PR
カレンダー
カテゴリ
コメント新着
キーワードサーチ
大津事件
5月11日、大津に入り、琵琶湖や唐崎神社を見学した。しかし同日、大津から京都へ戻る際、滋賀県警察部所属の警察官津田三蔵巡査が人力車に乗っていたニコライ皇太子にサーベルで斬りかかり、彼の右耳上部を負傷させた。切り傷そのものはそれほど深くなかったものの、重いサーベルによる斬撃を受けたため頭蓋骨に裂傷が入った(脳には届かなかった)。これ以降ニコライは終生、傷の後遺症と頭痛に苦しむようになった。
ニコライはこの時のことを次のように日記に書いている。「人力車が人々が沿道にあふれている通りへ曲がった時、私は右耳の上に強い衝撃を感じた。振り返ると胸が悪くなるほど醜い顔をした巡査が両手でサーベルを持って私を斬りつけようとしていた。とっさに私は『何をする』と叫んで道路に飛び降りた。醜い顔は私を追いかけてきたが、誰も止めようとしないので、私はやむなくその場から逃げた。群衆の中に紛れこもうと思ったが、日本人たちは混乱して四散してしまったので、それも不可能だった。走りながら振り返ると私を追ってくる巡査の後ろからゲオルギオスが追跡しているのが確認できた。更に60歩走ってもう一度振り返ると、ありがたいことに全て終わっていた。ゲオルギオスが竹の杖の一撃で狂人を倒していたのである。私がそこへ戻ると、人力車の車夫と警官たちが狂人を取り押さえていた。一人が狂人の胸ぐらを掴んで、奪ったサーベルを喉につきつけていた。群衆は誰一人として私を助けようとしなかった。なぜ通りの真ん中に私とゲオルギオスとあの狂人だけが取り残されたのか、私は怪訝に思う。」。
しかし津田の裁判の際の目撃者たちの証言によると、津田を取り押さえた一番の功労者はゲオルギオス王子ではなく、人力車の車夫だったという。確かに最初に津田に立ち向かったのはゲオルギオス王子であり、彼はその日お土産に買った竹の杖を武器にしていた。だがゲオルギオスの竹の杖は津田をひるませただけであり、ひるんだところを人力車の車夫たちが津田に飛びかかり、この時津田がサーベルを落とし、それを拾った車夫が津田の首筋と背中を斬りつけたのだという。ニコライも後に一応これを認めていたらしく、彼を助けた車夫の二人に勲章を送っている。だがニコライは毎年5月11日に行っていた大津事件記念礼拝においては感謝の意を日本人車夫にではなく、ゲオルギオスに捧げていた。
大津事件の影響
有栖川宮威仁親王から電報で事件の報告を受けた明治天皇はただちにニコライ皇太子のお見舞いのため京都へ行幸し、常盤ホテル(現在の京都ホテルオークラ)でニコライ皇太子と面会した。皇太子への同情と事件への怒りを表明し、犯人はただちに処罰される旨を確約した。また回復した後、予定通り東京へ訪問することを希望した。これに対してニコライ皇太子は「自分は一狂人のために負傷したが、陛下をはじめとして日本国民が示してくれた厚意に感謝の意を持っている事は、事件以前と全く変わっていない」と返答しつつ、視察の継続については父母の指示を仰がねばならないとして確答しなかった。
結局ニコライ皇太子は父帝アレクサンドル3世の指示に従って東京訪問を中止し、5月19日をもって帰国の途につくことになった。残念がった天皇はニコライ皇太子を神戸御用邸での晩餐に招待したが、ニコライ皇太子は拝辞し、代わりにロシア軍艦上での晩餐に天皇を招待した。天皇はこれを快諾したが、閣僚たちが反発した。1882年に李氏朝鮮で大院君が清に船で拉致された事件を引き合いに出し、外国軍艦に搭乗する危険性を進言したが、天皇は「ロシアは先進文明国である。そのロシアがなにゆえに汝らが心配するような蛮行をしなければならないのか」と反論し、予定通りロシア軍艦の晩餐に出席した。天皇は改めてニコライ皇太子に謝罪し、それに対してニコライ皇太子は「どこの国にも狂人はいる。いずれにしても軽傷であったので陛下が憂慮されるには及ばない」と返答した。安堵した天皇はニコライ皇太子と談笑に及び、親密な空気の中で別れることができた。
日本国民の世論もニコライ皇太子への同情と津田への憎しみで占められた。ニコライ皇太子の軍艦には日本中から手紙と贈り物が届いた。またニコライは日記の中で日本国民たちが許しを乞うように次々と街頭に膝まづいて合掌する姿に感動したと書いている。畠山勇子という 27 歳の日本人女性はこの件で自害し、国内外に衝撃を呼んだ。山形県最上郡金山村は村民に津田姓と三蔵名を禁止する条例を出している。こうした日本人の反省の態度に接してニコライは、日本を離れる直前に侍従武官長バリャティンスキーの名前で感謝状を新聞に寄せた。
内閣総理大臣松方正義はロシアとの関係を考慮して津田を死刑にするべきと考えた。刑法116条(「天皇、三后、皇太子に危害を加え、または加えようとした者は死刑に処す」)の「皇太子」に外国の皇太子が含まれるかをめぐって政府と大審院院長児島惟謙の間で論争になった。松方は「国があっての法律である。法律を厳格に守って国が滅ぶのでは意味がない」と主張して刑法116条で裁くよう要請したが、児島は「ロシアは津田が死刑にならなかったからと攻めてくるような野蛮国ではない。ロシアもドイツも外国皇族の襲撃に対しては自国の皇族に対する物ほど重い罪を定めていない。むしろヨーロッパからは日本の法律の不備が指摘されているのであり、今こそ日本の法治主義を示す時である」と主張した。結局津田は刑法116条ではなく一般人に対する謀殺未遂罪(刑法292条)で有罪となり、その最高刑である無期徒刑(無期懲役)に処された。
「黒田清隆の群像」人物像。 … 2024年10月11日
「黒田清隆の群像」晩年。 … 2024年10月11日
「黒田清隆の群像」明治14年の政変。 … 2024年10月11日