おじん0523のヒロ散歩

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2022.01.02
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カテゴリ: 続 日本100名城
​九州三日目は鹿児島から宮崎市まで北上予定。
城山公園の展望台から日の出を観賞した後、南洲墓地へ向かうことに。

11月16日(火) 7:24
城山公園からくねくねと坂を降りる途中、目の前に大きな銅像を発見し駐車。
おみやげセンター「せごどん本店」
所在地:鹿児島県鹿児島市城山町19
時間が早く店は開店前で、駐車場に車を止める。


数メートルのせごどんが立つ


鹿児島市内には、せごどんの像は何像たっているのか





銅像の左側に洞窟。
「目で見る 西南戦争始末記」三十六景展示場
この洞窟の中にあります。ご自由にお入り下さい。


せごどん
みんなさー おやっとさ ごはした。ゆくさ しろやめ おさいじゃったもした。ほんのこて 
あいがと ごわす。あたいも きゅは さしかぶい 狩いっもしたや すったい だれもして
いま こけ たっちょいかた ごわす。
ここん店は あたいが 名をくれた「せごどん」ちゅ 店ごわす。なけななだけ やっすっや
ら がごっまん 土産がずるっ ならべっあんで 遠慮せじ なけ はいっ 茶でん いっぺ
飲ん行っきゃんせ。見っだけで よかとごはんで どうか たのん みやげもんでなー。
「お客せーな 安す しっあげよ」ちゆっ ごはんで あたいと いっしょき写真でん とっ


せごどんの銅像から少し下り、「西郷隆盛洞窟」

石碑には「南洲翁洞窟記念碑」


鹿児島市指定記念物(史跡)
 史跡 西郷隆盛洞窟


石柵で囲まれた、西郷隆盛洞窟



    ー 西南戦争 最後の司令部 ー

西郷隆盛洞窟「おはんらにやった命」  MY LIFE IS IN YOUR HANDS
  ー 西南戦争 最後の司令部 ー
1877年(明治10)9月14日、午前4時政府軍の城山総攻撃が始まりました。城山に立てこもる薩軍
兵士は、わずか300余。これを囲む政府軍は、何重もの柵をめぐらし、その数4万。死を決した
西郷は、夜明けを待って、5日間すごしたこの洞窟を出ました。桐野利秋、別府晋介、村田新八、
池上四郎といった私学校の幹部たちも一緒です。この日の西郷の出立ちは妻のイトが縫った縞の
単衣に白い兵児帯。ゆっくりと岩崎谷を下ります。その時流弾が西郷の腰に命中。別府の介錯を
あおいで49歳の生涯を閉じたのです。
西南戦争というのは、不平士族の反乱のあいつぐ中、西郷を慕う私学校の生徒たちが、政府の挑
発によって引き起こした暴動が始まりです。首謀者の引き渡しか全面戦争か、その結論を出した
のは「おはんらにやった命」という西郷の一言でした。2月15日、ついに挙兵。熊本で政府軍と
激しい攻防をくりかえすも、近代兵器の前に敗退。7ヶ月にわたる大乱の最後を、西郷は故山城
山で迎えたのです。


桐野利秋、西郷隆盛、別府晋介
  ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがままに 果てし君かな   勝海 舟


城山の薩軍陣地跡(薩軍は強固な堡塁をめぐらせた)


西郷隆盛洞窟の上には竹林


7:35
西郷隆盛洞窟の向かい側にある、「地鶏炭 焼き一」
所在地:鹿児島県鹿児島市城山町20-1

店の右側に「西郷隆盛没百年記念座像」


7:41
城山公園、西郷隆盛洞窟から降り立ち、「南洲墓地 顕彰館(駐車場) 500m」の標識。

7:45
南洲公園からの桜島


南洲公園
日本における最後の内戦である西南戦争は、官軍・薩軍とも約7,000人の戦死者を出している。
その薩軍のうち約2,000名が葬られているのが、南洲墓地である。
西南戦争は明治10年(1877年)に城山で西郷隆盛が自刃、薩軍全滅を以て終結する。直後に鹿児
島県令であった岩村通俊が許可を得て隆盛らの遺骸を埋葬、明治12年に有志によって鹿児島市
内にあった薩軍兵の墓を一箇所に集め、さらに他県で亡くなった者の墓も改葬した。これが現在
の南洲墓地である。

南洲公園の案内
南洲墓地
1877年(明治10)の西南戦争で戦死した西郷隆盛をはじめ、2,023名の将士が眠っています。
西郷南洲顕彰館
当館は、西郷南洲没後百年を記念し、皆さんの募金で作られ、鹿児島市教育委員会が主管して
います。 
主な展示品は、
   1、西郷隆盛の生涯の10景のジオラマ
   2、西郷隆盛の遺品・肖像画
   3、西郷隆盛直筆の書幅
   4、西南戦争関係資料
◆ 入 館 料 :一般 200円 小・中学生 100円
◆ 開館時間:午前9時 ~ 午後5時
◆ 休 館 日 :月曜日(祝日の場合翌日)
         12/29 ~ 1/1

松峰山浄光明寺
南洲墓地の南側に建つお寺。
門の左側の石碑には、与謝野晶子の唄が刻まれている、
「御仏の 浄光明がとこしえに まもるならまし 南洲の夢」


松峰山浄光明寺 沿革
この寺は約八百年前の鎌倉時代中頃、時宗の開祖一遍上人の鹿児島遊行を契機として、島津家
三代久経(道忍)公の命によりこの地に建てられました。島津家初代忠久(得仏)公・二代忠時(道
仏)公・三代久経公・四代忠宗(道義)公・五代貞久(道鑑)公の位牌が置かれ(現在は焼失してしま
いございません)、また二十一代吉貴公の菩提所として崇拝された由緒正しい寺です。
建治三年(1277)一遍上人が大隅正八幡(現在の鹿児島神宮)に参籠して。
「とことはに南無阿弥陀仏と唱ふれば、なもあみだぶに生まれこそすれ」の悟りを開かれ、その
因縁もあってこの寺は江戸時代末まで薩隅日時宗五十九か寺の本山でした。また大乗院(真言宗)
福昌寺(曹洞宗)と共に浄光明寺は鹿児島三大寺と呼ばれていました。


治二年(1869)の廃仏毀釈の追い打ちを受けて空き地になっていた境内に明治十年(1877)西郷
隆盛以下薩軍将兵が埋葬され、七五五基・三○三三名(氏名の解るもの1910名)の墓地となりま
した。
廃仏毀釈のあと、明治十六年現在地に復活、昭和二十年アメリカ軍の空襲で焼失。四十世住職
の復員で再興、平成元年元堂舎を再建、今では鹿児島県唯一の時宗寺院となりました。非常な
歴史の中で鎌倉時代以来の法統を受け継いでいます。
  薩英戦争で浄光明寺はイギリス艦隊に狙い撃ちされ焼け落ちた。続く廃仏毀釈で空き地に
  なっていた。県令岩村通俊の指示で西郷隆盛以下四十名が本堂跡に埋葬されたのが浄光明
  寺墓地(南洲墓地)の始まりになる。
昭和四年頃に与謝野晶子が訪れ、次の唄を詠まれたそうです。
「御仏の 浄光明がとこしえに まもるならまし 南洲の夢」
本堂は向かって左の階段を上った所に御座います。
どうぞご自由に御参拝ください。

境内を望み、入口で引返す

旅友は既に南洲墓地へ

南洲墓地入口の鳥居


鳥居をくぐると左側に建つ、「岩村県令記念碑」。
記念碑の横には、荘内柿が聳える。
奥に墓地があり、二段に別れている。


岩村県令記念碑
岩村通俊(みちとし)は天保11年(1840)、土佐藩(高知県)で生まれた。幼少のころから漢学を修
め、剣を学んだといわれる。
明治元年(1868)の戊辰戦争には、軍監として従軍、越後に転戦した。維新後、新政府に仕え、
明治10年(1877)5月、鹿児島県令(県知事)となり西南戦争の処理を務めた。
城山の戦いで西南戦争が終わると、旧浄光明寺(現在の南洲墓地)に送られた西郷隆盛・桐野利秋
以下西郷軍の戦死者の遺体をていねいに埋葬した。そして、自ら戦死者の墓碑を書いて建てた。
岩村県令は「西郷隆盛らの考えは、後の世に必ずわかってもらえる。」と信じ、政府への気が
ねや世間のわずらわしい噂をしりぞけたといわれる。
岩村は、のちに北海道長官や農商務大臣になった。

荘内柿
この荘内柿は、庄内の偉人 菅臥牛(すげがぎゅう)翁と西郷南洲翁との徳の交わりを機縁
として、山形県鶴岡市と鹿児島市が兄弟都市盟約を締結した、昭和四十四年十一月七日
に、鶴岡市から寄贈されました。
 庄内柿は庄内地方の特産品で、糖度が高くてみずみずしく、庄内の秋を代表する果物
 の一つとして知られています。
                   鹿児島市 所管課:国際交流課
盟約書
鹿児島市と鶴岡市は、日本の夜明け明治維新を契機に西郷南洲翁の敬愛の教えをもとに、
親しく交わってまいりました。
これからも、両市民はもとより、青少年の中にこの敬愛の精神をはぐくみ、ますます友
好親善を深め、交流を図り、両市の限りない発展を願ってここに兄弟都市盟約を結びます。
            昭和四十四年十一月七日
        鹿児島市長 末吉利雄  鶴岡市長 足遠兼一郎

石碑等が立ち並ぶ、「招魂碑」


招魂碑
明治十年西南の役の事に由り 宮城県仙台をはじめ全國各地に幽囚中 死歿された人がすくなく
ない 本年恰かも南洲神社八十五年祭にあたり その記念事業の一として これら諸氏の招魂碑
を同士の英魂眠る南洲墓地境〇に建て もつて慰霊のまことを盡さんとするものである
             昭和三十七年九月二十四日
                南洲神社八十五年祭奉賛会

鳥居をくぐり墓地は二段になっていたが一段低い墓地を廻る。
島津 啓次郎之墓


島津 啓次郎
佐土原藩主島津忠寛の三男。明治9年、7年間の米国留学を終え帰国早々、佐土原隊500名を率
いて従軍。自由民権を唱えた。従者の三島貢之(38才)、中村道晴(26才)、有村武英(20才)とと
もに明治10年9月24日城山で戦死。21才。

墓地の左隅に、
中津隊士之墓

中津隊士(大分県)
増田宋太郎  明治10年9月4日 米倉の戦い(現鹿児島市役所附近) 28歳
増田の率いる中津隊は、薩軍の戦況不利な明治10年3月末大分県中津で挙兵し、薩軍に投じた。
中津隊員は80余名。戦死者は22名にのぼった。

南洲墓地 「命もいらず名もいらず」
   ー 信義を貢いた巨星と群れ星ここに眠る ー
1877年(明治10)9月24日、城山で西郷隆盛が自刃して、ついに7ヶ月にわたった西南戦争が終
わりました。熊本城の攻防、田原坂の激戦に敗れた薩軍は、多くの死傷者を出しながらも九州
を南下して、故郷の城山を最期の決戦の場に選んだのです。
南洲墓地には西南戦争に敗れた薩軍2023名もの将兵が眠っています。1877年(明治10)岩崎谷
で戦死した西郷以下40名を仮埋葬したこの地に、その2年後、市内各所に埋葬されていた遺骨
を移し、さらに6年後には、宮崎・熊本・大分の各県からも集められました。
墓石は正面に西郷隆盛、左手に最後まで奮戦した桐野利秋、右手には篠原国幹、他には村田新
八、辺見十郎太、別府晋介、桂久武など幹部が並び、鹿児島県令(知事)として西郷を支援し処
刑された大山綱良や、わずか14歳にして戦場に消えた伊地知・池田両少年、兄弟5人が討ち死
にした児玉兄弟、県外出身者の名も見られます。また1879年(明治12)に設けられた参拝所は、
1922年(大正11)西郷隆盛を祀る南洲神社となりました。

桐野利秋、西郷隆盛、篠原国幹
  御仏の 浄光明がとこしへに 護るならまし 南洲の夢   与謝野 晶子

薩軍に参加した主な県外出身者
伴 兼之  庄内藩士(山形県)1877年(明治10)3月20日 肥後植木で戦死。(20歳)
榊原 政治 庄内藩士(山形県)肥後御船で負傷 1877年(明治10)5月10日 延岡病院で戦死。
      (18歳)
  両名は明治8年、特別に他の藩ながら私学校への入学が許された。西南戦争が始まると庄内
  へ戻るよう説得されたが、敢えて従軍した。
川越 康太郎 福岡藩士 1877年(明治10)9月24日 城山で戦死。(26歳)
川庄 喜徳  福岡藩士 1877年(明治10)9月4日   米倉の戦いで戦死。(26歳)
  福岡隊は薩軍に呼応して決起したが、合流できないまま全滅。戦死者104名。
増田 宋太郎 中津隊(大分県) 1877年(明治10)9月4日 米倉の戦いで戦死。(28歳)
  中津隊は、薩軍の戦況不利な明治10年3月末大分県中津で挙兵し、薩軍に投じた。中津隊
  は80余名、戦死者は22名にのぼった。
森川 政一  山梨県出身 1877年(明治10)6月23日 豊後方面で戦死。(34歳)
       2番大隊3番小隊付属として従軍。

鳥居の右側に廻る、
常夜燈

常夜燈
この常夜燈は、西郷隆盛と勝海舟との会談により、江戸城が無血開城され、江戸100万市民が
兵火を免れたことへの感謝のため、昭和14年5月当時の東京市によって寄贈建立されたもので、
花棚石でできています。
江戸城の無血開城には、薩摩藩から第13代将軍徳川家定の御台所となった天璋院(篤姫)も西郷
隆盛に徳川家存続の嘆願書を送るなど、大きな役割を果たしたとされています。

勝海舟歌碑
  ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがままに 果てし君かな   勝海 舟

勝海舟歌碑
明治6年(1873)、朝鮮への使節派遣の問題で新政府を去った西郷隆盛は、鹿児島にもどり、青年
の教育のため私学校を設立しました。
ところが明治10年この私学校の生徒が、西郷の意思に反して暴走。ついには西南戦争を引き起こ
したのです。この歌は、幕末以来西郷と親交の深かった勝海舟が、愛する私学校生徒に身を委ね
生涯を閉じた亡友のために詠んだものです。
隣に立つ常夜燈は、西郷と勝海舟との会談により江戸城が無血開城され、江戸100万市民が兵火
を免れたことへの感謝のため、昭和14年5月当時の東京市によって建立されたものです。歌碑は
この常夜燈と同じ花棚石(けだないし)でできています。
花棚石(けだないし)とは、
  鹿児島市内で採掘されている凝灰岩で、黒っぽい動物など彫るときに良さそうな石です。
  市内にある有名建築物にも豊富に使用されていると。

黄興先生南洲墓地参詣之碑

碑の台座に、
黄興先生略歴
孫文と共に中国辛亥革命の代表的志士であった黄興先生は、1874年、湖南省長沙市の学者の家
に生まれた。性格は寡黙で沈着豪胆、体格も偉大で英雄の風格があり、名文家、能筆家としても
有名であった。
1902年、選ばれて日本に留学し、東京の弘文学院に入学したが、早くから民族主義に目ざめ「
華興会」の会長に推挙されるや、孫文の「興中会」と日本で統合を図り、1905年「中国同盟会」
を結成して、清朝を打倒し、中国の民主化を目ざす革命運動の推進力となった。
1909年(明治42年)、友人の宮崎滔天の案内で鹿児島を訪れ、ここ南洲墓地を参詣した際、次の
詩を賦した。
  八千子弟甘同塚   世事維爭一局棋
  悔鑄当年九州錯   勤王師不撲王師
黄興先生は1916年、志半ばにして上海でその波乱に満ちた生涯を閉じ、後に故山の長沙市岳麓
山に国葬を以って埋葬されたが、終生、中国の西郷南洲を自認し、南洲翁の人格と思想に傾倒
した。
黄興先生の憂国の至情を追慕すると共に、その出身地、長沙市と鹿児島市との友好都市盟約締結
二十五周年に当り、両市の交流が更に深まることを切望して巳まない次第である。

中国語で書かれた説明版
  ・・・・・略・・・・・
           2007年9月 鹿児島市日中友好協会  西郷南洲顕彰会

少年烈士
          戦没日      戦死地       享年
伊地知 末吉   明治10年3月30日  肥後松橋     14歳
池田 孝太郎   明治10年9月24日  城山       14歳
新納 宗次郎   明治10年3月21日  肥後鏡      14歳
  墓碑の側面には、「齢十四年十月」と。


中村 恕助(秋田県)
京都にて勤皇志士と交流。明治3年、反政府運動に連座、終身禁獄の刑。西南の役時、
鹿児島の獄に在ったが、大山県令に従軍を出願して釈放。明治10年3月に戦列に加わる。
4月20日、熊本城の東、保田窪の激戦で戦死。34才。
墓碑には、名前、出身地、年齢が刻まれており、
正面に、「秋田縣 中村恕助墓」
側面に、「齢三十有四歳」と。


森川政一墓
墓碑には大きく、「森川政一墓」と。全ての墓碑には説明板は立ててないが遺族が
希望し立てているのか。


森川 政一
旧姓茂手木。山梨県出身。明治10年6月23日 豊後方面で戦死。34歳。
京都遊学中戊辰の役で官軍に加わり功をたてた。薩摩藩士森川の養子となり、西南の役では2番
大隊3番小隊附属として従軍した。

7:56
兒玉兄弟之墓が五基並ぶ。
墓碑の正面に氏名、側面に、戦死した日と場所が刻まれている。

兒玉兄弟
           戦没日       戦死地      享年
実直(八之進)  明治10年3月26日   肥後小川     35歳
実清(矢八郎)  明治10年6月15日   武村       32歳
実休(十郎)   明治10年3月  5日   肥後木留     28歳
実健(八郎)   明治10年3月11日   肥後田原     23歳
彦吉       明治10年9月24日   城山       17歳
兒玉兄弟は何人兄弟であったのか、少なくても十人?


                                      ー 続く ー​





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最終更新日  2022.01.02 08:59:08
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