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2024年07月30日
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カテゴリ: 明治維新





明治維新後


明治政府では長崎裁判所参議に任じられ、日田県知事に転任する(1868年 - 1870年。慶応4年閏4月25日 - 明治3年閏10月3日)。


県内視察の際、海上交通の便を図れば別府発展が期待されるとの発案から別府港を築港、現在の温泉都市となった別府温泉の発展の礎を築いた。日田で松方は大量の太政官札の偽札流通を密告により発見する。この調査により、旧福岡藩士が犯した太政官札贋造事件の事実を明らかにした事で大久保利通の評価を得、その功績、推挙で民部大丞・租税権領に就任する。日本政府は1870年10月、北ドイツ連邦に在するドンドルフ・ナウマン社に明治通宝の印刷を依頼した。


以降は大蔵省官僚として財政畑を歩み、内務卿・大久保の下で地租改正にあたる。だが、財政方針を巡って大蔵卿・大隈重信と対立する。当時は明治10年(1877年)の西南戦争の戦費の大半を紙幣増発でまかなったことなどから政府紙幣の整理問題が焦点となっていた。松方は大隈が進める外債による政府紙幣の整理に真っ向から反対したのである。その結果、伊藤博文の配慮によって内務卿に転出する形で大蔵省を去った


松方は、明治10年(1877年)に渡欧し、明治11年(1878年)3月から 12 月まで、第三共和制下の、パリを中心とするフランスに滞在し、フランス蔵相レオン・セイ(「セイの法則」で名高い、フランスの経済学者のジャン=バティスト・セイの孫)から助言を得る。第一に日本が発券を独占する中央銀行を持つべきこと、第二にその際フランス銀行やイングランド銀行はその古い伝統故にモデルとならないこと、第三に従って最新のベルギー国立銀行を例としてこれを精査すること、第四に当時欧米の主要国が銀本位制から金本位制に移行しつつあったことを踏まえて、日本も金本位制を採用することを勧められた。


フランス滞在中に、松方はレオン・セイの紹介により、パリ・ロチルド家第二代当主アルフォンス・ド・ロチルドと面会している。


レオン・セイはアルフォンスの招きでロスチャイルド家の所有する北部鉄道会社に入社して役員となり、後に政治家・蔵相となって金融ブルジョワジーや鉄道会社の利益を代弁・擁護した人物であり、謂わばロスチャイルド家の家臣であった。


同年開催されたパリ万国博覧会において、副総裁であった松方は、暗殺された大久保利通の代わりに、日本代表団の事務官のトップである総裁を務めている。


その後、帰国した松方は、明治14年(1881年)7月に「日本帝国中央銀行」説立案を含む政策案である「財政議」を政府に提出し、政変によって大隈が失脚すると、参議兼大蔵卿として復帰し、日本に中央銀行である日本銀行を創設した。後の明治16年(1883年)に、松方は明治天皇に働きかけて、レオン・セイに勲一等旭日大綬章が贈られるように図っている。


松方は財政家として、政府紙幣の全廃と兌換紙幣である日本銀行券の発行による紙幣整理、煙草税や酒造税や醤油税などの増税や政府予算の圧縮策などの財政政策、官営模範工場の払い下げなどによって財政収支を大幅に改善させ、インフレーションも押さえ込んだ。ただ、これらの政策は深刻なデフレーションを招いたために「 松方デフレ 」と呼ばれて世論の反感を買うことになった。


なお、現在の日本に於ける会計年度「 4月 3月制 」が導入が決定されたのは、松方が大蔵卿を務めていた明治17年(1884年)10月のことである [7]


総理大臣および大蔵大臣として


詳細は「第1次松方内閣」および「第2次松方内閣」を参照


明治18年(1885年)に内閣制度が確立されると、第 1 次伊藤内閣において初代大蔵大臣に就任。1888年4月には黒田内閣で大蔵大臣、次いで 12 月に内務大臣を兼任。


明治24年(1891年)に第1次山縣内閣が倒れると大命降下を受けて総理大臣(兼大蔵大臣)に就任した。しかし閣内の不一致や不安定な議会運営が続き、明治25年(1892年)8月8日に辞任に追い込まれた。同日付けで特に前官の礼遇を賜い麝香間祗候となる。その後第2次伊藤内閣を挟んで明治29年(1896年)に再び松方に組閣(総理大臣兼大蔵大臣)の大命が下るが、明治30年(1897年)に懸案であった金本位制への復帰こそ成し遂げたものの、大隈重信率いる進歩党との連繋がうまくいかず、同じく1年数か月で辞任を余儀なくされた。このとき松方は衆議院を解散した直後に内閣総辞職している。




今次朕カ敬愛スル露國皇太子殿下來遊セラルヽニ付朕及朕カ政府及臣民ハ國賓ノ大禮ヲ以テ歡迎セントスルニ際シ圖ラサリキ途大津ニ於テ難ニ遭ハセラルヽノ警報ニ接シタルハ殊ニ朕カ痛惜ニ勝ヘサル所ナリ 亟カニ暴行者ヲ處罰シ善隣ノ好誼ヲ毀傷スルコトナク以テ朕カ意ヲ体セシメヨ


同日宮内省告示第10号で翌日5月12日の京都行幸が発表され、翌日早朝、天皇は新橋駅から汽車に乗車、同日夜22時05分に京都に到着した。その夜のうちにニコライを見舞う予定であったが、ニコライ側の侍医の要請により翌日へ延期され、天皇はひとまず京都御所に宿泊した。威仁親王の兄の参謀総長熾仁親王陸軍大将も天皇の後を追って京都に到着。翌13日に天皇はニコライの宿舎である常盤ホテルに自ら赴いてニコライを見舞い、さらには熾仁・威仁・能久の三親王を引き連れてニコライを神戸まで見送った。






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最終更新日  2024年07月30日 06時35分54秒
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