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元治元年6月、幕府は筑波勢追討令を出して 常陸国 ・ 下野国 の諸藩に出兵を命じ、直属の 幕府陸軍 なども動員した。 7 月 7 日 に諸藩連合軍と筑波勢との間で戦闘が始まった。筑波勢は機先を制して 下妻 近くの 多宝院 で夜襲に成功し、士気の低い諸藩軍は敗走する。
水戸へ逃げ帰った諸生党は、筑波勢に加わっている者の一族の屋敷に放火し、家人を投獄・銃殺するなどの報復を行った。8月半ばまでに市川らは水戸における実権を掌握し、江戸にいる藩主慶篤の意向と関わりなく藩政を動かすことが可能となった。
諸生党の報復に対し筑波勢の内部では動揺が起こり、小四郎ら筑波勢本隊は攘夷の実行を優先する他藩出身者らと別れて水戸に向かった。小四郎らは 水戸城 下で諸生党と交戦するが敗退し、那珂湊( ひたちなか市 )の近くまで退却する。小四郎ら本隊と別れて江戸へ向かって進撃した一派も 鹿島 付近において幕府軍に敗北した。
幕府軍による筑波勢追討が開始されると、激派の恐喝・暴行に苦しめられていた領民たちが次々と天狗党への反撃を開始する。
7月10日には 茨城郡 友部( 笠間市 友部)、7月13日には 結城郡 中妻( 常総市 中妻)、7月21日には 那珂郡 諸沢( 常陸大宮市 諸沢)と、各地で恐喝に来た天狗党員が相次いで村民の反撃によって殺された。
こうした散発的な天狗党への反撃は次第に大きな地域連合へと変化し、7月25日には茨城郡 鯉淵村 (水戸市鯉淵)など近隣四十数か村が幕府軍に呼応して挙兵した。また7月26日に諸生党が激派追討のため水戸城周辺の村々へ足軽の動員をかけると領民が続々と参加を願い出た。両者は合流して7月29日に茨城郡下土師( 茨城町 下土師)で田中愿蔵の部隊を攻撃し、これを撃破した。この動きに並行する形で、各地で激派およびこれに同調していた郷士・村役人・豪農等への 打ち壊し が行われた。
大発勢の出陣と那珂湊の戦い
江戸の水戸藩邸を掌握した諸生党に対し、激派・鎮派は山横目を使って領内の尊攘派士民を 小金宿 ( 千葉県 松戸市 )に大量動員し、藩主慶篤に圧力をかけ交代したばかりの諸生党の重役の排斥を認めさせ、水戸藩邸を再び掌握した。しかし、市川らによる水戸城占拠の報に接し、国元の奪還を図ることとなった。そこで、在府の慶篤の名代として支藩・ 宍戸藩 主の 松平頼徳 が内乱鎮静の名目で水戸へ下向することとなり、執政・ 榊原新左衛門 (鎮派)らとともに 8 月 4 日に江戸を出発した。これを 大発勢 という。
これに諸生党により失脚させられていた武田耕雲斎、山国兵部らの一行が加わり、下総小金などに屯集していた多数の尊攘派士民が加入して1000人から3000人にも膨れ上がった。
大発勢は₈月10日に水戸城下に至るが、その中に尊攘派が多数含まれているのを知った市川らは、自派の失脚を恐れ、戦備を整えて一行の入城を拒絶した。頼徳は市川と交渉するが、水戸郊外で対峙した両勢力は戦闘状態に陥る。大発勢はやむなく退き、水戸近郊の那珂湊( ひたちなか市 )に布陣した。
筑波勢もこれに接近し、大発勢に加勢する姿勢を示した。8月20日、頼徳は水戸城下の 神勢館 に進んで再度入城の交渉を行うがまたも拒絶され、22日に全面衝突となった。
大発勢は善戦するが、意尊率いる幕府追討軍主力が25日に 笠間 に到着して諸生党方で参戦すると、29日には再び那珂湊へ後退した。
筑波勢の加勢を受けた大発勢は、市川らの工作もあり筑波勢と同一視され、幕府による討伐の対象とされてしまう。」大発勢内では、暴徒とされていた筑波勢と行動を共にする事に当初抵抗もあったが、結局共に諸生党と戦うことになった。
この合流によって、挙兵には反対であった耕雲斎も筑波勢と行動を共にする事になる。
幕府追討軍・諸生党は那珂湊を包囲し、洋上にも 幕府海軍 の 黒龍丸 が展開して艦砲射撃を行った。頼徳の依頼を受けて市川との仲介を試みていた 山野辺義芸 は幕府軍・諸生党と交戦状態に陥った末に降伏、居城の 助川海防城 も攻撃を受けて9月9日に落城した。
その後、今度は筑波勢の田中隊が助川海防城を奪還して籠城したが、これも幕府軍の攻撃を受けて9月26日に陥落した。敗走した田中隊は、最終的に 棚倉藩 を中心とする軍勢に 八溝山 で討伐され、そのほとんどが捕われて処刑された。
10 月 5 日 、「幕府に真意を訴える機会を与える」という口実で誘き出された頼徳が筑波勢との野合の責任を問われ 切腹 させられた。この時、頼徳の家臣ら1,000人余りが投降する。このとき降伏した榊原ら 43 名は後に 佐倉藩 や 古河藩 などに預けられ、数ヶ月後に切腹ないし処刑された。
天狗党の西上
大発勢の解体と那珂湊での敗戦により挙兵勢力は大混乱に陥るが、脱出に成功した千人余りが水戸藩領北部の大子村( 茨城県 大子町 )に集結する。ここで武田耕雲斎を首領に、筑波勢の 田丸稲之衛門 と藤田小四郎を副将とし、上洛し 禁裏御守衛総督 ・一橋慶喜を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることを決した。
耕雲斎らは、天狗党が度重なる兇行によって深く民衆の恨みを買い、そのため反撃に遭って大損害を被ったことをふまえ、好意的に迎え入れる町に対しては放火・略奪・殺戮を禁じるなどの軍規を定めた。道中この軍規がほぼ守られたため通過地の領民は安堵し、好意的に迎え入れる町も少なくなかった。
天狗党は 11 月 1 日 に大子を出発し、京都を目標に 下野 、 上野 、 信濃 、 美濃 と約2ヶ月の間、主として 中山道 を通って進軍を続けた。
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