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万延
元年(
1860
年
)になって、正志斎の強諌に斉昭もついに観念して「勅書」の返納に同意したが、激派はこれに反発して実力行使を企て、高橋ら水戸浪士は
水戸街道
の長岡宿(
茨城県
東茨城郡
茨城町
)に集結し、農民など数百人がこれに合流した。彼らは長岡宿において検問を実施し、
江戸
への「勅書」搬入を実力で阻止しようとした(長岡屯集)。
この激派の動きに対し、正志斎は 2 月 28 日 に、長岡宿に屯する輩は朝廷からの「勅書」返納の命に背く逆賊であるからこれを討つとして、激派追討のため鎮圧軍を編成した。これを見た高橋ら長岡宿に屯していた集団は脱藩して江戸へと逃れ、水戸城下から逃れて来た激派の一団や薩摩浪士の有村兼武・兼清兄弟らと合流し、 3 月 3 日 、 江戸城 桜田門外で直弼を襲撃して殺害した( 桜田門外の変 )。 8 月 15 日 の斉昭病没後も激派の行動はやまず、さらに 第一次東禅寺事件 ・ 坂下門外の変 などを起こすに至った。
第一次東禅寺事件
文久 元年 5 月 28 日 ( 1861 年 7 月 5 日 )、 水戸藩 脱藩の攘夷派浪士 14 名が イギリス 公使 ラザフォード・オールコック らを襲撃した事件。
文久元年5月、イギリス公使オールコックは長崎から江戸へ向かう際、幕府が警備上の問題から海路での移動を勧めたのに対し、条約で定める国内旅行権を強硬に主張して陸路で江戸へ旅し、5月27日にはイギリス公使館が置かれていた江戸高輪東禅寺に入った。この行動に対し、尊攘派の志士らは「 夷狄 である外人男性に神州日本が穢され田」と憤激した。
水戸藩脱藩の攘夷派浪士・ 有賀半弥 ら14名は、5月24日に 常陸国 玉造湊を出航し、東禅寺門前の浜に上陸すると、 品川宿 の妓楼「虎屋」で決別の盃を交わした後、5月28日午後10時頃、東禅寺のイギリス公使館内に侵入し、オールコック公使らを襲撃した。 外国奉行 配下で公使館の警備に就いていた 旗本 や 郡山藩 士・ 西尾藩 士らが応戦し、邸の内外で攘夷派浪士と戦闘し、双方が死傷者を出した(警備兵 2 名、浪士側 3 名が死亡)。オールコックは危うく難を逃れたが、書記官 ローレンス・オリファント と長崎駐在領事 ジョージ・モリソン が負傷した。両名はその後帰国している。
攘夷派浪士は公使らの殺害に失敗し逃走、有賀半弥、 小堀寅吉 、 古川主馬之介 の3名がその場で討取られ、 榊鉞三郎 が現場で捕縛された(旗本・ 生駒親敬 に預けられた後、 12 月に斬首)。
逃げた浪士も、「虎屋」で包囲され、 中村貞吉 、 山崎信之介 の2名は切腹、 石井金四郎 は捕えられ、旗本・ 山名義済 に預けられた後に処刑。 前木新八郎 も逃げ切れず切腹している。浪士らはいずれも襲撃の趣意書を携帯しており、それには「尊攘の大義のため」実行した旨が記されていた。逃走した 黒沢五郎 、 高畑総次郎 はその後、 坂下門外の変 に参加し闘死した。 岡見留次郎 は西国に逃走し 天誅組の変 に参加、敗走後捕えられ斬首された。 木村幸之助 、 森半蔵 ら、その他の浪士たちも逃亡の末切腹・獄死及び斬首され、 明治時代 まで生き延びたのは 渡辺剛蔵 、 矢沢金之助 と、襲撃に参加せず、逃走・捕縛後に 明治維新 により特赦された 堀江芳之助 のみであった。
事件後、オールコックは 江戸幕府 に対し厳重に抗議し、イギリス水兵の公使館駐屯の承認、日本側警備兵の増強、賠償金1万ドルの支払いという条件で事件は解決をみた。しかし、この交渉に基づき品川御殿山に建設中であった公使館は、翌年12月に 高杉晋作 らによって放火されている( 英国公使館焼き討ち事件 )。
事件以前、オールコックは幕府が警備を口実として自分達を監視していると思っていたが、攘夷運動の熾烈さを強く認識することとなった。彼は著書で「警備兵は浪士と戦わなかった」と記しているが、実際には警備兵はその責務を果たしている。 事件当時、外国方として東禅寺にいた 福地桜痴 は目撃した事件の概要を記録している(『史談会速記録』)。後日、浪士らを撃退した警備の武士ら48名に対し褒賞が下された。
第二次東禅寺事件
文久2年(1862年)5月29日、東禅寺警備の 松本藩 士 伊藤軍兵衛 がイギリス兵2人を斬殺した事件。
第一次東禅寺事件の後、オールコックは幕府による警護が期待できないとして、公使館を横浜に移した。しかし、オールコックが帰国中に代理公使となった ジョン・ニール は、再び東禅寺に公使館を戻し、 大垣藩 、 岸和田藩 、松本藩が警護にあたることとなった。東禅寺警備兵の一人、松本藩士・伊藤軍兵衛は、東禅寺警備により自藩が多くの出費を強いられていることや、外国人のために日本人同士が殺しあうことを憂い、公使を殺害し自藩の東禅寺警備の任を解こうと考えた。伊藤は夜中にニールの寝室に侵入しようとしたが、警備のイギリス兵2人に発見され戦闘になり、彼らを倒したものの自分も負傷し、番小屋に逃れて自刃した。
幕府は警備責任者を処罰し、松本藩主 松平光則 に差控を命じ、イギリスとの間で賠償金の支払い交渉を行ったがまとまらず、紛糾するうちに 生麦事件 が発生した。幕府は翌 文久 3 年 4月、生麦事件の賠償金とともに1万ポンドを支払うこととなり、事件は解決を見た。
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