教授のおすすめ!セレクトショップ

教授のおすすめ!セレクトショップ

PR

Profile

釈迦楽

釈迦楽

Keyword Search

▼キーワード検索

Shopping List

お買いものレビューがまだ書かれていません。
November 13, 2021
XML
カテゴリ: 教授の読書日記
昨日、『中日新聞』に書評が出る~と浮かれていましたが、どうやら書評ではなく、新刊紹介だった模様。ちょっとがっかり。まあ、それでも紙面に名前が出るだけでもありがたいと思わなくちゃね・・・。


 さて、アーネスト・ベッカーという人の書いたピューリッツァー賞受賞作、『死の拒絶』という本を随分時間をかけて読んだのですが・・・結果から言うと、読めませんでした。つまり、内容が全然理解できなかった。こちらも、ちょっとがっかり。

 いや、内容が理解できなかったのは、この本が悪いのではなく、ワタクシ自身の力不足。これを読むには、もうちょい――ではなく、もっとずっと――哲学(特にキルケゴール)とフロイト心理学、及びユングやオットー・ランクなどフロイトの後継者たちについての知識が必要でした。それらがないと、とても歯が立たない。

 しかも、ワタクシはそういう哲学系の言説に、まったく興味が持てないということも分かった。いや、前から知ってましたけど、あらためて。

 というわけで、この本に何が書いてあるのか、ほとんど理解していないんですけど、ほーーーんとうに大雑把に一言でまとめると、人間にとっての最大の不安ってのは死の不安であり、その意味するところは、精神的な面では、人間はどんなことでも思考できるという意味で、小さな神とでも言える存在なのに、その偉大なる精神が、何の価値もない、放っておけば腐る他ない肉体の中に閉じ込められていて、その点では無価値と言ってもいい。つまり、神とクソが不可分に一緒になっている状態こそが人間の本質なのであって、このディレンマこそが、人間を他の動物と区別するものでもあり、また人間にとって最大の悩みでもある。
 とはいえ、人間ってのは、常に常に「死ぬのは怖い~」などとビビっていられないので、どこかでそれを抑圧している。その結果、人間は「自分だけは死なない」というナルシシズムに陥っており、それが人間の幸福の元にもなる。極論すれば、人間の幸福とは、自分にではなく隣に立っていた兵士に敵の弾が当たることである。で、それほど人間にとってナルシシズムは重要なので、人間はあらゆるレベルで他人より優れていることを、つまり、自分がヒーローであることを証明しようとする。だから、ヒロイックであることの追求は、人間にとって完全に自然なことである。そして社会/文化とは、このヒロイズムを表現するシステムである。例えば、巨大寺院などは、人間が作り出す価値の永続性への希求の象徴であって、その意味で、すべての社会は宗教的であるとも言える。また現代社会の問題点は、若者が従来のヒロイックたるものの象徴を、もはやヒロイックであると思えなくなっていることから生じるとも言える。

 ・・・とまあ、そんなことを前提として、ではこういう状況について、フロイトとその後継者たちはどう理解していたのか、ということを論じる――それが本書の狙い・・・なのではないかと。

 でも、そこから先の細かい話には、ほとんどついていけませんでした。残念!



〇われわれがヒロイズムを扱う際、最初にやらなければならないことは、ヒロイズムの根底をあらわにし、何が人間におけるヒロイックなものに固有の性格と起動力を与えるかを示すことである。ここでわれわれは、まさに現代思想による偉大な再発見の一つを直ちに紹介しよう。すなわち、人間を動かす動因のうちでも主要な一つに、死の恐怖があるということである。ダーウィン以後、死の問題が進化論の問題として前面に出てくると、多くの思想家はそれが人間にとって大きな心理学的問題であることを直ちに理解した。さらに彼らは、多くの思想家はそれが人間にとって大きな心理学的問題であることを直ちに理解した。さらに彼らは、シェーラーがまさに世紀の変わり目の一九○○年に、ヒロイズムはまず何よりも死の恐怖の反映であると書いたときに、真のヒロイズムが何に関するものであるかをすばやく理解した。われわれは死に敢然と立ち向かう勇気をもっとも賞賛し、そのような勇気にもっとも高く、もっともゆるぎのない尊敬を捧げる。そうした勇気にわれわれが心中深く感動するのも、われわれが自分だったらはたしてどのくらい勇敢になれるかという疑念を抱いているからである。われわれはある人が自分自身の終焉に雄々しく立ち向かっているのを見るとき、われわれは想像できるかぎり最大の勝利のリハーサルをしているのである。したがって、ヒーローは、おそらく種としての人間の進化が始まって以来、人間の尊敬と歓呼をもっとも受けるものであった。(中略)
 十九世紀には人類学と歴史学もまた、原始、古代以来のヒロイックなものの像を集大成する研究に着手した。ヒーローは霊界、死者の世界に入っていき、生きて還れる人であった。彼は、死と復活のカルトである東地中海地方の神秘的なカルトの中にその後裔をもっていた。これらのカルトのそれぞれが擁する神としてのヒーローは、死者の世界から蘇った人間であった。そして今日われわれは、古代の神話や儀式の研究から、キリスト教そのものがこうした神秘的なカルトの競争相手であり、最後に勝利をおさめえたのは、まず何よりもそれ自体、死者の世界から蘇り、超自然的な能力をもつ信仰療法家を呼びもににしていたからであることを知っている。復活祭の大きな歓喜は「キリストが蘇った!」という歓声であり、これは神秘的なカルトの信者が死に対する勝利の儀式で演じた同じ喜びの繰り返しである。G・スタンリー・ホールがきわめて適切に述べたように、これらのカルトは死と死の恐怖という最大の悪を洗い流す「斎戒沐浴」を遂げようとする試みであった。歴史上のあらゆる宗教は人生の終焉にいかに耐えるかというこの同じ問題に取り組んだ。ヒンドゥー教や仏教のような宗教は再生を望まないふりをするという巧妙なトリックを演じた。これは、本当にいちばん望んでいることは望まないと主張するという、一種の裏返しの呪術である。哲学が宗教を引き継いだとき、宗教の中心問題も引き継いだのであり、死は、ギリシャでの哲学発祥からまさしくハイデッガーや現代の実存主義にいたるまで、真の「哲学の霊感(ミューズ)」となったのである。(32-34)

〇しかし、もっと重要なのは抑圧がどのように働くかということである。それは生のエネルギーに敵対する単なる否定的な力ではない。抑圧は生のエネルギーを糧として、それを創造的に利用している。私は、拡張しようとする有機体の努力によって恐れが自然に吸収される、ということを言いたいのだ。自然は、有機体の中に生まれながらの健全な心を作りあげたように思える。それは、自分を楽しんだり、自分の可能性を世界に広げる喜びを感じたり、事物を世界に統合したり、無限の経験を糧にするとき、姿を現わす。これは多くの非常に肯定的な経験であって、強力な有機体はこの経験をしながら行動するとき、満足を与えられる。かつてサンタヤナが述べたように、ライオンは神が自分の味方であることを、ガゼルよりも確信しているにちがいない。もっとも基本的なレベルでは、有機体は生きている経験の中で自分自身を拡張し永続させようと努めることによって、自らの脆さに積極的に対抗しようとする。有機体は生から後退するかわりに、より大きな生へ向かって進むのである。また、有機体は心を奪う活動から不必要に注意を逸らされることを避け、一度に一つのことしかしない。このように、死の恐れは注意深く無視されるか、生の拡張過程に実際に吸収されるか、どちらかが可能なようにみえる。われわれはときおり、人間のレベルにおいて、そのような活力ある有機体を見るように思われる。私はニコス・カザンザキスの『ギリシャ人ゾルバ』の人物描写を念頭に置いている。ゾルバは、心を奪う日々の情熱が臆病と死とに無頓着に勝利をおさめる典型であった。彼は彼の生を肯定する炎で、他者を浄化した。しかし、カザンザキス自身は決してゾルバではなかったし――ゾルバの性格が少々偽りのように響くのも一つにはその理由による――大部分の他の人々もまたゾルバではない。それでもやはり、どの人もライオンのナルシシズムではないにしても、実際に使えるだけの量の基本的なナルシシズムをもっている。前述のように、十分に育まれ愛されたこどもは、魔法のような全能感、自分が不滅であるという感覚、明らかに力があり確実に支えられているという感情を発達させる。彼は心底で自分が永遠であると想像することがある。彼が自分自身の死という観念を容易に抑圧するのは、この観念に対してナルシシズム的な生命力で武装しているからだといえよう。このタイプの性格があったからこそ、フロイトに、無意識は死を知らないと述べさせたのであろう。(48-49)

〇人間は彼を自然から鋭く引き離す象徴的アイデンティティをもっている。彼は象徴的自己であり、名前や生活史をもつ被造物である。彼は自然の外に舞い上がって原子や無限を思索する精神をもつ創造者であり、想像力により自分自身を空間の一点に位置づけたり、自分の惑星を沈思黙考できる創造者である。この広大な広がり、この器用さ、この霊妙さ、この自己意識は、ルネッサンスの思想家たちが知っていたように、自然における文字どおり小さな神の地位を人間に与える。
 だが、同時に、東洋の賢者も知っていたように、人間は蛆虫であり、蛆虫の餌食である。これが逆説なのである。人間は、自然の外にいると同時に、自然の中に絶望的にとらえられている。彼は二元的なのである。天上の星にいながらも、かつて魚のものであり、そのことの証である鰓の痕跡をいまだにとどめている心臓がポンプの役割を果たし、呼吸にあえぐ肉体に宿っているのである。彼の身体は多くの点で彼と相いれない肉を素材とする包装である――もっとも腑に落ちずいまいましい点は、身体が痛み、血を流し、やがて朽ちて死ぬことである。人間は文字どおり二つに分裂している。彼はそびえ立つ威厳をもって突出しているという、自分自身のすばらしい独自性を認識しているが、目も見えず口もきけずに朽ちはて、永遠に消滅するために、地下二、三フィートのところに戻るのだ。それは人間にとり、その中に生れ落ち、生涯の同伴者としなければならない恐るべきディレンマである。下等動物は象徴的アイデンティティやそれに伴う自己意識をもっていないので、もちろんこの苦痛に満ちた矛盾を免れている。それらは本能に駆り立てられるままに単に反射的に行為し行動するにすぎない。それらが休止することがあっても、それは肉体の休止にすぎない。内面ではそれらは無名で、それらの顔でさえ名前をもたない。それらは時のない世界に生きていて、いわば口のきけない存在の状態で脈打っている。このために、バッファローや象の群れ全体を撃ち殺すことがそんなにも簡単なのである。これらの動物たちは死が生じつつあることを知らないので、他の者が傍らに倒れるあいだも落ち着いて草を食べつづけている。死を知ることは反省と概念によるのであり、動物はこの知識をもっていない。それらは無頓着に生き、無頓着に消滅する。二、三分の恐怖、二、三秒の苦悶、それで終わりである。しかし、夢や全盛期にさえつきまとう死の運命とともに生涯を生きること――それは別のことなのだ。
 あなたがこの逆説の重み全体を精神と感情に深く沈めてみるときはじめて、動物が存在するにはそれがどんなに我慢ならない状況であるか理解することができる。人間の条件を完全に理解することは人間を狂気に駆りたてる、と考察する人は正しい、文字どおり正しいと私は信じる。ときどき、鰓や尻尾のある赤ん坊が生まれるが、このことは公表されずにもみ消されてしまう。われわれには理解しがたい世界で爪で引っかき息を切らして呼吸しているわれわれと同じ被造物を、誰が真正面から見たいと思うだろう。そのような出来事はパスカルのぞっとするような省察、「人間が狂気となるのはきわめて必然的なので、狂気でないことは別の形態の狂気に等しいことになる」の意味を例証していると思う。必然的というのは、実存的二元性が我慢のならない状況、責めさいなむディレンマを生み出すからである。狂気というのは、のちに見るように、人間が象徴的世界ですることはどれもこれも、自分のグロテスクな運命を否定し克服しようとする営為だからである。彼は社会的勝敗、心理的トリック、個人的に没頭している関心事によって盲目的な忘却に文字どおり自分自身を駆りたてる。それらは彼の状況の現実とははるかにかけ離れているので、狂気の形態をとる――合意された狂気、共有された狂気、偽装され、威厳をつけられた狂気であるが、すべて狂気には変わりない。(中略)最近では、エーリッヒ・フロムが次のような疑問を投げかけている。たいていの人々が、時間を超えた事物の構成において無限の価値を人間に与えるようにみえる象徴的自己と、九八セントほどの価値しかない身体との間の実存的矛盾に直面して、狂気にならないですむのはなぜか、と。両者を和解させる方法は何か。(56-58)

〇晩年になりフロイトが、かつてのアードラーのように、こどもを本当に悩ませるのは彼の内面の衝動というよりは彼の世界の本質である、ということを理解するようになったのは明らかである。フロイトはエディプス・コンプレックスの力について語ることは少なく、「自然の恐るべき力に直面した人間の困惑と無力感」、「自然の恐怖」、「死という苦痛に満ちた謎」、「生命の危機に直面したときのわれわれの不安」や「救済の術のない運命の偉大な必然性」について語ることが多かった。そして、事が不安という中心問題に至ったとき、彼は――初期の著作で彼が述べたように――こどもの存在が本能的衝動によって内側から圧倒されるとはもはや語らなくなった。そのかわり、フロイトの定式は実存的になった。不安はいまや主として全面的な無力さ、自己放棄、運命への反応の問題と考えられるようになった。

 ”したがって私は次のように主張する。すなわち、死の恐れは去勢の恐れと類似物と考えるべきであり、かつ、自我が反応する状況は保護者である超自我――運命の力――から見放され見棄てられる状態であり、このためにあらゆる危険に対する安全に終止符が打たれることである。”

 この定式は視野の大幅な拡大を示している。この定式に一ないし二世代の精神分析学の臨床研究を加えることによって、われわれは、こどもを本当に悩ませているのは何か、いかに生がこどもにとって本当にやりきれないものであるか、こどもがいかにして過剰な考えや過剰な知覚や過剰な生を回避しなければならないかという問題について、著しく信頼できる理解に達した。そして同時に、子供がいかなる楽しい活動にふけっているときでも、その背後やすぐ下でとどろいている死、遊んでいるときにも肩ごしに覗いている死をいかに回避しなければならないかについても、同じことがいえる。その結果、われわれはいまや、人間という動物がそれから保護されている二つの大きな恐れを特徴としていることがわかっている。それは、生の恐れと死の恐れである。人間の科学において、これらの恐れを浮き彫りにして、自分の思想体系全体の基礎をこれらの恐れに置き、人間の理解にとってそれがどんなに中心となるかを示したのは、他の誰にもましてオットー・ランクであった。ランクがこの点について書いていたとほぼ同じ頃に、ハイデッガーはこれらの恐れを実存哲学の中心に据えた。彼は、人間の基本的不安は世界内存在の不安であると同時に、世界内存在についての不安であると論じた。すなわち、それは死の恐れと生の恐れの双方であり、経験と個体化の恐れである。(93-95)

〇キルケゴールの人間観の土台は堕罪の神話、つまりアダムとイヴのエデンの園からの放逐である。われわれが見てきたように、この神話には、人間は自己意識と生理的身体という対立物の結合であるという、いつの時代にも妥当する心理学の基本的洞察が含まれている。人間は下等動物の思考力を欠く本能的な行動から脱却し、自分の条件を反省するにいたった。彼は万物の中で自分が個性的であり、部分的に神性をもっているという意識、つまり自分の顔と名前は美しくユニークだという意識を与えられた。同時に彼は、世界の恐怖と自分自身の死や腐朽の恐怖という意識も与えられた。この逆説は歴史や社会を問わずあらゆる時期の人間に真に不変のものである。フロムが述べたように、かくしてこれこそ人間の真の「本質」である。われわれが見たように、現代の優れた心理学者たち自身、それを彼らの嗜好の礎石としてきた。しかし、キルケゴールはすでに彼らに助言していたのである。「心理学はこれより先へは進めない・・・けれどもさらに心理学は、人間生活の観察において、この点を再三証明できるのである。」
 自己意識への転落、自然における心地よい無知から出現したことは、一つの大きな罰を人間に加えた。それは人間に不安を与えた。キルケゴールが言うように、動物には恐怖が見られないのは、「まさしく動物は本質的に精神として想定されていないからである」。「精神」を「自己」あるいは象徴的な内的アイデンティティと読み替えよ。動物はこういうものをいっさいもっていない。キルケゴールは、動物は無知であるがゆえに無垢であると述べている。しかし、人間は「心的なものと身体的なものとの総合」であり、それだからこそ不安を経験する。ここでもまたわれわれは、「心的なもの」を「自己意識的なもの」と読み替えかえればならない。



 人間の不安は、彼の両義性そのものと、その両義性を克服してストレートに動物か天使になることが全くできない無力さとの関数なのである。人間はその運命に無頓着に生きていくことはできないし、人間の条件の外に出ることによってこの運命を確実にコントロールして勝利をおさめることもできない。

 ”精神は自分自身から抜け出すことはできない。〔すなわち、自己意識が消え去ることはありえない〕。・・・人間は植物的なものに身を落とすこともできない〔すなわち、全くの動物なのである〕。・・・彼は不安から逃れられない。”

 しかし、不安の真の焦点は両義性そのものではなく、それは人間に下された審判の結果なのである。つまり、もしアダムが知恵の木の実を食べるなら、神は彼に「汝はきっと死ぬであろう」と言うのだ。言いかえれば、自己意識の最終的な恐怖は自分自身の死を知ることであり、それは動物界では人間だけに下された特異な判決である。これこそエデンの園の神話と、現代心理学による死は人間に特有な最大の不安であるということの再発見の意味である。(118-120)

〇フロイトがその教義について間違っていたということは、ちょうどユングとアードラーがまさに当初から知っていたように、今日のわれわれにも明らかである。人間は性欲と攻撃という生まれながらの本能はいっさいもっていない。いまわれわれはそれ以上の何か、つまり現代に登場しつつある新しいフロイトを見ており、彼が人間の被造物性を暴露することに執拗に献身したのは正しかったということを理解しつつある。彼の感情的なこだわりは正しかった。それは天才の真の直観を反映している。その感情との知的な対応物――性理論――は間違っていると判明したとしてもである。人間の身体は「運命の呪い」だったのであり、そして文化は抑圧の上に築かれたのだ――それは、フロイトが考えたように人間は性欲、快楽、生と拡張だけを追求するものだからではなく、まず、死を避けるものであったからである。性欲ではなく、死の意識が第一次的な抑圧である。ランクがいろいろの書物の中で展開し、ブラウンが最近再度論じたように、精神分析に対する新しい見地は、その決定的な概念が死の抑圧であるということである。これこそ人間の被造物性の本質であり、これこそ文化構造の基礎たる抑圧、自己意識を持つ動物特有の抑圧である。フロイトはその呪いを知り、できるかぎりの力をふるってそれを明らかにすることに彼の人生を捧げた。だが皮肉なことに、彼はその呪いの厳密な科学的根拠を見逃した。(161)

〇われわれがフロイトの著作を典拠にしてこの問題をたどろうとすると、藪の中に迷い込むことになろう。彼は後期の著作では、エディプス・コンプレックスの狭い性的な公式化から離れ、むしろ生そのものの本質、人間実存の一般的な問題へ目を向けた点についてはすでに触れた。彼は父親を恐れる文化の理論から自然を恐れる文化の理論へ移行したといえるかもしれない。しかし、彼はいつものように留保していた。彼は率直に実存主義者になることは一度もなく、依然として本能理論に拘束されていた。


〇一回の地震は個人の生命の意味を一○○万回も否定できる。人類は人間の意味を彼岸から保証しようとして反撃してきた。人間の最善の努力も、正当化の源であるより高い何か、つまりある種の超越的次元から人生の意味を観念的に支えるものに訴えなければ、全く誤りやすいようにみえる。この信念は人間の基本的な恐怖を吸収しなければならないので、単に抽象的なものではありえず、情動、すなわち自分は自分自身の力と生よりも強く、大きく、重要な何ものかの中にあって安全であるという内面の感情に、根ざしていなければならない。人はあたかもこう言うかのようである。「私の生命の脈搏は衰え、私は消えて失せて忘れられる。だが、『神』(または『それ』)はとどまり、私の生の犠牲によってますます輝きを増しさえする。」少なくとも、この感情は個人にとってもっとも効果的な信念である。
 確かなヒロイックな意味を得るために、生がどれほど遠くまで到達しなければならないかという問題は、明らかにフロイトをひどく悩ませた。精神分析理論によると、こどもは生と孤独の恐怖に立ち向かう際に、まず自分が全能だと主張し、次に自分の不滅性の手段として文化的道徳を利用する。われわれがおとなになるまで、この自信に満ちた代理の不滅性は、危険に直面したわれわれの有機体の均衡に奉仕する、主要な防衛機制となる。人間をいとも容易に戦争へ赴かせる主な理由の一つは、めいめいが心の底では、やがて死ぬ隣の兵士を哀れに思っていることである。各々の兵士は自分は血を流しているというショックを受けるまで、空想の中で自分自身を保護している。(196)


 ・・・まあ、ざっとこんなところかな?

 でも、不思議なことに、抜き書きをしているうちに、ベッカーが何を言わんとしているのか、何となく分かってきたような気も・・・。気のせいか?

 ともあれ、難しい本ではありましたが、著者が(少なくとも著者自身には非常に明確に分かっている)あるメッセージを伝えようとしてこの本を書いていることはよく分かる。そういう意味では、いい本ですよ。同じベッカーでも、カール・ベッカーとはえらい違いだ。

 ということで、上に抜き書きしたことがピンとくる人には、この本、おすすめです。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  November 13, 2021 04:39:07 PM
コメントを書く
[教授の読書日記] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

Calendar

Favorite Blog

ホラー映画『ペイ・… New! AZURE702さん

季節の変わり目に ゆりんいたりあさん

YAMAKOのアサ… YAMAKO(NAOKO)さん
まるとるっちのマル… まるとるっちさん
Professor Rokku の… Rokkuさん

Comments

ハッパフミフミ@ Re:「断トツ」は何の略?(11/24) 関係ないですが、オッパイをパイオツと言…
誰も知らないCoffeeWorld@ Re:46年ぶりに、テレビ越しに、同級生と会う(11/04) O教授殿 ご無沙汰ですね。 この業界、世…
nwo69 @ Re:野崎訳 vs 村上訳 さて軍配はどちらに?!(12/30) 非常に激しく同意、しかも美味しい翻訳を…
釈迦楽@ Re[1]:母を喪う(10/21) ゆりさんへ  ありがとうございます。今…
ゆりんいたりあ @ Re:母を喪う(10/21) 季節の変わり目はなんだか亡くなる方が 多…

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: