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(きたばたけ のりとも)は、
室町時代
中期の
公卿
。
権大納言
、
正二位
。伊勢
国司
北畠家
の第4代当主で、伊勢国の
守護大名
でもある。
北畠満雅
の子。
父が戦死した時は 7 歳とまだ幼少であった為、叔父の 大河内顕雅 が政務を代行していた。
嘉吉 元年(1441)、19歳で伊勢国司となり、将軍の 足利義教 から 一字 を賜って 教具 と名乗った。
同年、義教が暗殺される事件( 嘉吉の乱 )が起こると、その首謀者の一人で 伊勢国 に逃亡してきた 赤松教康 の保護を拒否して自殺に追い込み、幕府に恭順を誓った。
文安 5年(1448)に 長野氏 と所領を巡り合戦を行っている。
宝徳 3年(1451)に 正四位 、 参議 に叙任。翌年正月には 従三位 に叙任。 享徳 2年(1453)に 正二位 に叙任。 康正 2年(1456)3月に権 中納言 に叙任。 長禄 2年(1458)には 従二位 に叙任する ] 。
応仁 元年(1467)の 応仁の乱 では北畠家は東軍についたが、教具は 足利義政 から上洛を許されず 大和国 長谷寺 にいて洛中の戦闘には参加していない。
同年8月に在京していた一族の 木造教親 を通じて伊勢に亡命してきた 足利義視 を保護するため、9月6日に長谷寺を離れ、伊勢に御所を造っている。
応仁2年(1468)2月、伊勢守護は西軍の 一色義直 であったため、東軍の 土岐政康 が新たに伊勢守護に任じられて伊勢に攻め込んだ。
同年4月、上洛の勅書が届いたため、足利義視は丹生を発った。義視と教具が平尾に着くと伊勢、伊賀の国人が尽く伺候したが、土岐政康は背いたため、林崎・若松・柳・楠原の諸城を攻め落としている。
9、「北畠 政郷」」 (きたばたけ まささと)は、 室町時代 中期の 武将 ・ 公家 。 伊勢国司 北畠家 第5代当主。居所は 多気御所 。
元服 に際して、 室町幕府 第8代将軍 足利義政 より 偏諱 を与えられ、 政具 (まさとも)と名乗る。
文明 3年(1471)父・ 北畠教具 の死後、 家督 を相続し 北畠家 当主となる。 諱 を政具から 政郷 (まささと)に改めたのもこの頃とされる。
元々 南朝 方だった北畠家は、 室町幕府 と和解して後も、伊勢国司の他、 大和国 宇陀郡 分郡守護に任ぜられる、 畿内 でも独特な存在であった。
幕府の勢力圏である北伊勢には当初は幕府側の 守護 が置かれたが、北畠家との和解後は北畠家が守護に任ぜられることが多かった ] 。
政郷は家督を継ぐと同時に守護にも任命され、北伊勢進出への大義名分としていたが、文明11年(1479)新たに 一色義春 が守護に任命されると、北伊勢の雄である 安濃郡 の 国人 長野氏 の 長野政高 ら諸豪と北畠家との抗争が再燃した。
政郷はしばしば北伊勢への進出を図ったが大敗し、文明12年(1480)に和解を余儀なくされた。この年に政郷から 政勝 (まさかつ)に改名した。
文明18年(1486)に 出家 して 無外逸方 と号し、家督を嫡男・ 具方 (ともかた、のち材親)に譲ったといわれる。未だ40代半ばであったという。
政郷の代に 宇治山田合戦 が再発すると、文明18年(1486年)頃に介入したという記録がある。
明応 4年(1495)に発生した、材親と 木造師茂 との内紛の際には、師茂の側を支援していたともいわれる。
生没年ははっきりしないが、一説には 永正 5年(1508)11月4日または12月4日に 多芸 にて没したという。 享年 60とも、62歳とも言われている。】
文明2年(1470)には北上し、 三重郡 ・ 朝明郡 にも進出した。
文明3年(1471)3月23日、伊勢で死去した。 享年 49歳。死因は腫物であったようである。跡を嫡男の 政具 が継いだ。
伊勢北畠氏からは 木造氏 (一志郡)、 大河内氏 (飯高郡)、 坂内氏 (飯高郡)、 田丸氏 (度会郡)、 星合氏 (一志郡)、 波瀬氏 (一志郡 ) 、 岩内氏 (飯高郡)、 藤方氏 (安濃郡)の諸氏が分かれ出て、それぞれ御所と称された。木造御所は北畠庶流の筆頭であったが、木造御所の 官位 は北畠宗家・多芸御所を上回ることもあり、度々宗家と対立した。
そのため、田丸御所・坂内御所・大河内御所の三家が北畠三御所となり、なかでも大河内氏は筆頭とされ、宗家が絶えたときは、これを継ぐ立場にあった。
また、奥州・津軽には、北畠顕家の子孫説や北畠顕信の子孫説、または顕家(または顕信)の子孫が入婿となったとされる北畠庶流が 浪岡御所 として存続していた。
10、「北畠 材親」 (きたばたけ きちか)は、 伊勢国 の 守護大名 ・ 公家 。 伊勢 国司 北畠家 の第6代当主でもある。
応仁2年(1468年)、第5代当主・ 北畠政具 (のち政郷、政勝に改名)の長男として生まれる。
はじめ 具方 (ともかた)を名乗るが、のちに第10代将軍 足利義材 (のちの義稙)から 偏諱 を受けて 材親 と改める。
若い頃から父と共に二元政治を行い、また父と共に伊勢北部の 神戸氏 や 長野氏 らの領土に侵攻して勢力を拡大した。
伊勢南部においても、 宇治山田 の 神人 層と対立して抗争し、勢威を拡大した。
永正5年(1508)の父の死去により、家督を継いで当主となる(実際にはかなり前に譲られていたとの説もある)。この際、伊勢守護職に任じられた。
永正8年(1511)、病を理由に剃髪し、家督を嫡男の晴具に譲って 飯高郡 大石村に 隠居 した。
永正14年(1517年)に死去。享年50歳。
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