おしゃれ手紙

2019.08.12
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テーマ: 北海道旅行(1172)
カテゴリ: 国内旅行

■6月24日(月)■8日目
 この日は、
 函館→松前→江差→八雲温泉泊のコース。
江差で「江差追分」や「ソーラン節」 ■を聞いた後、ガイドさんの案内で町巡り。

(▲道路がかつては海だった。)
旧中村家住宅について
ニシン漁全盛時代を今に伝える廻船問屋。 
中歌町に残されている旧中村家は、江戸時代から日本海沿岸の漁家を相手に海産物の仲買商を営んでいた近江商人の大橋宇兵衛が建てたものです。 

家屋は、当時江差と北陸を往復していた北前船で運んできた越前石を積み上げた土台に、総ヒノキ
切妻造りの大きな二階建て。

(▲今は道路になっているが、かつてはここまでが海だった。)
さらに母屋から浜側まで文庫倉、下の倉、ハネ出しまで続く通り庭様式で、当時の問屋建築の代表的な造りとなっています。

▲旧中村家住宅は、まさにニシン御殿!!!▼


▲こちらは、横山家住宅。

▲北海道新聞社・洋館建ても多かった。▼


かつての郡役所も江差の在りし日の賑わいを感じる。

▲こいのぼり?▼いえ、にしんのぼりですから~~!!

ニシン(鰊・鯡)別名、春告魚(はるつげうお)
江戸時代・明治時代には、北海道の日本海沿岸で生産された鰊粕が北前舟で本州へ移出され、菜種、藍、綿花などの商品作物の栽培に欠かせない高窒素肥料の金肥のひとつとして販売され、農村への貨幣経済の浸透を促した。
しかし生産時には大量の薪を必要とするため、生産地では森林破壊が進んだ。
 ニシンの干物はかつて、言海に「貧人の食とす」と記されているように、下魚であった。
『守貞漫稿』には、「鯡を江戸で食する者は稀で、もっぱら猫の餌である。
 京阪では煮たり昆布巻にする。
 かつての日本では、乾物の身欠きニシン40貫(約150キロ)を1石と計測していた。
生魚の場合には、身欠きニシン40貫に必要な200貫を1石と換算している。
この石高換算は、松前藩の石高には反映されていないが、各地に千石場所といったニシン漁の盛んであったことを示す呼び名として残った。
北海道のニシン漁の漁獲量は1897年にピークを迎え、130万石(約97万5千トン)を記録した。
これは個体数で換算すると30億尾から40億尾と見込まれている。

靴
■歩行数:10,143歩
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Last updated  2019.08.12 00:08:41
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