Tsunami氏寄稿、SCRAP記事、写経・感想など 326
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★★随分前になるが「継体天皇」については、故人である寺尾公男氏が「茜色に燃ゆ」(倭三国志演義)で継体天皇を取り上げた。最近の読売新聞の「日本史アップデート」で いわい教科書に出ているその「磐井の乱」が有名であることを知った。この継体天皇の生涯は寺尾公男氏の あかねいろ「茜色に燃ゆ」に詳しいが、 いわい主に「磐井の乱」の経緯で終わる。 そが はつせ あまかし くずは記載は、主に大和朝廷(蘇我、泊瀬、甘橿、樟葉、うだ みわ いわれ宇陀、三輪、磐余)や つくし やめ くま こくぶ さいとばる はやと九州(筑紫、八女、球磨、国府、西都原、隼人)や 現光陽郡 きめ きょんじゅ こそん とうらい朝鮮半島(牟婁*、金海、慶州、固城、東莱)や おきなが たんば日本海沿岸~中央へ(息長、丹波)やはりま しわく おわり 播磨、塩飽(瀬戸内海)、尾張(名古屋市)、いせ伊勢(三重県)などで,さど こし いじみ いすみ佐渡、古志(新潟県)、伊甚・夷隅(千葉県)はわずかの記載で、関東地方までの詳しい記載はないように思われる。*「馬老」(牟婁)・「曦陽」から現在の地名である「光陽」に改称。奈良県の牟婁ではない。日本書紀には、東国での「武蔵の国造りの乱」について記載があるという。 ワカタケル 継体天皇の数代前の雄略天皇の名を刻む鉄剣が出土したのは埼玉県行田市にある古墳群であり、日本国(=大和政権)では東国にも有力な勢力が存在していたことがわかる。 同族で争った豪族の墓には最大の前方後円古墳・(埼玉県行田市~132.2m)二子山古墳があり、これが大和政権の支援で勝利 みやけして、武蔵4か所を屯倉として同政権に差し出した人物だという。前方後円古墳群としては、(宮内庁の指定する古墳:太田茶臼山古墳とは異なる)いましろづかこふん継体天皇の古墳の大阪府にある今城塚古墳(約180m)、 草香王 だんぷやまこふん継体天皇の妃の父、尾張の断夫山古墳(約150m)、 いわとやまこふん磐井の乱の磐井を祀る福岡県の岩戸山古墳(約132m)などなどがある。 群馬県藤岡市~145m(150m超?)七輿山古墳~は二子山古墳に祀られた豪族(地方官「国造」の座を同族の兄弟喧嘩の弟に味方して敗れた)に敵対した、大和政権に敗れた他の関東の豪族❓かもという~思い入れらしい。★寺尾公男氏がご尊命なら、面白がったに違いないだろう。 勝者によって「歴史は作られる」というが、古代にはお互いが戦った人物でも~古代の日本では共存できたのだろうか? 埼玉県行田市 群馬県藤岡市 この二子山古墳と七興山古墳の共存がそれを物語っていないだろうか。★
Jan 28, 2024
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★ 呆け頭の小生は~朧気乍ら半世紀前の~学生時代を思い出す。 ぎんなんしょぼう 勉強嫌いの小生は、銀杏書房に出入りしていた。 というのは、小生が好きな「新しいもの」が書籍として並んでいたからである。 それは書店店内には教授達が興味のある外国の学書が購入依頼した書籍の到着順番に無造作に置かれており~小生のような「一般学生」でもみられるのであった。 高価な書籍なので~一般学生が購入するはずはないとの老婆店主の読みである。★ 最新の経済学術情報がこの店にはあった。 エコノミックジャーナルの最新号があり、本当は内容が判らないながら~エコノメトリックの最新号まであった。 本来は触れてはならないものだが~ 呆けの小生には全くチンプンカンプンだが~大先生たちが読みたい本類が並んでいたのだ。 非常に高価な書籍であり~「学者というのは金持ちでないと務まらない」ものだァ~と実感した次第である。 ・・・・ 幸いにして本代なら親父が仕送りしてくれたので~銀杏書房には出入り出来て、ハタキを気にしながら店主が雇った美女の傍で洋書を漁っていた頃を思い出す。 「Mohammed and Charlemagne 1939」 (アンリ・ピレンヌ著)も購入した本であった。 判らないながらも~英英辞書American College Dictionaryを用いて1年がかりで格闘したものであった。(小生は、辞書にもない単語がこの本には多かった のを覚えている。 ラテン語、仏語は履修していないから解らない。 ボンヤリと理解できればそれでいいのだと諦めた。) ↓ 「ヨーロッパ世界の誕生」 ー マホメットとシャルルマーニュ ー ↓”Mahomet et Charlemagne 1937 ” 増田 四郎監訳1960/8/1があったとは後で知ったのだが「何故原題を生かさなかったか」不思議である。 (「イスラム支配とカール大帝の戴冠」ではないだろうか?) 結局読まなかった~「Money,Interest and Prices 」(Don Patinkin パティンキン著)もあった。 呆けの小生にとって~大学よりも知識を吸収できたのは銀杏書房のお陰であった。 その銀杏書房も~74年の業歴を今年2月28日には閉じたそうである。 呆けの小生は~3代の学長達が閉店に当たり表彰した現店主こそ~老婆店主と共に経営に当たってきた~嘗ての美人の店員さんなのではとおもう。 老婆との関係は~娘さんだと思ったが~その方が表彰されている(と感じたい)。 小生にとっては~老婆のハタキと店員であった美女の笑顔に支えらえた~学生時代であった。 有難い話であった。 長い営業~誠にご苦労様である。★ コロナ禍の直前に亡くなられた鈴村 興太郎博士は死の直前まで~自らが購入された大量の蔵書の整理をされて大学の図書館に「鈴村 興太郎記念文庫」を寄贈されたと聞く。 銀杏書房の閉店のあとは、「鈴村 興太郎記念文庫」でその面影を偲びたい。 正確には鈴村博士の寄贈先は~ 「規範経済学文庫」 一橋大学経済研究所資料室のようです。★Webから集めてみます多摩蘭坂から一橋大学付属図書館の時計台のてっぺん駅前の喫茶 ロージナ宴会の天政守衛さんのいる正門一橋大学付属図書館★
May 9, 2021
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★ *開催要項はこの下をクリックください* 一橋大学オープンキャンパス開催要項 脳幹梗塞を患ってから、元々が呆けた小生の頭は余計に酷くなっている。 母校のオープンキャンパスがWEBであるという。 受験生への大学の紹介が基本であるから、通常はOBには参加してもらいたくないであろう。 ところが、今回は実際の混雑が予想される大学構内ではなく~~~WEBでの公開~~なので3密も防げるから、ろくろく勉強もしなかった小生でも参加はできよう。 そう思って一応参加することにした。★ 入り口>https://www.ocans.jp/hit-u/entry/ all?FID=UhbcbvIm→下をクリック 一橋大学オープンキャンパス参加申込書 一橋大学ホームページ1. 小生は「学生」でもないから、「その他」2.小生の「高校」は高知県の 片田舎の県立高校であり、 先輩も後輩も居ないから直接記入になった。3.OBとして今の学生の雰囲気を味わってみたい 旨を記入した。 9月13日(日曜日)にはWEBで参加してみよう。 それはそうと、PCが過熱しているから取り替えないと危なそうだ。 コロナ禍でプロの息子が都内から出てこないのでノートPCの過熱を相談できない。 PCが過熱でダウンしなければいいのだが・・・★「呆け頭の~受験(=”蛍雪”)時代の思い出」 小生の詰まらない受験経験から思い出そう。小生の時代にはもっとレトロ風 今から思うと、小生は高知県の勤評騒動で~~~県立高等学校の教職員の騒動の代理戦争に******駆り出された高校生の一人であった。 「先生たちに勤務状態で点数を付ける」という評定でそこには客観性がなく評定者/文科省の意向が介入し戦時中と同じような統制教育を想起する若い教育者達の虞があったようであるが~~~高知県教組40年史それ自体は高校生の熱い感情を呼び覚ました。(なんせ、土佐には、幕末の坂本 龍馬を生んだ~ <→トランプ大統領の強権と分断の政治に酷似> 外様大名:山之内による強権と差別だけで支配 じょうし ・・・武士でも上士=移転元から連れてきた家来など ~ かし 一両具足・農兵を含む ~下士=長曾我部時代からの旧来の郷士・・・ しようとした へんこつ? 封建制度への ~「反骨」精神の土壌があり、 政治的社会的矛盾には反抗する自由な気風がある。 龍馬だって~尊王攘夷から開国主義に、 受け継がれたのが そして自由な発想→自由民権~~~に転換している。) 小生は政治には鈍感なので全く関与しなかったが、頭の切れる生徒会長を中心に闘争は過激化して、勉強はそっちのけで講堂兼体育館は連日のように生徒会の集会場となり、授業はボイコットされた。*********** (小生はこの講堂でレスポールギターを横にして ~Hawaiian Guitar風にスチールバーを使って~楽天市場など 悪童仲間とマヒナスターズ張りの演奏?をした 程度です。→後日、空手の練習で指は動かない。 アンプの大音量で、誤魔化していた運針?技術で あり~聴衆にはご迷惑だったかも・・・)*********** 元々、愛犬を相手に山河を巡るのが好きな小生は、父がつけてくれた高校教師に~ときたま英語を習い、当時の「増進会」の英数科目の添削を受け続けていた。 つまり、進学者の少ない地方高校では、全国に開かれた「窓口」は「増進会添削」を通したもののみであった。増進会添削・・・小生は「英語・数学」のみだったかも 特別の志望校は勿論なく、英数のみの科目が好きであったから(白状しよう→小生の添削の順位は大体ながら全国の300位程度であったと思う。) →関西の私立校の理工学部電気工学科を受験して、何とか入学できた。*** 小生の父親・母親ともに教育者であり、 父親が自宅から通える範囲の指定高校を選ぶべき と考えたようである。 父親は後程だが、県教育界から勲四等瑞宝章の推薦 を受けているように真面目なタイプである。*** しかし、詰まらないことで大学の授業に反感を持った。 小生は中学時代からテニス(軟式)を続けていたから体育学科ではテニス(硬式)を選びたかったが、このマンモス大学では、選べなかった。 きぬがさ (この衣笠にある大学での 唯一の~懐かしい記憶は~ 1.素晴らしい演奏をしていた本校の「軽音楽部」 でギターの名手に「マイアミビーチルンバ」の サビ部分 ハイポジションの一節を教えて貰った~ これだけである。 まるやま 2.いや、この大学でも駆り出されて~円山公園辺り ジグザグ まで、ワッショイ~ワッショイとデモ行進をした。 高校時代~私大時代まで紛争に巻き込まれた訳だ。 りょうあんじ 3.よく行った龍安寺の裏手で、ツチノコのような 生き物(短く太くずんぐりした暗黒色で蛇の様だが 鱗がない30cm足らず?・・・恐ろしくなり両者 は離れた・・・マムシだったか?→マムシより ずんぐりであり、蛙を呑み込んでもいない) に出会った 4.予備校に自転車で通うのに飛ばし過ぎて~貧血で 蕎麦屋の前で倒れた事などなど そすい 5.左京区の下宿が琵琶湖からの水路=疎水に近く、 湯豆腐の美味しい南禅寺が近くにあったこと・・・)琵琶湖疎水の疎水分線:日本遺産南禅寺順正の湯豆腐 フレミングの左手・右手の法則 それに、指を曲げる電気の仕組みには馴染めなくなり(何故覚え込ませようとせず、実験?で示すべきだが)、京都の高等予備校(マンモス校)の門を叩いたのであった。 教育者である父親は~勉強が嫌いな小生の性分を良く知っていたから私大の学費は支払っていたらしい。 ろくに勉強もしないのに東京工業大学、早稲田大学、慶応義塾大学の理工学部を受験したので全滅し、今度は件の私立大学を正式に中退して~真面目に~~~ **東京の(大塚駅北口にあった武蔵高等)予備校に 上十条通ったものである(下宿のお嬢さんは美人で当時は十文字高等学校生・・・女子高であった)。 予備校の校長に呼び出されて、志望校の吟味を問われた。 小生は「英語」と「数学」だけが好きであるが、志望校は自分にも判らないというと、家族的雰囲気の校長は、即座に~学科の成績だけ見れば ・・・・「志望校が未定なら是非一橋大学の受験を推薦する」と仰る。 志望を一橋大学経済学部として、早稲田大学、慶応義塾大学の経済学部を受験したが、今度は全部PASSした。 校長が言うように、進路は大学に行ってから決めれば良い~一橋大学に入ると、自分よりも英数が得意な学生は山ほどいた(入れたのは苦手の国語が超難関過ぎて「差が着かない」という超ラッキーかも)。 体育学科はバレーボールになったが、テニス(軟式)は経験では使い物にならず~~~これは就職後になった。 大学では「マホメットとシャルルマーニュ」を自分で英語で読んだ(英英辞典を買ったが内容の理解は兎も角であり、当時の学長が翻訳を監修したのも知らなかった。 教育者の父は高い原書でも文句も言わず仕送りしてくれたので、銀杏書房の店主のハタキを受けながら、教授たちが依頼した洋書の棚を漁ったものである)。 ↓ 論争が多いので翻訳では「題名」を替えたらしい。 学問的にはそうかも知れないが、 小生は原題が遥かに好きであるが・・・<参考書にお薦め・・・小生は知らなかった> 論理的演習を学ぶ時間J.Robinson女史 後期ゼミでは、経済原論(近代経済学)専攻の恩師が小生の境遇1.地方出身の境遇(恩師も北海道の地方出身)2.一度入学した大学からの転進(恩師はキチンと卒業後)3.その他(前期ゼミ商学部恩師のお力・口添え) * *を鑑みて、[よく似ているね!] と (月と鼈ながら~)快く受け入れていただいた。 先輩には~極めて優秀な学生が多くて、 ・・・・・小生の「数学・英語が好きなだけ」とは異なる次元の方達ばかりであった。 一橋大学に入り~それから、良い教授に就けば素晴らしい先輩たちが導いてくれるだろう。 ゼミを見れば判るのだが、経営者の息子達も大勢いた。 彼らの一部は~学問の東京大学ではなく、~謂わば隠れ蓑=経営の真髄を学んで~ <大学の趣旨は Captains of Industry>”the Captain of the Industry” になる~という文句で親を騙し、「実際は学者を目指して入学」したらしい。 「澁澤 栄一翁」(青淵翁)が 創始者にいるのだから経営者の息子にはそこで学ぶものが多いはずであり、自らが社会の指導者になろうとするものにも大事なことが学べ、社会に出ても優秀なる先輩の影の導きもある~~~でしょう~~~か。 コネ しかし、縁故を求めず、自分の力を高めること *******~「独力必須の大学」であることも確か・・・。 呆け頭にはこの程度しか思い浮かばないが。 小生は自分のことは~何もないが~同じゼミテンで、学問を目指して~但し表向きは経営の跡継ぎを目指し一橋大学に入った優秀な学生達~その代表者には:鈴村 興太郎博士(故人)がいる。 彼の規範経済学・厚生経済学は世界的にも認められて、日本人として初の~~~「ノーベル経済学賞の受賞」(小生は名誉とおもうが、T.Haavermo教授は違うようだ)間違いなしと思われたが、今1月に逝去された。 このような優秀な人材がうようよいる大学であり、英数が得意で、世界史などにも興味のある方は特にお薦めしたい大学である。 脳幹梗塞の~呆け頭が言っても信用できないかも・・・★<余談> よく叔父に言われたものである。 君のように~2年も予備校に行っていれば、・・・・・・・・・・・・誰でも一橋大学には入れるが、自分は家庭の都合で私大に行かざるをえなかった。 ~~~しかし、小生は、高校の教室では~ろくろく勉強できなかった環境であり予備高・校長先生の面接で志望校が決まったのであった。(何時の間にか~受験のプロ????~浪人・女子は減点?) このようなオープンキャンパスがあれば参加することで~自分の志望が広がり~無駄な受験が減るかもしれない。★ 余談~のついでであるが、一橋大学には本来は東京大学を志望しながらも有名な大学闘争で受験の機会を失い東大安田講堂占拠事件やむなく~一橋大学に入学して卒業し、大学院で本来の東京大学に入学した ・(石原 裕次郎似と自認する)大人物がいる。 古代ローマ史に詳しい本村 凌二東京大学名誉教授が、たしか、如水会の講演会でそのようにお話されていた。 自分達には全く関係のない学園闘争の被害を受け大学進路を変更せざるを得なかった~人々もこの学園には大勢いるかもしれない。 口では東大~東大と言うが、愛好精神では彼らは負けてはいないだろう。★ 「リモート参加の準備」 小生がオープンキャンパスに参加するにあたり、PCが必要であるが、ノートパソコンが過熱して音源が壊れたようである。 PC専門家の息子に聞くと、FaceTimeで遠隔地から実際の問題点を割り出し、BENQというスクリーンモニターの音源を使用できるようになった。 また、ノートパソコンの底が過熱しないように、穴開きの専用スタンドをアマゾンに注文してくれた。 これで準備完了である。 もっとも、PCとスマートフォンは連動(=同期)させてくれているから、スマートフォンを使用してもいいのである。 小生は経済学部卆だが、息子は理工学部の大学院卆で頭が上がらないのである。 →本日9/11、アマゾンMail便0.3kgでとうちゃこ。 金属製であり、1年の保証付きで問題はなさそう。 ↓ 9/13 17:20 まで、トイレに行ったり、 お昼を食べたり、庭の手入れをしたりと 雑用をしながら学長から、4学部の紹介、 大学の紹介など多面的に見られた。 小生達の頃と違い、前期課程も国立校 に移転しており、東校舎付近は様変わり している。 学生は随分しっかりしており、今時分は 呆けの小生には入れないかもしれない。 いい経験をさせていただいた。 小生は、経済学部卒であるが、 今は社会学部の福富満久教授の世界史の プレゼン[英(仏)国の(二)三枚舌外交]が 一番心に響いた。 もしかしたら、現在のジョンソン英首相も その流れかもしれない。 米大陸の征服も所詮は、白人が宗教をバックに 原住民を銃による圧政で支配した歴史があり、 いまなお、トランプ大統領の姿に現れるような 「白人至上主義が尾を引いている」のだから。★世界のCOVID-19感染状況日本時間 2020/9/10 22:36https://www.worldometers.info/coronavirus/世界は感染者28百万人時代へ感染者数でソート死者数でソート米国の各州別日本
Sep 10, 2020
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☆ 昨夜は、海外からのノーベル経済学賞受賞者アマルティア・センなど数名からも「鈴村教授のやや早かりし死について信じることができない」との哀悼の意を示すお手紙が後藤 玲子教授(一橋経済研究所)から朗読(英語・翻訳は日本語)された。 「自由葬」ならではの、喪主の奥様からご挨拶の後の出来事である。 いろいろの音楽が小さな音量でバックグラウンドに流れていたが、小生の分かる音楽ではベートーベンの「運命」(交響曲第5番)であったと思う。 小生が、今までの葬儀で聞いたお坊さん達の読経などは一切なく、女性司会者の声で進行する。 献花が喪主、肉親、親族の順で、我々一同に回ってくる。 小生は足が悪いから、少し早めに自宅を出たので順番は早かった。 一橋大学 蓼沼 宏一学長達の姿もあった。 献花の後は、喪主に挨拶をして、立食に参列した。 予想以上の参列があったようであり、仲間と早々に退席をした。 ☆ 奥様からお聞きしたのは、膵臓癌と診断された後の彼の行動の物凄さであった。 入院を断り、海外の友人との最後の2つの論文を完成させたのみならず、その他の論文、随筆にも手を伸ばそうとしたようだが、途中で絶筆となったものが出たようである。 海外の友人たちは、死に際しても尚、鈴村氏の全力での協力を惜しまない姿に胸を打たれたという。 彼が死を恐れずに、自分の肉を削ぎ骨身を惜しまず働く姿こそ、彼が海外の友人たちに見せた「最後の誠意」ではなかっただろうか。 この1年の間に海外との仲間との最後の2論文がすでに出来上がっているようだ。 鈴村氏の友情が、彼の死の代償として2つの論文で結実したことになる。 我々は、まもなく、これらの本に接することが出来よう。☆<葬儀場の祭壇は花で一杯> 美しい切り花の見事な配列であり、ハートが涅槃のように横たわる。 日本国の象徴である天皇陛下からのご供物も中央に供えられているという。 自由葬と言うが、ラビンドラナート・タゴールとの繋がりのあるアマルティア・センを友人に持つ故鈴村興太郎氏ならではの祭壇の姿を見たようだった。 あの世では、恩師・故荒憲治郎氏や日本のみならず世界の経済学者たちと人類の福祉厚生のための社会的な規制などの在り方を議論し続けるのであろう・・・合掌☆ 画像がピンボケで申し訳ない。 お詫びのしるしに、近場の駅前広場の夜景を掲げておきます。☆ それにしても、「大深度地下」を避けてJRを利用したが、乗り換えにプラットフォームの移動が大変であり、プラットフォームに付く「ホーム(?)ドア」が未だ装備されていない場所では特に危険さえ感じられた。 最近、盲目の方がプラットフォームから転落する事故が多発しているが、目の見える小生さえ人の動きを察知しないとフラフラでは危ない場所が多すぎる。 帰路は大深度地下を利用したが、これも乗り換えでは一旦、違ったホーム(プラットフォーム)に入り込むと反対のホームに移動するのには、「指示マーク」が適切でないから、老人だけでなく若者でも迷っている。 駅員に聞いても、「指示マーク」がないから、複合的な乗り換え場所では一旦狂いだすと無駄足を食うことになる。 小池都知事は都営地下鉄の指示マークを見直してほしいものである。 電車ではどこも外国人が多くて、不思議な感じが漂っている。 外国人にはホームグラウンドであり、小生が逆にForeignerなのである。☆ <最後に> 本日の、仲間からのメールをお伝えする。 昨夜の通夜のような、海外からのノーベル賞受賞者達からのお手紙の朗読とは違い、告別式では一橋大学の蓼沼 宏一学長、早稲田の須賀 晃一副総長、 東京大学の奥野 正寛名誉教授の3名から鄭重な弔辞がありその後参列者の献花、そして棺に一杯お花を入れ 最後のお別れとなったとのことである。 故鈴村 興太郎氏の恩師・故荒憲治郎氏のご長女も駆けつけておられたとのこと。 盛大な告別式であったとのことでした。 何よりも驚いたのは、天皇陛下からのご供物があったことである。 文部大臣や大学の学長達の献花は当然であろうが日本国の象徴たる方からのご供物を受けられるとは流石は鈴村興太郎氏である。 合掌☆
Jan 20, 2020
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故 鈴村 興太郎 博士の早稲田大学政治経済学術院での最終講義(一般公開)2014/2/27を思い出します。早稲田大学大隈小講堂 小生は、講義内容は解らずながらも友人大学教授と最終講義だけを聴講できました。 以下は教壇後方へのスクリーン投影の一部です。 ・ ・ ・・・この間の理論展開を含めて・・・ シリーズ「自伝」my life my world 「厚生と権利の狭間」 鈴村興太郎 (ミネルヴァ書房) (本体:3,500,-) に詳しく書かれておりますので 下記の (1),(2),(3)ご覧ください。 レオナルド・ダ・ヴィンチのような 切れ味の鋭い 何時もの書き方ではなく 「彼自身の伝記」のように 極めて判り易く記述しておられるので 肩が凝らないものと思われます。 難解な部分は読み飛ばしても 十分に理解できる本だと思われます。☆CiNiihttps://ci.nii.ac.jp/ncid/ BB15939533#anc-library「厚生と権利の狭間」 鈴村興太郎(ミネルヴァ書房)内容説明・目次・内容説明 日本を代表する理論経済学者であり、ケネス・アロー、アマルティア・センらと並ぶ厚生経済学・社会的選択理論の国際的権威として知られる鈴村興太郎。40年以上にわたり経済学の第一線で研究を続ける傍ら、国内外の様々な学会や委員会などでも活躍してきた背景はどこにあるのか。本書では、研究者としての苦闘と成長の軌跡を辿りつつ、厚生と権利という2つの価値の狭間を探究し続けてきた自らの研究のエッセンスを紹介する。・目次 第1章 古窯の町、常滑に生まれて第2章 大学と大学院時代の遍歴 — “黄金の夏”と研究生活への出発 第3章 母校からの跳躍と世界への挑戦第4章 厚生経済学と社会的選択の理論(1) ~ 第1期の播種と収穫第5章 母校への帰還 ~“冬の時代”を経て再び世界へ第6章 厚生経済学の実践的側面 ~ 産業政策・通商政策・競争政策第7章 厚生経済学と社会的選択の理論(2) ~ 第2期の播種と収穫第8章 日本の学術の一層の発展のために第9章 厚生経済学と社会的選択の理論(3) ~ 展望と評価第10章 忘れえぬ恩師たち 「BOOKデータベース」 より☆・Amazonの「カスタマレビュー」(紹介)「数少ない世界的な日本人経済学者の人生」 鈴村興太郎は、数少ない世界的な日本人経済学者。 鈴村は、社会選択理論、厚生経済学に貢献をした。 彼は、ケネス・アロー、アマルティア・セン(2人ともノーベル経済学賞受賞)とも交流があり、仕事仲間である。 3人のサーベイブック"Handbook of Social Choice and Welfare"は社会選択・厚生経済学における重要な書籍である。 鈴村は、一橋大学を卒業し、京大勤務を経て、一橋に戻った。 いまでこそ一橋大学における鈴村の地位は確固たるものだが、彼の著作を読むと、一橋に帰ってきたとき、冷遇されていたことがわかる。 そこから彼は実力で一橋大学の首領(ドン)となったのである(余談:2019年の学長、蓼沼宏一は鈴村興太郎の弟子のようなものである。正式な指導学生ではなかったと思う). 鈴村は、宇沢、森嶋、根岸、二階堂と並ぶ偉大な日本人経済学者と言ってよいだろう。 そのような彼の人生を知ることは大変意義があると評者は信じている。 経済学徒は本書を読んでしかるべきである。 ところで、過去に奥野・鈴村のミクロ経済学を勉強したことがある人は多いと思われる。 そのような人は鈴村とはいったいどういう人か疑問に思うだろう。 奥野・鈴村を読んだことがある人も本書を楽しんで読めると思われる。 本書は、ただの回顧録であるから、別に高度な数学が登場するわけではない。 高校生でも読めるので、ぜひ一度読むことを強く勧める。☆☆ご葬儀の日程通夜日 1月19日(日) 18時~19時告別式 1月20日(月) 12時~13時 会 場 シティーホール中野坂上 東京都中野区本町 1-25-8 電話03-5302-1194 FAX03-5302-1195 会場へのアクセスは 東京メトロ丸の内線「中野坂上」駅 1番出口より徒歩2分 都営地下鉄大江戸線「中野坂上」駅 A1番出口より徒歩3分 葬儀の形式は自由葬というようなので小生も参列したいと思います。☆
Jan 19, 2020
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<故鈴村 興太郎氏の 栄誉・名誉の足跡><学歴>1962年(昭和37年)3月: 愛知県立明和高等学校卒業1966年(昭和41年)3月: 一橋大学経済学部卒業 (荒 憲治郎ゼミナール)1968年(昭和43年)3月: 一橋大学大学院経済学研究科 修士課程修了1971年(昭和46年)3月: 一橋大学大学院経済学研究科 博士課程満期取得1981年(昭和55年)10月: 経済学博士(一橋大学) "Rational choice, collective decision and social welfare"<栄誉など>1984年日経・経済図書文化賞(第27回)Rational Choice, Collective Decisions and Social Welfare(Cambridge University Press)1988年日経・経済図書文化賞(第40回)『産業政策の経済分析』東京大学出版会(伊藤元重・清野一治・奥野正寛との共著)1999年~2000年日本経済学会会長第31代会長 ******第1代 中山伊知郎 1968-70年第2代 安井琢磨 1970年第3代 青山秀夫 1971年第4代 熊谷尚夫 1972年第5代 篠原三代平 1973年第6代 荒憲治郎 1974年第7代 大石泰彦 1975年第8代 福岡正夫 1976年第9代 馬場正雄 1977年第10代 二階堂副包 1978年第11代 置塩信雄 1979年第12代 稲田献一 1980年第13代 宮澤健一 1981年第14代 内田忠夫 1982年第15代 小宮隆太郎 1983年第16代 辻村江太郎 1984年第17代 根岸隆 1985年第18代 藤野正三郎 1986年第19代 建元正弘 1987年第20代 新開陽一 1988年第21代 宇沢弘文 1989年第22代 森口親司 1990年第23代 斎藤光雄 1991年第24代 天野明弘 1992年第25代 上河泰男 1993年第26代 浜田宏一 1994年第27代 青木昌彦 1995年第28代 貝塚啓明 1996年日本経済学会 第29代 畠中道雄 1997年第30代 大山道広 1998年***********2000年Fellow of the Econometric Society終身特別会員2000年~2001年社会選択・厚生学会会長(President, Society for Social Choice and Welfare)2003年公正取引委員会競争政策研究センター初代所長2004年紫綬褒章2006年(第96回)日本学士院賞経済学博士 - 「厚生経済学における厚生主義的帰結主義の克服」2006年~2011年日本学術会議副会長(第20期)2007年12月1日~ 文部科学省日本ユネスコ国内委員会委員2008年度日本学術振興会グローバルCOEプログラム社会科学部門審査委員長2010年~2011年 法と経済学会会長2011年12月日本学士院会員2013年「講書始の儀」2014年4月早稲田大学栄誉フェロー2017年瑞宝重光章2017年文化功労者2020年1月15日逝去(76歳)
Jan 18, 2020
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☆☆<訃報>日本経済新聞 2020/1/16 18:08鈴村興太郎さんが死去 一橋大名誉教授、厚生経済学 望ましい意思決定ルールを設計する「社会的選択理論」の第一人者で、一橋大名誉教授の鈴村興太郎(すずむら・こうたろう)さんが1月15日午前4時27分、膵臓(すいぞう)がんのため東京都内の病院で死去した。 76歳だった。 告別式は1月20日正午から東京都中野区本町1の25の8のシティホール中野坂上。 喪主は妻、彰子さん。 一橋大経済学部卒。京都大助教授を経て1984年から一橋大経済研究所教授。厚生経済学が専門で、制度の設計と個人の選択次第で人々の福祉を高められるとする理論を構築し、日本を代表する理論経済学者の一人として知られた。日本学士院会員。2004年紫綬褒章、17年文化功労者。著書に「経済計画理論」「厚生と権利の狭間」など。☆<WIKIPEDIAなどから抜粋> 鈴村 興太郎(すずむら こうたろう、1944年(昭和19年)1月7日 -2020年(令和2年)1月15日)は、日本の経済学者。 専門は社会選択理論・厚生経済学。一橋大学名誉教授、早稲田大学栄誉フェロー、早稲田大学名誉教授、文化功労者、日本学士院会員、一橋大学経済学博士。 京都大学助教授、一橋大学教授、早稲田大学教授、社会選択・厚生学会(The Society for Social Choice and Welfare)会長、日本経済学会会長、日本学術会議副会長、を歴任。 日本学士院賞受賞、紫綬褒章・瑞宝重光章受章。Fellow of the Econometric Society。☆<著作> * * * 病床でも、最後まで執筆をなされていたので絶筆の論文が出るかも? 日本人としてノーベル経済学賞(生存が条件)に最も近かった天才があの世に旅立ちました。 誠に惜しい人を日本、世界は失いました。 「厚生経済学の基礎」岩波書店は 市川市中央図書館の蔵書に在ります。 合掌 めいてい君 ☆ご葬儀の日程通夜日 1月19日(日) 18時~19時告別式 1月20日(月) 12時~13時 会 場 シティーホール中野坂上 東京都中野区本町 1-25-8 電話03-5302-1194 FAX03-5302-1195 会場へのアクセスは 東京メトロ丸の内線「中野坂上」駅 1番出口より徒歩2分 都営地下鉄大江戸線「中野坂上」駅 A1番出口より徒歩3分 ☆☆
Jan 17, 2020
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☆ 昨日、朝方はスポーツセンターで太極拳健康教室に参加して、シャワーを浴びて、少し休んで、夕方は久方ぶりに都内の小さな「BAR&レストラン」神田小川町「茶舗」に出掛けた。 会社退社の何十年目かの同窓会忘年会である。 みんなはあまり変わってはいないが、1人だけ丸々となり、若々しく感じた元会社役員がいたのには驚いた。 年取ると大体は痩せてくるが、太り始めている ? らしい。 久方ぶりの酒宴であり、親方が築地市場(→今や豊洲市場)で仕入れてきた、関サバやクエなどの珍魚の刺身・焼き魚で酔っ払い、多少、足の痛いのを我慢して帰宅した。 (昔貰った、外用薬「セルタッチパップ70」を貼付) 昔は、プラットフォームが狭く、危険を感じたが、地下鉄都営新宿線ではフォームドアという囲いが線路際に立っているからプラットフォームが随分と広く感じられた。 都営地下鉄は、高深度地下を利用しており、長いエスカレーターと階段の連続である。 小生事、日頃のお通じが良くないので、自宅の階段をドスンドスンと下りた時に、足首を痛めたらしい。 (飲み友達から呼吸法とマッサージ法を習った。) この足首の傷みが、駅の階段の連続で相当堪えたらしい。 このような高深度では、巨大台風が首都圏を襲ったら危険だと思うが、東京は更に高深度の貯水槽をあちこちに設置し、近郊の荒川系河川の越水さえ防げているから安心である。 それでも、関東大震災のような地震が襲ったら大変だと思うが、地下鉄では各プラットフォームのうえにパルテノン神殿のような石柱が連立して守られている。 都庁では、高深度地下鉄、高深度の膨大な地下貯水槽などを相互に守る体制を構築している。 都内へ向かう電車は夕方は空いていたが、帰りの便は超混雑しており、最後まで座れなかった。☆ 帰宅してからは、「自由が丘氏からの宿題」に取り掛かった。 自分の「寄稿してあるブログ挿入部分」を抜き出せないか、というものである。 小生のブログには寄稿してくれる仲間がいて助かるが、寄稿者は自分のバックアップはしていないらしい。 楽天ブログは今のところはダウンロードには対応していないと、小生は思う。 ・・・・・・・・・・・・ 「Blog Data BackupSetup」なるフリーソフトが公開されているが、マカフィーでは危険なソフトの可能性があるというから開けない。 ・・・・・・・・・・・・ 「ヤフー!ジャパン」や「フリーメールコム」ではグループメールから撤退し、その際に「過去メール」を遺産として「ダウンロード」させてくれた。 楽天ブログは、まだまだ存続しているから、「一括ダウンロード」の必要はない。 むしろ、「寄稿文をゴッチャにしたからCategory」を細分化し、その一環として「自由が丘氏の部分」を別立てにすればいいだろうと思い、Categoryの空きを利用して「自由が丘氏」欄を造ってみた。☆ 「本日のブログ文章の向かって左欄外のCategoryの最後」に「自由が丘氏」分があり「157」もある。 ↑自由が丘氏(157)・・・追加 いずれは、「部分ダウンロード」したいのだが、取り敢えずは、掲示しておきたい。 纏めてあるので、「見やすくはなったと思う次第」。☆ おっと、今日も地震だ。 ・・・メモとして残して置くとする。・・・☆
Dec 4, 2019
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☆小生たちの自治会は市から委託されてちっちゃな公園の清掃・草引きを任されている。週二回の清掃と、隔月の公園内の草引きである。小生は、過去2年ばかり、腰椎脊柱管狭窄症を患い手術したので、草引きには参加できなかった。2年前までは、公園の縁取りをしていたツツジの植栽だけだったが、その間に笹が覆い茂っている。暫くは、伸びた笹の先を剪定ばさみでちょんちょんと切っていたが、最近は勢いが物凄い。公園内の敷地にまであちこちにちっちゃな筍擬きが出ており、まるで鞭のように地下を根が走り回りご近所の庭先にまで笹の芽が出て居る始末だ。☆老人3人が自主的に道具をもって集まり笹を刈っていたが、遂にそれが無駄だと悟らざるを得なかった。取り敢えず、一人が笹を根元から刈り取り、伸びている根を切断し始めた。現在は、ツツジの植栽だけが見えている。☆実は、小さい公園は、半世紀前の私鉄線の新駅設置の土地区画整理改良事業計画に遭遇し、隣接したために8m道路が直角に当たっている。なんと、小公園は広幅道路が直角に接しているからスポーツカーが飛び込んだ事件があった。小公園のなかのブランコは取り外されて、道路に向かってガードレールが設置された。白いガードレールだが、植栽や笹などが蔓延ると見えなくなり危険であるから、小生はガードレールが見える程度には草を引いている。☆実は、自治会の「清掃・草引き」の範囲と、造園業者に委託した剪定の範囲が曖昧である。草引きは隔月だが、雨の日の予定は立てていない。雑草や笹は雨で伸び続けるから、植栽の中の笹はいつの間にか雑草ではなく植栽の一部となった。造園業者は笹も剪定するが、笹がいつの間にか優勢になり、このところの雨季には公園の植栽が笹で一杯に満たされていた。それが、老人3人の3日作業で笹が一応は駆除されている。☆何れはまた、笹が蔓延るだろうから、植栽ごとユンボで引っこ抜き、道路側は花壇にするように市に申請する予定だ。花壇なら自治会程度でも主婦が喜んで可愛がると老人3人は相談している。老人トリオの老後の生活とはこの程度である。☆安倍さんは、またもや、内部蓄積で、富裕な大企業を低税率で優遇しながら、かよわい老人には消費税を高く課して、「長生きを自己負担させよう」と「骨太の方針」で躍起の様である。小生には、食べ辛い「鰯の骨太」方針は苦痛である。金なしの老人は、せめて、自治会のお役に立つことぐらいだろうか。大企業などを崇めて、老人をいじめる政治が「美しい日本」だろうか。「令和」の新元号は採用を望んだ、安倍さんのためにだけあるかもしれない。「老人は生きるためには自己負担も必要であり、安倍政権に付いてきたければ金融証券を買いなさい」、などとは「アポ電」に騙される老人が殖えそうである。ガンジス河の畔に居るような世相である。☆
Jun 7, 2019
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☆ 人間様の元号は間もなく、日本で「平成」から令和に移ります。 大自然の四季はそれとは無関係に、夏に向かい季節を映し出して変化します。 正確とは言えませんが、関東地区の花祭りのエッセンスのほんの一部を掲げてみます。・・・・・・・・・・・・ 下図で文字が見辛い方は、(1).PCでは 「CTRL」+「+」を押して拡大 できます。 3回で十分です。 あとで、「CTRL」+「0(数字)」を 1回押して、元に戻してください。(2).スマートフォンでは、 指で拡大できます。(3).「HAZUKI ルーペ」なら問題なし。・・・・・・・・・・・・ 実際の お花見時 はWebでご再確認ください。☆花みごろ(WIKIPEDIAなど)<藤・・・亀戸天神><アヤメ=アイリス><姫金魚草=リナリア><ポピー>☆
Apr 27, 2019
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☆ 「塩害」続きであるが、我が家では塩害の中でも元気なのは金柑とシャリンバイである。☆ 特に、今年は金柑が比較的大きな実を鈴なりにつけて、アルミのフェンスからはみ出しそうである。金柑はジャムにすると美味しい。 昨年も熟れた頃には小~中クラスの小鳥たち(メジロ~ヒヨドリ)が来るからネットを掛けていたものである。<ニンポウ金柑:以下もWebから>☆今年はさらに、ブルーベリーのような<農園のブルーベリーの実>実をこれも鈴なりにしている「車輪梅」が実っている。<シャリンバイの実>姿かたちはブルーベリー擬きだが、ふっくらとしてはいない。とても食べられるような果肉は見当たらない。中には堅い種子を確りと抱えており、鳥たちは此れを口に咥えて運ぶのである。鳥たちよ! どうぞお好きなままに、である。☆ オリーブは実が付いた時もあったが、枝が蔓延るので選定したら実が付かなくなった。少々の実がついても、オリーブ油は絞るのが大変である。☆ 我が家には、大きな柿の木はないが、近くの豪農のお茶飲み友達(茶道の友人)から家内が美味しい甘柿などを沢山貰ってくる。 スーパーの柿よりも大きく熟れている美味しい柿なのだ。<茶道:WIKIPEDIA>☆近くの小公園には、観賞用のサクランボが実るが酸っぱいので鳥たちの専用である。☆
Nov 6, 2018
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★ 小生は、脊柱管狭窄症でステッキをついても10mも歩けない。 幸いにして上半身は動かせる。 座っていれば力は入る。 STEPを踏む力はデイケアで確認済みである。 止まっている自転車は漕げるが(10分で4kmだから時速24km/hで)動かすことは危険である。 止まると自転車を支えるために、両足で踏ん張れずに、必ず?コケるからである。・・・・・・・・・・・・・・・ 上り坂、下り坂の多いこの付近では自転車を漕ぐ力(電動自転車もある)よりも、安定性を保つための姿勢制御の力が必要である。 何処かの民間ロケットのように、エンジンを加速度的に強めることができなければ、地球の重力に負けて落下するのが落ちであろう?・・・・・・・・・・・・・・・ このような不自由な状態でも便利なものがある。「乗用車=Pajero Mini]であれば移動可能なのだ。 乗用車でスーパーマーケットに行ってステッキをついて、Shopping Cart (=Trolly,Carriage)で買い物ができる。 また、歯医者の駐車場に車を止めて、歯科用チェアーユニットに何とか足を延ばして座り<ユニットにはなぜ足止めがないのか!: 以下の画像はWebから>短時間なら我慢して治療を受けられる。 時々、腰のヘルニアの痛みに耐えきれなくなると治療を休んで待ってもらうことになる。 この椅子はもっと体を支えてくれないだろうか! 下にズレるとヘルニアには我慢の限度があるのだ。 もちろん、ユニットに上がるときにはスリッパを脱いで、靴下になるが、斜めに体を倒すので腰に負担が掛かるのである。 前置きの話が長くなり申し訳ない。★ さて、 半年ぶりに市営動植物園(年寄りには駐車料金だけは有料である)近くの市営霊園(駐車料金は無料、共益費は有料)へ墓参りに車で出かけた。 自宅の庭に植えてある榊の小枝を剪定して持参した。 雑草を刈り取り榊をお供えして、墓参を済ませた。★帰路、市営動植物園傍の農場で直売のブルーベリーを買った。お店?の名前は下記にあります。(市営動植物園入口のすぐ西側に立地、小駐車場はすぐ前にある)<向かって右方向に市営動植物園の入り口兼大駐車場、 左先に「梨街道」><向かって右に直売店、左奥がハウス> 高齢の仲の良い夫婦が直売店を営んでいたが、平日の早朝なのでお客は小生一人であった。 たしか、2パックで1,200円だったと思う。<無農薬栽培なので洗う必要なし> 「摘み取り」もハウスの中でだが、「30分間限定」でやっていた。 電話して行ったほうがよさそうである。 このようにして、移動は乗用車で可能であるが、如何せん、歩くことは苦しい。いや強烈に痛いのである。★「たなかふぁーむ」のトマトの直売店でも支払いに、買い物客の列に並んで立ったままでは長くは居られない。(当ブログでは2018.4.7 掲載) 女将さんの「このひと歩けないから野菜を車まで持って行ってあげて!」に甘えるしかないのだ。・・・・・・・・・・・・ 脊柱管狭窄症馬尾型で、「背骨の間に棘が刺さっているが如し」状況である。★・・・<要望>・・・ 小生には、Pajero Mini は介護ロボットの一種である。 優雅なお遊びのクルマではなくて、一種の電動車椅子のようなもので、いつもブレーキを意識して運転している。 できれば、高齢者から車の運転免許を取り上げずに、走行速度を20㎞に制限し、自動運転化、障害物認識機能、録画機能などを完備させてほしい。 年寄りの運転する車への煽り運転などは、即刻、運転免許停止処分にしてもらいたい。★
Jul 1, 2018
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<本宮ひろ志 さん>日本の漫画家。千葉県千葉市出身。1947.6.25生まれ葛飾区立小松中学校卒業。埼玉県立浦和高等学校(通信制)中退。代表作は、『男一匹ガキ大将』、『俺の空』、『サラリーマン金太郎』など多数。妻は、漫画家のもりたじゅん。作家の井上ひさしとは隣家住まいの時期が長く親交があり、『天然まんが家』で作家としての姿勢に尊敬の念を語っている。ゴルフ好きで有名で、シングルの腕前である。名門ゴルフクラブ「イーグルポイント」の共同出資者であった。長女のあゆみは関東女子倶楽部対抗優勝経験を持つアマチュアゴルファーである(本宮ひろ志の住所は市川市北国分町~市川南1-1-3の(有)本宮プロダクションとある・・・そういえば「めいてい君」の長男が土佐から転校して、中学生の頃に本宮さんという友達の家に遊びに行っていたのは線路を超えて・・・、だから市川南であろう。)<年表>1965年 - 「遠い島影」によりデビュー。1968年 - 「週刊少年ジャンプ」で「男一匹ガキ大将」の 連載を開始。1969年 - 『男一匹ガキ大将』がアニメ化される。1970年 - 『男一匹ガキ大将』が劇場映画化される。1973年 - 「週刊プレイボーイ」で「春雷」の連載を開始。1975年 - 「週刊プレイボーイ」で「俺の空」の連載を開始。1977年 - 『俺の空』が劇場映画化される。1978年 - 「週刊少年ジャンプ」で『さわやか万太郎』連載を開始。1979年 - 「ビッグコミック」で「男樹」の連載を開始。1980年 - 新聞紙上で突如休筆宣言を行う。1981年 - 「週刊プレイボーイ」で「春爛漫」の連載を開始。1991年 - ファミリーコンピュータ用ロールプレイングゲーム 『おたくの星座』を製作(ストーリー担当)1994年 - 「週刊ヤングジャンプ」で「サラリーマン金太郎」の 連載を開始。1999年 - 『サラリーマン金太郎』がTBS系でテレビドラマ化、 以後2004年までに4本のドラマと1本の映画を制作。 パート3と4では自身も台本作りに参加した。2001年 - 『サラリーマン金太郎』がアニメ化される。 『猛き黄金の国』が宝塚歌劇団で舞台化される。2004年 - 『国が燃える』 (「週刊ヤングジャンプ」にて2002年より連載)作中での 南京事件の描写が問題となる。2008年 - 10月より『サラリーマン金太郎』がテレビ朝日系にて 再テレビドラマ化される。2011年 - 『俺の空〈刑事編〉』がテレビ朝日系にてテレビドラマ化 されると共に、「ビジネスジャンプ」で連載再開 (その後「グランドジャンプ」に移籍し2012年まで連載)。市川市との関係やぶれかぶれ1983(昭和58)年、集英社「ジャンプ・コミックス」。1巻p5-48 「実録 市川南一丁目」と題。1巻p68 “市川のあんちゃんの事だ”1巻p112-113 “私は市川にすむ本宮という者でガス! ひと目お目通りねがえませんか!!”1巻p128-137 井上ひさし宅が登場2巻p61 “市川の南口にある八百屋・銀次郎 私めの漫画「硬派銀次郎」から名前をとって 友だちがやっている店である”3巻p114 “こんにちはーっ田中角栄さん!! わしゃあ市川の本宮という者です ご面会願えませんかあーっ”<判らない本の目次画像>・・・調査中http://www.city.ichikawa.lg/common/ 000122517.pdfWebを探索すると「市川市」の表示があるが本の名前は判らない。井上ひさし氏の追悼記念集なのだろう。本宮ひろ志さんがすぐ前に住んでいた証拠である。
Feb 26, 2018
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昨日の井上ひさしさん、本宮ひろ志さんのお話の続きです。WIKIPEDIAや「市の文学データベース」などによる話を並べてみる。<井上 ひさし さん>日本の小説家、 劇作家、放送作家で文化功労者、日本藝術院会員であり、日本劇作家協会理事、社団法人日本文藝家協会理事、 社団法人日本ペンクラブ会長(第14代)などを歴任した井上ひさしさんは山形県生まれが1934.11.17~鎌倉市逝去2010.4.9の生涯のうち市川市に縁が深い(市川市文化振興財団理事長2004年7月 -)。上智大学外国語学部フランス語科卒。浅草フランス座文芸部兼進行係などを経て、1964~1969年NHK人形劇「ひょっこりひょうたん島」1969年戯曲「日本人のへそ」などを手がける。1972年「手鎖心中」で直木賞受賞、1981年「吉里吉里人」で日本SF大賞、1982年読売文学賞小説賞を受賞。1999年、菊池寛賞受賞。2004年、文化功労者。 市川市との関係:昭和42年10月、国分町に転入。昭和50年、北国分町に新居を構え、昭和62年に世田谷区に転出するまでの約20年間を市川で過ごす。鎌倉市での逝去まで、市川市文化振興財団理事長(2004年7月~)を勤めている。以下、市川市と関係がある作品:著作権法の範囲内で市川言及箇所を一部引用ああ幕があがる1986(昭和61)年12月、朝日新聞社。 こまつ座との共著。第二章「あねさま日記」(斉藤美穂/著)の部分。p35-37 “夕方、遅れ気味の報告を先生に。先生は市川の自宅で入道雲を見たそうだ。浅草橋と市川はつながっているのだ。・・・”空き缶ユートピア1984(昭和59)年4月、集英社文庫。 小説。 作品の舞台として設定された場所が「北国分アパート概念図」・・・「今日は真間山見物だそうですよ」・・・「市・西部公民館」・・・「国立病院・職員通用口」など浅草キヨシ伝 『井上ひさし全芝居』雑誌掲載なし。単行本未収録。 1994(平成6)年5月、新潮社。「井上ひさし全芝居 その二」に所収。 戯曲。1977年10月に東京・紀伊国屋ホール、11月に読売ホールで初演。市川という地名の明記はないが、「8.荷風先生とストリップ」「13.カツ丼」等の章にて永井荷風が頻繁に登場する。作品解説p612 “浅草という視点からとらえ直された作者の近代日本論であり、同時に高村光太郎、永井荷風、壺井繁治、高見順、川端康成らの文章、発言をたどることで浮かびあがる作者の日本知識人論でもある。・・・”兄おとうと2003(平成15)年、「新潮」8月号に初出。 2003(平成15)年10月、新潮社。 戯曲。p31 二 恩賜の銀時計 “十一年後の大正九年(1920)十月初旬、秋晴れの日曜日、午後おそくの江戸川東岸の料理旅館「川源」の二階座敷(奥に廊下)。隅に革製の旅行鞄とバイオリンのケース。”p32 “作造「・・・帰国したのは七年前ですから、だいぶ昔のことになりますが、その三年間で、もっとも印象に深かったのは・・・(大きく見回して)市川キリスト教会青年会のみなさん、ここからが本日の講演の眼目でありますが・・・もっとも印象に深かったのは、ヨーロッパ各地で、人びとが目覚め始めてある魔男狩について 『演劇ノート』1978(昭和53)年2月、「花子さん公演パンフレット」に初出。 1997(平成9)年7月、白水社。「演劇ノート」に所収。 エッセイ。真間山周辺について書かれている。p99 “いま住んでいるところに低くて小さな山がある。古代には貝塚だったそうであるが、いまは雑木と雑草におおわれている。山裾をひとめぐりすると約三百米ぐらいか、ぶらぶら歩きにはうってつけと思われたので、引越してきた当座はよくこの山へ歩きに出かけて行った。標高三十一米の(と数字がこまかいのは、地図にそう載っているからだ)この山を道が一本東西に貫いていたが、・・・・”ある八重子物語1992(平成4)年3月、集英社。 戯曲。p153-154 “徳蔵「間もなく姉は市川真間の、庭に梅の咲く一軒家に引っ越しました。」”・・・(中略)・・・“徳蔵「はい。市川真間に移ってからは日毎に元気をなくし、二年後に、この世の人ではなくなりました。」”一葉の世界 『樋口一葉に聞く』1984(昭和59)年4月、「季刊the座」創刊号 1995(平成7)年12月、文芸春秋。「樋口一葉に聞く」に第Ⅰ章として所収。p19 “昨年の十一月二十三日、すなわち一葉女史の命日の夜、わたしの近くにある下総国分寺の墓場へ出かけ、小砂利に覆われた小道のほどよいところに立って、・・・”p34 おわりに “わたしは馬頭の鬼の胸毛らしきものを数本、手に握ったまま、下総国分寺の墓地で気を失っていた。・・・”一叩一推人答えず 『風景はなみだにゆすれ』1974(昭和49)年11月、雑誌「国文学」に初出。 1979(昭和54)年4月、中央公論社。エッセイ集2「風景はなみだにゆすれ」に所収。 エッセイ。p136 “わたしの住んでいるところはこの鴻ノ台である。総寧寺へも里見公園へもわたしは何十回となく訪れている。なにしろこっちの散歩のコースのなかに入っているのだから、強いといえば強い。漱石が訪れたころといまとでは総寧寺も里見公園もここがこうちがう、あそこがこう同じだ、としたり顔して書き連ねることもできるが、それはよそう。”因縁の糸 『本の枕草紙』1978(昭和53)年6月より1981(昭和56)年7月、「週刊文春」に毎月連載。 1982(昭和57)年11月、文芸春秋。「本の枕草紙」に所収。 エッセイ。p68 “売れるかどうかはとにかくとして数冊の小説本やエッセイ集が発行されるでしょうし、人の善い出版者がいて、ひょっとしたら全集とまでは行かなくても選集か作品集を出してくれるかもしれません。家人はその印税でなんとか食いつなげるのではないか。印税がどうもあてにできないようなら、江戸川を越せば小岩の飲食街、そこのキャバレーに勤める手もある。・・・(中略)・・・さいわいこの市川には大学が多いのです。なんとかなるでしょう。”自惚れ 『にっぽん博物誌』1981(昭和56)年1月30日号、「週刊朝日」に初出。 1983(昭和58)年3月、朝日新聞社。「にっぽん博物誌」に所収。 エッセイ。p22 “さらに、知事閣下は僕と同じように市川市にお住いである。新聞の第一面トップを飾ることのできる大立物と同じ市内に住んでいるなんて、もうこれは信じられないほどの仕合せである。・・・”オーストラリア通信1976(昭和51)年7月2日号、8月6日号、8月20日号、8月27号、「週刊朝日」に連載。 1979(昭和54)年5月、中央公論社。エッセイ集3「ジャックの正体」に所収。 エッセイ。「日本語喪失」p184 “さらに「東京」を「トウキョウ」、「横浜」を「ヨコハーマ」、「市川」を「イチカーワ」と、日本の固有名詞を外国人のようなアクセントで言っている。・・・”家庭口論1973(昭和48)年1月から1974(昭和49)年2月号、「婦人公論」に初出。 1974(昭和49)年2月、中央公論社。1976(昭和51)年3月、中公文庫。 作者43歳の作。「ジェット機と鈍行列車」p154 “たとえば渋谷の放送局に行く用事が出来たとする。するとわたしは机上に原稿用紙をひろげこう大書する。「現在の居住地である市川から渋谷へ行くには、中央線で行くべきか、はたまた山手線で行くべきか」・・・”(「ジェット機と鈍行列車」より)“ただ、たったひとつのわたしの発病は社会にささやかな寄与をした。わたしの住んでいるところは市川駅から徒歩で二十分ほどの丘の上にある。一帯はかつて砲兵隊の練習場だったそうだ。現在は敷地二十数坪数百万の小住宅地から始まって、敷地「針千本と筆一本」 “ただ、たったひとつのわたしの発病は社会にささやかな寄与をした。わたしの住んでいるところは市川駅から徒歩で二十分ほどの丘の上にある。一帯はかつて砲兵隊の練習場だったそうだ。現在は敷地二十数坪数百万の小住宅地から始まって、敷地二百坪数千万のかなり結構な住宅に至る数百軒の建売住宅が、森と畑との間に点在する新開地である。”続・家庭口論1975(昭和50)年5月、中央公論社。1976(昭和51)年3月、中公文庫。 作者43歳の作。「猪鹿蝶とフルハウス」p11 “日記を読み返してみると、1970年は、渋谷から市川まで五度も歩いている。たいてい夜の九時に渋谷を発って、江戸川を渡るのが夜明けの四時か五時、家に辿りつくのが、新聞配達少年が家に新聞を配るのと同じころ。・・・”「さよならとグッドバイ」p195 “・・・考えをまとめるという大義名分を押し立てて散策に出る。近くには下総国分寺がある。八犬伝ゆかりの里見公園がある。矢切の渡しの近くに野菊の墓がある。矢切の渡しから江戸川を渡れば柴又の帝釈天である。・・・”「ツリーと門松」p28 “「あなた!近くの下総国分寺で初詣の客に除夜の鐘を撞かせてくれるんですって。行ってみましょうよ!」”「マイクと鉛筆」p133 “途中の国分寺にこの間出た痴漢らしい人がまた居たみたいと彼女が言うので、棒を持って走り出す、国分寺には誰もいず、空しく戻ればラーメンが煮えすぎてのびている。・・・”「映画監督と医者老人」p114 “彼とつきあっていると、たしかに退屈はしない。満員電車の中、新聞も読めず雑誌をひろげることも出来ず、吊り広告にも見飽きて、さあ、退屈だ、どうやって市川までこの退屈を凌ごうかしらん、なんて思案しはじめると、きっと左足の指がむずむずし、・・・”「植木と空手形」p53 “わたしたちはこの三年後に小岩からひとつ先の市川市に建売を買った。己が持家を得てから次第に例の仮の宿意識は薄れてきているようだが・・・”喜劇役者たち1977(昭和52)年1月から5月号、1980(昭和55)年2・3月号、「小説現代」に初出。 1980(昭和55)年6月、講談社。1983(昭和58)年10月、講談社文庫。 連作短編集。「いわゆる亭主屋事件について」p154 “「しかし入場料が千円というのは安いですね。市川や船橋では三千円もとっていますよ。」「東京都は千葉県とちがって取締りがきびしい。・・・」”「九八とゲーブル」p87 “名刺には関場病院医師何某とあった。関場病院といえば市川市にある精神病院だが。・・・”p53 “支配人のこの問いにふたりは一瞬困ったような顔をした。が、すぐ、「市川の国府台のほうでごそごそやってました」背広のほうが答えた。「市川の国府台か。あのへんにストリップ小屋があったかしらん」・・・”希望の制度 『遅れたものが勝ちになる』1981(昭和56)年7月、「太陽」に初出。 1989(平成元)年4月、中央公論社。エッセイ集6「遅れたものが勝ちになる」に所収。 エッセイ。p22 “日常生活にもなぞなぞ遊びがぎっしりと詰まっている。ごく単純なものでは東京の地下鉄、地下鉄を利用して市川から池袋へ行くとしてどこでどう乗り換えるのが正しいか。僕は地下鉄路線図を前にして、十分間はたっぷり考え込む。”きらめく星座1985(昭和60)年10月、「すばる」に初出。 1985(昭和60)年9月、集英社。 戯曲。副題として「昭和オデオン堂物語」。市川憲兵分隊の権藤伍長、陸軍野戦重砲隊の小笠原砲兵などが主役として出場。p174 “源次郎「自分は明日八日朝、再入院することになりました。入院先は、さうだ、権藤さんがおいでの市川憲兵分隊とは近いんだ。市川国府台陸軍病院ですから。」”p177 “権藤「みなさんのゐない家に張り込んでも仕方がない!・・・さうなると小笠原正一砲兵一等兵はいつたいどこに現はれるのか。長崎か。満洲か。市川か。市川に現はれてくれれば好都合だが。」”p21-22 “権藤「(胸のポケットから四つに畳んだ書類を取り出して渡しながら)私服勤務中の東京憲兵司令部市川憲兵分隊の権藤伍長である。それが分隊長発行の公務証だ。ここは自分が調査中の家なのだ。引き取つてくれんか。」”・・・(中略)・・・ “権藤「みさをさん、でしたな。自分が事情を説明しませう。市川国府台野戦重砲隊第三旅団砲兵、小笠原正一一等兵は演習中に脱走した。演習中の脱走は「敵前逃亡」とみなされる。これは陸軍刑法ではきはめて重大な犯罪です。」”p46 “正一「おれだけぢやない。雷が三尺そばに落ちても顔色ひとつ変へないやうな頑強な砲兵でも三人に一人は神経症にかかつてゐるぐらゐなんだ。市川国府台の砲兵旅団のすぐ隣に陸軍病院がたつてるけど、そこは神経症の専門病院なんです。それぐらゐ野戦砲の音は兵隊の心をバラバラにしてしまふものなんです。」”吉里吉里人1981(昭和56)年8月、新潮社。 作者48歳の作。作品中には市川という地名がかなり出てくる。p11 “「鴻の台の穴熊」(出版社の会議室にカンヅメになったときにかぎりましなものを書く市川市在住のある小説家の不思議)”p180 “これはいっぱいかつがれたか、と例の編集者を逆恨みしながら東京の東郊江戸川べりのわが家へ戻ってくると、おどろくべきことに玄関が叩きこわされていた。・・・”p198 “電車が市川に着くと「学科試験に受かりさえすればなあ」と嘆いていた若者が立ちあがった。・・・”p200 “若者の家は下総国分寺に近い畑地の中にあった。代々百姓をしてきたのだが、若者とその兄は間もなくその辺が宅地用造成地になるだろうと見越して、休日に畑の土をいじるだけにしているようだった。”p335 “「暇があったら市川へも訪ねて来たまえ」「暇なんかないと思うよ」”p385 “暇をみて市川市立図書館より借り出すべし”p405 “市川市立図書館の女司書は、古橋がこれまでにただの一度も本を元の所へきちんと戻したことがないので(ここは開架式だ)軽蔑している。・・・”戯作者銘々伝1979(昭和54)年9月、中央公論社。 小説。「平秩東作」p75 “さて、その善兵衛に当時四歳の男の子がいましてね、この子は母親と行徳村へ帰った。が、こいつ、しつこい野郎でねえ。なんとかして親父の仇をというので、同じときに島流しにあった親を持つ忘れ形見たちと語らって・・・。”決定版までの二十年-『十一ぴきのネコ』 『死ぬのがこわくなくなる薬』1990(平成2)年4月、新潮社『決定版十一ぴきのネコ』 1993(平成5)年12月、中央公論社。エッセイ集8「死ぬのがこわくなくなる薬」に所収。1997(平成9)年7月、白水社「演劇ノート」にも所収。 自作解説、エッセイ。中公版エッセイ集p174 “二十年前、この戯曲を書いていた時分、ぼくは活字へ重心を移しながらも、生計は放送の仕事で立てていた。市川市郊外の下総国分寺裏の建売住宅(値段は一千八百万円!)に住み、朝は、十時に目をさました。・・・”高校野球大会初日観戦記1976(昭和51)年8月20日号、「週刊朝日」に初出。 1979(昭和54)年5月、中央公論社。エッセイ集3「ジャックの正体」に所収。 エッセイ。p99 “じつは高校数年、千葉県に住んでもよかったわいなどと内心では思っているのである。なにしろ、一昨年も昨年も、縦1.05メートル、横1.51メートル、重さ八キロ、周囲の房の数五百本、制作費四十八万円の深紅の大旗は江戸川を渡っているのだ。そればかりか、千葉駅まで出かけて行き、駅頭の歓迎会を覗きもした。・・・”巷談辞典1974(昭和49)年12月10日から1975(昭和50)年4月18日、「夕刊フジ」に連載。 1981(昭和56)年3月、文芸春秋。 エッセイ集。「危機一髪」p6 “それからが大変だった。三人組はわたしを市川駅まで追いかけてきた。そればかりではない。・・・(中略)・・・とにかくぐずぐずしていては四対一、袋叩きになるのは目に見えている。市川駅に電車が着いたとき、わたしは彼等にこう言った。「わたしは市川市の郊外でささやかにではありますが空手道場をやっておるものです。・・・」”「奇々怪々」p76 “・・・バスに乗って市川と松戸の間を終点から終点まで二往復もし、運転士が「次は終点の松戸駅(あるいは市川駅)」と、告げるたびに、・・・”「九寸五分」p110 “次になるべく歩くことにしよう。毎日一回は、市川市から松戸へ、松戸市から東京都へ、そして東京都から市川市へ、一都二市を股にかけて歩きまわろう(と申しましても、拙寓は市川市の北の端、三分歩けば松戸市で、・・・)”「通勤電車」p63 “ところで、小説を書きはじめたころ、通勤電車に好んで乗っていたことがある。車内には中間小説誌の広告がぶらさがっているが、自分の写真の載っている広告の下に立つようにして、市川から新宿まで行ったりするのである。”「表札泥棒」p53 “・・・受験が終るまで、表札をお借りいたします。志望校は千葉大学医学部と慶応です。どうか、わたくしの合格を、下総国分寺に祈ってください。」”「夫婦円満」p95 “「昨日まで待っても、向うから切符が届きませんので、わたしが昨夜、市川駅で買い求めておきました」という。”「郵便番号」p97 “日本語の住所の表記法は、どなたもご存知のように、「大」から「小」へと場所を限定して行く。たとえば、わたしの住所は「千葉県市川市北国分一-三」であるが、・・・”鴻の台だより 『わが蒸発始末記』「鴻の台だより1」は、1975(昭和50)年7月号から12月号、「面白半分」に掲載。「鴻の台だより2」は、1979(昭和54)年7月号から10月号、「面白半分」に掲載。 2009(平成21)年3月、中公文庫エッセイ選集「わが蒸発始末記」に所収。 小林一茶1979(昭和54)年12月、雑誌「海」に初出。 1980(昭和55)年、中央公論社。 戯曲。 “こちら立花の源七さんというお人だが、行徳からの乗合船で乗り合せた俳諧師が自分と同じに水天宮で下船し、・・・(中略)・・・それならこれから途中で迎えうって、どっと市川真間まで繰り出そうではないか、ということに決まってこうやってとびだして来たところです。・・・”コメの話1992(平成4)年2月、新潮文庫。 米に関するエッセイ。「一粒のコメから地球を見れば」p91 “それから千葉県の市川市にも昭和三十年代には1300ヘクタールぐらいの田んぼがあったんですね。ところが20年ぐらいの間に、田んぼが四分の一に減ってしまった。四分の三が宅地になったわけです。あそこに真間川という川があります。桜の堤防で有名な川ですが、これも台風が来るたびに氾濫して、洪水ををおこす。以前は田んぼがあって、降った水を引き受けてくれていた。・・・(中略)・・・そこで、市川市は、大きな人工貯水池をつくる計画をたてましたが、その用地買収だけで120億円もかかりまし「続・コメの話」p265-266 “市川市の真間川もよく氾濫を起こした。とくに昭和41年、43年、61年には大洪水になった。急激な宅地化で水田が一気に潰されたのが原因である。・・・”ごろタク 『井上ひさし笑劇全集』1976(昭和51)年3月、講談社文庫「井上ひさし笑劇全集」上巻に所収。 戯曲掌編。p136 “乗客「(おずおずと)運転手さん、市川まで行っていただけませんでしょうか。」運転手「市川?」乗客「お願いします。」運転手「行ってもいいけどよお!この時間に市川へ行くとよお、帰りは空で戻んなくちゃなんねえからな。」・・・”p141 “女客「感じのいい運転手さん!」運転手「おそれいります。じゃ八王子へ参りましょう。」乗客「おい!市川はどうなるんだよ!」運転手「八王子へいってから、市川へまわりますよ。」乗客「おい!市川と八王子じゃ正反対だぞ!」”コンチキ・バンバン 『さまざまな自画像』1971(昭和46)年4月24日から5月29日、「朝日新聞」に初出。 1979(昭和54)年6月、中央公論社。エッセイ集4「さまざまな自画像」に所収。 エッセイ。p45 “そのころの私は、放送の仕事が忙しく、帰るのはいつも夜中の二時か三時、そこでどうしても、都心から市川市までタクシーを利用することになるのだが、あるとき、二晩続けて、血も凍るような恐ろしい車に乗る破目になってしまったのである。”さそりたち1975(昭和50)年5月、8月、11月、1976(昭和51)年2月、1978(昭和53)年8月、「オール読物」に初出。 1979(昭和54)年3月、文芸春秋。連載五編にプロローグとエピローグを書き下ろしで加筆。 松戸、市川、小岩を舞台として描かれたユーモア連作。作品中には市川駅周辺や国府台付近の様子が描かれている。「プロローグ」p6-7 “掛値なしにいいところだぜ。うちの店から西に向って歩くと、例の野菊の墓がある。そこからさらに西へ行けば矢切の渡しだ。日曜日には向岸の柴又帝釈天へ渡し船が出る。南は里見公園だ。園内すべて古戦場でね・・・(中略)・・・東は下総国分寺に国分尼寺がある。さらに東へ進めば、真間の手児奈だ。四月八日の花祭の鄙びた賑やかさ、これもなかなかいいぞ。手児奈堂の横には北原白秋の旧居があるが、そうだ、この市川ってとこは文人の旧居の多いところでな、永井荷風だろ、幸田露伴だろ、北原白秋だろ、水上勉だろ、五木自家製文章読本1981(昭和51)年2月から7月号、「波」に連載。 1984(昭和59)年4月、新潮社。1987(昭和62)年4月、新潮文庫。 文章論。「透明文章の怪」p62 “山下清の作文や放浪日記は、彼自身にとっては実用文の一種であった。『裸の大将放浪記』(ノーベル書房)の監修者の式場俊三はそのへんの事情を、≪清の手記もまた、すべて保護者である八幡学園の先生に読んでもらうためのものであった。作文は課題であり、追想日記は就寝前の夜業として書かされた。・・・≫”「冒頭と結尾」p137 “たとえば校歌作詞家としての折口信夫がそうであった。折口信夫は二十三枚の校歌をつくったが、半数以上の十四が同じパターンを持っている。・・・(中略)・・・千葉県市川市立八幡小学校校歌(昭和27年11月3日制定)はほれぼれするような歌詞だが、パターンはいつもの朝昼夜である。”私家版日本語文法1981(昭和56)年3月、新潮社。1984(昭和59)年9月、新潮文庫。 日本語に関するエッセイ集。「区切り符号への不義理」p127 “わたしは市川市民であるが、たとえば数日前の朝刊に次のような文章を刷った紙がはさまってきた。・・・(市川市民憲章の本文)・・・”十二人の手紙1978(昭和53)年6月、中央公論社。 手紙や書類で構成された不思議な連作短編集。「赤い手」p47 “生れたところ 千葉県市川市北方町六-一 船山産婦人科病院 住民登録住所 千葉県 市川市北方町六-八 みどり荘3号 ・・・”「隣からの声」p121 “とりいそぎ連絡申しあげます。わたしは市川市の関場病院に勤務する精神科医師ですが、昨夜、あなたのおくさんの水戸博子さんが関場病院に入院されました。”清張文学魅力のすべて 『風景はなみだにゆすれ』1973(昭和48)年11月、『松本清張の世界』(「文芸春秋」臨時増刊)に初出。 1979(昭和54)年4月、中央公論社。エッセイ集2「風景はなみだにゆすれ」に所収。 エッセイ。p172 “・・・たとえば、いつも通い慣れている駅、ぼくの場合は市川から通っているんですけれども、いつも降りている側の反対側に、ある日なんの気なしに降りると、同じ町なのにまるで違っていて、あれ、と思うようなことがありますね。・・・”帯勲車夫 『合牢者』1974(昭和49)年11月、「オール読物」に初出。 1975(昭和50)年3月、文芸春秋。「合牢者」に所収。 短編。p143 “あわれ妾どもの心底お察し下され、チト御保養がてら東京へお遊びにお出で下され候わば、妾どもの嬉しさは一方ならず、あるほどの限りお慰め申し上げて、月は嵐山のみならず東都八景はむろんのこと、池上晩鐘、芝浦晴嵐、羽根田落雁、玉川秋月、行徳帰帆、飛鳥山慕雪、吾嬬社夜雨、小金井橋夕照などの江戸近郊八景までも残らずご案内申し、・・・”たそがれやくざブルース1975(昭和50)年8月、「小説現代」に初出。 1991(平成3)年6月、講談社文庫。 小説。文庫版 「養鶏牧場の決闘」p220 “だが、小説と考えずに、これをある事件に関する報告として読むと、なかなかおもしろい。航空便がアメリカ南部の都市からわたしの住む市川市へ届くのに四日必要であるとすれば、…”手鎖心中1972(昭和47)年10月、文芸春秋。 長編小説。第67回直木賞を受賞。市川ではないが本屋のネーミングが「真間屋」。p46 “この七曲りの中ほどに真間屋という本屋があるが、絵草紙類だけでは立ち行かぬと見え、店の片隅には、三、四十種の江戸千代紙や、その他、硯に筆、紙の筆箱、一閑張りの小物入、三段重ねの小さな紙ひきだし、凧に豆帳面などが並べてある。”東京セブンローズ1982(昭和57)年4月刊行の「別冊文藝春秋」159号から、1997(平成9年)4月の「別冊文藝春秋」219号まで中断をふくみ連載。 1999(平成11)年3月、文藝春秋。大幅に加筆訂正。 長篇小説。p182 “「四日前と現在の市川市の結核患者の數を較べてみなさい。ぞっとしますよ。何しろ二倍近くもふえてゐる。原因の半分ぐらゐは名前だけの配給制度にある。と私は睨んでゐますがね。・・・」”p186 “上野公園では市川醫師會の先生方が落花生と握飯を待ってゐる。自分が遅れればその分だけ、落花生や握飯を貰ひ損ねる戰災者の數が殖える。急がなければならない。背後の荷臺に積まれてゐるのは、いはば帝都を去る戰災者への御餞別である。市川、松戸兩市の市民からのはなむけである。愚圖々々してはいられない。それに下矢切へ出るこの陸前濱街道は知らない道ではない。・・・(中略)・・・ただし、下矢切から國府臺を経て市川橋東詰に至る間の幅廣の一本道は、注意を要する。道の右手、江戸川側に騎砲大隊の兵営がある。川畔に臨む里見とくとく歌仙1989(平成元)年、「文学界」新年特別号に「菊のやどの巻」初出。 1991(平成3)年11月、文芸春秋。 丸谷才一、大岡信、高橋治と歌仙(連歌・俳諧の形式の一つで、長句と短句を交互に36句続けたもの)を綴ったもの。p58 “「葛飾は肥桶舟さへ歌枕」”ドン松五郎の生活1975(昭和50)年1月、新潮社。 作者42歳の作。 “なにしろ丘の下を流れる江戸川をひとつ越せば東京だ。この丘陵は住宅地として評価されはじめた。” “わしの生まれるよりも前、この丘陵地帯は陸軍砲兵部隊の演習地だったそうだ。が、戦争が終ってからは、犬の年月にして八年間、人間の年月でいえば一年間、荒野のまま放置されていた”中村岩五郎 『井上ひさし全芝居』1992(平成4)年10月、「すばる」に初出。 1994(平成6)年10月、新潮社。「井上ひさし全芝居 その五」に所収。 戯曲。1992年9月3日~13日まで、東京・紀伊国屋ホールで初演。p399 “もとより、出は市川のお惣菜屋、中学校にやつてきた歌舞伎教室を観て、おれの未来はこれで決まつたと勝手に思ひ込み、担任の先生の、「同じ市川でも、市川家なら出世の見込みもあるだらうが、市川市といふだけぢや先行きは暗いぞ」といふ忠告も上の空のどこ吹く風、・・・・”p404 「・・・その母親、現在、市川市の養護ホームに御厄介になつてをりますが、同室のおばあさんたちについてうつかり、「うちの子は歌舞伎の役者」と自慢したのが悪かった。みんなから「中村岩五郎なんて聞いたことp404 “「・・・その母親、現在、市川市の養護ホームに御厄介になつてをりますが、同室のおばあさんたちについてうつかり、「うちの子は歌舞伎の役者」と自慢したのが悪かった。みんなから「中村岩五郎なんて聞いたこともない」と言はれ、・・・」”p406 “「・・・劇場がはねたら三木書店組を近くのホテルのロビーに待たせておくの、市川養護ホーム組を有楽町駅まで送るの、駅で朝日の夕刊を買ふの、・・・」”涙から明日へ 『さまざまな自画像』1971(昭和46)年10月29日号、「朝日ジャーナル」に初出。 1979(昭和54)年6月、中央公論社。エッセイ集4「さまざまな自画像」に所収。 エッセイ。p133 “「堺正章のような」彼は、いま、東京郊外の新興都市の小さな百貨店のフロア主任をしている。・・・(中略)・・・「国分町の林様、二階まで至急お越しくださいませ」これは暗号で、「警備員さん、二階で万引が発生したわよ。すぐ来て」という意味だ。”偽原始人1975(昭和50)~1976(昭和51)年、「朝日新聞」に連載。 1976(昭和51)年、朝日新聞社。 作者42歳の作。文中の国分台貝塚の名称は、作者の創作。 “体操のつぎは、近くの下総国分寺や真間山をかけ足でひとまわりしてくるのが、日の出学習塾の「夏季特別学集会」のきまりだということを、ぼくは知ってたんだ。” “林のあるところは国分台貝塚という丘だ。丘の直径は二百十三メートル、周囲は九百六十七メートル。丘のいちばん高いところが海抜八十三メートル、畑は海抜五十メートル、つまり、畑に立って眺めると、国分台貝塚は三十三メートルの高さの丘ということなる。これもぼくの調べた数字じゃない。丘の入口に、「ちかんに注意しましょう!国分台小PTA」と赤ペンキで書いた立札がたっているけど、そのとなりに「国分台貝塚について」という立札もあって、それに書いてあることを写しただけだ。”ニホン語日記1989(平成元)年4月20日号から1990(平成2)年9月27日号、および1992(平成4)年1月16日号から7月9日号、「週刊文春」に隔週掲載。 1993(平成5)年6月、文芸春秋。 日本語に関するエッセイ集。「このごろの愛読書」p160-161 “・・・つまり和洋女子大附属国府台女子中のが悪いヒッカケを狙ったものだとすれば、こっちのは出来の悪いメンタルテストだ。”「マニュアル敬語」p9 “『月刊いちかわ』という市川市のタウン誌があって、毎号、掲載される天気予報カレンダーがおもしろい。市内でラーメン屋をやっておいでの杉田さんが独特の方法で何十日も先の天候を占うのであるが、・・・”日本亭主図鑑1975(昭和50)年7月、新潮社。 作者42歳の作。 “わたしは千葉は九十九里浜の魚婆でございます。この『日本亭主図鑑』のなかにも六回ほど姿をあらわしておりますので、おぼえてくださっている読者もおいでになろうかと存じますが、朝、銚子の魚市場で仕入れた魚を背負籠に入れて、午前中は千葉市内のお得意様を行商して歩きます。売れ残りがあるときは市川や小岩あたりまで足をのばします。・・・”人間合格1990(平成2)年7月、「すばる」に初出。 1990(平成2)年3月、集英社。 戯曲。p235 “おやじ「ま、劇団経営でいろいろあったんじゃないのかね。それに人気商売だしさ。とにかく彼女は、山田定一を市川の病院に入れて、自分は近くの小岩でダンサーをやって、面倒をみているらしいよ。」”馬喰八十八伝1980(昭和55)年1月11日から10月24日号、「週刊朝日」に初出。 1986(昭和61)年4月、朝日新聞社。 江戸時代の初め頃、下総国に馬産地として知られた桜七牧、馬喰の若者が主人公。中山法華経寺、下総国分寺、市川宿などが舞台として登場する。p103-104 “(駒太夫のことだ、小吉を大将にして追手をかけてくるにちがいない。よし、それなら正反対の方角の真西、下総中山の法華経寺へ行くことにしよう。おっかさまも中山の法華経寺なきっと納得してくれるだろう)下総中山の法華経寺は、日蓮上人様が法難を避けるためにしばしば引き籠ったという由緒のあるである。「成田様が八十八ヶ所目、成田様から香取、鹿島へ回って、それから西へ逆戻り中山法華経寺に詣る。中山法華経寺から市川真間の手古奈堂、そして下総国分寺。江戸川の矢切の渡しを渡れば葛飾柴又帝釈天。帝釈様を拝んで草p109 “そのお金で施療院をお建てになるのだそうですよ。下総国分尼寺は、下総国分寺から西へ五町ばかり離れたところにあるのですけれど、国分寺と国分尼寺との間の雑木林がすでに切り拓かれておりました。・・・”p126 “さて桜川を平底舟でくだった金兵衛は櫂も櫓もない舟まかせ、気がつくと江戸前の海へ出ていた。そして潮に流されて浦安へ着いた。そこで舟を捨て、馬の皮を担いで市川宿に入ったのが前日の夕景。・・・”箱根強羅ホテル2005(平成17)年7月、「すばる」に初出。 2006(平成18)年2月、集英社。 戯曲。p200 “智恵子「(止めて)荷物ほどくのもたいへん、火を起こすのもたいへん。そう、これ、加藤さんからのはがき。いま配達になったばかり。(日付を見て)市川郵便局で四日前の受付け。」”花子さん 『国語事件殺人辞典』1978(昭和53)年8月、「すばる」に初出。 1982(昭和57)年10月、新潮社「国語事件殺人辞典」に所収。 戯曲。五月舎第二十回公演作品。1978(昭和53)年2月4日から24日まで21日間23回、紀伊国屋ホールで上演された。新潮社単行本p150 “わたしの主治医、市川国府台の精神病院の院長いわく。”新潮社単行本p158 “「というのは、去年一年、市川国府台の関場病院に入院していましたので、計らずもその余裕ができたからなのですが・・・。」「関場病院といえば精神病院ではないか。」”新潮社単行本p171 “「戦争末期、市川国府台の高射砲部隊にいたころ、こいつ、ちょっとした事故にあいましてね、弾丸をつめてB29めがけてズドンと打ったつもりが、弾丸の野郎、無精をきめこみやがって飛びださねえ、砲身のなかで破裂しやがった。」”新潮社単行本p175 “「嘘だと思うなら市川の国立国府台病院で資料を調べてみな。こないだの戦さであそこの病院に、そのころは陸軍病院だったがね、とにかくあそこの病院にゃ延べ一万四千五十四名の精神障害者が入院してるんだ。そのうちの三人がこのおれたちよ。」・・・(中略)・・・「おれたちは『太平洋戦争中における市川国府台陸軍病院小史』ってパンフレット作りを一生の仕事にしている。・・・」”花よりタンゴ1986(昭和61)年10月、集英社。 戯曲。副題として「銀座ラッキーダンスホール物語」p139 p29 “藤子 一昨年、市川から引き取られてきたの。梅子と同じ年齢。金太郎 (はっと思い当って小指を立てて)御前の別宅さまの?はあ…。御前をお車にお乗せして市川へうかがうたびにお小遣いを頂戴したものでしたが。よく気のつくいい方でございました。それで別宅さまはお元気にしてらっしゃいますか。桃子 江戸川べりを父と散歩しているところをグラマンに襲われたの。そのときの機銃掃射で父も…。”春休み1985(昭和60)年4月、「IN・POCKET」に所出。 1987(昭和62)年6月、講談社。「ナイン」に所収。 短編。p154 “今のところは市川へ出るにしても松戸に出るにしても不便でございますがね、間もなくこの近くに新線が敷かれることになっておりまして、しかもその新線は都営地下鉄につながります。そうなりますと、銀座まで三十五分か四十分で出られるんじゃないでしょうか。空気はよし、都心は近し、このへんは穴場でございます。”(「春休み」より)ひさしとわたし(ロジャー・パルバース/著、上杉隼人/訳)2003(平成15)年2月、「國文学」に初出。 ロジャー・パルバースによるエッセイ。 “ぼくは一九七五年の年末も市川の井上家に泊めてもらったが、その日、ひさしさんは、NHKの「行く年来る年」の取材を受けた。・・・(中略)・・・日本に戻ったひさしさんは、その問題の半年間も、前よりもっと寛大になって、ぼくとぼくの前の妻を市川の自宅に迎え入れてくれた。ぼくはほんとうに井上家の最高の居候だった。・・・(中略)・・・一九八二年の初夏に日本に渡った。今度もひさしさんと好子さんは、ぼくを市川の自宅にやさしく迎えてくれた。・・・”百年戦争1994(平成6)年5月、講談社文庫より上下巻で刊行。文庫版下巻p192 “「・・・いろんな中学の野球部から入部の勧誘がありましょう。そこであなたは市川市内の中学校へ進みます」「どうして市川市内の中学校なんだろ」「理由はふたつあります。ひとつ、習志野高校へ進学するため。ふたつ、あなたのおとうさんの弟さんが市川市内で精肉店をやっているので、そこへの寄宿が可能なためですな」・・・”不忠臣蔵1980(昭和55)年5月から1984(昭和59)年12月号、「すばる」に初出。 1985(昭和60)年12月、集英社。 長編小説。「松本新五左衛門」p358 “八右衛門新田一本柳の太兵衛の末ッ子で太吉という若者が下総国分寺市川の名主さんのところへ聟入りしました。・・・”「鈴木田重八」p204 “次善の策として、江戸の周辺を逃げ回り、お二人を引きずり回すことに決めました。川越、関宿、佐原、船橋、松戸、市川、逃げ回りながらも江戸へ近づいて行き、極月十二日に市川に入る。十二日夜、市川に、寺坂吉右衛門がやってくる手筈になっていた。そのとき討入りの日時が判明する。しかし関宿で腿の骨を折ったとき、もう自分は脱盟者になるしかないと思いました。・・・”p358 “八右衛門新田一本柳の太兵衛の末ッ子で太吉という若者が下総国分寺市川の名主さんのところへ聟入りしました。ブラウン監獄の四季1977(昭和52)年 月、講談社。1979(昭和54)年7月、講談社文庫。 エッセイ集。テレビの放送作家をしていた頃を綴ったエッセイ集。「監獄入りを果すまで」p7 “また、テレビ局の放送塔の林立する都心は、ぼくの住む市川からは西にあたり、したがって昼寝や仮寝するときでも決して西方浄土に足を向けて横になって・・・”「巷談俗説による日本放送協会論 その一」p199 “ぼくの住む市川から東京へ国電で出かけるのに、この秋からは片道150円はかかることになりそうである。往復300円である。・・・”それからのブンとフン 『井上ひさし全芝居』1974(昭和49)年11月、「新劇」に初出。 1976(昭和51)年11月、新潮社「雨」に所収。1983(昭和58)年9月、「雨」を新潮文庫より刊行。1994(平成6)年5月、新潮社。「井上ひさし全芝居 その二」に所収。 戯曲。1975年1月16日~2月5日まで、テアトル・エコー第46回公演として初演。全芝居版p164 6.さらにふたつのテレビ番組 イ.こんにちは、フン先生 “東京郊外下総国分寺裏のフンの家。フンが例の木箱机に獅噛みつき、折込み広告利用の原稿用紙に向ってなにか書きまくっている。・・・”ブンとフン1972(昭和47)年9月、朝日ソノラマ。 長編。第六章「ブンと悪魔」p133 “「わかっています。で、フン先生というひとの家の所番地は?」「市川市のはずれに下総の国分寺>という有名なお寺がある。そのお寺の裏側の畑の中の一軒家だ。」・・・”第六章「ブンと悪魔」p151 “ここは市川、国分寺。フン先生は、寝るところであった。”本の運命1996(平成8)年6月号から9月号、「本の話」に初出。 1997(平成9)年4月、文芸春秋。 エッセイ。p101 “新しい本って、つい袋に入れたまま部屋に置いて、そのままツンドクになる恐れがあるでしょう。ですから、本を持って、その日の気分で金町とか柴又とか-当時、僕は市川に住んでましたから-、近くの町へ行く。・・・”(第四章「無謀な二つの誓い」の巻、「本の新婚旅行」より)民謡 『さまざまな自画像』1971(昭和46)年2月18日号、「朝日ジャーナル」に初出。 1979(昭和54)年6月、中央公論社。エッセイ集4「さまざまな自画像」に所収。 エッセイ。p156 “五年前、ぼくの家のすぐ近くに吃音治療学校が建てられることになり、敷地の隅にまず小さな飯場が出来あがったが、そこに住込んだ作業員の中にひとり山形県人がいた。・・・(中略)・・・「おっちゃん、中山まで馬券を買いに行っとくれ」などと、便利に使われているようだった。”野球盲導犬チビの告白1978(昭和53)年7月7日号から1980(昭和55)年1月25日号の「週刊新潮」に連載。 1986(昭和63)年11月、実業之日本社。 長篇小説。p19 “どこへ行こうというあてもない。が、とにかく市川の国分寺をめざして千葉街道をてくてくと西に歩きつづけた。市川の下総国分寺、ここにはあのドン松五郎先生のお墓がある。先生の墓前にぬかずいて未来のことを思案しようと思ったわけです。”p54 “「六年前になりますか、江戸川のグラウンドで見つけたんですよ。そのとき彼は江戸川区の松本中学の四番でした。それが河川敷のグラウンドから対岸の市川側まで三本も打ち込んだ・・・」「江戸川ってそんなに川幅が狭いの」・・・(中略)・・・「ばかばかしい。野球のボールがそんなに飛ぶもんか。それとも市川辺にゃ重力のない地帯でもあるのかね」”闇に咲く花1987(昭和62)年12月、講談社。 戯曲。副題として「愛敬稲荷神社物語」p149 “民子「市川橋の検問所に午後四時。」”p155 “公麿「今日、銚子や勝浦方面から腐れ鰯を積んで市川橋検問所を通ろうとした貨物自動車の数・・・。」”p84-85 “藤子「千葉街道の検問はいつも市川橋の小岩側袂だったわね。」”・・・(中略)・・・“藤子「(四人に)やはり市川橋だって。」”夢の泪2004(平成16)年7月、新潮社。 戯曲。「東京裁判」をモチーフにした三部作の第二部。p54 “正「・・・市川の実家に預けておいた四歳の長男を連れて、大学イモを持って行ったのですが、夫は大好物の大学イモには見向きもせず、長男を膝に乗せたまま、何度も何度もこの唄を歌っておりました。・・・」”世は「平等」ばやり- 私の”ぶんか論”「悪党と幽霊」1982(昭和57)年9月、学習研究社『明治の古典』第一巻 1989(平成元)年5月、中央公論社。エッセイ集7「悪党と幽霊」に所収。 エッセイ。p30 “ちかごろは芝居とはまるで関係のなさそうな警官でさえ芝居をする。この五月中旬、市川市の住宅街で女児監禁事件が起こった。三十四歳の塗装工が、たまたますれちがった若い母親から赤ン坊を奪い取り、近くの新聞販売店の三階に立てこもってしまった。・・・”四千万歩の男1990(平成2)年1~5月、講談社。全五巻。 伊能忠敬の生涯を描く長編小説。小名木川の説明部分。四巻p98 “小名木川は徳川家康が行徳(千葉県市川市)の塩の搬入路として、慶長年間に開削した運河である。” 四千万歩の男忠敬の生き方1979(昭和54)年、「くりま」 2000(平成12)年12月、講談社。「地図ゲーム」p104 “なお、そのころぼくは市川市郊外の小さな建売住宅に住んでいたが、思えばそれも井原さんの破格の台本料があればこそだった。・・・”わがマイホーム遍歴 『さまざまな自画像』1973(昭和48)年3月9日、「毎日新聞」に初出。 1979(昭和54)年6月、中央公論社。エッセイ集4「さまざまな自画像」に所収。 エッセイ。p77 “いまの家に移り住んだのが八年前。市川の駅からバスで十分くらい。バスを降りるころには、客はいつも二、三人しか残っていないさびしさだった。当時は、どうしてこんな地の果てに住まなければならないのか、なんて思ったものだけど、最近は、バスの終点もずっと先まで伸びて、・・・”わが町市川 『わが蒸発始末記』1980(昭和55)年1月22日、「東京新聞」に初出。2009(平成21)年3月、中公文庫・エッセイ選集「わが蒸発始末記」に所収。
Feb 25, 2018
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デイケア配車の帰路での話である。帰りのマイクロバス🚌配車では、車が🚘一台やっと通れる道幅が連なる処を抜けて行った。ほんの少し拡幅工事👷♂️をした場所で車内の会話が聞こえた。此処が、あの、井上ひさしさんが住んでいたところ、その前辺りが、あの、本宮ひろ志さんが住んでいたところだよ。と、町内会長を長年務め上げた通称「(老)社長さん」が説明してくれた。相槌を打つのが、この辺りは「蛍=明るい」と嘯く「(老)学者さん?」。市の文学露地については、有名人の噂が多いが取り敢えずこのお二人の話題に上がった、文人たちの市を愛した時期・記事を探ってみたい。iPhoneから送信
Feb 24, 2018
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★ 先日は、慣例になっている整骨院通いから帰宅して 二階で休んでいると、ピンポーン!が鳴った。 玄関の人感センサーの音だから、 家内の出入りだと思っていると 少し長いようであり、慌てて階段を降りると ポストに荷物を入れる処の友人がいた。★ 早朝テニスの友人であり、 動植物園の人気ミニテツ機関車の運転手さんであった。 小生が長らく早朝テニスを休んでいたので 気にして立ち寄ってくれたのであった。////////////////// 昨年は、鉄道列車の写真がふんだんに載っている「JR東海カレンダー」を 戴き、その写真が素晴らしいので、写真だけ切り離して13枚を交代に 小生の部屋に飾ってある。 今年は、なんと、動植物園の円筒形ドロップキャンディと 普通サイズのドロップキャンディで、両方に、動物園の 人気者のシセンレッサーパンダ、ニホンザル、コツメカワウソ、 オランウータン、カピバラ、などの写真が鏤められている。///////////////////////////// ★ 彼の運転するミニ鉄新幹線である。 何といっても、子供たちの人気者はミニ鉄道ではないだろうか! 4月になったら、早朝テニスの新しい練習場も決まるだろうし、 小生も何とかテニスをできるまでに回復したいものである。 孫たちと動植物園に行って、動物たちや、ミニ鉄道の列車や 機関車の運転手さんたちに 会いたいものである。★ さて、 その前に、西北部地域のテニス練習場を確保できるように 新しい市長さんに頼まないといけないのである。 西北部では、9面のコートが、現在3面に減り、 さらに、その存続も危ぶまれる始末である。 西部地域の老若男女が培ってきたテニスの芽を潰すような 乱暴が許されてはならない。 スポーツは健康の維持には欠かせないものである。 スポーツ庁長官は「地域スポーツ」の必要性を一番知っているはずである。 健康都市を宣言している当市がスポーツを無視できないはずで、 来年の1月が市長選挙なのだ。★ 動植物園の年末年始の休園日 12月28日~1月2日 不確かだからご自分で確認ください。 腰痛なのでこれくらいで失礼します。★
Dec 27, 2017
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<九州の火山カメラ:気象庁から> 九州地震が無事に治まりますように★・小生の年賀状を勝手に区分けしてみる主な項目今年の感想・自覚・希望などの内容(めいてい君のコメント) 人生観 順境に楽観せず 逆境に悲観せず 現状に満足せず まだまだ「人生色々」、楽しみましょう コンサルテーションなどで現役の人も少なからず (徒然なるままの人生で、野草のようにたくましく・・・) 健康 早すぎる仲間の先立ちから自分の健康を顧みる 引き続き健康管理、リハビリ 息災でいることの難しさよ 伴侶の看護で大好きな釣行もままならない1年、今年こそ ようやく回復して大魚の釣り上げを報告!? (自分しか自分の健康は守れないのです!) 平和の願い 広島の原爆ドームから世界の平和を願う 地球儀を俯瞰する多重・多角的外交関係の重要性 (米国第一主義と世界平和の関係は?) 老齢化 75歳以上>14歳以下人口、一億総活躍社会とは? 8掛けの60歳が我が年齢(体力を付けて長生きすることは、国のますますの老齢化?) 予想 想定 予測 「想定外を想定すべき時代」には、 広いスタンス、心の柔軟性を構築 (確率論の予測に前提条件を残すこと?T.ホーヴェルモに学べ)「まさか」 の時代 英EU離脱(議会承認は?)、トランプ新大統領のアメリカ第一主義、北方領土見返り少ない?協力要請、世界各地でテロの多重勃発、etc.続行 (フン族、モンゴル帝国の西進のような中国の一帯一路政策構想。 元寇のようにシナ海を越えて東方にも押し寄せる 中国に、時宗のように安部政権が備えることが出来るか。 中国は、本来、自国の国民、環境等をもっと大事にするべきでは。) AI、IoT 人型ロボットやAIペットの活躍時代 AI囲碁で人間の敗北(人間の世界でも他国のブランド登録、浅海・深海の命名、 宇宙の命名権など工夫?競争。先取特権?) 予想外の 中に真実 米国では過去45年間に実質所得は5倍、 その恩恵はひとえに1%以下の人口 (その怒りはなんと成功者=Triumphの担ぎ上げに? 悩める人々の「怒りの葡萄」は成功か失敗か?) 神ってル1 熊本地震では実家は半壊、地元支援や老母の介護などを 地元転勤で邁進冲 (地方再生より創生で新しい災害対策を)神ってル2 無菌室からの無事なる生還で、現在は人生の幸せを実感中です その快気祝いの呼びかけも多数 (折角の、拾った命を無駄にせず、 無理せず、新たな人生を夫婦で息長く幸せにおくろう) 農耕生活 地方での野菜造りに専念 (青雲荘の主人=故人が懐かしい) 散策 シルバーパスでのほっつき歩き (小池都知事は築地・豊洲を早く解決しないと) 旅行 N.Y.(トランプタワーも)、クロアチア(ドブロヴニク)、上海・安徽省など (昨年まで海外旅行が多かったがめっきり減った?) 祭り 「だんじり祭り」に40年ぶり参加 (各地の美しい写真も素晴らしい) 写真1 美ヶ原王ヶ原の日の出 (最も美味しい玉子のよう) 写真2 旭山動物園のペンギン (ペンギン=鳥ですネ。人鳥、企鵝(きが)ともいう。) 写真3 花々 (身近な所にも美が) 写真4 ご夫妻、 10人の大所帯家族 絵の写真 伊藤若冲の「群鶏図(部分)」、「雪中雄鶏図」細見美術館 (今年のトリ) スポーツ 東京マラソン参加、太極拳、ヨガ、テニスは多数 (お手紙を戴いた方達は皆元気です) 版画 谷川岳連邦、クロアチア(ドブロヴニク)など (数少なくなりました) 読書 「本物のおとな論」外山滋比古氏 登頂 夫婦で槍ヶ岳登山 (最近の登山者は老齢者が多くなっている、気を付けて) 神仏の國 萬の神々をみて、仏を祭る民族性 山野・四海に味覚を求め、癒しの温泉と旨い酒を楽しむ (新しい本を読みたい気持ち) その他 多くの「元気」をもらいました <2名の先輩・同輩から来年からの年賀状を手足の不自由などから 欠礼するとのご挨拶があった。 本来なら音信不通となるのが当たり前だが、事前にご丁寧な 挨拶を戴き恐縮している。>★ ・年賀状の中にあった伊藤若冲の「雪中群鶏図」のWeb画像 (世界的に有名な経済学者の年賀状から) ★
Jan 3, 2017
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★小生は、呆けのブログを書いている。多分に間違った論調であるから諸兄には迷惑であろう。ただ、小生にとっては脳幹梗塞のリハビリであるからご勘弁願うばかり。★小生の文章を心配してくれる友人が居ることを有り難く思うことがあった。仲間間でメールの遣り取りをしているが、仲間内で会合開催の同報通信があった。同報通信の中に故人名が含まれていたから発信者に「故人名をアドレスから抜くように」との注意文をいれて故人名を除いて同報通信で「出席」の返信をした。★呆け頭の小生を日頃気遣ってくれる仲間は、小生の同報メール返事を見て、故人は記載されていないのに、故人を除外するように指示していると考えたらしい。当初の発信者のミスであるが、わざわざ小生を気遣って連絡してくれたことを有り難く思った次第である。★無視すれば何でもないことであるが、ミスであっても有り難い「忠告」であった。★ 同報メールの返事で「宛名の編集」は最初は戸惑ったが削除、移動などはできた。件の友人は、単純に「全員返信」を小生がしたと思ったに過ぎない。小生も「呆けを疑われる年代」なのであることを実感した。★呆けの自戒?である。★ 参考:1.発信者の同報メール宛名: A,B,C,D(故人),E,F,G(会長),H,・・・・・2.小生からの同報メール返事の宛名: G(会長),A,B,C,E,F,H,・・・ ★
Apr 8, 2016
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★ボケの小生だけの気掛かりな問題である。小生たちはメーリング仲間である。お互いのアドレスを見れば誰からか判るのであるから少人数では差出人の名前を書かなくても判る。ただ、30人くらいになると難しい。100人ともなると全くわからない。ニックネームをつけない仲間はホームページを見ることが出来ないML仲間である。共通の画像や、記録は見ることが出来ない。★であるから、小生たちの仲間は、幹事クラスは本名を使い、幹事以外はニックネームのままでもいいことにしている。友人の中には百貨店の「屋号」を使っている者もいる。ある友人が、「屋号」を使用したいと言ってきた。古い家柄であり、本来の名前は「清左衛門」を代々引き継ぐという。「屋号」は「三屋」だという。彼の「ニックネーム」は「三屋清左衛門」となっている。「三屋清左衛門」のニックネームを使用する御仁は、嘗てご子息の結婚式を東京ドームで執り行うなど奇想天外な着想を持っている。使用するニックネームも意味深長である。★今夜、BSフジで19:00~20:55に藤沢周平の時代劇小説「三屋清左衛門残日録」の放映が始まる。呆けの小生は、彼の申し出を信じてニックネームを受け入れてきたが、その名前は、江戸時代の東北の架空藩江戸屋敷の側用人が、藩主とともに引退して、隠居生活をしながら第二の人生の日記を書く姿であった。今夜7時からの放映が楽しみである。★ <BSフジより>★翌日(2.7)、視聴後、別の親友からのメールを紹介//////残日録を昨夜は見ました。北大路欣也、伊東四朗など馴染みのある俳優が出演しており結構楽しむことが出来ました。会社引退後の我々と同じ立場の主人公が活躍する場面。元気が湧きました。我々もまだまだやれそうですね。・・・・///////実は彼はまだまだ頑張っている。小生のように、めいてい君のブログ(=めいてい君の残日録)を書きっぱなしの暇人と違い、東奔西走で多忙である。★
Feb 6, 2016
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★会社の同期生は有志で毎月第一火曜日に大手町界隈の本社のあった近くの小さな喫茶店のような酒場で集まっている。小生は、時たましか顔を出さないが、今日は忘年会であった。・・ 当時の新入生(男性)は、赤穂浪士と同じ47士であり、本社研修後は、会社の本社および主要支店に散らばった。また、互いに転勤も多いから各地で再会している。★小生たちは不況時に入社したからみんなが優秀だと思い込んでいるくらいの、いい仲間である。他の同期生よりも仲間意識が強いかもしれない。★今夜は、在京メンバーのうち半分の14人が集まった。/// ところで、毎年のように、懐かしい友人たちが消えてゆく。今年は、小生が入社時に親交を深めた友人が二人も旅立った。/// 寂しい限りであるが、14人も集まると、当初判らない人もいる。しばらくすると、白髪や禿げ頭とはなっても昔の面影で思い出せる。★乾杯のあと、各自の近況報告が続く。喝さいが続き、美味しい「クエ料理=刺身、煮物、雑炊、その他」に舌鼓を打って、皆は酔っぱらってしまった。 <クエ料理(じゃらんより)・・・これより遥かに小ぶりの形>★最後に、来年の全国同期会は、何0周年行事でもあり いつもの箱根ではなく、近場の浅草付近に一泊し、 屋形船や押し上げスカイツリーなどを楽しむ会とすることになった。 <こんな豪勢ではないようだ>年寄なので、近場で一泊しようというのもいいかもしれない。特に、脳幹梗塞の小生にはありがたい話である。本当は、アサヒビール本社の屋上で飲むビールが一番おいしかったのでそれも加えてほしいのだけれど・・・ ★元気な仲間には夫婦でニューヨークまで観劇に出かける計画もあるようだ。やや元気がなくなっている仲間が多い中では、近場のほうがいいだろう。ところが、この近場が中国をはじめ外人旅行客が宿泊して大変な需要超過という。幹事は、それを見越して既に予約はしてきたらしい。来年のことを言うと鬼が笑うというけれど、兎に角、みんな元気で再会できればありがたい。今日はいつになく酔っ払い気分である。★
Dec 1, 2015
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★昨年、板垣退助のような白鬚を生やし、 ステッキを小脇に抱えた好々爺にゼミ同窓会でお会いした。小諸にある青雲荘から元気溌剌としたお便りが届いたので個人情報を取り除き、勝手に掲載させていただくこととする。本人から異論があれば即座に差し替えます。・・・ 都会?に住む我々には懐かしい里の便りの響きを聞きたいからである。序文によると、昨年6月に孫が誕生し、なんと予定日より2.5ヶ月の早産がNICUでの生育で3kgの丸々とした健康児として成長したとある。おめでとうございます! 姉とともに元気に成長の様子。姉が舐めるように可愛がるのは、滅菌室に長く居た無菌の弟に、この世に慣れさせようとする天女の仕草かも。 ・ ★ ・本文写経・(加筆修正します)昨年も、家庭菜園三昧の一年。残念ながら、夏の長雨、自然条件に恵まれず、夏野菜作柄は、じゃが芋、キャベツ、ピーマン、甘長唐辛子(初挑戦)を除いて総じて不良であった。特筆は、じゃが芋でふつうは種芋3kgでは45kgを収穫できれば上々なのに60kgの大豊作。大きく実ったお芋が土の中からコロコロと現れるのは、正に楽しみ、歓びの極致。思うに、不作の要因は、1.未だ勉強不足、経験不足で腕不足2.頑固な無農薬の死守、 にある。茄子、トマトの害虫・ニジュウヤボシテントウは手作業の駆除は限界。玉蜀黍は二年続いて、収穫前にごっそりと食害に遭遇。・ 秋冬野菜の大根・野沢菜は大豊作、越冬用に沢庵・塩漬け。 一方で、葉物野菜の白菜は、害虫が芋虫類とばかり思っていたが、昨年初めて、イナゴ、バッタ、さらに、ミミズ、ナメクジまで参入しました。・・・・・・人間が、自然の中に割り込んで活路を見出すことの難しさを、厳しく教えられました。・・・・・・レタスはその「独特の香りの作為」か、害虫の被害はなく、日照不足による病気で思うような結果は見られず。昨年は、既存菜園の土つくり、野菜手入れで忙しく、加齢もあって開墾ができなかった。今年は畑の拡張に頑張りたい。 ★病気について:昨年7月「発作性心房細動」を患う。(AEDがいるのだろうか・・・めいてい君)酒は生甲斐(美味には感じないが)であり止められない。いつでも止められると思う、タバコは止めた。しかし、タバコは止めると毎日頭の中にタバコが過ぎり、 6ヶ月目となるが禁煙の継続には困難が直面。「成人病」から「生活習慣病」への病名変更者の頭脳明晰ぶりに、やっと気がつく始末。 (めいてい君には、タバコは「強制労働のための政府公認の麻薬」に見える) ★読書:目標は「紅楼夢全7巻読破」 VS 実績5.5巻まで(今年は読破!) 小諸の図書館通いも慣れて晴耕雨読の「雨読」にも時間配分。 今年もよろしく! 平成27年元旦 青雲荘亭主敬白 ★・ 以上の、活き活きした便りでした。★現在の箱根駅伝は8区「遊行寺坂」で青山学院大学が独走体勢。後は混戦状態。10区のGoalの読売新聞前まであと少し。頑張れ!・・・ 青山学院大学が10:49:27でブッチギリ総合優勝。2位駒澤大学11:00:17 とは 10:50差であった。1:05遅れただけの3位の東洋大学、4位明治大学、5位早稲田大学は、11:01:22~11:02:15と僅差。 最終ランナー創価大学とは、42:13差である。 ・・・ 小生の旧友が昨年なくなったが青山学院大学出身。カントリー&ウエスタンとベースが得意なハンサムボーイ(昔)であった。天国で大喜びしているだろう。 ★ 箱根駅伝区間は総延長で217.1kmだから優勝チームは10.82時間で走り抜けたから、時速20.06km/hとなる。最も遅いチームでも時速18.84km/hである。天下の険を越える駅伝だ・・・ ★
Jan 3, 2015
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★小生が参列した葬儀の形式は、仏式がほとんどで、身内では神式である。昨日は、小生としては初めてクリスチャンの葬儀に参列した。それは、小生の旧友がクリスチャンであるから葬儀に行くと、キリスト教の葬式であっただけである。★ 出席者が誰であろうと、祀られる人の宗教が優先するのが儀式であるから、自分の教儀で儀式に対応することは許されない。そのような宗教儀式がいやなら、儀式に出席しなければいいのである。しかし、宗教とは別に、血縁、地縁、学縁はあるのであり、いわゆる「世間では」自分の宗教の儀式はさておいて、「縁」で死者の宗教に合わさざるをえないのである。葬儀の出席に際しては、お祈り以外に、仏教では香典、神式では玉串料を包むが、キリスト教カトリックでは「御ミサ料」として白無地の封筒に、キリスト教プロテスタントでは「献花料」、「お花料」 として同様の封筒、または十字架や白百合の絵入り封筒に包む。キリスト教では単に仏式の香典にあたるものを弔慰金という。 ★旧友はそうした面倒なことを参列者のために気遣ってくれたようであり、一切の香典類、供物類を遠慮してくれた。★ 小生の足が術後は心許ないので予定の 1時間半前に自宅を出発し、一時間前に教会についた。 受付で、故人との関係(小生は学友)、住所電話番号をカードに書くだけでよく、教会の座席の3列目以降の一般席一番に案内してくれた。前面の天空に伸びる嵌め込みガラスの下に木製の十字架がクッキリと見える。オルガンの練習をしているようで腹に響く音が重厚さを増す。 <イメージとして大浦天主堂をWIKIPEDIAから> ・ 故人の遺影があり、白百合に覆われた故人にも対面できるように配慮されている。教会では牧師の独壇場であり、すべてが牧師によってリードされ、オルガンの伴奏で進行し、全員がオーケストラの楽器宜しく共鳴し、賛美歌を歌い上げ、絶唱型ハーモニーを醸し出す。たまたまなのか、聞いたような童謡か民謡みたいである。誰でも歌いやすいように、ハモれるように出来ている。音符も歌詞も印刷されている。★豊臣秀吉がキリシタン布教禁止に動いたのも頷ける。それだけ意外に簡単に俄キリシタンになれるのだ。教会にいる間は小生もまるでクリスチャンのような気分であった。・ いごっそうの小生には、メキシコのアステカ文明を地下に葬り去り、キリスト教文明をその上に建設させることを認めたキリスト教本部にはしっくり来ないものがある。すでに陸伝いに世界に散らばっていた人類が住む大陸を、「新世界発見!と宣言する」ことで大航海時代を開始し、 インカから黄金を奪って、栄華を極めた西洋文明は絶対王政に進み、暗黒の中世へと繋がったように呆けは感じる。 インカが当時、暗黒の治世であれば民を救ったと言えるが単なる”コンキスタドール”ではなかっただろうか。また、 イスラエルの嘆きの壁でパレスチナ問題を抱える宗教戦争はどっちもどっちのような「全能の神」論争をしているように呆け頭は感じる。 ★ 宗教と政治は切り離さないと戦争に繋がる。核心的利益(=政治)が宗教とくっつくときが大変であることを世界は歴史から学んだはずである。 あの信長でも比叡山の僧兵は厄介者であった。 ・ もちろん神道が完璧だとはいっていないが・・・ 呆けの小生には、神道とは「自然との大きな和の精神を尊ぶ太陽宗教」と単純に考えれば良いように思う。これを利用する政治家が悪いだけであると呆けは考える。★呆けのグチになってしまった。 ★頭の良い方は誰も信じないが、「地球の軌道は隕石衝突で度々シフトしており人類が考案している現在の暦とは異なる地球環境が存在していた、と言う」呆けのX命題をだれか証明してくれないだろうか。★ 呆け命題X:月誕生、恐竜絶滅等が隕石衝突などで起こる合間、現代人類の登場前に高等生物が地球に生存して、ピラミッドや精密な石組み、蹴球用具の丸い石などの低重力文明を享受していた。それらの高等生物は高重力時代になる前に地球を離れざるを得なくなり重力の軽い内に地球を脱出したのではないだろうか。現在の暦では説明できないもの、現在の太陽の動き(地球自転)と異なる宗教建造物を発見してくれないだろうか。ナスカ近くで・・・ 今はガリレオの中世ではない! ・ 地球の異変は隕石衝突による軌道シフトが主因だと想像する。 (現代の太陽暦は現代の地球軌道に沿うものである。) ★ たとえば、あれだけ地球の欠片である月がありながら地球軌道のシフトはありえないと言うが如し。・ どうも「宗教=信心」のために「現在の暦でない超時代」を曝ききれないのではなかろうか。 そのことの奥に本物の全能の神が居るに違いない、と呆けは信じている。なにせ、「めいてい」君である。 頭が大呆けなのだ。 ★ 個人事であるが、旧友の仏式では告別式に当たるキリスト教の葬式には術後の抜糸のために参列できなかった。現実に戻り、外科で我が身の抜糸儀式である。 糸は10何カ所にもおよび引き抜くときには麻酔はないからかなり痛かったが安心して耐えられた。悪い部分が無くなり随分軽く、動きやすくなった気分である。 ★ ぼけ話で脱線したが、旧友のご冥福を祈ります。 ★ ・★いまTVでは錦織選手の4大大会の男子シングルスベスト4で沸いている。 接戦ではいつも負傷したガラスの身体は強靱に進化を遂げているようだ。新しい世界が彼を待っていよう。努力は報われるものであることを錦織圭選手は証明してくれている。この呆けにとっても ありがたい選手である。 ★
Sep 4, 2014
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★ 先日、小生の友人達の集まり「一火会」を記した。 その時に、会社の多くの支店長を歴任し、役員も勤め上げて、 さらには都内中小企業社長から、息子の成長までの中継役として 社長職を託され、今は悠々自適、有能、果敢な男に遇った。 会合には大阪から駆けつけてくれたが、自宅は東京にある。 風貌からは、以前の社長時代のふっくらさは消え、 修験者のような精悍さが勝っている。何事も自然のように受け入れる 仙人の如き精神を得たようだ。 彼は、全国の県庁所在地の支店長を歴任している間に、 百名山を攻略し、大阪時代には阪奈県境に聳える 金剛山(*標高1,125m)に魅せられた男である。 (金剛山からの元旦の日の出)金剛山には、勤務時代に300回ほどの登山実績がある。 会社退職後、都内の自宅から離れた和泉市のマンション(賃貸)に住み、 たまに府内の会社経営者の相談にのりながら、 毎日のように金剛山に健康登山しているという。 (冬の金剛山を望む) 写真で見せて貰ったが、登山回数は800回越えの名札にあり、 登山道に寄付したのか石柱にも彼の名前が刻まれている。 (金剛山は登山記録を表示できる名峰として貴重な存在である。) 当面の目標の20年来の1,000回登山は1~2年で達成できよう。 どうせなら、100歳まで頑張って、1万回を目指して貰いたいものである。 8割強の頑張りで、金剛杖をついてでも健康登山を続けて百歳 1万回を目指して欲しいものである。 //////// (*)金剛山は、小生のゼミ友・故人寺尾公男が著した「倭三国志演義・茜色に燃ゆ」で、 葛城一族の旧領の「葛城山」(かつらぎやま)に当たる名峰である。 狭義には、「大和葛城山」は959mの修験道最古の霊場を指すが、 古くは南方の金剛山1,125mを含めた広義の山域を指す。 金剛山頂には金剛山転法輪寺、 西麓に千早城跡がある。 歴史的には、雄略天皇の時代に隼人梟師(たける)が百済文周王の弟昆支君を 高句麗との戦いの後、大和朝廷の許可で移住(亡命)させた地であった。 *****抜粋 *****・・・・・・ 翌日(昆支君、隼人梟師)一行に馬が用意されていた。坂本はその名の通り小高い山の麓の集落でその山を一気に駆け上がると綴れ坂の下りとなり、やがて吉野川の上流が見えて来た。「大和の盆地に入りました」十津川衆が眼下を指差して言う。 その日の暮れ、一行は大泊瀬大王(雄略天皇)が朝廷を開いている朝倉宮に着いた。・・・・ 大和の朝廷はまだ情報を掴んでいない様子で(隼人)梟師の説明を丹念に聞き、幾多の質問を発した。「以前と状況が変わったのです。戦乱が続く中、早急に百済の才伎千人、百姓二千人を移住せねばなりません。倭国は本来、自分が行うべきことを大和が成したと抗議に及ぶでしょう。・・」「そのように考えるものなのか。難しい事だな。」大泊瀬は外交の難しさを初めて知ったように答えたが同時に「問題ない」と即答した。「次に、百済人三千人の収容地ですが」「葛城川と蘇我川の間の地を解放する、充分な土地だ問題ない」大泊瀬の回答は明快であった。かくして百済文周王の弟昆支君の大和移住が開始された。・・・・・ ***** 「倭三国志演義・茜色に燃ゆ」 新人物往来社 P.485 より 写真:WIKIPEDIAなどより ////////この際であるから、詳しく読んでいなかったこの本の筋道を「自由が丘氏」が地中海クルーズの思い出を書いてくれるまで切れ切れに辿ってみようと思う。 ★
Jul 3, 2014
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今年は、大学の友人・会社の同僚の13回忌である。 ★ 小生の会社同期生の集まりが「一火会」という名の下に 毎月第一火曜日の18時から、お茶の水・淡路町駅近くの 茶房で執り行われている。 ★ 先ほどの大学友人とは会社に二人だけが、初めて入社した。 本当は、初めてではなくて一人先輩がいるのだが、13年離れている。 小生達以降では毎年二人くらいが入社しているようだ。 小生は、どうぞお先に出世してね!と言っているが、 言われなくてもどんどん成長してくれている。頼もしい限りだ。 呆け呆けの小生とは異なり、亡くなった友人は、頭脳明晰ながら 人徳があり、顧客優先に奔走したために、精神的な苦痛を人一倍 受けたように感じる。 彼は貸出企業の判別関数(貸出の可不可判断補助)および 財務パターン分析手法 を完成させた男なのだ。 判別関数の数字は、それで可否を判定するのではなくて、 その企業が抱えている財務的な問題点を浮き彫りにして、 企業分析に取りかかる方法を、企業審査に長けた 先輩達の鋭い視点から学ぼうとするものである。 米国の心理学分析手法を、財務分析に応用したものである。 彼は、このように数学的にも優れた分析力をもっていたが、 実際には数字に表れにくいファクター・経営者の能力などに より力点を置いていたように小生には感じる。 小生が「近代経済学原論」という数学好きのゼミにいて、 パラメターを入れ替えることで経済モデルを構築していたのに対して、 理論家の彼は、真剣に「マルクス経済学原論」を専攻した学者肌であった。 ★ 彼の死因は肺ガンであるが、 「顧客救助のために紫煙を吸い込んだ人生」 だったように小生には感じる。 肺ガンの末期症状であり、当時導入された治療薬 「イレッサ」のガン細胞縮小の効果よりも、 副作用がきつく、あっという間にこの世を去ってしまった。 良い薬でもタイミングが遅いと効果が逆に出る場合であろう。 支店長室の禁煙を女性職員達から求められても、 哀願するように頑なに喫煙を続けたために、 タバコで命を縮めた男であった。 ちなみに、既に、会社更生法適用の会社であっても、 なんとか支援する方法を命がけで考える支店長であり、 学生時代の理論に強い「冷徹な鉄の男」 の欠片もみえない人間性の高い姿であった。 ・・・・・・・ 政府系銀行マンとして冷徹に生きていたら、 もっと楽な人生を送れたであろうに! ・・・・・・・・ 敢えて相手の中小企業の社長の立場に立って、 苦渋の人生を共有した男の生き様を見たような気がする。 ★ 昨夜は、彼の奥様を囲んで、堅物支店長時代の思い出話に耽った。 幸い、元有名女子高教諭の奥様は、今でも美人、快活で、 最近は水彩画にも興味を持って、人生を楽しんでおられた。 今後も、楽しい人生を送っていただくことを願う次第。 ★ 同期生はなぜか赤穂四十七士であり、 すでに十数名はあの世に逝った。 亡くなった十数名は、残ったものに比べれば、人徳が高く、 なぜか優しい人達ばかりである。 幹事が物故者の名簿をつくってくれて、脳幹梗塞リハビリ中の 小生を是非にと呼び出してくれた。 みんなは、小生の回復振りに驚いていたが、小生は勢いで 美酒に酔いしれて飲み過ぎてしまった。 次回も体力的に参加できることが判ったが、 主治医からは 「あなたは歯止めが利かないから飲酒はいけません」 と言われたことを思い出して、改めて反省している。 ★ さて、あの世に行けない者達は、それぞれ努力をしている。 明日は、その中で金剛山1,000回登山を目指す男を記したい。 //////////////// 追記: 家庭菜園に凝っている九州男児が、自分で収穫したトマトを 袋一杯茶房に持ち込んでくれた。 お店が出してくれた真鯛も美味しかったが、 丹誠込めたトマトは甘くて素晴らしい自然の香りがした。 今や、多民族国家・中国がモンゴル帝国や元寇の再来のような 核心的利益を振りかざし、 隣国・韓国が戦時下の慰安婦問題という特殊事情に他国批判を集め、 かつての宗主国・中国に擦り寄り、 北朝鮮が中国の支援を背景にして、核保有、弾道ミサイルなどを 脅しの道具に頻用し、拉致問題も交渉材料とするなどの 殺伐とした時代である。 またロシアとは一方的な戦後の参戦で北方領土問題を抱えており、 同国のウクライナ・クリミヤ分離政策などの動きを見ても 世界は理論よりも暴力が優先しているようである。 日本もやっと重い腰を上げて [美人(日本)は騎士(米国)が守ってくれるという甘い妄想] から脱出しようとしている。 集団的自衛権問題で殺伐としている折りに、 この自然の恵みのトマトは 世界平和の有り難さを [実] を以て示してくれたような気がする。
Jul 2, 2014
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号外旧友の遺稿が出版されたのでお知らせしたい。「山本五十六と語る」 寺尾公男 新人物往来社目次第1章 暗号第2章 殖産興国第3章 逆流第4章 満州第5章 開拓団第6章 孤立第7章 将星第8章 長岡第9章 軍縮第10章 次官第11章 連合艦隊司令長官 <・・・小生のメモ・・・>新聞社・報道を 志望していながら、両親の希望に沿って産業界に就職した旧友がいた。産業界では随分と活躍した後、自分の生き甲斐である執筆界に入り、「茜色に燃ゆ」(倭三国志演義)を著し、いま、「山本五十六と語る」を上梓した。遺稿ともいえるその小冊誌が手元に届いたばかりだ。奥さんに伺うと、「自分には書きたい物語が、2つある」と日頃から言っておられたようだ。少なくても、産業界での多忙からできなかった物書きを、退職した後の生き甲斐で書き下ろしたのであろう。2冊の内の最初の一冊は古事記のごとき歴史物で、呆けの小生には難解すぎた。485頁もあった。今回は、比較的近代史に近く、なんとか理解したい。221頁だから小生にも読みやすい、かも。なぜ賢明な「五十六」が、無謀と思われる太平洋戦争の発端を真珠湾攻撃で開いたのか、なぜ、腹を切っても阻止する側に回ろうとできなかったのか、を知りたい。今は、著者の寺尾公男氏が、冥界で山本五十六氏本人に直に会って歴史記者としてお聞きしているのかも知れない。 そのインタビューの内容は聞くことはできないが・・・みなさんも、ぜひとも、「ダビンチの暗号」のような本を紐解かれたらいかがでしょうか。 彼のご冥福をお祈りすると共に、せめて、最後の2冊目が無事、出版できたことは、奥様はじめ、よきご家族の支えがあってのことであると、旧友の幸せな人生に賞賛の言葉を送りたい。 なお、この本は、前冊と同様、本の紙質が普段の手触り、重さと異なり、とても手に優しい。それもそのはずで、寺尾公男氏が自ら製造現場で指揮を執った、王子製紙の製紙技術の結実でもある。本の内容と、本の温かさが伝わること、間違いなしである。本全体に彼自身の人生が詰まっているのを感じる。エジプトのパピルスなどに書いた文字が何千年も消えずに残っているように!彼が自分で作り、選んだ紙は永遠でありましょう!
Mar 19, 2013
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友を偲ぶ会の余韻 飲み会での厚生経済学者の法話で思ったことであるが、 小生の学生時代に専攻した理論経済学は、数学や統計学などの 応用分野で、すっきりとした図形を描き、「社会をシステムとして理解」できた、 と思えるほどに、古き良き時代であった。 米国のノーベル経済学授賞者に習って、経済学への数理分野の応用が 社会を理解するうえで「最新の武器」であるような錯覚を覚えた。 自分の高校時代まで過ごしてきた受験勉強でも「歴史・文学 もの」は本棚の隅に追いやられていた。 受験勉強のせいではなくて、むしろ自分の頭の記憶収納容量 (メモリー)が小さすぎて、読むのも避けていたに過ぎないが。 「内生変数」、「外生変数」、「パラメーター」という分類にわけるのは、 微分、偏微分、積分などの操作が可能な領域に考えを追いやるのが、 自分の鈍い頭の回転に都合がいいからに過ぎなかった。 「パラメーター」という社会の仕組みを取り込むということは、 人類の歴史・制度を学び、全体の最大値などを見るだけではなくて、 構成する各特殊部分の最良値にも目を向けるなど、 複雑性を背負い込むことになる。 「パラメーター」は「制度パラメーター」と言った方が、より判りやすく、 「特定の固執した宗教・イデオロギーの選択枠組み」とは異質の 超越・広域概念である。 日本の「制度パラメーター」は、聖徳太子の時代、武家の時代、明治維新、 太平洋戦争終結などで、大きく変わっている。 日本の「遣隋使」、「遣唐使」から「大陸の制度を導入」した時代、 制度の取り込みを疎んじて、ほとんど「鎖国」した時代、 黒船来航、咸臨丸などの派遣で「欧米の制度を意欲的に取り入れ」た時代、 太平洋戦争の敗戦で、戦後に「米国の制度を受け入」れた時代などがある。 今は、「維新の会」で明治維新にもどり「パラメーター」を見直す時代、 判りにくい「美しい国」を改め「戦後の移入パラメーター」を検討して 新しいパラメーターを築き直す時代など、「パラメーター」を巡っての 制度・政策論争に移っているように思う。 小生としては、日本の政治も随分と進化、深化しているように見える。 小生には、(前与党は意図しなかったものの)「国民に約束していない 消費税増税」を前首相の一存で現与党の趣旨に沿い成立させた、と見える。 これが、厚生経済学者のいう「独裁的な選択」と主権者・国民には 映ったようだ。 日本国民は裸の王様を黙って見過ごすほど馬鹿ではない、 ことを見せつけたのが、先の選挙であったように思う。 * 消費増税はイタリアに見るように国民からは不人気であるが、 現在の日本でも有る程度は仕方がないと日本国民は感じている。 無意味な論争を仕掛けてばかりいる現野党が心許なくみえて、 与党の党首=総理大臣が不思議と「聖徳太子」のように見える。 「聖徳太子」の後光の後ろには、制度・政策ブレーンが十分に 備わってきているようだ。 日本賢人会議が控えているのかも知れない。 適正なパラメーターを選択して日本国民をリードして貰いたいものである。 呆けの独り言である。
Mar 3, 2013
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本日は、昨年暮れに亡くなったゼミテンを「偲ぶ会」に出席するため、 都内まで久しぶりにでかけた。 亡き大先生ほか3名の物故者に黙祷を捧げた後、献杯・会食・ 歓談会となった。 物故者は、15年前・1人、10年前・大先生と1人、昨年末・1人である。 生存者には首席を例外として、頭の良いものが先になくなったようだ。 残りの生存者13名のうち、1名は病欠、小生は脳幹梗塞、首席の 名誉教授も転んで頭を打つなどの災難にあっている。 それでも、遠路はるばる姫路、名古屋、長野からも、元気な姿を 見せたゼミテンと会えるとは嬉しい限りであった。 生存者の職業は、経営者1名、大学教授3名、会社顧問4名、 年金生活者5名(うちボランチャー1名)で、老いてもなお頑張者 が多い。 話題は、経営の話、蔵書をどうしているかの話など多方面にわたった。 ********** 昔話となると、ゼミで「経済成長論」を中心に学んでいたために、 どうしても数理経済学の限界のような話となる。 小生などは、「内生変数」、「外生変数」、「パラメーター」などに 振り分けて経済分析をすることが、より判りやすい方法であるとして、 学生時代をある意味で楽しく過ごしながら、他方で、その限界に 悩まされてきた部類である。 学者により、また、生きた時代により、主力変数、パラメーターなどを 何に選んだかで「著名な学者の説」を判りやすく解説したTEXTもあった。 今回は、首席の名誉教授から、厚生経済学的な制度実装問題(?)を 提起された。 小生が勝手に思い出すのは、 「内生変数」は資本財、労働力などのSTOCK、FLOW、 「外生変数」は技術進歩、人口、自然環境など、 「パラメーター」はその組合せ方(制度を含む)など、 のおおまかな枠組みである (脳幹梗塞で頭が回らないが書いている)。 技術進歩は、天から降って湧くものでもなくて、研究に先行投資 しなければ(大昔はともかく現在は)生まれないものである (技術の世界では「一番でなければいけない」・・・?!)。 人口でも、一人っ子政策や、晩婚思想・独身享受思想、共稼ぎ 援助無しなどではままならない。 為替レートでも放任していると、為替ディーラーの餌食にされて、 いつの間にか実力よりもはるか不利な状態に置かれてしまう (神の手ではなく別の黒い手?による)。 ****** 出席した元商社マンの嘆きであるが、海外雄飛の意気込みで、 日本の為に目一杯働き、1ドル=360円から円がどんどん 強くなって「嬉しかった」が、1ドル=200円台、そしてあっという 間もなく1ドル=100円台、そして70円台となる・・・・・と 何か「悲しくなった」、という。 実力以上に、為替ディーラーが先読みして高く付けた円高であり、 その上がり分は国民の厚生面に寄与せずに、国民の分配所得は むしろ減少しているという。 せめて1ドル=100円台に「戻しておかないと」、輸出面での デメリットが大きく、 輸入面のメリットで補いきれないほど、 桁違いの国富の損失となる、と主張する。 ****** 少し考えただけでもわかるが、きちんと制度・政策の実装 (制度・政策の目標パラメーターを適正に選んで、 それに見合う制度・政策を講じること?)を構えないと、 国民の厚生が著しく損なわれる危険性があるのだ。 制度・政策パラメターは外部から「与えられる数字」ではなくて、 自分たちが選択していかなくてはならない大事な数字なのだ。 神の見えざる手?に任せるのは、聞こえは良いが「無責任?」 でしかない! ***** 今までの政権が、「厚生経済学的な(制度・)政策実装問題」を的確に 捉えられず、パラメーターを放置した無責任行為の結果だ、 と「飲んべえ」は勝手に思った。 意外と、「アベノミックス」の思い切った「(制度・)政策方針」には 飲んべえは妥協的である。 有名な「ハマコー」(失礼!)の寄与が大きく響いているのかも知れない。 ご存知のように、「ハマコー」はもう一人の有名な暴れん坊ではない。 真っ昼間の、「飲んべえ」の馬鹿騒ぎであり、放念して貰いたい。 ****** しかし、日本経済のPIROT・舵取り役である、日銀総裁・役員、 公正取引委員長などの重要ポストを、早急に決定でき ないのでは、世界をリードできずに、地球経済丸の 「スクリュー渦」に左右されかねない、と心配する。 今日は、「脳幹梗塞には飲んではいけないアルコールを 飲んでしまった」が、少しだけ勉強できた気がする。 少しだけ、若返った気がするのと、教授達には 象牙の塔でのんびりせずに、 「日本経済の助け船に乗り込んで貰いたい」と思った次第。 ******* 政策論争で思い出したが、年金生活者である小生は、 インフレ政策なら固定収入が減ってしまうので、 それ自体は困ったことである。 しかし、インフレで若者の給料が伸びて、 負担能力が上がれば、小生の介護保険などの 負担が減る可能性もある。 みんなが悪い環境に陥るよりも、若者が元気になり、 国全体が元気になった方が、先行き短い者には有り難いことである。 高尚な世代間の公平の話ではない。 ・・・・・・・・ 追記 頭の悪い小生には、「厚生経済学的政策実装」は全くちんぷん かんぷんである。 しかし、もし、その「さわり」をお知りになりたければ、宮内庁での 講書始めで天皇皇后両陛下にご進講されている立派な学者の 講義内容が「宮内庁HP」に掲載されているのでご覧あれ。 賢明な諸兄なら、必ず煌めくような、いい暗示が受けられる。 より興味を持たれるなら、進講者の1万余頁の著書に詳しく書かれている ので見られると良い。 小生は、市の図書館に買って貰ったが、呆け頭には難解であった。
Mar 1, 2013
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昨日、去年と同じ時期に冬籠もり中の小諸の旧友から 便りが届いた。 去年も、零下10度と言っていたから同じような 厳寒の中である。 本年早々に古希を迎えたと言うから、長い顎髭が よく似合ってきただろう。 本人の好きな岩崎弥太郎より、板垣退助に似た好々爺 である。 なに、「旅支度」だと? 家庭菜園は一昨年に比べ、成果を大々的に自画自賛している。 無農薬・有機栽培は芋虫などとの格闘であったが、 大玉キャベツ、大豊作の馬鈴薯、小振りながら甘いスイカ、 歯応えの良い茶豆等々を孫に送った話。 野沢菜28kgを塩漬け、大根42本を沢庵漬け、渋柿29個 を吊し柿に、等々の報告を見ると、この地に5度目のお正月を 迎えて益々人生に歓びを感じている様が伝わってくる。 まだ、まだ、旅支度は早そうだ! 昨年暮れからPCが故障しているらしいが、情報は遮断 されても、かえって生き生きとしている。 3月1日昼食会を兼ねた、旧友追悼会でまた会うのを 楽しみにしている、と伝えたい。
Jan 25, 2013
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今夕は、ゼミの仲間が他界したお通夜に出席のために、青山に出掛けるに際して、文豪のような雰囲気の彼を偲んで学生の頃のゼミ誌への寄稿文を懐かしく開いてみたい。 約半世紀経過しているが、いまはどうだろうか? これは、彼が、「日本経済と外国貿易」をテーマにした「三大学討論会」に神戸に出向いたときの回顧録の一部。 //////////////////////////////////////// <82ページのレジメテーマ>////// 現時点の日本経済を考えるには、/// 日本経済の基礎構造である/// 二重構造を分析の中心に据えねばならず、/// 二重構造の形態変化をふまえて/// 今後の日本貿易の在り方を考えねばならない・・・//////////////////////////////////////// 諸兄がもし、港町神戸を訪れる機会に恵まれたら、三の宮、住吉神社に参詣されるとよい。当社は、御家安泰、疫病、災禍を除き、子宝に恵まれるという有難い御利益があるそうな。参拝の際には、心を一に何事かを願い上げ心を清らかにせねばならない。次は、心身の字の通り、身を清めねばならない。水垢離?古い!水をかぶっても現代人の垢は取れませぬ。最も生産的な清身剤、アルコール、場所は、バー「和」、当社の際に現代人の為の清身閣がある。諸兄はこのバーで決ず美しき巫女たちの昔話を聞かされるだろう。 "なんでも昭和の御代も終わり近い頃、うっとうしい梅雨がそろそろ訪れようというそんな日の事でした。私はいつもの通り、お客様のお相手をしていたのでございますが、戸口の方で "こんでるな別の所にしよう。" という声がしました。それはそれは、美しく澄んでおりましたので私の身はしびれ入ったのでございます。振り返ってみますと、戸は丁度閉まったところ私はすぐ表に出て声の主をさがしましたところがどうでしょう。戸口の外には光源氏の末裔の様な方が四人もいらっしゃいました。私はこの人達をバーに入れなければ腕がすたるとおもいましたので、中にいたお客様は全て退出して戴きましてその方々をお入れいたしたのでございます。"・・・・・・<中略> 彼女達の評によると、一人は歌舞伎の勘三郎を若くした様な方、一人は、モナリザを男にした様な方、一人はアリストテレスの現代版の様な方、四人目の方は、ちょっとどんな方か忘れてしまったという話である。・・・・・・<中略> 「和」で男達は次のような回顧をしたそうです。討論会などで満足な成果をおさめるには人の和が学問の高水準よりも大切である。そして和は、決して妥協からは生まれず、傷つき傷つけ合って始めて生まれるものである。いや、決してバー和の宣伝をしているのではありません。若き青年達の真摯な反省なのです。 ・・・・・・・・・/////////////////////////いまは、バリトンの美声を持った彼の声を聞くことができない。「二重構造」を分析し、大企業で立派なお仕事をしたあと、日本古代史を研究した熱意を偲んで、参列に向かう。
Dec 14, 2012
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今夕は、大学OB会が運営する都内のホールまで、A教授の もとで理論経済学を学んだゼミテンの総会に出かけた。先生が亡くなり10年目、先生の奥さんが亡くなって22年目に当たる。 本日の出席者は、なぜか108人である。教え子達は大勢いるが、亡くなった人も40人近くおられて、まずは黙祷から始まった。大型プロジェクターで物故者の名前が並ぶのは初めてだ。小生達の同期ゼミテン16名中にもいわゆる物故者は2名。大勢の中には、先輩で懐かしいお顔が何人もいたが、小生が若い頃EPA経済研究所に出向中に、同じく出向していた大手製鉄業のS先輩が「あの時以来だな」と堅く握手してくれた。この会の会長は昨年亡くなり、新たな会長を10年近く若返らせた。新会長は、パソコン製・販業界の革新家で、若手の要望により勉強会、講演会などを開催するという。講師には、ゼミテンのなかにノーベル賞候補(?)の大教授や、その他大勢の教授達もいるので十分だろう。そう言えば、大教授の姿が見えないので聞いてみると、出張先の空港で転んで怪我をしたらしい。「ノーベル賞は死んで花実が咲くものか」で、無事の回復を祈る。ゼミテンの挨拶を聞いていると、女性知事らしい名や外国で活躍中の人物もおり、先生もあの世で喜んでいるだろう。先生は、超優秀な生徒を受け入れたが、さほど優秀でない暴れん坊も受け入れた懐の広い方である。現在の会の役員には、先生が顧問であった柔道部主将達が居て、元気に活き活きと会の発展に尽くしているのだ。先生は、学者としても、教育者としても優秀であった証明だ。人間には大器晩成型がいて、先生の指導を契機に社会に出てから、人一倍吸収して成長する、素晴らしい人物が大切だ。きっと、先生が「吸収する種」を与えてくれたに違いない。なんせ、経済成長論は先生の得意とする分野だ。超優秀なゼミテンは早死にしたりしており、柔道部主将などは社会では社長になったりして成功しており、長い目ではどちらがいいのか判らないのだ。 先生のお子さんは、小生達が学生の頃に3歳、0歳であったが、二人とも嫁ぎ、米国在住で、姉が今回帰国している。親に似て、見るからに美人で優秀な女性である。 小生は、本日、医者から食事療法を指導されたばかりであり、美味しい料理を横目に、お酒を舐めた程度であった。年金老人には会費が高すぎたが、数百万円の寄付を厭わない会長の気持ちに比べれば、はしたない気分を恥じ入るばかり。 年寄りのために、20時早々で切り上げ、先生の愛唱歌「鈴懸の径」を、ピアノ伴奏をバックに、全員で熱唱して、来年の再会を約して散会した。 A先生の「あ~っ。そう。」という、肯定的な反応に引き寄せられた若き、よき時代がみんな懐かしいのだろう。
Nov 5, 2012
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昨日は、旧友が設定してくれた「しゃぶしゃぶを囲む会」 があり、1年ぶり、10年ぶり、20年ぶりの仲間と、新宿 歌舞伎町の小綺麗な「にいむら」に集まった。 土砂降りなので視界は狭かったが、 それよりも新宿には 若い頃以来このかた、用がなく出かけていないので、 まるで 様子がかわっていて、 香港や韓国にでも行った気分であった。 蝦夷御殿も、 コマ劇場も、 馴染みの小料理店も見あたらず、 歩いていると、 「DVD」、「DVD」と声がかかる。 だれかが、言っていた、エジプトでは「山本山」というのと 違うかも知れないが、なんだか似たような感覚だ。 友人達は、 だれも病気を持っていて、 それと上手くつきあっているようだ。 酒を飲みながら、 薬を飲んでいる。 小生など、 「肉はせいぜい控えるように」と 国立病院医師に 言われているが、 滅多にない美味しいしゃぶしゃぶを 目の前にしては 「生きてる内にしか食えないのだから」と 目を瞑らずに 思いっきり平らげた。 てきめんに影響は出るだろうが、 自業自得である。 会社時代の話、 同僚のその後の話、 独立自営した経験から世情に 詳しい話、などなどで盛り上がり4時間で切り上げた。 小生以外は、自営業主はもちろんだが、未だ少しは働くようだ。 この会合には 元上司が見えなかったが、 若かりし頃の我々を、 やさしく 指導してくれた、 仕事上の先生も囲もうと、 また来年の再会を約して 喧噪の若者の街、新宿を後にした。 小生のように、 地場のテニス仲間との練習以外はお付き合い がないと世情に疎くなるばかりである。 今回、 声をかけてくれた主催者は、 顔が広く有り難い存在となった。
May 3, 2012
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カリブ海クルーズの写経中であるが、 ゼミテンの集まりを挿話。********** ************昨日は、午後1時からお茶の水のカラオケ店に友人4名が集まった。 この仲間に大学教授がいて、彼の門下の4回生が銀座でバイトを しており、この店を紹介されたというのだ。 Webで「パセラ」、「お茶の水」と引くと出てくるそうだ。 歩くのに時間がかかるので少し前に家を出たら、30分以上早く 着き、学生の頃闊歩した、すずらん通りの「古本屋」街を歩いてみた。 本屋街には昔の雰囲気が残っている。 近くのパチンコ屋は閉店の憂き目にあっていたが、このカラオケ店 は小生が昔行った歌声喫茶とは雰囲気がまるでちがう。 まず、地下で、ミニ・バイキング様式の並んだ皿から盛りつけて、 階上の自分たちのルームまで運ぶ。 何回も行くのは面倒だから大盛りである。 カラオケの機械が以前に使ったものと異なり、店員を呼ぶことに なった。 時代遅れを認知した。 さあ、歌い始めだ。 件の先生は若い歌・AKB48までよく知っている。 (夜逢う男には、[AKB]でなく[DKB]だった頃の男もいる。) 元都銀の人事部長は、若い人たちへの元気づけで苦労したせいか 唄に「哀愁と人生の応援」を含んでいる。 今は、ピアノを習い、なにかの演奏会を開く?ようだが、本人の唄は 演奏(伴奏)が難しいという。 小生なら、ギターのサビの部分とでも言うべきか? 彼は昔・自動車部で活躍、その腕を生かして、老人介護搬送 のボランチヤーで社会貢献している。 搬送予定表が詰まっていて、長期海外旅行はできないそうだ。 他方、カナダのトロント駐在の折、NHKの海外「のど自慢」だった か、海外紅白大会の特集に出場した件の男は、さすがに国内・国外 の歌をよく知っており、歌声に「幅と深さと意味合い」がある。 歌い方も、フランク・シナトラかと思わせるくらい立派である。 今は、会計実務能力を生かして、社外監査役の仕事をしているが、 最近は、子供の頃に神童といわれた絵の才能を蘇らせるべく、 絵を描き、同窓生が銀座の画廊に出展しようとの呼びかけに 応じたそうである。 友人達の励ましで意欲を増したそうで、友達とは有りがたい物である。 彼の「キー合わせ」のおかげで、音痴の小生も声を張り上げて、 雰囲気を壊さずに済んだようだ。 小生の十八番は、「男の水割り」であり、これしかないのであり、 他人が先に唄うと困るが、件の教授はさすがに先生らしくみんなの 唄を記録したようだ。 全部で34曲だったらしいが、こんなところにも職業病はでるのか、 と思う次第、もしかして採点の暗号でも書かれているかも知れない。 料金は歌い続けて、3時間半、食事付2,250円だから、日曜日に 港町で、たまたま食べた鰻1900円位で、年金生活者に値頃感。 シナトラ氏から高い発声の仕方まで習って、竹橋の会場に下った。 会場では、超有名な先生を囲み、姫路、名古屋、小諸などから 集まった、気だけは若い仲間達と7時頃まで談笑した。 仲間には、超有名な先生にぜひお目にかかりたいというフアンの 奥さんを遙々帯同して出席するものも居て盛り上がった。 いや、この奥さんは、午前中にトップの自動車メーカーの社長と 対談してきたと言うから、旦那よりも威勢がいい伊勢女である。 また、病気持ちが多い中、「炭水化物を摂取しない生き方」を熱心に 講義する「白髭の若者」、難しい心臓手術を受けた経験談を話す会長、 歴史小説家で第二次世界大戦の日本海軍を執筆中の「杖をもつ青年」 など多士済々で、年甲斐もなく楽しんだ2時間(カラオケ組は6時間) であった。 今日の出席をメールで伝えていた男が、終了間近でも来ないので、 電話すると、まだ会議中で事務所にいるとのまじめな回答があり; 他方、何も連絡が無いながら「連絡がないのは承知したという 意味の社訓がある」と、開始時刻から少し遅れ着席した重役; 同窓会の会長に指名され、その大役に驚いたみんなから心配さ れた昔・柔道部長は俳句に凝って「季語」を指定し歌詠みを促す、 などなど、昔のチェロ奏者の幹事長は大変の様であった。 ゼミの始祖はお亡くなりになったが、今は、超有名な先生に始祖 の生前の姿をかいま見て、懐かしく集っているのである。 教授は、あのハーバードに明後日、向かうそうである。 本場の学生相手に、地震の国からの白熱講義を期待する。 +++++++++++呆けの予防に21日に友人教授がボストン(BOS)に立つ行程をみる。 NRT(東京国際空港成田)11:00発AA5822便だとすると(シカゴ時間は前日の21:00) シカゴ(ORD)には8:45到着予定だから11時間45分所要する。 この間は、10110kmだからエアバスの時速は860km/hで飛ぶ。 ORDからBOSまでの距離は1367kmで12:10分に出て、15:20 に到着、時差は1時間だから、4時間10分を所要する。 そうすると、AA1210便の時速は328km/hとなる。 シカゴ→ボストンは飛行機としては随分と遅く感じるが、またまた、 呆け老人の計算間違い?
Mar 20, 2012
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「自由が丘」氏のクルーズ体験について、小生は、それを自分の 体験談のように、狭いながらも自分の仮想空間メモリーを巡らせ ることで安らぎを感じているが、もう一人勇気づけられた旧友 もいるらしい。 「友達の友達」だが、誰かさんの言うアルカイダではない。 アルカイダというのは、そんなの「あるかいな」 という、 だじゃれ(駄洒落)だったのではないのか。 落語家ではなく、まじめな国会議員なので、「おち」が言え なかった、本当は、人間はいい男だと理解している。 小生の旧友・「自由が丘」氏へのお手紙の趣旨は次のようである。 ::::::::::::::::::::::::::::::::::: ・・ 至 福 日 記 ・・ 「家内が重篤で入院し、加えて自分が想定外の進行性癌で 緊急手術となり、退職後目標に歩いてきた百名山登山突破も 60数パーセントで途切れることになり、人生の無常を感じた。 そこで、自分自身について改めて考え直し、自らの至福の時 はなんであろうか と、過去に遡り、紙に書いてみた。 大学合格、会社入社、結婚、転勤、子供の誕生、23区に 持ち家購入、会社のそれぞれの立場、での嬉しい、楽しい 至福の時をいっぱい書き出すことが出来た。 ところで、いまはどうかというと、家内への見舞いで家内の 顔色が良かった、差し入れの果物を美味しそうに食べたとか、 自分自身では、朝の目覚めが久しぶりに爽やか、小さい庭に 雀が飛んできた、とかとか、がとても嬉しく感じる。 「自由が丘」氏の紀行文を読ませて貰ったあとで、付け始めた 「至福日記」のおかげで、毎日の生活のなかでも結構至福 なこと、嬉しいことに、驚く自分に気づくことで、有意義な 日々を送らせてもらっている。」 :::::::::::::::::::::::::::::::::::: というような趣旨のお手紙を頂いている、との話。 あの島田紳助氏なら「いー話」と言うだろう。 「お友達のお友達」だから、そんな「いー話」はこの「写経教室」 には、残念ながら送ってくれないだろう。 1つか、2つでもいいのだが・・・
Mar 16, 2012
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ここ、江戸の東方でも昼から小雪がちらついている。 大雪とはならないだろうが、かなり寒い。 そんな中でも、震えながらオムニコートで朝2時間ばかり地域スポーツ振興団体の主催するテニス練習に参加した。 本来はハードコートでの練習だが、小雨のために使用不可能で、たまたま空いていたオムニコートを借りたのだ。 全体の練習ではないので、練習生10人で支払いを済ませた。 今日はいつもに比べて、球が重かったが、雨にぬれたオムニの湿気を吸い、寒さで空気も萎んだボールのせいであった。 汗をかいてなかったので、クリーンセンター付属の浴室には夕方に出かける予定でいる。 さて、旧友から寒中見舞いが来ている。 彼は、自宅は横浜だが、故郷と横浜の中間にある小諸に別荘を所有していて、ほとんど小諸に住んでいる。 隣の区画も買い取ったと言うから、かなり広大な敷地であるらしい。 いまは零下10度の厳冬の中なので、薪ストーブで冬ごもりしているらしいが、春先にはキャベツの大収穫があり、夏場は天候不順、病害虫の発生で胡瓜、茄子、トマトが期待外れ、馬鈴薯は連作のため収量が落ち、玉蜀黍、枝豆はまずまず、一冬分の沢庵、野沢菜漬けができたと、まるで「ユートピアにすむ、弥生人のごとき収穫の歓びの声」をおくってくれた。しかし、彼には難行苦行もあったらしい。 広大な敷地には、おおきな樹木が茂りチェーンソーを使いすぎて腰痛、転倒して骨折、白内障手術、胃の異変感知などを経験したとのこと。「低体温・低酸素・高血糖を避け、食事は内容を吟味して腹八分目にすれば、あとは気力で乗り切れる」とのモットーを信じて、自分の年齢に相応した、悠々自適な暮らし方を守っていくようだ。 噴煙を上げてゆったりと聳え立つ浅間山を遙かに眺めながら、沢庵(夏は枝豆)や、野沢菜を麦酒のおつまみにして、暖炉で寛ぐ別荘・「青雲荘のご主人」が目に浮かぶようである。奥さんもともに、大型TVの前で団欒していることであろう。小生も暖かくなったら、青雲の志はなくとも一度は訪れてみたいものである。 とにかく、厳冬を、ご健勝で乗り切って貰いたい。 3月に予定されている、ゼミテンの集う会に再会を約して!
Jan 21, 2012
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昨年末(12/27)、46年前の合同インターゼミナールのテキスト名を、仕事上の先輩から尋ねられたことをお話しした。 ゼミテンに問い合わせしたら、師走で忙しい中を ほぼ全員から、なんらかの回答があった。 合同ゼミナールは4大学ではなく東京大、一橋大、早稲田大、慶応大、中央大の5大学インターゼミナールであった。 中山伊知郎教授の教えを受けた教授達を中心に、その門下のゼミテン達が互いに切磋琢磨しようとの集まりだったようである。 テキストは、主に一橋大の荒憲治郎教授ゼミの3回生が使用するテキストをテーマとすることが多かったらしい。 小生達のテキストは、Adelman教授の、Thories of Economic Growth and Development であった。 ただ、これにも異論があり、そうではなかったかも知れない。 しかし、憶えている人物は真面目な男で、当時のゼミ幹事である。 この本を書いた女性経済学者は、数学が達者で、歴代の超有名な経済学者達の理論を数式(特殊な生産関数)で表して、「偏微分して解説する方法」に凝っていたような記憶がある。 小生はもともとは、田舎出身で自分が理工系とばかり思っていた。彼女の本は、マルサス、マルクス、ケインズ、シュンペーターなどの高邁な理論を、細かいことは省いて、単純化しており、判りやすい本であった。 分かりやすいと言うことは、本来は複雑な経済行為の単純化だ。 あまりに経済を単純に理解することに慣れ親しんだことが、小生の後の人生にとって本当は良かったのか判らないのである。 大学院にも行くような頭のない小生には、その後も単純化して世間を理解するクセがついたのはこの本のお陰であった。 当時は、「 cetiris paribus 」 というラテン語に随分とお目にかかったものであった。 「他の事情が一定である限り」という前提である。 そのような特殊な範囲で起こりうる経済現象が分析の対象であった。 つまりは、他の事情が目まぐるしく変化するような動態的経済世界の分析は小生の手に負えないのである。 「偏微分」できるということは、「 cetiris paribus 」であると言うことなのである。 先輩の質問は、小生達の次の学年の学んだテキスト名の質問であり、結局は、小生には手に負えない問題であった。 とにかく、一応の決着を見たので、この話はこれで終わりとしたい。
Jan 11, 2012
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46年前の記憶である。 昭和40年に開催された4大学インターゼミナール(早稲田大、慶應大、中央大、一橋大、もしかして東大の5大学?)での「指定テキスト」は何だったのかを、加盟大学のXX周年の年史に載せたいので、だれか記憶にあれば教えて欲しい、そうである。 当時の4回生か3回生が出席したのだろうという。 例えば、ヒックスの「価値と資本」、パティンキンの「貨幣・利子および物価」のように、指定テキストを各大学に分担して読んで貰い、自分達のパートをレジメし、解説・報告してもらう方式であった。 その記憶再生の要望は、「小生の仕事上の先輩で、加盟大学のOB 」からであった。 ゼミテンに問い合わせたものの、われわれが憶えているのが、自分たちが、合宿で先輩達に厳しく指導された、R.F.ハロッドの「動態経済学序説」であり、その印象が飛び抜けて大きい。 翻訳本の難しさ(悪訳?)もあって、その数学的な背景を解き明かしながら、まるで修行僧のような毎日を海辺の寮で呻吟したものだった。 すでに、ゼミテンへの質問で大騒ぎとなってしまった。 とんだ、ご迷惑をみんなにかけたことになる。 職場の元・先輩のために、46年前の記憶を呼び起こすような工夫も無駄に終わってしまいそうである。 ただ、このことから、みんなの「若き昔を思い出すという一里塚」が見つかったとおもえばよい。 その一里塚(インターゼミナールの思い出)が、いまは老学生達となった、われわれが相集う「印」となり、「向学心を思い出せ」ばよいのである。 当時のゼミの幹事で、もっとも優秀であった同輩も、正確には思い出せないが、ヒックスの「価値と資本」であったかもしれない、しかし、その証拠のレジメもなくて確信が持てない、という。 その本の題名が判ることが大切なのであろうが、記録が大切なのではなく、「思い出」が大切と思えば、「不明」でも良いのではないかとも考える次第。 脳幹梗塞の小生には、過去を思い出すのは、どだい無理な話なのだ。
Dec 27, 2011
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昨日は、建墓の墓誌などの打ち合わせを市営霊園の近くの墓石業者で済ませてから、六本木まで出かけた。その前に、墓所となる場所を覗いたら、スペースにススキがそよいでいたので、雑草と共に抜き取ったところ、茅ですこし指を切ってしまった。隣の墓所の一部がねづの木の巨大化で壊れて、小生の墓所に倒れかかっていることについては、まだそのままであった。業者の言うことには、相手の方は、状態は判ったので何とかしたいが、費用はどの程度かかるかと聞いていたと言うから、建墓の前には対策が立てられそうである。当方の建墓の後だと、むしろ、先方の工事が難しくなるので、それまでにはなんとかなろう。さて、六本木までは、5年ほど前まで、第二の職場で通った霞ヶ関界隈を通過するので、一応の土地勘は記憶に残っていた。しかし、地下鉄の駅名は、記憶と現実のずれは大きく、乗換には気を遣わねばならなかった。六本木駅でおりて、「アマンド」を覗いて、帰りにケーキを買おうとおもい、「何時まで開いているか?」と聞いたら朝の5時までという。やはり、都心は違うな、とおもう。昔に比べて、路上には「変な外人」がほとんどいない。「変な外人」がたむろしていたところには、若い女性達が立ち止まっているくらいで、さほどの混雑は見あたらない。むかしはあまり気にしていなかったが、東京タワーが「淡いきれいな温かい姿」で迎えてくれている。開始時間の30分ほど前に、到着するとテニスがすばらしく上手な男がソファで待っていた。頸椎変形症が「テニスのやり過ぎ」でさらに悪化したため、鴨川市の世界的に有名な脳外科病院で首の切開手術を3ヶ月前に8時間かけて受けたとのこと。成田空港から、ヘリコプターで運ばれる患者が多く、病室は900位あって、すべてコネでしか入れない私立病院だという。「もうテニスは無理でしょう。」、と言われたとのことであるが、それほど不自由な格好でもなく、お酒も多少飲んでいたので、小生よりは「まし」である。小生は、右手右足には痺れ感覚が残り、お酒は一切飲んではいけないのである。ただ、リハビリ後に、不格好だがなんとか初級者並みのテニスはできている。話を戻して、・・・我々の集まりは「めいてい会」という。「名球会」ではないが、それにあやかって「名庭会」としたようだ。であるが、老体が多くなり、「酩酊状態」の「めいてい会」となってしまっている。宴会が始まり、ご老体方をみると座布団では足が痛いので、座椅子を使う時代になっている。みんなの話を聞いていると、テニスよりも写真、水彩画、バードウオッチング、カラオケ、ゴルフなどに趣味のウエートが移っている。現役組、第二職場組、老体組と分けると、小生は老体組に入る。現役組では、休み時間は規則正しくとらないと「倫理委員会」に投書されたり、以前のような曖昧な勤務態勢は一切禁止されたようで、当たり前と言っては、当たり前の話だが、ずいぶんと、形式的な部分だけが大事にされているようだ。顧客にとってのサービスは時間も大切なのだが、仕事の中身、丁寧な指導などがもっと大切であろうが、まずは形から入ろうというものか。第二職場組では、そろそろ後身に身を譲る時期にあるという。自分がいなくなっても大丈夫なように、優秀な後身を探している様子である。老体組は、「迷惑をかけずにあの世行き」の切符をもらえたら最善であるようだ。突然、ご老体の一人が「テニスもやらない、めいてい会の集まりではつまらぬので、テニス合宿を再度、箱根で開始しようではないか。」、との発言があった。若い幹事が即座に応えて曰く、「最後かも知れませんが、来年、2月最終土日に箱根で合宿を企画します。」である。みんな、パチパチであった。懐石料理はたいへん美味ではあったが、小生にとっては「コレステロール」が詰まった物(いくら、アンコウの肝、玉子、内臓のある小魚など)が多かった。つい誘惑に負け、すべて食べてしまった。お酒だけは、薬のせいで全く美味しくないので、誘惑はなく、ウーロン茶で十分だった。仲居さんに頼んで、みんなの集合写真をとって、夜9時に納会となった。ご老体3人は、タクシーで遠くの自宅へ帰路についた。小生は、六本木駅側の「アマンド」で家内へのおみやげケーキを買い、帰途についた。翌日は、太極拳はないので、テニスの出来る日である。汗をかいて、クリーンセンターの多目的風呂に入って、「コレステロール」をはき出すつもりでいる。
Dec 13, 2011
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今日は技術に明るい知人からの嬉しい便りをご紹介したい。 小生が、当時は社長であった彼と出会ったのは、30年も前であろう。 意気盛んな彼は、だれからも意見を吸収して自分の道を切り開いていった。 当時は、墨田区の曳舟駅から少し奥まったところに本社があり、相続などの問題を抱えていた。 小生は若気の至りで、「会社の名前が世界を目指しているのだから、このようなところにいないで、本社を東京の真ん中に移転して、海外との取引を有利にして、優秀な従業員の獲得に当たるべきだ」などと進言したものだった。 当社の本社は、その後、都内に移転している。 そのようなわけで、会長とは今も年賀かメールでの挨拶程度が続いている。 小生の少ない情報網もお伝えして役立って貰いたいとおもっている。 去る11月3日に旭日双光章の叙勲の伝達を文科省から受け、10日に病床にあられる天皇陛下に代わり皇太子殿下から直接に叙勲とお言葉を賜ったと書いてある。 以前には、プリント基板業界用シールレスポンプで黄綬褒章を受賞、今回の叙勲ではバルブレス自吸式ポンプで国内は基より世界にも特許と実績が評価された。 又、環境公害防止機器の浮上油回収システムが評価された。 ペルシャ湾原油流出の回収や宮城県沖地震では仙台湾の流出油回収、フランス、エリカ号原油回収などを評価された。 会社の名称のように「ワールドケミカル」に成長したのである。 ほんとうにおめでたいことである。 タイの汚染水や、原発の汚水処理なども当社の技術で解決できないか。 何らかの方法で水から浮かせてフィルターにかけられる物質なら、当社の技術で回収・処理できるのである。 益々の発展を期待したいものである。
Nov 20, 2011
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寺尾公男著「茜色に燃ゆ」のサブタイトルは「倭三国志演義」であり、たいへん興味を引かれる本(新人物往来社)であった。余談だが、寺尾公男氏は王子製紙出身であるようで、485ページの分厚い本だが紙質が柔らかくて、内容は難しいが、乱視の自分にも視覚的には読みやすい本である。中国の三国志演義は漢帝国滅亡後、「魏・呉・蜀」の小国が鼎立した「国家再統一の物語」である。当時は、地球規模の寒冷化がおこり、中国では人口の9割が消滅した最悪の時代であった。この「倭三国志演義」の時代は、(強敵・諸葛孔明の死後に)魏がやっと戦線を西から東に移し東方交易路を再調査して、魏の臣下・「張政」を帯方郡(今の韓国の一部)から倭国(女王支配)の軍事顧問団として送り込んだ時代に始まる。(日本)列島も、同様な寒冷化がおこったが、稲の耐寒品種が普及し、原始倭人や渡来人達は東への移動が可能となった。「張政」は軍事を掌握すると共に、司法などにも人員を配置し、政治的統一に踏み出した。軍事的な衝突は、「狗奴(くな)国」への攻撃で、太平洋岸一帯を抑える「隼人一族」を日向(ひむか)に侵攻し、隼人をさらに南へ退却させた。また、伽那(いまの韓国の一部)人の技術者を派遣し、鉄鉱石鉱脈の探査を行って、踏鞴(たたら)製鉄を倭国で開始した。「張政」本人はまもなく帰国したが、技術や産業は残り、人々はその地に溶け込んでいった。列島は、中国に献上したことで知られる、筑紫の「倭」と、独特の信仰・風俗で東国を抑えた「新興大和」の二大勢力に収斂していく。これ以降が、本論に入り、仁徳天皇、雄略天皇、継体天皇、物部・大伴・葛城氏などが生き生きとして登場する。いままで、あまり掘り下げられていない、ニッチな世界であり、面白くもあり、たいへん難しくもあった。大河ドラマでも充分通用するとおもうが、いかがであろう。歴史音痴の小生が記載するのはおかしいが、日記なので許されよう。
Aug 26, 2011
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昨日の日記で「本能寺の変」に触れたが、それにからんで異説「信長の棺」(加藤廣氏執筆)という歴史小説を思い出す。本能寺の変で信長は寺に火を放ち、爆炎とともに遺体はいくら探しても消滅して見つからなかったという。しかし、信長は本能寺をただの寺とはほど遠い、城のように造っており、敵に攻められたら地下の抜け道を伝わって京都の市街へ逃げられるように、隧道(トンネル)を構築していた。そのことは、忍者・根来衆であったとおもうが、彼等しか知るよしもなく、信長が逃亡せんとした時には、なぜか彼等は先に隧道を固めてしまっていたのである。信長は抜け穴に颯爽と降り立ったものの、蝋燭の先には塞がれた隧道が見え、塊は突き壊そうにも松脂などで「こちんこちん」に固まっていたのだ。後ろの本能寺は爆薬で燃え上がり、信長一同は自分たちが、まるで登り窯のなかにいるような地獄をみて消え去ったのであろう。また、愛宕山と京都の間には、光秀と公家とが密談する庵が設けられていて、事前に「信長追討のみことのり」が宣言されていたという。だから、光秀の「信長暗殺」は、もし光秀の天下統一が成功すれば正当な誅殺であったはずである。しかし、光秀は、秀吉の「想定外のトンボ返り」で逆襲され、「追討のみことのり」は優勢な秀吉軍に向けて傾く・・・・・。光秀の家老・斉藤利三(光秀の義弟)は娘を四国の長曽我部元親に嫁がせ西国に通じており、うまくいけば天下は違う方向に行っていたかも知れない。(そういうことになっていれば、徳川幕府で土佐へ山内家が配置され植民地政策のような圧政が布かれることもなかったろうに、と小生はおもう。しかし、野球と同じで、歴史も、「あのエラーがなかったら勝ったのに」ということは言っても仕方がない。「勝った方が、勝ちなのだ。」「負けた方が、負けである。」再試合はありえないのだ。野球はノーサイドで終わるが、歴史では、試合そのものの経過や、選手名やスコアボードは書き換えられ、負けた軍の運命は悲惨きわまりない。) さて、くだんの加藤廣氏とは、彼の若かりし頃(30年ほど前)にお会いしたことがある。経済学に深い学識をもち、あのマシュマロのような口から優しく発声される英語は同時通訳のような流ちょうなスピーチであった。また、テニスコートでシングルスの試合をかいま見たこともあるが、当時は太っておられて、相手の方(関西弁)も同じような体格であった。体格の割には両者とも動きが良く、戦いぶりは、まるで甲冑で固めた武士が全力で刀を打ち合うような凄まじい姿であったことを忘れられない。脱線するが、秀忠と「江」の息子・家光の乳母(養育係)として迎え入れたのは、奇しくも上記の斉藤利三の娘・お福である。また、明智光秀は天海僧正だという説(伊牟田比呂多氏)もあるようだ。天海僧正が江戸の守りとして建てるように進めた家康の墓所は日「光」東照宮であり、いろは坂には「明智」平と命名した地があり、天海が親しくした春日局は「光秀」を叔父にもつ、などが理由であるらしい。歴史の番人は不在であり、どこかの放送局の「時空警察」でも眞のアリバイは掴めないのだ。そこに小説の入り込むニッチな世界があるらしい。
Aug 24, 2011
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