
《ク リスチャンになろう Day 7》
神様との交わりの回復を
阻むもの 2
神様とわたしたち人間のとの交わりの回復は、昔から多くの人に言い伝えられてきた固定観念によって妨害されている場合も多いようです。それは例えばこのようなものです。
妨害2.「 どの宗教の神様も同じ
」という間違った固定観念。
ある人が、ご自身の宗教観をこのように説明しました。「 宗教とは山登りのようなもの。スタートするときは、皆それぞれに、ふもとにある別々の違う登山口から登り始めるが、結局は同じ頂上を目指しているのです。
」
しかし、残念ながらそうは現実は違う
ようです。主イエスはそのことをハッキリと教えてくれています。
「はっきり言っておく。わたしは 羊の門
である。... わたしを通って入る者
は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」(ヨハネ10:7、9)
さらには、その正しい唯一の門をくぐらずに、牧草に入ろうとするものは 「 盗人であり、強盗である
」(ヨハネ10:8)
と、厳しく戒めているのです。
山頂にたどり着く道は一つ
しかありません。登山口を間違えば、いつまでたってもふもとをグルグルとさ迷い歩くはめになるでしょう。「 どうせ、登山道がどこかで合流して、いつか頂上へはいけるだろう
」と漠然と高をくくっていては、最後には必ず失望することになります。
そのような話をすると、反発をしてこのように反論する人もいます。
「 どのような宗教であっても、確信をもって心から信じる姿勢が大切だ
」
しかし例え、心から一生懸命信じる姿勢がどれだけ美しかったとしても、 その信じる対象が間違っていたら、なんの意味もありません
。このように、美しい宗教心も持つことが目的になってしまえば、まるで、「 より宗教らしくあるために宗教をしている
」ような、単なる自己満足で終わってしまい、そこに費やされた膨大な時間とエネルギーは報われることなく、徒労で終わってしまうのです。 信じる姿勢のうわべだけの美しさでは誰も救われない
のです。
わたしが住む北九州には500-600mほどのハイキングするには程よい距離の山々がいくつもあります。一番近くにある足立山ほどの、山頂まで80分ほどで行けるぐらいの高さならば、水の入ったペットボトルをもって身軽な服装で気軽に登ることができるでしょう。
しかし、エベレスト級の山を登ろうとするときは それなりの準備と装備が必要
です。高山病にならない体作りのために、標高の高く場所に長期滞在をしながら、酸素の薄い環境でトレーニングを事前にしたり、あらかじめ天候や登山ルートを綿密に計画したり、現地のガイドを雇って道案内をしてもらいながら大勢のキャラバン隊チームで酸素ボンベや食料にテントなどの重い荷物を運んだり、その目指す頂上が高ければ高いほど、大勢と協力し助け合いながら、最善で最短のルートを外れることがないように、アイスフォールやクレバスなどで滑落することがないように、 慎重に着実に一歩づつ
踏み出していかなければなりません。
「 いつかどこかで道はつながっているだろう
」と、何の備えもなく足立山の登山口で出発しても、永久にエベレストの頂上にはたどり着くことはありません。同様に、 イエス・キリストという唯一の門を通り、神様の計画されたルートを通らなければ、誰も父なる神様のもとには到達できない
のです。
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない
。」(ヨハネ14:16)
なぜ、人は自分勝手な登山口と登山ルートで迷ってしまいやすいのでしょうか。その原因の一つには、人は皆、形あるもので目に見えるものでないと安心できない、という弱さを持っていることがあるようです。
特に日本には「 八百万(やおよろず)の神
」があると言われ、各地域ごとに土着の信仰が強く根付いています。「やおよろず」の言葉どおり八百万種類のそれぞれの神々が日本の各地で祭られ拝まれているというのです。「 いわしの頭も信心から
」ということわざがあるように、いわしの頭ですら信仰すれば尊ばれる、という風土が日本にはあるのです。太陽に「おてんと様」、月には「お月様」と言う具合に、何でも「様」をつけては、とにかく身近にある目に見えるものを神に仕立て上げて祭り拝むことで、手っ取り早く安心感を得ようとする心の現われなのでしょうか。
同じように心が定まらないイスラエルの民に、あの有名なモーセの十戎を通して、神様はこのように命令しました。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない
。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。(申命記5:7-9)
分かりやすく言い直せば、神様が用意した唯一まことの登山口を無視して、自分勝手な登山口を人間の手で作ってはならない、ということでしょう。さらに言い換えれば、木や石で人間の手で彫られた像を拝むのではなく、木や石を含む天地万物を作られた創造主そのものを礼拝しなさい、という神様から真っ先に
語られた戒めなのです。
今、唯一まことの神に立ち帰るならば、その瞬間に壊れた交わりは回復される
、と主は約束します。
もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。今後この所でささげられる祈りに、わたしの目を向け、耳を傾ける。(2歴代史7:14-15)
このように、間違った登山口を選び、間違った登山道をさ迷い歩く性質を、 聖書は罪と定めています
。主イエスは その罪をも背負って
、十字架で命を捧げてくださったのです。
わたしたちは羊の群れ、 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った
。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。(イザヤ53:6)
DAY1「100%のクリスチャンとは」
/ DAY2「唯一の特権」
/ DAY3「神様の喜びファースト」
/ DAY4「人生に立ち阻む問題」
DAY5「罪が引き起こす問題」
/ DAY6「回復を妨害するもの」