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ずっと前、まだ、息子が生まれていなかった頃に、自分の猫を迎えにいく夢を見たことを思い出しました。ふさ~っとしてゴージャスな猫と、くしゃっとした、黒くてみすぼらしい猫が、それぞれのケージの中で待っていて、私は、くしゃっとした方の猫に、「やっぱり君が私の猫か~。」みたいなことを言って、内心がっかりしている。その場で抱き上げて、名前をつけて、温かくかわいがることなどできなかった当時の私でした。それからまた何年かたって、カウンセリングが始まったばかりの頃の夢。ちいさい女の子がしょんぼりしていて、女の子の横に居る少し年長の男の子が私に対して、ものすごく怒っている。「今は、そういう状態なんだね。」と、カウンセラーに言われました。おちびを自分に引き受けられない私でした。黒猫くん的な自分を、かわいそうでみすぼらしい状態のまま放っておいて、私は、前半生を、がむばって、ひいこら生きてきたんだなぁ。みなさんの日記を読んで、思うこと。息子が、自分の猫を温かく抱き上げて、自分でお名前をつけることができるまで、身近な他者である私は、彼の猫を、ただ、んだんだと、かわいがってやろう。他にできることが、思いつかないし。息子の高校は、明日が入学式です。長い春休みのあいだ、息子は思いっきり昼夜逆転で、どうしたらそんなに笑えるんだろう、というぐらい、ネット動画を見て、連日大笑いしています。それでもって、たまに適応教室に遊びに行き、カードの大会に行き、シフォンケーキを作ったり、突然アニメ画を書けるようになりたくなったようで、テキストとスケッチブックを買い、おばあちゃんにもらった入学祝いで、ペンタブ(ムスカリさんの息子さんたちが使っているアレなのですね~~)まで買い、今まで絵なんか自分で書いたこともなかったのに、はて~、こんなに趣味を広げちゃって、いったい彼はどう収束していくんだろう(??)状態です。わからん。彼のことは、さっぱりわからん。私じゃないし。真夜中に動画をみて、大笑いしている彼の笑い声をふと覚醒した布団の中で聞くと、(あほかいな)とい文字が、私の脳裏にチカチカ点滅したりします。それでもって気持ちがずる~~っと落ちたり。そんな日もあります。突っ込みどころは満載だけど、そういうのって、彼の黒猫くん的要素が、今、全開ーーっ、真っ盛りーーってことだな、と、思います。ムスカリさんにならって、行動に、んだんだ、っていうことしか、う~~ん。やはり、私は、思いつかないです。連休中に、私の実家に家族で顔をだす予定なのですが、実家近くのカード大会にも行きたいそうで、なんだかんだネットで連絡とってるみたいです。ネットでも対戦してるらしい。ほー、カード対戦、たのしいんだなぁ。学割の件を高校の先生に聞いておいてくれるように私が頼むと、息子はその場で先生の携帯に電話して聞いたので、私は、ちょっとその行動力にびっくりしました。中学の時、あんなに学校への電話連絡がキライだったのに。息子は、入学式までに髪を切りたいそうで、今日、美容院の予約が入っています。私にできることといったら、あっしーくんぐらいだな。頼まれたら、車であっちゃこっちゃ行っています。ペンタブ関連で、他にいろいろ買い足したいものがあるそうで、少し前に、「バイトやろうかな、アルバイトの求人雑誌買ってきて」と言うので、私は本屋で探しました。「今は、昔みたいに店頭にいろいろ情報誌置いてないんだって。情報誌もネットになってるんだってさ。」と言うと、自分でネットでさがしてみて、近くの焼き肉屋さんの求人を見つけたそうですが、「飲食系は、前髪切れって言われそうで、イヤだな。近所でコンビニのバイトとかあったらやりたいけど。」と言って、それっきりになっています。息子は、年末の自分の父親に対する激しい吐き出し以来、言葉で吐き出してくることはあまりなくって、たまに「おとうさんは、子どもっぽいんだ。あの人だけには、いろいろ文句言われたくない。」とか言っています。それでも、父親に一目置いている節々もほの見え、思春期の息子の父親に向ける目は、複雑です。
2011.04.28
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朝から、BUMP OF CHICKEN の「K」をエンドレスで聴きながら、ゴム手袋して、台所の油汚れを落としておりました。今朝、(この曲を聴くと、なんで、私は、涙が出るのか)、ということが、わかったような瞬間があり、そうしたら、このところ、ゆれゆれだったこころが、ぴたっとしずまって、久しぶりに、元気出てきました。私は、この曲の、「黒猫くん」と、「若い画家」と、両方の要素が、私の中に、在るってことを、今朝、あらためて感じまして、それで、(ああ別に外をキョロキョロ物欲しげに探さなくってもいいんだ)、と、不意に、満たされた気持ちが戻ってきたのでした。私の「黒猫くん」は、ずいぶん長く、ひとりで、迎えを待っていたのね~。それでも、何年もかけて、やっと「画家」に会って、ちゃんと名前つけてもらって、一緒に暮らして。なのに、わたしの中の「画家」の要素は、ときに、ブレるのです。そうすると、「黒猫くん」は、居心地悪くなって、よそを彷徨いはじめる。そして、私は、現象として、元気がなくなる、そういうことなのでした。あ~あ。何年か前に、レミオロメンの「粉雪」が、巷ではやっていた頃、とてもこころ惹かれた歌詞がありました。 ぼくは、君の心に、耳を押し当てて、 その声のする方へ、ずっと深くまで、 下りてゆきたい そこでもう一度会おう「ぼく」と、「きみ」の、両方の要素が、わたしのなかにある。わたしのこころを、ずっと下りていって、その声に耳をかたむけるのは、わたし自身なんだわ。以前、ののさんに紹介していただいた、阿部敏郎さんの「いまここ」というブログがありまして、わたしは、私の中の「黒猫くん』的要素が彷徨いあるいている間、毎日のように、読みにいっておりました。何日か前に、そのブログの中で、(こころのふれあいは、自分と自分との間におこるものだ)という意味の(うろ覚えでして、正確な表現ではないかもしれません)フレーズに、わたしは、行き当たりまして、(ああ、そっかぁ。)と思いました。わたしのこころを、ずっと下りていって、「黒猫くん』的要素を迎えにいくのは、私自身がやることなんだけど。そうやって、自分の「黒猫くん」を、自分にしっかり引き受けて生きている人が、ちゃんといるんだ、ということを知ると、私は、とても励まされます。そして、私はひとりではない、ということを、心強く実感します。その実感は、ご近所さんとのおしゃべりみたいな、表層の次元ではない場所で、感じることなのですが、「黒猫くん」が彷徨いはじめると、そういう表層の世界までキョロキョロさまよい出て行ってしまうので、私は、よけい孤独になります。その孤独な状態まで行ってしまって、そこから、もう一度、しんとしずまった、深い温かな場所へ戻ってくるのは、何回やっちまっても、私にとっては、とても時間がかかる作業です。ただ、道しるべがあるから、時間はかかるけれど、戻って来られる。それが、ありがたいです。
2011.04.26
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おとねさんの記事を読んで、(そうだわね、ひとは、自分で想像してみて、心温まることをやった方がいいわ。)と思ったことでした。でもって、ちっとも心温まらない方の想像を、久しぶりにまた思い出しておりました。私は、幼稚園入園前から、(おとなしいらんでるちゃんに、おかあさんは、もっと活発な女の子になってほしいの)という母に、バレエを習わされていて、レッスンの間、母はずっと教室のすみで私の一挙一動を注視。私が先生に叱られて、母と目が合うと、母は必ず怒った顔をして私をキッと睨む。ということを、五年間やりまして、これは、ほんとうにイヤでした。じゃあ、目を合わせなきゃいいのですが、どうしても母を見てしまいました。一番へこたれたのは、見るとたまに、母が泣いていたことでして、(よっぽど私がひどいので、母はきっと悲しんでいるのだ。)と、心から自分のことを情けなく思いました。小3のとき、幼なじみが学級委員に選ばれた時、(どうしてらんでるちゃんがならなかったの。立候補すればいいのに。)と、責められました。私は、まったくのところ、そういう器ではないのでして、そういうリーダー的なものを私に求められても、荷が重いし、非常に辛いのでした。彼女は、(らんでるちゃんのためを思って、心を鬼にして言っているの。)(こういう風に怒ってくれるのは、親だけなんだからね。)(いいわいいわで子どもを育てると、たいへんなことになる。)が口癖でした。思い出に心が温まらない。その子の本質のところをこねくりまわさずに、(ああ、あなたはそういう人なのね。)と、ただ、後ろに控えていてくれて、確認に振り返るとニッコリしてもらえたら。そういうのいい、いいわ。というわけで、今日は、想像しては、ニッコリしております。それでもって、わたしは、自分にもそうありたい。(わたしはそういう人なのね。)と、自分の本質のところを責めないで、元気の出ないときは、(そういうときもあるよ。大丈夫だよ。)とやさしくしたい。想像したら、ひさしぶりに、心からニッコリできました。みなさん、ありがとう。
2011.04.07
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今日、久しぶりに友人の美容室に行ってきました。そして、塞き止められた川のような、無口で、へんてこりんに無感動な自分を再発見して帰ってきました。おやおや、これは、どうしたって、いつもと違う自分だよ。こころが、ずっと無表情に黙りこくっているし。内圧が高まっていなかったなんていう私の認識は、とんでもない間違いでした。感情が塞き止められていたから、行き所がなくて、思考が哲学に走っていただけなのかも。家に帰ってしばらくして、やっと出てきたのは、「え~~ん。地震、ホントこわかったんだよう。心細かったんだよう。近くに親戚もいないし~~。ずっと気を張りつめてたんだよう~~。」という、自分のきもちでした。あんれまあ、子どもみたいだ。そして、テレビで見る、被災地で大勢の身内で肩寄せあっている人たちが、なんとまあ、私は、うらやましかったのでした。少し運命がずれていたら、私は、いまごろ避難所にいて、それでもって、肩寄せあう身内は誰ひとりとしていない場所で、例えばだだっぴろい体育館で、そこかしこで集まりあってなごんでいる一族を横目でみながら、夫婦双方他県出身の核家族の寂しさを、この田舎で、ひしひしと肌身に感じていたんだろうな~~、という心細さ。地元の友人が、親戚同士で心配しあってこまめに行き来していたり、助け合っていたり。そういう話を後から聞くと、私、すごく、すご~~く、うらやましかったのでした。そういうもろもろの感情が、サバイバルモードの間、ずっと塞き止められていて、ライフラインが戻った後も、なかなかうまく表面に出て来なかったです。15日は、会社に出かけたオットから「福島原発、今回は相当ヤバいかもしれないから、荷物まとめて移動の用意しておいてくれ。窓閉め切って、外に出ないように。わん男は家の中に入れて。換気扇も回さないように。」という電話があり、いつもは冷静すぎるぐらいのオットの切羽詰まった電話に、わたしゃ、荷造りして、閉め切った台所で、ご飯を炊いて、せっせとおにぎり握りました。え~~ん。怖かったよ~~。オットの会社からも、部署は違うのですが、福島に、何人もの方が、電力復旧のお手伝いのために、派遣されています。報道されているいろんなこと、ぜんっぜん他人事じゃないし、でも、東北の被害の大きさを思うと、自分の体験なんて、たいしたことじゃないぜ、と思いなしていました。今日までは。友人のところから帰って、「ほぼ日」の山田ズーニーさんの記事を読んでいたら、やっと遅まきながら、自分の感情が、自分に帰ってきました。遅い~~。私は、たしかに、傷ついていたんだなぁ。でも、自分の気持ちに鈍感になってた。そんでもって、友人にメールしました。彼女は、地震の時、お店の石油ストーブを消そうとして、薬缶の熱湯がこぼれて、手に治療が必要なほどのひどいやけどをしていていて、置いてあった大きな鏡も割れてしまって、おうちのブロック塀も壊れて、それを、今日、ネタのように、笑い話のように、明るく話していたのでした。やけど、痛かっただろうなぁ、怖かっただろうなぁ、と、思いました。明るさは、ときに人を慰めもするけれど、ときに居心地悪くもさせるし。心細さを共有しあってこそ、お互い深く慰められることもあるよな~、そんなことを感じた一日でした。それでもって、これまた、ずっとここで書けなかったことがありまして。知人のご主人が、震災の朝、自殺されていたのです。時機が少しでもずれていたら、地震が起こって、てんやわんやになって、ご主人は死ななくてすんだかもしれず。もう、なんともいえない気持ちになっておりました。そのことをが、ずっと、ずっと、こころにひっかかっておりました。読んでくださって、ありがとうございます。
2011.04.06
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私は、自分の気持ちを、いちいち、いちいち、文章に落として、それから次に進んでいくことが多かったので、表現なしの状態のままを、ずいぶん長いこと抱えている今の状態は、わたしにとっては、あまりなじみのない状態です。ちっとも言葉に落ちていかないので、日記もコメントも、さっぱり書けません。インプットはできるのに、アウトプットが、なんだかムリ~~な状態が続いています。そういうときは、だいたいは、こころの内圧がたかまってきて、非常に辛かったという記憶があったのですが、今朝、ふと、それほど内圧は高まっていないことに気がつきました。だいたい、こういうときは、言葉にできない感情が溜まってきて、だんだん内圧が高まってきて、辛くなってきて、表現の風穴が開いて、どっと気持ちが外に出て一息つく、というパターンで来たのですが、どうも、今回は、そういう感じではないみたい。口あんぐりで、なにかにオドロイている状態が、私にずっと続いているだけで、別に感情が溜まっているというわけではないみたい。その人が抱く主張、信仰も、感情も含めて、「人」というのは、なんて時代や環境の制約を色濃く受けて生きているものなんだろう。(私も含めて。)怒りも、かなしみも、偏見も。(私も含めて。)というオドロキ。もう、何を今さら、なのですが、(私も含めて)っていう視点が、どうも、私には、今まですぽっと抜けてたみたいで、というか、「頭」ではわかっていても実感がなかった、というか。もう、そのなまなましい実感に、自分ですごく驚いてしまっています。認識に穴が開いて、そこから、す~す~風が入ってくる感じ。とても心細いです。しかし、(あーた、そんなことを言いはじめたら、どこか遠い果てまで、視点がぶっとんでしまうのではないか、ちょっと自分を離れて客観視してみました、ぐらいでは、済まない場所まで、こころが彷徨っていってしまうのではないか、そんなことを感じてどうするよっ)、という、怖さがありまして。『小人閑居して不善を為す」っていうことわざが思い浮かんだり。いがらしみきおの漫画「ぼのぼの」の、考えすぎると怖い考えになっちゃうぼのぼの君みたく自分を感じたり。大島弓子のちびねこちゃんみたく、こういうことは、みんなとお手手つないで考えよう、と、思ってみたり。時代や環境の制約の範囲の中に認識がまるごとすっぽり収まっていて、日常をためらいなく怒ったり、笑ったり、そういう自分だったらラクだったのか、いや、そんなことを思ってみてもしょ~がない。 でもまあ、できるだけ自分を平らかに保ちたいものだ。と思います。はて~、じゃあ、どういう状態が『自分をたいらかに保つ」ってことになるのか、よくわからんのですが、いろいろと、へなちょこななかで、『自分を平らかに保ちたいんですぅ~~~。』という気持ちだけは、立っているようなので、とりあえず、わたしは、それを柱に生きて行こうか、と。ま、あんまり考え詰めないで、言葉に落とすことを急がないで、ていねいに日常を暮らそう、などと思います。そんでもって、糸井重里の「ほぼ日」が、今、私にとって、とても近しいサイトになっておりまして、とても助かっています。穴にフタをして日常に戻るのではなく、穴が開いたままで、日常を生きるってこともできるよってことを、私に教えてくれるサイトなのでした。う~ん、穴のこと、制約、と言っちゃうと、違うような。そんでもって、穴は、やっぱり、あるのだわ。認識しようがしまいが。うまく言葉にできない。さて、畑行こう。
2011.04.04
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