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2024年11月26日
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カテゴリ: 古代史




多賀城 ( 創建当初は「 多賀柵 」。現在の宮城県多賀城市に所在 ) は神亀元年(724年)、大野東人によって創建された。重ねて述べるとおり多賀城造営の背景には養老4年の蝦夷の大反乱があり、朝廷の東北政策再構築の一環として構築されたものである。したがって当初より石背・石城両国の再併合後の新たな陸奥国府かつ鎮守府としての役割が期待された。多賀城では郡山遺跡Ⅱ期で確立された都に倣う官衙要素を発展的に継承し、かつ軍事的な拠点性を高め、以降の城柵に大きな影響を与えた。


周囲との比高差がほとんどない郡山遺跡に対し、多賀城は低丘陵上に位置し、仙台平野を見渡せる位置にあった。また、地形上の制約のため外周は歪んだ方形となっており、おおむね敷地中央に、整った方形の内郭が築かれて政庁が置かれた。


塀で囲まれた政庁の周囲に実務官衙や兵舎を置き、更に外周を塀で囲う二重構造城柵は、まさしく多賀城で確立したものであり、以降の城柵の基本様式となる。この多賀城をモデルとして造営されたとみられるのが天平5年(733年)出羽国に築かれた秋田城(第Ⅱ次出羽柵)であり、内郭施設内の建物配置および正殿・脇殿の面積はおおむね多賀城 I 期と共通する。


ただし、多賀城正殿では四面に廂をめぐらす一方、秋田城正殿では正面の南側にだけ廂を配置し簡素化するなどの差異もみられる。


三重構造城柵の出現


第Ⅲ段階の城柵は、8世紀後半に造営されたもので、新規に築かれたものとしては雄勝城、桃生城、伊治城が挙げられ、同時期に秋田城も改修を受け、出羽柵から改称して秋田城(阿支太城)と称されるようになった。


また、同じく多賀城も大改修を受け、その荘重な装飾性においてピークに達した時期にあたる。先述の通り、雄勝城、桃生城の造営は一度廃止された鎮兵制の復活と軌を一にするものであり、朝廷による征服事業の再始動を示すものであった。


これはまさしく中央において藤原仲麻呂が専権を握り、聖武天皇後期の領土不拡大の方針を放棄して、再度積極的な征服を目指す方針に転換したことによるものである。


この藤原仲麻呂政権の確立に先立つことおよそ20年前、天平5年(733年)の出羽柵の移転北進( = 秋田城の造営)の後、天平9年(735年)に陸奥国から出羽柵を最短距離で結ぶ奥羽連絡路の建設が計画されたことがあった。


当時は藤原四子政権の時代であり、藤原四兄弟の一人藤原麻呂が持節大使として多賀城に派遣され、奥羽連絡路建設のためにルート上の「賊地」である雄勝村(男勝村)の制圧が企てられたのである。なお、この時は東国から騎兵1,000人が集められたが、これらの大半は天皇の代理人である持節大使とともに多賀城ほかの城柵の留守番の役割に充てられ、実際の軍事行動は陸奥按察使と鎮守将軍を兼ねた大野東人が、これらの城柵に元々配置されていた常備の軍勢(鎮兵・兵士)を率いて行った。


先述の騎兵1,000人のうち196人が大野東人に預けられ、大野東人は騎兵196人、鎮兵499人、陸奥国の兵5,000人、帰順した蝦夷249人という陣容のもと、奥羽連絡路を開削しながら雄勝村の制圧に向かったのである。


この時の軍事行動は、強硬な侵攻策の非と損失を訴えて寛大な処置を主張する出羽守田辺難波の建言を容れた大野東人が、雄勝村の征服を中止して途中の比羅保許山までの道路開通を成果として撤退し、藤原麻呂もこれを了承したために、一度の戦闘もともなわずに終結することとなった。


この時はあくまで暫定的な侵攻の中止であったが、同年の内に帰京した藤原麻呂が都で猖獗を振るっていた天然痘に倒れて病没し、藤原四子政権が崩壊。聖武天皇が仏教への傾斜を深め大仏と国分寺の建立に国力を傾注する中で、それまで行ってきた征服と版図拡大の方針はその後20年余りにわたって凍結されることとなったのである。


天平勝宝8歳(756年)の聖武天皇崩御の翌天平宝字元年(757年)、自身と結びつきの強い大炊王を立太子(翌年天皇に即位、後に淳仁天皇と諡号される)させ、比類なき権力を確立した藤原仲麻呂は、聖武期後半において凍結されていた本州北東部への征服事業を再始動させることとなる。


この時期に造営されたのが前代に未着手となっていた雄勝城と桃生城であり、陸奥国の浮浪人や坂東諸国から徴発した労働力により造営が進められた。これらの事業を現地にて指揮したのが仲麻呂の四男(三男とも)藤原朝狩である。朝狩は大炊王立太子後の天平宝字元年に起きた橘奈良麻呂の乱の後、奈良麻呂の同調者と目されて変により自害に追い込まれた佐伯全成の跡を襲い陸奥守及び按察使に就任、その後上記は雄勝・桃生の2上使がらみの造営のほか、で羽国に雄勝・平鹿の2郡を設置、陸奥国から秋田城まで7つの宿駅を置き連絡路を開通させた。天平宝字4年(760年)、朝廷では朝狩が雄勝城を一戦も交えずに完成させたこと、それまで蝦夷の領域とみられていた北上川の対岸に桃生城を築き蝦夷たちを驚嘆させたことを称揚して、朝狩に従四位下を授けた [89] 。同年に朝狩は多賀城の改修にも着手し、天平宝字6年(762年)に多賀城碑を設置して自らの功績を称揚させている。


この多賀城碑は、それまで多賀 と呼ばれていた城柵が多賀 と記されるようになった初見である。これは中国風の名称を好んだ仲麻呂政権の性格を反映したものと考えられており、同時期に改修を受けた第Ⅱ次出羽柵も「阿支太城」(秋田城)と記されている。


このように仲麻呂政権では藤原朝狩の指示のもと積極的な政策を展開し、天平9年(735年)に一時中断された征服事業を継承しながら、より発展させていくこととなった。特に桃生城の造営はそれまで約1世紀に渡って暗黙の裡に守られてきた朝廷と蝦夷の境界を踏み越えるものであり、以後急速に高まっていく蝦夷との緊張関係は、最終的に海道蝦夷の蜂起をきっかけとした「 三十八年戦争 」(虎尾俊哉による命名。後述)を惹起していくこととなる。


このような背景のもと造営されたこの時期の城柵は軍事的な緊張関係を窺わせる構成となっており、桃生城(現在の宮城県石巻市に所在)は比高差80mほどの急峻な丘陵上に立地し、中枢部は政庁を中心とした中央郭に、西郭と住民の住居域を取り込んだ東郭とが取り付く構造となっている。


仲麻呂政権を打倒した称徳・道鏡政権においても強硬な征服政策が引き継がれたことで朝廷と蝦夷との対立は更に深刻化し、東国から送り込まれた柵戸や鎮兵が逃亡する事態を招くこととなった。このような時勢のもと、神護景雲元年(年)に造営された伊治城(現在の宮城県栗原市に所在)では、 三重構造城柵 という新たな形態がみられることとなる。


三重構造城柵とは、通常の城郭にみられる材木塀ないし築地塀で区画された政庁及び外郭の更に外側にさらに区画施設を巡らし、居住域をも城柵の中に取り込んだものである。伊治城の最外郭は南辺が築地塀である以外は土塁に空堀であり、さらに北辺には土塁を二条巡らしていて、北方の蝦夷からの防御を意識していることが明白である。


この最外郭の内側に居住域が存在し、多数の竪穴式住居が検出されている。この時期には東山遺跡(宮城県加美町)、城生柵跡(同)など、8世紀前半に造営された近隣の城柵も、城外の集落を取り込むように防御施設を巡らして三重構造化していたことが判明しており、先述の桃生城で住居域を城柵内部に取り込む端緒がみられることを考え合わせると、「三十八年戦争」以前に既に城柵周辺の不穏な情勢を窺うことが出来る。


三十八年戦争及び徳政相論以後の城柵


蝦夷と朝廷との緊張関係は、宝亀5年(774年)7月、海道蝦夷が蜂起し桃生城を攻撃するに至り、ついに均衡が破れることとになる。この後2,3年程で急速に情勢が悪化し、蝦夷社会と朝廷との汀であった辺郡ばかりでなく、胆沢・志和・秋田周辺なども巻き込んで陸奥・出羽両国が全面的な戦争の時代に至ったのである。以降朝廷により執拗な征夷が繰り返され、大規模な戦争の最終局面となる阿弖流爲(アテルイ)と坂上田村麻呂の対決を経て、延暦24年(805年)の徳政相論の後、弘仁2年(811年)の文屋綿麻呂による最後の大規模な征夷まで戦乱の時代が続く。前後の時代とは明らかに様相を異にするこの時代の戦乱を、虎尾俊哉は「三十八年戦争」と命名している。


昭和50年(1975年)に著された虎尾の論は、この戦争を律令国家と「アイヌ国家」との戦争と捉え、蝦夷とアイヌをそのまま同一視するものであり、アイヌ、蝦夷双方の研究が進展した後代においてそのまま認める事は出来ないものだが、宝亀5年(774年)から弘仁2年(811年)までの38年間を戦乱の時代と捉える歴史認識は平安時代初の当時において既に存在しており、「三十八年戦争」の語は今日の学会でもほぼ定着している。


「三十八年戦争」と命名されるこの時代は、征夷の方法によって更に三期に区分される。第I期は、宝亀5年(774年)桃生城襲撃から宝亀11年(780年)覚鱉城(かくべつじょう)造営計画が持ち上がるまでの6年間で、陸奥国・出羽国の現地官人と現地兵力を中心とした征夷が行われていた時期である。


しかし、覚鱉城造営の計画が持ち上がった宝亀11年(780年)、伊治呰麻呂の乱により事態は新たな局面を迎える。第Ⅱ期はその呰麻呂の乱から、桓武天皇の治世末期の延暦24年(805年)に行われた徳政相論による征夷中止の決定までの25年間で、朝廷主導のもと征夷軍が編成され、大規模な軍事行動が繰り返された時期である。延暦20年の征夷で大将軍坂上田村麻呂が胆沢の地を平定。翌年胆沢城の造営に着手し、蝦夷の族長であった阿弖流爲と母礼(モレ)が降伏するに至って、大規模な征夷の時代は終わりを迎えた。


第Ⅲ期は徳政相論から弘仁2年(811年)までの6年間である。先年蝦夷への軍事侵攻に勝利したとはいえ既に国力の限界に達しており、蝦夷政策の転換を迫られていた朝廷側は、疲弊した東国を征夷に関する負担から解放することに主眼を置いた。


弘仁2年(811年)には「征夷終結のための征夷」と位置付けられる文屋綿麻呂による最後の征夷が行われたが、兵力は全て陸奥国・出羽国から徴募されたものであり、その中に朝廷側に帰服した蝦夷で構成される俘軍を含む。その後も不安な情勢はなおも続くが、弘仁2年閏12月に文屋綿麻呂は征夷の時代の終結を宣言し、征夷と呼ばれた軍事活動は史上から絶えることになるのである。






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最終更新日  2024年11月26日 06時33分48秒
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