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2024年07月31日
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カテゴリ: 江戸後期




安政 5年 1858 14 )、水戸藩は、幕府による 日米修好通商条約 調印を不服とする 孝明天皇 から直接に勅書を下賜されたと称した( 戊午の密勅 )。


「戊午の密勅」 (ぼごのみっちょく)は、 安政 5年 ₈8 1858 14 )に 孝明天皇 水戸藩 に幕政改革を指示する勅書(勅諚)を直接下賜した事件である。「戊午」は下賜された安政5年の干支が 戊午 (つちのえ・うま)であったことに由来し、「密勅」は正式な手続( 関白 九条尚忠 の参内 ) を経ないままの下賜であったことによる ( 九条関白には武家伝奏から天皇の堅い意志である旨伝え、承認を受けた )


密勅は、幕府寄りの関白 九条尚忠 の参内のないまま、 武家伝奏 久我建通 万里小路正房 からの説明による執行奉承 ( 事後承認 ) のみで、安政5年8月7日深更、 武家伝奏 万里小路正房 の里亭にて水戸藩 京都留守居役 鵜飼吉左衛門知信 に下ったが、吉左衛門の持病が悪化していたため子の京都留守居役助役 幸吉知明 が代わりに拝した。この際、幸吉は 近衛忠煕 から、この勅諚が 日米修好通商条約 締結後の、幕府による朝廷への度重なる非礼を戒め、謹慎中の 斉昭 を中心にして幕政改革を行うことを目的としている旨説明を受けた。幸吉はいったん自宅に戻り、大阪蔵屋敷手代・小瀬伝左衛門と変名し、籠担ぎに変装して空籠を担ぎながら 東海道 を潜行(副使の 薩摩藩 士・ 日下部伊三次 中山道 より下行)、16日深夜に水戸藩駒込邸にいた水戸藩主 徳川慶篤 に勅諚を伝えた。


これに先立ち、薩摩藩士 西郷吉之助 が、水戸藩家老 安島帯刀 に水戸藩への勅諚降下・諸藩回送の可否を打診していたが、安嶋は藩状の混乱を理由にこれを断っており、西郷が京に帰ったのと入れ違いに鵜飼が勅諚をもたらしたため、安島は驚愕したという。ただし、西郷が京都を出発したの8月4日で、密勅の話が 孝明天皇 周辺に発生したのが8月5日であることを考えると、西郷伝説の一環としての、後日の創作である可能性がある。 また、斉昭は勅諚が水戸藩に下ったことを聞き、降下先が 一ツ橋 だったのなら諸藩への回送と幕政改革をやりおおせるであろうが、慶篤では、とても無理であろう、と言ったという。


幕府には、幕府との対立を意図するものではなく、協力して対外政策に当たることを意図するものであるとの関白 九条尚忠 の添書き付きで、10日に 禁裏付 大久保一翁 を通じて伝えられたが、江戸より水戸に先着することを図っての時期であった。水戸藩から 御三家 御三卿 には勅書の回送が行なわれたが、その他の諸藩には幕命により秘匿された。長州藩や越前藩等の雄藩には、写しが関白以外の 摂家 を通じて、縁家筋から送付された。



内容


勅許なく 日米修好通商条約 安政五カ国条約 )に調印したことへの呵責と、詳細な説明の要求。


御三家および諸藩は幕府に協力して 公武合体 の実を成し、幕府は 攘夷 推進の幕政改革を遂行せよとの命令。


上記 2 つの内容を水戸藩から諸藩に廻達せよという副書。


以上の 3 つに要約することができる。 将軍 の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡され、幕府を差し置いて水戸藩から全国諸藩へ密勅の写しを回送する指示を出したということは、幕府がないがしろにされ威信を失墜させられたということであったため、幕府は勅諚の内容を秘匿するよう 慶篤 に命じ、 大老 井伊直弼 による 安政の大獄 を本格化させることになった。とりわけ、 鵜飼吉左衛門 から安嶋宛への書簡には、薩摩藩伏見挙兵計画の秘事が記されていたとされ [1] 、幕府にその内容が漏洩したことで安政の大獄ではより厳重な処分となったといわれる。


草案段階では、将軍継嗣問題への言及も見られたが、奏請の結果、割愛となった。


勅諚全文


先般墨夷假條約無餘儀無次第ニ而、於神奈川調印、使節へ被渡候儀、猶又委細閒部下總守上京被及言上之趣候得共、先達而敕答諸大名衆儀被聞食度被仰出候詮茂無之、誠ニ以テ皇國重大ノ儀、調印之後言上、大樹公叡慮御伺之御趣意モ不相立、尤敕答之御次第ニ相背輕卒之取計、大樹公賢明之處、有司心得如何ト御不審被思召候。右樣之次第ニ而者、蠻夷狄之儀者、暫差置方、今御國 之治亂如何ト更ニ深被惱叡慮候。何卒公武御實 ヲ被盡、御合體永久安全之樣ニト、偏被思召候。三家或大老上京被仰出候處、水戸尾張兩家愼中之趣被聞食、且又其餘宗室之向ニモ同樣御沙汰之由モ被聞食候。右者何等之罪狀ニ候哉。難被計候得共、柳營羽翼之面々、當今外夷追々入津不容易之時節、既ニ人心之歸向ニモ可相拘旁被惱宸襟候。兼而三家以下諸大名衆議被聞食度被仰出候旨、全永世安全公武御合体ニ而、被安叡慮候樣被思召候儀、外虜計之儀ニモ無之、 憂有之候而者、殊更深被惱宸襟候。彼是國家之大事ニ候閒、大老閣老其他三家三卿家門列藩外樣譜代共一同群議評定有之、誠忠之心ヲ以テ、得ト御正 シ、國内治平、公武御合体、彌御長久之樣、德川御家ヲ扶助有之 ヲ整、外夷之侮ヲ不受樣ニト被思召候。早々可 商議敕諚之事。
安政五戊午年八月八日・
近衞左大臣 鷹司右大臣 一條内大臣 三條前内大臣 二條大納言 水戸中納言 廣橋大納言 萬里小路大納言 (花押なし)


【水戸藩へ別紙 添書】
勅諚ノ趣 仰出サレ候 右ハ国家ノ大事ハ勿論 徳川家ヲ御扶助二 思食サレ候間 會議之有リ 御安全之様 勘考 有可キ旨 以之出格 思食仰出サレ候間 猶
同列之方々 三卿 家門之衆以上隠居ニ至迄、列藩一同ニモ 御趣意相心得ラレ候様、向々ヘモ伝達之有可ク 仰出され候以上


参考「戊午秘記」( 東京大学史料編纂所 データベース)、大森金五郎「大日本全史 下巻」(富山房、1922年発行)






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最終更新日  2024年07月31日 07時06分24秒
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