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2024年04月26日
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カテゴリ: 中世




(きたばたけ のりとも)は、 室町時代 中期の 公卿 権大納言 正二位 。伊勢 国司 北畠家 の第4代当主で、伊勢国の 守護大名 でもある。 北畠満雅 の子。


父が戦死した時は 7 歳とまだ幼少であった為、叔父の 大河内顕雅 が政務を代行していた。


嘉吉 元年(1441)、19歳で伊勢国司となり、将軍の 足利義教 から 一字 を賜って 教具 と名乗った。


同年、義教が暗殺される事件( 嘉吉の乱 )が起こると、その首謀者の一人で 伊勢国 に逃亡してきた 赤松教康 の保護を拒否して自殺に追い込み、幕府に恭順を誓った。


文安 5年(1448)に 長野氏 と所領を巡り合戦を行っている。


宝徳 3年(1451)に 正四位 参議 に叙任。翌年正月には 従三位 に叙任。 享徳 2年(1453)に 正二位 に叙任。 康正 2年(1456)3月に権 中納言 に叙任。 長禄 2年(1458)には 従二位 に叙任する ]


応仁 元年(1467)の 応仁の乱 では北畠家は東軍についたが、教具は 足利義政 から上洛を許されず 大和国 長谷寺 にいて洛中の戦闘には参加していない。


同年8月に在京していた一族の 木造教親 を通じて伊勢に亡命してきた 足利義視 を保護するため、9月6日に長谷寺を離れ、伊勢に御所を造っている。


応仁2年(1468)2月、伊勢守護は西軍の 一色義直 であったため、東軍の 土岐政康 が新たに伊勢守護に任じられて伊勢に攻め込んだ。


同年4月、上洛の勅書が届いたため、足利義視は丹生を発った。義視と教具が平尾に着くと伊勢、伊賀の国人が尽く伺候したが、土岐政康は背いたため、林崎・若松・柳・楠原の諸城を攻め落としている。


文明 元年(1469)8月に権 大納言 に叙任。



9、「北畠 政郷」」 (きたばたけ まささと)は、 室町時代 中期の 武将 公家 伊勢国司 北畠家 第5代当主。居所は 多気御所


元服 に際して、 室町幕府 第8代将軍 足利義政 より 偏諱 を与えられ、 政具 (まさとも)と名乗る。


文明 3年(1471)父・ 北畠教具 の死後、 家督 を相続し 北畠家 当主となる。 を政具から 政郷 (まささと)に改めたのもこの頃とされる。


元々 南朝 方だった北畠家は、 室町幕府 と和解して後も、伊勢国司の他、 大和国 宇陀郡 分郡守護に任ぜられる、 畿内 でも独特な存在であった。


幕府の勢力圏である北伊勢には当初は幕府側の 守護 が置かれたが、北畠家との和解後は北畠家が守護に任ぜられることが多かった ]


政郷は家督を継ぐと同時に守護にも任命され、北伊勢進出への大義名分としていたが、文明11年(1479)新たに 一色義春 が守護に任命されると、北伊勢の雄である 安濃郡 国人 長野氏 長野政高 ら諸豪と北畠家との抗争が再燃した。


政郷はしばしば北伊勢への進出を図ったが大敗し、文明12年(1480)に和解を余儀なくされた。この年に政郷から 政勝 (まさかつ)に改名した。


文明18年(1486)に 出家 して 無外逸方 と号し、家督を嫡男・ 具方 (ともかた、のち材親)に譲ったといわれる。未だ40代半ばであったという。


政郷の代に 宇治山田合戦 が再発すると、文明18年(1486年)頃に介入したという記録がある。


明応 4年(1495)に発生した、材親と 木造師茂 との内紛の際には、師茂の側を支援していたともいわれる。


生没年ははっきりしないが、一説には 永正 5年(1508)11月4日または12月4日に 多芸 にて没したという。 享年 60とも、62歳とも言われている。】


文明2年(1470)には北上し、 三重郡 朝明郡 にも進出した。


文明3年(1471)3月23日、伊勢で死去した。 享年 49歳。死因は腫物であったようである。跡を嫡男の 政具 が継いだ。


伊勢北畠氏からは 木造氏 (一志郡)、 大河内氏 (飯高郡)、 坂内氏 (飯高郡)、 田丸氏 (度会郡)、 星合氏 (一志郡)、 波瀬氏 (一志郡 ) 岩内氏 (飯高郡)、 藤方氏 (安濃郡)の諸氏が分かれ出て、それぞれ御所と称された。木造御所は北畠庶流の筆頭であったが、木造御所の 官位 は北畠宗家・多芸御所を上回ることもあり、度々宗家と対立した。


そのため、田丸御所・坂内御所・大河内御所の三家が北畠三御所となり、なかでも大河内氏は筆頭とされ、宗家が絶えたときは、これを継ぐ立場にあった。


また、奥州・津軽には、北畠顕家の子孫説や北畠顕信の子孫説、または顕家(または顕信)の子孫が入婿となったとされる北畠庶流が 浪岡御所 として存続していた。



10、「北畠 材親」 (きたばたけ きちか)は、 伊勢国 守護大名 公家 伊勢 国司 北畠家 の第6代当主でもある。


応仁2年(1468年)、第5代当主・ 北畠政具 (のち政郷、政勝に改名)の長男として生まれる。


はじめ 具方 (ともかた)を名乗るが、のちに第10代将軍 足利義材 (のちの義稙)から 偏諱 を受けて 材親 と改める。


若い頃から父と共に二元政治を行い、また父と共に伊勢北部の 神戸氏 長野氏 らの領土に侵攻して勢力を拡大した。


伊勢南部においても、 宇治山田 神人 層と対立して抗争し、勢威を拡大した。


永正5年(1508)の父の死去により、家督を継いで当主となる(実際にはかなり前に譲られていたとの説もある)。この際、伊勢守護職に任じられた。


永正8年(1511)、病を理由に剃髪し、家督を嫡男の晴具に譲って 飯高郡 大石村に 隠居 した。


永正14年(1517年)に死去。享年50歳。






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最終更新日  2024年04月26日 07時53分24秒
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