東方見雲録

東方見雲録

2024.01.20
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カテゴリ: 教育
北方領土
17世紀前半には、蝦夷地えぞち(北海道)の南部を支配していた松前藩が北方領土ほっぽうりょうど(歯舞群島はぼまいぐんとう、色丹島しこたんとう、国後島くなしりとう、択捉島えとろふとう)や樺太からふとについて調査を行っていたこともあって、江戸幕府が作成した地図には、国後島、択捉島、得撫島ウルップとうなどの島名が書かれていました。

こうした島々では、18世紀の半ばから、ロシア人が進出し、日本人の住民との間で対立が起こっていました。そこで幕府は、これらの島々を直接統治すると決め、国後島から択捉島までの調査を行い、択捉島に「大日本恵登呂府えとろふ」と書いた標柱を立てました。1801年(享和きょうわ元年)には、約100人の南部藩と津島藩の兵隊を常駐させて、これらの島々を守備しました。

1855年(安政あんせい元年)には、幕府はロシアとの間で日露和親条約にちろわしんじょうやくを締結し、択捉島と得撫島の間に国境が定められ、北方領土(歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島)は名実ともに日本固有の領土になりました。 樺太については、国境を定めず、両国民の混住こんじゅうの地としました。

明治に入った 1875年(明治8年)には、樺太・千島ちしま交換条約を締結 し、日本が樺太を譲ることと引き換えに、得撫島より北の千島列島ちしまれっとうの島々を日本の領土とすることになりました。

その頃、日本人が開拓を進めていた北方領土では、多くの日本人が移住し、海産物の加工や畜産などが行われるようになりました。1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終結時には、約1万7000人の日本人が暮らしていました。

第二次世界大戦後の占領から独立するために、 サンフランシスコ講話条約が締結されると、千島列島を放棄することになりましたが、北方領土は放棄に含まれなかったため、これまで通り、日本の領有権が維持されました。

しかし、1945年(昭和20年)にソ連が国際法に違反して北方領土を侵略し、北方領土を不法占拠していたため、戦後、日本の実行支配が及ぶことはありませんでした。日本政府は、日本固有の領土である北方領土を不法に占拠したソ連に抗議しましたが、返されませんでいた。

その後にソ連が崩壊し、ロシアになった後も北方領土に対する不法占拠は続きました。日本政府は、ロシアに抗議し、北方領土を返還するよう求めていますが、未だに返還されていません
(2022年現在)。

1980年(昭和55年)には、日露和親条約が締結された2月7日を「北方領土の日」とすることが国会で決まりました。





竹島
島根県の隠岐島おきのしまの北西にある竹島たけしまは、古くは「松島まつしま」と呼ばれていました。

17世紀初期から江戸幕府が鎖国政策さこくせいさくの中で、竹島への渡航とこうを認め、あしか猟りょうが行われるようになりました。

竹島(松島)でのあしか猟は、明治時代の終わり頃から本格化し、多くの漁民が猟を行うようになり、民間の竹島利用がさかんになりました。

こうした中、 隠岐島民が、安定した猟のために竹島を島根県に編入することを政府に願い出ました。これを受けて政府は、1905年(明治38年)1月に竹島の編入を閣議決定して、正式に「竹島」と命名し、名実ともに日本固有の領土となりました。

こうして政府は、竹島の領有の意思を再確認しました。

竹島でのあしか猟は、戦争がはじまる1941年(昭和16年)まで続きました。

第2次世界大戦後の サンフランシスコ講和条約においても、韓国は竹島の領有権を主張しましたが、日本固有の領土であることが認められ、日本の領有権は維持されました。
しかし、 竹島の領有権を主張する韓国は、1952年(昭和27年)、国際法に違反して日本海上に一方的に李承晩ラインを引き、ラインを超えたとする日本漁船を銃撃じゅうげき・拿捕だほ・抑留よくりゅうしました。1954年(昭和29年)には、韓国が竹島に沿岸警備隊を派遣し、竹島を侵略して、竹島を不法に占拠しました。 李承晩りしょうばんラインが廃止されるまでの間に、約4000人もの日本人が抑留よくりゅうされ、おびただしい数の人々が殺害されました。

日本政府は、こうした韓国の行動に対して厳しく抗議し、国際司法裁判所こくさいしほうさいばんしょへ付託ふたくして決着をつけることを1954年以来から提案していますが、韓国が応じていません。

竹島の不法占拠は、2022現在まで続いています。2005年(平成17年)には、島根県議会が竹島の編入を告示した2月22日を「竹島の日」と定めました。


追記
島根の主張「竹島は日本の領土です!」 こちら


尖閣諸島


1885年(明治18年)から日本政府は、尖閣諸島について沖縄県を通じて現地調査を行い、無人島であることや当時の清をはじめとするどこの国の支配も及んでいないことを慎重に確認した上で、1895年(明治28年)に尖閣諸島を編入し、日本の領土であることを示す標柱を立てることにしました。こうして尖閣諸島は、日本固有の領土になりました。

尖閣諸島では、19世紀末から日本人による開拓が本格化し、多くの人々が移住しました。多い時には、200人以上の人々が暮らしていました。

中心となった魚釣島では、「古賀こが村」という集落も生まれ、尖閣諸島の開拓が進みました。漁業を中心に、かつお節の製造や羽毛の採取などが行われてきました。

こうした尖閣諸島に対する実行支配は、現在も及んでおり、領土問題は存在しません。


1970年代ごろから日本固有の領土である尖閣諸島の海域に油田の存在が確認されると、中国などが領有権を主張するようになりました。

そして2010年には、中国の漁船が、尖閣諸島の魚釣島うおつりじまの海域で日本の海上保安庁の漁船に衝突する事件が起きました。

その後、 2012年に尖閣諸島のほとんどを日本政府が国有化したものの、中国は、国際法に違反して武装ぶそうした中国船を尖閣諸島の海域に侵入させ、日本漁船を追尾して脅迫に近い行動に出るなど、地元の人々は中国の脅威きょういに警戒しています。

^ 領有権とは、国が一定の地域に対して主権を行使することができる権利のことです。領有権は、通常、早い者勝ちですが、領土問題に発展することを避けるため、条約に基づいて行われる事例やどこの国の支配も及んでいないことを調べてから行うこと例もあります。

こちら


画像サイト:Wikipedia情報   こちら

文引用サイト:wikibooks   こちら
追記
都の取組
尖閣諸島については、2012年(平成24年)4月に石原元都知事が東京都による購入と活用を発表し、これに賛同する都民・国民から14億円を超える寄附金が集まりました。
同年9月2日、都は不動産鑑定のための現地確認及び活用方策検討に向けた基礎的調査を目的として、洋上から現地調査を行い、地元漁業者のための施設の設置や、自然環境の保護などの必要性を確認しました。
同年9月11日に島々は国の所有となりました。都は、尖閣諸島の所有者となった国に島々の活用について働きかけることとし、会計年度を越えて寄附金を厳格に管理していくために「基金」を設置しました。
今後は、この基金を国に託すため、石垣市など地元自治体とも連携し、国への提案等を行いつつ、国の動向を見極めながら、寄付金を寄せていただいた都民・国民の皆様の志が活かされるよう対応していきます。
引用サイト: こちら
・・・・

沖縄
琉球王国の成立。昔、沖縄は独立国だった
12世紀、各地を有力者である按司がおさめていました。
しかし、14世紀になると沖縄本島は北山・中山・南山の三つの勢力にまとめられます。(三山分立)
そして、1429年に三山の一つの中山王尚巴志が沖縄本島を統一し琉球王国が成立しました。尚巴志は宮古を首里城に置きました。

琉球王国の立場。薩摩藩と明・清両国に従う微妙な立場
薩摩藩は琉球が行っていた明との貿易(明が滅んだ後は清)の利益を確保しようと考えます。
しかし、薩摩藩は琉球と違い幕府に無断で明と貿易することはできません。
そこで、琉球王国を完全に滅ぼすことはせず、琉球に貿易をさせてその利益を取り上げることにしました。
そのため、琉球王国は貿易の上では明に貢物をささげて従い、実際には日本の薩摩藩の支配を受けるという両属という微妙な立場になってしまいました。

幕末の琉球王国。琉球も欧米列強の脅威にさらされていた!
幕末のころになると、琉球王国に欧米各国の船が訪れるようになりました。欧米諸国は琉球に開国を迫ります。ペリーもその一人です。
ペリーは首里城に入城し国王に米大統領からの書簡を渡して開国を迫りました。
日米和親条約を結んで帰国する途中、ペリーは再び琉球に立ち寄り琉球を開国させました。


(琉球藩の印 出典:Wikipedia)
幕末以降、日本は欧米列強の脅威にさらされてきました。
もっとも急がなければいけなかったのはどこまでが日本の領土かという国境を決めることでした。
明治維新でできた新政府は、国境線を確定させていきます。
そして、ロシアとの交渉で択捉島以南を日本領とし、小笠原諸島の領有宣言を行ったりしていきました。
結局、日本と清のどっちつかずの状態になっていた琉球についても国境確定の対象になったのです。

新政府は、それまで独立国として扱ってきた琉球王国を日本の領土として扱い始め、1872年に琉球王国は琉球藩とされます。
藩とすることで琉球が日本の一部であると外国にアピールしたのです。

琉球藩と清国の関係
琉球王国の時代、清国に対してたびたび使者を派遣していました。進貢使です。
政府は「琉球藩には外交権がないから、勝手に清国に使いを送ってはいけない。清とは絶交しなさい」と命令します。琉球藩は清国との関係存続を政府にお願いしましたが、政府は拒否しました。

沖縄県の設置
1879年、ついに日本政府は実力行使に踏み切ります。
軍隊と警察を琉球に派遣し首里城の明け渡しを迫りました。
琉球藩王の尚泰は明け渡しに応じ、これと同時に琉球藩の廃藩と沖縄県の設置が宣言されました。 この琉球王国を日本国に併合する一連の流れを琉球処分といいます。

沖縄県設置後の領有問題
緊張した日清両国は1880年に沖縄に関する交渉をします。

アメリカの元大統領のグラントが間に立って調停。グラントが出した案は次の通りです。
アメリカの案
①沖縄を2つにわけ、先島諸島は清国に譲る
②日清修好条規を改めて、日本にも欧米と同じ特権を認める

これに対して、清国代表の李鴻章は次の案を提案しました。
清国の案
①沖縄を三分割し、先島諸島は清の、奄美諸島は日本の領土する
②沖縄本島は独立させる

交渉の結果、日清両国はグラントの案で合意します。
しかし、清国が調印しなかったのでグラント案は結局、廃案になりました。

その後 最終的には、日清戦争で日本が勝利し、先島諸島を含む沖縄全島を日本が領有することでこの問題は決着しました。

引用サイト:nihonsi-jiten   こちら

小笠原諸島
1876(明治9)年10月
小笠原島の日本統治を各国に通知(日本の領有権が確定)


引用サイト: こちら

小笠原諸島の近現代史—国家に翻弄された移住民の島々
1876年、明治政府は欧米諸国の同意を得て、小笠原諸島の領有を成功させる。 父島や母島に住んでいた「外国」出身の先住者は全員、82年までに「日本臣民」として帰化させられた。だが彼らは、日本当局から「帰化人」というカテゴリーで掌握され、特別な治安管理の対象とみなされた。

その後、20世紀初頭にかけて、小笠原諸島には日本本土や伊豆諸島から移住者が殺到し、その人口は急増していった。サトウキビ栽培と製糖が主産業として定着し、営農の基盤が安定したからである。こうして小笠原諸島は、「南洋」へと拡大を図る日本帝国において、植民事業の成功モデルとなっていった。
・・・・
日本の敗戦後、硫黄列島を含む小笠原諸島は、米海軍の直接占領下に置かれた。1946年、米国は日本領有以前から小笠原諸島に居住していた先住者の子孫とその家族(「欧米系」島民)に限って父島での再居住を許可し、これに応じた約130名が帰島を果たした。
・・・・
68年、小笠原諸島の施政権が日本に返還され、父島からは米海軍が撤退し、四半世紀近くも帰還が許されなかった小笠原諸島民にも、ようやく父島・母島での再居住が認められた。他方で日本政府は、米空軍が撤退した硫黄島に直ちに自衛隊を駐屯させ始めた。そして政府は、北硫黄島を含む硫黄列島全域を復興計画から除外し、島民の再居住を事実上阻んでしまった。
引用サイト: こちら

明治8年・1875年、「明治丸」は小笠原諸島へ派遣された。 小笠原諸島は江戸時代に回収が行われ、八丈島からの入植も行われたが、その後日本人は撤収していた。様々な問題を抱えていた明治政府もしばらく小笠原問題には手を出せなかったが、明治8年10月になって小笠原へ外務省の田辺太一ら委員10名を派遣することとなり、「明治丸」が派遣船に選ばれた。委員を乗せた「明治丸」は明治8年11月21日に父島へ向かい、11月24日に父島二見湾に到着。再回収は問題なくなされ、「明治丸」は12月12日に父島を離れて12月16日に横浜に帰還した。
引用サイト: こちら

関連日記:2024.01.20の日記 こちら





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Last updated  2024.01.20 09:45:24
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