東方見雲録

東方見雲録

2023.02.06
XML
カテゴリ: アーカイブス
2006.02.06の日記 こちら


小泉八雲終焉の地

所在地 新宿区大久保1-1-17
種別 新宿区指定史跡
年代 明治35年(1902)~37年(1904)
アクセス 東京メトロ副都心線、都営大江戸線「東新宿」駅から徒歩5分
備考 ※「小泉八雲舊居跡」の碑と文化財説明板は、近接する新宿区立大久保小学校(大久保1-1-21)の正門脇に建つ。

概要  
 小説家・随筆家小泉八雲(1850 ~1904) が、明治35年(1902) に市ヶ谷富久町から転居し、同37年(1904)9月26日に狭心症による心臓発作のため亡くなるまで住んでいたところ。執筆活動に加え、明治37年4月からは早稲田大学で教鞭を執っていた。

 また、近くには新宿区立小泉八雲記念公園(新宿区大久保1-7)もあり、駐日ギリシャ大使館から贈られた八雲の胸像や、駐日アイルランド大使館から贈られた八雲が少年期を過ごしたアイルランドのダブリンの住居にあるプレートの複製などがある。

居住の地の説明文
 小説家・随筆家小泉八雲(1850~1904)が、明治29~35 年(1896~1902)まで住んでいたところ。八雲は本名をパトリック・ラフカディオ・ハーンといい、イギリスの軍医であったアイルランド人を父に、ギリシャ人を母に、ギリシャのレフカダ島で生まれた。アメリカや西インド諸島でジャーナリストとして活動したが、日本に魅せられて明治23年(1890)来日。島根県の松江中学校で英語を教え、当地で知り合った小泉節子(セツ)(1868~1932)と結婚した。
 明治29年東京帝国大学に招かれたためこの地に居を構えたが、八雲はすぐ裏手にある自證院(瘤寺)の風景を愛し、境内をよく散歩したと伝えられる。しかし次第に周辺の喧騒を嫌うようになり、豊多摩郡大久保村大字西大久保に転居し、そこで亡くなった(現在の新宿区大久保1-1-17、新宿区指定史跡「小泉八雲終焉の地」)。なお『小泉八雲舊居跡』の碑は、昭和25年(1950)八雲生誕100年を記念して東京八雲同人会が建立したものである。碑文は英文はイギリスの詩人エドモンド・ブランデン(1896~1974)、和文は英語学者・随筆家の市川三喜(1886~1970)によるものである。

引用サイト:新宿区観光協会  こちら

コリアタウン新大久保

引用サイト: こちら





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2023.02.06 00:00:19コメント(0) | コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: