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2024年04月26日
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カテゴリ: 中世




小浜景隆 志摩国 国人 達を援助して 九鬼氏 の本拠地・田城を攻めさせ、一時的に九鬼氏を滅ぼして(城主の 九鬼浄隆 は戦死、弟の 九鬼嘉隆 は逃亡)志摩国での支配体制を固めた。


さらに『勢州軍記』「秋山謀叛事」によれば、永禄初年に 大和国 宇陀郡 の国人領主・ 秋山教家 三好氏 の婿として権勢を奮い、具教の命に従わなかったため、具教は教家の居城の神楽岡城を攻め、教家の父を人質に取ったという。


このように具教は北畠家の支配範囲を順調に広げていき、北畠家の最盛期を築き上げた。 


永禄6年(1563)、父の晴具が死ぬと喪に服して官職を辞し [3] 、嫡男の 具房 に家督を譲って隠居する。しかし北畠家の実権は依然として具教が握っていたようである。


ところが、永禄11年(1588)以降、 尾張国 織田信長 が伊勢国に侵攻し、 神戸氏 ・長野工藤氏など伊勢北中部の 豪族 を支配下に置いた。


そして、永禄12年(1569)に8月に信長自ら北畠領内への侵攻を開始した。


北畠軍は織田軍相手に奮戦したが、兵数に大きな差があり、具教の弟・ 木造具政 織田氏 に寝返るなどの悪条件も重なり、次々と城を落とされた。


具教は大河内城(現在の 三重県 松阪市 )に籠城して死守するも、50余日に及ぶ抵抗の末に降伏する形で和睦した( 大河内城の戦い


*「大河内城の戦い」 (おかわちじょうのたたかい)は、 戦国時代 永禄 12年(1569年)に 伊勢国 大河内城 で行われた合戦である。 尾張国 戦国大名 ・織田信長と、 伊勢国 国司 である 北畠具教 具房 親子との間で行われた。




合戦までの経緯


永禄10年(1567)、織田信長は 神戸具盛 長野具藤 を降し、北伊勢の八郡を手中に収め、残る南伊勢五郡を支配する 国司 大名・ 北畠家 と対立していた。北畠家の当主は 北畠具房 であったが、実権は隠居した前当主・ 北畠具教 が握っていた。


永禄12年(1569)5月、 木造城 主・ 木造具政 (具教の弟)が源浄院主玄(後の 滝川雄利 )と 柘植保重 の献策により、織田側につく。織田側の武将・ 滝川一益 の調略であった。


対する具教は5月12日、木造城を包囲し攻撃するも(『桑名志』)、滝川、神戸氏、長野氏の援軍もあり、8月に入っても木造城は持ち堪えていた。


開戦


同年8月20日、上洛戦を終えて美濃に戻っていた信長は、総勢 7 万といわれる軍で岐阜を出陣。23日、木造城に着陣した。


北畠軍は既に囲みを解いており、1万6千の兵を天険の要害である大河内城とその支城に分散させ籠城していた。大河内城の北畠軍の兵数は約8千であったといわれる。


8月26日、織田軍の 木下秀吉 阿坂城 を攻撃、落城させる。信長は他の支城は放置し、大河内城へ向かった。


8月28日、織田軍は四方より大河内城を包囲し、城の周囲に鹿垣を2重3重に作った。


9月8日、信長は 丹羽長秀 池田恒興 稲葉良通 に夜討ちを命じる。しかし雨が降り出して鉄砲が使用不能になったため、後退した。


翌日9月9日、信長は兵糧攻めを狙い、滝川一益に命じて多芸城を焼き討ちさせる。さらにその近辺にも放火し、住民を大河内城へと追い込んだ。


この後、1ヶ月ほど間が空く。滝川一益が魔虫谷から攻め込んだが失敗に終わったというが、詳細は不明である。


10月3日、織田家と北畠家は和睦した。


この時の和睦の条件は、


信長の次男である茶筅丸( 織田信雄 )を具房の養嗣子とすること。


大河内城を茶筅丸に明け渡し、具房、具教は他の城へ退去すること。


という、織田側に有利なものであった。


大河内城を明け渡し、具教は 霧山城 に近い三瀬館(現在の三重県多気郡大台町)、具房は 坂内城 に移ったものの、少なくとも4年後の天正元年(1573年)9月迄実権を保ち続けた。


なお、 谷口克広 は信長の北畠氏との戦いはむしろ信長方が次第に劣勢となり、 足利義昭 の仲介で和議に入ったとする説を出している。


また、 久野雅司 は、信長が茶筅丸の入嗣を強要したことで義昭の不快感を招き、信長と義昭の対立のきっかけになった事件とする見方をしている。



このとき、具教は降伏の条件として信長の次男・茶筅丸(のちの 織田信雄 )を具房の養嗣子として迎え入れることとなる。


具房にはまだ子がなかったため、具教の娘の雪姫が信雄(茶筅丸)に嫁ぐこととなった。


ただし、 谷口克広 はこの戦いではむしろ織田方が次第に劣勢となり、信長の要請を受けた将軍・ 足利義昭 の仲介で和議に入ったとする説を出している。


また、 久野雅司 は信長が茶筅丸の入嗣を強要したことで義昭の不快感を招き、信長と義昭の対立のきっかけになった事件とする見方をしている [5]


その後、 元亀 元年(1570)5月、 出家 して 天覚 、更に 不智斎 と号し、三瀬谷(現在の三重県 多気郡 大台町 )に移る。


しかし、少なくとも 天正 元年(1573)6月迄は具豊(信雄)に実権を渡しておらず、天正3年(1575)6月の家督譲与まで具教、具房奉公人(教兼、房兼)の文書発給が続いている。






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最終更新日  2024年04月26日 07時58分35秒
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