おじん0523のヒロ散歩

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2020.08.22
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カテゴリ: 続 日本100名城
スタンプ置き場が9時開館のため、小机城址の散策へ。

令和2年8月18日(火) 6:59
小机城専用の駐車場が無いので、「曹洞宗 金剛寺」へ失礼して駐車させていただく。
ここから歩いて「小机城址・市民の森」へ向かう


7:02
JR横浜線の踏切、小机駅


東神奈川駅行きの電車 


横浜市の汚水マンホール
市章が入った蓋で、鉄蓋メーカー(日之出水道機器)の方によると、地紋はYokohamaの「Y」



横浜市は下水と雨が分流化されており、雨水専用の雨水マンホール


ここを左折して西方向へ入る


7:05
前方の高架は第三京浜。
この辺りに駐車場があればよいのだが、民家が建ち込めスペースが無い


小机城址・市民の森


民家の間の坂道を上り「小机城址・市民の森」へ


竹林に覆われた「小机城址・市民の森」


小机城址・市民の森入口にある「根古谷広場(ねこやひろば)」
根古谷は城の麓にあった城主の館や家臣の屋敷地です。城主は平時には麓に居住し、戦闘時には
城に詰めるという形は中世後期の全国の山城でよく見られたスタイル



市民の森では、市内の緑を守り育てるとともに、市民の憩いの場としてご利用いただくため、
土地所有者の方々のご厚意により山林を使用させていただいています。
また、「市民の森」の清掃、草刈、間伐などの管理作業は、地元の方々でつくられた「市民の森
愛護会」が行っています


小机城想定図



綺麗に整備された遊歩道を登る。
草むらから嫌なヘビが出ることを心配しながら登る


遊歩道の両側には、立派な孟宗竹(モウソウチク)


緩い坂を登ると標識杭、右に「二の丸広場」、左に「本丸広場」
右側の二の丸へ行くことに


小さな祠があったが


空堀(からぼり)


空堀(からぼり)
堀は土塁と共に城の守備・攻撃のための重要な施設で、人工的に作られるものや地形を利用した
ものがあります。この堀は水をはらない堀で空堀と呼ばれ、水をはるために堀勾配のゆるい水堀
よりも堅固な施設と言えます


面積は、4.6 ヘクタール(46,000㎡)
東京ドームが約4.7ヘクタール(46,755㎡)であるのでほぼ同じ面積、東京ドーム一個分の面積


井楼跡(せいろうあと)
遠くの敵を見つけるために造られた見張台や武器を保管する兵器庫があった


城址にはいたるところに孟宗竹が生い茂る


櫓台(やぐらだい)へ登る


櫓台(やぐらだい)
一城には、数箇所の櫓台が置かれています。この櫓台跡もその一つで土塁と連続して作られて
いました。現在は畑地として土塁は取り去られていますが、昔は井楼跡より二の丸広場へ通じ
る散策道の上に土塁が作られていました


二の丸広場


土塁(どるい)


土塁(どるい)
土塁は堀と共に城の防備や攻撃に重要な施設で、堀を掘った土で築き上げた防備壁を言います。
土塁の基底幅は5.0メートル、上底幅は2.5メートル、高さは2.0メートルです。
一般に中世初期に築られた城の土塁は、塁線に屈曲が無く、塁の上もしくは、外のりには、必要
に応じて、棚・塀・逆茂木(さかもぎ)を設けています


矢倉跡(やぐらあと)


小机城址市民の森
西曲輪跡から東曲輪跡方向を望む。雑木林や竹林の中に空堀や土塁が残る


モウソウチク(孟宗竹)
中国の原産で沖縄、鹿児島を経由して現在は日本各地にみられます。また日本にある竹類で
最大のものです。孟宗竹は中国名でなく冬に母の為筍(たけのこ)を掘り採った孝行な子供
の孟宗にちなんで名付けられました。横浜のモウソウ竹林も年々少なくなっています


空堀の竹林が整備されているので、春先には立派な竹の子が出るのであろう
空堀から二の丸広場へ登る遊歩道


空堀(からぼり)から登る


空堀(からぼり)
堀は土塁と共に城の守備・攻撃のための重要な施設で、人工的に作られるものや地形を利用した
ものがあります。この堀は水をはらない堀で空堀と呼ばれ、水をはるために堀勾配のゆるい水堀
よりも堅固な施設と言えます


本丸広場にはゲートボールの枠


本丸(ほんまる)
本丸は一城の中心になり、主将のいる所で、合戦中には戦闘の指揮が置かれます。
縄張りを行う時、最も防備に主点が注がれます。城址の調査等実績の少ない小机城については、
現在地が本丸跡とは断定できません


西曲輪からの「冠木門(かぶきもん)」


本丸広場に「小机城址」の石柱


二の丸広場、井楼跡の道案内


本丸跡近くにあった説明板「小机城について」
築城の年代は明らかではありませんが、おそらく、この辺りがひらけた12世紀以降ではないか
と思われます。その頃は、この辺りは上杉氏の勢力下にあり、西方には、その支配下の榎下城
があったことから、それとかかわりのある城と思われます。
その後、山内上杉家の家臣長尾景春が、家督争いに端を発して反乱を起こした時、景春に味方
した矢野兵庫助らが城にたてこもり、北方の亀之甲山(現在の新羽町亀ノ?橋付近)に帯陣した
上杉方の太田道灌の率いる軍と戦いました。
城は文明10年(1478)攻め落とされ、上杉氏もやがて北条早雲に追われ小田原北条の領地とな
り、40年間廃城となっていました。大永4年(1524)一族の北条氏堯の城となり、笠原越前守信
為を城代として再興しました。小机は地理的に、江戸、玉縄、榎下などの諸城を結ぶ位置にあ
り、この地は以後軍事、経済の両面で極めて重要な役割を果たすことになります。
豊臣秀吉が小田原城を攻め落とし、やがて小田原北条氏が亡び、4代目城主の弥次平衛重政が
徳川家の家臣として200石の知行を与えられ、近くの台村(緑区台村)に住むことになり、小机
城は廃城その歴史を閉じることになりました


小机城の縄張
半島形の突出た丘陵の上部を大きく平に削り、一列に三つ程度の曲輪を置き、その並んでいる曲
輪の側面に腰、帯曲輪を築きます。また、城郭全体を二重の土塁を空堀でぐるりとめぐらす縄張
で後北条氏特有の築城法と言えます。
類例より後北条、後半の築城方式で、東京都、埼玉県など戦国期の丘陵城郭の多くがこの型で県
下では、茅ヶ崎城も典型といえます。

縄張と曲輪について
縄張とは、目的が定まった地で決定した後その広さを決定し、曲輪の配置、道のつけ方、門の開
き方、水の便などを定めることであります。この地取と縄張を総称して「城取」といい、城取は
武士が行いました。
曲輪とは城を構成する区画、すなわち削平された地、それぞれ防備地帯、兵営の場、館の立地さ
れる場をいいます


願わくば、この二枚の案内板は入り口に立ててほしいものです。

                                    小机城ー続く





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最終更新日  2020.08.22 03:00:05
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