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ニコライ極東行程の予定
次の訪問予定地である横浜、東京でも歓迎の準備が進んでおり、まさに国を挙げての一大行事であった。
5月11日昼過ぎ、京都から琵琶湖への日帰り観光で、滋賀県庁にて昼食を摂った後の帰り道、ニコライ、共に来日していた ギリシャ王国王子・ゲオルギオス(ゲオルギオス 1 世の三男 )、
ゲオルギオス・ティス・エラザス (、1869年6月24日 – 1957年11月25日)は、ギリシャ王国の王族。
生涯
ゲオルギオス1世とその王妃オルガの次男として、ケルキラ島で生まれた。1883年以降、父方の叔父でデンマーク海軍提督であったヴァルデマー王子に預けられた。後にゲオルギオスは婚約者に『この時私は父に見捨てられたと感じ、以後は叔父のために大人になったのだ。』と話している。
1891年、ゲオルギオスは従兄であるロシア皇太子ニコライ(のちのニコライ2世)の極東歴訪に同行した。日本でニコライが大津事件に遭遇した際は、彼の救助にあたっている。
1896年、アテネオリンピック開催時、兄コンスタンティノス(のちのコンスタンティノス1世)、弟ニコラオスとともに組織委員会に加わった。
ギリシャ独立後もオスマン帝国領下にあったクレタ島では、ギリシャ復帰を求めて不穏な空気が高まっていた。1898年、列強が介入しクレタ島は半独立国家となり、初代総督にゲオルギオスが選ばれた。しかしギリシャ愛国者は完全併合を求めて活動を続けた。1906年の選挙結果、ゲオルギオスは総督職を解かれ、 1908 年にクレタは正式にギリシャへ復帰した。
1957年、フランスのサン=クルーで死去。
威仁親王の順番で人力車に乗り大津町内を通過中、警備を担当していた滋賀県警察部巡査の津田三蔵がいきなりサーベルを抜いて斬りかかり、ニコライを負傷させた(ニコライは人力車から飛び降りて脇の路地へ逃げ込んだが、津田はニコライを追いかけなおも斬りかかろうとした。しかしゲオルギオスに竹の杖で背中を打たれ、ニコライに随伴していた人力車夫の向畑治三郎に両足を引き倒され、同じくゲオルギオス付き車夫の北賀市市太郎に自身の落としたサーベルで首を斬りつけられた後、警備中の巡査に取り押さえられた。ニコライは右側頭部に9 ㎝近くの傷を負ったが、命に別状はなかった。威仁親王は現場に居合わせたものの野次馬に阻まれ、ニコライに近づくことができたのは津田が取り押さえられた後だった。
4「事件の処理」
留学や軍事視察の経験から国際関係に精通していた威仁親王は、即座にこの事件を自分のレベルでは解決できない重大な外交問題と判断。随行員に命じて顛末を急いで書きまとめさせ、 東京の明治天皇 の元へ電報で上奏するとともに、ロシア側に誠意を見せるため天皇の京都への緊急行幸を要請した。
〇明治天皇 (めいじてんのう、1852年11月3日〈嘉永5年9月22日〉 - 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日)は、日本の第122代天皇(在位 : 1867年2月13日〈慶応3年1月9日〉 - 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日)。諱は 睦仁 (むつひと)、御称号は 祐宮 (さちのみや)。お印は 永 (えい)。
倒幕および攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれた。皇族以外の摂政を設置し、かつ在位中に征夷大将軍がいた最後の天皇。複都制としながらも東京府に皇居を置いた。在位中、国力を伸長させた英明な天皇と謡われ「大帝」と称えられた。皇后とともに和歌も多く残しており、その作品数は10万首以上に及ぶ。
生誕から即位まで
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