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(さかしたもんがいのへん)は、
文久
2年
1
月
15
日
(
1862
年
2
月
13
日
)に、
江戸城
坂下門
外にて、
尊攘派
の
水戸
浪士
6人が
老中
安藤信正
(
磐城平藩
主 )
を襲撃し、負傷させた事件。
桜田門外の変 で 大老 ・ 井伊直弼 が暗殺された後、老中 久世広周 と共に 幕閣 を主導した信正は、直弼の 開国 路線を継承し、幕威を取り戻すため 公武合体 を推進した。この政策に基づき、 幕府 は 和宮 降嫁 を決定したが、 尊王攘夷 派 志士 らはこ1860反発、信正らに対し憤激した。
万延 元年( 1860 年 )7月、水戸藩の 西丸帯刀 ・ 野村彝之介 ・ 住谷寅之介 らと、 長州藩 の 桂小五郎 ・ 松島剛蔵 らは連帯して行動することを約し( 丙辰丸の盟約 ・成破盟約・水長の盟約)、これに基づき信正暗殺や 横浜 での外国人襲撃が計画された。しかし、長州藩内では 長井雅楽 の公武合体論が藩の主流を占めるようになり、藩士の参加が困難となった。長州側は計画の延期を提案したが、機を逸することを恐れた水戸側は長州の後援なしに実行することとした。
水戸志士らは 宇都宮 の 儒学 者 大橋訥庵 一派と連携して、信正の暗殺計画を進めた。当初は12月15日に決行する予定であったが、諸事情から12月28日に延期になり、更に延期され、1月15日 上元 の嘉例の式日で諸 大名 が総登城し 将軍 に拝謁することになっていたため、その折を狙うこととなった。
しかし、決行直前の1月12日に計画の一部が露見し、大橋ら宇都宮側の参加者が幕府に捕縛された。そのため計画は大きく狂ったが、水戸志士を中心とした残りのメンバーだけで実行することになった。
計画
計画は、野村彝之介、 原市之進 、下野隼次郎、 住谷寅之介 らの水戸藩士を中心に、宇都宮藩の儒者 大橋訥庵 をはじめとする下野国の志士との連合で進められた。大橋訥庵は、幕府打倒を説く 王政復古 論者で、当初は挙兵を画したが人数が集まらず、水戸藩の強い意向もあって安藤襲撃の計画立案の中心人物となった。安藤の斬奸趣意書を執筆したのも訥庵とされている。訥庵夫人の弟の宇都宮商人 菊池教中 、同じく 児島強介 、下野国真岡の医師小山長円(春山)、商人 横田藤四郎 (祈綱)とその 2 人の子、河野顕三ら草莽の士が参画協力した [1] 。
決行に当たっては桜田門外の変に倣い、それぞれが変名を用いた斬奸趣意書を携えていた。文久2年(1862年)1月15日午前8時頃、信正老中の行列が登城するため藩邸を出て坂下門外に差しかかると、水戸藩浪士・ 平山兵介 (細谷忠斎)、小田彦三郎(浅田儀助)、 黒沢五郎 (吉野政介)、高畑総次郎(相田千之助)、下野の医師・河野顕三(三島三郎)、 越後 の医師・河本杜太郎(豊原邦之助)の6人が行列を襲撃した。水戸藩浪士・川辺左次衛門も計画に参加していたが、遅刻したため襲撃に参加出来なかった(なお、黒沢と高畑は 第一次東禅寺事件 の参加者である)。
最初に 直訴 を装って河本杜太郎が行列の前に飛び出し、 駕篭 を銃撃した。弾丸は駕篭を逸れて 小姓 の足に命中、この発砲を合図に他の5人が行列に斬り込んだ。警護の士が一時混乱状態に陥った隙を突いて、平山兵介が駕籠に刀を突き刺し、信正は背中に軽傷を負って一人城内に逃げ込んだ。桜田門外の変以降、老中はもとより登城の際の大名の警備は軒並み厳重になっており、当日も供回りが50人以上いたため、浪士ら6人は暗殺の目的を遂げることなく、いずれも闘死した。警護側でも十数人の負傷者を出したが、死者はいなかった。
遅刻した川辺は長州藩邸に斬奸 趣意書を届けた後、 切腹 した。
影響
信正老中暗殺には失敗したものの、桜田門外の変に続く幕閣の襲撃事件は幕府権威の失墜を加速した。この事件を契機として、信正は4月に老中を罷免され、8月には 隠居 ・ 蟄居 を命じられ、磐城平藩は2万 石 を 減封 された。更に 戊辰戦争 では隠居した信正が 奥羽越列藩同盟 への参加を決断して敗北、再び蟄居と減転封(後に献金と引換に旧領安堵)を命じられることになる。
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