大学卒業の女子より就職率が高く、特に涼子のような美大を出たというだけで他に何の実用的な取り柄もない、就職希望者は大手の商社などには嫌われたがアクアラインはそのセンスを信じてくれたのか、奇跡的に内定が通ったことも大きかった。だがそれで、クリエティブな部署に所属出来るかといえば、世の中そんなに甘くはなかった。配属先は営業部営業一課。入社した頃は男性の先輩営業マンに付いて、一日中外を歩かされた。 研修を終えても1年間はひたすら訪問先の設計事務所や取引先、インテリアショップや百貨店などに名刺を配っては笑顔を振り巻き、頭を下げる日々が続いた。だが、営業センスのない涼子の成績は、まったく目も当てられなかった。会社としても1年は、様子を見るつもりだったのだろう。2年目には営業アシスタントを命じられた。同じ部署の内勤に変わったのだ。多少のバツの悪さはあっても、業績の上がらない営業をやるよりどんなにマシかしれなかった。……あの時の配置換えがなければ今でもアクアラインにいたかどうか怪しい。駅の改札を抜けるのと、上り電車が来るというアナウンスが同時に流れる。それは涼子にとって時計替わりでもある、いつもの朝の合図だった。内勤に変わると涼子はそれなりにパソコンのスキルを磨き、持ち前の手際の速さ、面倒見の良さなどから周りの同僚や営業職、上司からの信頼を得ることが出来、今では営業一課だけではなく、営業部としてもなくてはならない存在となっている。最も、涼子より上の先輩達は、それなりに転職したり、結婚したりで気が付くと社内のアシスタント職の中では、年長になってきてしまった事実は決して喜ぶべきことではない。中目黒から地下鉄となるむっとする車内で、サンダルのバックストラップが擦れて足首に痛みを感じるが、身動きひとつとれない。……やはり結婚を期に会社を辞める方がいいんだろうか。ふと「あの韓国スター極秘来日、あなたの奥様は大丈夫?」というつり革広告が目に入り思わず失笑した。……主婦ってそれほど暇なの?……わたしもああいう主婦になるんだろうか?足首のバックストラップをなんとか踵で踏み、幹部の痛みは和らいぎこそしたが直接、見てみたいもどかしさと、これから主婦になろうとしている涼子の気持ちが交差する。次で乗り換えて、外苑前までたどり着けばこの通勤地獄からは開放される。……遠くから通勤している人は5万といるのだから、このぐらい我慢しなくちゃ。電車はカーブを曲がり大きく揺れる。……でも、何かもっと他にわたしにはやるべきことがあるはず。……っというより、わたしのやるべきことが”あった”んじゃないだろうか。漠然とした不安とも後悔ともつかぬ思いにふける間もなく、ブレーキ音が響き渡り、次の瞬間にはドアが開いたかと思うと、大勢の「月曜日の戦士たち」と同様、涼子も吐き出されるかのようにホームに降り立った。Back Next登場人物紹介
2006.08.09

「じゃ、体に気をつけて」受話器を置こうとすると、向こう側で先に通話が切れたのがわかった。瞳がじんわりと潤む。相手は婚約者ではなく、元カレでもなく、単身赴任の夫のはずもなく、不倫相手であろうはずがない。……父。連絡を取ったのは十年ぶりだというのに、せっかちなところはまるで変っていなかった。父が31歳の時に私が生まれたことを思うと、今年で62歳になるはずだ。……なぜ、結婚の報告をしただけなのに、涙が出ようとするのだろう。涼子は窓の外のどんよりとした空気にうんざりしながら小さな溜息をつくと、苦笑しインスタントコーヒーでアイスカフェオレでも作ろうかとソファから立ち上がった。すべては遠い日々 。 あれは多分5歳くらいの、母が出掛けた夏の午後、「涼子、パパと冷たいコーヒー飲もうか」父はそう言って、インスタントコーヒーで“コーヒー牛乳”を作ってくれたことがあった。台所に立ち、食器棚からグラスを2つ取り出し、コーヒーをスプーンで1杯、砂糖を山盛り2杯。ポットのお湯を入れようとして、殻であることに気づき、ヤカンに水を入れて火を点ける。と一緒に煙草にもそのガスから火を点け、煙がくねった。私の視線を感じたのか、手持ち無沙汰だったのか、すぐ脇の居間に新聞を取りに来て「すぐ出来るから、いい子で待っているんだよ」と頭をなでた。ダイニングに座って新聞を広げたとたん、狙っていたかのようにヤカンから沸騰の合図の音がけたたましく鳴った。父は「ハイハイハイ」とおどけながら、あわててガスの火を消しにいった。グラスに少しお湯を注いでは、スプーンでかき回すという作業を何度か繰り返す。冷蔵庫を開けて牛乳瓶を取り出し、ビニールと厚紙のキャップをやっと外し、匂いを2度嗅いでからグラスに注ぐ。冷凍室から氷を出そうとして、霜が邪魔だったのか舌打ちをしながら、派手に製氷皿を引き出し、容器に思い切りたたきつけるようにして氷を写し、グラスの中に3、4個入れる。と……、“コーヒー牛乳”が父の白いポロシャツに数滴跳ねた。腰をひねって避けようとして、避け切れなかったのだ。父が眉根に皺をよせるのと私が「あー」という声が同時だった。「たいへん」という私の表情を見ると父は布巾でシャツを払いながら、口をへの字にして見せたその姿がとても可笑しかった。「よーし、出来たぞ」差し出された“コーヒー牛乳”を両手で口に持っていきゴクリと飲む。……それはとても甘く、とても苦かった。……そしてとても冷たかった。少し驚き、まるで酸っぱいものでも頬張った後のように「っあー」と口を開けると、じっと見ていた父が「うまいだろ」と満面の笑みで聞くので、幼心にも一生懸命作ってくれたことが嬉しくて笑顔で返した。「うん、おいしい」「そうか、おいしいか」父はとても満足気に何度も何度も頷いていた。大人の目から見れば一口目のビールを味わった後の「っあー」でも想像したのだろう。今にして思えば、幼児にコーヒーを飲ませること自体、常識を逸しているかもしれない。でも、それは、その後唯一何度も思い出すことになる、父との楽しい休日になった。母が台所で流暢に仕事をする姿を見慣れていた私にとって、たったそれだけの父の不慣れな一連の動作がとても不思議な光景となり、いつまでも忘れられないシーンになってしまった。たった一度だけ、父が私に作ってくれた“コーヒー牛乳”が今、目の前のアイスカフェオレだった。……いつからアイスカフェオレと呼ぶようになったのだろう。「そうかお砂糖を入れなくなってからだ・・・・・・」あの日、とても甘く、とても苦く、とても冷たかったあの“コーヒー牛乳”がいつ頃からか、程よく甘く、程よく苦く、程よく冷たく感じるようになり、いつしか甘すぎると感じるようになった。あの味は私にとって父そのものなのかもしれない。Back Next登場人物紹介
2006.08.09

ブラジル マラニョン州 レンソイス・マラニェンセス。平均風速七十キロの風が吹くこの地では、ひと時たりとも同じ景色が続かない。砂丘を登りつめると真っ白な砂丘にエメラルドグリーンの池が広がる。 砂丘と湖が不思議なハーモニーを織り出す。「この地には神が宿っている」神秘的なその光景にこの地を訪れる人々はそう信じて疑わない。この熱く乾いた地に雨季の後、時折気まぐれな霧が発生するという。 Next
2006.08.09
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