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事件以来ロシアの新聞は「皇太子殿下を守ったのはゲオルギオス王子であり、日本人は傍観しているだけだった」といった反日記事を載せ続けたため、ロシアで反日世論が高まったが、天皇がニコライのお見舞いをしたことを知ったロシア政府は報道管制を敷き、反日報道を止めさせたという。
唯一禍根となったのはニコライの日本人への心象であった。日本では津田と他の日本人全般を区別する発言をしていたニコライだったが、この事件に遭遇して以降、彼は日本人に嫌悪感を持つようになり、ことあるごとに日本人を「猿」と呼ぶようになる。ロシア首相セルゲイ・ヴィッテはニコライ皇太子の日本人蔑視が後の日露戦争(とその敗北)を招いたと分析している。
帰国
日本からウラジオストクに入港した。予定行事だけこなすと、早々に不快なウラジオストクを離れ、「文明の天国」サンクトペテルブルクへ戻った。その途中、シベリアを横断した。これがきっかけでニコライ皇太子はシベリアには深い関心を寄せるようになった。シベリアはロシア領だが、シベリアを訪れたロシア皇太子はニコライが初めてであった。
帰国後、ニコライは公務に励むようになり、1891年11月には飢饉救済特別対策委員委員長、1893年2月にはシベリア鉄道委員会の議長に就任する。
〇津田 三蔵 (つだ さんぞう、安政元年12月29日(1855年2月15日) - 明治24年(1891年)9月30日)は、明治時代の日本の軍人、警察官。大津事件の犯人として知られる。
津田氏は藤堂氏に藩医として仕えた家柄で、家禄は130石であった。父は津田長庵、母はきの。三蔵は次男で、兄の養順は家出をして行方不明、弟の千代吉は憲兵を経て三吉電気工場の職工となる。妹が一人おり、町田義純へと嫁いだ。津田氏は江戸下谷柳原(現在の東京都台東区)に居住していたが、三蔵が7 ~ 8歳の頃、長庵が刃傷沙汰を起こし、減封処分の上で伊賀上野へ転居、生涯蟄居の身となった。
明治3年に上京、東京鎮台に入営。明治5年3月、陸軍名古屋鎮台に転ず。翌月、越前護法大一揆鎮圧のため乃木希典少佐の部下として出動した。7月、金沢分営に転属。
明治10年(1877年)の西南戦争勃発時は金沢歩兵第7連隊第1大隊附の伍長であった。3月11日、第7連隊は高島鞆之助率いる別働第一旅団に編入され、3月20日、西郷軍の背面、日奈久(現:熊本県八代市)に上陸するが、同月26日、左手に銃創を負い熊本の八代繃帯所に入院。長崎に移され5月20日に退院後、鹿児島県の本隊に復帰し、6月1日より歩兵第1連隊第1大隊長古川氏潔少佐附書記となり、鹿児島県と宮崎県を転戦。その間に軍曹へ昇進した。10月22日、金沢に帰還。
戦後の明治11年、戦闘での疲れからか病に度々陥り入退院を繰り返していたが、その最中の10月9日、功績が認められ勲章(勲七等)を授与された。明治15年1月9日、陸軍を退役し、同年3月15日、三重県警巡査となり松阪署に勤務した。明治18年、親睦会で不和となっていた同僚に暴力をふるい免職となる。12月、滋賀県警に採用される [2] 。滋賀における勤務は勤勉で、功労褒章を2度受賞している。私生活では、岡本瀬兵衛の娘亀雄と結婚し、長男元尚、長女みつの二児を得た。
明治24年(1891年)、来日中のロシア帝国皇太子ニコライが滋賀を経由するため、守山警察署より応援に派遣される巡査の一人に抜擢される。5月11日、皇太子の通る沿道警備の現場において、皇太子をサーベルで斬りつけ、負傷させた(大津事件)。
犯行の動機を裏付ける供述は得られておらず諸説ある。ロシアの日本への強硬な態度に不満を持っていたからともいわれ、「一本(一太刀)献上したまで」という意味の供述をしたため、斬りつけはしたが、殺意はなかったともいわれる。津田には精神病歴があった。
事件後、津田は巡査を免職されると同時に先述の勲章も褫奪された。そして無期徒刑の判決を受け、7月2日、北海道標茶町にあった釧路集治監に移送・収監されたが、身体衰弱につき、普通の労役ではなく藁工に従事していた。同年9月29日に急性肺炎を発病し、翌30日未明に獄死した。
外国皇族を傷つけた犯人として政府内に死刑にすべきという意見があった津田が収監直後に獄死しただけに、他殺や自殺強要、自殺を疑う声もあった。1972年、網走刑務所の所長であった佐々木満が関心を抱いて北海道内各地の刑務所へ資料の有無を尋ねたところ、旭川刑務所に標茶分監医務所長の詳細な日誌が引き継がれていたことが発見された。津田は、取り押さえられた際に受けた傷は癒えたものの疲労と頭痛を訴えて9月上旬から食欲が減退し、牛乳や葛湯、菓子、馬鈴薯、梨、コンデンスミルクなどを与えて体力を回復させようとする努力も空しく、9月29日午前零時30分に息を引き取った。日誌の分析結果は『網走地方史研究』第7号(1974年)に「大津事件津田三蔵の死の周辺」として掲載された。津田の遺骨は遺族らに引き取られることもなく、集治監の墓地に埋葬された。
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