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2024年07月30日
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カテゴリ: 明治維新






この事件判決で司法の独立を達成したことにより、まだ曖昧だった大日本帝国憲法の三権分立の意識が広まった。


しかし


1、 大津地方裁判所で扱われるべき事件を正常な手続きなしで大審院に移したこと。これは、大逆罪の類推適用を考慮していたため、皇室罪に関する裁判はすべて大審院における一審において判決が下されることから、適用可否判断を含め地裁ではなく大審院に持ち込まれることになった。判事7人は大津に出張した。


2、裁判に直接関わっていなかった児島が干渉を重ねたこと。この2点は裁判官の独立等の問題として残った。権力の所在や運用が未熟・未分化であった時代を象徴した事件である。


これらの問題、つまり三権分立や司法のあり方などは活発に議論されるようになった。また海外でも大きく報じられ、国際的に日本の司法権に対する信頼を高めた。このことは日本が近代法を運用する主権国家として、当時進行中であった不平等条約改正へのはずみとなった。ただしこの事件で青木が辞任したため、成立寸前の 領事裁判権 を撤廃した条約がまとまらず短期的には停滞した。


〇領事裁判権 (りょうじさいばんけん)とは、外国人がその在留国において本国の領事による裁判を受ける権利をいう。日本が江戸時代に締結した不平等条約などにみられる。


不平等条約における領事裁判の管轄と適用法規については実際には必ずしも明瞭でなく、領事裁判権と治外法権はしばしば混用されている。近代の意味における国家や国民の概念が明瞭でなく、また外国人の国籍確認が不分明であるにもかかわらず、条約において領事裁判条項は容易に規定され、のちに不平等条約として問題となるのが通例であった。


外国諸法に関する知識や判例などの情報がない状況下で行われる領事裁判は(本国法や国際法に照らして)正当性のない判決がしばしば下された。本来は領事警察権が及ぶ領域(租界や居留地)を想定したものであっても当該国の全域で適用され、二重法体系を生み当該国の主権を簒奪する手段となった。


日本の場合、いかなる条約においても日本に在住する外国人に治外法権を認めたことはない。認めたのは日本人に対する外国人の犯罪に対する裁判をそれぞれの国の在住領事に委ねるということだけであった。これが治外法権であるかのように誤解され、外国人がすべて課税を免除され、日本の一切の行政権に服従しないようになったのは外国人の横暴とこれを黙認して既成事実化した日本人役人の怯懦のためであった。領事裁判権については締結の当時それが不平等条約であり、将来どのような惨禍をもたたらすかについて全く理解されておらず、むしろ日本側は進んで歓迎さえしたもので、ハリスをして意外の思いをさせるものであった。



歴史


治外法権による領事裁判権は、15世紀にオスマン帝国が、ヴェネツィアやジェノヴァに対し恩恵として与えたのに始まった。近代に入り、東アジア諸国では近代的な法制が未整備であって欧米人を東アジア諸国の裁判権に服せしめるのは適当でないことを理由に、1842年の南京条約で清に押し付けられたのをはじめ、タイ王国や日本併合以前の朝鮮でも行われた。


オスマン帝国


詳細は「カピチュレーション」を参照


日本


詳細は「条約改正」および「外国人司法官任用問題」を参照


日本では1858年に締結された日米修好通商条約に


6 條  日本人に對し法を犯せる亞墨利加(アメリカ)人は、亞墨利加コンシュル裁斷所(領事裁判所)にて吟味の上、亞墨利加の法度(法律)を以て罰すへし。亞墨利加人に對し法を犯したる日本人は、日本役人糺の上、日本の法度を以て罰すへし。


とあり、その後安政年間にイギリス、フランス、オランダ、ロシアと締結した安政五カ国条約にすべて領事裁判権の定めがある。


領事は本来、外交官であって裁判官ではないから、領事裁判ではしばしば本国人に極めて有利な判決が下された。領事裁判権撤廃は明治政府の外交にとって大きな課題となり、1871年末からの岩倉使節団による予備交渉から撤廃の努力を始めた。1877年のハートレー事件や1879年のヘスペリア号事件などによって領事裁判権撤廃は国家的課題として当時の国民にも理解されるようになった。1886年のノルマントン号事件や1892年の千島艦事件もまた、領事裁判権撤廃問題と絡んで大きな政治問題となった。国内政治にはおいては硬六派をはじめとする対外硬とよばれる政治グループを生み、彼らによって現行条約励行運動という政治運動が展開された。井上馨、大隈重信ら歴代の外交担当者も条約改正に鋭意尽力した。1888年の日墨修好通商条約を皮切りに法権の回復が実現し、第2次伊藤内閣の陸奥宗光外務大臣の下、駐英公使青木周蔵の努力によって、1894年の日清戦争開戦直前に日英通商航海条約が結ばれて領事裁判権撤廃が実現した。この年から翌年にかけては他の欧米各国とも同様の改正条約が締結された。改正条約の発効は、調印より5年を経過した1899年(明治32年)からであり、これにより日本では国内の外国人居留地が廃止され内地雑居が実施された。






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最終更新日  2024年07月30日 07時22分32秒
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