東方見雲録

東方見雲録

2025.04.20
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カテゴリ: 郷土



参考サイト:陸海軍飛行場探訪11 ~美保海軍航空基地/美保海軍航空隊 こちら
美保海軍航空基地の建設が開始されたのは昭和14年(1939)10月でした。島根県と接する鳥取県西部の弓ヶ浜半島の広大な桑畑地帯に設けられることになり、昭和17年(1943)10月に飛行場機能が創設されました。

飛行場建設は拡張工事を始めとして昭和20年(1945)代まで行われましたが、昭和18年(1943)10月には予科練の教育を行う美保海軍航空隊(以後“一空”)が開隊し、甲飛13期1,200人を受け入れて教育が開始されました。

以後、飛行機乗りを夢見て15,6歳の少年たち約1万人がこの地で訓練に励みましたが、戦争末期の昭和20年になると教育どころではなくなり、在籍していた練習生は飛行場建設や防空壕掘りに従事したり、特攻隊員や設備要員として転出することになりました。6月には予科練教育が凍結、各地の教育航空隊は解隊されることになり、美保海軍航空隊は6月30日に解隊しました。


一方、海軍飛行予備学生や予科練卒業生の教育を対象とした第二美保海軍航空隊(“二空”)が昭和19年(1944)1月に開隊し、練習機「赤とんぼ」を用いて操縦訓練が行われましたが、昭和20年には一空と同じ運命を辿り、保有機は奈良県の柳本飛行場(のち大和海軍航空隊)に転出し、二空は2月11日に解隊、短い生涯を終えることになりました。


さて、主な美保の航空隊は上記2つでしたが、美保飛行場は昭和19年後半から特攻隊の兵站基地となったことで、滑走路は大小4本に拡張され、飛行機の格納掩体をはじめ、爆弾庫や魚雷調整庫など戦闘に供する様々な施設が増設されました。

航空隊の駐留も非常に多く、特攻隊が訓練ののち南九州に飛び立ったり、戦力回復のため一時退避する部隊もありました。

第801航空隊(もと横浜航空隊)の偵察隊(二式飛行艇)や哨戒隊(一式陸攻)、第762航空隊の攻撃隊(銀河、のち大社基地に移動)などが駐留しましたが、昭和20年6月には801空の司令部が美保に移動してきました。



終戦後は連合軍の接収ののち民間機が就航、昭和33年(1958)には航空自衛隊美保基地が開庁されました。これ以後、民間の米子空港と自衛隊基地が滑走路を共用する形で今に至っています。
・・・・



引用サイト:美保海軍航空基地/美保海軍航空隊(鳥取県米子市/境港市)その1  こちら
関連サイト:美保海軍航空基地/美保海軍航空隊(鳥取県米子市/境港市)その2   こちら
関連サイト:美保海軍航空基地/美保海軍航空隊(鳥取県米子市/境港市)その3   こちら
ちょっと寄り道
関連サイト:大社海軍航空基地   こちら



戦争末期の昭和20年(1945)3月、新川航空基地(第一新川、のち大社基地に改称)の建設工事が開始されました。

建設場所は廃川となっていた新川(しんかわ)の河川敷を中心とする一帯でした。この川は江戸時代に開削した斐伊川の放水路でしたが、洪水被害を招いたため昭和14年に廃川となりました。廃川後は直線的な平坦地が残っていたため、滑走路を作るには好都合だったのでこの地が選ばれました。ちなみに下記に掲載した1947年の空撮には新川のラインが明確に確認できます。最初見た時は何よこれ?と思いましたが(^^;

なお宍道湖に流れ出る新川の河口には、昭和41年(1966)に開港した出雲空港(出雲縁結び空港)が置かれています。

さて、飛行場の建設は海軍の第338設営隊を中心に、米子の美保基地の予科練生や地元民を駆り出して突貫工事で行われました。6月上旬には滑走路や飛行機掩体が完成をしましたので、7月初めには第762航空隊の本部と攻撃501飛行隊の爆撃機「銀河」が宮崎基地より移駐し、終戦直前まで訓練や出撃を行いました。




また同じく6月から、応急離陸場として第二新川基地(のち直江基地、直江牧場に改称)の新設工事が始まりました。第二新川は、6月17日付「新設秘密航空基地施設要領」に基づく秘密基地で、「牧場」と言う秘匿名称で呼ばれていました。主に特攻機の分散秘匿及び攻撃のための飛行場で、滑走路建設とともに特攻兵器の「桜花」の格納所も設けられましたが、使用される前に終戦となりました。

1947年の空撮にて第一と第二の位置関係を確認します。廃川となった新川のラインもしっかり確認できますね。


ところで航空基地の名称ですが、建設開始の3月から6月ごろまでは「新川基地」と呼ばれていましたが、「第二新川基地」の建設が始まると、「第一」と頭につけられて区別されるようにもなりました。さらに6月末以降の史料および戦後すぐに取りまとめられた資料では、第一新川は「大社基地」、第二新川は「直江基地(もしくは直江牧場)」となっていますので、おそらく6月末ごろに改称されたのではないかと思われます。

最後にもう一つ。

戦後すぐに纏められた史料を見ると、大社基地の建設年が「1944」となっています。大社基地の建設を手掛けた設営隊の戦時日誌に昭和20年(1945)3月~6月の建設で書かれていますので、1944は書き間違いかと思うのですが、、、。


大社基地の周辺です。


飛行場施設の仕様は以下の通りです。

・滑走路:1700m×120m、うちコンクリート舗装1500m×60m 厚さ10㎝

・誘導路:転圧舗装一部厚7.5cm、板張舗装幅15m

・掩体:転圧舗装 大型機用22個

・隧道燃料庫:6坑

・隧道魚雷用:7坑(同時7本調整可、同時72本格納可)

・隧道爆弾用:3坑(800㎏爆弾300発格納可)

・応急離陸場(直江基地):600m×30m 芝植付 真土転圧仕上 厚12~15cm

新川の河川敷に南西から北東にかけて主滑走路が1本設けられており、その東側に誘導路と掩体群、さらに山あいに数多くの隧道および兵舎が置かれました。

大社基地には主に第762海軍航空隊攻撃第501飛行隊が駐留していましたが、史料に残る終戦時の機体は以下の通りです。

・銀河11型:30機

・銀河16型:12機

・96式陸攻:1機

・キ67(陸軍爆撃機「飛龍」):1機

・特攻兵器「桜花」:分解した状態で50機分の部品

宇佐市平和資料館に展示の桜花レプリカ。

桜花は自力で出撃できないため、一式陸攻に吊るされて目標付近で分離、ロケット点火で敵艦に体当たりすると言うものでした。戦争末期には母機を銀河とする改良が進められていましたが、実戦に投入される前に終戦を迎えました。

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さて、遺構については滑走路の一部と多くの隧道が残っていますが、今回確認したのは滑走路のみです。と言うのも、訪問した時は飛行場探索をするつもりがなく、近くを通ったのでとりあえず見ておこうかと立ち寄っただけでした(^^;

そんなわけで、隧道の類はいつかあらためて探索したいと考えています。

戦後滑走路跡地は陸上自衛隊の訓練場となりましたが、1970年代以降は民間への売却や町に譲渡されたりしました。その結果跡地の一部に建物が建ちましたが、近年までは長さ600m以上が手つかずのままで残っていました。

ところが2021年に国有地だった滑走路跡地の大部分が民間業者に売却され、各種団体が史跡指定を要望するも叶わず、宅地造成の工事が始まってしまいました。

1976年の空撮。この状態で近年まで残っていたのは奇跡ですよね。


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では2023年3月の訪問時の写真を掲載します。

説明看板後方の建設中の建物の場所が滑走路跡地です。



説明看板。


コンクリート舗装は剥がされ絶賛建設中。今は完成しているでしょうね。


滑走路南西端の一部は現存しています。


滑走路北東側にもコンクリート舗装は現存しているようですが、部分的に残しつつ戦争遺跡として後世に伝えていくしかないのでしょうね。





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Last updated  2025.04.20 09:00:11
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