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叶神社(西浦賀)
主祭神:八幡大神(誉田別命(十五代応神天皇)、比売大神、息長帯比売命(十四代神功皇后))
相殿神:天照皇大神、食保神、大国主神、少名彦神、火産霊神、白山比売命
当社は養和元年(1181年)神護寺 文覚上人が京都、石清水八幡宮より勧請し創建しました。
その由縁は、文覚上人が源頼朝の為に源氏再興を発願し、治承年間(1177〜1180年)上総国(千葉)鹿野山に参篭しました。源氏氏神と称え奉る石清水八幡の神に祈念をし、源氏再興の本願が叶えられれば勝地を探し求め八幡の一社を建立、末永く祭祀をせんと誓いをたてました。
養和元年大願成就の前兆を感得し、社殿建立の勝地を求め、各地遍歴の末に鹿野山に相対する浦賀西岸の現在地に石清水八幡宮の神を祭祀する社宇を建立し、文治2年(1186年)神の霊験により源氏再興の大願が叶うたところから、叶大明神と称するようになりました。
・・・。
源氏再興叶い、石清水八幡宮より勧請創立したのだが、この神社の管理のための別当として、文覚上人のあと、代々真言宗古義派(高野山系)の僧侶が置かれた。
・・・。
元禄5年(1692年)、江戸幕府の行政政策により、浦賀は東西の浦賀村に別けられた。行政区域の分離は、それなりに各々の村意識を生じさせるのであって、総鎮守は西岸に所在していたから、長い間、その氏子として叶神社の御神徳を仰ぎ戴いてきたことにより、東岸にも今まで通り、同じ御神徳をと願う信仰心が分霊祭祀となった。
叶神社が2社あるのは諸説あり、「三浦郡志」(大正7年)には、「叶神社、当地には叶神社と称する神社2社あり、1つは東岸新井にあり、1つは西岸宮下にあり。共に村社にして応神天皇を祀り、伝えて養和元年僧 文覚の勧請とす。記録によれば、叶神社はもと叶明神と称し、西浦賀に在りて浦賀一村の鎮守なりしが、元禄5年浦賀村分村して、東西に2ヵ村となりしより、東浦賀に叶明神を勧請したりと云ふ。旧幕府時代の地誌は東叶神社を若宮と書せるにても事情察し難からず、西叶神社は歴代の浦賀奉行毎歳春秋二季に幣帛を献ずるを例とせり。」
「新編 相模風土記」巻123には、「東浦賀 叶明神社 正保元年(1645)9月19日。西浦賀の本社を勧請し牛頭天王、船玉明神を合祀す。」とある。
虚空山 感応院 西栄寺(廃寺)
開山・開基:文覚上人
古本尊:虚空蔵菩薩
本尊:不動明王
別当 感応院
既述した如く、叶神社は文覚上人によって、山城国石清水八幡の神を勧請した当初から、僧侶とのかゝわりが深く、つまりは仏教との因縁を神社創建以来持っていたのであった。
平安初期以来、仏教面から説かれた本地垂迹(仏を本地とし、日本の神を仏の垂迹の顕れとする)の思想に基く、神仏融合は1,000年近く、日本の宗教界の主流を形成して来た事は、周く知られているが、殊に、平安・鎌倉の世は、これが盛んであったと云えよう。
叶神社とて例外ではなく、むしろ、文覚上人勧請と云ういきさつからも、養和元年(1181年)創建以来明治元年(1868年)迄、687年間にわたって、叶神社の管理・運営及び祭祀まで、真言宗(古義派)の僧侶によって、司祭・維持がなされてきたのであった。この僧侶・寺院を別当(別当寺)と呼ぶ(但し、鶴岡八幡宮は供僧の上に、別当が存在していた)。
別当とは、そもそもは大寺院の寺務統轄の僧官の名称で、天平勝宝4年(752年)5月、良弁上人を東大寺別当に補任したのが、初見であるが、ここに述べる別当とは、正しくは、叶神社の別当寺と云う意味である。しかも、この別当寺の僧侶が神官の役割をも果して来たのである。
叶神社の別当寺は、山号:虚空山、院号:感応院、寺号:西栄寺と号し、古義真言宗で、江戸時代は逗子の延命寺(黄雲山 地蔵院、古義真言宗、高野山金剛峯寺末、行基創建の伝承を持つ)の末寺で、本尊不動明王であったが、古は、文覚上人自刻の虚空蔵菩薩であったと伝えている。
伝承によれば、文覚上人が房総の地より当地に来航の海上で、虚空に雲霧現れ、それに霊気を覚え、その雲霧の流れ動く相を観じ、浦賀西岸の嵐山(叶神社裏山)こそ、神明のしろしめす聖地と定め、草庵を結び、石清水八幡の神を歓請し、源頼朝の源家再興を祈祷したと云う。霊気を帯びたる雲霧の虚空出現の奇瑞と云い、源家再興祈願の效験と云い、この神の感応著しく、これによって、虚空山 感応院と云う山・院号を名称としたと称す。そして、嵐山の草庵跡を、文覚畑とか虚空蔵屋敷と云う名称で現在に伝えている。
なお、『三浦古尋録』に「大塚小塚ヱ行道筋二平等寺崎ト云所有、是ハ文覚ノ旧室平等寺ノ跡ナリト云」と云う記事があるが、これについては委細未評である。
さて、この感応院の位置は、社殿と社務所の中間にあって、宮下の道路に面して表門(古くは四脚門であった)があり、客殿は、間口七間(12.62m)、奥行き七間の正方形をなし、玄関を入って正面奥の仏間に本尊不動明王を安置していた。この為、表門から宮下の道路を突きって、海岸に出る小路が、不動横町と俗称されていたと云う。
別当僧の住宅は、現在の社務所(住僧の住宅を改造して社務所としたもので、関東大震災前迄の建物であった)の位置にあって、間口三間半(6.3m)奥行き八間(14.4m)の長方形の建物であった。
歴代住職は、初代を開基 文覚上人として、『感応院累代帰天釈明聯記』(後掲)によれば、法印玉応まで、つまり、養和元年(1181年)より明治元年(1868年)の間、687年間、六十九代に及ぶが、二十二代・四十五代・五十五代から六十五代、それに六十七代に住職の名は空白になっている。又、二十四代法印宥快・三十一代法印慶辨・四十四代阿闍梨恵果・五十一代権大僧都義龍・六十六代法印実如の五人の住職の歿年は不明である。
明治元年8月、第六十九代法印玉応は、別当住職をやめて神官となり、「神明の感応と奇瑞の現象を永く記念せんが為」(『郷社叶神社史』)姓を感見と改め、感見清(信明)と名乗った。この人をもって、西岸の叶神社の初代神官とし、現住の宮司は第七十五代目(神職宮司六代目)になる。









