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戦国・安土桃山時代
戦国時代 に入ると、英主・ 北畠晴具 が現れ、北畠家は南伊勢、 志摩国 、 伊賀国 の南部、 大和国 の南部、 紀伊国 の東部にまでに及ぶ一大勢力となった。他方、北伊勢の雄たる長野工藤氏とは激しく争ったものの、決着をつけることができなかった。
晴具の子・ 具教 の代には、長野工藤氏を従わせて北伊勢に進出し、志摩への支配も強めるなど、 戦国大名 として最盛期を迎えた。また、永禄5年(1562)5月に 長野稙藤 と 長野藤定 が死去したため、長野氏の支配権を完全に握った。
11、「北畠 晴具」 (きたばたけ はるとも)は、 戦国時代 の 大名 ・ 公家 。 伊勢国 国司 北畠家 の第7代当主。子に 具教 、 木造具政 、 具親 ら。
文亀 3年(1503)、第6代当主・北畠材親(具方)の嫡男として生まれる [1] [2] 。
永正 7年(1510)、 叙爵 、 侍従 となる。この頃は 親平 を名乗っていた。
永正8年(1511)、父から家督を譲られて相続し、伊勢国司家第7代当主となる。
永正13年(1517)、 従五位上 となる。この頃に 具国 に改名した。
永正15年(1518)、 左近衛中将 となる。また、同年に第12代将軍・ 足利義晴 から「晴」の字を拝領して 晴具 と名乗った。
大永5年(1525)、 正五位下 となり、同8年には 従四位下 、 参議 となった。
享禄 2年(1529)、高国・足利義晴が 三好元長 ・ 柳本賢治 に敗北し、 近江 朽木谷へ逃亡した。
高国は娘婿の晴具に援軍を要請するため伊勢へ下向した。その後、 享禄 4年(1531)に晴具の支援を受けた高国は再起を図り 摂津 まで侵攻し、 細川晴元 や三好元長と摂津天王寺で戦うも敗北し、大物浦で討死した( 大物崩れ )。
天文 年間、晴具は 志摩 の 鳥羽城 を攻撃し、支配下に収める。そして小浜氏ら国人を掌握して志摩国をほぼ制圧した。
その後、 大和 にも進出して 吉野郡 と 宇陀郡 を制圧し、支配下に収めている。しかしこの大和侵攻により、大和諸国人との対立が発生し、 筒井氏 ・ 越智氏 ・ 十市氏 ・ 久世氏 らと合戦に及んでいる。
紀伊 へも進出し、熊野地方から尾鷲・新宮方面までを領有化、十津川まで支配領域を広げた。
晴具は伊勢国内でも北伊勢の雄たる 長野氏 と対立して争った。天文12年(1543)には 長野藤定 が北畠の領する南伊勢に侵攻すると、晴具は垂水鷺山に出陣、合戦となった( 垂水鷺山の戦い )。
北畠軍は 家城之清 、 豊田五郎左衛門 、 垂水釈迦坊 を、長野軍は 細野氏 ・ 分部氏 をそれぞれ主力にし、激しい戦闘の末、決着はつかずに双方退却することとなった。
天文16年(1545)から天文18年(1547)にかけて、晴具は長野氏に反撃を仕掛け、 葉野の戦い で長野方の 分部与三衛門 を討ち取るなど 一志郡 内で攻防を続けたが、長野氏を降すことはできなかった。
長野氏が降伏するのは次の具教の代である。また、伊勢 山田三方 の神人層の対立にも介入し、天文3年(1534)1月に山田三方が自身の命令に従わないことを理由に出兵、宇治・山田の両門前町の軍勢を 宮川の戦い で討ち、両門前町を支配下におさめている。
天文5年(1536)、出家して「天祐」と号した。
天文22年(1553)、 隠居 して家督を嫡男の具教に譲った。
永禄 6年(1563)、多気御所で死去、享年61歳。
人物
晴具は文武両道の名将で、弓馬の達人で 和歌 ・ 連歌 ・ 茶道 をよくし、 能書家 でもあった。
特に和歌は、 大永 元年(1521)には 細川高国 らとともに 歌合せ を本拠地の 多気御所 で実施し、大永2年(1522)には 連歌師 の 宗長 を多気 御所 に招き、逗留させて 連歌 の興行も行っている。
また、高国が多気御所に造った庭園は、現在 北畠氏館跡庭園 と呼ばれ、国指定の 名勝 となっている。
12、 「 北畠 具教」 (きたばたけ とものり)は、 戦国時代 から 安土桃山時代 にかけての 大名 ・ 公家 。 伊勢国司 北畠家 の第8代当主。
出生
享禄 元年(1528)、第7代当主で参議・ 北畠晴具 の長男として生まれる。
天文 6年(1537)、 従五位下 侍従 に叙任 [ 。以後も天文21年(1552) 従四位下 参議 に叙任されて 公卿 に列し、天文23年(1554)に 従三位 権中納言 に叙任されているなど、 朝廷 から 官位 を授かって順風満帆な青年期を過ごした。
この間の天文22年(1553)に父・晴具の隠居により家督を相続して第8代当主となる。
弘治 元年(1555)、父・晴具の命により伊勢国 安濃郡 を支配していた 長野工藤氏 と戦い、 永禄 元年(1558)に次男・ 具藤 を長野工藤氏の 養嗣子 とする有利な和睦を結ぶことで北伊勢に勢力を拡大し、永禄 5 年(1562)5月5日に 長野稙藤 と 長野藤定 が同日に死去したため長野氏の支配権を完全に握った(具教による 暗殺 説もある)。
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