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16「人物・ 逸話」
緒方洪庵の孫・緒方銈次郎は父親や祖母の緒方八重から聞いた話として、益次郎の適塾時代は「伝えるところによれば、村田は精根を尽くして学び、孜々として時に夜を徹して書を読むことを怠らず」とあるほど猛勉強をし、暇さえあれば解剖の本を読み、しばしば動物の解剖を行うなど研究熱心であった。塾頭としても綿密に考えて講義をし、遊びをしない品行方正な人格であったとしている。
類い稀な語学力と、医学、化学などの豊かな知識を有する益次郎であったが、医師としての素質は欠けていた。郷里では、時候のあいさつをされても「夏は暑いのが当たり前です。」「寒中とはこういうものです。」と答える無愛想な性格に加え、治療も上手でなく評判は悪かった。江戸の「鳩居堂」時代の塾生も、学識は尊敬するが「先生は藪医者」と陰口を叩いていたこともある。塾生の一人野辺地尚義が目を患った時も「決して薬をつけてはならぬ。薬はつけるものではない。爛れたら水で洗い夜中に書見することはならぬ」と診断して塾生に「先生は医者の事は知られない」と笑われた。
維新後、益次郎は「今後注意するは西である」と発言し、西からの反乱(西南戦争)を予言していたとされる。西郷を全く評価していなかった一人であり、西郷を建武の新政後に反旗を翻した足利尊氏に見立てていたという。
海江田らが益次郎に反感を持った原因の一つに、彰義隊の討伐に際し激戦が予想される黒門口に薩摩兵を置く益次郎の作戦について、西郷と益次郎の間で「西郷熟視し終わりていわく、薩兵を見殺しにするの朝意なるや」「大村は静かに扇子を開閉し、天を仰ぎて言なし。すでにして曰く、しかりと。西郷また言なくして退くと」と記されてあるようなやり取りがあったからというものがある。もっとも西郷は、海江田と益次郎との論争には全面的に大村を支持するなど、その軍事知識を高く評価していた。また東海道総督府参謀木梨精一郎も黒門口担当は希望者が殺到し、両者にはそのような話はなかったと証言している。
若年だった西園寺公望は益次郎に師事しており、京都にいた西園寺が益次郎を訪問しようとした際、公家の旧友に会ったために訪問できなくなったところ、そのとき大村は刺客に襲われ、西園寺は巻き込まれずに済んだといわれる。
日本初の軍歌・行進曲とされる品川弥二郎作詞の「トコトンヤレ節」(宮さん宮さん)の作曲者とも言われている。この曲は有栖川宮熾仁親王が東征大総督に就任して京都を発った慶応4年2月頃から一斉に歌われるようになったものといわれ、歌詞を刷った刷り物も頒布されて、東征軍将兵のみならず一般民衆にも広められた。
明治2年6月、戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、東京招魂社(現在の靖国神社)の建立を献策している。
戊辰戦争時に奥州北陸に遠征する兵士の食事を気にかけ、「兵食というものは、まことに粗末なものである。兵士が頼りにするのは米ばかりだ」と絶えず米糧のチェックを行うなど細かなところに気の付く面もあった。
戊辰戦争で降伏した者の中に、適塾の後輩の大鳥圭介がいたことを知った益次郎は「大鳥もやはり助けねばならぬ。どうしても官軍に抵抗して一番強いが、後日のために尽くすならば、大鳥は一番賊のうちで役に立つ。どうしても戦はあの人が一番よい。」と述べ、その才能を惜しみ減刑に奔走したという。
生活は質素で、芸者遊びや料亭も行かず、酒を好む以外は楽しみはなかった。江戸の蕃書調所時代の益次郎の小遣い帳には、大好物の豆腐をはじめ、蛸、鯛、鰹、蛤、刺身など相当の食物を購入したことが記されており、実入りが良かった事もあり一時期は贅沢な食事をしていたようであるが、後年の益次郎は粗食で、兵部大輔の高位になった後も「要するに先生は非常に気力旺盛な方で、豪傑でありました。強記博聞おのれを持することが極めて質素でありました」と曾我祐準が証言するほどであった。
学究肌で趣味らしい趣味もなかったが、豆腐を食べることと骨董品を買うことだけは楽しみにしていた。特に掛け軸が好きだったが、1両以上のものは決して買うことがなかった。その理由について、部下で軍務官権判事の船越衛は「『おれも軸物などを楽しむが、その代わりに額を決めておく。その決めた額より上は出さぬ』ということだった」と証言している。
遭難の直前、益次郎は軍事施設検分のため大阪を訪れ、蕃書調所時代の同僚だった原田敬策を呼び、道頓堀での芝居見物の後、料亭で会食を共にした。後日、原田も普段の益次郎には珍しい歓待ぶりに「先生自身にはもはや今生の訣別なりと考え、すでに身辺に迫りくる逃るべからざる災難を予知しておられたから」と懐旧している。
妻の名前は琴子(もしくは琴)。旧姓は高樹とされるが、高実(たかざね)という説もある。琴子の愛犬の名前は角之助、大村の死後の明治8年泥棒に斬り殺され、「大村角之助」と刻まれた墓に葬られたという。
了
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