デニムデザインの虜です!

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2012.09.14
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まとめると言っても我が家の先祖の話なのだが、事の発端は以前書いた通り引っ越しをする為古い家を転居する際に屋根裏から「お宝?」がザクザクでてきた事ことにある。
「お宝」と言っても我が家家族にとってははっきり言って邪魔だった。
「掛け軸」に「書」だけで50点以上、「壺」に「印籠」「刀」に「短刀」
・・・で、中には「清和源氏」「徳川家達」の落款がある書に「三条実美」真筆の書などなど・・・。なんでこんな物が家にあったのだろうか?
・・・という疑問が発端なのである。
86歳の母に確認すると亡くなった父も祖父母も「心当たりが無いし聞いた事も無かった」と言う。
但し、口伝として代々伝わった話は残っている。
1、大昔は甲斐国(山梨県)の出身だった。
2、江戸初期は金沢にいた。
3、家系から徳川家康の側室に上がった娘がいる(生まれた子は家康の五男「松平信吉」)
4、江戸時代に当家の分家は旗本だった。
5、昭和初期父の学生名簿には「士族」と書かれていた。
以上から、江戸時代は「武士」だった事は何となく家族全員が知っていた。
しかしながら昔の事なので「眉唾もの」で誰も真実を知らなかったのである。
・・・で、ある時仏壇の整理をしていて古い過去帳を見たのだが、そこには当然ながらご先祖関係者が記載されている。
そこでそれを見ても何も気付かなかった。
なぜならば、過去帳とは死んだ人間を「亡くなった月別」に記載されているので、系統が見えてこなかったのである。
6月にも金沢に行った折「玉川(金沢)近代歴史資料館」の学芸員の方から「死んだ方々のお名前を年代別に並べ替えてみた方が良い」との事で、並べ直してみたのである。
すると一番古い先祖は「元和3年7月」に亡くなっている。
つまり西暦で言うと1617年、つまり395年前から過去帳に記載があった事になる。
ちなみに徳川家康が征夷大将軍となったのが西暦で言うと1603年、まさに徳川秀忠の頃から記載が有ったのだ。
今回はそのご先祖の死亡年代別一覧表を前述の資料館に持参し、加賀藩の「藩士記録名簿」と士族の「由緒書き」を見せてもらう事が目的だったのだが、祖先が一度金沢にいた事が幸いした。
金沢は太平洋戦争中に米軍の爆撃を逃れており、多くの古文書や資料が大量に保存されている。
その為、加賀藩に立ち寄った武士はすべて出身地からどこで?何をしていたか?その後どこへ行ったか?まできちんと名簿に残っているのである。
しかも6月の調査では金沢(加賀藩)に当家と同じ名前の士族は一家系しか存在しないので、我が家の口伝が本当ならば江戸時代の祖先の名前が記載されているはずなのだ。

結果は見事ビンゴ!
初代395年前に亡くなったの祖先の名前と、その妻の出身家名まで完全に一致した。
その次の代の祖先名も妻の名前も全く当家の過去帳と同じであり、学芸員の方に言わせれば「大変珍しい事であり江戸時代はおろか鎌倉時代まで遡って繋がる甲斐源氏一族の家系だ」と言われたのである。

しかもその古文書(由緒書き)には現代訳をすると「甲斐より1605年に金沢に来た。清和源氏甲斐○○家子孫、 加賀美遠光 の直系 御葉門 一族。松江城主松平出羽守直政より1.000石の捨扶持知行を賜る。加賀藩より150石の捨扶持を賜る。豊後松平家より200石の知行を賜る。越前松平家より知行を賜る。云々・・・と数ページの記載。」
そして名前の前には我が家の姓○○が入り「○○左喜佐衛門 源近英」(○○サキザエモンミナモトノチカヒデ)そして、「○○右近之允 源近恭」(○○ウコンノジョウミナモトノチカヨリ)と記載されていた。この代以降は江戸に上り300年以上明治時代まで四ツ谷の大御殿に居住している。
次にここで大事なのは「御葉門」の意味。
これは「源 頼朝」が清和源氏(清和天皇の子孫)な中で鎌倉幕府設立までの貢献度から、「源氏」の姓つまり「源」を名乗って良い一族として認める一族の事を指すのである。
ちなみに「御葉門」一族にあの「源義経」は取り消されているし、頼朝の家族兄弟でも「源」姓を名乗る事は許されなかったのだと言う。
「「山名・大内・加賀美・足利・武田・安田・平賀」が御葉門の一族となる。
なので、巷に聞く「うちは由緒ある源氏の子孫だ」と名乗れるのは、本当はこの家系の末裔しか許されなかったのである。
だから加賀藩の士族由緒書きには「源」の姓が追加されていたと言う事になる。
さらに驚いたのだが、我が家の祖先はどこの藩にも属していない。
普通であれば「○○藩藩士」「○○藩浪人」などと名前が付くのだ。
しかしながら日本中の松平家や大名家から数百石の「捨扶持」を貰っており、かなり裕福な生活だった事が解っているし、明治期には明治政府に官僚として務めている。
学芸員の方の話では、この我が家が代々貰っていた「捨扶持」(すてぶち)とは、幕府や大名家が「名家」の存続などの為に与えた扶持(給料)だと言う事なのだそうだ。
宮本武蔵が剣術指南役として小笠原藩から受けていた給料もこの「捨扶持」になると言う。
ようするに「働きもせず、役も無く、金は使いきれないほどありただブラブラ暮らしていた」みたいである。
この状態は昭和の初期まで続き、明治大正時代に生きた祖父は生涯仕事をしておらず一昨年亡くなった父も38歳まで仕事をしていなかった・・・。
戦争すら行っていない。理由は父が戦争で死ぬと「家の跡取りがいなくなると大変だから」との勝手な理由で親族の当時大本営にいた陸軍参謀が手配してくれたからだそうだ。
いつの時代も権力を持つ役人が役得をするのだろう?おかげで我が家は何とか続いているが。
・・・で都内の土地五ヶ所を売り払い、祖父と父二人で全ての財産を食いつぶして現在に至ると言う訳である。
都内の土地でも一つ残しておいてくれれば今頃は私も働かないで済んだかもしれないのに・・・。






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Last updated  2012.09.14 18:30:07
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