おじん0523のヒロ散歩

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2019.01.20
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カテゴリ: 東海道53次
昼食を終え、松原神社へ立ち寄り、小田原城経由三枚橋へ向かう。
小田原宿は、江戸から20里、箱根越えと関所を控え、上りは二泊目(足の弱い人は
三泊目)の宿として、下りは箱根越えのあとの泊まり客が多かった。そのため本陣
4軒、脇本陣4軒、旅籠95軒と宿泊施設が多いのが特徴である

12/4(火) 13:03
旧東海道の宮前町


小田原宿 脇本陣古清水旅館 2F資料館
「8月15日の小田原空襲」
まさに敗戦当日、深夜1時か2時頃、小田原市は米軍の戦略爆撃機B-29、一機による

を受けており、その二都市を攻撃した編隊の内の一機が、マリアナ諸島の米軍基地へ
帰還する途中に小田原を空襲したものと考えられる。米軍のその日の作戦任務報告書
には、小田原空襲の記載は一切なく、計画されたものではなかったと


小田原宿 清水金左ヱ門本陣跡
天保年間(1830~1844)当時、小田原宿には4軒の本陣、4軒の脇本陣、95軒の旅籠が
あった。このうち、清水金左ヱ門本陣跡と片岡永左ヱ門本陣跡は、明治天皇が全国巡
幸のおり宿泊していたことから、それぞれ「宮ノ前行在所」「本町行在所」として
小田原市の指定史跡となっている


明治天皇宮ノ前行在所跡


明治天皇宮ノ前行在所跡
この場所は、明治天皇が宿泊した清水金左ヱ門本陣のあった場所。本陣の敷地面積は

明治元年(1868)10月8日の御東行の際を初めとして5回を数える


13:05
昼カラオケ(12:00~16:00)、1000円で歌い放題


13:06
旧東海道からそれて、小田原宿総鎮守の松原神社へ



所在地:小田原市本町2-10-16


神輿を納めている「神庫」


祭り時の写真


松原神社社誌


吉兆の大亀
天文14年(1545)3月、小田原の海岸に現れた大亀を土地の者が当社の池に持参した
ところ、小田原北条三代当主氏康は、これを聞き、吉兆なりとて参詣し舞を奉納した。
果たして翌天文15年、関東管領上杉軍八万の兵を、わずか八千の兵で見事に破り
【河越夜戦】念願の関八州の平定に成功した


松原神社の鳥居と本殿


13:11
松原神社から旧東海道への参道


13:13
小田原宿は、東海道起点の江戸日本橋からおよそ80kmの距離にあり、第一宿の品川
宿から数えて九番目の宿場で、通常は途中一泊してここに到着した。
東は徒歩(カタチ)渡り(10月から3月の間は橋が架けられた)の酒匂川、西は東海道一の難
所箱根越えが控えていたので、小田原で宿泊する人が多く、常時90軒前後の旅籠が軒
を連ねていた


小田原宿なりわい交流館


本町交差点、石柱は「宮前町」
小田原宿は宿泊者が多かったため、土産物や旅の必需品を売る店も多く、蒲鉾・梅干
ういろう・小田原提灯などが小田原の名物として広く知れ渡るようになった


本町交差点
石柱は「宮前町」、正面方向は国道一号線で小田原駅へ、右折は旧東海道


宮前町
小田原北条氏時代、この町は上町、下町に分かれていたとの伝え。
江戸時代には、町の中央に城主専用の出入口である浜手門と高札
場があり、同時代末期町内には本陣1、脇本陣2に旅籠が23軒
ほどあって隣の本町とともに小田原宿の中心であった


片岡本陣跡
小田原宿には4軒の本陣があり、片岡本陣もその一つです。伊予(愛媛県)松山の松平家
などの大名家が定宿としていた。幕末の当主片岡永左ヱ門は明治時代には小田原町の
要職を歴任し、当時の貴重な記録を数多く残している


13:16
明治天皇本町行在所跡


明治天皇がこの場所に宿泊したのは、明治11年北陸・東海御巡幸の際、11月7日の事


本町の石柱


小田原北条氏時代、この町は通小路といわれていた。江戸時代
前期にこの町を基準にして、城下の町人町を左右に町割りした
とき、本町と改められた。隣の宮前町とともに小田原宿の中心
で江戸時代末期には本陣2、脇本陣2に旅籠が26軒ほどあった


13:17
久保田本陣跡
小田原宿には4軒の本陣があり、久保田本陣はその一つ。紀州徳川家や九州の黒田家
鍋島家、中国地方の毛利家といった大名家が久保田本陣を定宿としていた。なお、
久保田氏は、江戸時代の前期から町年寄や名主役も務めていた


旧東海道(国道一号線)、御幸の浜交差点
御幸の浜(ミユキノハマ)は、明治6年(1873)明治天皇と皇后がおそろいで、当海浜において
漁夫の地曳網をご覧になり、以来「御幸の浜」と呼ばれるようになった


13:19
中宿町


この町には、上の問屋場が置かれ、高梨町の下の問屋場と十日交代
で勤めていた。町内には御用商人の小西家があり、江戸時代末期に
は脇本陣1、旅籠が11軒ほどあった


13:20
清水彦十郎本陣跡
小田原宿には4軒の本陣があり、清水彦十郎本陣もその一つ。出雲松江の松平家や
美濃大垣の戸田家などの大名家が定宿としていた


旧東海道(国道一号線)沿いの「ういろう本店」
所在地:小田原市本町1-13-17


13:21
欄千橋町


ういろう(外郎)本店
創業600年、日本最古の薬屋。先祖は中国「元」の官僚で、中国での官職名「礼部員
外郎」から「外」の字を唐音で「うい」と読んで「外郎(ウイロウ)」と名乗った。
江戸時代中期の歌舞伎役者二代目・市川團十郎は持病が「ういろう」で治ったことか
ら、歌舞伎に「外郎売」の台詞を創作して取り入れ宣伝した


13:23
旧東海道(国道一号線)から小田原城へそれる
三の丸小学校の脇にある「箱根口門跡」


町並みに合わせた小学校


デザインが「都市景観大賞受賞」


三の丸小学校の正門


13:26
国指定史跡 小田原城
日本百名城の一つである。15世紀後半に西相模一帯を支配していた大森氏の小さな
山城だった小田原城は、明応4年(1495)、後の北条早雲が大森氏を攻め滅ぼしてから、
北条氏の居城となった。以降、城下町全体を総構と呼ぶ9kmに及ぶ土塁や堀で囲み、
堅牢な城郭を築いて難攻不落を誇った


小田原城の石垣


小田原城 馬出門


小田原城南曲輪西南二重櫓


13:27
報徳二宮神社
二宮金次郎こと二宮尊徳を御祭神とする神社。学問の神として親しまれ、ブロンズの
金次郎像がある


13:28
報徳博物館


二宮尊徳の実績と思想・方法論を紹介している博物館


13:28
木の合間からの天守閣


13:30
清閑亭(セイカンテイ)の正門だが、本日は休館日と


清閑亭(セイカンテイ)(黒田長成別邸)
黒田長成侯爵の別邸だった邸園(邸宅と庭園を合わせた造語)。明治39年(1906)黒田家
が別荘を造営、その後、平成17年(2005)に建物が国登録有形文化財となり、翌年には
敷地が国の史跡に指定された。
清閑亭の特徴は、格式ばらない近代数寄屋建築の建物と、その座敷から見ることので
きる相模湾の大らかな眺望にある


13:31
小田原城の西方向の天神山からの天守閣


13:32
天神山の石柱


地名の由来は、この地に南側中腹に天神社が祀られていたので、
この名があると。この社には室町時代の天神画像が伝えられて
おり、この地名の古いことがわかる。なお、天神山には社の背後
に小田原北条氏時代の三の丸の空堀が東西に延びていた


13:34
八角(ヤマカク)天神社の菅原道真画像


芭蕉の句碑


有米家可耳 乃都登 日能伝る 山路閑難(ウメガカニ ノツト ヒノデル ヤマジカナ)


山角天神社
地元の人々から「天神さん」と親しまれている山角天神社は、菅原道真を祭神とする
神社で、毎年1、5、9月に例大祭が開かれる


山角天神社「天満宮」鳥居


瓜生外吉海軍大将之像
日露戦争で活躍し、1912年に海軍大将に昇進した。ここから西に200m程の高台に
別荘を設けた。海を眺めての小田原の生活をこよなく愛した


13:37
対潮閣(山下亀三郎別邸)跡、秋山直之終焉の地
明治時代から小田原には、伊藤博文、山縣有朋、益田孝(純翁)、田中光顕、北原白秋
など多くの政財界人や文人が居を構えたり訪れていた。
山下汽船(現・商船三井)の創業者山下亀三郎の別邸「対潮閣」の正面入口がこの辺りに
あった。対潮閣には、山下と愛媛の同郷であった海軍中将秋山直之がたびたび訪れ、
山縣の別邸「古稀庵」を訪ね「国防論」について相談していたが、患っていた盲腸炎
が悪化し、大正7年(1918)2月4日未明に対潮閣内で亡くなった(享年49歳)


                                 ​ 小田原宿-3​

                                 小田原宿続く





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最終更新日  2019.01.20 06:00:16
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