おじん0523のヒロ散歩

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2023.01.13
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カテゴリ: 続 日本100名城
桐生市から今日の最終目的地、続日本100名城の「沼田城址」へ向かう。
スタンプ受付時間が17時のため、時間がないので高速道路を利用することに。

11月15日(水) 15:25
県道342号線(川内堤線)を南下県道3号線へ。


目的地までのカーナビの案内は、73km、到着予定時間は16:42と。


県道344号線を進み岩宿駅前交差点を右方向へ。


この先の阿佐美岩宿交差点を左折して県道78号線へ進む。


カーナビの案内


県道78号線(太田大間々線)の岩宿交差点を通り抜ける。





ここ大原上西交差点を左折して県道315号線へ。


15:55
北関東自動車道(群馬栃木区間)太田薮塚インタ
ここまでカーナビの案内で来たが、高速道路利用は遠回りであったか。


北関東自動車道(群馬栃木区間)を高崎JCT方向へ進む。
関越道 東京 123km、関越道 新潟 235km。


16:04
北関東自動車道からの夕陽を楽しみながらハンドルを握る。


高崎JCTまで、2kmと。関越道 新潟方面へ。


明日の天気が良いことを祈る。


16:08



前方は榛名山の山並みであろう。


ズームアップ。


16:12
前橋インタ出口


16:23



赤城山にはここを出て右方向へ進む。
車窓から赤城山を探すが雲に覆われわからなかった。


16:27
長井坂トンネル (長さ343m)
トンネルの真上に「 長井坂城跡 」があるようだ。
北は永井の沢の急崖、西は利根川の断崖に望む断崖城で、南北260m、東西約180mほどの囲郭
式の山城です。西端の断崖上に高さ2.5mの土塁で三方を囲まれた本郭があります。
「加沢記」に、永禄3年(1560)上杉謙信が関東に出馬し、沼田城を直攻せずここに陣を張り、降
伏した沼田顕泰(あきやす)(万鬼斎)を引見したとあることや、城郭構造からみて永禄期以降の
築城と考えられます。
天正の初めに北条氏の持ち城となり、近隣の地侍集団が城番を勤めました。天正6年(1578)真田
氏が沼田城を略取すると、長井坂城が鉢形城を核とした北条方の北方最前線の要となって、北条
・真田両軍激突の攻防が繰り返されましたが、天正18年の小田原城の落城とともに廃城となりま
したと。

16:30
日の入りも近くなる。


16:32
13 沼田 尾瀬インタ出口(老神・日光)


16:32
沼田料金所


沼田インタを出て、沼田城のスタンプがある「沼田市観光案内所」へ向かう。


16:34
カーナビの案内で国道120号(日光ロマンチック街道)を進み上原交差点。
どうにか17時前にはトウチャコ。


目的地までは、1.8km、到着予定16:41と。


16:45
沼田市観光案内所
所在地:群馬県沼田市西倉内町2889-3
沼田市内の観光案内のほかに、真田の関連するグッズやお土産、特産品などの販売コーナー、
沼田にまつわる歴史的エピソードがわかる資料が設置されている。


閉館まじかの館内で早速スタンプを頂く。


No.116 沼田城


館内には沼田城のジオラマ、いろんなパネル等で沼田城を紹介していた。


沼田城のジオラマ


続日本百名城の「認定証」が掲げられていた。


天守閣の模型、幟には「天空の城下町 真田の里 上州沼田」、鎧兜も展示。
左下には「おすいマンホール蓋」、流石沼田市の観光案内所である。


パネルも壁面に所狭しと飾られていたが。


真田昌幸像(上田市立博物館蔵)
小川城、猿ヶ京城、田胡桃城などを調略した真田昌幸は、武田勝頼本隊の協力を得て上野と武蔵
の国境を押さえた。その後、沼田城下を焼き払い沼田城を完全に包囲した。昌幸からこの報告を
受けた勝頼は、天正8(1580)年8月、諸将に上野出陣を命じた。
昌幸は、沼田城の無血開城を実現するために、沼田城代の用土新左衛門尉への調略を行った。
用土新左衛門尉は、武蔵国衆藤田泰邦の分家である用土業国の子であった。用土氏は、北条氏康
の関東侵攻時に北条氏に帰属させられ、その上当主の座は氏康の子である氏邦に奪い取られた。
さらに藤田氏の実務は富永助盛(後の猪俣邦憲)が執り行っていた。これらのことに用土新左衛門
尉は不満を感じていた。こうした事情に注目した昌幸は、国峯城主小幡信真を介して用土新左衛
門尉の説得を行った。用土新左衛門尉はこの説得を受け入れ協力を約束した。
用土新左衛門尉は約束通り、武田軍の攻撃と同時に沼田城内で反乱を起こし北条方を降伏させた。
この沼田開城は8月下旬頃であった。勝頼は、用土新左衛門尉に武田家の通字の「信」を与えて
信吉と名乗らせた。さらに藤田への改姓を許して、能登守の受領を与えた。また、信吉は引き続
いての沼田在城を希望し、勝頼はこれを許した。
沼田城攻略後、昌幸は矢沢頼綱を沼田城に配置して守りを固めた。そして昌幸は、岩櫃・沼田・
白井の三城を統括し、勝頼を補佐する役目を命じられた。


沼田氏の内紛
イラストは「北条氏康」
北条氏康の沼田城攻略は、沼田家中で起こった内紛が発端となったようである。沼田一族や家
臣が二派に分かれ骨肉の争いを繰りひろげた内紛は、次のような事件であった。
天文元年(1532)、関東管領山内上杉氏の重臣であった沼田万鬼斎顕泰は、沼田城(倉内城)を築
き、幕岩城から移った。沼田城主顕泰には、嫡子左衛門三郎(憲泰)、次男弥七郎(朝憲)、三男平
八郎(景義)の三人の息子がいた。永禄初年頃、顕泰は、憲泰と対立してこれを廃嫡し、後に殺害
した。対立の原因は、顕泰が上杉憲政方につき、一方憲泰が北条氏康方についたためという。
その後、顕泰は朝憲に家督を譲り、景義を連れて川場に隠居した。ところが、朝憲は北条方につ
いたため、顕泰は朝憲も殺害してしまった。しかし、朝憲の妻が、厩橋(まやばし)長野賢忠の息
女であったことから、沼田城は北条方に与する厩橋長野氏の攻撃を受けた。この戦いに敗れた顕
泰は、景義とともに越後に逃亡し、この内紛は終結したという。
永禄2(1559)年8月頃、北条氏康は沼田城に沼田孫次郎康元を城代として配置した。康元は北条
氏一族の玉縄北条網成の次男である。康元は、北条氏の沼田城攻略時の軍功により沼田氏の名跡
継承を許され、城代として沼田入部を果たしたのであろう。


著名人の色紙は大切に額縁の中に入っていた。
鶴瓶の家族に乾杯で「2016.7.7 笑福亭鶴瓶」
ダメな男じゃダメですか? 落合カツヨ 役「2022.1.7 宮崎美子」


16:56
スタンプを頂き外にでると日が沈み、イチョウの木も黄葉。


沼田城跡入口


城内の散策は暗くなったので明朝にすることに。


17:10
ホテル ベラヴィータ
所在地:群馬県沼田市材木町178-1
旅ともに予約願った今夜の宿泊ホテル、朝食込みのくつげるホテルで、ホテル内には北関東
最大級のバージンロードがあると。


今日の走行距離は298kmであった。

ホテル入口には地元出身の「埼玉西武ライオンズ 高橋光成(こうな)投手」。


ホテル内のホール、フロント。


部屋はツインルームを予約。
用意した部屋に問題があり和室付きの部屋に変えましたと。もちろんプラス料金は無し。


18:00
居酒屋「 呑み食い処  磯の」
所在地:群馬県沼田市上之町辺り
ホテルのフロントで近場の食事処を聴き訪れた居酒屋。


カウンターにはいろんなお酒があった。


まいたけのてんぷら


焼鳥もオーダーしたが食べ終わって残り一本で撮影。


久しぶりに韓国料理の「チヂミ」。


19:15
食事も兼ねて飲み、ほろ酔い気分でホテルへ。


ホテル内はクリスマス前でサンタの飾り付け。


20:15
ツインルームの和室でくつろぐ。この後、ドライブの疲れと酔いから熟睡した。



                                    1日目ーEND





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最終更新日  2023.01.13 03:00:06
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