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2024年04月26日
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カテゴリ: 中世






戦国・安土桃山時代


戦国時代 に入ると、英主・ 北畠晴具 が現れ、北畠家は南伊勢、 志摩国 伊賀国 の南部、 大和国 の南部、 紀伊国 の東部にまでに及ぶ一大勢力となった。他方、北伊勢の雄たる長野工藤氏とは激しく争ったものの、決着をつけることができなかった。


晴具の子・ 具教 の代には、長野工藤氏を従わせて北伊勢に進出し、志摩への支配も強めるなど、 戦国大名 として最盛期を迎えた。また、永禄5年(1562)5月に 長野稙藤 長野藤定 が死去したため、長野氏の支配権を完全に握った。



11、「北畠 晴具」 (きたばたけ はるとも)は、 戦国時代 大名 公家 伊勢国 国司 北畠家 の第7代当主。子に 具教 木造具政 具親 ら。


文亀 3年(1503)、第6代当主・北畠材親(具方)の嫡男として生まれる [1] [2]


永正 7年(1510)、 叙爵 侍従 となる。この頃は 親平 を名乗っていた。


永正8年(1511)、父から家督を譲られて相続し、伊勢国司家第7代当主となる。


永正13年(1517)、 従五位上 となる。この頃に 具国 に改名した。


永正15年(1518)、 左近衛中将 となる。また、同年に第12代将軍・ 足利義晴 から「晴」の字を拝領して 晴具 と名乗った。


大永5年(1525)、 正五位下 となり、同8年には 従四位下 参議 となった。


享禄 2年(1529)、高国・足利義晴が 三好元長 柳本賢治 に敗北し、 近江 朽木谷へ逃亡した。


高国は娘婿の晴具に援軍を要請するため伊勢へ下向した。その後、 享禄 4年(1531)に晴具の支援を受けた高国は再起を図り 摂津 まで侵攻し、 細川晴元 や三好元長と摂津天王寺で戦うも敗北し、大物浦で討死した( 大物崩れ )。


天文 年間、晴具は 志摩 鳥羽城 を攻撃し、支配下に収める。そして小浜氏ら国人を掌握して志摩国をほぼ制圧した。


その後、 大和 にも進出して 吉野郡 宇陀郡 を制圧し、支配下に収めている。しかしこの大和侵攻により、大和諸国人との対立が発生し、 筒井氏 越智氏 十市氏 久世氏 らと合戦に及んでいる。


紀伊 へも進出し、熊野地方から尾鷲・新宮方面までを領有化、十津川まで支配領域を広げた。


晴具は伊勢国内でも北伊勢の雄たる 長野氏 と対立して争った。天文12年(1543)には 長野藤定 が北畠の領する南伊勢に侵攻すると、晴具は垂水鷺山に出陣、合戦となった( 垂水鷺山の戦い )。


北畠軍は 家城之清 豊田五郎左衛門 垂水釈迦坊 を、長野軍は 細野氏 分部氏 をそれぞれ主力にし、激しい戦闘の末、決着はつかずに双方退却することとなった。


天文16年(1545)から天文18年(1547)にかけて、晴具は長野氏に反撃を仕掛け、 葉野の戦い で長野方の 分部与三衛門 を討ち取るなど 一志郡 内で攻防を続けたが、長野氏を降すことはできなかった。


長野氏が降伏するのは次の具教の代である。また、伊勢 山田三方 の神人層の対立にも介入し、天文3年(1534)1月に山田三方が自身の命令に従わないことを理由に出兵、宇治・山田の両門前町の軍勢を 宮川の戦い で討ち、両門前町を支配下におさめている。


天文5年(1536)、出家して「天祐」と号した。


天文22年(1553)、 隠居 して家督を嫡男の具教に譲った。


永禄 6年(1563)、多気御所で死去、享年61歳。



人物


晴具は文武両道の名将で、弓馬の達人で 和歌 連歌 茶道 をよくし、 能書家 でもあった。


特に和歌は、 大永 元年(1521)には 細川高国 らとともに 歌合せ を本拠地の 多気御所 で実施し、大永2年(1522)には 連歌師 宗長 を多気 御所 に招き、逗留させて 連歌 の興行も行っている。


また、高国が多気御所に造った庭園は、現在 北畠氏館跡庭園 と呼ばれ、国指定の 名勝 となっている。



12、 北畠 具教」 (きたばたけ とものり)は、 戦国時代 から 安土桃山時代 にかけての 大名 公家 伊勢国司 北畠家 の第8代当主。


出生


享禄 元年(1528)、第7代当主で参議・ 北畠晴具 の長男として生まれる。


天文 6年(1537)、 従五位下 侍従 に叙任 [ 。以後も天文21年(1552) 従四位下 参議 に叙任されて 公卿 に列し、天文23年(1554)に 従三位 権中納言 に叙任されているなど、 朝廷 から 官位 を授かって順風満帆な青年期を過ごした。


この間の天文22年(1553)に父・晴具の隠居により家督を相続して第8代当主となる。


弘治 元年(1555)、父・晴具の命により伊勢国 安濃郡 を支配していた 長野工藤氏 と戦い、 永禄 元年(1558)に次男・ 具藤 を長野工藤氏の 養嗣子 とする有利な和睦を結ぶことで北伊勢に勢力を拡大し、永禄 5 年(1562)5月5日に 長野稙藤 長野藤定 が同日に死去したため長野氏の支配権を完全に握った(具教による 暗殺 説もある)。






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最終更新日  2024年04月26日 07時56分39秒
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