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では、どの道も細部に至るまで描いてある地図が一番いいかというと、そうでもないことはすぐにわかると思います。道の重要さがその道の幅に表れない場合、情報の大きさが1:1:1:1…になってしまい、特に初めて訪れた人は、まずどの道を行けばいいかの判断が難しくなります。翻訳も似たところがあります。原文に書いてある単語や記号をひとつ残らず、訳に反映させることをよしとする指導者もいますが、これでは訳文はわけのわからないものになります。本当は何が重要なのか、筆者が何を伝えようとしているのかがわからなくなるのです。↓このバナーをクリックしてください。語学関連のブログがたくさんあります。
2007年12月02日
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母方の祖母は生前、そう呼んでいました。すし桶のことを。母親をはじめ、叔父、叔母たちですら、なぜ『はんぼ』なのか、どういう字を書くのかを知らないまま、祖母が『はんぼ』と言うから、同じく『はんぼ』と言っていました。なので、『はんぼ』は数十年来の謎でした。(というか、調べる必要性が特になかっただけなのですが)それが先日、「うどん」に関する記述を読んでいて、次のようなくだりで目が留まりました。…(略)…釜を囲んで食べたのが始まりと言われ、その後、釜から飯盆に移すように…(略)…飯盆!ルビはふってありませんでしたが、横にあった写真はまさしく「すし桶」。『はんぼ』って、飯盆(はんぼん)だったのですね。飯盆は四国の方言とのことですが、祖母が住んでいた地域を考えれば、十分に納得できます。ひょっとしたら祖母は、最後の「ん」をごくごく弱い鼻母音で発音していたのかもしれません。「はんぼう」か「はんぼ」かも定かではありませんでしたから。いずれにしても、すっきりしました。↓みなさんの「1日1クリック」を糧に今日も頑張ります!「語学・英会話」のカテゴリでしのぎを削って(?)ます
2007年05月09日
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昨日もバドの試合(団体戦)でした。でも、今日の記事はバドそのもののことではありません。朝一番の試合でペアになったTさん、試合前に対戦相手を見て、「あの二人なら楽勝」と言っていたのに、試合の途中から顔色が悪くなってきて、狙われまくり、追い込まれまくりで完敗。試合が終わるなり「気分が悪い」と言って座り込んでしまったんです。そういえば朝の車のなかで「思いっきり寝坊した」って言ってたなぁ。朝起きてから2時間も経たないうちに、アップもろくにせずに、いきなりガンガン動いたことになる。しかも、試合の直前ぐらいに「朝マック」食べてた…。そりゃ気分悪くなる方が自然だ。でも、次の試合までには1時間以上あるし、それまでには頭も体も起きているだろうから、今少し休んでおけば、そんな大きな心配はいらないだろう。そう思っていました。ちょうどそこに、医療関係者でもある友達がいて、座り込んでいるTさんの脈をとり、「脈が飛んでる。頭低くして寝といた方がいいよ」とだけ言い、それ以外のことは特に何も言わなかったようです。それを聞いていた私は、「そりゃ脈が飛んでもおかしくはないわな」ぐらいの感じでしたが、Tさん本人も周りの人たちも、あとで聞いたのですが、「えぇっ、まさか心臓の病気?!」っていうぐらいすごく動揺したそうです。(そっちの方が心臓に悪い…)聞けばTさん、前の晩に2サイクル程度の睡眠しかとっていなかったらしい。つまり、ものすごい寝不足。そんな状態で朝一からアップもせずにいきなりハードな運動なんかしたら、一時的に不整脈が出てもおかしくはないし、寝不足による怪我の方が、私はむしろ心配でした。というのも、極度の寝不足明けでバドをして、アキレスを切ったという話を何回か聞いていましたから。そんな話をTさんにすると、無用な心配がずいぶん解けたようで、(やはり「脈が飛んでる」の一言が相当ショックだったようです)待ち時間のうちに顔色も元に戻り、次の試合からは、もちろんセーブ気味ではありましたが、元気に楽しくプレーするいつものTさんになっていました。(よかった、よかった)でも、今夜はゆっくり休んでね…と切に願う私でした。結局、私たちのチームは3位でした。今日の教訓:一般の人は「専門家」の一言で大きく揺り動かされる。だから、知らない人の立場に立った適切かつ十分な言葉が必要。↓みなさんの「1日1クリック」を糧に今日も頑張ります!訳あって、「語学・英会話」のカテゴリに戻ってみました。
2007年02月05日
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確かに私も最初に読みました。「『お任せします』では困ります」と書かれてありました。その時は単純に、自分の治療なのに医者任せな患者に対する「治療には積極的に参加してくださいね」というメッセージだと思っていました。もちろん、そうなんだと思います。医院側としては。でも、あれは多分違う。あのおばあちゃんも、おじいちゃんも、決して治療を先生任せにしてそう言っているのではないと思う。保険適用範囲の治療で構わないという気持ちがあるのに、先生から「それでは満足な結果が得られませんよ、いいんですか?」と言われてもなお、その「よくない治療」をして欲しいとは言えず、かといって、あとは「そこまでする必要ない」と思っている高額な治療しか選べないのだとすれば、「お任せします」は、患者の積極性のなさを示しているのではなく、その板ばさみ的な状況、あるいは心理的圧力から逃れたいというか、「頼む、慮ってくれ!」というメッセージではないかと思うんです。これがあながちただの妄想ではないことは、この後すぐにわかることに…。つづく。↓「1日1回クリック」にご協力ください。現在、「起業・独立」のカテゴリーで頑張ってます。
2006年12月12日
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先日来、何回か登場している歯科の話のつづきです。先日、予約時間ぎりぎりに医院のドアをくぐると、(いつもです(^^;)おばあちゃんが、受付のカウンターを挟んで先生と話をしていました。なんだか途方にくれたような、追い詰められたような雰囲気を感じました。具体的な内容はもちろんわかりません。「先生にお任せします…」とそのおばあちゃんは言ったのですが、すかさず先生は、「『お任せします』ではこちらも困るんです」。それから少し何か話したあと、おばあちゃんは、「帰って娘と相談して、またお返事します」と言って帰りました。その時は、「困ってはるみたいやったけど、何かあったんかな…」ぐらいにしか思っていませんでしたが…、名前を呼ばれて診察台に座ってまっていると、今度は隣の診察台に座っていたおじいちゃんが、「どうされるか、はっきりおっしゃってください」と先生に聞かれていました。このおじいちゃんも、「先生にお任せします…」と言いました。先生がさっきと同じ言葉を返したのは言うまでもありません。どうやら、保険適用の範囲内で治療するか、その範囲外の治療をするかを決める上でのやり取りのようでした。このときはじめて、「お任せします」って、こういうことだったのかと気付きました。「文字で見るのと、実際の状況を知るのとではずいぶん違うなぁ」とも。つづく。↓「1日1回クリック」にご協力ください。現在、「起業・独立」のカテゴリーで頑張ってます。
2006年12月09日
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「悩む」のは訳語を決めることではなく、それを採用するかどうか。最終的には、エージェントの担当者さんとの「距離」で決めることが多いです。とりあえず今のところは。おかしいことはおかしいと断固言いたいところなんですが、専門用語ばかりは、いくらおかしいと確信できても、おいそれとは手が付けられませんから。(私の首が飛んでおわり、でしょう)それにしても、原語の意味の全貌を把握しないまま英和辞書に載ってた訳語をそのまま当てはめただけとしか思えない専門用語って多いですよね。↓「1日1回クリック」にご協力ください。今日も1クリックお願いします!
2006年12月02日
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仕事をしていて訳語に悩む単語にintervene (intervention)があります。医学では比較的よく出てくる単語で、「『介入』でいいんじゃないの」と思われる方も多いと思いますが、この単語には基本的に「間に入る(存在する)」という意味しかありません。英和辞書に載っている「調停」「介入」「干渉」という利害や感情を含む訳語は、この単語が文章のなかに入ってはじめて、文脈から生じた意味を表す語にすぎません。現に、某英和辞書には、in the intervening weeks その間の数週間にという用例があります。逆に日本語には、利害や感情を一切含まず、つまり上の用例のように「間に入る(存在する)」という意味しかもたずに、かつ漢字二文字で表される言葉がありません(多分)。なので、このintervene (intervention)は、登場するたびに文脈に応じて訳語を決めなければならないつまり、そこにどのような利害・感情が生じるかをその都度判断しなければならない単語であるといえます。専門用語も例外ではなく、本来なら、日本語ではどういうかを個別に決めなければならなかったはずなのに、現実にはほとんど機械的にカナ表記されているか、または「介入」という言葉が当てられています。日本語という言語そのものに、この単語の訳語を決める上で何ら不備はないのに、しかも、せっかく日本語が漢字を用いる言語でありながら、またはそうであるからこそ、その用語の定義を知らない限り意味がさっぱりわからなかったり、あるいは違う意味に誤解してしまったり、ということが起こります。つづく。↓「1日1回クリック」にご協力ください。今日も1クリックお願いします!
2006年11月30日
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人って基本的にというか、特別な場合を除き、「仲悪くなりたい」とか、「いがみ合いたい」とかは思わないわけで、「仲良くしたい」なんて言葉は、本当はいちいち口に出したりする必要なんかなくて、むしろ出さないからこそ、信頼関係が保てたりもするんですよね。(1)のコメントにもありましたが、たとえば、ヤ○○さんとかに同じことを言われると相当怖いですが、(というか身の危険に直結)何をしようとしているかは明白ですから、とてもわかりやすいと言えます。それに対して、たとえばうちの隣家のご夫婦。私たちが引越してきてご挨拶にうかがった際に言われました。「おたくとは仲良くしたいので、よろしく」と。(「出たー」と思いました(^^;)その直後にはエアコンの室外機の取り付け位置のことなどでかなりもめました。(「エアコンはこんなにいらない」とか、「この室外機はこっちへ移動させろ」(それも別の隣人にとって迷惑になる場所)とか言われたのです)あとで間接的に知ったのですが、このご夫婦、近隣のいろんな方々とももめているようで、 自身の快適な生活=隣人との仲が良好裏を返せば、 自身にとって不都合な近隣の挙動=自分に対する相手の嫌がらせと、かなり本気で思っているようです。もちろん、ここでいう自身にとっての不都合が、架空のものであることだってあるのですから、わかりにくいことこの上ありません。現にこのご夫婦、私たちが家の排水溝から有毒物質を垂れ流していると信じ込んでいるのです。(ピンピンしているのに「数年前から、目も喉もやられている」と言って聞かない)笑いごとじゃないですよ、まったくもう。ご近所さんにこんな人がいるのも厄介ですが、仕事の取引先がそういう相手というのも困りものですよね。私の場合、逃げるが勝ちということで、「お互いに信頼関係を保つため云々」と(無理な)要求をされたら、折り返し、お取り引きを辞める旨のお返事をするようにしています。せっかくの「自由業(フリーランス)」なんですから、本当に信頼しあえる相手とお仕事をしたいですよね。もちろん、それだけ責任も生じますが。↓「1日1回クリック」にご協力ください。今日も1クリックお願いします!
2006年11月27日
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私がはじめてこの不思議な言葉に出会ったのは、小学生ぐらいのときでした。当時は、当然というか、その言葉の本当の意味がわからず、「仲良くしたい」と言い出した本人がなぜ、自ら仲良くしようとしないのか、全然わかりませんでした。そんな私も今では、この類の言葉を「試金石」にしています。これをお読みになって「わかりきったこと」と思ってらっしゃる方も多いかもしれませんが。つづく↓「1日1回クリック」にご協力ください。
2006年11月21日
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もうひとつ、実は今、こっちの方がはまっているのですが、インターネットラジオがあります。特に日本の外国語教材って、ネイティブが吹き込んでいるといっても、教材ちっく。「生っぽさ」が感じられないのが大半ではないかと思います。その点、前回紹介した海外の外国語教材は、どれも「生っぽさ」がかなりありますね。その意味でも、今気に入って聴いているサイトは、現地のヒット曲はもちろん、合間にニュースや天気予報あり、リスナーとの電話トークありで、100%生。飽きません。仕事中に音楽を聴くことなどほとんどなかった私ですが、よほどの特急仕事か難解な仕事でない限り、たいてい聴きながら仕事しています。続けられるという意味では、期待大です(あくまでも私にとって、です)。とはいっても、この「ながら学習」は、今後に本腰入れるための準備運動みたいなもの。これだけで外国語が何とかなるわけないので。↓「1日1回クリック」にご協力ください。「参考になった」と思っていただけたらクリックお願いします
2006年08月21日
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英語以外の言語の勉強をしようといろいろ試しているのですが、「今の私には『ながら勉強』しかない」との一応の結論に達し、まずはCD教材を物色。ただ、日本で売られているものは当然、解説・対訳が日本語で、仕事をしながら聞いていると、日本語ばかりが耳についてしまい、肝心の目的言語がほとんど耳に入ってきません。とくに全然使えなかったのが、D○Cの「○○語会話とっさのひとこと辞典」シリーズ。感情表現が延々と日本語で耳に入ってきたひにゃ、全然仕事に集中できず、即切り(笑)。そこで考えついたのが、英語で解説・対訳が吹き込まれている海外もの。Amazon.comなどでteach yourselfシリーズのものなどを購入してみました。探せばいろんなシリーズ物がありますので、購入者の評価などを考慮するといいと思います。日本語と違い、英語なら理解はできても耳に無理やり入ってくるほどではないので、(私のレベルが、です)効果ありかもしれません。目的言語だけで吹き込まれているものもいいかもしれませんね。外国の外国語教材は、日本のものとちょっと雰囲気も違っていたりして、新鮮で、そういう意味でも面白いです。↓「1日1回クリック」にご協力ください。「参考になった」と思っていただけたらクリックお願いします
2006年08月19日
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このタイトルだけで通じる方がどれだけいらっしゃるかわかりませんが、ナウカが倒産してました。同社のHPは「お気に入り」にも入れていたのですが、もう1年以上ずっと見てなくて、先日、偶然アクセスしてみて気付きました。勃露、波露をはじめ、辞書を揃えるのに以前はかなりお世話になった会社ですが、昨年、ある言語の辞書を探してもらったときに、1カ月以上音沙汰がなく不安になった、という経緯があり、ちょっと気持ちの上でも距離ができてしまっていました。今回偶然、同社のHPを覗いてみようと思ったのは、虫の知らせみたいなものもあったのかもしれません。それにしても、やはり残念は残念です。ロシアでは、ほかの主要国とは比べ物にならないくらい、ロシア語と世界の言語との比較が進んでいますからね。世界のさまざまな言語を知るには、ロシア語をまずものにするのが一番有利だといえるのではないかと思うほどです。その国の書籍を専門に扱う会社が倒産したとなると、あとは、現地へ行くしかない?↓「1日1回クリック」にご協力ください。今日の話はあまり参考になるものではないと思いますが…
2006年08月17日
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たまにはまじめに(?)英語の話など。(プロの方なら知ってて当たり前の話なので、笑って読み流してください)受験勉強で英単語を覚えようとしていると、ひとつの単語にいくつも違う意味があって、「何で?」って思うことがよくありました。例えばdefaultという単語。「不出場」と「怠慢」ならまだしも、「(コンピュータの)初期設定」って、ひとつの単語でぜんぜん違うやん!って思いますよね。でも、実は意味は全部同じ「できる/してもよい/権利・義務があることをしていない状態」。出場権のある試合などに出ないから「不出場」「棄権」、義務などを果たさないから「不履行」、ユーザーの好みに設定できるけどしていないから「初期設定」「既定値」という具合に、違うのは実は文脈に応じた「訳語」。意味は同じなんです。辞書に書かれたいくつもの訳語。「どれを選べばいいの?」ではなく、ちょっと距離を置いて眺めてみてください。文脈に応じて適切な「訳語」を決めるための「意味」が見えてきます。↓「1日1回クリック」にご協力ください。「ふ~ん」と思ったら1クリック
2006年07月28日
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先週、空いた時間を利用してようやく読むことができました。国際派の数学者が説く「国語教育絶対論」。この本で一番印象に残ったのは、美感や調和感なくしては、いくら論理的思考力が抜群であっても、どちらの方向に論理を進めてよいのかわからない。…中略… 美的感受性の重要性は、私の接した自然科学者のほとんどが、その分野でも同様に大切と言ったから、自然科学全般にあてはまるのだろう。の部分です。個人的にはかなり旬な話題なだけに、感動も一入です。文章が汚くていいわけがない。それは、自然科学の一領域である医学ももちろん例外ではない。この部分を読んで、自分の目指している方向は間違っていないと確信がもてました。「国語教育絶対論」に書かれていることはどれも大切なことなのですが、もう一箇所、大きく頷いたのは、国語が思考そのものと深く関わっていることである。言語は思考した結果を表現する道具にとどまらない。言語を用いて思考するという面がある。・・・中略・・・人間はその語彙を大きく超えて考えたり感じたりすることはない、といって過言ではない。の部分です。持ち合わせている語彙が多いほど、細かい思考ができ、少ないほど、思考も大雑把になるというわけです。「細かい言葉の使い分けなんて不要」と思っていらっしゃる方などはまさに、後者の道をまっしぐら、といったところでしょうし、著者に言わせれば、「情緒のひだ」までなくなってしまうことになります。ところで、この本の帯の裏のところには、著者を「華麗なる文章家」と評する表現があるのですが、本書の前半部分である「国語教育絶対論」を読んでいる限りは、「そうかなぁ」という感じだったのですが、後半部分の「いじわるにも程がある」(著者の家庭の風景をつづったエッセイ)に入ると、その印象は一変。活き活きとした文章で、著者と家族の情景がありありと浮かんできました。前半の「国語教育絶対論」の部分はひょっとしたら、著者の気持ちの強さと文章がもつ力とのバランスが、微妙にずれているのかもしれません。それだけ著者の国語教育に対する思いが強いのだと私には感じられました。日本語を大切に思う方ならきっと、泣けるし、笑えるし、怒れる一冊です。↓「1日1回クリック」にご協力ください。現時点の順位を見てみる
2006年05月24日
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昨日のよしなしごと、別に、書くことに困ってネタをかき集めたわけではございません。日本人が「英語が好き」って言っているのと同じだなぁってふと思ったからです。自分の生き死に、生活していけるかどうかと関係ないところで、わかった(通じた)気持ちになれるのって、そりゃ楽しいですよね。学校でも、数学、世界史、物理といった合間に、英語の時間だけは、英語圏でいえば小学生の子供レベルのことをやるんですから、好きになれるはずです。通じなかったら生きていけない状況に本当になれば、好きとか、嫌いとか言ってる場合じゃなくなりますからね。「でも、私は英語が好きで、それで仕事していますよ」っていう人もいると思います。でもそれって、きっと目の前にある壁が見えていないんだと思うし、迷惑を被っている人のこと、尻拭いしてくれている人のこと、気付いていないと思う。じゃなきゃ、英語圏でタクシーに乗って、宿泊するホテルに戻れず、客と一緒に歩いて帰った英語通訳が、そのまま通訳の看板を自ら上げつづけていられるような(←これ実話)おかしなことが起こるわけないです。いえ、別に愚痴っているわけではありません。でも、この手の仕事をやっていると、永久に目の前から壁がなくならないもんなんです。「好き」だけじゃ越えられない壁が。越えても越えても。本当はね。
2005年09月24日
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外国を旅行していると、いろんな「漢字グッズ」や「日本語入れ墨」に出会いますよね。イタリアに行ったときには、イマドキの女の子が二の腕に、「不良少女」と入れ墨を入れているのを見かけました。(意味わかってんのかな)スキポール空港から同じ飛行機に乗った腕っ節の強そうなお兄さんの二の腕には、「ミッシェル」とカタカナ(しかも縦書き)の入れ墨が。(自分の名前かな? 顔に似合わず可愛かった)サンセバスチャンのバールのウエイトレスは、首の真後ろ、脊柱の上あたり(危なくないのか?)に「伊万」の文字。タンクトップに隠れてその下が見えなかったけど、ひょっとして続きは「里」?アイルランドに行ったとき、テレビでケリー・ホームズ(だったかな?)の凱旋試合をやっていて、「ん?肩甲骨あたりに漢字らしきものが…」と思ってよく見ると、「殊勝」の入れ墨。うーん、納得。ヨーロッパで見かけたアシックスのシューズには、「虎」の文字がありました。そういえば、日本のシューズには「Tiger」って書かれてましたよね、確か。(って、逆やん!)こんな感じで、漢字・日本語はおおはやり。漢字・日本語Tシャツなんて、当たり前のようにあちこちで見かけます。欧米人は日本語(漢字もカナも)が本当に大好きなんですね。
2005年09月23日
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以前のよしなしごとでも紹介した「英語にも主語はなかった」の感想文を投稿し、掲載されましたので、よろしければご覧ください。
2005年07月28日
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スリランカでは大衆食堂のことをhotelといい、高級料理店はrestaurantというそうです。(実際、看板にそう書いてありました)「歩き方」を読みながらそんな話をしていて、ふと気付いたのですが、中国語でホテルを表す「飯店」って、ひょっとして、hotelの発音のいわゆる当て字?調べてみると、飯店の発音はfandianだそうで、この子音交代は十分に起こりえますので、可能性大ですが、それとも「飯店」が先にあって、その音からhotelという単語が生まれ、(だとすれば、スリランカの説明がつきやすい)現在のように、宿泊施設を意味する単語になったのでしょうか?どなたか、何かご存知ですか?
2005年06月13日
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(昨日からのつづきです)次に、ねこんさんの「資料の読み書き」と「英語の方が汎用性があり有利な気がします」の部分ですが、資料の読み書きのためなら、子供のうちの英語学習とはあまり関係がないのではないかと思います。むしろ、本人の意思で勉強して身に付ける類のものになるのではないでしょうか。また、日本語にせよそれ以外の言語にせよ、発音や文法、難しい単語をいくら知っていても、「事情」を知っていなければ理解できないことはたくさんあります。逆に「事情」さえ知っていれば、語学力が低くても理解できるものです。特に、初めての土地に行ったり、知らない業界や世界のことを見聞きしたりすると、そのことがよくわかります。そういう個々の「事情」は単なる語学学習からはなかなか知ることができません。また、汎用性があり有利な気がすることについても、たとえば、インターネットについて言えば、全ウェブページのなかで英語のページが占める割合は、どんどん減っているそうです。つまり、英語以外の言語を母語とする人、英語以外の言語ができる人の有利性が増しているということになります。それから、「汎用性」という言葉で思い出したのですが、フランス語とドイツ語ができれば、英語がわかるようになるけれど、フランス語と英語ができても、ドイツ語がわかるようにはならないし、ドイツ語と英語ができても、フランス語がわかるようにはならないという話を聞いたことがあります。英語にはこういう意味でも、汎用性の言葉が当てはまりにくいと言えます。このほか、ぴよぴよ0430さんからもコメントをいただきましたが、(ありがとうございますm(_ _)m)「日本で実践できるのはごく少数のかたでしょう」の部分ですが、確かにその通りだと思います。母語をきちんと身に付けつつ、外国語を習得するなんて、誰にでも簡単にできることではありませんから、そういうことが正しくできる方が、そんなにいらっしゃるとは思えません。長々と書きましたが、結論として私が言いたいのは、子供に対して外国語教育をするしないの問題ではなく、何事もやるのならどうぞ正道をとってください、中途半端なことをしていたのでは、結局は無駄になることが多いですから、ということです。
2005年06月06日
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2005月5月17日のよしなしごとは、英語はやめて、ほかの言語(3カ国語ぐらい)の音声かけ流しておくのがよい(もちろん、日常生活は日本語で)というような内容であって、つまり、今まで英語学習にかけていた時間が、実質的にゼロになり、しかも、十カ国語以上に対応可能な耳ができると書いているのですが、なぜお二方とも、これに対する反証もなく「英語以外に時間が取れない」とか、「多(他)言語は時間がかかる」とかおっしゃるのでしょうか。私は、これを心理的な壁のようなものが原因だとみています。この心理的な壁については、また別の機会にでも、ほかのテーマで詳しく書ければと思っています。お二方のコメントについて、誤解を解いておきたい部分がありましたので、ここで取り上げさせていただきます。まず、wakaさんの「かけ流しもだんだんしんどくなってきます。良い音楽でもかけておいた方が子供の心のためにいいんじゃないの?と思う時も」の部分ですが、これは、「わけのわからない耳障りな音を聞きつづけるのはしんどい」ということでしょうか。でも考えてみてください。生まれて間もない子供にとっては、その両親が話している日本語ですら、わけのわからない音ですよ。それでも、この世界で生きていくため、その本能から、必死で吸収しようとしているんじゃないんでしょうか?親がしんどいと思うかどうかで判断するのはどうかと思います。ただし、良い音楽をかけておくこと自体は、情操教育という意味でいいことだと思います。言語を習得するというのは、とてもしんどいものなのです。ただ、小さいうちに外国語に触れさせておくとよいというのは、幼児期には耳をはじめ、体のさまざまな機能が急速に発達していくということと、子供は本能的に耳に入ってくる言語を習得しようとするので、それにかかる労力は、理屈でものを考えることのできる大人より大きくても、それが「しんどいもの」「いやなもの」という気持ちと結びつかないため、無理なく自然に吸収できるからですよね。言語に限らず、外界の刺激をことごとく吸収し、それを整理していかなければならないため、子供には十分な睡眠時間が必要になるわけです。そういう意味では、子供は「とてもしんどい」生活を送っていると言えるのではないでしょうか。(すいません。長くなるので、明日のよしなしごとにつづきます)
2005年06月05日
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「英語耳」とはよく言いますが、発達中の子供には、何語を聞かせても、その言語の「耳」ができあがります。子供は無限の可能性をもっているのに、英語だけを聞かせるなんて、その可能性を閉ざしてしまうようなものだと思います。もう十何年前にはなると思いますが、子供の外国語教育に関するあるテレビ番組で、家のなかの何カ所かにカセットデッキを置き、それぞれに異なる言語のテープをセットして、一日中かけっぱなしにしておくという方法を実践されているご家庭が紹介されていました。本当に子供のことを考えているなら、まさにこれしかないですね。大切なのは「耳」なんです。子供の頃にちょこっと話せるようになったって、意味がありません。そんな目先だけの進歩に喜ぶ親のちっぽけな自己満足のために、子供の大切な時間を奪ってはいけません。そういうことではなく、その子の20年ぐらい先のことを考え、子供が将来、自分の意思で選んだ言語を習得しやすいよう、いろんな言語の音を聞かせ、その耳を作ってあげるのが、親の役目ではないでしょうか。英語はヨーロッパ系の言語になりますが、ヨーロッパ系の言語という点では、英語は音的にかなりマイナーな言語です。そんな「潰しの利かない」音だけを聞かせるよりも、たとえばラテン系、ゲルマン系、スラブ系の言語から1言語ずつ選び、平行して聞かせるだけで、その何倍もの数の言語に対応できる「耳」ができますし、英語への応用もききます。ただ私個人的には、ヨーロッパの言語もさることながら、これからの時代は、アジアの言語が重要になってくると思っています。
2005年05月17日
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ちょっと、というかかなりがっかりしました。こちらのページの「お気に入り」にも入れているソレイアというグループがあるのですが、その名称の説明に「ソレイアの語源」という標題をつけていたのです。どう考えてもここは「ソレイアの由来」が正しい。それをわかっていながら、あえて自分たちの名称に特別な思いがあって「語源」を使うのなら、「 」でくくるなどして、特別であることを示さないと、ホームページのなかでは日本語の大切さを繰り返し訴えていながら、「日本語間違ってるよ。このグループ、本当に大丈夫?」ってことになりますよね。まぁ、講師は大丈夫なので、ご安心ください。同じ講師が、社団法人日本翻訳連盟主催で、来る6月4日(土)に講演をするそうです。詳細は、http://www.jtf.jp/nishinihonn171.htmlをご覧いただければと思います。
2005年05月16日
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先日、子供には英語ぐらいできるようになって欲しいと思うお父さん、お母さんへ(4)で、母語話者として十分な語彙力があり、微妙な言葉の使い分けが理解できていなければ、緻密で正確な思考ができないからです。と書きました。少々おせっかいかもしれませんが、補足しておきますね。正しく運用できる言葉の数をデジカメなどで用いられる「画素数」に例えると、わかりやすいと思います。画素数が大きいほど、画像は鮮明になり、その数が小さくなるほど、画像はモザイクのようにになっていきます。つまり、正しく運用できる言葉の数が少ないほど、頭のなかの思考がモザイクのようにぼやけてしまうのです。(思考は言葉を使わなければできませんから)少しくらい目が悪くても、さほど不都合なく生活していけるように、本人は、思考がぼやけていることをほとんど意識せずに生活していると思います。もちろん、ぼやけたままの思考で話をしても、相手に鮮明に伝わるはずがありません。当然ながら誤解が生じます。でも、本人はなぜ誤解が生じたのか理解できず、悩むことになります。あるいは、誤解が生じたことすら気付かないかもしれません。子供の英語教育の過熱ぶりをみて、今まさに、そういう人間が量産されかねない状況にあると危惧しているわけです。
2005年05月13日
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当たり前なんですけどね。間違って使われていることがあまりにも多いです。たとえば、在日韓国人の方々で、生まれも育ちも日本なら、日本語が母語かもしれませんが、母国語は韓国語ですよね。大学のクラスメートに華僑の子がいましたが、その子の母語は日本語ですが、母国語は中国語。中国語検定にチャレンジしていました。だから、翻訳会社の募集要項などで、「母国語が英語の方」なんて書いてあると、思わず笑ってしまいます。
2005年05月11日
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学校の国語の授業で「日本語」が教えられていないため、便宜上、英語の構造を理解できているかどうかをみるためだけに用いる非日本語しか知らない日本人が増えています。よく、「翻訳調の日本語」という言い方をしますが、元の英語がみえてきそうなこの非日本語が、英語、英語と強迫されて育った人たちの言葉になってしまっています。その言葉には法則も統一性もないため、相手に通じません。それどころか、その言葉を使っている本人すら、頭のなかで思ったことを、きちんと言葉に表現できなくなっています。ネット上やメールで言葉を交わす機会が増えましたが、本人が必死に書いているのはわかるけど、その漠然とした感情だけで、実際に何を伝えたいのか、わからないことがよくあります。ひょっとして日本語が母語でないのかも、と真剣に疑うこともあります。ビジネスのやり取りですら、霞のかかったような文しか書けない人もいます。語学がからむ仕事をしているからこそ、こういう危機的な状況がよく見えます。そして、翻訳者として何より憂いているのは、そういう人が、英語ができるから翻訳をやりたいと思っていること、実際に、きちんとした日本語が書けないことをその文章で露呈しながら、「翻訳の仕事をしています」などと、平然と書いている人があまりにも多いことです。
2005年05月09日
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母語が母語の域に達していることは、外国語を習得するだけでなく、生きていく上でとても重要です。母語話者として十分な語彙力があり、微妙な言葉の使い分けが理解できていなければ、緻密で正確な思考ができないからです。きちんと思考ができないというのは、偶然以外、何をやっても上手くいかないという、とても不幸なことなのです。急速に発達していく子供にとって、その時間をどう過ごすかはとても重要です。母語(日本語)は自然に身につくもの(これは大変な誤解です)と軽視し、その習得に費やす時間を犠牲にして、母語の域に達することを目的としていない英語教育に熱を上げるのは、子供にとって、本当に幸せでしょうか?子供には英語ぐらいできるようになって欲しいと思うお父さん、お母さんへ(1)、(2)、(3)も併せてお読みいただければ幸いです。詳しくは「学校英語よ、さようなら」をお読みください。
2005年05月08日
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大学の同じクラスの友人に、将来は国連の職員になりたいと思っている人がいました。そのためにはまず、語学(英語と諸外国語)ができるようにならなければとがんばっていました。ところが、外国語学部卒は応募資格すら与えられなかったそうです。つまり、経済学部や法学部など、語学以外に専門とするものがあり、その上で語学ができなければならなかったようです。結局、その友人は国連職員への道を諦めました。
2005年05月05日
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タイトルにした本「英語にも主語はなかった」に、ページトップでも紹介している「学校英語よ、さようなら」の一節が、次のように引用されていました。辻谷真一郎が『学校英語よ、さようなら』の最後に書いている「私がこれからしなければならないことは山ほどあります。基本的にはアメリカ中心の世界観、英語中心の世界観と戦うことです」という言葉を我々は見習うべきである。どちらの本も、英語、英語と大騒ぎしている日本人にとって、大切なことが書いてありますから、ぜひお手にとっていただきたいと思っています。この「英語にも主語はなかった」については、楽天ブックスに投稿された感想文に、「『天』の言語と『地』の言語、と言った時点で既にフィクション小説の域に入っている」とありますが、「天」とか「地」とかいうのは、それぞれの言語を母語とする人間が、どこに視点を置いた文を構成するかを例えたものにすぎず、私にはそれが「フィクション小説の域」であるという発想は浮かびません。と、ここで気付いたのですが、この感想文を投稿された方、この本を読んでいないようですね。本の感想文ではなく、本の紹介文の感想文を書いたみたいです。というのも、「『天』の言語」、「『地』の言語」という表現はまさに、この本の紹介文にしか書かれておらず、本文では、これに代わる別の言葉がキーワードになっていて、それこそ何度も出てくるからです。本当にこの本を読んでいらっしゃるのなら、そのキーワードを書かれるはずなんですが。また、この「英語にも主語はなかった」はほかのところでも、かなり痛烈に批判されていますが(というか怒りに近い)、これはおそらく、自分が知っている(あるいは信じている)世界を壊されることに耐えられない類の方がお書きになったのではないかと思います。ガリレオが地動説を唱えた時の教会側の怒りを彷彿とさせます。
2005年05月01日
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子供に「英語」を習わせることに関心をもってらっしゃる方はたくさんおられますが、そういった方のうち、普段「英語」という言葉を使っているところに本来当てはまるのは、「言語」または「外国語」という言葉であるということをはっきりと意識しておられる方は、いったいどのくらいいらっしゃるのでしょう?当たり前のことですが、(日本人にとって)英語は外国語でも、外国語が英語とは限りませんよね。何を目的に子供に英語を習わせ(ようとし)ているのかは、それぞれに異なるでしょうが、本当の意味で、子供が英語を身に付けてそれを活かして欲しいと思うのであれば、英語を習わせるのではなく、外国語を習わせるという意識、しかもそれは、世界に数千種類もある言語のひとつでしかないという意識を親がまずはっきりともつ必要があると思います。また、英語「だけ」できても何にもならないという意識も。つづく。
2005年04月26日
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学校ではなぜ「全員が英語を学習する」のでしょう。母語のほかに外国語を習得することが目的なら、世界には、文字も文法も音も異なる言語がたくさんあるのに。100人でひとつのことを競うとき、勝つのは100人のうち一人だけですが、この100人を50人ずつに分けて、それぞれにひとつのことを競えば、勝つのは100人のうち二人になります。自分に自信がもてる子供の数が増えるわけです。私は大学で英語以外の言語を学びました。(もちろん高校まではその機会が与えられなかったのです)もし英語しか学習していなかったら、競争率が高すぎて、今、このように翻訳者として生活できていなかっただろうと思います。つづく
2005年04月19日
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