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2024年07月31日
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カテゴリ: 江戸後期






藩創設以来、 水戸藩 では藩主に忠実な改革派( 尊皇攘夷派 )と、 幕府 との関係を重視する保守門閥派( 諸生党 )との対立が激しかったが、密勅への対応を巡り、改革派の中でも、密勅の通りに勅書を諸藩に廻達すべきとする、家老 武田耕雲斎 を中心とした尊攘激派(後の 天狗党 )と、勅書は朝廷又は幕府に返納すべきとする、 會澤正志斎 を中心とした 尊攘鎮派 とに分裂して激しく対立し、三巴の混沌とした藩状のまま 明治維新 を迎えることとなる。


幕府は水戸藩に対し勅書の諸藩への回送取り止めを命じた上、勅書そのものの朝廷への返納を求めたが、勅書返納に反対する激派の藩士や領民は安政5年9月と安政6年5月に 小金宿 に集結し、勅書の返納を阻止するため気勢を挙げ、これに対して 慶篤 は家老 大場弥右衛門 、郡奉行 金子孫二郎 らを派遣して鎮撫に努めたが、抑え切れる状況ではなかった。


安政6年8月27日( 1859 9月23日)、幕府は、密勅は天皇の意思ではなく水戸藩の陰謀とし、密勅降下に関わったとして家老 安嶋帯刀 切腹 、奥祐筆 茅根伊予之介 、京都留守居役 鵜飼吉左衛門 斬首 、京都留守居役助役 同幸吉 獄門 勘定奉行 鮎沢伊太夫 遠島 とし、 斉昭 水戸 での 永蟄居 慶篤 差控 とした( 安政の大獄 )。


同年12月に幕府が朝廷に働きかけ、水戸藩に対し勅書を幕府に返納する事を命じ、水戸藩内では返納論が主流となっていたが、激派は 水戸街道 の長岡宿に集結し街道を封鎖して勅書の返納を実力阻止しようとした。勅書は歴代藩主の廟内で厳重に保管され、翌安政7年2月に勅書返納が正式に決まるが、城下で激派と鎮派が斬り合いとなる騒ぎが起こったり、 斎藤留次郎 が返納反対を訴えて水戸城内で切腹するなどの混乱があったりして返納は延期となった。


長岡宿に屯集する激派に対して武力鎮圧する動きが起こると、激派の一部は脱藩して江戸へ向かい、安政7年3月3日( 1860 3月24日)に 井伊大老 を襲撃することとなる( 桜田門外の変 )。変後の混乱により返納問題はうやむやとなり、勅書は水戸に留められた。


「日米修好通商条約」 (にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく、)は、 安政 5年 19 1858 29 )に 日本 アメリカ合衆国 の間で結ばれた通商 条約 である。


江戸幕府 が日本を代表する政府として調印した条約であり、条約 批准書 原本には「 源家茂 」として当時の14代 将軍 徳川家茂 の署名がなされている。欧語ではアメリカ全権 タウンゼント・ハリス の名を冠して、ハリス条約とも 通称 される。


アメリカ側に 領事裁判権 を認め、日本に 関税自主権 がなかったことなどから、日本側に不利であり、一般に 不平等条約 といわれる。しかし同条約の付則第七則で定められた関税率は、漁具、建材、食料などは5%の低率関税であったが、それ以外は20%であり、酒類は35%の高関税であった。


幕府は同様の条約を イギリス フランス オランダ ロシア とも結んだ( 安政五か国条約 )。但し、日米修好通商条約の第二条は「日本國と欧羅巴中の或る國との間にもし障り起る時は日本政府の囑に應し合衆國の大統領和親の媒となりて扱ふへし」と規定されており、これは日本とヨーロッパ列強との間に揉め事が発生した場合、アメリカが仲介することを宣言したもので、他の四カ国との条約にはこの文言はなかった。


条約の第13条に 1872 (明治5年)7月4日には条約を改正できる旨の条項が設けられていたが、ときの明治政府はまだ何ら組織が整っていなかったため、交渉開始の延期を申し入れ、 1876 から各国と 条約改正 交渉を開始した。交渉は難航し、日清開戦直前の 1894 16 日英通商航海条約 の締結により領事裁判権の撤廃が実現したが、関税自主権を回復したのは 日露戦争 後の 1911 21 調印の 新日米通商航海条約 [ 注釈 2] まで待たねばならなかった。


条約書の原本は、 1997 (平成9年)に、歴史資料として 重要文化財 に指定された。



経緯


日米和親条約 により日本初の総領事として安政3年 21 (1856年 21 下田 に赴任した タウンゼント・ハリス は当初から通商条約の締結を計画していたが、日本側は消極的態度に終始した。


同年8月3日、アームストロング代将其の他の士官とともに上陸し、下田奉行と会見した。奉行は、領事の目的や権限(治外法権やアメリカ人に対する領事裁判権)について尋ね、領事の下田駐在を渋ったが、結局、アメリカ政府へ交渉するまでの間滞在することを認めた。そこでハリスは、8月5日上陸して、日本側が提供した下田近郊の柿崎にある玉泉寺を総領事館と定めた。


8月11日、下田奉行は、ハリスを下田に駐在させることを決め、その後の取締方について幕閣に指示を仰いだ。幕府・評定所の意見は極めて晦渋であり、邪教伝染がないように取締を厳重にし、宿舎の規模などもなるべく小さくするなどを命じ、喜んで駐在させるという気風は見えなかった。しかし、8月24日、ハリスの下田駐在は公然と認められたのである。8月29日、ハリス下田駐在を積極的に受け止めた目付 岩瀬忠震 を下田に派遣した。その間、岩瀬は下田奉行とともにハリスと会見した。


ハリスは安政4年 10 21 (1857年 12 )に江戸城に登城し、将軍家定に謁見し国書を手渡した。ハリスの強硬な主張によりアメリカとの自由通商はやむを得ないという雰囲気が醸成されると、 江戸幕府 老中 首座であった 堀田正睦 下田奉行 井上清直 目付 岩瀬忠震 を全権として、安政4年 12 11 (1858年 25 )から条約の交渉を開始させた。


交渉は15回に及び、この間清直と忠震は国内の情勢の困難さから「いま江戸を開市しても商売にならない」旨を説いたがハリスはこれを信じず通商開始を優先させた。交渉内容に関して双方の合意が得られると、正睦は 孝明天皇 の勅許を得て世論を納得させた上での通商条約締結を企図した





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最終更新日  2024年07月31日 07時10分12秒
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