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水戸藩尊攘派の活動が再び活発となるのは 文久 2年( 1862 年 )である。この年、 長州藩 等の尊攘派の主導する朝廷は、幕府に対し強硬に攘夷実行を要求し、幕府もこれに応じざるを得ない情勢となった。水戸藩においても、 武田耕雲斎 ら激派が執政となり、各地の藩校を拠点に尊攘派有志の結集が進んだ。翌文久3年(1863年)3月、将軍 徳川家茂 が朝廷の要求に応じて上洛することとなり、これに先立って 将軍後見職 に就任していた一橋慶喜が上洛することとなると、一橋徳川家当主で配下の家臣団が少ない慶喜のため、慶喜の実家である水戸藩に上洛への追従が命じられた。水戸藩主 徳川慶篤 には、武田耕雲斎、 山国兵部 、 藤田小四郎 など、後に乱を主導することになる面々が追従し、小四郎らは京都において、長州藩の 桂小五郎 、 久坂玄瑞 らと交流し、尊皇攘夷の志をますます堅固なものとした。
武田 幸運債(武田 幸運 さい、 享和 3年( 1803 年 ) - 元治 2年 2 月 4 日 ( 1862 年 3 月 1 日 ))は、 幕末 の人。 水戸藩 の 天狗党 の首領。名は正生。通称は彦九郎。号は如雲。 位階 は 贈正四位 。官位は 伊賀守 。 松原神社 ( 敦賀市) の 祭神 。 靖国神社 合祀。
家系
武田耕雲斎の 家系 は 清和源氏 のひとつ、 河内源氏 の傍系である 跡部氏 の一族であるという。跡部氏は 室町時代 後期に甲斐守護・ 武田氏 を補佐する 守護代 となり武田氏に滅ぼされた一族のほか、戦国時代の甲斐武田氏家臣となった一族や、武田遺臣として存続した一族が知られる。跡部氏はもともと武田氏と同じ 甲斐源氏 であるが、祖は武田氏とは別流の 小笠原氏 であった。
しかし、姻戚関係によるつながりのためか、耕雲斎は 武田信玄 の末裔を称して武田姓に改めた。祖先とされる 跡部勝資 が『 甲陽軍鑑 』において「奸臣」とされていた為、この家名を嫌ったことから藩主斉昭の許しを得て武田姓への「復姓」(改姓)をしたという。
経歴
水戸藩士・ 跡部正続 の子として生まれ、 跡部正房 (跡部家の宗家・ 300 石)の養嗣子となった。 文化 14年( 1817 年 )、家督を継ぐと同時に武田氏に改姓。 戸田忠太夫 、 藤田東湖 と並び 水戸の三田 と称される。
徳川斉昭 の藩主擁立に尽力した功績などから、 天保 11年( 1840 年 )には参政に任じられ、水戸藩の藩政に参与した。しかし 弘化 元年( 1844 年 )、斉昭が幕府から隠居謹慎処分を命じられると、これに猛反対したため、耕雲斎も連座で謹慎となった。 嘉永 2年( 1849 年 )、斉昭の復帰に伴って再び藩政に参与し、 安政 3年( 1856 年 )には執政に任じられた。そして、斉昭の 尊皇攘夷 運動を支持し、斉昭の藩政を支えた。
しかし 万延 元年( 1860 年 )、斉昭が病死すると水戸藩内は混乱を極め、耕雲斎も藩政から遠ざけられた。耕雲斎は斉昭死後の混乱を収拾しようと各派閥の調整に当たったが、混乱は収まらなかったばかりか、慶応元年( 1864 年 )には 藤田小四郎 (藤田東湖の四男)が天狗党を率いて挙兵してしまう。耕雲斎は小四郎に早まった行動であると諌めたが、小四郎は斉昭時代の功臣である耕雲斎に天狗党の首領になってくれるように要請する。耕雲斎は初め拒絶していたが、小四郎の熱望に負けて止む無く首領となった。
天狗党は、斉昭の子で当時は 京都 にいた 徳川慶喜 を新たな水戸藩主に据えることを目的としていた。そして、800名の将兵を率いて 中山道 を進軍したが、 敦賀 (越前国新保)で幕府軍の追討を受けて降伏した。降伏すると、簡単な取調べを受けた後、小四郎と共に斬首された。 享年 63。その後、妻・2人の子・3人の孫も斬り殺された。
耕雲斎は斉昭の影響を強く受けた尊皇攘夷派であったが、過激な攘夷には消極的だった。天狗党の首領とされた時、彼は既に死を覚悟していたらしい。
墓所は 水戸市 所在の妙雲寺にある。また、斬首された天狗党員353名とともに埋葬された墳墓が、 福井県 敦賀市 松島町にあり、 武田耕雲斎等墓 の名称で国の史跡に指定されている。
家族
武田延子 耕雲斎の 妻 。 人見姓 。 慶応 元年 ( 1865 年 ) 3 月 25 日 、 水戸 で 斬首 。享年40。靖国神社合祀 [1] 。
武田彦衛門 耕雲斎の 長男 。水戸藩士。500石。書院番頭。諱は正勝。 武田金次郎 の父。元治元年 ( 1864年 ) 、小川勢を率い転戦し、 10 月 、自首した 榊原新左衛門 と離れて西上し、慶応元年 ( 1865年 ) 2 月 4 日 、越前国敦賀で斬首となる。 贈従四位 。享年44。敦賀松原と水戸に墓、また靖国神社合祀。
武田幾子 彦衛門の妻。 藤田東湖 の女。 藤田氏 。慶応元年 ( 1865年 ) 9 月 24 日 、水戸獄中で絶食して死す。享年 43 。靖国神社合祀 [1] 。
武田孫三郎 彦衛門三男。慶応元年 ( 1865年 ) 3月25日、水戸で斬首。靖国神社合祀。
武田金四郎 慶応元年 ( 1865年 ) 3 月 25 日 、水戸で斬首。靖国神社合祀。
武田とし 彦衛門の娘。慶応元年 ( 1865年 ) 3月25日、水戸で斬首。享年11。靖国神社合祀 [4] 。
武田熊五郎 彦衛門の五男。慶応元年 ( 1865年 ) 3月25日、水戸で斬首。靖国神社合祀。
武田魁介 耕雲斎次男。諱は正義。 弘化 ( 1844 年 ~ 1847 年 ) 以来国事に尽し、元治元年 ( 1864年 ) 、大挙して江戸に赴き、 ₈ 月 、那珂湊にて合戦、そのまま西上し、慶応元年 ( 1865年 ) 2月4日、越前国敦賀で捕らわれ斬首となる。贈従四位。靖国神社合祀。
武田桃丸 耕雲斎の六男。慶応元年 ( 1865年 ) 3月25日、水戸で斬首。享年9。靖国神社合祀。
武田金吾 耕雲斎の七男。慶応元年 ( 1865年 ) 3 月25日、水戸で斬首。享年 3 。靖国神社合祀 。
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