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幕閣内の対立などから横浜鎖港が一向に実行されない事態に憤った 藤田小四郎 (藤田東湖の四男)は、幕府に即時鎖港を要求するため、非常手段をとることを決意した。小四郎は北関東各地を遊説して軍用金を集め、元治元年 3 月 27 日 (1864年 5 月 2 日 )、 筑波山 に集結した62人の同志たちと共に挙兵した。小四郎は23歳と若輩であったため、水戸町奉行 田丸稲之衛門 を説いて主将とした。
挙兵の報を聞いた藩主 徳川慶篤 は、田丸の兄である山国兵部に説得を命じたが、山国も逆に諭されて一派に加わることになる。その後、各地から続々と浪士・農民らが集結し、数日後には150人、その後の最盛期には約1,400人という大集団へと膨れ上がった。この一団は筑波山で挙兵したことから 筑波勢 ・ 波山勢 などと称された。
筑波勢は急進的な尊王攘夷思想を有していたが、日光東照宮への攘夷祈願時の檄文に「上は天朝に報じ奉り、下は幕府を補翼し、神州の威稜万国に輝き候様致し度」と記すなど、表面的には敬幕を掲げ、攘夷の実行もあくまで東照宮( 徳川家康 )の遺訓であると称していた。
武田耕雲斎ら藩執行部は筑波勢の動きに同調して、その圧力を背景に幕政への介入を画策し、4月には慶喜や在京の藩士との密に連絡をとって朝廷への周旋を依頼する。幕閣側も宸翰が「無謀の攘夷」を戒めていることを根拠として水戸派の圧力を斥けようと図り、朝廷に対する周旋を強化する一方で、筑波勢討伐と事態沈静化のために 小笠原長行 の復帰を求めたが、慶喜・直克の妨害により果たせなかった。
小笠原 長行 (おがさわら ながみち)は、 江戸時代 後期の 江戸幕府 の 老中 、外国事務総裁。 肥前国 唐津藩 小笠原家初代・ 小笠原長昌 の長男。唐津藩の世嗣(藩主とする資料もある)。
老中就任まで
文政 5年( 1822 年 )5月11日、 肥前国 唐津藩 主 小笠原長昌 の長男として 唐津城 二の丸で生まれた。 幼名 は行若(後に敬七郎)。
文政6年( 1823 年 )に長昌が死去する。後継の藩主には 信濃国 松本藩 主 戸田光庸 の長男の 小笠原長国 まで4人続いて養子が迎えられ、幼少の長行は庶子として扱われた。
長行は幼少から明敏であったので、 天保 9年( 1838 年 )に 江戸 に出て、そこで 朝川善庵 に師事した。 安政 4年( 1857 年 )に長国の養嗣子になり、藩政にも携わって名声を高めた。
図書頭と称する。 文久 2年( 1862 年 )には世嗣の身分のまま、 奏者番 から 若年寄 、9月11日 老中格 、そして間もなく 老中 となった。文久2年8月21日に発生した 生麦事件 に対しては、事態を早急に終結させるために翌 文久 3 年 5 月 9 日 ( 1863 年 6 月 24 日 )、幕府に無断で賠償金10万 ポンド を イギリス に支払った。
武装上洛、長州征討
文久3年(1863年)5月、イギリスから借り入れた2隻の汽船を含む 5 隻に、千数百名の兵を引き連れて海路上京した。このころ、将軍 徳川家茂 は京都で人質に近い状況に置かれており、この行動は当時京都政局を主導していた 尊王攘夷 派を一掃するため、京都の武力制圧を図ったものとされている。
長行一行は6月1日に 大坂 に上陸するが、在京幕閣の猛反対にあい、家茂からも上京差し止めを命じられるにおよんで、上京計画を断念した。長行は9日に下坂、10日には老中職を罷免され、結果として家茂の東帰こそ実現したものの、計画自体は完全な失敗に終わった。一行には元 外国奉行 水野忠徳 、 南町奉行 井上清直 ら、攘夷反対を強硬に主張していたグループが同行しており、一連の計画の首謀者は水野であったとも言われている。
元治 元年( 1864 年 )に謹慎を解かれ 壱岐守 となり、 慶応 元年( 1865 年 )9月4日に再び老中格、さらに老中に再任される。
元治元年7月の 第一次長州征討 後、幕府は再び長州征伐に取り掛かる。慶応2年( 1866 年 )2月、長行は長州処分の幕命を伝えるため広島に赴き、 広島藩 を通じて、長州藩家老と支藩藩主らに召喚命令を出したが病として拒絶された。 翌月、長行は更に、藩主父子、家老、支藩藩主らが出頭するように命令を出したが、長州藩側は命令に従わなかったため、幕府は6月5日を以て諸方面から進撃すると決定し、長行は6月2日に広島を発ち小倉へ向かい、征討に備えた。 慶応2年6月7日に周防大島で戦闘が始まり ( 第二次長州征討 ) 、17日には小倉口でも戦闘が開始される ( 小倉戦争 ) 。長行は小倉口の総督として 幕府陸軍 歩兵隊や、 小倉藩 、 熊本藩 など九州諸藩の軍勢を指揮し、関門海峡をはさんで長州藩と戦うこととなった。
小倉藩は小倉口先鋒として戦意は高かったものの装備は旧式であり、幕府歩兵隊、他の九州諸藩兵とも戦闘に消極的で、長行は諸藩をうまく束ねることができず、優勢な海軍力を有しながらも渡海侵攻を躊躇している間に、長州軍が6月17日に田野浦に、7月2日には大里にも上陸して攻勢を掛け、戦闘の主導権を奪われた。 7月27日の 赤坂・鳥越の戦い では熊本藩兵が善戦し、長州勢を圧倒する戦いを見せたが、長行が援軍を拒否したことなどから、熊本藩を含む諸藩は不信を強め、この戦闘後に一斉に撤兵・帰国した。
長州軍は優勢に戦闘を展開し、幕府側の敗色は濃厚となり、長行は将軍家茂の薨去を機に、事態を収拾する事なく戦線を離脱した。孤立した小倉藩は8月1日に 小倉城 に火を放って退却し、小倉戦争は幕府側の敗北に終わった。この敗戦責任を問われた長行は10月に老中を罷免されたが、 徳川慶喜 の強い意向により11月には再任された。
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