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シェーヴィチ公使は、津田の無期徒刑が決定したことを知ると「いかなる事態になるか判らない」旨の発言をしている。 ロシア皇帝アレクサンドル 3 世 も暗に死刑を求めていた。
アレクサンドル 3 世 (1845年 3 月 10 日(ユリウス暦2月26日) - 1894年11月1日(ユリウス暦10月20日))は、ロマノフ朝第13代ロシア皇帝(在位:1881年3月13日 – 1894年11月1日)。アレクサンドル 2 世と皇后マリア・アレクサンドロヴナの第 2 皇子。兄ニコライが21歳で早世したため、皇太子となった。妻は兄の婚約者であったデンマーク王クリスチャン9世の第2王女マリー・ソフィー・フレデリケ・ダウマー(ロシア名マリア・フョードロヴナ)で、ニコライ2世をはじめ4男2女に恵まれた。
帝政時代にロシア帝国銀行が発行していた25ルーブル紙幣に肖像が描かれていた。
出生
1845年3月10日、サンクトペテルブルクの冬宮殿で生まれる。幼少期のアレクサンドルは父アレクサンドル 2 世に似て自由主義的で優しさがあり、大伯父アレクサンドル1世のような狡猾さ、哲学、騎士道精神は持ち合わせていなかった。アレクサンドルは音楽家やバレリーナのパトロンとなったが、周囲からはパトロンとしての洗練さや優雅さに欠けていると見られていた。アレクサンドルは顔の左側にある皮脂嚢胞を周囲に嘲笑されたことがコンプレックスとなり、成長後に描かれる肖像画や写真は右側から描かれたものが多い。また、彼は身長190センチメートルの長身としても知られていた。
幼少時から軍人として教育されたものの、兄ニコライ皇太子がいたこともあり、20年間は帝位に就くことは想定されていなかった。兄ニコライは1864年にデンマーク国王クリスチャン9世の第二王女マリー・ダウマーと婚約した。
芸術家のアレクサンドル・ベノワは、アレクサンドルの印象について、以下のように記している。
マリインスキー劇場でバレエを披露した際、初めてアレクサンドル皇帝に会った。私は皇帝の人間の大きさに打たれた。皇帝の中には農民のようなものが感じられた。その明るい瞳は、私に強い印象を残した。皇帝が立ち上がった時、私と目が合ったように感じたことを覚えています。鋼のような外見を見て、脅迫的な何かを感じ、殴られたような衝撃を受けました。 皇帝の瞳 ! 全ての者の頂点に立つ男の表情。しかし、その瞳には巨大な負担が感じられました。後年、私は幾度も皇帝に会う機会に恵まれ、そこには少しの臆病さも感じられなかった。皇帝は優しく、そして家庭的な人物だった。
立太子
1865年、兄ニコライが旅行中に薨御し、ツェサレーヴィチとなった。アレクサンドルが立太子したのは、聖務会院院長コンスタンチン・ポベドノスツェフから法律学と行政学を学び始めた矢先のことだった。ポベドノスツェフは教育を通してアレクサンドルに愛着を抱くようになり、ロシア正教会の思想を注ぎ込み、保守・反改革的な帝王学を教え込んでいった。アレクサンドルは皇太子になったものの、その保守的な考えは政府の方針と乖離していたため、重要な公務を任されることはなかった。
兄ニコライは薨御の直前、婚約者マリー・ダウマーに弟アレクサンドルと成婚するように頼んだと言われている。彼女は1866年10月28日にロシア正教会に改宗し「マリア・フョードロヴナ」と名前を変え、冬宮殿でアレクサンドルと結婚式を挙げた。政略結婚であったが非常に仲むつまじい夫婦であり、アレクサンドルは家族生活を大切にし、父アレクサンドル2世と異なり他の女性に手を出すこともなかった。
立太子後、アレクサンドルは父帝と疎遠になった。理由としては、改革派の父との政治的対立や、病弱な母マリア皇后を放置してエカチェリーナ・ミハイロヴナ・ドルゴルーコヴァを愛人とし、1880年に母が崩御して間もなく彼女と再婚したことが挙げられる。
皇帝
専制政治
1881年3月1日、アレクサンドル 2 世はテロ組織「人民の意志」の爆弾テロにより崩御した。アレクサンドルは 3 月 13 日に皇帝に即位し、1883年5月 27 日にモスクワ・ウスペンスキー大聖堂で戴冠式を挙げた。しかし、アレクサンドルは自身が統治者としての充分な教養を欠いていることを自覚しており、自らを「誠実なる連隊長」と自認していた。
父の暗殺後、アレクサンドルは冬宮殿では安全が確保出来ないと助言を受け、ガッチナ宮殿に生活の拠点を移し [2] 、政務を執る際にはアニチコフ宮殿(英語版)を利用した。また、世界有数の富豪として知られていたが、自身は当時の王族には珍しく非常に倹約家であり、即位すると王室費を200万ポンド削減した。部屋の明かりを自ら消す癖もあった。
アレクサンドル 2 世は暗殺当日に諮問委員会を設立していたが、アレクサンドルはポベドノスツェフの助言を受けて即座に諮問委員会を解散した。この決定に代表されるように、アレクサンドルの治世は父が行った改革を否定することにあり、祖父ニコライ 1 世のような専制政治こそが安定した帝国を築く手段だと信じていた。
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