歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年10月29日
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カテゴリ: 安土桃山時代



(いけだ ともまさ)は、 戦国時代 から 江戸時代 初期にかけての 武将 摂津国 豊島郡 国人 池田長正 の長男。別名は 勝重 (かつしげ)、 重成 (しげなり)。 通称 久左衛門 (きゅうざえもん)。一時期、荒木村重の配下となり荒木久左衛門と称されていた。



弘治 元年( 1555年 )、摂津国の武将・池田長正の長男として誕生。弟に 池田光重 がいる。


父・長正の死後、家督は 池田勝正 が継いだが、 元亀 元年( 1570年 )、知正は 三好三人衆 と通じて仕えていた 織田信長 を裏切り、池田家家臣の 荒木村重 と共に内紛を起こし当主の勝正を追放。家督を相続し摂津 池田城 主となり、元亀2年( 1571年 )には 和田惟政 を敗死させた( 白井河原の戦い )。


以後、摂津国の領主として一時威を奮うが、 天正 元年( 1573年 )頃から 室町幕府 15代 将軍 足利義昭 と信長の仲が険悪となると、知正は 細川藤孝 の説得を振り切って義昭方に属したために没落。池田家は 織田氏 に寝返った荒木村重に乗っ取られ、知正は摂津国を追放されるが、後に信長に降伏し村重の家臣となる。


天正6年( 1578年 )10月、 三木合戦 で織田家臣の羽柴秀吉(後の 豊臣秀吉 )軍に加わっていた村重は有岡城( 伊丹城 )にて突如、信長に対して反旗を翻した( 有岡城の戦い )。


村重は有岡城に籠城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、側近の 中川清秀 高山右近 が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となると、天正7年( 1579年 )9月2日、村重は単身で有岡城を脱出して 尼崎城 へ移ってしまった。


11月19日、織田信長は「尼崎城と 花隈城 を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束(講和)を荒木久左衛門(池田知正)ら荒木の家臣たちと取り交わし、尼崎へ逃れた村重に代わって有岡城の城守をしていた久左衛門は開城を決意、 津田信澄 (信長の甥)が接収部隊を率いて本丸に入城し有岡城の戦いは終結した。


ところが前述の講和条件を受け、久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったものの村重は受け入れず、有岡城に引き返しづらくなり窮した久左衛門らは妻子を見捨てて出奔した( 淡路 へ逃れたという)。


そのため信長は村重や久左衛門らへの見せしめのため、人質の処刑を命じた。


12月13日、有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で殺された。この事は


と記されており、この中に知正(久左衛門)の妻子も含まれていた。


淡路へ逃れて以後の消息は分かっていないが、天正10年( 1582年 )の 本能寺の変 によって信長が横死すると、その後継者となった羽柴秀吉(のち豊臣秀吉)に仕えて摂津豊島郡2700石を与えられ、 小牧・長久手の戦い 九州征伐 に従軍した。


秀吉の死後は 徳川家康 に仕え、 慶長 5年( 1600年 )の 関ヶ原の戦い では 小山評定 より従い、戦後に5000石に加増された。


慶長9年( 1604年 )、死去。その跡を甥で養子の 三九郎 が継いだが、翌慶長10年( 1605年 )に死去した。代わって三九郎の父で知正の弟・光重が家督を継いだ。


これにより摂津池田氏嫡流は光重の系統が継ぐこととなった。なお、庶流については池田氏没落後(戦国後期)に多くが各地に散らばって帰農しており、現在まで存続している家が多くある。


「池田 光重」 (いけだ みつしげ、生年不明 寛永 5年 5月19日 1628年 6月20日 ))は、 安土桃山時代 から 江戸時代 前期にかけての 武将 。通称は弥右衛門、別名は重信。官位は 従五位下 備後 池田長正 の次男。兄に 知正 。子に 三九郎 重長 (他紋丸)。


文禄 元年( 1592年 )、 朝鮮の役 にて 名護屋城 に兵50名で休戦まで在陣した。 慶長 5年( 1600年 )の 関ヶ原の戦い では 小山評定 から、兄知正と共に東軍に属した。


子・三九郎は兄の養子となって慶長 9 年( 1604 )に家督を継いだが、翌慶長10年( 1605年 )、17歳で早世してしまい、光重が家督を継承することとなった。


慶長14年( 1609年 )、 大広寺 に兄と長男の肖像画と釣鐘、 10 石の寺領を寄進した。


また、次男・他紋丸(重長)の無事成長と武運長久を願い摂津国神田村(現 池田市 )の八坂神社本殿の再建などをしている。


慶長18年( 1613年 )、家臣 [1] 関弥八郎 が貸金横領罪のかどで [2] 、翌19年( 1614年 )、光重は連座する形で所領を没収され、 駿河国 法命寺 に蟄居した。


同年、 大坂冬の陣 では徳川方として 有馬豊氏 隊に属して参戦した。戦後、重長と共に 摂津池田氏 再興を嘆願するため江戸に向かうも、志半ばで同地で没した。


子孫は江戸に留まり、重長、貞長、貞重、興貞、貞彦、貞夫、貞一、貞瑞と続き、貞瑞は 明治 7年( 1874年 )後嗣なく没するが、分家していた弟の東作が相続して現在に至る。






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最終更新日  2024年10月29日 06時42分45秒
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