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慧日山 修學院 津金寺
立科町上房にある天台宗 恵日山 津金寺は、うっそうとした木立の山を背にして、広大な境内に諸堂が整い、まことに天台・真言・法相・禅の四宗兼学の道場にふさわしい姿を今も残している。本尊は聖観世音菩薩。
寺伝によれば、寺は大宝2年(702年)僧 行基が、諸国巡錫の途次、山部の地に至り、榧の木をもって三尺三寸の聖観音像を彫り、一寺を結んだことにはじまり、弘仁6年(815年)東国巡錫の最澄が再興、仁寿年中(851~853年)その弟子 円仁が諸堂を完成したという。その後応和3年(963年)には良源(元三大師)の弟子 禅瑜、長保3年(1001年)に孫弟子たる寂昭等が寺門を監して四宗兼学の道場としての基礎を固めた。
一方滋野氏など地方豪族の尊信を受けて寺運はいよいよ隆盛し、平安時代にはすでに信濃五山のひとつに数えられるようになっていた(『津金寺誌』)。
中世に入り応安6年(1373年)隱海大僧正が来寺するにおよんで隆昌を極め、寺中36院・24坊、門末47寺を数えた。隠海は学徳高く「天台円宗四教五時津金寺名目」5巻を著わし、諸宗の学僧が多く登山したので、やがて比叡山の学林として「修学院」を称するようになった(『同』)。
武田氏が佐久に侵入するにおよんで、元亀3年(1572年)寺は信玄の「定」によって四宗兼学の道場から天台の法流に復帰してその庇護を受けた。しかし武田氏の勢力が衰えるにおよんで、近郷豪族が寺地をおかし、兵火にもあって数十年間衰微をきわめた。
寛永17年(1640年)僧 舜海が入山して中興開山となり、東叡山末として復興に力をいたし、さらに累代小諸城主の厚い外護を得て法燈は再び輝き、また佐久三十三番札所の最終札所として庶民の信仰をあつめるようにもなった(『同』)。
観音堂(本堂)は元禄15年(1702年)の建立で、堂内には本尊 聖観世音菩薩像(秘仏)のほか、左右に持国天・多聞天、厨子前には百済伝来と伝える狛犬一対が安置され、格天井には神谷友右衛門筆の華麗な百花鳥獣画がある。
妙見堂は、一間社流れ造りで、立川和四郎富昌とその弟子 田中円蔵の手に成るもの。
竜王池・弁天池・つつじ池・とが池を配した境内には室町期の造立とされる石造九重塔や五輪塔群、保科五無斎記念碑などがある。五無斎保科百助は地元山辺出身の明治時代の教育者であり、科学者(鉱物)でもあって、奇行をもって知られており、碑の側面には「われ死なば佐久の山辺へ送るべし 焼いてなりとも生でなりとも」ほか一首が刻まれている。
本堂裏山の中腹には津金寺宝塔3基(県宝)がある。古代から中世初頭にかけて東信濃に勢威を振るった豪族 滋野氏一族のもので、いずれも方形二重の台座の上に棗形の塔身と方形四注の屋根を置き、相輪は逆蓮の伏鉢と二輪だけを刻出した九輪が一石に刻まれており、総高約1.7mである。2基は承久2年(1230年)に建立された逆修塔であり、他の1基は嘉禄3年(1227年)に建てられた納経供養塔で、空洞になっている棗形塔身の内部には法華経と三部経の写経が納められた。

















